updated on 5 Dec 2000

『非中枢的身体論−武道の科学を求めて』

                            内田 樹

1・

 本論考は、「武道の科学を求めて」という副題が示すように、武道の身体技法についての一般理論を求める私自身の希求に動機づけられている。

「科学」の定義について本論考はカール・ポパーが『開かれた社会とその敵』で下した定義をそのまま借用しようと思う。ポパーによれば、科学的言明と非科学的言明の識別指標は「それが反証可能かどうか」にある。おおかたの人が信じているのとは逆に、科学は「実証できることのみを語る」のではなく、「反証できることのみを語る」のである。例えば、「神は存在する」という言明は科学的言明ではないが、それは「神がいる」ことを証明する事例が欠如しているからではなく、「神がいない」ことが論証不可能だからである。

 科学の理論は「反証」を受け入れる。そして、科学的言明の栄光は「さらに包括的な言明のうちに〈局所的に妥当する真理〉として生き延びること」のうちにのみある。「武道の科学」を私はそのようなものとして構想している。

 私は以下に武道の身体技法についての私見を述べる。それは文献的な知識と私自身の稽古体験から導き出された限定的な知見であり、いまのところ、私が指導している稽古プログラムの範囲内では実定的に有効である。しかし、私の文献的知識はごく限定されたものであり、私の術技の段階も高いものではない。したがって、今後研究が進めば、私の現時点での「武道についての言明」は私自身の「さらに包括的な言明」によって必ずや乗り越えられるはずであるし(そうでなければ困る)むろん、それより先に多くの研究者、修業者が私の言明の瑕疵を指摘してくれるだろう。

 つまりこの論考は「反証されること」を前提に書かれている。

 それゆえ、本論考における私の関心は(逆説的に聞こえるかもしれないが)「できるだけ反証が容易であるように記述する」ということに向けられている。

 反証を容易にするために守らなければならないルールは比較的単純である。(1)できるだけ一義的な術語を用いること(2)できるだけアクセスが容易なデータを論拠とすること(3)できるだけ単純な命題にとりまとめること。以上である。

 

2・

 私はただ武道を修業するだけでは物足りず、「武道の科学」という枠組みにこだわりを持っている。その理由を述べたい。いまから三十年前、私自身が大学の体育会空手部で稽古をしていたとき、先輩たちは私に繰り返し「バカになれ」と言い聞かせた。考えるな、言挙げするな、理屈をこねるな。言われたとおりのことを黙ってこなせ、という伝統的な稽古方法がそこでは連綿と受け継がれていた。「なぜこのような稽古をするのか、それはどのような技法的課題に対処するものなのか、これらの稽古をつうじて私たちはどこへ向かっているのか」という問いを発するものはそこにはいなかったし、もちろん答えてくれるものもいなかった。せいぜい「次の***大会で何位以内に入る」というような日程的な目標が(ややパセティックな口調で)示されるだけだった。しかし、それは私にはどう考えても「武道修業の目標」とは思えなかった。

 私はその後もいくつかの武道を経験したが、稽古している現時的な技術上の課題の「意味」と、修業の究極の「目的」とを統一的な枠組みのうちで語ってくれる指導者に出会うことはできなかった。ときには「不動心」とか「心技体の一致」とか「剣禅一如」とかいう言葉で包括的な回答を試みようとする人もいたけれど、その言葉が技術的に何を意味するのか、人間としての生き方にどうかかわるのかについては私ははっきりしたことは分からなかった。

 ここに欠けているのは、私たちが「私は今修業上のどの段階にいて、どこへ向かっているのか」を理解させてくれる「マッピング」の言語である。

 私がはじめて私を「マップしてくれる」言葉を聞いたのは、合気道の師、多田宏先生に出会ったときのことである。

 多田先生は、「自分がどこへ向かっているか」を知らずに修業するものを「行き先を知らないで電車に乗っているひと」にたとえた。行き先を問わぬまま何十年も厳しい稽古を重ねたあげくに、まったく武道的な目標から逸脱してしまうという悲劇は現に私たちの周囲に少なくない。「次の試合に勝つ」とか、「同門の某よりもうまくなる」とかいうような課題を持つことは、たしかに短期的には有効なインセンティヴとなるだろう。しかし、それは「相対的な目標」をめざす「相対的な稽古」にすぎない。そこには包括的な「武道についての知」、「武道の科学」への志向がない。

 多田先生から私が学んだもっとも重要な知見は、武道の修業には「絶対的目標」があり、そのための「絶対的稽古方法」が存在するという確信である。

 多田先生はそれを次のような言葉で語っている。

「日本の武道の心の道は二通りある。丁度、縄が二本の縄でよられているように、二つの道でなわれている。(・・・)

 一つはいわゆる武士道です。いうなれば倫理性。徳川の安定した時代になって、封建制度が確立し、武士は主君のために何時でも死ぬ覚悟が必要とされ、その教育の手段として武術が奨励された。武術は侍の表芸であり、常に死と向かい合っている術であっただけに、より教育の効果があるからですね。そして明治から後も、昭和に至るまで「忠君愛国」という思想に引き継がれる。それが、終戦で何もかも、粉砕消滅したかに見えたが・・。

 然しこの道は、その時代の社会によって、外から武道に求められ、付けられた道です。武道自身が内に持っているものではない。今日この道は、もやもやとしていて、無いと言ってもよい。『人間はこの様に活きよ!』、と言う、社会の誰もが認める、強い理想の人間像を求める、公式な教育思想が無い。勿論、礼儀作法が良く、規則正しくなるとかを、武道の稽古の精神的特徴にあげられるが、それはそれで良いとしても、然しそれは武道の稽古に限るものではない。

 さて、もうひとつの道、それは日本の武道を本当に発達させた内在する道(法)です。それはさっき言った、密教と禅、神道の修行によって得られた、精神集中の感覚によって鍛えられた、いわば、精神集中の科学としての心の持ち方と使い方から発した道だ。これからの時代は、これが非常に重要だと私は思います。

『武士道』というのは、社会の表の姿です。だから時代と共に変わる。(・・・)つまり相対的です。

 一方のもう一つの道は、どんなに時代が変わっても、変わらない。『人間とは何か、宇宙とは何か』、世界観、生命観に根ざしていますから。そっちが日本の武道の本当の流れでは非常に重要なんです。」(1)

 ここで「精神集中の科学」と多田先生が言われるものについて、未熟な修業者である私はいま確かなことを言える段階にはない。しかし、武道の根本には、心身統御の技法でありかつ宇宙と生命についての理説であるような「包括的な知」が存在しなければならない、とする多田先生の「確信」は私にも共有されている。その確信が、かかるものとしての「武道の科学」の探求へ私を方向づけることになったのである。

