Les aventures d'un penseur sans fond: depuis janvier 2003
7月31日
文部科学省への申請書類をかかえて市ヶ谷の私学会館へ。受付で項目を点検して「はい、これで結構です」と言われてぺこりと頭を下げる。
やれやれ、これで2月26日から始まったプロジェクトがとりあえず終わった。肩の荷がおりた。夕刻学士会館に投宿。シャワーを浴びてから、寸暇を惜しんでシグマリオンをぱこぱこ打ってレヴィナス『困難な自由』の翻訳を続ける。
夜は新潮社の編集の方々と打ち合わせ。学士会館のレストランで接待して頂く。冷たいビールをのんで「学士ワイン」を酌み、スズキのポワレやビーフカツレツなどむさぼっているうちにすっかり上機嫌になり、勝手なことをいろいろしゃべる。学士会館のご飯はなかなか美味しい。8時半でオーダーストップなのでディジェスティフが十分には頂けないというのがいささか問題であるが、それを除けば、たいへん結構なお食事であった。
その勢いで、新潮新書に次に書く本は『14歳の子どもを持つ親のために』というタイトルとなることに決める。
一人で書くのは大変なので、ここは思春期の子どもたちの心の病の専門家である名越先生にお出まし願って、二人でケーススタディをする、という趣向はいかがであろうという話になる。もちろん、名越先生にはこれから「出演交渉」である。
再来週あたり、「爆走映画本」の対談でお会いする予定なので、そのときに頼んでみるつもりである。
「物書き廃業宣言」をしたあとも、仕事が少しも減らない。むしろ増えるばかりであるような気がする。(『合気道探求』と『ふらんす』と『学士会報』と『現代詩手帖』にしか書いてないんだけど、あ、けっこう細かいものも書いてるな。執筆時間40秒とか、3分半とかいうのは)
もにのよっては断るのに要する時間より書いてしまう方が短いので、時間の節約になるからである。
昔、我が家で総文の先生方をお招きして宴会をしたことがあった。
その日になって38度を超す熱が出て、ふらふらだったのであるが、あまりに苦しくて、先生方ひとりひとりにお断りの電話をする気力もなくふせっていた。結局そのまま宴会をしてしまったことがある。熱と酒で顔を真っ赤にして笑っている方がまだしも楽だったのである。
同じように、原稿の中には断る暇に書いてしまった方が早いというものもあったりするのである。しかし、そういうものの中に、けっこうあとあとのアイディアの胚珠になるようなものがあったりして、必ずしもの純粋な消耗ともいえないのである。
今日はこれから永田町の全共連ビルで「高等教育活性化シリーズ83・教員評価制度の導入と大学の活力」なるセミナーに出る。
教員評価の導入校はだいたい任期制とセットにしているようである。
本学も契約制・任期制教員を真剣に考慮しておくべき時期がきたように思う。
このまま教員を減員していったばあい、人件費総額は減るが、専任教員のカバーする学術領域は狭隘化するし、専門家同士の学際的な「出会い」の機会も減じるし、教員や学生数が多少減っても大学を運営するための基本的な仕事量には変わりはないから、教員一人当たり労働負担はどんどん過剰になる。要するに研究のための時間がどんどん減るということである。
結果的には、野心的な教員はよりよい研究環境を求めて他大学に逃げ出すだろうし、責任感の強い教員は研究との両立を求めて、過労でバーンアウトしてしまうだろう。
そのような事態をなんとか防がなければならない。
そのためには任期制の導入がおそらく不可避であると私は思っている。今日のセミナーはその勉強にきたのである。
7月30日
研究室のマックのメーラーがクラッシュしてしまった。困ったことである。
このHPは家のウィンドウズマシンで作成した原稿をメールで研究室に送って、そこで処理して作成していたのである。だからメーラーがいかれてしまっては、人々が送ってくるホームページ日記をアップロードすることができない。
今書いているこの原稿は自宅のパワーブックで打っているのであるが、ふだん使い慣れないマシンなので、要領が分からない。
これがうまくアップできれば、ほかの原稿の処理方法も分かるのであるが、PCというのもときどき頓死するのが厄介である。
このところ研究室のPCも自宅のPCも元気に働いてくれていたので、安心していたのであるが、まことに油断ならないものである。
懸案の文部科学省申請書類を午前中かかって書き上げる。メールで学長室に送信して、とりあえず4月以来の宿題が片づく。
なんだか急に元気になって、去年の秋から放置したままのレヴィナスの『困難な自由』の翻訳を始める。スピノザ論の途中まで訳して、そこで頓挫していたのである。半年ぶりにレヴィナス老師のフランス語を読む。ああああ、全然わからん。
でも、よいのである。
なにしろスピノザはユダヤ教のことがある点までは分かっているが、ある微妙な点については理解が及んでいないという論旨の文章なのである。ウチダごときスピノザもユダヤ教もよく分かっていない人間にほいほい訳せるはずもないのである。
ほいほい訳せるようでは困る。
しかし半年ぶりの老師の文章は、まことに滋味あふれるものであった。ここしばらく自分の文章ばかり読まされていたので(校正やら申請書類やらで)、「賢者の文章」を読むのは、まことに眼前の「霧が晴れる」というよりは、「眼前を濃霧が覆う」という感じがするのであるが、それでよいのである。
当然のことであるが、私に分かっている話から私が学ぶものはない。
何を言っているのかさっぱり分からない話からこそ、私たちはなにごとかを学ぶのである。
ついでに『現代詩手帖』の高橋源一郎論も書き上げてしまう。
これはずいぶん時間をかけて書いた。
私はつねづね高橋源一郎は矢作俊彦から強い影響を受けたのではないだろうかと思っているのであるが、管見の及ぶ限りあまりそのことに言及しているひとがない。
「タカハシさん」という批評装置は矢作の『スズキさんの遍歴と休息』にインスパイアされたアイディアではないか、というような話を書く。
折りも折り、矢作俊彦の「若書き」である『DADDY GOOSE』の傑作選が復刻されたのでアマゾンで購入。
30年ぶりに「馬鹿馬鹿しさのまっただなかで犬死にしちゃうための方法序説」を読んで、その過激さに震える。
このとき矢作はまだ二十歳そこそこである。
これだけの絵を描ける漫画家がいまいるだろうか。
どうして矢作俊彦は漫画を描くのをやめてしまったのだろう。誰か知ってたら教えてください。
7月29日
ようやく文部科学省申請書類の最終稿を書き上げる。
やれやれ。結局、7月はこの書類のことで頭がいっぱいで、ほとんど仕事にならなかった。
でも、明日は学会の準備の会議があって、明後日から二日は東京出張。土曜はヤベッチの送別会で、日曜はその余波で二日酔いであろうから、本格的な夏休みが始まるのは、8月4日からである。
レヴィナスの翻訳をして、あいまにレヴィナス論をばりばり書く。ただ、それだけ。
どこにもでかけないし、ダイエット中だから、ご飯も1・5食くらいしか食べない。
日が暮れたら阪神のナイターを見ながらワインを飲んで、石原裕次郎と黒澤明のDVDを見て、マンガを読んで寝る。
ああ、想像するだけで幸福の予感に足が震えてくる。
早く来ないかな、夏休み。
7月27日
ついに三軸修正法の池上六郎先生にお目にかかる。
芦屋のイタリアンレストラン・ベリーニ(私の家から歩いて30秒)で、三宅先生ご一家と池上先生ご一行とのご会食に招待されたのである(なぜかウッキーも「患者代表」として参加)。
池上先生の写真は今月号の『秘伝』で拝見していたが、想像よりずっと大柄で、ずっと陽気な方である。
どういうわけだが、活字で知った人については、誰についても「痩せて、眼鏡をかけて、毒気があって、ちょっと暗鬱な人」というイメージがついてまわる(私に会った人も、まず例外なく「背高い。ガタイでかい。よく笑う」という印象を「意外」とされる)。
池上先生も本に書いてあることは実に痛快にして爽快なのであるが、なぜか鶴の如き痩身で、刺すような眼光の老人を想像していたらまるで違っていた。
ビールで喉を潤すや、たちまち談論風発。極上のワインと美味なるイタリアンを食しつつ、温容に笑みを絶やさず語る池上先生に応じるウチダの舌もたいへんに滑らかとなる。
池上先生は元シーマンである。
シーマンというのは、陸に上がっても、独特のエートスを失わない(『夜霧よ今夜もありがとう』の石原裕次郎みたいに)。
それは「自由で流動的なもの」に対するほとんど無条件の愛である。
27日はまず午前10時から2時間私がお話をさせて頂き、午後1時から4時まで池上先生の講習会。
会場は私の家から徒歩30歩の市民センター。朝一の講演で、すこし寝ぼけ頭であったが、たいへんにフレンドリーな聴衆の方々であったので、気分よく最近思うこと(「響きを伝える身体」)について1時間半ほどしゃべる。
それにしても「ご縁」の不思議さである。
池上先生は今年の2月にこの同じ芦屋の市民センターで講習会を持たれ、そのときに、私の『寝ながら学べる構造主義』を取り上げられ、「ここには三軸自在修正法の原理的な考え方が書いてある」と聴衆のみなさんにお薦め下さった。
ところが、それを聞き伝えた市民センターの方が、「その著者のウチダという人は、この隣にすんでいて、来週、同じ401号室で公民館主催の講演会をすることになっている」と池上先生と三宅先生にお伝えしたのである。
「おお、これは奇しき因縁だ」ということで、そのあと三宅先生から私にご連絡が入り、私は三軸自在研究所の患者となり、宿痾の右膝を完治して頂くという幸運に浴したのである。そして、あれよあれよというまに、その三ヶ月後、私は池上先生の講習会のゲストスピーカーを相勤め、「池上先生とレヴィナス先生と多田先生の教えておられることは、帰するところ一つである」という話をすることになったのである。
驚くべきことに(驚いてばかりだな)、池上先生が身体技法に興味をもつようになったそもそものきっかけは、先生が乗務していた昭和30年代に客船にのって海外渡航する日本人のほとんどが(実業家も芸術家も音楽家も)中村天風先生の門人たちであったことによる。
「どうして、海外雄飛する日本人たちが一様に同じ師匠に師事しているのか?」という謎から池上先生の探究は始まったのである(という話を本日はじめて聞いた)。
その中村天風の私は孫弟子なのであるからして、「帰するところが一つ」であるのは、当たり前といえば当たり前なのである。
本日の私の演題は(あらかじめ池上先生に相談したわけでもなく)「出会いのご縁」、セレンディピティをめぐるものであった。そして、この講演会そのものが「出会いのご縁」とセレンディピティがまさに遂行される場となったのである。
まことにまことに不思議なご縁である。
私はこの三週間、週末ごとに佐藤学先生、光岡英稔先生、池上六郎先生と、「希代の人」と連続遭遇したことになる。
佐藤先生と出会うことになったのは学科長の業務命令によるものである。光岡先生は光岡先生から献本のお礼の電話を頂いて、話が不意に決まったのである。池上先生との出会いについては三宅先生がことごとく差配された。
いずれも、私自身は何もしていないうちに、まわりが「そういうふうになる」ようにとんとんと仕組んでくれたのである。
ご縁というのは、そういうものである。
