とほほの日々

The days of pains and regrets: from 1 Jan 2000



1月31日

ひどい風邪をひいてしまった。

土曜の夜に熱が出始めて、日曜、月曜と高熱に苦しめられた。昨日はとうとう9度4分まであがって、さすがに廊下を歩くとふらふら。

原因ははっきりしている。メンタルストレスである。

私はメンタルストレスにめちゃくちゃ弱い。

精神的な苦痛がすぐに身体症候に顕在化するのである。

以前、いやな野郎と話をしていて、立場上どうしてもそいつに向かって「バカ野郎」と言うわけにいかず、へらへら笑ってごまかしているうちに、全身に発疹が出たことがある。

「あ、熱がでてきましたので、これで失礼します」とその場を逃れた。

そののちも、他人の理不尽な言動を「我慢」をしているとよく発疹が出る。身体も言語的に分節されているはずなので、この場合の「発疹」は「怒りの記号」なのであろう。

文学部教授会に列席しているうちに、しだいに「桃太郎侍症候」が激化してきたのだが、立場上会議室の机に飛び上がって啖呵を切ってみせるわけにもゆかない。怒りが内攻して、発熱してしまったのである。

9度の熱が二日も続くというのは、なかなかたいした怒りぶりである。夢の中でも英語で某ネイティヴ教師に毒づいていた。夢の中で英語をしゃべっている我が身がいじらしい。

こんなことが続くと身体がもたないので、文学部教授会は次回でぜひ終わりにしていただいきたいものである。


1月28日

なんだか急にエヴァリー・ブラザースが聴きたくなった。

ただし聴きたいのはエヴァリーのオリジナルではなく、大瀧詠一と山下達郎が1984年の新春放談でやったスタジオライブの方である。そのむかし石川君につくってもらったテープがどこかにあるはずであるので、家中探し回る。

あった。

あらゆるものを捨てまくる私にしては奇跡的なことだが、音楽関係だけはそもそもコレクションがほとんどないのでじゃまにならないので捨てない。

さっそく車のなかで16年前のおしゃべりを聴きながらエヴァリーを聴く。

よいなあ。

Devoted to you という曲はそのむかしガールフレンドにプレゼントしたカセットの最初の曲である。

I'll never hurt you, I'll never lie, I'll never be untrue, というリフレインを聴きつつ、彼女を傷つけ、嘘をつき、不実のかぎりを尽くしたことを思い出して、深く反省してしまった。

そうか、ラブソングを聴いて共感できるひとたちというのは、自分の魂の美しさに確信があるということだね。

私はラブソングをきくと自分が最低の野郎だということをしみじみ思い知らされるので、なんだか説教をきかされているような気分になるよ。

でも説教好きなの。聴くのも。


1月27日

月曜、水曜、金曜と一日おきに会議がある。大学というのは会議が多いところだとよくいわれるが、ほんとに多い。基本的に組織が「上意下達」の指揮系統になっていないで、なんでもかんでも合議制なので、しかたがない。「デモクラシーのコスト」というやつである。

ときどきうんざりして、「賢い独裁者に全権を委譲したい」と思うことがある。

大学には指揮系統がない。役職者というのはいるが、責任だけあって権限のない気の毒なポストである。学長が「全学のラディカルな再編」を呼号しても、みんな知らん顔をしている。ほんとうに気の毒である。

したがって会議がふえる。

会議といっても、「鶴の一声」を出せる人が誰もいないので、があがあうるさいばかりでさっぱり話がまとまらない。

大学での会議の困ったところは、「意見の対立」がいきなり「知的競合」の相をおびることである。

自分の意見に反対されると、自分の学問的業績や知的資質を否定されているような気になる人がいる。そういうひとは、誰も相手にしない変ちき論をいつまでもいつまでもしつこく唱えてマイクを離さない。たぶん本人は地動説を否定されたガリレオの気分なのであろう。