 

2・

 にもかかわらず、私たちは武道についての「包括的な知」を語るための「公共的な語法」を有していない。

 誤解しないでほしいが、私たちが「有していない」のは、あくまで武道を語る「科学の言語」であって、武道を語る「叡智の言葉」ではない。達人たちはそれぞれに深い知見を伝書を通じて語ってくれている。しかし、そこで語られる言葉は必ずしも術理の意味を一義的に説明し、修業の段階と目標を明晰に指示するようなものではない。

 江戸時代の伝書『猫の妙術』は、初級者から上級者までそれぞれの段階での技法的課題と目標を指示しているという点から言えば、「科学的なテクスト」と言えるが、それが「猫の鼠取り」の修業プロセスについて語る寓話のかたちをとっている限り、これを「科学の言語」と呼ぶことは私にはためらわれる。

 伝書の多くは多義的な術語と暗示的な表現を意図的に選択している。伝書がある程度以上の術技に達したものを想定して書かれている以上、その韜晦は当然のことであるだろう。だが、武道修業を「本務」とする社会階層が消滅した明治維新以後、伝書の語る原理的、技術的知見を正しく継承しようと望むならば、それをより公共性の高い、一義的な言語で語り直すことの必要性は自明である。にもかかわらずそのような試みは(講道館柔道の嘉納治五郎の例を除くと)ほとんど存在しない。

「武道を語る科学の言語」を欠落させたまま、明治維新以降130年余が閲した。それはなぜなのか。私たちはまずこの問いかけから始めようと思う。

 なぜ「武道を語る科学の言語」が欠落してきたのか。その理由が明らかになれば、おのずから、私たちはいかにして「科学の言語」をもって武道は語り得るかという次なる問いへの手がかりを得ることになるはずだからである。

「武道の科学」が欠落している理由は私の考えでは三つある。一つは武道の「閉鎖性」、一つは武道の「イデオロギー性」、一つは武道の「競技性」である。そのそれぞれについて論じてゆきたい。

 武道は明治維新後の近代化の流れのなかで、旧弊で反近代的な殺人技法、封建遺制の一部として、厳しく排斥された。明治初年の武道の没落と武道家の不遇はかなり悲惨なものであった。山田次朗吉の『日本剣道史』は剣道の衰微について次のように記述している。

「政治経済軍制教育風俗次第に推移の歩武を運んでゆく中に、剣道は其命脈をいかに維ぎつつあつたか。顧みれば頗る悲惨の影響を蒙つたのである。(・・・)剣術を以て市井に道場を張れる浪人輩の如きは、皆生活の方針に迷はざるを得ざるありさまであつた。(・・・)昔は弓馬槍剣は軍事の唯一の道具であつたが、洋式輸入の後は銃戦と変じて槍剣は第二と下落した。随て之を学ぶ者も自ずから重きを致さぬ所以である。況して一旦槍剣を教授することが階級を武士に限つてから、町家に之を学ぶ者なきため維新の革正となつては、師範の者の生計が一時困難に墜ちるは已を得ざる次第であつた。」(2)

 その後、西南戦争における警視庁抜刀隊の活躍により剣術の見直しが始まり、川路利良、三島通庸ら歴代の警察官僚が剣術の習得を奨励したために、剣術は警察を中心に武技としての命脈を保つことになった。しかし、その他の古流武術は修業者を激減させ、室町時代から続いたいくつもの流派が明治初期にその跡を絶つことになった。

 明治期における武道の閉鎖性は、単に修業者が減少し、少数者の「内輪」の技芸となったということを意味するわけではない。(黒田鉄山の振武館のように、少数者による伝承でありながら高度の術技を継承し、やがて高く再評価されることになる流派は現に存在する。)私がいう「閉鎖性」とは数的な問題ではなく、日本の伝統武道が、欧米から明治期に導入された、新しい学術的な知見−すなわち哲学、心理学、医学、生理学、宗教学、歴史学、社会学−といった学問的方法との「インターフェイス」の可能性をほとんど考慮しなかったことを指している。

 ドイツの哲学者、オイゲン・ヘリゲル博士は、大正年間に、東北帝大で哲学を教えつつ、阿波研造師について弓道を修業した。ヘリゲルの『日本の弓術』や『弓と禅』は、弓道という伝統的な武技の意味をヨーロッパ的な学知の枠組みで語り直した比較文化学上の名著だが、これはきわめて例外的な事例である。ヘリゲル博士とは逆の立場から、日本武道の術理をヨーロッパ的、近代的な学術の言語を用いて語り抜こうとした日本人の武道家は(講道館の嘉納治五郎を除くと)ほとんど存在しない。

 武道を「科学的に語る」ことを阻害した第二の理由は、軍国主義イデオロギーとの親和性である。

 日清戦争以後の尚武の気風を追い風にして、明治28年(1895)に設立された大日本武徳会を中心とする全国の武道団体は、第二次世界大戦期に、あげて国防の一翼を担うものとして総動員体制の中に組み込まれていった。しかし、さきに引いた多田先生の言葉にもあるように、身体技法としての武道は、「武士道」や「忠君愛国」のような、ある歴史的状況に固有の社会的価値観との関連だけで理解できるものではない。

 多田先生の言う通り、日本の伝統的な武道が「表」においては武士道的なエートスの完成をめざす一方、「裏」では、密教、神道、禅宗などを通じて深化された「内在する道」の理論と技法を探求してきたのであれば、特定の政治イデオロギーとの親和は武道がその「一般法則」の探求を通じて「科学」となる可能性を塞ぐものでしかないだろう。

 明治維新以来、武道はまず近代化の波に呑み込まれて衰微するというしかたで第一の危機を迎え、ついで軍国主義イデオロギーに功利的に利用されるというかたちで第二の危機を迎えた。しかし、武道の不幸は、それだけでは終わらなかった。近代化を生き延び、軍国主義をも生き延びた武道がその次に遭遇したのは、「武道の競技化・スポーツ化」という試練だった。

 敗戦後、日本の武道は第三の危機に遭遇する。1945年、文部省は学校体育での武道の禁止を発令した。とくに剣道は「超国家主義および軍国主義の鼓吹に利用され、軍事訓練の一部として重んぜられた」とのイデオロギー的な理由から学校体育としての実施を一切禁止された。翌1946年、大日本武徳会がGHQの指導で解散させられ、ついには社会体育における「武道」という名称の使用さえも禁じられるに至った。

