五月の鯉の吹きなが思想家の冒険

Les aventures d'un penseur sans fond: depuis janvier 2003



1月30日

忙しい一日。

灘区役所に行って住民票と納税証明を取り、郵便局でベルギーのカナ姫に並木屋で忘れた毛皮のマフラーを送り、不動産屋で賃貸契約を取り交わし、クロネコヤマトの営業マンが引越の見積もりにやってきて、そのあと「高杉」で大阪弁護士会の会報のインタビューを受ける。

なんで私が大阪弁護士会の会報のインタビューを受けるのであるのかは、みなさんの想像を絶しているであろうが、もちろん私自身にも理解が及ぶことではない。

別に司法試験のあり方や裁判制度についての私見を訊ねたいわけではなく、「どうしてレヴィナスを読み始めたんですか?」とか「合気道の稽古とフランス現代思想研究の共通点は?」「ウェブ日記で『検事になりたかった』と書いてましたけど、その理由は?」とかいう、ごくまっとうなご質問である。

どうやらインタビュアーのO久保弁護士の「個人的な関心」がそういうところにおありだったようである。

二時間余にわたる話で、「社会正義」の実現のためには、「絶対的正義」というものを想定しない方がよいという点でO久保弁護士と深く意見の一致を見る。

最後に鞄から『レヴィナスと愛の現象学』を取り出され、「あの・・・サインを」とおっしゃったので、すらすらとネコマンガを描いて差し上げる。

インタビューのあとにせっかく弁護士がいらしたのだからというので、去年の秋の自己破産しちゃった知人への債権は回収できるでしょうかという質問をしてみる。

「ダメでしょう」というお答えであった。

貸した翌日に自己破産というなら詐欺で訴えられる可能性はありますが、二ヶ月後ならまず免責でしょう。なにしろ自己破産者はいま裁判所の前に長蛇の列をなしているんですから。

聞いてびっくり。自己破産というのは今やものすごい数なのだそうである。

自己破産では、「返す金がないのだから、返さなくてよい」というロジックになるらしい。貸した方は「お気の毒さま」である。

私も新車を買おうと思って貯めてたお金を、なまじ仏心を出したせいで、ドブに棄ててしまった。これからはもう誰にも金は貸さんぞ、と心に誓う。

という私のような人間が増えてくると、お金に困った人は知人友人からはもうお金が借りられなくなる。したがって、サラ金から借りることになる。そして高利の利息が払いきれずにやがて自己破産する。業者から借りた金は自己破産しちゃえば、もう返さなくてよいので、とりあえず借金はチャラになる。

自己破産したからといって、さしたるペナルティが課されるわけではなく、市民生活には何の支障もない。

「なんだ、破産したもん勝ちじゃないか」

というのでどんどん自己破産する人が増えているのである。

いいのかなあ、と思うけれど、O久保弁護士によると、ひとつだけ大問題がある。

自己破産で「味をしめた」人の多くが、破産したあとも懲りずに業者から金を借り始めるのである。

もちろんふつうの業者はもう貸してくれない。貸してくれるのは非合法の高利貸しだけである。でも、ひとからお金を借りて急場をしのぐということがもともと癖になっている上に、その借金が自己破産で免責になったという「原体験」と結びついてしまうので、強迫反復的に「つい借りてしまう」のである。

ところが自己破産は一回しかできない。破産したあとに作った借金は免責にならない。だからどんなことをしても返さないといけないのである。

そこで返せなくなった人たちが次は「夜逃げ」をする。

これも今ではすごい数らしい。

そういえば、昨日の賃貸契約の条項の中には「一月以上借り主が部屋に不在の場合は貸し主が処分する」という一項があった。こんなの四年前の契約にはなかった。

不動産屋のお兄ちゃんに「どうして?」と訊いたら、多いんだそうである。家財道具残したまま、いきなり消えちゃう人が。

いきなり消える人とか、家賃踏み倒す人とか、他人に転貸している人とか、そういうわけの分からない借り主がものすごい勢いで急増しているので、貸し主の権利保護のために、どんどん契約書の条項が増えてきて、もう保険の約款みたいなものになってしまったのである。

そういう困った人たちのつくった赤字補填のために、ほかの借り主は何%か高い家賃を払わされているわけである。

いやな時代だ。

借りたものは返す。ひとのものは盗らない。

そういう基本的な倫理が通らない時代なのである。


1月26日

休みが続くので、ハイペースで原稿書きを続ける。

まず角川書店の『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(For a hard day's sleepless night) を脱稿。そのままメールで送稿。

とりあえず「一丁上がり!」

本は4月に出るそうである。(装幀は例によって山本画伯)

毎晩ワイン片手にでれでれ酔っぱらいながら書いたものなので、何を書いたのかよく覚えていない。でも、通読してみたら、支離滅裂ながら不思議なグルーヴ感があって、なかなかノリがよい。そうか、オレは酔っぱらっているときってこういう話し方するのか、と腑に落ちた。

これは20代30代の「働く若者」のための「就眠儀式本」である。

今日も一日仕事に疲れたあなた(ゴンちゃん、君のことだよ)、寝る前に10頁ずつ読むといいよ。「ま、どーでもいーか」というお気楽な気分になって安眠をお約束だ。

同じ頃に『ため倫』の角川文庫版も出るはず。(こちらも山本画伯)

次に龍谷大学での講演のために「レヴィナスとラカン」の続きを書く。

これもぼちぼち200枚。「他者論」を書き上げれば完成である。

『身体論』(新曜社)と『時評集』(洋泉社)と『映画の構造分析』(晶文社)をぱたぱたとこの休みのあいだに書き上げてしまえば、おおなんと今年は春先に5冊完成ということになる。(あとはレヴィナスの翻訳だけに専念して、心静かな半年を過ごすことができる)

出版社サイドとしては、同時期に同じ著者の本が複数出ることは必ずしも売り上げ増にはつながらないので(ふつういっぺんに同じ著者の本を5冊買うやつはいないからね)、あまりうれしくないだろうが、こっちだって不良在庫22冊を片づけないと、にっちもさっちもゆかない明日なき身の上である。出版社の営業事情にご配慮している余裕はない。

夕方になったので、仕事を止めて、『疲れすぎて・・・』の脱稿祝いに三宮の大丸にコートを買いにでかける。念願のアカスキュータムの黒いカシミヤ混紡コートである。清水の舞台から飛び降りる気持ちで値札をめくったら、ライセンス生産の国産品で、予定の半額だったので、ほ。

ひさしぶりに元町のラジャでカレーを食す。かつてバブルのころは門前に列をなしていたラジャも閑散としていて、午後7時に客一組。でも相変わらずタンドリ・チキンと海老カレーは美味しい。

満腹して、家でウィスキー片手に「『アリー・マイ・ラブ』を第一シリーズから全部見る」プログラムの三日目に入る。これって、かなり病みつきになりそうだ。

いまのところ、個人的にはリチャード・フイッシュ君のキャラが好きかな。組織というものは中枢にはああいう「空虚なタイプ」がいないと成立しない。そして「空虚なキャラ」は自分の機能を実はよく知っていて、それを意図的に演じてもいるのである。だからけっこう人間が深いのよ。


1月25日

引越先が決まる。

第一候補だった東芦屋町のマンション(かなぴょんの隣組)は行ってみたら、一階で、庭があるのはいいけれど、南側が二階建てのマンションの壁。午後1時なのに、家の中は真っ暗である。

間取りは広いし、設備もゴージャスなのだが、いかんせん、御影の今の家の大阪湾一望の気分のよい眺望に比べると、まるで土牢に入れられているような閉塞感がする。

夜家に帰って寝るだけの生活なら構わないけれど、こちらは一年のほとんどを書斎で過ごす人間である。書斎の窓から何が見えるかというのは死活的に重要である。

眺望が隣家の壁だけというのはあまりに哀しい。これではお気楽な文章は書けない。

パス。

二軒目は業平町の4階。

芦屋川の東岸、JRのすぐ南側。列車の音が一日中するという難点があるので、あまり興味がなかったのだが、とりあえず見に行く。

行ってみると、南と東にバルコニーがあって、ひろびろと芦屋市東南部への眺望が開けている。

リビングを書斎にすれば、これはまた実にせいせいとした仕事部屋になりそうだ。

JR芦屋駅から3分。阪急芦屋川から5分。

多少列車の音はうるさいけれど、地の利と眺望をさっぴけば、これはお得である。

合気道の稽古をしている青少年センターまで歩いて10分。

お仕事のあと、下駄をつっかけてJRの駅まで歩けば、北野のジャックメイヨールまでナイトキャップを呑みに行けるし、東京と行き来するにも、新大阪まで30分。

すぐ近くにTSUTAYAもイカリスーパーも「もっこす」もある。

母親からのたってのリクエストである「歩いてデパートへ」も五分のところに大丸があるからOK。

よし、これに決めた。

家賃はいまより少し高くなるけれど、タクシー代がこれからは要らないからトータルではあまり変わらない。

来月から4年ぶりに芦屋市民にもどることになる。

芦屋は便利な街だ。

市役所と警察署と税務署が並んで建ってるんだから。

こういうコンパクト・サイズの小都市というのは、ほんとうに住み易い。

なんだかわくわくしてきた。

引越って、ほんとうに愉しいんだけどなあ。どうしてみんな家を買いたがるんだろう。

もちろん、この業平町のマンションにも何年住むか分からない。

飽きたらそのうち引っ越す。

御影から出るときに、家財の三分の一くらいは棄ててゆくつもりだから、今度の家はいまよりもっと「スカスカ」になるだろう。

次に引っ越すときは、もっと「スカスカ」になるはず。

とりあえず、これからあとは、ものを棄てまくって、「60歳のときに20歳のときと同じくらいの家財」が目標である。

20歳のとき、野沢の学生寮からお茶の水のかっちゃんの家に居候しに引っ越したとき、荷物はフジタくんのカローラのトランクと後部シートだけで運べた。

でも、ものがなくて不自由をしたという記憶がない。

あれくらい身軽な人生にぜひ戻りたい。

 