だいたい、それほどたいした議論をしているわけではない。

しにせのうどんや「英文庵」の客足がさいきんぱっとしない。隣の無国籍料理「そーぶん亭」としては、隣が閑古鳥では商売に触るので、おせっかいとは知りつつ

「な、英文はん、おたくの寛永年間以来の『こぶうどん』一筋というのもわからんではないけどな。『カレー南蛮』とか『たぬきうどんと小カツ丼』とか、そういう若いひとの好きなめにうも、ちょっといれたらどないなもんかいな。そういういちげんのお客さんがやな、『なんや、こぶうどんて、ちょっと食べてみよか』となるんちゃう」

と忠告したら、老舗のだんなは偉い剣幕。

「あんたとこな、いいたかないけど、なんやねん。あの思想性のないめにうは。フランス料理のデザートに大福出したり、フォワグラのつきだしで吟醸酒のませたり。奇をてらってお客にこびるんはみっともないで」

「奇をてらってるんと、ちゃうわい。脱領域的ヌーヴェル・キュイジーヌやんか。」

「なにが脱領域や、だいたい戦後のどさくさにうちの先代が軒下貸して『やきいも』させたんがあんたとこの先代や。世が世なら、あんたとこはうちの手代丁稚の格や、図に乗ってひとの商売に指図せんとき」

まあ、だいたいそういう感じである。

ぜんたいにそれほど知的な話をしているわけではない。めにうの改善とか、板さんや食材の貸し借りとか、共通スペースの有効利用とか、ロゴの統一とか、そういう話である。

なかなかそれでもまとまらない。

困ったおいちゃんおばちゃんたちや。


1月25日

山本浩二画伯の個展を見に、淀屋橋の「番画廊」に行く。

画伯の大作は番画廊ではやや空間的にものたりない。(南港のライカのような巨大空間だと非常にはえるのだが)

オープニングパーティを失礼してしまったので、ひとりででかけたが、画伯の知人友人が来ていて、ワインを呑みつつおおいに盛り上がり、そのまま画伯のご案内で天神筋5丁目の「天平」に繰り出す。

鱈の白子、牡蠣、山菜などの天麩羅、鯛のあらの塩焼き、骨せんべい、鮪のお造り、粕汁、昆布蕎麦などを「美味美味」と称えつついただき。ビール、焼酎などをごくごく飲んで、ひとり2,600円。画伯のご案内でご飯を食べるとお得である。

隣に座った四天王寺高校の数学の先生に、画伯と私はどういう知り合いか訊ねられる。

『映画は死んだ』の「あとがき」にちょっと書いてあるけれど、画伯とは中学二年生からのともだちである。

当時、大阪にSFFC(SFファンズ・クラブ)という、「ご禁制のSFをこっそり読む全国の中学生の地下組織」があった。そこで、画伯は大阪の中学生を束ねてファンジン『MM』を、私と松下正己は東京で「ファンジン」『トレイターズ』を出して、はりあっていたのである。

『MM』は筒井康隆の単独インタビューなどという、中学生の同人SF誌にしては信じられないほど内容の高い記事を掲載しており、「ガリ版」で刷られたそのファンジンのヴィジュアル・センスは卓抜なものであった。(これが画伯のキャリアの出発点となったのである)

画伯とは中学生のときに大阪で一度、東京で一度、二度あったきりである。

そのあと、私も彼も相次いで高校を中退し、画伯はやがてスペインにわたってしまい、音信が途絶えてしまった。

神戸女学院に職を得て神戸に移るにあたって、私には現地の友人が一人もいなかった。

「山本浩二がいるじゃない」と松下君に教えられて、その名前を思い出した。画伯の個展に欠かさず通っていた松下君が電話番号を知っていたので、電話をしたのが、90年の春のことである。