 剣道家たちは剣道をスポーツ化した「しない競技」というかたちで術技の延命をはかった。そのために「過去の剣道の弊害を除去し、本格的なスポーツとして、競技規則、審判規則をつくり、民主的な運営を図る」ことが謳われた。「過去の弊害を除去」するために、この時期のほとんどの武道関係者はスポーツ化・競技化の方向での武道の延命をはかった。そして、そして「本格的なスポーツ」として、つまり原義通りには「娯楽」の要素を重視することを代償に、1950年に柔道が、53年には剣道がふたたび「格技スポーツ」として(相撲とともに)体育教材に採用されることが認可され、文部省の指導下に組織的に整備されることになったのである。

 しかし、このときスポーツ化の過程で、単に軍国主義的なイデオロギー色の除去ばかりでなく、重大な稽古方法の変更が導入された。それが武道に大きな質的変化をもたらしたのである。

 

3・

 スポーツ化・競技化による武道の変質とは、伝統的な武道稽古の基本をなしていた稽古方法のうち、二つの重要な要素が失われたことを意味している。一つは、呼吸法、瞑想法、練丹法など心身錬磨のための基礎的稽古法であり、いま一つは「形稽古」である。このうち武道の質的変化に決定的な影響を及ぼしたのは「形稽古」の衰微であると私は考えている。

 形稽古というのは、取り受けと業の種類を決めておいて、その業を掛け合って、相互に術技と身体を練り合うという稽古方法のことである。幕末まで日本の武道の技法体系はこのほとんど形稽古だけで成立してきた。もちろん、形稽古には競技も試合もありえない。「受け」を取る上級者の導きに随って術技と身体を練ることが目的であるから、そもそも強弱勝敗を論じるということもない。形稽古は本来「一対一」的な師弟関係を通じてなされるのであるから、術技の巧拙や修業の熟達度は「師」によって発行される各段階の目録、免許などによって一元的に決定される。

 これに対して、スポーツ化・競技化は、修業者の技術の熟達度は、「試合」で示される強弱勝敗をつうじて、客観的に計量化可能、判定可能であるという前提を採る。であれば、当然、ふだんの稽古も「試合」を目標にデザインされることになる。「試合」で勝つために、あるいは高得点を得るために、レフェリーにアピールするために、どのような身体運用をなすべきか、ということが稽古における修業者の意識の焦点となることは避けがたい。

 固有名を持った「師」が一元的に術技の熟達度を「マップ」してくれる古流の体系と、「顔のない」審判たちが「試合」を通じて強弱勝敗を決定する競技武道の体系は、稽古方法に大きな変化をもたらさずにはいない。その変化の意味を講道館柔道における「形稽古」の衰微の事例に即して考察してみたい。

 現在行われている競技柔道では、稽古は主に「乱取」で行われており、試合もむろん「乱取」を行ってポイントを競う。

 乱取、つまり、取り受けを決めずに自在に形を遣う稽古法は、幕末のころに、形稽古の一部として考案されたものである。

 嘉納治五郎が学んだ起倒流柔術の伝書『燈下問答』(1765)には「残る請立」という言葉が出てくる。これは「形が決まらないので受けが崩れない」状態を指す。「取形」(取り)が仕掛けても、業が十分でなければ、「請立」(受け)は崩れなくてもよい。ただし、それはあくまで正しい形を「取形」に遣わせるための稽古であって、形を崩して「残り合う」ことではもちろんない。18世紀に成立した、この柔術における「残り合い」が乱取の起源とされている。

 嘉納治五郎は、古流に伝わる乱取稽古法の有効性を認めて、それを柔道に取り入れたが、初期の講道館柔道では「形」と「乱取」の二本立てで稽古をしている。この「形」と「乱取り」の違いを嘉納は「勝負法」と「体育法」の違いという言い方で説明している。「形」によって、ふだん人間が決してしないような、危険で「不自然な」身体運用を稽古し、「乱取」によって筋肉骨格のバランスのとれた発達を促す「自然な」身体運用を稽古する、というものである。

「実際の勝負に効能がある手は不断は危険でできませず、不断いたしても危険でない手は実際の勝負に効能の少ない訳でございますから、勝負法は専ら形によって練習致さねばなりませぬ。」(3)

 乱取で禁じられている当て身、関節業は形を通じて習得する、というのが嘉納の構想であった。しかし、本来、統合的に稽古すべき術技をあえて二つの体系に分離したのは、嘉納の本意ではなく、むしろ学校体育への導入という状況のしからしむるところだったのである。

 学校教育へ武術を導入せよという請願運動は明治10年代に始まった。文部省は当初これに強い難色を示していた。武術は成長期の児童、生徒にとって強度に過ぎ、身体のバランスのよい発達を損なうのではないか文部省は危惧したのである。しかし、日露戦争(1904-5)以後の日本社会には好戦的な尚武の気風が満ちあふれ、その気運に乗じて、武術を体育正課に採用せよという建議案が明治40年(1907)に採択された。この流れの中で武術が学校教育正課となり、大日本武徳会を中心とする体制が確立してゆくことになる流れについては先ほど触れた通りである。嘉納の柔道の学校体育への採用のための運動は、このような歴史的文脈の中に位置づけられる。

 明治16年(1883)、文部省は体操伝習所に対し、剣術、柔術の教育に与える利害適否を調査するように通達し、東京大学医学部長ほかの医学者に柔術の体育科目としての適否を吟味させた。意外なことだが、そのときの検分では、柔術は体育科目としては不適当なり、との判断が下されたのである。

 その論拠として挙げられたのは、「一、身体の発育往々平等均一を失はん。一、実習の際多少の危険あり。一、身体の運動適度を得しむること難く、強壮脆弱共に過度に失し易し」といった「バランスの悪さ」の指摘にまじって、「実習上、各人に監督を要し、一級全体一斉に授け難し」の一条が含まれている。一読して分かるとおり、ここに挙げられた欠点はすべて形稽古にかかわるものである。

 これを反省材料として、それ以後、嘉納は柔道稽古法における「乱取」の効用をことさらに強調するようになる。柔道の利点は「筋肉を適当に発達させること、身体を壮健にすること、力を強くすること、身体四肢の働きを自在にすること」であるとした上で、このような能力を育むには「乱取」が最も適しているという説を嘉納は開陳する。

「乱取とは相互に礼儀を失わずに対手に負傷せしめざる限り、一定の法則によらず随意に行う試合の仕方である。昔は柔術の練習は形のみによったものであるが、維新の少し前から残り合いということが行われ、それが発達して乱取というものが出来たのである。その残り合いというのはどういうことをしたかといえば、形では普通こう払えばこう除けるとか、ああ押せばああ下がるという風に、あらかじめ仕合が決まっている。しかるに、払い方や押し方が利かぬ場合、それに抵抗して除けもせず、下がりもせず、時には払い返したり押し返したりすると、それが残り合いとなるのである。そういうふうにして対手の利かぬ業には掛からずかえってこちらから反対に業をかける。それにまた先方が自己の考えに任せて業を掛ける。そういうことがこうじて、遂に今日の乱取というものになったのである。」(4)