家が決まったので、すっかり気分がよくなり、御影に戻ってばりばりと仕事をする。

自己評価委員会の報告書の手直しと、教育COEについてのレポート。

昨日の教授会のあいだに文部科学省の平成14年度「21世紀COEプログラム」(いわゆるトップ30校ね)の人文科学系採択20校の申請書を読んだ。

ふーん。

文部科学省は「こういうの」がお好みなわけね。

こういう官僚的作文はウチダのもっとも得意とするところである。もし文部科学省提出書類の「代書屋」という商売があるなら、私はそれで食って行けそうである。

たぶん思考回路を官僚と同調させることに何の苦痛も感じないからであろう。

考えてみたら、私は幼少のころ、警察官僚か検事になりたかったのである。

しかし、そういう権力的な立場に身を置くと、自分がどれくらい「いやな奴に」なるかだいたい想像ができたので、世間にこれ以上ご迷惑をかけないために、とりあえず人畜無害な商売を選んだのである。

もし私が警察官僚になっていたら・・・おおお、考えるだけでも恐ろしい。

私が三文大学教師で人生を終えるのは、日本の良民にとってはある種の災厄を経験せずに済んだということなのであるが、それを知っているのは神と私だけなのである。


1月22日

今日の夕刊に「センター試験二分遅れ『追試で救済』提案」という記事があった。

つい先日こちらもセンター試験の試験監督をしたばかりなので、「なになに」と興味をもって読んだが、なんだか気持ちが片づかない。

こういう記事である。

「19日に行われたセンター試験二日目の理科1の試験で、二松学舎沼南キャンパスの一つの試験場で開始が約二分遅れた。一部の受験生から時間延長を求める声があったが、そのまま終了した。その後も不満の声が寄せられたため、同センターはこの教室で試験を受けた受験生に電話で、病気や事故で受けられなかった受験生のために25日と26日に行われる追試験に参加するように提案した。受験生からは『追試験では救済にならない』との声が出ている。」

センター試験の会場校の人間としてはいいにくいことだけれど、私の率直な意見は「二分くらいどうだっていいじゃないか」ということである。

そんなことでガタガタ言っていると、大きくなってからたいした人間になれんぞ。

二分の不足で他の受験生に対して大いなる不利を蒙ったと思うなら、素直に追試験を受ければよいではないか。

しかるに「追試験では救済にならない」とはどういうことなのか。

本試験の点数をその分割り増しにしろとか、満点にしろとか、タイムマシンで19日まで時間を戻せとか、そういうことを言いたいのだろうか。

そもそも、すべての受験生は同じ条件で試験を受けられるということ自体、「ありえない」ことなのだ。すべての受験生はそれぞれの仕方で、それぞれに「不利な条件」をこうむっている。

追試験があっても、本試験の18日19日は病気で受けられなくて、追試験の25日26日にはさらに病気が悪化する受験生だっている。彼らにとっても「追試験は救済にならない」ことは同じである。

どうすればよいというのだろう。

追試験を一年中やってベストコンディションのときの点数を採択しろというのだろうか。

まさかね。

たしかに試験時間の遵守というのは、重要なことだ。

しかし、私も受験生であったからよく覚えているが、それよりはるかに理不尽な「不利な条件」に耐えなければならないときはいくらもある。

試験場の外を走る車がうるさくて試験に集中できなかった受験生や、試験場の暖房が熱すぎて頭がぼおっとなってしまった受験生や、前の席の受験生が絶え間なくしゃっくりをするので気になってしかたがなかった受験生や、隣の席の受験生が去年別れた恋人だったので、どきどきしちゃったという受験生には、いかなる救済措置も講じられていない。

段取りの悪い試験監督のせいで試験時間が二分足りないというようなディスアドヴァンテージはこれから先の人生でいくらでも起こる「納得できない不利」に比べれば、まあ屁のようなものだ。

それを追試験で救済しようではないかとセンターが言っているのに「救済にならない」というのは、どういうことか。

私は現役の受験のときに京大法学部を受けたが、京阪電車がポイント凍結で2時間遅れ、1時間目の終了直前に試験場にたどりつき、雪の吹き込むふきっさらしの廊下で、びしょびしょのままかじかんだ指で、20分間少ない試験時間で受験したことがある。(もちろん、いかなる救済措置も講じられなかった)

一浪の早稲田政経のときは、ラッシュの電車のなかで魔法瓶が割れ、下半身ぐちょぐちょの状態で試験を受けた。(もちろん、いかなる救済措置も講じられなかった)

東大の二次試験では、一橋を受験していると聞かされていたのでそこにいるはずのない兄ちゃんが私の前の席にいきなり出現し、数学の試験の間中、兄ちゃんの「うううう」といううめき声を聴きながら解答したのである。(もちろん、いかなる救済措置も講じられなかった)

そのようなさまざまの不測の事態に遭遇しつつ、私はいくつかの試験に落ち、いくつかの試験に受かった。

大学受験なんていうのは、「そういうもの」である。

東大の二次試験は、正門での検問(そういうものがあったんだよ、「入試粉砕」を呼号されている方々がいたから)で、私の顔をみた教官が吐き捨てるように「受験生も変わったよな」と隣の教官につぶやくのを聞いてムカツク、というところから始まった。(まあ、タクシーで正門前にのりつけて、サングラスで葉巻をくわえて受験票を差し出したのだから、当然といえば当然のリアクションではありますが)

そのようなさまざまの苦難を乗り越えて受験生は試験を受けるものなのである。救済措置があるんだから、それに文句を言うのは贅沢というものだ。(と書いた後、翌日の朝刊に、その試験室で受験した25名のうち6名が追試験の受験を申請したという記事があった。のこりの19名は「二分くらい、いいよ」と判断したわけである。なるほど)


1月22日

ひさしぶりに暖かく快晴。少しぼおっと煙っていて、大阪湾が今日は見えない。

机の前をみあげると海が見えるというこのロケーションはほんとうに心地よい。

この二年間わりと集中してものが書けた理由の一つは、この御影のマンションからの眺望の素晴らしさとあたりの静けさだろうと思う。

「どこに住むか」ということは、とてもたいせつなことだ。

家賃や駅からの距離や間取りや日当たりというようなことは、ほんとうに家の快適さを決める条件の一部、それもまったく副次的な条件に過ぎない。

いちばんたいせつなのは、その場所が「よい気」を持っていることである。

土地には地脈というものが流れている。

人間の身体に気脈や経絡や勁道が流れているのと同じである。

よい地脈が流れているところに暮らすと、その地の気に身体に感応して、たいへんに気分がよろしい。

悪い土地に暮らすと、(それがどれほど交通至便であろうとも、日当たりがよくても)、その土地の発する微弱な瘴気に当たって、心身がだんだんと損なわれてくる。

ふつうは、そういう土地は足を踏みれたところで「なんとなく、やだな」という感じがするものである。

 

むかし、東京にいたころ、何度目かの引越で、不動産屋にある物件を紹介してもらったことがあった。

東横線の学芸大の駅のそばで、間取りも日当たりもよく、家賃もリーズナブルだった。

でも、ぐるりと部屋を歩いたあと、「ここには住みたくないな」と思った。理由は分からない。

いっしょにいた妻(当時)も「ここは何か変だ」と同意してくれた。

不動産屋はどうしてこんないい条件の物件をいやがるのか、理解できないと言って怒りだした。

いくら憤慨されても、いやなものはいやである。

理由は結局分からなかったが、私はそういう「何か変だな」という感覚はたいせつだと思う。

そのしばらくあと、知り合いの若い夫婦が結婚して半年で離婚したことがあった。

いっしょに暮らしだしてから、関係が非常にとげとげしくなり、口げんかが絶えず、結局別れてしまったのである。

あとで、彼らが暮らしていた土地が沼を埋め立てた場所で、古くは「蛇塚」という地名であったことを教えられた。

こういうのは「関係ない」と思う人にとっては関係ないことだ。

しかし、人間の感情というのは、月の満ち欠けや潮の満干や天候や気温、湿度によっても変化するものである。

デュルケームは平均気温と自殺率のあいだには相関関係があると主張していたし、むかし読んだ『学士会報』では、南太平洋のリゾート地の地磁気を測定した学者が、リピーターの客が集まる土地と、リピーターの少ない土地では、地磁気に有意な差があると報告していた。