「ご縁の人」甲野善紀先生と出会って以来、私にも「ご縁磁力」が帯電してしまったらしい。次々と「今、会いたい人」「今、会っておくべき人」との出会いの場に誰かが引っぱっていってくれる。
それにしても、池上先生の三軸修正法には驚かされた。
本を読んで理屈だけは何とか分かっていたのであるが、実際に目の前で見て、自分の身体を実験台にして経験すると、ただ「ええええ・・・」という他ない。
人間は地球上に存在するモノである以上、地球物理学的な作用(重力や磁力、地球の自転公転による影響)を受けているのは当然、というリアルかつシンプルな「実在論」的な技法原理がある。
ところが、その原理を実際に適用するに際して、池上先生はふいに「関係論」の水準に移行するのである。
池上先生の技法の中では、「モノ」の物理学と「ことば」や「意味」や「システム」の記号学が渾然一体となっているのである。
三軸修正法は「アラインメント」(alignment)の修正を基本とする技法である。
アラインメントとは、私たちがふだんよく使う意味では自動車やバイクのタイヤの車輪の回転方向の補正のことである。要するに一直線にものを並べることである。
だから、物理学的な意味では、地球の重力の方向(鉛直方向)に歪みなくすっきりと立つ体軸のことだと考えればよい。
しかし、alignment にはもう一つ重要な意味がある。
それは「対人関係における自己の位置づけ」という意味である。
これはもう地球物理学とは関係ない。
対人関係を共時的な空間の中で考えれば、その意味での「アラインメントの修正」は、「間の取り方」や「出処進退」や「礼法作法」を適切に行うということにある。
もし、alignmentを通時的に理解して、過去から未来へ流れる時間の中での自己の位置づけとみなすなら、それは「霊的に生きる」ということであり、正しい「弔い」や「祈り」のかたちを知ることに通じるだろう。
池上先生と別れてから、そんなことをずっと考えている。
世の中は広い。
野に遺賢有り。メディアに出ないところで、とんでもないスケールの人が静かに、たくさん活動しているのである。
「三軸修正法って、どんなものですか?」というご質問がじゃんじゃんきそうだが、ウチダの管見をもってはもうこれ以上お答えのしようがない。
どうしても経験したいという阪神間の諸君は、岡本の三軸自在研究所で三宅先生の妙技に接せられたい(でも、どこも痛くない人はダメだよ)。
7月24日
文部科学省申請書類が一段落。月曜日にWGでの読み合わせがあって、そこで最終的に文案を練ることになるが、それまでちょっと「寝かせておく」。
不思議なもので、どんな文章でも二三日「寝かせる」と、「腐りやすいところ」「かみ合わせの悪いところ」が浮き上がって見えてくる。そこをちょいちょいと削ると、ずいぶん読みやすくなるものである。形容詞一つ削るだけでも、文章のトーンや肌合いは変わる。
私は基本的に「書きすぎる」人間である。/P>
思ってもいなかったことを書いてしまって、それが「おお、こ、これは」というアイディアに結びつくこともあるし、テクスト全体の論理が破綻してしまうこともある。
だから、「しばらく寝かせて、壊乱的な『書きすぎ』箇所を削る」という作業は私にとってたいせつな工程なのである。
官僚的作文を寝かせているあいだに、紀伊国屋書店から頼まれた「翻訳の新思潮について」の2000字エッセイを書く。
さらさら。
「新訳で読みたい本」というアンケートがあったので、考えてみる。
読みたいのは
1・村上春樹訳のスコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(たぶん、いま日本人読者がいちばん待ち焦がれているのは、これだろう)
2・橋本治訳のジャック・ラカン『エクリ』(意外かもしれないが、今の日本で『エクリ』の「ほんとうの意味」を読み出せるのは橋本先生を措いて他にいない。問題は橋本先生がフランス語がお読みになれるか、ということなのだが・・・)
3・矢作俊彦訳のレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(いまの清水俊二訳『長いお別れ』も名訳だけれど、矢作訳でぜひ読みたい)
4・高橋源一郎訳のモーリス・ブランショ『終わりなき対話』(ブランショの批評装置の真の意味を理解しており、ブランショがこの650頁の大著の中で論じている古今の書物のほとんどを読んでいる批評家は日本にはひとり高橋源ちゃんあるばかりだ)
つづいて、『現代詩手帖』の高橋源一郎論の続きを書く。
さらさら。
3週間ほど前に『文藝春秋』から「日本・黄金の4000日・1964−74年」というアンケート依頼が来た。
その11年間で特に記憶にのこった出来事を200字くらいで書いてくれ、という趣旨のものである。
69年のことを書いて投函した。
すると昨日になって文春の編集長からお手紙が来て、「予想を上回る回答率の高さ」で、「紙幅に限りがある」ため、「すべての回答を掲載することができない」と言ってきた。
おいおい、なんだよ、書かせておいて、ボツかよ。
でも200字書くのに要した時間は40秒くらいだから、まあいいかと納得していたら、別の編集者から電話があり、文言の修正について確認を求めてきた。(引用していた書名が間違っていたらしい。69年の『漫画アクション』に一週だけ掲載されたマンガのタイトルをちゃんと言える人がこの世にはいるのである)
私の回答はなんとか「紙幅の限り」の中に滑り込めたようである(8月9日発売の『文藝春秋』9月号だそうです)
白水社の『ふらんす』が届く。私が巻頭エッセイを書いている。業界誌だから、同業者たちが今頃読んでいるはずである。きっとみんな怒っているだろう(私の書いたものを読んでいる人の顔を想像すると、たいてい怒っている顔なのである。なんでか知らないけど)。
資生堂の「ワードフライデー」というカルチャーセンターから出講依頼が来る。
はじめて聞くCCであるが、パンフレットを拝見すると、かなり「トンガッタ」講師陣である。(谷川俊太郎、嶽本野ばら、橋本治、山形浩生、山下洋輔、高橋源一郎、赤瀬川原平、みうらじゅん、ユーミン、竹宮恵子、加藤典洋、北方謙三、関根勤、山田五郎、嵐山光三郎、甲野善紀、及川光博・・・)
コーディネイターにひとり50年代生まれで『ガロ』系の人がいる、ということがはっきり分かるセレクションである。
11月頃の話なので、「その頃まで生きていたら、出ます」とご返事する。
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2・サリンジャー戦記』が届く。
一昨日出てすぐ買おうと思っていたのだが、本屋にゆく時間がなくて、じたばたしていたら、柴田先生から献本して頂いた。らっきい。シバタ先生ありがとうございます。
さっそく読む。
ぐいぐいと引き込まれる。うーーむ、すごいね。
文学についての村上春樹の実作者としての確信の深さと、批評家に対する不信と軽侮の深さをともに感じる。
できあいの図式にあわせて、あるいは自分の個人的好悪に合わせて小説を読む批評家は、文学においてほんとうに重要なことを組織的に読み落とすだろう、と村上春樹は書いている。
日本の批評家はきちんと村上春樹のこの「挑発」に反論してみなければならないのではないか。
「文学批評とは馬糞のようなものである」とまで言っている作家に向かって「馬糞」みたいな批評を投げつけても、意味ないと私は思うぞ。
『少年カフカ』がなかなか読み終わらないので、寝しなに『海辺のカフカ』を再読する。
先週の「就眠本」は桐野夏生の『グロテスク』であった。
これはまたずいぶん救いのない本である。とりわけ慶応女子高の関係者のみなさんは激怒されていることであろう。
私は女性作家のものをほとんど読まない人間であるが桐野夏生だけは例外的に全部揃えている。
現代日本の女性作家で私の書棚に二冊以上並んでいるのは桐野夏生と田口ランディと中村うさぎだけである。(彼女たちにはいかなる共通点があるのであろうか)
だからといって、私を女性差別的な男権主義者であるとか、そういうふうに括られても困る。だって、隣の「マンガ」の書棚は、端から端まで、ほとんどぜんぶ女性漫画家のものだからである(高野文子と岡崎京子の新作もちゃんと買ったし)。
「何言ってんのよ。ウチダさんは、女性がマンガを書くことは許すけれど、文学を書くことは許してないだけじゃない。マンガは『女子供の読むもの』で、文学は『男子のもの』というかたちで表現ジャンルを無意識にジェンダー化しているからそういうことになるのよ」
なるほど。そういわれるとそうかも知れない。
でもさ、「ジャンル」(genre)って「ジェンダー」(gender)のフランス語表記でしょ。
だったら、「ジャンルがジェンダー化している」のって同語反復でしょ。
みんなで適当にジャンルをジェンダー化して、好きなところに棲み分けすれば、いいんじゃない。
現に日本の男性漫画家のメインストリームは手塚治虫以来、はっきり「女性ジェンダー化」しているし(大友克洋や鳥山明は手塚直系だから、きわだって「女性的」)。
でも、これは話が長くなりそうなので、また今度ね。
7月22日
『weekly Yomiuri』のインタビュー記事がファックスで送られてくるので、チェックを入れる。2時間近くしゃべった内容をきちんと要約してある。
インタビュアーのT橋さんという人は大学の2コ先輩で、ついつい70年頃の駒場の思い出を話し込んでしまった。
話しているうちに、そのころ私が出口を求めてさまよっていた政治思想と身体性についての難問(当時は「当為と実存」というようなタームで語っていたかもしれない)の輪郭が分かってきた。
東大闘争末期に「内ゲバ」という凄惨な出来事が多発したころ、それを否定する「政治思想」はもう誰も語れない状況だった。(このHPの読者の中にはお若い方もおられるやもしれぬので、ちょっと用語解説をすると「内ゲバ」というのは「新左翼政治党派間の抗争」のことである。「ゲバ」は「ゲバルト=暴力」(Gewalt)。そういえば、こういう旧制高校的な学生政治ドイツ語も70年代を最後に消えた。「ゾレン」とか「ザハリヒカイト」とか「ケルン」とか。今も残っている学生ドイツ語ってもう「バイト」くらいしかないね)
閑話休題。
どうして内ゲバを超克する政治思想がありえなかったかというと、「内ゲバを支持する政治思想」を否定する「政治思想」は「内ゲバを実行する政治党派」を「革命的に解体殲滅する」という結論にしか至らないからだ。
「贋の革命的」暴力を否定する「真の革命的」暴力。
「正義」と「闘争」というタームで政治を論じる限り、誰もこの無限ループから逃れることができない。
だから、二十歳のときに私は「正義と闘争」の語法でものごとを考えるのを止めた。
かわりに私が生き方の基準点に選んだのは身体である。
「自分の拳にかけられる重さの思想以上を語らない」(@吉本隆明)というのがそのころの私が採用していたプリンシプルであった。
「正しいけれど、自分には担えそうもない政治課題については語らない」。
政治思想の正否は「脳」が判断する。「自分に担えるかどうか」は「身体」が判断する。
自分の身体が「これはしてもだいじょうぶ」と承認した行動はする。「やめときな」と警告を発する行動はしない。
頭で考えてもうまく判断できない局面では、身体が「こっち」という方を選択する。
私においては、このプリンシプルはそれなりにうまく機能した。
私はそこで「倫理性を最終的に担保するのは身体性である」というわりと簡単な結論に飛びついた。