 嘉納の柔道論の歴史的推移を考察した藤堂良明・酒井利信は次のような分析を嘉納の乱取重視へのシフトの意味を次のように推論している。

「こうした嘉納の発言で注目すべきは、柔道体育法が体操伝習所の答申に沿う形で構成されていることである。つまり、体操伝習所が『害もしくは不便とする点』として挙げた条件を、一つ一つクリアーする形で、柔道体育法が構想されている。」(5)

 藤堂・酒井によれば、「学校体育の中に武術を取り組んでいこうとする大きな流れの中で、嘉納もその流れを深く意識して柔道に改善を加えていった」(6)のである。そして、「乱取」を重視する嘉納の発言は必然的に形稽古の欠点をあえて指摘するような文言を含むようになる。

「形はあらかじめ順序が決まっているから、身体的にも精神的にも臨機応変の働きを為さしむるように練習することが出来ぬ。また身体の鍛錬においても、運動の種類が決まっているから、乱取のように所有種類の筋肉を働かせる機会がない。それ故に、形ばかりの修業では真剣勝負で本当に強い人は出来難い。」(7)

 しかし、嘉納の乱取の効用を説く言の歯切れがやや悪いのは、武術においてもっとも危険な業(言い換えればもっとも効果的な業)である当て身業や関節業などが乱取では禁じ手となっていることにある。これら危険な術技は先に述べたように形稽古を通じてしか習得することができない。そして、古流の伝承においては今日でも行われているように、このような危険な術技は一対一で上級者が受けをとって取りを導くようなやり方でしか習熟することができないのである。つまり、「一級全体一斉に」授けるような稽古は不可能とは言わないまでもきわめて困難なのである。

 学校体育への武術の導入のためには、それが「安全」であり、「四肢の発達を妨げず」、「一級全体一斉に教授可能」であり、かつ児童生徒にとって「愉快」なものであることが求められる。形稽古はこれらの条件のいずれをも充たし難い。

 形稽古は危険な業を含む。形稽古は日常生活では決してとらないような特殊な身体運用を含む。形稽古は優れた指導者の高度な「受け」があってはじめて成立するものであり、初心者同士が形だけを真似て掛けけ合っても、ほとんど稽古の体をなさない。

 その結果、体育正課への採用と同時に講道館柔道が全国に普及してゆく過程で形稽古はしだいにかつての重要性を失い、柔道の稽古は乱取主流に移行することになった。しかし、それは嘉納が当初構想した形と乱取の総合的な稽古法の歪みを意味することでもあった。形の軽視と乱取への偏りを憂慮した嘉納治五郎はさまざまな仕方で形稽古(勝負法)を柔道稽古法に取り込もうと工夫を凝らした。「勝負法の乱取」「離れてとる乱取」(グローブのようなものをつけた突きや蹴りを許した乱取)の導入もその一策であったが、初期の成果を収めることはできなかった。それでも嘉納は何度となく形稽古による「勝負法」の錬磨に精励するように門弟たちに説き続けた

「維新以後教授法が進んで、怪我もなくなれば格別苦痛を感ぜずに修行が出来るようになったから、ますます乱取が流行するようになった。しかし、物には一利あれば一害がこれに伴うもので、形が廃ったために、柔道のある方面はほとんど忘れられたようになってきた。元来柔道に勝負という一面がある以上は、切ることも突くことも蹴ることも、すべて対手を殺すとか制御するとかの方法の研究も怠ってはならぬ。しかすに乱取ではすべて危険なことは禁じてあるから、そういう方面の練習は、形を待ってはじめて出来るのである。(・・・)これを補うために、形を乱取に加えてやらせたいと思うのである。形を適当に加味する時は、柔道の勝負の方面も遺憾なく出来、体育の方面も欠陥がなくなる次第である。」(8)

 嘉納は「柔の形」「投の形」「固の形」「極の形」の四段階を考案し、これに古式の形を加えて講道館柔道形を完成させようと考えた。そして、嘉納が満を持して昭和初年に公開したのが「精力善用国民体育」である。これは嘉納が作り上げた柔道形体系で、「武術、体育、精神修養」の三つの目的を同時に達成するこの「形の体系」を柔道の根幹に据えようと嘉納は考えてたのである。

「先頃私が考案して最近世間に拡がり出した精力善用国民体育の中の攻防式国民体育の如きはこの趣旨に最もよく適ったものである。大体の仕組が生理衛生解剖学等学問上の基礎の上に建設したのであるから、体育としては体操の最も優れたものに比すべきであって、(・・・)体育と武術を兼ね備えた仕組が出来たのであるから、道場においても第一にこの形を練習すべきである。」(9)

 嘉納の精力善用国民体育のなによりの狙いは乱取に傾いた柔道の稽古法のうちに形稽古を呼び戻すことにあった。

「本来柔道は乱取だけでは全きものではない。真剣勝負では当身や突いたり切ったりすることを必要とする。それだから形の練習を怠り乱取のみをしていると、そういう方面に欠陥が生じて来る。しかし形は乱取より面白味が少ないから怠り易い。そこで多くの者は乱取に傾いてしまう。」(10)

 嘉納はこの国民体育に柔道の未来を託した。そして図版多数を含んだ『国民体育』を昭和五年(1930)に上梓したのである。しかし、晩年の嘉納が心血を注いで考案した「精力善用国民体育」はついに普及することがなかった。

 

4・

 講道館柔道の例を引いたのは、近代柔道の祖であり、日本における近代スポーツの草分けであるる嘉納治五郎自身が柔道の「スポーツ化」にともなう武道的な本質からの逸脱を深く危惧していたという事実を示したかったからである。嘉納が柔道の精髄と信じた「精力善用国民体育」はその後柔道の競技化がさらに進むなかで実質的に消滅した。嘉納がいま蘇ったとしたら、柔道の隆盛を喜ぶよりも先に、形稽古の軽視に対して『柔道講義』以上に強い口調でその風潮を難じるであろう。

 武道のスポーツ化はいわば二段階を経て進行した。明治、大正期においては、学校体育への導入のための「安全の確保」や、指導者の不足に対処する「一級全体一斉授業法の必要」から形稽古がしだいに稽古から除かれ、戦後期においては、「軍国主義的イデオロギー」と「武道的エートス」の「除去」の必要に迫られて、その競技性や遊戯性がことさらに強調され、武道修業の本質的要素である「勝負法」の稽古が忌避されることになった。