土地からはさまざまな「情報」が発信されており、私たちの身体はそれと知らないうちに、それを感じ取っている。

ある場所に立ったときに、「なんだか気分がよい」と感じるか「なんとなく気分が悪い」と感じるか、それがそのあとの人生にとって、ときに決定的な分岐点になることがある。

中にはそういうことをまったく感知できない人もいる。

人間の身体は便利なつくりになっていて、見たくないものは見ない、聴きたくない音は聴かない、感じたくない震動は感じないようにモードを切り替えることができる。

悪い土地で暮らす人の多くはマイナスの気を「感じない」モードで生きている。

そうしないと生きてゆけないのだから、とりあえずそうする他ない。

しかし、瘴気を感じらない人は、同時に人間の発する悪意や憎悪や嫉妬や羨望に対しても鈍感になるし、人間の発する微妙な身体的メッセージも感知できなくなる。

悪い気を感じない人は、同時に、救いを求めている人がいても気づかないし、親愛の挨拶を送られても気づかない。

そういう人たちはゆっくり、でも確実に人間たちのネットワークから疎外されてゆくことになる。

 

来月私は芦屋に引越する予定である。

候補の物件はいまのところ五つ。一昨日、一つだけ見た。大原町のマンションの2階。

交通至便ではあるし、家賃も安いのだが「ちょっとね」だった。

明日、東芦屋の物件を見にゆく、なんとなくそこで決まりそうな気がする。(かなぴょんのご実家から走って10秒のところ)


1月19日

オフなので、終日原稿書き。

年末までに原稿を渡すはずだった角川書店の幸福論、新曜社の身体論、晶文社の映画論の直しがまだ終わらない。

洋泉社の原稿も三月までには書き上げないといけない。

2月1日には京都で研究会があり、「レヴィナスとラカン」の第二弾を演じないといけないのだが、仕込みが遅れている。

2月7日には教員研修会があり、そこで大胆にして画期的な教員評価システムのプレゼンをしなければならないのであるが、その原稿もまだ一枚も書いていない。

どういうわけだか、こういうときは「あまり急がれていない原稿」の方が書きやすいので、ついついそちらから書いてしまう。

関西電力のメールマガジンの原稿と『身体運動文化』の研究報告をとりあえず書き上げる。

岩波の『図書』の原稿もぼちぼち書き始めないといけないし、そろそろ『ミーツ』の次の締め切りが来る。

「物書き廃業」したはずなのに、相変わらず「物書き」仕事にあおられまくっている。

なぜだかよく分からない。

夕方まで仕事をして杖の稽古に出かける。

誰も来ていない。

寒いからであろうか。

誰もいないので、一人稽古をする。

まず居合の稽古。(ひとがいるときにはあまり刀を振り回すわけにはゆかないからね)

古流の形を遣ってみる。なかなかよくできた形である。

以前はぶんぶん剣を振り回して遣っていたが、どうもそういうものではないように思われる。ゆっくり身体の各部の動きを調整しながら抜く。

要するに太刀を遣うときは、太刀を遣ってはいけない、ということだと納得。

そんなことを私ひとりに納得されてもみなさんは困るだろうからご説明するが、剣とか杖というような道具はどうしても得物が「主」、身体を「従」になりやすい。剣に振り回され、杖のまわりを身体が走り回るというようになりやすい。これは対敵動作で、相手を主としおのれを従として身体を使うのと原理は同じことである。

敵の存在が、私たちの心身ののびやかな運動を妨げる「マイナスの負荷」になるということは誰にでも分かるが、武器もまた「マイナスの負荷」になるということはわかりにくいかも知れない。

でも、そうなのだ。

それはなまじ身体能力を局所的に高めるがゆえに、かえって心身のバランスのよい統御を困難にする。

だから古流の形の多くは「剣や杖が邪魔になる」ように構成されている。

たとえば大森流初伝の「逆刀」は(居合の形にはよくあるけれど)柄頭を床に固定して、左半身を一重身に開いて抜刀するところから始まる。剣を前に抜けないようなネガティヴな条件づけをしておいて、そのようなとんでもない不利な状態からスタートして身体を「割る」稽古をするのである。

形は操剣の技法である以上に操身の技法である。

杖の九本目の「雷打」では頭上にかざした杖が身体の割りを妨害する。杖を反転させようと杖を中心に考えると身体もつられて回ってしまう。身体は直線的に割り、杖だけが反転するように遣うためには、杖を持っていることを忘れないといけない。

持っているけれど、持っていない。

そこにあるけれど、それに囚われない。

そういう心と身体の使い方を覚えるために居合や杖の形稽古はたいへんにすぐれたプログラムなのである。

結局、ひとりで二時間稽古して、ひさしぶりに汗をかく。


1月18日

センター試験初日。朝九時から夕方の六時まで、試験監督。

試験監督というのは、「そこにいる」というのが仕事であり、何もしてはいけない。(本を読んではいけない、おしゃべりしてはいけない、寝てもいけない、変な動きをしてもいけない・・・)

私のようなハイパーアクティヴな人間にとっては、ある種の拷問である。

しかたがないので、試験関係の書類にあれこれと必要事項を記載するふりをして教壇で、「監督要項」の余白に、「関西電力メールマガジン」用の原稿を書く。

ほんとうはシグマリオンを持ち込んでパシパシ打てばそのまま送稿できて、たいそう効率がよいのだが、他にもたくさん監督者がいるので、そうおおっぴらに内職もできない。

途中45分お昼ご飯休憩があっただけで、あとはノンストップノーブレークで六時まで。

へろへろになった後にもう一つ会議が七時半まで。

ふらふらになって西宮北口でベルギーから一時帰国しているカナ姫とご会食。

姫は明朝ベルギーへ帰るので、福山から関空への移動の途中、西宮北口での夕食を約束していたのである。

姫と会うのは一昨年の夏、岡山の赤澤(旧姓尾川)さんのガラス工房以来である。

北口の駅で黒いコートに身を包み、大きなトランクを抱えた長身の姫はいつもの笑顔で「あーら、センセー、お久しぶりです」

「姫、ご機嫌うるわしう」

なぜか私はカナ姫の前に出ると「三太夫」化してしまうのである。

並木屋にご案内して久闊を叙す。

寒いせいもあってか、お客は比較的少なく、おかげでネタも豊富で、美味しい寿司を食べられた。(この日は珍しくご主人が握ってくれたのである。山本浩二画伯によると、並木屋は「給料日前の雨の降る平日の午後7時ごろ」に行くと、たいそう美味しいお寿司が食べられるのだそうである)

熱燗を二人でくいくい呷りながら、姫と同期の諸君のその後や、来し方行く末についていろいろ話す。

たまたま同期の二人、武田さんとK井さんが私のホームページ上で「トリノ日記」と「リエージュ日記」を連載しているので、私のホームページを見れば、二人の食生活について実に詳細に知ることができる。

その彼女たちも今年で三十路。月日の経つのは速いものである。

今年の九月にフランス語研修のおともでブザンソンにゆくので、一度リエージュをお訪ねすることを約して駅頭にてお別れする。


1月15日

朝刊をひろげると朝日新聞の「e−メール時評」に自分の原稿が出ている。

読んでみると、ことばが一つ送った原稿と入れ替わっている。

昨日の夕方京都にいるときに携帯に電話が入って、資料的な裏付けがとれない箇所が一つあるので、そこに「・・・と記憶している」ということばを入れてよいかという問い合わせがあった。

間違っていても、それは署名者である私の責任であって、朝日新聞社には関係ないでしょうと申し上げたが、「そうはいかないのです」ということで、OKした。

しかし、新聞を拡げてみたら、訂正申し入れのあった箇所は原文のままで、他の箇所が一語入れ替えてあった。

オリジナルはこんな文章である。

 

メディアは歴史上はじめての「大学淘汰」の始まりを大きく伝えている。

どの銀行が潰れるかというのは預金者にとっては切実な問題だけれど、どの大学が潰れるかというのは、ほとんどの読者にとっては「他人ごと」である。

しかし、「市場が大学を淘汰する時代が来た」と囃したてるのはちょっと待って欲しい。

「市場」とは大学にとって何のことなのか?

大学にはとりあえず二種類の「市場」がある。

受験生と就職先である。

受験生が集まらなければ大学は潰れる。これは確かだ。

でも、企業が求めるスキルや知識を提供できない大学は潰れろというのは、いささか気が早すぎるのではないか。

少し前に財界と文部省は「英語とコンピュータが使える即戦力」を大学に要求した。(そして教養課程というものがなくなった)。

それが最近は「論理的思考力」や「哲学」を大学に要求し始めた。

たしか先頃までは「そんなものは要らない」と言っておられたのではなかっただろうか。

大学の社会的機能の一つはその時代の支配的な価値観とずれていることだと私は思う。「遅れている」でも「進みすぎている」でも、とにかくその「ずれ」のうちに社会を活性化し、豊かにする可能性はひそんでいると私は思う。

「市場にすぐ反応して、注文通りの人材を提供する大学」なんか、私が受験生なら御免こうむりたいけれど。

 

というような、私がいつも主張しているような種類のことである。

朝日新聞からの訂正要求は「少し前に財界と文部省は『英語とコンピュータが使える即戦力』を大学に要求した。(そして教養課程というものがなくなった)」に「かに記憶している」を付け加えたいというものであった。

しかし、そこは訂正されておらず、代わりに「哲学」が「創造力」に書き換えられていた。

「財界や文部省が大学教育に創造力は要らないと主張していた」というのは事実に反する。

だって、「創造力」こそは財界や文部省が大好きな無意味無害なことばだからだ。

この箇所を読んだ読者の多くは違和感を覚えただろう。「そうかな・・・」と感じたはずである。

まあ、私はそれほど厳密なことばづかいをする人間ではないから、「哲学」が「創造力」でも、私の言いたいことはどなたにもだいたいは伝わるはずである。(現に、たいへん同感しました、というメールが何通か届いた)