25年ぶりの電話である。

「あのー。山本さんですか?私、内田と申しますが・・・」と言ったら、画伯はまるでさっき角で別れたばかりのともだちからの電話のように

「あ、たっちん?なに?」と答えたのである。

それから10年、私は四季折々画伯に案内されて「ディープ大阪」の美味いものを食べ続け、幸福な日々を送っている。


1月23日

武道シンポジウムは盛会のうちに終了いたしました。

ご多用中のなか、パネリストとしてご参加下さった鬼木、平川の両先生、試験期間中の休日という悪条件にもかかわらず来てくれた学生諸君、合気道会の教職員OGの皆さん、遠路ご出席いただきました学外からの参加者のみなさん、主催者を代表して、こころからお礼申し上げます。

3時間の予定を30分も超えましたが、それでも語りきれないほどに内容豊かなシンポジウムでした。懇親会にも多くの方が加わって下さり、たいへん愉快な会になりました。

当日の私の発表原稿と、平川君が用意してくれた原稿に加筆して頂いたものを近日中にホームページに掲載する予定です。残念ながら参加できなかった方たちは、それをご覧下さい。

また平川君の突きを受けて私がふっとばされるところや鬼木先生の形のご披露などのヴィジュアルは、腕の痛みをこらえて3時間余にわたってヴィデオを回してくれた小川さんのおかげで貴重な記録として残すことが出来ました。(ご苦労様)VHSにダビングしておきますから、みなさん借り出して見て下さい。

ああ、面白かった。

武道の話は、ほんとに楽しいですね。

東京から多忙なビジネスの合間を縫って来てくれた平川君は、懇親会の帰り道、「あんなに素直で元気な学生や愉快な同僚(これは飯田先生のこと)に囲まれて仕事しているなんて、夢のようだね。いいなあ、いいなあ・・・」とさかんに羨ましがっておりました。(ふふふ、いいでしょ)

そのあとうちで平川君と久闊を叙しつつ深更まで語り明かしました。

で、話は急に飛ぶのであるが、

そのときの話題のひとつは、私と平川君の「鏡像自我構造」について。

私と平川君は小学校五年生のときからの友人なのだが、11歳のときに「自分と同質の気質をもったともだち」と出会ってしまうと、それからあとの人生はどうなるのであろう。

発達心理学が教えるように、鏡像段階から十分に離脱していない幼児は、自分と外見が似ているほかの存在と自分自身とをうまく区別できない。だから、ともだちをぶっておいて「ぶたれた」と泣き出したり、ともだちが転んだのを見て「痛い」と言ったりする。これを転嫁現象という。

そのような自他癒合状態の幼児がしだいに「私の経験は他者には共有されない、私の『内部』はそとからは想像的には体験できない」ということを学習して、代替不能のものとしての自我を形成してゆくのである。

つまり、自我の形成とは「私は周囲の人間とは異質である」ということを繰り返し経験するうちに、「私だけにあって、余人と共有しえぬもの」を研ぎ出すというしかたでアイデンティティを構築してゆく過程のはずである。

ところが、私たちの場合は、そのやわな自我が出来上がろうとしているまさにその時点で「私と彼との両方にあって、共有できてしまうもの」に幼い自我が圧倒されるという困った経験をしてしまった。まるで成長過程を逆行するようなしかたで、私たちは「私の経験を共有してしまう他者、私の『内部』を想像的に体験してしまう他者」というものに出会ったのである。

これは「ご縁」というほかない特異な経験なのだが、そのせいで、私たちは純粋でリアルで代替不能の「私」という幻想の形成に重大な支障をきたしてしまった。

つまり、「私は他者であり、他者は私である」という自他の混乱がきわめて「愉快な」経験として私たちのうちに刷り込まれてしまったのである。

11歳のときに、私たちはそれぞれの自我の一部分を、どちらにも属し、どちらにも属さない「共有財産」として、それぞれの自己史の「金庫」にデポジットした。

しかるに、その「共有財産」はそのまま39年間休眠していたわけではなく、やたらに元気のいい少年であった私たちはそれぞれに依託された共有財産をいそがしく「運用」して、どんどんふやしてしまったのである。