 しかし、勝負法としての形稽古の衰微は武道のあり方に決定的な影響を及ぼすことになったのである。なぜ「勝負法としての形稽古」の衰微がそれほど深刻な意味をもつのか、次にこの問題について論じてみたい。

「勝負法」という語感に惑わされる方がいるかも知れないが、形稽古は「実戦のシミュレーション」ではない。

「元来柔道に勝負という一面がある以上は、切ることも突くことも蹴ることも、すべて対手を殺すとか制御するとかの方法の研究も怠ってはならぬ」という嘉納の言葉を表面的に理解すれば、「勝負法の研究」とは、「禁じ手なし、なんでもありの実戦」の状況に対応するような稽古のことだということになるだろう。そう理解すると、「禁じ手なし、なんでもあり」の攻撃に対処する稽古法が、取り受けの手順の決まった形稽古である、ということの意味がよく見えなくなる。それなら、乱取の方がよほど「実戦」に近いからだ。

 形稽古は取り受けが決まっており、手順も決まっている。たしかに攻撃は厳しく、正しく応接せず、攻撃を受け損なうとけがをすることもありうる。しかし、それでも手順は決まっている。その意味では形稽古は「実戦」とまったく別のものである。では、一体形稽古は修業者に何を学ばせようとしているのか。

 この問いこそ、私が冒頭に掲げた「この修業を通じて、私たちはどこへ行こうとしているのか」という問いそのものである。その答えを知るためには、武道の根本原理から考え直さなければならない。以下、私たちはいささか思弁的な議論のうちに踏み込んで行くことになる。

 武道の根本にある原理は、武道は勝つことを欲望する主体の廃絶を目指す、ということである。「勝つことを欲望する主体」とはすなわち武道家のことであるから、これを言い換えると、「武道は武道家の消滅を目指す」ということになる。

 スポーツとしての武道はその競技人口の増大を一つの目標にしている。一方、武道は武道修業者が一人もいなくなることを究極の目的としている。向かう方向が「スポーツ」と「武道」はまったく正反対なのである。

『老子』第三一章に「兵は不祥之器にして、君子の器に非ず」(武力とは不吉な道具であり、貴人の用いるべきものではない)というよく知られた一節がある。老子はさらにこう続けている。「勝って而も美とせず。之を美とする者は、是、人を殺すことを楽しむ也」(勝つことは光栄ではない。勝利を喜ぶものは人を殺すことを快楽としているのである)。

 武道は「不祥之器」すなわち「本来、存在すべきではないもの」という負の宿命を刻印されている。「勝つことは光栄ではない」。それゆえに、修業者たちの身体的・精神的な努力は「勝利することを喜ばないような」主体を構築することに最終的には収斂する。

「勝利することを喜ばないような闘争主体」を作り上げることを究極の目標とするような身体技法の体系、それが武道である。

 むろん、それは武道が「平和主義的」な身体訓練法であるという意味ではない。当然のことながら、武道の技法は「いかに効果的に攻撃を避け、敵を殺傷するか」というリアルな課題に専一的に答えるために体系化されており、「平和を築くための戦い」というような詭弁的な自己正当化は武道とは無縁である。

 武道修業の目的はあくまで効果的な防衛と敵の殺傷にある。しかし、まさにその「勝つための」技術的努力そのものが、結果的に「勝つことを求めない」という武道の自己否定を導き出すことになるのである。この逆説を私たちは「居着き」という技術的な問題に即して論じてみようと思う。

 

5・

「居着き」とは文字通りには、足裏が床にはりついて身動きならない状態を指す。より一般的には、心理的なストレスが原因で身体能力が極度に低下することを意味する。「居着き」をもたらす心理的素因は無数にあるが、もっとも致命的なストレスは「恐怖」である。

 私たちが「人前であがってしまって」自分の身体がどう動いているのか、自分が何を感知しているのかよく分からなくなるという状態の極端なケースが「居着き」である。「失敗」を予測しただけで私たちの身体運用能力は目に見えて低下する。まして、自分の生命身体が損なわれる可能性が切実なものであり、「相手はどういうふうに攻撃してくるだろうか、どうすれば回避できるだろうか・・・」といった「危険予測」が意識を占領しているような場合、ふだんと同じように滑らかに身体を運用することはきわめて困難となる。

 このように、おのれの生命身体についての過度の気遣いが不安を昂進させ、結果的に運動能力を低下させ、生命身体の危険がいっそう高まる。この悪循環が「居着き」の構造である。

 柳生宗矩は「居着き」を「病」と名づけた。その『兵法家伝書』にはこう書かれている。

「病気の事。

かたんと一筋におもふも病也。兵法つかはむと一筋におもふも病也。習ひのたけを出さんと一筋おもふも病。かからんと一筋におもふも病也。またんとばかりおもふも病也。病をさらんと一筋におもひかたまりたるも病也。何事も心のひとすじにとどまりたるを病とする也。」(勝とうと思い詰めることは病である。策略を使おうと思い詰めるのは病である。習得した技術をすべて使おうと思い詰めることは病である。先手をとろうと思い詰めるのは病である。相手の出方を待とうと思い詰めるのは病である。このようにあれこれ思い煩うのをやめようと思い煩うのも病である。なにごとも心がひとつことに固着するのを病と呼ぶのである。)(11)

「病」とは「固着すること」である。意識がある一点に集中し、凝結し、身体的に徴候化すること、それが「病」である。固着は滑らかな身体運用を妨げるばかりではない。意識が身体的に徴候化するということは、同時に、その徴候を通じて心身の状態についての情報が相手に漏洩するということでもある。私の現在の心身の状態や次の動作についての情報が相手に伝わるということは、対敵動作においてはほとんど致命的である。

 澤庵禅師は宗教的な視点から宗矩に武道の極意を説いた『不動智神妙録』で同じ主題をこう論じている。

「止まると申すはなにごとにつけてもその事を心に止むるを申し候。貴殿の兵法にて申し候はば、向ふより切る太刀を一目見て、その儘そこにて合はんと思へば、向ふの太刀に其の儘心が止まりて、手前の働きが抜け候ひて向ふの人に切られ候。是を止まると申し候。」(「止まる」とは、なにごとによらずあることに意識が固着することである。あなたの武芸に関連して言うと、打ち込んでくる刀を見て、それに合わせて反撃しようとすると、相手の刀に意識が固着して、自分の動きが相手に筒抜けになってしまい、切られてしまう。これを「止まる」というのである。)(12)