しかし、署名原稿の文言を本人の許諾なしに訂正するということは結果オーライではなく、原理的な問題である。

ちょっとむっとして、朝日の担当者にメールを送った。

 

本日掲載のeーメール時評中、原稿に「哲学」とあった部分が「創造力」に書き換えられておりました。

哲学と創造力は別の意味のことばであり、前後の文脈からして「創造力」では、多くの読者は「そんなはずはないだろう」というひっかかりを感じただろうと思います。

昨日の電話では、前段の「英語とコンピュータが使える即戦力」についての問い合わせで、そのようなことを明言した文書資料はあるのか、ということでしたので、出先からでしたから「分からない」とお答えして、その箇所に「かに記憶している」ということばを付け加えることに同意しました。

しかし、それ以外の箇所の変更については何もお話しを聞いておりません。

別にどうでもいいようなコラムですし、「哲学」が「創造力」であっても、「たいして意味は変わらないだろう」という判断をされたのだろうと思いますが、原理的な問題として、署名原稿において、著者の許諾なしに、書いていることばを消して、書いていないことばを書き入れる権利は新聞社には属さないと私は考えております。

著者の許諾なしに文言を入れ替えたことについて、どういう判断に基づいて、またどういう権利に基づいてそういうことをされたのか、納得の行く説明をお願い致します。

内田 樹

 

そのあと担当者からお詫びのメールと電話があった。

ウチダは怒りが持続しない人間なので、「も、いっすよ」で一件落着した。

でも改行とか送り仮名とか句読点の訂正ならともかく、署名原稿の文言を著者の同意なしに「差し替える」というのは、どんな場合でもルール違反だろうと思う。

私がバカなことを書いて「バカだ、こいつは」と思われるのは私の責任である。私はその責めを粛々と受ける。

バカなことを書く人間に紙面を提供したのはメディアの責任である。メディアはその責めを粛々と受ける他ない。

バカなことを書いた著者に「こんなこと書くとバカだと思われますよ」と耳打ちするのは、メディアの側の好意である。好意には私は甘える主義である。

しかし「こんなことを書くとバカだと思われるから、直しておいてやろう」というのはメディアの仕事ではない。

それは好意ではなく、検閲である。

私はこの一年ほどいくつかのメディアに寄稿したが、原稿の書き換えを要求されたのも、無断で文言を書き換えられたのも、日本を代表する民主的なメディアである朝日新聞だけである。

これは別に怒って書いているわけではない。

そういう事実があるということをみなさまにご報告しているだけである。

 

神戸女学院の中高部の礼拝でお話することになった。

大学の教員が中高部の礼拝に呼ばれるというのはわりと珍しいことである。

高校の生徒たちから「大学のウチダ先生の話を聞きたい」というリクエストがあったそうである。

朝早い(8時半から)というのが難儀であるが、中高生にお話をするというのは、私にとってはたいへんうれしい機会である。

「よその大学受けないで、うちに来てね」という大学パブリシティ仕事もあるし、「合気道部は中高の人にも公開しているから、来てね」という私的な宣伝もあるが、日本の未来を担う若い人たちに言いたいことはやまのようにある。

しかし、時間は10分。

「ラジオ深夜便」で二日前に甲野先生のした「身体を割る」話と、光岡先生に教えてもらった「站椿功」の話をまぜこぜにして、「大人になるというのは、身体を割るということである」という思いつき話をする。

あまりにへんてこな話なので、中高生600人は茫然自失していたようであった。

まあ、たまには茫然自失するのもよい経験だよ。

礼拝のあと、中高部長の春名先生としばし歓談。そこに高校生がどかどかと乱入してきって、武道と宗教の関係について問い質される。

人間の身体はミクロコスモスであり、そこに響く音に心耳を傾けるというのは、造物主の声に耳を傾けるということと同義であると語って納得していただく。

日頃、多田先生から「宇宙」や「いのち」と武道の関係については、しっかり学んでいるので、こういうときにも自信をもって「それはね」と語ることができるのはまことに師を持っていることのありがたさである。

それにしても、こういう本質的な問いをストレートに聞きに来る子たちが始業前のわずかな時間に臆せず中高部長室のドアをノックしてやってくるという気合いの良さは私の深く愛するところである。

春名先生もじつに闊達にして磊落な教育者でありました。(私を紹介するときに「オヤジ学の専門家」と言われたのはちょっとびっくりしたけれど)

 

午後は京都造形芸術大学の「創造する伝統」というシンポジウム形式の授業の講師に招かれて、雪の京都へ。

呼んでくれたのは小林昌廣先生。

小林先生が司会で、パネリストは芸大の芳賀徹学長(30年前に駒場でフランス語を習ってCをつけられた)と天野一夫助教授。

そしてゲストがダンスセラピーの岩下徹さんと私である。

岩下さんは前からぜひ一度お会いしてお話しをしたかった方である。

その昔、湖南病院で岩下さんが精神病の患者さんたちをお相手にしてダンスセラピーをやっているという話をその病院の方たちから伺ったことがある。(湖南病院の木田先生は私が鬱病で苦しんでいたときの主治医である。もともとは村上直之先生のご紹介で駆け込んだのであるが、「不眠日記」の小川さんはじめ木田先生のお世話になった学生教員は少なくない)

そのときにひとりの看護婦さんから「合気道セラピーというのはできませんか?」と訊ねられて、「ああ、そういうのってできそうだな」と思った。

いつか湖南病院に来て岩下さんのワークショップを見て下さいと誘われて、一度行きたいなと思いながら、そのまま月日が経ってしまった。

二年前にゼミの森章恵さんが岩下さんのセラピーをテーマに卒論を書いたので、どういうものであるかについてはそれなりに頭では理解していたし、かなぴょんもよく岩下さんのワークショップに参加していたので、おそらく合気道とは「なじみ」のよい身体技法なのだろうということは分かっていた。

それが今回、まぢかに拝見して、おまけにお話できるのである。

わくわく。

岩下さんは予想通りの方であった。

澄んだ青みがかった目をしていて、涼しい笑顔で、優しい声の、宗教的といっていいような透明性を感じさせる方である。

芸大の誇る春秋座の舞台で、まずその岩下さんの即興のダンスを拝見し、それからトークが始まった。

岩下さんの発するオーラとその動きの素晴らしさに私もすっかり高揚して、ダンスと武道の身体観と技法のつながりについて熱く語ってしまった。

12日は甲野先生と、そして15日は岩下さん。三日あいだを置いて「その道」の達人たちとお話をする機会を得たことになる。

身体の可能性を探求して、そこから汲み上げてきた知見を語る人のことばというのは、どうしてこんなに重く、厚みがあり、温かいのだろう。

小林先生は来年度からうちで「現代表象論」という講義を持つことになっている。

その講義に岩下さんを招いて、ダンスを見てから、そのお話を伺うという企画をさっそく小林さんと立てる。

女学院のみなさん、お楽しみに。

思えば、状況劇場の『続・ジョン・シルバー』を見たのは私が高校二年生のときであった。

そのとき私の前の席に長髪を輪ゴムで止めたドテラ姿のおっさんがいた。

公演が終わったあと、唐十郎が走り寄ってきて「土方先生、いかがでした?」とまるで成績表をまつ小学生のような、期待と不安の表情でそのおっさんをみつめたので、「おお、これが噂に高いヒジカタタツミか」と思って、顔をのぞきこんだついでに唐十郎のズボンにコーラをこぼしてしまった。(唐さん、ごめんね)

あれから36年。

岩下さんはその土方巽の暗黒舞踏の流れの中で着々と新しい可能性を切り開いている人なのである。

新宿ピットインから始まった暗黒舞踏とのご縁が36年後に雪の京都でひとつの環につながったような気がした。


1月14日

忙しい一日。メールを読んで、返事を書いて、卒論と修論を読んでいるうちに半日が終わる。

『女性学』の最後の講義で、西宮のアクタに駆けつける。石川先生、谷先生、風呂本先生との合同講義である。

最後なのでラウンドテーブル方式で学生諸君と意見交換をしようと思ったのだが、私と風呂本先生のあいだで議論が始まってしまった。

風呂本先生は正統派の穏健なるフェミニストであり、たいへん立派な方なのであるが、惜しむらくはジュディス・フェッタリーの『抵抗する読者』理論の支持者であり、その点において、「フェッタリーはバカだ」と断定して憚らないウチダとは不倶戴天関係になる。

ただし今回のバトルのテーマは文学論ではなく、「女性の社会訓練の是非」というわりとリアルなものである。

石川、風呂本両先生はこの点ではだいたい意見が一致されていたのであるが、女性の就職差別、賃金格差、管理職登用の少なさ、女性政治家、企業家の少なさなどの原因を女性の社会的訓練の不足、女性の社会進出を支援しない行政の不備、労働者に年間3000時間もの非人間的労働を強いる日本企業の後進性と、社会保障の不備のうちなどに見る。