その結果、私たちは「他者」をかかえた「私」として自己形成を遂げた。

この言い方はあまり正確ではない。私たちが抱え込んだ「他者」とは個別の誰かのことではなく、私たちふたりを同時に駆動している非人称的な「装置」のようなものである。

ご案内のとおり、私たちはふたりながらじつにさわがしく多動的な人物であり、まわりのひとと年中もめごとをおこしている。だが、驚くべきことに、その当の二人は39年間いちども、口げんかひとつしたことがないのである。ちょっと「むかっ」としたが、友情に免じてぐっとこらえたという経験さえ私にはない。

私たちは26歳のときに会社を興して、そこでけっこうシビアなビジネスをやっていた。

いっしょに会社を作った仲間たちと私はしばしば意見の不一致をみた。たいていの場合、それは単なるビジネス上の見解の相違にすぎず、どちらが正しいとも判じ切れない種類のものであった。

しかし、そのどのトラブルにおいても私は平川君とはただの一度も意見が対立しなかったのである。

私と平川君が実は意見を異にしていた場合もあったはずである。しかし、いったんどちらかがさきに意見を口にしたとたんに、もうひとりは、それこそ自分が言いたかったことであるように瞬間的に記憶を操作してしまうのである。

「事後的に工作された同じ意見」を私たちはじつに愉快に共有してきたのである。

私たちの会社の専務であったY山君は、「守りの」ビジネスの人であったので、冒険的な起業家である平川君にしばしば異議を唱えた。その彼の最大の苦しみは平川社長と役員である私が「同時に、同じことを失念し、同じ勘違いを共有する」ことにあった。つまり三人があることを経験し、それについて思い出さなければならないとき、私たちふたりは瞬間的に記憶を工作してしまうので、つねにふたり口を揃えて「それY山の記憶違いだよ」と言うのである。これではY山君もたまるまい。

そののち、私が師の体感を想像的に追体験することを修行の核とする合気道や、他者への開放性を説くレヴィナス哲学に親しむようになったのも、平川君と私が最初に興した事業が「他言語が行う世界分節を自国の言語で追体験する」ことを主務とする翻訳会社であったことや、彼がいまアメリカのヴェンチャーと日本の資本の「異質なものの出会い」をプロデュースするインキュベーション・ビジネスで大活躍しているのも、「純粋でモナド的な自我」というものに対する信憑を私たちが構造的に欠落させていることと無関係ではないだろう。

だから私たちふたりとも、たぶんこれまで一度も口にしたことがない言葉がある。

それは「俺の気持ちが他人にわかってたまるか」という言葉である。


1月21日

今年度の入試の志願が締め切られた。

阪神間の女子大全体の壊滅的な状況のなかで、どこまで本学が「定員割れ」に耐えて、踏みとどまれるかをうらなう重要な数字である。

さいわい、締め切りが終わった段階で、文学部総合文化学科は前年度並みを確保して、とりあえず教員たちは胸をなで下ろした。

来年からは公募推薦も導入を検討しているし、県下の高校を教員たちが「営業」してまわる、という積極的なマーケットの掘り起こし策も企画されている。できれば、来年からは「攻勢」に転じたいものである。

しかし、総文以外の学科は昨年比20-30%減という悲惨な数字である。

いま何もしなければ、来年以降はさらにこの凋落傾向が加速するだろう。すべてのセクションで、大胆で開放的でアイディア豊かな自己変革に賭ける以外に、本学が生き残る道はないと私は思う。

しかし、変化を恐れる人が大学内部には少なくない。

いや「変化を恐れる」という言い方は厳密ではない。

「変化していることに気づかないひと」というべきだろう。

あらゆる社会組織は有機体と同じように生成し、変化し、死滅する。それは常識である。大学が例外であるはずがない。現に、私たちの大学だって出来たのはわずか50余年前であるにすぎない。