しかし、話はそれほど簡単にはゆかない。
世の中には身体がまったく倫理的に機能していない人々もいるからだ(テロルを呼号する諸君がそうだ)。
彼らは平然と身体を傷つける。他人の身体的苦痛に想像力が働かない人間は、自分の身体的な痛みにも鈍感だ。
痛みを知っている人間なら、そのリアルな痛覚が思想の暴走を阻止するということも起こり得るだろう。けれども、自分の骨が折れても痛みを感じない人間においては、他人の痛みに震撼されるということは起こらない。
そういう人々において身体はもう身体として機能していない。
彼らにとって身体は「思想を実現するための道具」、脳の従属機関にすぎなくなってしまっている。
いかにして「思想の支配に拮抗しうる身体」を「思想に隷属する身体」から分離・結晶化することができるか、という心身問題が、このときはじめて私の中でかたちをとることになった。
そんなことを70年代のはじめ頃には考えていたのだった、そういえば。
古典的転向は「マルクスから天皇へ」だけれど、私における「転向」は「マルクスから武道へ」「脳から身体へ」というかたちで旋回したのである。
逆に考えている人が多いが、脳の本性は「暴走すること」である。身体の本性は「均衡を保つこと」である。
身体は決して暴走しない。
ときどき「刹那的な身体的快楽を追求」というような表現を見掛けることがあるが、これは言葉の使い方が間違っている。
身体は決して刹那的快楽など追い求めないからだ。
刹那的快楽を追い求めるの脳である。
酒や煙草や麻薬は「ドラッグ」である。
「ドラッグ」というのは「向精神剤」のことであって「向身体剤」のことではない。
セックスの快楽もその95%は脳に由来する。
もしセックスの快楽が身体的なものであるなら、「ポルノグラフィ」や「ヌード写真」に対する需要は存在しないはずである。
美食の快楽だってセックスほどではないが、幻想的なものだ。
美味が純粋に身体的な経験なら、『美味礼讃』が書かれるはずがない。食事が生物としての栄養摂取のためだけの営為なら過食も拒食もあるはずがない。
「身体的快楽」といわれるものは、そのほとんどすべてが「特定の身体的経験に過剰な意味賦与をする脳の活動」の効果に他ならない。
ほんとうの意味で「身体的な」快楽とは、逆に「心の作用」と思われているものである。
たとえば、「ことば」とか「まなざし」とか「指先」に込められた「やさしさ」や「きづかい」は身体にダイレクトに「入る」。
そこには私の個体としての生存と安全に「プラス」になるものがはっきりとかたちをとって存在するからだ。
「やさしさ」や「きづかい」は「栄養分」や「酸素」と同じように人間が生きて行くために「身体が必要とするもの」である。脳はそんなものを必要としない。
脳は「自分」にしか興味がない。脳が他者を求めるとしても、それは支配し、服属させ、享受し、消費するためだけである。
人間が人間的であるためには、「脳の理性によって身体の獣性を統制する」必要がある、という言い方が因習的にはなされてきた。
私はこの言い方に納得がゆかない。
むしろ、人間が人間的であるために必要なのは、「脳の暴走を身体的規範によって統御すること」ではないのか。
勘違いしないでほしいが、私は「脳の暴走」を非難しているのではない。
現に私の脳は今激しく「暴走」して、このエクリチュールを駆動している。
身体や他者のあり方を「意味」として把持できるのは脳だけである。
脳の過激すぎる活動は人間存在にとっていかがなものか、というような遡及的な自己言及ができるのは脳だけである。
しかし、脳はあまりに過激である。
脳は基本的趨向性として、自己保存より自己損傷に向かう。安定より壊乱を好む。
だから、「何か」が脳を統御しなければ、私たちは生きてゆけない。
身体はそのための抑制的機能である。
「身体が脳を統御する」
そういうふうにものごとの考え方を変えると、ずいぶん風景は変わって見えるのではないか。
などということを考えながら、ワインを呑む。
このワインを欲しているのは、私の身体か、それとも脳か・・・
どっちかというと身体みたいだな。
つうころは、これは「ドラッグ」じゃなくて、「栄養分」なわけね。
7月21日
終日文部科学省提出書類書き。
大変に困難な作文である。
書くべき内容はもうだいたい決まっているのであるが、それを申請書類にどう配列したらよいのか、よく分からない。
だって、申請書類の書き方の指示って、こんなふうなのだ。
「『(1)取組の内容について1(概要)』の欄には、申請する取組の内容について、全体像を把握できるように、その概要を記述してください。
『(2)取組の内容について2』の欄には、申請する取組を企図した理由、この取組の目的や特色、実施状況、今後の計画、将来の展望などを具体的に記述してください。
『(3)組織的対応について』の欄には、申請する取組について、その実施に至るまでの決定プロセス、大学または短期大学の理念・目的との連関性、実施体制、学内の支援体制(経費面も含む)などを具体的に記述してください」
すごい。
ちょっとお聞きしたいのであるが、「取組を企図した理由」と「取組の目的」はどこが違うのであろうか。
「実施状況」と「実施体制」はどこが違うのであろうか。
そもそも「取組を企図した理由、取組の目的・特色、実施状況、今後の計画、将来の展望」は(2)の欄に書かなければいけないのだとしたら、どうやってそれ抜きで(1)の欄に「取組の概要」を書けばよろしいのであろうか。
誰が教えて。
いかに官僚的作文の名手ウチダにしても、これでは途方に暮れる。
途方に暮れても職務上、この欄を埋めねばならぬ。
昨日からかれこれ15時間ほど、この不毛な作文作業に心血を注いでいる。
それでもまだ書き上がらない。
もちろん、原稿料が頂けるわけではない。
給与が割り増しされるわけでもない。
心優しいボランティアである。
しかるに、私が脂汗を流して書き上げたこの申請が「トップ100校」の選定に洩れた場合、教授会のみなさまの白眼視が静かにウチダに向けられることは避けがたいのである。
まことに割に合わない話である。
明日もまたこの作文で一日が暮れる。
とほほ。
もう、酒のんで、寝ちゃお。
7月20日
光岡先生の講習会が終わって「肩の荷がおりて」、軽い虚脱状態。
まだ今週は三軸自在の池上先生とのジョイント講演会もあるし、来週は東京に出張して、文部科学省への書類提出と、セミナー出席。6日には東京の朝日カルチャーセンターでの講演もある。
それらの用事が片づくたびに、ちょっとずつ「肩の荷がおりて」8月7日には、すべての任務が終了した非常に軽快な状態に復しているはずである。
そしていよいよ「レヴィナス三昧」の日々が始まる。
老師、お待たせしました! 不肖の弟子、あと二週間したら先生のもとに参ります。
前夜、RE-SETで二時までわいわいやったあと、家に戻ってからまた工藤君、ドクター佐藤とシャンペンなどを喫してしまったので、昼近くになってようやく目が覚める。
ドクターはもう帰られたあとで、工藤君が端然と居間にすわって、私の起きるのを待ってくれていた。
二人でずるずると素麺を食し(呑んだ翌日の素麺は美味しいね)、コーヒーをのみながらゆるゆると四方山話。
同門の兄弟弟子と語らうのは、世俗的利害を超越した、なんとも「おっとり」した時間である。
東京に帰る久遠君を芦屋駅まで見送ってから、家に帰ると、また眠くなってきたので、お昼寝。
夕方のそのそ起き出して、「しかたがない、仕事するか」とぶつぶつ言いながら、文部科学省申請書類を書き始める。
書き始めると止まらなくなり、深更に及ぶ。
ウチダは根がマジメなので、「一日ごろごろする」ということがどうしてもできないのである。
身体に悪いんだよね、この性格。
7月19日
光岡英稔先生による韓氏意拳講習会。
岡山から内家武学研究会の光岡先生がお弟子の野上明宏さんと共に、守伸二郎さんのご案内で、ついに岡田山に登場された。(そのあとを追って、巨大なキッキングマットを抱えて白石さんが自転車で登場)
本ホームページでの告知だけであったが、遠方からお越しになった方もあって、講習会参加者は50名ほどになった。
本学合気道会の他に、東大気錬会から工藤君(東京からごくろうさま)、ピーちゃん。京大合気道部OBの赤星君、神戸大学合気道部OBの中川さんご一行、凛塾の曽我君といった常連にまじって、心身道の辻田師範、三軸自在の三宅安道先生ご一行(福原秀夫さんは黒田鉄山先生の振武館のご門人)、そしてWBC世界フライ級第二位の本田秀伸さんも三宅先生とご一緒に見えられた。
光岡先生の凄さを一人でも多くの武道関係者に実見してもらうというイベントの趣旨はとりあえず達成されたようである。
まずは意拳の基本動作である形体八種類と站椿の基本二種類(全部で八種類あるのだけれど、今日はここまで)
そのあと、そうやって練り上げた光岡先生の功がどれほどのものかを参加者たちに実体験してもらう。
先年の大阪の講習会で私は先生の勁を一度経験したのだが、光岡先生はそのあと広州の珠海で意拳創始者王郷斎(ほんとうは「くさかんむりに郷」なのだが、私のワープロでは出ない)の四大金剛力士の一人韓星橋とそのご子息の韓競辰から直接韓氏意拳を学ばれて、技が一変してしまった(そうである)。
たしかに一層凄くなっている。
厚さ20センチのキッキングマットでプロテクトしても、ほとんどスイングバックのない掌底での打ちだけで人々が吹っ飛んでゆく。
押されているのでも、打たれているのでもなく、目の奧に火花が散るような電気的な衝撃が走るのである。
あとで光岡先生にお聞きしたら、合気道経験者はみんなわりと「勁の逃がし方」が上手だとほめて頂いた。「きれいに」飛ぶと、結果的に衝撃が身体に残らないのである。それでも、浸透性の高い勁や上下方向の勁だと「抜けない」ので、内臓へのダメージが大きい。
王郷斎は晩年まで試合を拒まなかったので、手合わせした経験のある武道家や格闘家は多いが、みな手が触れただけで「電撃」を食らって壁に叩きつけられたり、気を失ったりしたそうである(掌だけでなく、肘や肩からも発勁したと伝えられている)。
すごい世界である。
しかし光岡先生の勁を実際に受けると、そういう伝承が真実であることが実感されるのである。
そのあともカリ、シラット、グラウンドワーク・テクニックなど光岡先生の多彩な武技をご披露頂き、5時間にわたる講習会を終えた。
講習会後に30名ほどで懇親会へ。光岡先生を囲んで、意拳の話をさらに詳しく伺う。
ほっそりした温顔と優しい声で、ちょっとプロボクサーには見えない本田選手が熱心に質問をしていた姿が印象的であった。(せっかくの機会なので、白石さんにツーショットを撮ってもらう)本田選手は10月に世界タイトル戦が待っているそうである。みなさん、応援しましょうね。
二次会は渡邊さん、小林さん、ドクター佐藤、工藤君、ウッキーと三宮のRE-SETへ。
光岡先生を囲んで美味しいワインでますます盛り上がり、橘さん、国分さんら「街レヴィ武闘派」もまじえて、ふたたび光岡先生の発勁の体験会が始まる(ほかのお客さんはびっくりしていた。当然だけど)。
結局午前二時までわいわい騒いで、明日も朝から稽古のある先生を三宮ターミナルホテルまでお見送りして、ようやく散会(ドクターと工藤君はウチダ家泊まり)。
結局私は光岡先生とトータル15時間べったりとご一緒して、お話を聴き続けたことになる。ほんとうに愉しく充実した一日であった。