私はあまりそういうふうな考え方をしない。

私は統計的なことより、ひとりひとりの生き方ということを機軸にして社会の問題を考えるからである。

たとえば、非人間的な労働時間に耐えるのは、そうしなければ暮らせないからだという説明に私はあまり説得されない。

年間3000時間ということは、コンビニの店員をして時給800円もらっているとしても年収240万円ということである。

これは一人の人間が都会で「最低限の文化的生活」を送るには十分足りる金額である。

しかし、ほとんどの労働者はそれ以上を稼いでいる。なにしろ、日本の一世帯あたりの平均年収は761万円なのである。

これは「働き過ぎ」というより「稼ぎ過ぎ」ではないのかと私は思う。

そんなに要らないから、仕事減らそう、というふうにどうして考えないのだろう。

「そんなのなくても生きていけるもの」を買うために、多くの人は骨身を削り、ときには命を縮めている。

過労死する人も、「心の病」に罹患する人もどんどんふえている。

それについて行政の責任を問うとき、同時に、「なんで、そんなに稼がないといけないの?」と当の労働者自身に問うてみる必要はないだろうか。

「家のローンを払わないといけないし・・・」というのなら、「なんで家なんか買ったの?」と問う必要はないだろうか。「子どもを私立の大学にやってるし・・・」というなら、「なんで大学なんかにやるの?」と問う必要はないだろうか。

自分で「これだけ稼がないと生きていけない」ような生活水準を自主的に設定しておいて、その上で「過労だ」と嘆いてる労働者に対して私はあまり同情的ではない。

過労にならない程度に生活水準を下げるという切り替えがどうしてできないのだろう。

稼ぎたければたくさん働かなければいけない。たくさん働くのがいやなら「ビンボー」を受け容れなければいけない。

単純な算術だ。(ただし日本における「ビンボー」人は、国際規格では「めちゃリッチ」のカテゴリーに入ることを忘れてはいけない)

別に私は日本の社会保障制度に問題がないと言っているのではない。企業の労働者への配慮が足りていると言っているのでもない。

社会保障制度に不備があり、ある種の企業が労働者を死ぬまでこきつかうような体質を備えていることはとりあえず私たちには事実として知られている。

それを「生き延びる」ことがまず先決ではないかと申し上げているのである。

「過労死」した人間がいる以上、制度の改革を要求してゆくのは正しい。

しかし、それ以前に、「ひとを過労死させかねないシステムの中で過労死しないですむ方法」を自分の問題として考えることが必要ではないだろうか。

いま存在する「ろくでもない制度」の下で「とにかく生き延びる」ことの方が問題としての切迫度は高いのではないだろうか。

その上で、女性の社会進出や社会訓練を支援しようという発想にどうしてもなじめないのである。

おっしゃるとおり、労働者を過労死させ、使い捨てでリストラするのが現代の企業社会であるとしたら、どうしてそのような場所に積極的に若い女性たちを送り込もうとするのか。

就職への参入者がふえればふえるだけ、求職倍率は上がり、失業率が上がり、賃金は下がり、雇用条件は悪くなる。

どう考えても、それによって雇用関係が今より好転することは期待できない。

しかし、これはあえてつけた「いちゃもん」であって、実際にはこれは統計的な空論にすぎない。

というのは、労働者を過労死させるようなのはごく一部の企業に過ぎないからだ。

経験的に言えば、成功しているビジネスほど社員に対する拘束は少なく、社員ひとりひとりの心身の健康を気遣っている。

それが生産性をあげるための当然の配慮だからだ。

別にきわだってヒューマニストである必要はない。「算盤勘定」ができる経営者は社員をたいせつにするものである。

労働者を過労死させるような企業の経営者はコストパフォーマンスの計算の立たないバカである。

そして、バカが経営する会社は資本主義社会では成功しない。

だから、社会進出を求める若い女性にほんとうに必要なのは、人を過労死させるような企業に入社したあとになってから、企業経営者や行政の責任を問うロジックを学ぶことより、むしろ「バカが経営している組織」と「スマートなひとが経営している組織」をそれ以前に見きわめる能力を身につけることだと私は思っている。

経験的に言って、「バカな会社」と「スマートな会社」はまったく別種の組織であり、そこですごす時間はまったく別種の人生となる。

資本金だの売り上げだの初任給だの福利厚生だの通勤時間だの「御社の将来性」だのを基準に就職先を選んだあげくに、「スカ」を就職先に選んでしまったとしたら、悪いけれどその責任はあげてご本人にある。

就職活動をする学生にとって、「バカな会社」と「スマートな会社」の差をみきわめるということは、サバンナに住むトムソンガゼルが「ライオン」と「シマウマ」の差をみきわめること以上に命がけの判断なのである。

というようなことはなぜかどのメディアもアナウンスしないのである。まあ、広告出稿している企業のかなりが「バカ企業」であるから当然かも知れないけど。


1月13日

爆睡から覚めて、ぼわっとしながら東京駅へ。

ゆうべの酔いが残っているので、東京駅で月見そばを啜る。

二日酔いの朝は、なぜかしらないけれど、「駅そば」がうまい。

あの「雑に作りました」という手抜きぶりが、当方の身体の「雑な状態になってます」という軽い壊れ方となじみがよいのかも知れない。

新幹線に乗って、そのまま爆睡。

午後二時に大阪着。電話を入れるとるんちゃんは無事に風邪が治って、級友たちといっしょに芦屋市の成人式に出ることができたらしい。

「じゃ、また遊びに来てね」

「うん、じゃーね」

とお別れする。

家にもどると山のようにメールがたまっている。

大学関係の緊急な用件をまず片づけて、それから卒論と修論を十本くらい読んで返事を書く。

ついでに「喪中ハガキ」を出し忘れて年賀状をいただいた方に「寒中お見舞い」のご返事を書く。

気がつくと夜の九時半。

毎日30通ほどメールが届くので、一日読まないと50通を越す。「メールに返事を書く」だけで半日終わる日もある。

インターネットというのもたしかに便利だけど、便利すぎるという点もあるね。

いろいろな方から「放送聴きました」というメールが届く。

『ラジオ深夜便』は聴取者200万人だそうである。

200万人が70分間の放送で甲野先生の武術理論を理解していただこうとしたわけである。

これは大変だ。

最後のほうでは、「こういうふうに手がぱっぱっぱっとと動きますよね」「ほうほう」とか「さっき先生がやったあの動きですけれど、あのときここにこう手を置きましたよね・・・」というようなラジオでの禁じ手を乱発してしまった。

聴取者のみなさんは「こういうふうに」とか「ここ」とは何のことなんだよ!とさぞや困ったことであろう。

申し訳ない。

しかし、繰り返し申し上げるが、ラジオというのは実によいメディアである。

テレビのスタジオの「よそいき」の感じに比べて、じつにカジュアルで気楽である。

「だいたい11時50分ごろに話をいったん切りますから」というので「頃って?」とお訊ねしたら、「そのへん、ラジオはアバウトですから」という村田アナのご返事であった。

いいね、こういうの。


1月12日

土曜は芦屋の稽古始めと鏡開き。

稽古のあと、我が家に集合して、シャンペンで乾杯ののち、ぜんざいを食し、雪中梅を御神酒に頂き、めでたく新年の稽古始めを言祝ぐ。

暮れの納会に来られなかった国分シェフと鵜野先生も今回は参加。

本会も急速な多様化を遂げている。

神戸女学院合気道会は学生だけの会として出発したが、すぐにOG、教職員が参加するようになり、やがて会員の友だちとか、地域社会のみなさんへと会員がふえていった。

会員の多様化にともなって、合気道会のあり方も術技そのものもずいぶん質的に変化を遂げた。

というわけで鏡開きの宴会はいつもの学生院生教員に加えて、ソムリエ、シェフ、内科医、など多彩な職業の人が集って、たいへん多様な話題が展開したのであった。

夜になってるんちゃんが帰宅。

芦屋市の成人式に出るための一時帰郷なのであるが、インフルエンザに罹患して、熱を出してダウンしてしまった。さいわいお医者さんの佐藤さんがその場にいてくれたので、診断してもらう。一晩でおさまるだろうというお見立て。

しばらくるんちゃんのそばにつきそって氷枕などをあてがう。娘の看病をするのはひさしぶりのことである。

なんだか昔みたいだ。

11時ころにみなさんお帰りになる。

橘さんは土曜日の夜なのにジャックを臨時休業してしまったことになる。

ハンター坂をのぼってジャックまで行って「げ、休みだ」とびっくりされたお客さんにはたいへん申し訳ないことをした。

 

12日は東京で仕事。

病気のるんちゃんをひとり御影の家に置いて、新幹線の人となる。

なんだかるんちゃんの風邪がうつったようで、ちょっと微熱が出てくる。

ぼおっと眠ったまま東京駅へ。

とりあえず渋谷の東武ホテルに投宿して、6時半から、ホテルのティールームで、高校生のためのメールマガジンの取材をうける。

自立とか自己決定とか大人になるとかロールモデルとか、そういう話である。

いろいろなところで同じような質問を受ける。ということは、そういう話に対する社会的需要があるということなのだろう。だが、どうして私がそういう質問を受けるのか、その理由がよく分からない。

私はぜんぜんスタンドアローンな人間ではなく、きちんとお給料を頂いている宮仕えの身である。

現代ではレアな「師匠持ち」であり、弟子という依存的ポジションにいることをたいへん快適だと思っている人間である。

ものを決めるときは自己決定などせず、まず「お師匠さまであったら、こんなときどう判断するだろう」ということを想像してみる。

ひとびとがもめているときにも快刀乱麻を断つような決断を下すことなど思いもよらず、いろいろなお方の主張に耳を傾け、「ま、キムジョンイルさんにも、お立場というものがあるわな」的に無原則な調整をすることを得意芸としている組織内人間である。