そのあと、英文学科から社会学科が枝分かれし、さらに家政学科が分岐し、それが家政学部となり、さらに人間科学部となり、社会学科は総合文化学科に・・・とわずか半世紀のあいだに、これだけ劇的な変化を遂げていて、その生成変化の先端として現状がある。そうである以上、この現状が固定的なものであるはずがない。

現に、私たちの知らぬ間に、私たちの意思を介在させることなしに大学は変化をしているのである。(18歳人口の推移なんて、私たちの意思でどうこうできるようなファクターではない)

その変化がどのようなファクターによって生じているのか、どのような方向に大学を導こうとしているのか、私たちの仕事は、それをいかにクールに適切に「読む」かだけである。

しかし、私たち自身もまた歴史的生成の渦のうちにある、という認識を持つことができないひとたちがいる。

彼らは昨日と同じこと、一年前と同じこと、5年前と同じことを言い続けている。そして、そのように一貫性をたもっているがゆえに「自分は変化していない」と信じている。

しかし1946年にある立場をとることと、2000年にその立場を繰り返すことは、すでにその歴史的意味を異にしているという平明な真理を彼らは忘れている。10年前であればきわめて冒険的であったはずの提案が、現在ではまるで時代遅れの妄言であるような状況的付置の変化がありうるという単純な事実を彼らは理解していない。

彼ら自身は不動のつもりでいても、時間の流れは彼らが全体の構図のなかで占めるポジションを刻一刻と変化させてゆく。そのようにして、彼らは歴史の舞台を走りまわることを強いられている。それなのに、そのように走り回りながら「私は走っていない」と彼らは悲鳴をあげているのである。

困った人たちだと思う。

改めて言うまでもなく、「自分が自由に思考していると信じているときにこそ、私たちはそのように思考することを構造的に強制されている」という認識はあらゆる学術を基礎づける知見である。ドクサとかイデオロギーとかパラダイムとか、言葉はかわっても、プラトンからポストモダニストまで、その認識においては全員が一致しているはずである。

自分が主体的にものを考えていると思っているときにこそ、私たちはそのように「考えさせられている」。私が語るとき、それは、私を通じて、もっと共同的な水準に通じる何かが語っている。私が大学改革を提言するとき、それは私のアイディアではなく、ある社会構造のなかで私にふられた「台詞」であるにすぎない。

私は決められた「台詞」をしゃべっている。私はミザンセーヌに従って「舞台」を走り回っている。

そして、彼らもまた「台詞」をしゃべっており、「舞台」を同じように走り回っている。

私はそのことを知っているが、彼らはそのことに気づかない。

わずかな違いだ。見た目は同じだ。

しかし、「次の」台詞、「次の」立ち位置、「次の」舞台装置、を「読む」ことが緊急に必要であるような場面では、このわずかな違いが大きな違いになることもある、と私は思う。

おしらせ:

いよいよ明日「武道シンポジウム・武道をめぐる批評の言語」

うっかり試験期間中に設定してしまったので、学生さんたちの集まりがあまりよくないかもしれない。せっかく平川君に東京からわざわざ自弁でお越し願うのに、客がいなくては申し訳がない。

みなさーん、見に来て下さいね。

 現代武道のスポーツ化を批判し、武術的身体運用を通じての「世界」と「身体」の臨界経験の言語化を試みる三人の武術修行者によるトーク・バトル。杖術、空手、合気道の演武ヴィデオの上映もありますし、平川君は空手の型もご披露下さるそうです。

鬼木正道(神道夢想流杖術)

平川克美(松濤館流空手)

内田 樹(合気道多田塾)