光岡先生はひとことで言えば「大洋的」(あえて言えば「ハワイ的」)な方である。
先生の笑顔を拝見し、穏やかな声を聴いていると、太平洋の海風のような爽やかで、暖かなものが吹き寄せ、響いてくる。
つい、にこにこしてしまう。
私が今年の夏、一念発起してこれまで何の興味もなかったハワイに兄ちゃんといっしょにバカンスに出かける決意をしたのは、光岡先生のような大洋的人格を生み出す風土を一度見たくなってしまったからである。
ともあれ、こうして希代の武道家の謦咳に親しく接することができるのも、もとはといえば、甲野善紀先生から始まる「ご縁ネットワーク」のおかげである。
光岡先生、野上さん、守さん、白石さん、そしてお仕事が忙しすぎて残念ながらお顔を出して頂く時間がとれなかった甲野先生も、みなさん、ほんとうにありがとうございました。
ウチダはまことに幸運な武道家であります。
7月18日
片目の二日目。
朝起きると痛みは少し収まってきたが、まだ片目で文字を凝視すると左目が痛む。
痛みに耐えつつメールにいくつか返信をして、大学へ。
今日は十日前にアポイントを取っていた院長との面談日。
松澤院長と一時間にわたってフレンドリーかつ率直な意見交換をする。
用件の第一は「トップ100校」申請作業の中間報告。
今年はダメかも知れないけれど、5年以内に2件は選定させられるでしょうと危ない手形を切る。
そのためには、学内における積極的な教育改革の取り組みを財政的制度的に支援する「リソースの選択的集中」のシステムをまず起動させなければならない。
そのようなシステム構築について院長からも同意を得ることができた。
それからいささか「つっこんだ話」になる。
もちろん「ここだけの話」であるのでこのような場所で公開することはできないのである。
教員評価システム、雇用の複線化、教養教育の再構築、大学院の強化、リソースの重点配分などについて院長のご意見を伺う。大筋では同意を頂けたようである。
学部学科の利害を超えて、純粋に大学の「生存戦略」に焦点化したコアな戦略研究会の立ち上げについても院長は前向きであった。
18歳人口は1992年の205万人から2008年には120万にまで減少する。
そのあと若干横這いのあと、21世紀の半ばには80万人にまで落ちることが予測されている。
単純計算であと半世紀後には、いま存在する大学短大の60%が消えるわけである。
実際にはアメリカの大学に現在すでに4万5千人が流れている。この数字はさらに増大するだろうし、イギリスも日本人学生の確保に積極的であるから、もっと早いペースで本邦の大学淘汰は進行するはずである。
これは近代日本の高等教育がかつて経験したことのない局面である。
あらゆる危機的局面でそうであるように、ここでも、どうやって生き延びるかについての汎通的なガイドラインは存在しない。
何が起こるか分からないときには、自分の頭で考えるしかない。
経験が教えてくれるのは、何が起こるか分からない局面では「フレキシブルで、汎用性の高い知性と身体」だけが生き延びられるということである。
それはイコール「フレキシブルで、汎用性の高い知性と身体」の育成を教育目標に定めた大学だけが生き延びられるということである。
そのためにはクールでリアルな計算が必要だ。
教授会を途中退席して、岡本の西崎眼科で抜糸してもらう。
ようやく両目が開いて、世界の風景が旧に復す。
やれやれ。目が見えるのはありがたい。
夜は前からのお約束で基礎ゼミ前期の諸君との「打ち上げ」で西宮北口に戻る。
思いがけなくも、ゼミ生諸君から「記念品」を頂く(フレッシュマンキャンプの朝にみんなで撮したとんでもない写真を飾った写真立てと「寄せ書き」)。
一年生の前期のゼミで学生から記念品を頂いたのははじめてのことである。ありがとう、みなさん。
この半年のゼミがみんなすごく愉しかったそうである(私もすごく愉しかった)。
今年から始まった基礎ゼミのコンセプトは正解だったらしい。
入学したばかりの学生にはゼミの教員を選ぶだけの判断材料がないから、一年生の前期ゼミは出席番号順ということが長く行われていた。
でも、私は自分自身の「師匠選び」の経験から、限定的な材料しか与えられていないときにこそ、ゼミの指導教員を選ぶためには「自分が求めているものは何か」をセンサーの感度を最大化して決定しなければならないという切迫そのものが、たいへんに教育的な経験となるに違いないと信じていた。
シラバスとオリエンテーションにおける数秒間の挨拶だけから「相性のよい教員」を見定めるというのは、新入生にとってはたしかにシビアな選択である。
でも、それはさきほどの話とも通じるけれど、何が起こるか分からないときには「センサーの感度を高めなければならない」ということを教える絶好の教育機会でもある。
もちろん、私のゼミも第一志望で来た学生ばかりではない。
でも、「直感的にウチダを第一志望に選んだ」何人かの学生がコアグループとなってくれたおかげで、ゼミの雰囲気ははじめからかなり「傾向的」なものであったし、その結果「大学に入ってすぐに、すごく気の合う友だちと出会った」という、なかなか望んでも得られない状況が現出したわけである。
話を伺うと、学生諸君はこれまで基礎ゼミ仲間と何度も合コンやらお泊まり会を重ねていたらしい。
そのあとどどどと二次会に雪崩れ込む学生諸君と駅頭でお別れ。まさか未成年の学生諸君を「センセイの行きつけの三宮のワインバー」に誘うことも許されぬ。二十歳になったら連れてってあげるから、楽しみにしていてなさいね。
7月17日
痛てて。
目が痛い。
痛いのも当然で、宿痾のメバチコを切除したからである。
厳密にはメバチコではなくて、霰粒腫(さんりゅうしゅ)というもので、結膜にある脂腺に雑菌が入って化膿して出来るのである。
どうしてそんなものが出来るのですかと執刀の西崎先生に訊くと、おそらく幼児のころに相当重症の結膜炎に罹患し、そのときに結膜そのものが「荒れて」しまったことに遠因があるのであろうというご説明であった。
先月苦しめられた結膜結石も原因は一緒だそうである。結石が出来るので目がかゆくなる。かゆいので寝ているあいだに目をごしごしこする。すると雑菌が腺から入り込り化膿するのである。
「はやく切る方がいいですよ」と言われる。
三軸自在の三宅先生も先般同じものを切除されたそうであり、「たいしたことないです」と言っておられたので、「じゃあ、ばっさりやってください」ということで一度出直して午後の手術時間に眼科を再訪。
手術室に寝かされ、麻酔してからまぶたを切開して二針縫う。
麻酔が効いて痛くないといっても、さすがにまぶたを切り取られるとけっこう痛い。
手術が終わって蹌踉と家路につく途中で麻酔が切れてきて、けっこうたいへんなことになる。
「うぎゃぎゃ」とおめきながらとりあえず鎮痛剤を服用してベッドに倒れる。
一時間半ほど横になっていると少し痛みが緩和して、「激痛」が「疼痛」くらいになる。
今日は貴重なオフなので、『現代詩手帖』の高橋源一郎論と紀伊国屋書店ご依頼の「翻訳論」を書き上げ、ついでに「トップ100校申請書類」のラフくらいは仕上げようと思っていたが、とてもそんなコンディションではない。
残った片目が視力のほとんどない右目なので、片目では本もよめないし、映画もみられない。(なにしろ、今もパソコンのディスプレーの10センチ前まで顔を寄せて打っているのである)それにこうやって右目を使っていると、左目もいっしょに眼圧が上がるのか、痛みが出てくる。もうヤメよ。
それにしても歯茎が化膿したり、結膜が化膿したり、外界とのインターフェイスがあちこち化膿するのは、要するにウチダ本体の免疫機能が低下しているからである。
疲れているのである。
疲れすぎて(翌日に残してしまった仕事が気がかりで)夜も眠つけないのである。
ウチダは果たして生きて夏休みを迎えることが出来るであろうか。
とりあえずいまから一週間ほどは私に「新規の仕事」を言いつけないでね。
おねがひ。
7月14日
巴里祭(これはルネ・クレールの映画タイトルだな)
巴里祭人よ、あなたがたはわざわいである。
革命記念日。(なんだったっけ?バスティーユ監獄襲撃の日かな)
「かくめい」という言葉がインパクトを失って久しい。
「革命的」という形容詞も、もう誰も使わなくなった。
「革命軍」とか「革命戦線」とかを名乗る組織も、この10年くらいで、ほとんどが原理主義者かウルトラナショナリストの巣窟になってしまった。
困ったものである。
「恋と革命」がプチブル少年の甘い夢想を育んだ時代もちょっと前まであったのだけれどね。
どちらも消えた。
まあ消えたものをいつまでも惜しんでも始まらぬ。
つねに聖地はスラム化し、金科玉条は金○過剰となる(おっといけない。ひさしぶりに小田嶋隆先生の近著『かくかく私価時価』を読んだせいで、あっというまにオダジマ先生の語法に感染してしまった。女子大教師の公式ホームページにあってはならない語句だな)
しかし、オダジマ先生の言語感覚にはまことに驚嘆すべきものがある。
地下鉄丸の内の「後楽園」を「うんこくらえ」に読み替えた少年期においてすでにオダジマ先生の言語感覚は特権的ブレークスルーを経験されたのであるが、近著ではそのドライブ感は技神に入るの境地に達している。
まだお読みになっていない方のためにオダジマ先生の言語感覚の一端をご紹介しよう。
「新しい歴史教科書をつくる会」についてコメントされた2001年9月のコラムから。
「『新しい歴史教科書』という言い方も気に食わない。『新しい』って、歴史を改訂する気か? いいか? 歴史はそもそも過去の事実である以上改訂不能なものだ。仮に歴史を更新しようとする者があるのだとすれば、それは事実を歪曲ないしは捏造しようとする勢力にほかならない。違うか?
『いや、歴史が改訂不能だというのはいくらなんでも硬直的だと思いますよ』
そうか?
『歴史というのは過去の事実である以上に、その過去の事実に対する解釈なわけです』
うん、そうかも知れない。
『とすれば、解釈である限りにおいては、それは百人百様で、結論は出ないわけです』
結論が出ないんじゃ教科書は書けないぞ。
『ですからなるべく断定的な言い方は避けて、両論併記を旨とし、事実についても〈あったらしい〉というふうに含みを持たせた表現を心がけてですね・・・』
・ ・・・で、おまえ、もしかして
『そうです。〈あったらしい教科書を作る会〉の者です』
だからさ、この期に及んでそういうふうに話を紛糾させるような会を・・・
『史観無くして歴史無し。肝心要の歴史観が揺らいでいるようでは歴史的事実を云々する資格もないと言えましょう』
おお、明快なご意見。
『人類の歴史は階級闘争の歴史であったと、ここのところをまずはっきりさせ・・・』
い、いきなり中学生の教科書には・・・
『歴史に子供用も大人用もありません。学問はすべからくプロレタリア独裁の・・・』
・ ・・・も、もしかしてあなたは
『そうです。〈アカらしい教科書をつくる会〉の者ですが、何か?』
『っていうかさ、歴史をどう考えるかも含めて個人の自由なわけでしょ? 憲法が保障している思想信条の自由ってのはそういうことじゃないですか。だとしたら、教科書があること自体ヘンなワケですよ』
・ ・・かもしれないな。
『だからね、歴史の教科書は白紙でオッケー。一人一人の生徒が一から作ることから本当の自分らしさが・・・』
・ ・・・もしかして、君は〈あなたらしい教科書をつくる会〉とか?