こんな人間に「何を聞くねん」と思うのであるが、明日もFM東京から同じような「成人式特集」番組のための取材がある。

不思議である。

インタビューの最後に、若者たちにひとこと、というリクエストがあったので、多田先生の請け売りで、「胆力をつける」ということを申し上げる。

「胆力」というのは簡単に言えば「びっくりしない」ということである。

生物は「びっくりする」とその身体能力が急激に低下する。感覚も判断力も想像力もすべて鈍磨する。

弱い動物の場合は、びっくりしただけで死んでしまうことがある。

だから「驚かない」ということは生物の生存戦略上たいへんたいせつなことなのである。

では、どうやったら「驚かない」ようになるのか。

これが矛盾しているように聞こえるであろうが、「驚く」ことによってなのである。

「知性とは驚く能力のことである」というのはロラン・バルトの名言である。

「驚かない」というのは要するに知性が鈍感だということである。

自分の手持ちのフレームワークにしがみつき、どんな新奇なことに遭遇しても、既知に還元して説明しようとする人間は、その狭隘なたこつぼから一生出ることがない。

その反対に、日常的に経験するあたりまえの事象のうちに「ん? なんか、変じゃない?」というふうにひっかかりを感知し、あらゆることのうちに驚きのタネを見つけることができる知性の方ができはずっと上等だ。

「驚かない」人間はどんどん鈍感になり、「既知」のうちに安んじる。

「驚く」人間は自分の周囲にたえず「未知」を発見してわくわくする。

さて、命にかかわるような大事件が起きたときに、適切に対処できるのはどちらだろう。

もちろん「驚く」ことに慣れている人間である。

この人にとって「驚く」ことは主体的な営みである。自ら選んだ世界へのかかわり方である。

驚きに対して、能動的なのである。

だから、「驚く人は、驚かされない」。

ひごろ驚かない人は、その鈍重で堅固なフレームワークが「壊れる」まで、変化に気づかない。そして、何の準備もないまま、いきなり想像を絶した命がけの事件に直面することになるのである。

だから、「驚かない人は、驚かされる」のである。

胆力をつけるために私たちは武道の稽古をしている。

武道の稽古というのは命がけの局面というものを想定して、そういうときに心身はどういうふうに反応するかをシミュレートするものである。

つまり、極限的な「驚き」の状況に繰り返し繰り返し体をなじませてゆくことなのである。

驚く経験を主体的に探求することによって、驚かされない心身を作り上げること。

それが多田先生のおっしゃっている「胆力をつける」ということの意味だと私は勝手に解釈している。

胆力がある人間というのは、ぼけっとした鈍感な人間のことではない。

世界の唐突な崩壊、自分の生命の不意の終わりを、当然の可能性としてつねに勘定に入れている、想像力に富んだ人間のことなのである。

というようなことを話す。

高校生にはちょっとむずかしい注文だったかもしれない。

 

インタビューが終わって部屋で一休みしてから徒歩5分のNHKへ出勤。

ラジオセンターのスタジオはたいへんカジュアルで居心地のよい空間である。

早めについたのでぼやっと待っていると、甲野先生が松聲館の中島章夫さん、岩淵輝さん、そしてドクター名越とともに下駄音もたからかに登場。大阪の名越先生までスタジオに遊びに来るとは思ってもいなかったので、びっくり。

晶文社の安藤さんと足立さんも登場。足立さんは田中聡さんの新刊『不安定だから強い・武術家甲野善紀の世界』が刷り上がったので、それを甲野先生にお届けに来たのである。安藤さんは甲野先生と私の対談をふくらませて晶文社から本を出すという企画があるので、そのお仕事がらみである。

ギャラリーが5人もいて、みんなモニターで聴いているし、ガラス越しに笑っている様子が見えるので、すっかりこちらもリラックスして、いつもと同じ調子で甲野先生のお話に相づちをうつ。

ほんとうは「ほうほう」とか「ふむふむ」と言っていればよいのであるが、ラジオ深夜便は聴取者200万人ということであるので、あまり芸がないと今後の書籍売り上げにも関係するので、ときどき「私が思うには・・・」というようなコメントを挟んでみる。甲野先生お話の腰を折ってごめんなさい。

70分ほどの放送が終わって、プロデューサーの角井さんとみんなで渋谷の終夜営業のバリ島風居酒屋になだれ込んで打ち上げ。

一仕事終えてみんなちょっとテンションが上がり、「ここだけの話・・・」というマクラでとても再録できないような話が飛び交い、おおいに盛り上がる。

甲野先生のおかげでいろいろと愉快な経験ができる。まことにありがたい限りである。

騒ぎまっくっているうちに気がつけば午前4時。

甲野先生を見送って徒歩1分のホテルに換えって爆睡。


1月9日

昨日は下川先生のお稽古の「謡始め」。

『正尊』の「姉和」と『船弁慶』の独吟のところをがしがしと謡う。

社中のベテランたちは『翁』で謡始めである。

いいなあ。

私もはやく爺になって『翁』の「とうとうたらり、たらりら。たらりあがりららりとう」という意味不明の詞章をわけありげに謡えるような身分になりたい。(うちの会では還暦を超えないと『翁』は謡わせていただけない決まりなのである)

 

今日はは合気道の稽古始め。

三週間もさぼっていたので、身体はがしがしに固い。

しかし、そこはそれ、これだけ劫を経ると、恐ろしいことに何も稽古していなくても、ちゃんと前回より術技が向上しているのである。

これはほんとうに不思議である。

稽古しなくても、ただ生きているだけで術技が向上するということが武道の場合はあるのである。

若い人と比べるとまことに不公平なことではあるが、老人はただ生きているだけで、どんなこともどんどんうまくなっちゃうのである。

「あ、これは『あのこと』か」という「あのこと」のストックが老人は多い。これは当然である。

しかるに、この「あ、あれね」というのはちょうど「神経衰弱」の後半の戦いである時点を超えると、裏返しの札が全部分かってしまうのと同じように、「あ、あれはこれね。で、これはあれなのね」というふうにどんどん読めてしまうということが起きるのである。(『天才バカボン』の「たりらりらーん」と『神歌』の「とうとうたらり」の間にはアナグラムがあるということが分かってしまう、ということなどはその好個の適例である)

老人になってよいことの一つは、身体のあちこちがぼろぼろに痛んできても、「もう年だかんね」で全部済まされてしまうことである。

若いときに膝が痛いだの腰が痛いだの歯茎から血が出るだの血圧が高いだの毛が抜けるだの物忘れが激しいだのということがあると、これはすべて本人の責任である。

しかるに、爺になると、これらすべての失調は「年のせい」ということで、個人責任はまるっと免罪されてしまうのである。

あらゆる不都合をすべて「だって、年なんだもん」で済ませてしまえるというのは、本人の精神衛生上すこぶるよろしい。とにかく「自責の念」というものが(もともと私にはないが)発生する余地というものがないのである。

思えば、私はつねに「そういう奴」であった。

若いときは「若いんだから、好きなことやらせてくれよ」と言い募って、いさめる人々を黙らせ、今は「あとはもう死ぬだけなんだから、好きなことやらせてくれよ」と言い張って、いさめる人々を黙らせているのである。

結局、「好きなこと」以外のことは一度もやらずにまんまと往生できそうである。

もちろんこういう美味しい人生を送るにはそれなりの戦術というものがある。

けっこういい年になっても「まだ若いんだから」と嘘をつき、けっこう若いうちから「げほげほ、年寄りに何をなさるじゃ」と嘘をつくというふうに、つねに年齢詐称をする人間だけがこの特権を享受できるのである。

むずかしいのは、この「若者モード」から「爺モード」への切り替えをどのあたりにセットするかという見極めである。

私の経験で言うと、やはり42歳の「厄年」を以て「青年」から「爺」への転轍点とする、というのがなかなかよろしいようである。

42歳まで「若者ぶる」のはけっこうしんどいし、42歳で「爺のふりをする」のもけっこう演技力が要る。しかし、そこは踏ん張っていただきたいものである。

なにしろ日本社会ではほんらい「男盛り」と言われる「壮年」期が「中年のおっさん」と蔑まれる、すごくつまらない社会的ポジションを割り当てられているのである。

しかるに、わが国の男性諸君はうっかりすると30歳くらいから70歳くらいまで延々とこの「中年のおっさん」期というものを過ごさねばならぬ。

これは実に哀しい生き方と言わねばならぬ。

私はこのまるで面白くない「中年のおっさん」期というものを「まるっとパスする」という身勝手なことを考えたのであるが、これはやってみると分かるが、なかなかけっこうなものである。

爺というのは「還暦」ということばに示されるように、「幼児化しても許される」というような余禄もある。

「わしはのう」と説教かました舌の根も乾かぬうちに「ぼくちん、わかんない」というような退行ぶりを示しても、誰にも咎められないのである。

あるときは人生の辛酸を舐め尽くした枯淡の人を演じ、次の瞬間には「わーん、猫たんがいないと、やだー」とボケをかますというようなことだって爺だけには許されるのである。