 意識が身体に局所的に徴候化することが武道においては絶対の禁忌であるということは以上の説明だけからでもお分かり頂けると思う。

 

6・

「居着きの克服」ということを技術的な課題とした場合、私たちはただちに「意識を身体的に徴候化させないためにはどうすればよいのか?」という問いに差し向けられる。そして、この問いに答えるために、私たちはさらに「では、どのようにして意識は身体に徴候化するのか?」という問いへと遡及することが必要になる。

 ごくおおざっぱに言ってしまうと、心に思ったことが身体的に徴候化するのは「意識から身体へ」という運動指令の回路が存在するからである。

 私たちの意識的な身体活動は通常、知覚神経が受けとった情報が中枢神経へと伝達され、中枢神経がその刺激に対応する指令を発し、それが運動神経へ伝わり、筋肉や骨格が動く、という周縁−中枢的なスキームに基づいて行われている。

 この周縁−中心的スキームに基づいて運動が行われる限り、思念が身体的に徴候化することは避けられない。というのは、中枢的なシステムでは、情報が中枢から末端へ「上意下達」的に処理されるために、その運動に関連する他の身体部位にも運動情報が「配信」されてしまうからである。

 これを武道の用語では「起こり」と呼ぶ。「起こり」とは、情報の伝播にともなって、思念が身体的に徴候化すること、つまり、ある身体部位が動作を始めるときに、それに先行して他の関連する身体部位が「予備的動作」を始めてしまうことを指す。

 例えば、私が手を動かして、何かを捉えようとするときには、手が実際に動き出す前に、私の眼は焦点を合わせて目標を補足し、次いで、手の動きの支点となるはずの肩の部分にわずかな「こわばり」を生じる。この眼の動きと肩の「こわばり」は腕の運動に際して見られるもっとも典型的な「起こり」である。このごく微細な身体的記号から武道家は容易にその人の次の動作を予測することができるのである。武道の場合、動き始める前に「起こり」を示すということは、ほとんど自殺行為に等しい。

 当然のことであるが、「居着き」と「起こり」は場合同時に生じる。「居着いている」身体は、ちょうど止まっている物体と同じで、勢いをつけないと動き出さない。だから「居着いた」身体は必ず動き出す前に「起こり」を示し、それゆえ当然それだけ容易に相手にその動きを予測されてしまうことになる。

 運動能力が低下した動かない身体が、はっきりそれと分かる予備的動作を伴うわけであるから、これは武道的には、「もっとも弱い身体運用」ということになる。

それゆえ「起こりを消す」ためには「居着かない身体」を作り上げなければならない。しかし、周縁−中心的スキーム、つまり「中枢から末端へ」というツリー状の指揮系統が存在する限り、運動情報が他の身体部位に「伝播」し、そこから「漏洩」することは避けがたい。すれば、「起こりを消す」ためになすべきことは、とりあえず論理的には一つしかない。それは「中枢からの指令抜きで、手足を動かす」ということである。身体が知覚情報を「現場で処理する」ということである。

 澤庵はこの「非中枢的」な身体運用法を「石火の機」という言葉で言い表している。「石火の機」とは、身体的な刺激に対して、身体が(「心」を介在させないで)瞬間的に応答するような心身構造のことである。

「石火の機と申す事の候。石をハタと打つや否や光が出で、打つと其のまま出る火なれば、間も隙間もなき事にて候。是も心の止まるべき間のなき事を申し候。(・・・)たとへば右衛門とよびかくると、あつと答ふるを不動智と申し候。右衛門と呼びかけられて、何の用にてか有る可きなどと思案して、跡に何の用かなどいふ心は住地煩悩にて候。」(「石火の機」という言葉がある。火打ち石を打つと、瞬間的に火花が散って、打つ動作と発火のあいだに何の隙間もないさまを指す。これは意識が固着する間がないことの比喩である。(・・・)例えば、「右衛門」と呼びかけられて、「はい」と返事をすることを「不動智」と呼ぶ。「右衛門」と呼びかけられてから、「何の用だろう」と思案して、そのあとに「何か用ですか」などと答えるのは、心がさまざまの思念で乱されているからである。)(13)

「石火の機」とは、名前を呼ばれたら、「はて、何の用だろう」というような中枢的な思考を迂回しないで、瞬間的に応答することである。そこには、「呼びかけ」と「応答」だけがあって、「呼びかけの意味について反省する機能」、つまり中枢的な「私」が存在しない。

 澤庵は、運動(「はい」と答えること)はするが、反省(「何の用だろう」と思考すること)はしないような心身図式を身体運用の理想と考えた。運動だけがあって反省のない身体、刺激の意味について省察する中枢を関与させないで反応する身体、これを私たちは以下では「非中枢的な身体」と呼びたいと思う。

 

7・ 

「非中枢的な身体」とは決して速く動く身体のことではない。それは知覚情報を統括し統一的な指示を全身に発令するべき中枢を欠いた、「寸断された身体」、「アナーキーな身体」である。

 非中枢的な身体のもっとも分かり易いモデルは「操り人形」である。

 操り人形は文字通り「寸断」されており、その手足は分節化しており、それぞれのパーツは一本の糸で操ることができる。従って腕を動かすときには、腕だけを動かせばよく、人間の場合のように頭を動かして視線を決めたり、肩に支点を作ったりする必要がない。人形はあからじめ何の信号も発することなく、不意に立ち上がり、不意に停止し、不意に方向転換し、不意に崩れ落ちる。

 もしここに生身の人間と操り人形を並べて、合図があったと同時に身体的に反応する、という実験をさせてみた場合、どちらの動きが「より意外」に見えるかは容易に想像がつくだろう。私たちの目には、人形の動きの方が、人間の動きよりも唐突なものとして見えるはずである。それはいかに努力しても、人間は動き出す前のわずかな予備動作(起こり)を完全には消すことができないからである。

人形の動きには「起こり」がない。したがって、それは武道的な意味ではすぐれて「速い」動きだということになる。 

 実際に、非中枢的身体の比喩として武道の伝書はしばしば「人形」の比喩を用いている。柳生宗矩は武道的身体の理想について次のように書いている。

「稽古かさなれば、はやよくせんとおもふ事そそとのきて、何事をなすとも、おもはずして無心無念に成りて、木てつくりたる道幸の坊が曲するごとくに成りたる位也。」(修業を重ねると、速く上手くわざを遣おうという気持が失せて、何事をなすときも、何も考えなくなり、思惟作用も思惟対象も消え失せ、まるで人形芝居の操り人形がダンスをするような感じになる。)(14)