『ははは、全部ひっくるめて、〈あほらしい教科書をつくる会〉だよ』」
ダジャレに批評性を載せるというようなことはよく凡人のなしうることではない。現代日本でこの秘術を駆使しうるのは、ひとりオダジマ先生あるばかりである。
18時から「トップ100校WG」の四回目の会議。
今日の会議で、文部科学省に申請する事例を選定しなければならない。
2時間半にわたる議論の末、学長の決断で「大学全体の少人数教育への取り組み」を選ぶことにした。
単にクラス編成が少人数であるというだけでなく、2000人台の小規模校であることの意義、インタラクティヴな授業形式、きめ細かな学習支援体制といった取り組み全体を「21世紀のありうべき市民的リベラルアーツ」という包括的教育目標めざして「一糸乱れず」進行しつつある改革プロセスとして記述するという大業がウチダに課せられた。
いかに官僚的作文の名手とはいえ、これは大仕事である。
官僚的作文とはいえ「嘘を書く」ことは許されない。真実のみを語り、かつ「おお、本学の現実は『こんなふうにも』見えるのか!」と同僚諸君が驚倒するような意外性のある視点からの記述をはたさねばならぬ。
しかし、このコンペのためにWGをもったことはたいへん有意義なことであった。
今後五年間にわたってこのコンペは継続するのであるが、初年度に選定されなくても、次年度以降「人間科学部の実験実習科目の取り組み」「英語教育における徹底した少人数教育の取り組み」「音楽学部におけるアウトリーチの取り組み」「授業評価アンケートのFDへの実効的フィードバック」「教員評価システムの導入とリソースの重点配分方式」といったまだ着手してまもないので、十分な成果を上げていないが、いずれ実効性が確認されるであろう取り組みがいくつか前景化した。そのうちいくつかは五年間のあいだに必ずトップ100に選定されるであろう。
それぞれの取り組みは何人かの教員の発意に基づく自然発生的なものであり、全学的なグランドデザインがあって始まったものではない。
にもかかわらず、一望すると、すべての取り組みはあたかも「学長の見えざる手」によって周到に配列されたかのように整然とプログラムされているのである。
ということは、本学の教職員諸君はけっこう「言わず語らず、気心が知れている」ということなのかも知れない。実は仲良しだったんだね、みんな。
というわけで初年度の申請は率直に申し上げて、選定は容易ならざるものとなることが推察されるのであるが、次年度以降はそこそこの「打率」を残せそうな気がする。長い目でみてやって下さい。
7月12日
佐藤学東大教授を迎えての総文シンポジウム「新しい教養教育をめざして」が開かれる。
このシンポジウムは前学科長の上野輝将先生の提唱で今年三月に始まったもので、21世紀の大学教育はどうあるべきかについての真剣にして意欲的な対話の場である。今回が二回目。
佐藤先生は著書からそのラディカルで透徹した知見に久しく敬意を抱いていたが、今回はじめて拝顔の栄に浴した上、シンポジウムの席で直接お言葉を交わす好機を得ることができた。まことにらっきいなことである。
正午に大学にお迎えしてから、午後五時すぎにJR西宮駅にお送りするまで、まるまる5時間佐藤先生の湧き出るようなお言葉を拝聴することができた。ほとんど五時間しゃべりっぱなしなのに、それでもまだまだ話し足りなそうであった。(駅まで送るわずか数分間の車中でも女子大学と身体性の問題についていきなり本質的な話が始まってしまった。うう、もっと聞きたかった)。
得るところは非常に多かったけれど、もっともうれしかったのは、教養教育の再構築をめざす私たちの努力の方位が間違っていないと確信できたことである。
それを思いつくままに羅列すると。
(1) 教養の根幹をなすのは、知識やスキルではなく、「学び方」を学ぶことである。
(2) 20世紀初頭に日本で失われた全人的な「修養」の伝統が再構築されねばならない。
(3) 修養の本質は「他者と出会う能力」にあり、それは端的に言えば他者の経験に共振する「読書する能力」と「身体感受性」である。学校で学ぶべきことは畢竟この二つに尽きるのである。
(4) 絶対的他者とは死者であり、もっとも絶対的な死者とは「死んだ私」である。(この話は会場ではなく、控え室で伺ったもの。いま書いている『レヴィナスとラカン』の主題はまさしくそのことなので、思わず「そ、そうなんですよ!」と応じてしまった)。
(5) つまり、上の話を敷衍すると(ウチダが勝手に敷衍しちゃいけないんだけど)、「学ぶ」とは「他者に出会う仕方・作法」を習得することであり、「他者」とは「死者」のことであり、絶対的死者とは「死者としての私」なのであるから、「学び」の窮極の水準は「生死のあわいにおける適切なふるまい方についての術」である霊性と身体の修業に収斂することになる。
(6) 他者の生死を気遣うことは「ケア」(聴くことと癒し)として、自らの死を気遣うことは「学び」として、万象の生滅についての気遣いは「祈り」として分節される。
(7) 学びとは「不能と無知の覚知」そのものが快楽として経験されることである。一人の人間がそのつどつねに未完成であり、かつ決して完成に至ることなく死ぬという「永遠の未決性」が学びの開放性と快楽とを担保している。
(8) 教養教育とは「学ぶことのできる人間」を作り上げることである。実定的な知識やスキルをかたまりとして与えることではなく、生きて行く上でそのつど必要な「知識やスキル」を適切に選択し、取り入れてゆくことのできる開放系としての知的基体を作り上げることである。
などなど。
もちろんその他に驚嘆すべき数々の知見に接したのであるが、詳細はこのシンポジウムの結果をまとめた本が出るので、それをお読み頂きたい。
印象的だったのは、佐藤先生の語り方そのものが「教養教育」として機能していた、ということである。
聴衆一人一人にまっすぐ目を向け、向けられる質問に深く頷きながら小声で「そうそうそう」と絶えず承認を与え、佐藤先生を取り巻くすべての人々が「余人を以ては代え難い、かけがえのない対話者」として位置づけられるように配慮されていた。
その人と出会ったことによってこちらの頭の中に無数のアイディアが湧出し、渦巻き始めるような人、そのような人こそ「他者」や「学び」についてただしく語ることのできる人である。
佐藤学先生はまことに希有の人であった。ここからまたある種の「ご縁」が始まってゆくことを祈念したい。
来週はこれまた「希有の人」である光岡英稔先生がおいでになる。
秋には小林先生のコーディネイトで舞踏家の岩下徹さんをお招きする予定である。
甲野善紀先生もチョー多忙生活が一段落したらまたお越し頂きたいし、ドクター名越にもぜひ講演に来て頂いて「精神疾患と呪詛の因果関係」や「生き霊の避け方」などについて有益なお話を伺いたいと思っている。
どこかよそへでかけなくても、岡田山にいれば、時代の最先端の知見と技法に出会うチャンスがあるというのは学びの場にとって、とても大切なことだ。岡田山をそういう「出会いの場」とするためにも、さらに「ご縁」ネットワークを展開してゆきたいものである。
7月11日
『渡り鳥』のホンを書いたのは、「あのハラケン」なのか?という問いかけに早速情報のご提供がありました。
ミヤタさん情報提供ありがとうございました。そのご教示によりますと・・・
「「http://www.8107.net/akira/taidan_hk.html
を見ると、冒頭で「原作者・原健三郎」とあって、なおかつ末尾に> *原健三郎氏の原作とは、正確にはシリーズの原案のこと。
> 出典:別冊 近代映画 大草原の渡り鳥 特集号
と注釈も付いています。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/jinbutsu.html#haraken
にも、
> 小林旭主演の日活映画「渡り鳥シリーズ」の原案者としても有名。とあります。(「脚本家」だと書いてあるページも結構多いんですけど)
ただ個人的には、あのハラケンなら、「代議士やりながらアキラのホン書」いても不思議ではないような気もしますが(笑)。」
いや驚きました。
asahi.com で「原健三郎」を検索したら、「代議士を20期務め、00年に引退した原健三郎元衆院議長の選挙は、『お助け下さい』と本人や妻が土下座して投票を頼むことで有名だった」という情報しかなかった。
ミヤタさん提供のURLを拝見すると、渡り鳥、流れ者シリーズの「原作者・原健三郎、企画・児井英生」が対談していて(1960年)、その中で、ハラケンが、「それなら僕も三十年、書き続けるよ。代議士落ちたら、日活に移るよ。(笑)」と笑っていた。
このときすでに代議士14年目。その36年後に尾崎行雄、三木武夫に次ぐ在職50年を迎えることになるとはご本人も予想だにしなかったであろう。
しかし、むしろ驚きなのは、ハラケン自身が風貌といい、その後の政治スタイルといい、『渡り鳥』シリーズで金子信雄が演じた「地元の自然と民衆の伝統的なライフスタイルを破壊して、アミューズメントセンターやホテルを誘致しようとしている政財官癒着タイプの近代ヤクザ」と酷似していることである。
これはどういうことなのであろう。
金子信雄がハラケンに乗り移ったのか、それとも『渡り鳥』の登場人物として金子信雄をヴァーチャルに殺害することによってハラケンの内面における「金子信雄的なもの」の「禊ぎ」が果たされ、晴れて人格的に全面開花できた、ということなのであろうか。
しかし、「淡路島開発に与えた『渡り鳥』シリーズの説話論的影響」というような学術論文のあることを私は寡聞にして知らない。日本の若手映画研究者諸君はぜひともこういうスケールの大きなテーマに取り組んで欲しいものである。
金子信雄のキャラクターはその後『仁義なき戦い』の山守組長にほぼそのまま継承された。同じく『ギターを持った渡り鳥』で金子信雄の秋津組に草鞋を脱いで裏切られる滝伸次は山守組若頭武田明の苦悩にオーヴァーラップすることになる。
日本映画史もこうやって見るとまことに多領域をクロスオーヴァーしつつディープな世界を構築しているのである。
というわけで今夜は『大草原の渡り鳥』。
7月10日
文部科学省主催の「特色ある大学教育支援プログラム応募要項説明会」に出張で炎天下上本町まで出かける。
説明会は昨日が東京、今日が大阪。二箇所でしかやらないから、名古屋から西のほとんどの大学から二名ずつの教職員が上本町に集まってくる(ここに来ていないのはもう生き残りをあきらめた大学と絶対潰れる心配のない大学だけである)。
文部科学省と大学基準協会の事務官から応募の説明を拝聴する。
そのあと質疑応答。どの大学の関係者も必死である。
トップ100校に選定されたからといって別に補助金が出るわけではない(申請内容にかかわる補助金申請をすると「選定の事実が斟酌される」だけである)。
今日来て分かったけれど、このコンペの目的の一つが来年四月から独法化される国立大学に「差別化とコスト意識」を求めるための「アメとムチ」的イベントだということである。
もちろん私学も選定されるとされないでは志願者の増減にいきなりかかわるから死活的に重用なコンペであることに違いはない。
とはいえ、「教育実践上のきわだって個性的な取り組み」一件だけ(大学の場合は学部レベル以上での規模の取り組み)しかアプライできない以上、過去数年以前から「生き残り戦略」に全学的な合意の上で人的リソースを投入し、教育プログラムに大鉈を揮った大学以外はまずこのコンペに勝ち目はない。