考えてみたら、私が人生においてやりたかったことは「偉そうにする」ということと「でれでれする」ということの二点だけなのであった。

爺というのは、この二つを同時的に遂行できるたいへんにカンファタブルなポジションなのである。

若いみなさんには、ぜひ「爺」になるタイミングを間違えないようにということを申し上げておきたい。

婆はどうか、というお尋ねがあるが、「女はいつから婆になるか」というような種類の問題についてうかつな発言をすることは私のただでさえ狭い世間をさらに狭くするばかりなので、これに関してはコメントを控えるのである。


1月8日

終日原稿書き。角川書店の『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(仮題)を書き上げる。

もともとは「語りおろし」という不思議な形式で出すはずの本だったのである。

角川のオッファーはわりと遅めだったので、すでにバックオーダーが10冊くらいたまっていた。とても二三年うちに本は出せない。

しかし、私は本人も認める「賞味期限の短い物書き」であるので、先方としても、あまり悠長に待っているわけにもゆかない。

そこで編集のY本さんが思いついたのが、「口述筆記本」。

え? しゃべるだけでいいの? なら、いいすよ。一日で済むし。

と気楽に構えてがんがん8時間しゃべったものをテープ起こししてもらったのを聞いてみたのだが・・・これが、繰り返しは多いし、話はくどいし、言ってることはデタラメだし・・・とてもそのままお店に出せるような代物ではない。

しかたがないので、頭からこりこり書き直していたら、いつのまに全編書き下ろしになってしまった。

全編書き下ろしといっても、内容はどうせ同じ口先から出るものだから、「いつもと同じ話」である。

「なんだよ、またあれかよ」と読者諸氏はお思いになられるであろうが、そういうものである。

これについては、本文に言い訳が書いてあるので、それをそのまま採録しておこう。(予告編ね)

 

 現にいま書いているこの本だって、ぼくがホームページの「どこか」でもうすでに書いていることと内容的には重複しているわけです。ほとんど、どこかで聞いたような話の蒸し返しなわけです(同じ人間が書くことですから、そうそう違うわけがありませんよね)。だから、今読んでいる人の中には「あ、これ読んだ、これ前に聞いたことがある」ということがそこここにあると思います。でも、「だから買わない」ということにはならない(現に、今、買って読んでるし)。

 ある著者の「愛読者」というのは、その人の「新しい話」を読みたくて本を買うわけじゃない。むしろ「同じ話」を読みたくて本を買うんだと思います。

 志ん生の落語を聴きに来る人は、「前に聴いたのと同じの」を聴きに来るわけです。「まくら」が同じだと言って喜び、「オチ」が同じだと言って喜ぶ。そういうものですよね。現に、志ん生が「ま、ここはあたしに任しておいて下さい」というと会場はわっと湧きます。こういうのは林家三平の「身体だけは大事にして下さい」とか、植木等の「お呼びでない?」といっしょで、同じことば「だから」いい、というものなんですよ、ほんとに(たとえが古いですけど)。

 桑田佳祐君の音楽なんかだって、ファンは毎度「違う音楽」を聴きたいんじゃないと思いますよ。『勝手にシンドバッド』と同じ曲想の音楽を何度も何度も聴きたいんですよ。

 音楽というのはそういう麻薬みたいなもので、同一のものが微妙な差異を含みつつ反復することのうちに快楽があるわけです。それこそがポピュラー音楽の王道なわけです。

 「新しい音楽性を求めてグループ解散」とか「同じものばかり求めるファンにはもうつきあっていられない」とかいう「クリエイティヴな」ミュージシャンいますけれど、そういう人って、たいていそのあと人気なくなりますよね。

 同じものの反復服用が快感なんだ、ということがこういう「クリエイティヴ」な人には分かってないんじゃないかな。

 これは内田百間先生に教えて頂いたですが、同じものを食べ続けていると「味が決まる」ということがあります。

 百間先生は、ある時期、昼食に蕎麦を食されることを習慣とされていた。同じ蕎麦屋から毎日同じもり蕎麦を取る。別にうまい品ではない。でも、毎日食べていると「味が決まってくる」。食物を待望する胃袋と嚥下される食物の質量が過不足なくジャストフィットすると、たかがもり蕎麦がいかなる天下の珍味も及ばぬ、極上の滋味と感じられる。たまたま出先で時分どきを迎えたりすると、もういつもの蕎麦が食べたくて我慢できない。先方が気を利かしたつもりで「鰻丼」など取ると、これを固辞されたそうです。

 快楽はある種の反復性のうちに存する。これを洞見と言わずして、何と言いましょう。

 「同じものばかり求めるファンは怠慢だ」という人がいますけれど、それは筋違いです。ファンほど快楽の追求に貪欲な存在はありませんから。それこそが「正しいファン」のあり方なんです。

 ぼくがひそかに「心の師」と仰ぐ大瀧詠一さんが、山下達郎君に向かって、彼が比較的同じタイプの楽曲を繰り返し制作するのを評して、「山下君は偉い! それはね、同じものを求めてやまないファンに対する、君の大いなる愛情だよ」と何年か前の『新春放談』で言ってましたけれど、この批評は適切だと思いますね。

 桑田君とか山下君とかって、やっぱり愛情がある人なんですよね。ファンに迎合しているということじゃなくて、愛情がある。だからこそ、彼らの音楽は二十年にわたって支持されてきたんだと思いますよ。

 志ん生師匠や百間先生や山下達郎君と比較するのは僭越ですけど、こういう本を作るときの要諦というのも、やはり「だいたい同じで、ちょっとだけ違う」ということだと思います。トピックは違っても、切り口はいつもと同じ、というものを読者は求めていると思います。少なくとも、ぼくが本を読むときはそうですね。

 ぼくは村上春樹と橋本治と矢作俊彦と村上龍と高橋源一郎のものは新刊が出ると本屋に走って行って買いますけれど、みんなほんとうに律儀に「いつもと同じ」ことを書いているんですよね。だから大好きです。

 村上春樹が60年代ポップスの悪口を書き出したり、矢作俊彦が横浜に飽きたり、高橋源一郎が健康のためにジムに通いはじめたりしたら、がっかりしちゃって、もう読む気なくなりますよ(いや、読むかな、やっぱり)。

 

というような感じのテクストである。「ですます」と「ぼく」というのが、「口述筆記本」のテイストをかろうじて残しているし、次々と観念奔逸的に連想が横ずれしてゆくというのも、ウチダのふだんの語り口のままだが、内容はほとんど全部書き直してしまったのである。

こういう文章を夜中にウイスキーを啜りながらこりこり書いていたのである。

この角川本は4月に出るらしい。


1月7日

いよいよ仕事が始まったけれど、二週間授業して、定期試験で、あとは春休みである。やっほー。

夏休み冬休みは世間でもお休みの方が多くいるが、春休みというのは「子ども」と「先生」だけの特権である。

世間さまが仕事をしているときに(とくに氷雨の降る朝など)温かいふとんにくるまってふにゃーっと朝寝ができるというのは人間として至福のことである。

そういうときは心の底から「ああ、大学の教師になれてよかった・・・」と思うのである。

だって、そうでしょう。

多くの人が金や名誉や地位を求めるのは、つきつめれば「いつか誰にも文句をいわれずふにゃーっと朝寝ができる身分になりたい」からである。

私には金も名誉も爵位も領地もないが、すでにして「好き放題朝寝ができる身分」である。これをして「王侯貴族の暮らし」と言わずになんと言いましょう。

もちろん、朝寝などしようと思えば、誰にだってできる。

「誰にも文句を言われず」という条件をクリアーするのがなかなかたいへんなのである。

私には世話をすべき妻も子も犬も猫もハムスターもいない。水やりをする観葉植物も牛乳を足すヨーグルトもない。遊びに誘う悪友も、デートに誘ってくれる悪女もいない。胃を痛めている編集者は何人かいるが、それは私の胃ではない。ときどき弟子たちが「せんせー、あそぼー」と誘いに来るが、こちらが大口あけて朝寝している時間にはむこうも大口あけて朝寝しているから朝寝の邪魔には来るはずもないのである。

もちろん、このような非生産的な社会的身分がこのご時世に許されるはずはない。

いずれ人文系大学教師というようなものは非人情な市場によって淘汰され、この世からかき消えるであろう。そのとき、私のこの日記は「21世紀初頭の人文系大学教員の生態−絶滅へのカウントダウン」などと題されて末永く人々に語り継がれてゆくのであろう。

さて、午前11時20分までたっぷり朝寝もしたし、ぼちぼち仕事でもすっか。


1月4日

今日は鈴木晶先生とおじさん二人のバレエ鑑賞。

だしものはレニングラード国立バレエ団の『白鳥の湖』。

有楽町の都庁跡地に出来た国際フォーラムというバブルの悪夢がそのまま表現主義的オブジェと化したような不気味な建物にはじめて入る。

鈴木先生のはなしでは大赤字だそうである。さもありなん。

新宿の新都庁も相当に不気味だが、これも負けずに気持ちが悪い。

どんな人間がこんな家に住む気になるだろう。私は頼まれてもいやである。人間が住みたくないような建物を造ってどうするのか。

年末に『くるみ割り人形』、年始に『白鳥』を見るというのが鈴木先生の冬休みのすごしかただそうである。

ウチダの『翁』同様、こういう「・・・じゃないと、ワシの正月は始まらん」的こだわりはものごとの節目節目をぴきっと決めるたいへんたいせつな心がけなのである。若い人は心しておくようにね。