とき:1月22日(土)14:00-16:00

ところ:JD館大会議室


1月19日

「内田さんて、映画評論の本書いてるわりにはろくに映画見てないですね」

という厳しいコメントをよく頂く。

正論なので反論できない。

この場合「ろくに見てない」映画は、「とんがり」系の映画のことが多い。

単館ロードショーとかレイトショーでやる「アートフィルム」方面に、私はまったく疎い。

ふつう「マニア」というひとは、そういう映画を中心に見ている。

だから「マニア」同士の会話には、まるでついていけない。

困ったものである。

それにしても、なぜ私はかくも「アート」に弱く、「バカ映画」ばかり見ているのであろうか。

もちろんそれにはそれなりの理由がある。

私のアバウトな分類によると、映画をみて、それについて語るパターンには4通りある。

(1)「誰でも見るような映画を見て、誰でも言うようなことを言う人」

(2)「誰も見ないような映画を見て、(その映画を見た人なら)誰でも言いそうなことを言う人」

(3)「誰でも見るような映画を見て、誰も言わないようなことを言う人」

(4)「誰も見ないような映画を見て、誰も言わないようなことを言う人」

 

(1)は批評としてはほとんど無価値である。これが世上「批評的言説」として流布しているものの90%である。

(2)もまた批評としてはほとんど無価値である。マニアの語る映画批評はほとんどこれである。

オリジナリティの欠落を補うために、このタイプの批評はしばしば、「誰も見ないような映画を、誰も見ないような別の映画やフィルムメーカーの固有名詞に関連づけて語る」という、「循環参照」的な言説構造になる。

私は基本的に(パソコンのマニュアルやラカンの研究書のような)読者に循環参照を強いるテクストは嫌いだ。

(4)は、しばしばめちゃめちゃに面白く、私はこの種のテクストを深く愛するものであるが、「批評」というよりはむしろ「詩」や「小説」に分類すべきであろう。

というわけで、私が「正しい批評のあり方」とするのは、(3)である。

「バカ映画」を「学術的に見る」というのが、いまの私の考えでは、サブカルチャーとしての映画からもっとも豊かな知見を引き出しうる方法なのである。

「でも内田さん、バカ映画みてるとき、口を半開きにしてへらへらしてますよ。あれを『学術的』というのはいささか無理があるんじゃないですか」

まあ、いいじゃないか。


1月18日

うーむ。

『青い山脈』を見ていたら、沼田先生が暴漢に襲われ、島崎先生と街のボスたちの対決が女子校の理事会に持ち込まれ、ロクさんと新子さんがちょっといい感じに・・・というところで「上巻」が終わった。

そのまま、息をひそめて、こたつでじっと画面を見つめていた。

何も映らない。

ヴィデオのパッケージをみると『青い山脈』と麗々しく書いてあり、原節子がにっこり笑っている。

どこにも「上巻」なんて書いてない。

テープを取り出してみたら、終わっていた。

あんまりではありませんか、東宝さん。上巻だけ出してどうすんだよ。

くやしいので『シン・レッド・ライン』を見る。

なかなか戦争が始まらない。そのうち眠くなってしまった。

22日の武道シンポジウムのためにごりごり原稿を書く。

ごりごりごりごり書いていたら、20分の発表予定なのに原稿用紙で32枚になってしまった。しかも、まだまだ話は終わらない。このまま書き続けると、シンポジウムが私の独演会になってしまう。

困った。しかし、書きたいことはいっぱいある。

ごりごりごり。

ああ、どうしよう。

ごりごりごり。

F329『フランス文化論』は今日はなぜか三島由紀夫の『文化防衛論』がテクストである。飯田先生がゲスト聴講生として参加してくれる。林佳奈さんもゲスト聴講生なので、登録している学生は藤塚さんだけである。

三島由紀夫の超男性原理とはちゃめちゃな文化論と「チャイルド・ポルノの規制」についてと「クズ文化の批評」について、飯田先生とがあがあしゃべっているうちに一時間終わってしまった。

今回も、私の「隠れコミュニスト」的本質が露呈してしまった。

少しマルクスに対するこれまでの失礼な態度を改めるべきいかもしれない。


1月16日

15日は合気道部の「鏡開き」。

めにうは「ぜんざい」「お新香」「颱風カレー」「タイ風ビーフン」「タイ風唐揚げ」「キムチ鍋」「チャーハン」「かぼちゃのカレーサラダ」など。ワイン8本、ビール1ダース、日本酒4合、などがひとびとの臓腑におさまった。