本学の場合は、過去数年間に真剣に取り組んだ「生き残り戦略」は「経費節減」だけである。
もちろん、「教員数をこんなに減らしました」というようなことを文部科学省に申し立てても、そんなことが「学生に大きな学習上の利益をもたらした取り組み」として、評価されるはずがない。
これまで「学生の学習上の利益」をはかった改革案は本学でも提出されなかったわけではない。
しかし、教職員たちの機構改革への対応はあまり好意的ではなかった。
アカデミック・アドヴァイザー制度は「教員の仕事が増える」という理由で学生主事会で否決されたし、きめこまかな履修指導のためのGPA制度もよく分からない理由で導入が延期されたし、教員評価システムもあちこちで不満続出で実施まであとどれくらいの「根回し」が要るのか見当がつかない。
かろうじて全学的な取り組みとしては授業評価アンケートの精密化があるくらいで、それ以外に見るべきものとしては学科単位、センター単位、教員個人の個別的努力しかない。そして、学科以下の個別的努力はコンペの「対象外」なのである。
二時間の説明をきいているうちに、だんだん不安になってきた。
本学の教員たちが個々人として創意工夫を凝らした授業をしていることを私は知っているし、その献身的努力を多とすることにやぶさかではない。しかし、全学的な取り組みとしては「大勢に遅れない」という以上のことをほとんど何もしてこなかった。
まずいよなあ、これは。
説明を聞いて分かったことの二つめは、今回のコンペは単純に「成果」を求めているのではなく、その大学が「新しい教育的アイディアをすぐに実践に移し、必要な調整を行いうるような、フレキシブルでフットワークのよい決定・執行・評価のシステムを持っているかどうか」を査定しようとしている、ということである。
なにしろ、この「教育トップ100校」の申請書類に私たちが書くことを許されているのはわずか6400字なのである。
これが意味するのは、査定されるのは6400字に「どんな事例を書く」かではなく、「どんな事例を書くか」を決定できるようなトップダウンシステムをもっているかどうかを、まず最初のスクリーニングの条件とする、ということである。
考えて見れば分かる。
学部が複数ある大学の場合、その中からたった一つの学部のたった一つの教育実践例を選び出すことについての学内合意を今日から二週間で取り付けなければならない。
医学部理学部法学部経済学部などが「うちこそが看板学部」と鎬を削っているような大学の場合、どれか一つを「大学代表学部」として選び出すことへの学内同意の形成は絶望的に困難である。だから、結果的には、どこのメンツも潰さないために、「全学的な取り組み」でまとめるしかない。だが、理科系文化系全学部に共通する教育実践であり、かつ他大学に例を見ないほどユニークなものというのはまずありえないから、これらの「それぞれの学部のメンツを立てて」作文をした大学はまず選定から洩れるであろう。
本学のアドバンテージは私たちWGに事実上の事例決定権が委ねられているということである。だから、どなたのメンツにもかかわりなく、「ベスト事例を一つだけ選ぶ」ことができるということにある。このわずかなアドバンテージを最大限に活用して、とにかく今から決断をしなければならない。どんな事例を「本学代表」に選ぶのか、それをこれから議論するのだが、それを選び損なったら「おしまい」である。
気の重い仕事だ。
疲れ切って帰宅。そのままでれでれとビールを飲み、アマゾンから本日入荷したアキラ映画を見る。
まずは『ギターを抱いた渡り鳥』(1959年)から。
おおおおおもしろい。
正直に告白するが、リアルタイムで私は日活映画をまるでバカにしていたのである。
だって大映ファンだったから(宮川一夫のカメラワークに感動していた中学生というのもどうかと思うが)。
三番館で併映のアキラも裕次郎もちゃんと見ていたのであるが、感動した記憶がない(アキラが馬に乗って出てくる状況設定に「ありえねーだろ」と突っ込みを入れていたのである)。
すまない。
改めて見ると実によい映画である。
ま、映画はたいしたことないけど、小林旭が素晴らしい(宍戸錠もね)。
あれほど「浮いた」台詞をめりはりの効いたアーティキュレーションできちんと発音できる、というのが凄い(石原裕次郎はすでに若干の「照れ」があり、そこが魅力でもあったのだが)。
「無意識過剰」というのがアキラに与えられた称号であるが、アキラはあのまるで嘘臭い映画のリアリティをただ一人で担保している。あそこでアキラが自意識を出して照れてみせたら、映画は全部「おしまい」である。
アキラこそあの「嘘臭い映画内世界」でほんとうに生きているただ一人の人間なのである。だって、アキラの演技の「嘘臭さ」と映画内世界の「嘘臭さ」は完全にシンクロしており、アキラの「嘘臭さ」は演技じゃなくて、アキラの「地」なんだから。
『さすらい』を読んで分かったけれど、アキラは生まれたときからもうフィクションとしての「アキラ」とぴったりシンクロしている。
あれだけの身体能力と容貌と音感を備えて生まれてきたために、ついに「理想我」と「自我」の隔絶に悩むことが一度もなかった俳優を日本映画界は小林旭しか知らない。
小林旭にはずれなし。
(ところで「渡り鳥シリーズ」の脚本を書いていた原健三郎というのは、その後淡路島出身の代議士となった『さすらい』には書いてあったが、ほんとうなのだろうか。たしかハラケンは代議士勤続50年表彰を受けたはである。ということは1959年の『ギターを抱いた渡り鳥』のときはすでに衆議院議員だったことになる。代議士やりながらアキラのホン書くかなあ。ほんとかなあ。誰か教えて下さい)
7月9日
『現代詩手帖』の高橋源一郎特集のために「史上最強の批評装置『タカハシさん』」という原稿を早起きしてばりばりと書く。
高橋源一郎が文学批評家として特権的地位にあるのは、彼が「タカハシさん」という語り手を得たことによる、という趣旨の論考。
『タカハシさんの生活と意見』まで、高橋源一郎の批評文の主語は「わたし」か「ぼく」か「おれ」であったが、93年から「タカハシさん」という三人称化された批評的視座が登場する。
その視座がどのような文学史的前史を持つものであり、現にどのように機能しているのか、ということを縷々書き綴ってみる。
これはなかなか面白いものが書けそうである。『現代詩手帖』出たら読んでね。
書いているうちに時間になったので、ひさしぶりに下川先生のお稽古。
『井筒』の謡をおさらいしてから『融』の舞囃子に入る。
来年の会では『融』と素謡『通小町』のシテがついた。
稽古のあと走って学校へ行って、大学院学内選考の面接。
今年の受験生は8名。ひとりひとりと話し込んでしまったので、二時間半もかかってしまった。
へろへろになって帰宅。
ワインを片手にクロード・シャブロル『いとこ同志』(1959年)を見る。
びっくり仰天。
だって、これ一昨日の晩見た『狂った果実』とまったく同じ話なんだもの。
中平康の映画の方が二年早い。でも、シャブロルがぱくったとは考えにくい。(いくらなんでもパリじゃ日活映画見られないからね)
しかし、ジェラール・ブラン=津川雅彦、ジャン=クロード・ブリアリ=石原裕次郎、ジュリエット・メニエル=北原三枝という人物設定はまるで「ふたご同志」のように似ている。(ジャン=クロード・ブリアリの芸風と風貌は石原裕次郎より岡田真澄だけど)
純真な従弟が夢中になる「すれっからし女」に「あいつには手を出すな」とよけいなおせっかいをしているワルの従兄が「それより、オレとつきあわない?」と言い出すアパルトマンの場面は、葉山のナイトクラブの中庭での石原裕次郎が北原三枝を詰問する場面と、せりふまでいっしょ。
ソルボンヌ大学のワル学生たちの無軌道な遊びぶりも湘南で遊び回る太陽族学生とほとんど変わらない。
不思議な符合だ。
あるいは、『いとこ同志』と『狂った果実』が「同じ話」であるというのは、映画史的「常識」であって、知らなかったのは私一人なのかも知れない。
奇しくも同じ時間にTVでは石原裕次郎の「十七回忌」特別番組をやっていた。
奇しくもゆうべ読んだアキラの自伝『さすらい』によると、『狂った果実』の津川雅彦役は小林旭がやるはずだったのだが、日活上層部の営業判断で直前になって新人の津川雅彦にキャスティングされたそうである。
ユング先生であれば、ニカっと笑って「ね、これをして『シンクロニシティ』と言うのだよ」と断言されることであろう。
そういえば、先日インタビューを受けた『BRIO』の編集者から「映画評のコラムを書きませんか」というオッファーがあった。
「そんなこと言われても、私、いちばん最近見たの『嵐を呼ぶ男』ですよ。私の映画鑑賞態度にはまったく今日性がないですから」と申し上げたのであるが、「今日性なんかなくてもいいですから」というご返事であった。
「おとぼけ映画批評・連載第一回『嵐を呼ぶ男』」「第二回『いとこ同志』」「第三回『仁義なき戦い・代理戦争』」「第四回『喜びも悲しみも幾歳月』」「第五回『酔いどれ天使』」なんていう反時代的企画が通るようなら、連載OKするかもしれない。(でも、そんなコラムをいったい誰が読むんだろう?)(私なら読むが)
7月7日
なかなか梅雨が上がらない。うー、じめじめする。
次々と仕事が舞い込む。
「ウィークリー讀賣」の取材と『現代詩手帖』の「高橋源一郎特集」への寄稿。「批評家高橋源一郎」についてのコメントをすることになる。新規受注はしない方針ではあるが、高橋源一郎特集ではお断りできない。
こういうふうに「断りきれない仕事」はどんどんふえるばかりで、書いているのは『レヴィナスとラカン』だけ。今週から「教育トップ100校」の起案もしなければならないし、なんだか大変なことになりそうである。
日曜の対談のときには、「ウチダの選んだベスト20冊」という企画もあって、私がお薦めする本20冊のためにリブロがコーナーを作ってくれたのである。そこの本もけっこう売れたそうである。一番売れたのは小田嶋隆の『パソコンは猿仕事』。小田嶋先生の売り上げに貢献できるとはうれしいことである。
ちなみに私が選んだ20冊は以下のとおり(条件は、「現在入手可能の本」)
橋本治 『わからないという方法』(集英社新書)
白川静・梅原猛 『呪の思想』(平凡社)
村上春樹・柴田元幸 『翻訳夜話』(文春新書)
小田嶋隆 『パソコンは猿仕事』(小学館文庫)
小倉鉄樹 『俺の師匠』(島津書店)
高橋源一郎 『文学なんかこわくない』(朝日新聞社)
村上龍 『69』(講談社文庫)
森銑三 『明治人物夜話』(岩波文庫)
成島柳北 『柳橋新誌』(岩波文庫)
竹内敏晴 『思想する身体』(晶文社)
網野善彦 『異形の王権』(平凡社ライブラリー)
グレゴリー・ベイトソン 『精神と自然』(新思索社)
吉田満 『戦艦大和ノ最期』(講談社文芸文庫)
アルフレッド・ヒッチコック&フランソワ・トリュフォー『ヒッチコック映画術』
(晶文社)
池上六朗 『カラダ・ランドフォール』(柏樹社)
三浦雅士 『青春の終焉』(講談社)
佐藤学 『身体のダイアローグ』(太郎次郎社)
ハロルド・シェクター 『体内の蛇−フォークロアと大衆芸術』(リブロポート)
スラヴォイ・ジジェク 『ヒッチコックによるラカン』(トレヴィル)