 澤庵禅師は同じように「かかし」を武道的身体の理想としている。

「至極の位に至り候へば、手足身が覚へ候ひて、心は一切入らぬ位になるものにて候。(・・・)手足身の働きばかりにして、心がそつともどとまらずして、心がいずくにあるとも知れずして、無念無心にて山田のかがしの位にゆくもの也。」(名人の境位に達すると、身体がなすべきことを覚えていて、意識の介在が不要となる。(・・・)身体は動くが、意識はどこにも固着せず、意識が何を指向しているか外からは分からず、思惟対象も思惟作用も消え失せ、たんぼの案山子のような境位になるのである。)(15)

 操り人形といい、「かかし」といい、常識的に考えると、動きの速さや強さというものとはまったく無縁のものと思われる。それをあえて古来武道の伝書では理想的身体の比喩に用いてきた。理由の一つは、上に述べたようにそれが「起こりのない動き」という技術的な理想のモデルを提供してくれるからである。

 具体的な例を挙げて説明しよう。

 私の稽古している合気道においても、「人形のように身体を遣う」ということは身体運用のイメージをつかむ上ではきわめて効果的な比喩である。例えば、運足において、「身体を統御している私の発する指令によって足を前に進める」という意識をもって動く場合、この動きは必ず中枢的なものになる。つまり、一方の足に支点を作り、そこに重心を乗せて、そこを踏ん張るようにしてもう一方の足を前に進めるような運足になるのである。

 これに対して初心者に「人形のように」身体を遣う仕方を理解してもらうためには、こんな想像をしてもらう。あなたの身体は何本かの操り糸によって「外側から」、「あなた以外の誰か」によって操られている。そして一方の肩口に繋がれた操り糸が不意に引かれて、身体がバランスを失ってぐらりと前に崩れる。それに合わせるように、一歩足がすと前に踏み出す。

 この運足では身体の内側には運動の支点が存在しない。(あえて言えば、私の身体の外側に想定された「人形使い」が運動の支点を構成している。)このような運足は非中枢的と呼ぶことができる。

 中枢的な運足では、動き始める前に支点となる蹴り足を踏ん張るので、それが「起こり」としてはっきり視認される。一方、非中枢的な運足では、動きは「いきなり」始まる(ように見える)。

 これは対敵の間合を詰める運足の場合であるが、例えば「斬る」という動作にしても同じ比喩を使って説明することができる。

「斬る」動作を中枢的に行う(つまり「私が、太刀を遣って、斬る」というふうに運動の中心に統括的な「私」を想定して行う)と、肘および肩の関節を支点とした「ヒンジ運動」になる。「ヒンジ運動」というのは、ワイパーのような、中心が固定されて、アームが半径の決まった円周を描く運動のことである。このような「斬り」はどれほど速く、強い動作で行っても(円の中心と半径が決まっている以上)剣先がどこに届くかが予測できる。したがって、武道的な動きとしては効果がないのである。

 逆に言えば、「斬る」という動作においてなにより重要なことは、剣先が「どこに」「いつ」届くのか予測ができないように太刀を遣う、ということである。例えば、「円の中心が絶えず移動し、円の半径が絶えず変化するような円」の円周上を動いてゆく太刀の動きは見切ることがむずかしい。

 この複雑な運動は(やって見れば分かるが)上肢を意識的に操作してみてもなかなかできない。しかし、想像的な「私の外部」に支点を移し、一時的に「私」を消してみると、その感じをつかむことができる。

 中段に構えた太刀を上段に振りかぶるときに、自分の腕で太刀を持ち上げるのではなく、「私の頭上」にいる「人形使い」が操作する糸によって、剣先が両腕ごと一気に頭上高くに「吊り上げられた」と想像してみるのである。すると、剣先はヒンジ運動のような円を描かず、直線に近い軌道(実際には「半径が増加してゆく円の円周」の一部分)を通って頭上に達する。

 この動作を逆モーションで行えば(つまり剣先を吊り上げていた糸がぷつんと切られた、と想像すると)、上段からの斬りになる。太刀は「フリー・フォール」で、つまり、最短距離、最短時間、最小エネルギー消費で中段まで振り下ろされる。これが斬りの基本である。

 針谷夕雲の無住心剣術の伝書では斬りについてほとんど技法的な記述がなく、「ただ片手で太刀を引き上げ落とす」(16)とだけしか指示がない。道統を嗣いだ真里谷円四郎の『前集』には刀法として、ただ次のような記述があるのみである。

「先師の教にちがはぬ様にして、生まれのままなものに立て刀を引上げ、おくらずむかへずして、かたちに気をかさず、かんずる所へ刀とおとすの計りなりとの給ひし也。」(先師の教えに背かぬように、生まれたままの嬰児のごとく、ただ刀を引き上げ、対手に乗ぜず、対手に応じず、形を気にせず、感じるところに刀を落とすだけだ、ということである。)(17)

 これが斬りの極意であるとするならば、「フリー・フォール」の運剣は少なくとも方向としてはこの境域を目指しているはずである。

 運足と操剣の例を挙げたが、いずれも「私の外部」に運動の操作主を想像的に設定し、そこに運動の支点や起こりを移すことによって、私の本体を完全に力みの抜けた一種の「操り人形」状態に置くことを技術的な「仮説」としている。

 このような人形の動きは「内なる中枢」からの指示によって発動するのではなく、外部にいる想像的な「人形使い」の指示によって不意に始まり、不意に変化し、不意に途絶する。これは「起こり」が見えず、次の動作を予測することのきわめて困難な動き、武道的な身体運用の理想である。

 しかし、そればかりではない。「内なる中枢」を持たないということは、身体の水準だけの出来事ではなく、「私」というものの機能に直接かかわってくる。

 

 

8・

 武道における技術的完成は、「勝つ」という武道家の初発の動機そのものを消滅させる、という逆説を巧みに語ったものに中島敦の『名人伝』がある。

 漢の時代、天下一の弓の名人たらんとした紀昌は、壮絶な修業に耐えて、超人的な技術を体得する。彼はその技術を試さんと師である飛衛に挑む。一日、紀昌は歩み来る飛衛に一矢を放つ。飛衛は気配を察して弓を執って応じる。「二人互いに射れば、矢はその度に中道にして相当たり、共に地に墜ちた。」(18)

 師の域に迫った弟子に向かって飛衛は、もはや伝えるべきものはない、さらに道の蘊奥を究めようと望むなら深山に住まう甘蠅老師に就くべしと告げて、弟子を旅立たせる。

 甘蠅老師は齢百歳を超えた白髪の翁である。老師は弓も矢も使わない「不射之射」の至芸を見せて紀昌の度肝を抜く。九年、紀昌は老師の下にとどまった。それ以後のことは中島敦の原文のままに引用しよう。