その先生の雅趣のお裾分けで、ありがたく1階22列43番という舞台正面の「招待者席」に鎮座する。

日本を代表するバレエ評論家の解説を聴きながら、世界的プリマの白鳥を拝見するわけである。大瀧詠一の解説を聴きながらキャロル・キングを聴くようなものである。(たとえが古いが)

これをして贅沢をいわずに何を贅沢と言いましょう。

『白鳥』を拝見するのは二度目。前回はキーロフ。

キーロフもよかったけれど、イリーナ・ペリンのオデット姫もすばらしかった。

ぼおっとしながら鈴木先生のご案内で新橋の「とらふぐ亭」へ。

てっさ、唐揚げ、焼きフグをばりばり食べつつ、ひれ酒をぐいぐい頂く。

ああ、またデブになっちゃうと反省しながら、お箸が止まらない。

鈴木先生と杯を重ねるにつけ、ともに悲憤慷慨、怒髪衝天、慨世の言のとどまるところを知らない。

1970年あたりを境にして日本がどっと悪くなった、という点について二人の意見は一致する。

その理由については、前にも少し書いたが、1970年代というのは日本社会の中枢から明治生まれのひとびとが退場しはじめた頃であることが大きく影響していると私は考えている。

明治45年(1912)生まれの私の父は敗戦の年33歳。まだ白面の青年である。

だから戦後の復興を担った「おじさん」たちというのは、父よりさらに年長の明治20年代、30年代生まれの世代だということになる。

『坊ちゃん』や『三四郎』や『虞美人草』の宗近君たちが物語のとおり明治40年ごろに二十歳そこそこだとすると、敗戦の年にはまだ50歳代である。

漱石が大正はじめに49歳で死んだせいで、私たちはつい漱石の描いた青年たちもまた戦前にとうに往生していると思い込んでいるが、実はこの「明治の青年たち」こそが戦後の1940−50年代の日本復興の牽引役だったのである。

だいいち漱石だって、長生きしていれば敗戦の年には76歳。いまの瀬戸内寂聴や佐藤愛子より若いのである。

戦後民主主義という思想と政体は、明治20-30年代のひとびと、「坊っちゃん」と三四郎の世代が敗戦の焦土の上に、ほとんどゼロから立ち上げたものなのである。

私は戦後民主主義の中で育った第一世代である。私は子ども時代の日本のたたずまいが好きだったけれど、最近になってその理由が少しだけ分かってきた。

少なくとも理由の一つは、私の子どものころの「おじさんたち」が「坊っちゃん」の世代的エートスを濃厚に背負った明治の男だったことである。

 

お正月に小津安二郎の『秋刀魚の味』をTV版リメイクというのをやっていた。

シナリオは時代設定を変えた以外はオリジナル通り。しかし、まるで面白くない。

それも当たり前である。

役者たちの顔が違うのである。

宇津井健、米倉斉加年、井川比佐志が笠智衆、中村伸郎、北竜二の「悪いおじさん」に扮するのであるが、現代の俳優には、あの「むかしシティボーイの不良旧制高校生」特有のとんがった批評性とソフィスティケーションがごっそり欠落しているのである。

菅原通斉の役を演じることのできる俳優がキャスティングできなかったというのが象徴的だ。

いま50-60代の俳優の誰にあの役ができるだろう。

ああいう種類の分厚い伝統文化と諧謔と都会性が絶妙にミックスされたキャラクターはもう私たちの時代の俳優の中には探してもいない。

奇妙な話だが、いまの俳優の方が40年前の俳優たちよりずっと「田舎臭く」「古くさく」「知的でない」のだ。

そして致命的なのは、「艦長」の代わりに「支店長」で、『軍艦マーチ』の代わりに『万博音頭』というシナリオの改変である。

このシナリオを書いたライターも企画を通したプロデューサーも小津に対して恥を感じないのだろうか。

笠智衆が低くつぶやく「守るも攻むるもくろがねの」の代わりに「こんにちは、こんにちは世界の国から」だよ。

三波春夫を歌いながら来し方を回顧して涙ぐむサラリーマンなんて、この世にいるのだろうか。(三橋美智也の『達者でな』を歌いながら涙する、というのならまだ分かるけど)

1962年から40年経って、日本はそのころよりずっと「田舎くさく、貧乏くさく、古くさく、頭の悪い」国になったということがこのTVを見て身にしみた。

ああ、情けない。


1月3日

元旦は恒例の篠山の春日神社の「翁」で明ける。

観能ののち地元の芦屋神社に戻り、破魔矢を納めて、初詣。

家に戻ると午前四時。そのまま爆睡。

10時に起きて、ぱたぱたと身支度をして新幹線に乗って新横浜へ。

実家で母、兄と三人だけの静かな正月をする。

父のいない正月というのは生まれてはじめてのことである。

三人でひとしきり内田家と日本の来し方行く末について語り合う。

兄上のご商売はますますご繁昌のようで、めでたい限りである。

二日は上野毛のエックス義母のもとへお年賀に伺う。

離婚した妻の母のもとにお年賀に伺うというのを訝しむ向きもあるが、仮にも私にとっては13年間にわたって「母」と呼んで親しんだ方である。離婚ごとき私事によっておいそれと無音にすることのできぬ義理というものがある。

そのエックス義母のところでるんちゃんといっしょにお昼ご飯をご馳走になる。

るんちゃんはついに「就職」をしたというので、いろいろおたずねしてみる。高円寺のライブハウスのブッキングマネージャーというなかなか愉しそうなお仕事である。食って行くにはまだまだ前途遼遠であるが、貴重な社会経験である。ぜひがんばって頂きたい。

今後るんちゃん企画のイベントがあればこのホームページでもアナウンスするので、中央線沿線にお住まいの読者のみなさんはどうかごひいきに。

4時に自由が丘で平川克美、石川茂樹両君の「旧アーバン同僚」と久闊を叙す。

平川君のリナックス・カフェ、ビジネス・カフェ・ジャパン、石川君のD2E2の繁昌ぶりについてご報告をきく。私はそれらの会社の株主であるばかりか、どれかの会社の役員でもあるはずなので、ときどき「どないいだ、もうかってまっか」というようなことを聞くのである。

さすがにこの壮絶な不況の中なので、株式店頭公開で創業者利益をがぼっと手にして・・・という夢は遠のいてしまったようである。そのお金で芦屋あたりに土地を買って、能舞台付きの100畳ほどの合気道の道場を建てようと計画していたのであるが、皮算用はなかなか思い通りにはゆかないものである。

そこに兄上も加わってひとしきりビジネス話に花が咲く。

業界五位になったという兄上のビジネスがどうもいちばん好調のようである。私はこの兄上の創業時のただひとりのバイト社員であり、株主でもあるので、あの小商いがいつのまにか社員百人、年商数十億と聞くとうたた感慨を禁じ得ないのである。

私自身はまったくビジネスセンスのない人間であるが、なぜか兄と親友が実に卓越したアントレプレナーであるので、門前の小僧的にその話を聞いているだけで、いろいろとお勉強をさせていただけるのがありがたいことである。

それにつけても思うのは、大学は既存のビジネスモデルにはなじまない、ということである。

これについてはいずれ教授会で自己評価委員長として演説をぶたないといけないので、いろいろと研究をしているところなのであるが、営利企業と同じモデルではやれないということだけは今回のお話を聞いてはっきりした。

大学はあまりにファクターが多すぎるのである。

例えばクライアントが二種類いる。

一つは「受験生」(およびその扶養者)であり、一つは卒業生を受け容れる「社会」(主に採用企業)である。

この両者が大学に期待しているものはまったく違う。

ありていにいえば受験生が大学に求めているものは、社会的需要よりも10年くらいのタイムラグをもって「遅れている」のである。

受験生がその人生を一生保障してくれるはずのスキルを会得して大学を出るときにすでにそのようなスキルに対する社会的需要はなくなっている、ということが現に起きているのである。

受験生とその親たちは、十年後にどのような知的能力が必要になるか、ということではなく、五年前にはどのような知的能力が高く売れたかを基準に大学を選んでいる。

こういうマーケットを相手に商売をするというのは、ほんとうに気疲れする。

 

三日は多田先生のお宅でに恒例の新年会。

以前は隔年で原宿の南国酒家で開催していたのであるが、奥様がなくなられたあとしばらく新年のお祝いを自粛していた。そのうち学生たちが先生のお宅に伺っているという話を伝え聞いて、「じゃあ、私も」とばらばらと先生のお宅を訪れる門人が増えて、今年は気錬会と自由が丘道場と女学院が三日に集まった。文字通り立錐の余地もない盛況ぶりで、気錬会の諸君などは重なり合うように坐っていた。

ひさしぶりに亀井先輩、笹本先輩にお目にかかって、ご挨拶。

かなぴょんは着物で内古閑くんと一緒。

主将の木野くんは拙著のご愛読者で、お持ち寄りの本にありがたくネコマンガを描かせていただく。

これまた着物姿のゆりさん@横浜からは開口一番「センセー、私、サンキュウとりました」というご挨拶を頂いたので、「予定日はいつなの?」というお約束のボケで応じる。

人混みに紛れ込んでワインをのみ、多田先生のアルバムを拝見し、先生の作られる「天狗舞」入りのお雑煮をいただき、談論風発。さんざん大騒ぎして退散する。