カール・ポパー 『開かれた社会とその敵』(未来社)
二月程前に頼まれて、うちの本棚を眺めながらさらさらとリストを作ってメールで送ったので、どんな本を選んだのか忘れていたが、改めて見直してみると、小倉鉄樹、森銑三、成島柳北というラインがぐっと渋い。
私はこれまで「森銑三が大好き」という人に会ったことがないけれど、森鴎外、永井荷風の「評伝」の系譜を継承する私の大好きな文士である。もう現代にはこういう文章を書ける人は一人もいなくなった。関川夏央がそのエートスと文体の一部を引き継いだかもしれないけれど。
成島柳北は手に入る文庫本が「柳橋新誌」しかなかったのが残念。そういえば成島柳北の存在を教えてくれたのも森銑三だった。
小倉鉄樹が「俺の師匠」と呼ぶのは山岡鉄舟のこと。多田宏先生は小倉の創設した一九会の会員で鉄舟の曾孫弟子に当たる。だから私は鉄舟の「四代の後裔」ということになるのである。
授業を二つやって、杖道と居合の稽古。暑さのせいかお稽古に来たのは一人だけ。
二時間稽古するとそれでも汗びっしょりになる。
へろへろになって帰宅。ワインを飲みながら今日は『狂った果実』(1956年)を見る。
石原裕次郎の主役デビュー作(その前に『太陽の季節』に脇役でちょっとだけ出ているけど)なのであるが、すでに表情も台詞回しも「裕次郎的演技」が完全に出来上がっているのに驚いた。というか生涯まったく演技に変化がなかったというべきか。
昔TVで見たときは湘南の太陽族の風俗が「げー、だせー」という印象で寒気がした記憶しかなかったが、五十代になってDVDで完全版を見直すと、鎌倉や逗子のまだ汚れていない海岸のたたずまいに胸が詰まって「きゅん」としてしまう。岡田真澄の演じるノンモラルのハーフ、フランクの拗ねたような乾いた芸風も「いい味」である(このころの岡田真澄はほんとにいい。『幕末太陽伝』も)。津川雅彦の「幼い狂気」も凄みがある。
でもやはりこの映画は「ほっそりした」石原裕次郎のパンツスタイルの美しさにとどめを刺す。首筋から足元までのラインの美しさ。これほど美しい肢体をもった青年が戦後わずか10年で出現してきたことに当時の人々はどれほど衝撃を受けただろう。
7月6日
池袋リブロ書店主宰の「甲野善紀x内田樹対談」のため日帰り上京。
今日のテーマは教育と身体技法ということなので、いきがけに12日のシンポジウムの予習もかねて佐藤学『身体のダイアローグ』と村上龍『教育の崩壊という嘘』を新幹線で読み返す。
原理的なことはいくらでも言えるけれど、学校教育にどうやって伝統的な身体技法を導入するかという具体的な問題になると、さすがによいアイディアが浮かばない。
大学の体育正課で武道を教えるというような程度のことでは焼け石に水だし、そもそも、武道の身体運用は一見するときわめて規範強制的なものであるから、うかつなひとが教えると、単なる「体育会的エクササイズ」にしかならない。
武道的身体運用をあえて「非標準的な身体技法」として教えるためには十分な理論的裏付けがなくてはすまされない。しかし、それを体系的に語れる人はまだまだ少数である。
困ったなあと思いながら会場へ。
各出版社からいろいろな方が「キック」に来ているので、あちこちに不義理を詫びつつぺこぺこ頭を下げる。(詫びついでに仕事を二つ増やしてしまった)
対談の前に『BRIO』の取材で『映画の構造分析』の書評のために少し解説させていただく。この雑誌は「著者近影」をネコマンガでOKしてくれた太っ腹なメディアである。
終わった頃に甲野先生、名越先生(学会で上京中とのこと。実にタイミングのよい方である)がおいでになる。
会場の定員は120名だったのが、180名も来てぎうぎう詰め。
打ち合わせもそこそこに2時間の対談。
対談というよりは、私が甲野先生にいろいろと話題を振ってご意見を拝聴するという感じで始まる。
お話を聞いているうちに私も刺激されて、その場であれこれと思いつきをしゃべるうちにあっというまに二時間が経つ。話したいことはまだまだいくらもあるし、せっかく名越先生も鈴木晶先生もいらしたのであるから、みんなでバトルロワイヤル的にやればさらに面白くなったであろうがそうもゆかない。
途中で、「物語の指南力」という話題で少しアイディアが浮かぶ。
『バカボンド』や『海辺のカフカ』や『BJによろしく』のような「メンター(指導者)を持たない少年が独力での成熟の階梯を登って行く」という話型がこの一二年のあいだに集中的に生まれ、それが圧倒的な支持(『バカボンド』はついに3300万部!)を受けているということには考察に値するだけの意味があるはずである。
私たちは「学校教育の再生」なんかをあれこれと議論しているけれど、当の子どもたちはもう学校にも大人にも期待をもたず、独力で大人になる方法を探し始めているのかもしれない。
そういう精神的な地殻変動が起こりつつあることをマスメディアも、そこに蝟集する批評家たちの多くもまだ感じとっていない。
対談が終わってから「ミニ・サイン会」で本を買って下さった方々にネコマンガを書きまくる。
旧友石川茂樹君、阿部安治君、上京中の“不眠”小川さん、月窓寺の宮崎さん、西原さんらたくさんの方が来てくれた。
晶文社の安藤さんの仕切りの打ち上げで甲野先生、名越先生、鈴木先生とわいわいしゃべりまくるが日帰りなのですぐにタイムリミットとなる。(甲野先生は「校正カンヅメ」から一時退避なので、このあとまた仕事に戻られるらしい。先生も相変わらず超人的な忙しさである)
もっと話していたいけれど、後ろ髪を引かれつつのぞみの最終に飛び乗り、12時すぎにへろへろと帰芦。
企画してくださったリブロのみなさん、晶文社のみなさん、超多忙の中時間を割いて下さった甲野先生に重ねてお礼申し上げます。どうもありがとう。
7月5日
木下恵介の『喜びも悲しみも幾歳月』を見たついでに井上梅次の『嵐を呼ぶ男』を見る。
どちらも1957年の作品。
リアルタイムでウチダは7歳。
『喜びも悲しみも幾歳月』は昭和7年(1932年)から始まって32年(1957年)で終わる。
途中で「昭和12年」とか「昭和15年」とか日付がインポーズされる。
子どものころは「昭和15年」というのは大昔だと思っていた。でも、よく考えたら私が生まれる10年前のことである。
今年生まれた子どもにとっての1993年である。
それって、「つい、先日」じゃない。
「空襲があって、買い出しの列車が混んで、もう大変だったんだから」という親たちの世代の昔語りを私はまるで神話でも聞くような気分で聞いていた。ならば、1980年生まれの若者たちに「ウッドストック」とか「ビートルズ来日」とか「安田講堂」とか「三島由紀夫自決」とか「はっぴいえんど解散」などという話を私がするとき先方が「まるでリアリティがない」感じの顔でいるのも、まあ当然である。
その逆に、私が子どものころに「昔のこと」だと思っていた時代の出来事が、いま初老になって思い返すと「つい最近」のことなのだということが実感される。
『嵐を呼ぶ男』の銀座の若者たちの風俗を少年時代の私は「大昔の風俗」だと思って見ていた。でも、よく考えたら、その8年後に私は銀座四丁目で皿洗いのバイトをしてたのであるから、石原裕次郎演じる国分正一くんみたいなすかしたあんちゃんと毎日すれ違っていたのであった。
不思議なもので、20代には日活映画は「古い」と思っていたが、50代になると「新しい」。
『嵐を呼ぶ男』は実によく出来た映画であった。
当時日活のプログラムピクチャーは石原裕次郎、小林旭、和田浩治、赤木圭一郎、宍戸錠、二谷英明らの主演映画を週替わりで出していたはずであるが、そのタイトなスケジュールの中であれだけ完成度の高い映画を作ったというのが凄い。(なにしろ最後はオーケストラで「シンフォニック・ジャズ」を演奏するんだから)
石原裕次郎のドラムはたぶん白木秀雄(最初と最後にちょっと出てくる。アイドル的なドラマーだったけれど、最後は不遇の死を遂げた。合掌)が演奏していると思うのだけれど、実にグルーヴ感のあるよいドラミングである。
有名な「おいらはドラマー」も歌謡曲だとばかり思っていたが、フルコーラス聴くと、かっこいいフォーバースなんか入っていてきっちりジャズになっているのである。
『監獄ロック』(これも最近見直して深く感動)と出来上がりの質は変わらない。(ストーリーも似てる。辣腕の女性マネージャーと成り上がりアイドル・ミュージシャンの恋の顛末)
笈田敏夫の敵役ドラマー「チャーリー」も、岡田真澄のぼんぼんミュージシャンも、実にサマになっていた。
このあいだ石川茂樹君に送って貰った「GO!GO!ナイアガラ」の「クレージーキャッツ」特集の植木等が述懐していた昭和30年前後の抱腹絶倒のジャズバンド時代の逸話を思い出した。
そのころのジャズ・ミュージシャンたちの方が当今のポップス・ミュージシャンよりはるかに愉快で痛快な生活をしていたような気がする。
大瀧詠一師匠の「小林旭再評価」の成果で、50−60年代の日活映画がこれからふたたびブレークしそうな気運がある。
私はさっそく「アキラ」のvol1とvol4をアマゾンで購入してしまった。
アキラの映画もどんどんDVD化されないだろうか。
アキラはいいもんなー。
というわけで、今日は仕事のBGMに『魔笛』と『アキラのダンチョネ節』を交互に聴くという変則的音楽生活であった。
♪あーいは、せなんだかあ。こーじまーのかもおめと♪パパパラッパパパパが繰り返し頭に響く。
モーツァルトも天才だが、遠藤実も天才。
7月3日
雨がしとしと。低気圧で、頭もぼんやり。身体のキレが悪い。
それでもこりこりとレヴィナス/ラカン論の原稿を書く。
自分の頭で考えたことをてれてれと数十行書いては、『セミネール』をぱらぱらとめくる。
すると必ず、そこに「おおお」とのけぞるような謎めいたフレーズがある。
それを書き抜いて、本文にはめ込む。
はめ込んでみたはいいが、謎めいたままでは困るので、とりあえず「とラカンは書いているが、これを平たく言うと」というふうにパラフレーズする。
平たく言い換えてみると、ラカンは実に驚くべきことを述べているのであるが、その「驚かせ方」には一定のパターンがあることがしだいに分かってくる。
武道的に言うと、ラカンは読者/聴衆の「拍子を外す」。
「拍子を外す」ことの効果は、読者を「絶対的な遅れ」のうちに取り残すことにある。
一度遅れたものはもう二度と追いつくことができない。
なぜなら、「追いつく」という発想をすること自体が「起源における絶対的な遅れ」を不動のものとしてしまうからである。
アキレスと亀と同じである。
俊足のアキレスといえども「亀に追いつく」という発想をする限り、決して亀に追いつくことができない。
ラカンはこの「決して追いつけない境位」に一足で立ち去る術においてほとんど古今無双の達人である。
どうやれば追いつけない境位にわずか一足で走り去れるのか。
これについては『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で「博士」が「百科事典棒」という不思議なたとえ話で似たことを述べている。
こんな話。
すべての文字をで数字に置き換えるとする。Aは0、Bは1というふうに。すると百科事典のすべての記述は膨大な数字の羅列に置き換えられる。
たとえば、それが74712595402325987412・・・だったとする。
その数字の最初に小数点を書く。
0.74712595402325987412・・・