「九年たって山を降りてきた時、人々は紀昌の顔付の変わったのに驚いた。以前の負けず嫌いな精悍な面魂は何処かに影をひそめ、何の表情も無い、木偶の如く愚者の如き容貌に変わっている。久しぶりに旧師の飛衛を訪ねた時、しかし、飛衛はこの顔付を一見すると感嘆して叫んだ。これでこそ天下の名人だ。我儕らの如き、足下に及ぶものでないと。」(19)

 そのあとも紀昌はその弓の妙技を全く見せようとはしない。弓さえ絶えて手に執ろうとしない。しかし、その名人の名声は日毎に高まり、空飛ぶ鳥さえ、その術技を恐れて紀昌の家の上空を避けるほどであった。そして、山を降りて四十年間ついに一度も弓を執ることなく紀昌は「煙の如く静かに世を去った。」その生前の最後の逸話が残されている。

「或日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行ったところ、その家で一つの器具を見た。確かに見覚えのある道具だが、どうしてもその名前が思出せぬし、その用途も思い当たらない。老人はその家の主人に尋ねた。それは何と呼ぶ品物で、また何に用いるのかと。」

 主人は当惑して絶句する。

「三度紀昌が真面目な顔をして同じ問を繰返した時、始めて主人の顔に驚愕の色が現れた。(・・・)彼はほとんど恐怖に近い狼狽を示して、吃りながら叫んだ。『ああ、夫子が−古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや?ああ、弓という名も、その使い途も!』」(20)

 紀昌という名は『荘子』達生篇に見える「木鶏」の逸話の主人公の名でもある。おそらく中島はそれを念頭にこの短編を書いたのだろう。『荘子』はこんな話である。

 紀省子が王のために闘鶏を飼って、訓練するが、なかなか仕上がらない。何日たっても、攻撃的で、敵を探して威嚇することに夢中である。しかし四十日にして、ついに鶏が仕上がる。王に紀省子は答える。

「之を望むに、木鶏に似たり、その徳全し。異鶏の敢えて応たる無く、反りて走れり。」(遠くから見るとまるで木で作った鶏のようだ。力が完全なものとなった。他の鶏はあえてこれと敵対せず、背を向けて走り去るだろう。)(21)

 この二つの逸話は同じ主題をめぐっている。

敵を忘れ、私を忘れ、戦うことの意味を忘れたときに、戦う者は最強となる。なぜなら、彼にはもはや「守るべき自我」も「破るべき敵」もないからだ。その身体運用はあらゆる「居着き」を去った融通無碍、完全に予見不能の自在境に到達している。しかし、その最強の身体は、もう戦うことに意味を見出すことができない。

『荘子』の木鶏は武道における至高の位を指す。古来、『猫の妙術』を始め、多くの武道の伝書がこの比喩を繰り返し伝えてきたのはゆえなきことではない。最強の身体運用は「守るべき私」という観念を廃棄したときに始めて獲得される。これが「木鶏の逆説」なのである。

「私」を攻撃から守ろうとする意識は必ず身体に徴候化する。それは「居着き」として身体能力を低下させ、「起こり」として心身の情報をリークする。それを防ごうと望むのであれば、私たちは非中枢的な身体運用を習得しなければならない。そして、非中枢的身体運用の習得は必然的に「守るべき私」という観念そのものの廃絶を要請せずにはいない。敵に勝つためには勝つことを忘れ、私を守るためには私を忘れなければならない。そして、当然のことながら、「敵に勝ちたい」という欲望を棄てたものにはもう勝つべき敵がおらず、「私のことを忘れてしまった」私にはもう守るべき「私」がいない。

 武道において技術の完成を求めるものは、わが身を守り、敵を効果的に殺傷するという初発の動機そのものを放棄することによってしか技術的な限界を突破することができない。武道における技術的完成は「勝つこと」を欲望する主体そのものの消滅を要請する。これが武道の「自己否定」という逆説である。それは武道がその起源においてみずからを「不祥之器」として認識した瞬間に刻印された。

 武道がその実利的な有効性をほとんど失った世界において(太刀や杖や徒手で「戦争」ができると思っている人はいないだろう)なお多くの人々を引き付けて止まないのは、おそらくこの逆説的な構造のうちにある種の「叡智」を直観するからではないだろうか。

 

11・

「武道の科学」とは、「私はいま修業上のどの段階におり、いかなる技法的課題に直面しているのか」という技法的な問いと、「私は武道を通じてどこへ行こうとしているのか」という原理的な問いを統一的な枠組みのうちで、一義的な言語で語ることを可能にする学知である、と先に私は書いた。本論考はそのような学知を「希求する」試みの一つである。ここでは「居着き」と「起こり」という技法的な難点を武道の根本原理と連関づけて解くことを試みた。繰り返し言うとおり、これは私の現在の稽古段階において前景化している問題に対する限定的回答にすぎない。したがって私自身の稽古が進めば、ここで述べられた考想のいくつかは廃棄され、一部はさらに包括的な別の技法的知見のうちに取り込まれることになるだろう。そのためにも多くの読者からの教示と叱正を拝して待ちたい。

 

引用出典

(1) 多田宏、『武道的身体』、1994年、http://www.asahi-net.or.jp/~yp7h-td/busintai.html

(2) 山田次朗吉、『日本剣道史』、1925年、東京商科大学剣道部、356−6頁

(3) 嘉納治五郎、「柔道一班並に其教育上の価値」、渡辺一夫編『史料明治武道史』、人物往来社、1971年、91頁

(4) 嘉納治五郎、『柔道講義』、嘉納治五郎著作集、第二巻、1992年、五月書房、266頁

(5) 藤堂良明・酒井利信、「嘉納治五郎の柔道論と今後の課題」、『身体運動文化研究』第六号、1999年、身体運動文化学会、27頁

(6) 同書

(7) 嘉納治五郎、『柔道講義』、244−5頁

(8) 同書、245頁

(9) 同書、262頁

(10) 同書、262−3頁

(11) 柳生宗矩、『兵法家伝書』、岩波書店、1985年、51頁

(12) 澤庵禅師、『不動智神妙録』、「日本哲学思想全書第十五巻」、平凡社、1957年、13頁

(13) 同書、18−19頁

(14) 柳生宗矩、前掲書、58頁

(15) 澤庵禅師、前掲書、16頁

(16) 甲野善紀、『剣の精神誌』、新曜社、1991年、87頁

(17) 甲野善紀、前掲書、121頁

(18) 中島敦、「名人伝」、『山月記・李陵』、岩波書店、1994年、105頁

(19) 同書、108頁

(20) 同書、110頁

(21) 『荘子』、達生篇