桁数はほとんど無限に続く。
ここで一本の楊枝を取り出す。
楊枝の太い方の端を0、細い方の端を1.0と名づける。すると、楊枝の真ん中が0.5になる。
そこに刻み目をいれておく。
すると、百科事典はまるごと、その楊枝の真ん中から先端までのある点に書き込まれることになる。
これは一つの考え方である。
量を無限の拡がりの中に展開することよってでなく、限られた空間を無限に細かく分割することで表現しようと考えること、それが「亀の狡知」である。
ラカンが絶対に追いつけない人であるのは、彼がどこかで「亀仙人」になったからである。
というわけで、この二日ほどはパソコンの前でコーヒーを飲みながら、「ラカンはどこで亀になったのか?」ということをぼんやりと考えている。
疲れてきたので、合気道のお稽古にゆく。
体育の授業の合気道は今日でおしまいである。(来週まで授業はあるのだが、来週は公務出張のため休講)
みなさん、なんだか名残惜しそうである。後期の杖道にもぜひ登録してくださいね。
そのまま合気道のお稽古に入る。
新入部員がわさわさといて、たいへんな混雑ぶりである。
ここでも、「拍子に乗る」「拍子を外す」ということを集中的に稽古する。
ラカンと合気道で同じテーマを考究している学者はおそらく世界広しといえども、決して多くはおらないであろう。
ぼろぼろになって帰宅。
ビールを呑んで、野菜炒めを作って食べて、それから食後の腹ごなしに『呪いの研究』を読む。
怖くなってきたので、気分転換に木下恵介の『喜びも悲しみも幾歳月』を見る。
見るのは二度目であるが、ずいぶん昔に見たので、ほとんど忘れていた。
佐田啓二はいつものまま。(うつむくと中井貴一にじつによく似ている。芸風もそことなく)
高峰秀子の台詞回しはなんだかすごく懐かしい感じがする。
昭和の途中まで、東京の「おばさん」たちはみんなあんなふうにちょっと気負い込んだしゃべり方をしていた。(杉村春子もそうだったし、うちの母親も若い頃はそうだったような気がする)
話し方というのも時代とともに変わるのである。(当たり前だが)
田村高広、中村賀津雄、仲谷昇があまりに若いので、最初のうちは誰だか分からなかった。
北竜二が出てきて、いつものままの芝居をする。
この人はいったいどういう来歴で映画俳優なんかになったのであろう。
後期の小津安二郎映画が諧謔性と都会性を獲得したのは、ひとえに北竜二の功績であったと私は考えている。(『晩春』の三島雅夫の役や『麦秋』の宮口精二の役を北竜二がやったら、映画の印象は一変していただろう)
こういう大人の役を演じることのできる大人の俳優はもう今はいない。
7月2日
『第三文明』の広告に顔写真が大きく出たことで、あちこちから電話やメールが来る。
「いったい、どういう了見なのだ」と詰問する方が多い。
「ウチダ先生は創価学会員だったのですか?」という問い合わせまであった。
どうも世間のみなさんは『第三文明』のような「傾向的」刊行物に対しては、ある種の警戒心をお持ちのようである。
私はこれまでインタビューや寄稿の依頼を選り好みしたことがない。
TV出演を一回断ったのと、「写真はダメ」と言ったら先方から断ってきたのが一件あるだけである。
『前衛』が来ても『正論』が来ても(どちらも来ないと思うが)、私は喜んでお仕事をさせて頂く。
当然ながら、メディアごとに寄稿者に「書いて欲しいもの」は違う。
想定されている読者の年齢も性別も職業も政治的立場も信教も価値観も、メディアごとに違う。
書き手はそれに合わせて微妙に書き方も書く内容も変える。
「どのメディアでも私は首尾一貫、書き方も主張も絶対に変えない」というのは威張れる話ではない。その不自由さは教師に対しても、友だちに対しても、同じ言葉遣いでしか話せない中学生の言語能力の不足と同根のものである。
相手に合わせて話を変え、語り方を変える。
機に臨んで、変に応じる。
いまさら私が言うまでもなく、それは他者と共に生きるときの基本である。
私が「写真はダメ」というのは「どのメディアとも仕事をします」という立場に通じている。
「顔写真」というのも人々が見たがるのは「顔を見ると、それが『何もの』であるか分かる」からである。
「ああ、こんな顔しているのか。なんだ、この程度の奴なんだ」ということが「分かって」その人物についての評価に決着をつけられるからである。
写真というのは運動するものを瞬間的に切り取って固定する「ストック趨向性」の非常に強い表象手段である。
若い人たちが使い捨てカメラや携帯でばしゃばしゃと写真を撮りたがるのは、変化するもの、移ろいゆくものを固定化し、分類し、タグをつけ、カタログ化し、「ストックしたい」からである。
フーコーは「ストック趨向性」のことを端的に「権力」と名づけた。
若く非力な人間は、当然のことながら、この世でもっとも権力的な存在である。(「権力的」であるだけで、実際の「権力」は持っていないので、その事実が前景化しないだけのはなしである)
だから、若い人が好むところの写真は権力的な表象手段である。
私は他人に「タグをつけられる」のが嫌いである。
写真に撮られると、私のある種の「本質」がありありと露出する。たしかに、それは私である。でも、私は「それだけ」じゃない。
ある一点において把持されるということ、ある側面だけで眺められ、印象を固定化されるということに私は言いしれぬ不快を感じるのである。
にもかかわらず、私が写真を撮られても「平気」という場合がある。(斎藤さんのウェブサイトに掲載してあるけれど)、それは「他の人といっしょに撮されているとき」である。(ここでは甲野先生と名越先生とのツーショットが掲載されている)
どうして、顔写真を撮られることのキライなウチダが、ツーショットはOKかというと、甲野先生といるときの私は「甲野先生といるときのウチダの顔」をしているからである。名越先生といるときの私は「名越先生といるときのウチダの顔」をしているからである。
ひとといるときの、私の顔は「誰かといる」顔をしている。
個別その人とだけコミュニケーションしようとしているので、顔のどこかに「開かれ」が確保されている。そこには「この人はこの人といっしょにいるときだけ、こういう顔をするけれど、ふだんは違う顔を持っている」という潜在的なメッセージが帯同している。
それが「ストックされる」不快感を払拭してくれるのである。
誰かといっしょのときは、一人で撮るときよりも、表情が「あいまい」になって、どこか焦点のはっきりしない「とらえどころのない顔」になっている。
そして、その「あいまい」さ「とらえどころのなさ」は、相手によって微妙に違っている。
私はそういう自分の顔写真はキライではない。
そこには「ストックされること」に抗う「フロー趨向性」が現れている。
これまで撮られた写真でわりと好きなのは、朝日のカメラマンが撮った合気道のときのスナップである。
武道的な動きをしているとき、人間は「一点において把持される」というところからもっとも遠いところにいる(当たり前だけれど「とらえられる」ということは、武道的には「死ぬ」ことを意味している)。
その写真は私の動きの中の「とらえどころのなさ」を探しだして、そこに焦点を合わせて、それを図像化していた。
そういう写真なら撮られてもいいんだけどね。
7月1日
疲労の六月が終わり、夏休みカウントダウンの七月となった。やれやれ。
今日の大学院の演習のテーマは「司法とマスメディア」。発題者は司法浪人の影浦くん。
松本サリン事件、和歌山ヒ素事件を題材に、裁判所で判決が出る前にマスメディアによって実質的な社会的制裁がなされてしまう事態を批判してくれた。
影浦くんの言うのは正論である。
しかし、ウチダはいかなる「正論」に対してもつねに「アヤを付ける」ことを教師の教育的配慮の一つと心得ているので、さっそく反論を試みる。
メディアが裏付けのない予断によって市民を犯罪者扱いにして、社会的に抹殺することはもちろん許されることではない。
しかし、そのような予断を完全に制限することは不可能だし、なすべきでもないと私は思う。
「疑わしきは罰せず」と言うが、逮捕、起訴、裁判、判決、どの段階で私たちが被疑者によせる「疑わしさ」は「確信」に変わるのか?
たしかに最高裁で判決が下されれば、制度的には正邪理非はあきらかになり、「疑わしさ」を「確信」に切り替えてよい、ということになるであろう。
しかし、ほんとうにそうしてよいのだろうか?
現に私たちは最高裁判決のいくつかについて懐疑的であることが多い。最高裁判決に対して涙で抗議する人々や居丈高に論難する有識者を私たちはメディアでよく拝見する。法制上の終局判決が「客観的事実」と同じだけの事実性の重みをもっていると私たちは感じていない。
つまり、ある犯罪について「疑わしさ」が「確信」に切り替わる決定的契機というのは、法律的擬制としてしか存在しないのである。
「そのとき何が起きたのか」については、つねに一抹の「疑わしさ」がついてまわる。
それはどれほど証拠を並べ立てても、どれほど時間をかけて検察弁護の言い分を吟味しても「ほんとうに、そうなのだろうか?」という疑惑は(タイムマシンに乗って、犯行の瞬間に立ち戻らない限り)完全には払拭されない。
だから「疑わしきは罰せず」という法諺を文字通りに適用すれば、逆説的なことに、司法制度そのものが不可能になってしまうのである。
法律で言う「疑わしさ」や「確証」は擬制であって、事実ではない。
だからメディアに向かって、「最終的な判決が下るまでは、被疑者についていかなる予断も持ってはならない」と要求しても、メディアがそれを受け容れるはずはないのである。
そもそも私たちは現にマスメディアの「制裁機能」を準−司法的な制度としてすでに受け容れている。
判決にあたって、裁判官が「被告はすでに十分な社会的制裁を受けており・・・」という説明によって量刑を加減するということは現に行われている。この言葉は司法制度以外の社会制度が「信賞必罰」という社会的機能の一部を補助的に担っていることを暗に認めている。
私たちがメディアに要求すべきなのは、「疑わしきは罰せず」という原則の遵守ではなく(それは不可能である)、メディアはどのような準−司法的機能を担うべきか、についての議論の深化と社会的合意の形成である。
メディアの過熱する犯罪報道についてはきびしい批判をする人が多い。
しかし、法律的判決以前に、すこしでも速く、それとは別の(もっと厳密でない)基準によって、被疑者への社会的制裁がなされることを切望しているのは、私たち自身なのである。
推定と予断に基づく社会的制裁を厳密に禁じた場合、私たちの社会は今より住み易くなるだろうか?
これは頭をクールダウンして計算すべき論件であるように私には思われる。
山本浩二画伯が用事で大学に来たので、ゼミのあと、画伯のご案内で武庫之荘のイタリア料理GLORIAに行く。
画伯はうまい飯屋を発見する天才であるが、このGLORIAも素晴らしかった。
生ハム、自家製パン、オリーブオイルとジャガイモのパテ、まぐろと茄子とピーマンの前菜、海鮮の手打ちパスタ、そしてワイン・・・いやー。堪能しました。これはもう。
武庫之荘北口の人通りの少ない路地裏にあるので、まだほとんど名前が知られていない店だが、イタリア料理にあれだけうるさい画伯とパスタ大好き男のウチダが口を揃えて「うまい!」というのであるから、そのレベルは推して知るべし(電話:06−6438−7229。定休日は水曜)