ひさしぶりに飯田先生が加わったので、会話はいきなりハイテンション。談論風発で気が付けば午前3時。笑いすぎて疲れてしまった。

16日は、文学部改組のための素案作りのワーキンググループ会議。午後1時から6時まで、ノンストップで激論。論客ばかりなので、私は交通整理に専念。なんとか5時間かけて、文学部教授会のための原案ができた。やれやれ。

さ、家に帰って『青い山脈』みて、寝よ。


1月14日

ドクター北之園と「ゆば」を食べる。

ドクターは私の知る限りかつてはもっとも「ラディカルな高校生」であり、のちに「ラディカルな大学生」となり、長じて「ラディカルな医師」となった人である。人生一貫して、「とにかく過激」というのが実に好もしい。

ラディカルとはものごとを「その根本から考える」知的資質のことである。

どんなことでも「その根本から考える」と異形な相貌をあらわにする。ドクターとおしゃべりしていると、世の中の森羅万象がどんどん「異形」化してきて、なんだかわくわくする。

話題はアトピー治療における製薬会社や治験の問題から始まって、医学教育の諸問題、環境ホルモン問題、乖離性人格問題と多岐にわたった。私はもっぱら専門的知識をほほうと拝聴するだけなのだが、「多重人格」の話題になったので、ここを先途を持説を開陳させていただいた。

ちょっと長いけど、書くぞ。

「多重人格」はいまアメリカで患者数数十万というとんでもない「流行病」である。これを「幼児期の虐待」によって説明するのがいまの「定説」である。療法は、抑圧された幼児記憶を再生させて、否定された自己を蘇らせ、多重化した人格を統合することをめざす。

これは「自己とは何か」という問題について、危険な予断を含んでいると私は思う。

最終的に人格はひとつに統合されるべきである、という治療の前提を私は疑っているからである。「人格はひとつ」なんて、誰が決めたのだ。

私はパーソナリティの発達過程とは、人格の多重化のプロセスである、というふうに考えている。

幼児にとって世界は未分化、未分節の混沌である。幼児にとって世界との接点はもっぱら粘膜であり、その対象は人間であれ、食物であれ、「快不快」を軸にカテゴライズされている。

もう少し大きくなると、ある人間とべつの人間では、メッセージにたいする受容感度が異なることに気づくようになる。コミュニケーションをうまくすすめるためには、相手がかわるごとに、発声法や、言葉使いや、トーンや、語彙を変えほうがいい、ということを学習する。

たとえば、母親に向かって語りかける言葉と、父親に向かって語りかける言葉は、別の「ソシオレクト」に分化しそれぞれ発達してゆく。

コミュニケーションの語法を変えるということは、いわば「別人格を演じる」ということである。

相手と自分の社会的関係、親疎、権力位階、価値観の親和と反発・・・それは人間が二人向き合うごとに違う。その場合ごとの一回的で特殊な関係を私たちはそのつど構築しなければならない。

場面が変わるごとにその場にふさわしい適切な語法でコミュニケーションをとれるひとのことを、私たちは「大人」と呼んできた。

そのような場面ごとの人格の使い分けをかつては「融通無碍」と称した。それが「成熟」という過程の到達目標のひとつであったはずである。

しかるに、近代のある段階で、このような「別人格の使い分け」は、「面従腹背」とか「裏表のある人間」とかいうネガティヴな評価を受けるようになった。単一でピュアな「統一された人格」を全部の場面で、つねに貫徹することが望ましい生き方である、ということが、いつのまにか支配的なイデオロギーとなったのである。

「本当の自分を探す」、「自己実現」というような修辞は、その背後に、場面ごとにばらばらである自分を統括する中枢的な自我がなければならない、という予断を踏まえている。

その予断ゆえに、いま私たちの社会は、どのような局面でも、単一の語法でしかコミュニケーションできない人々、相手の周波数に合わせて「チューニングする」能力がなく、固定周波数でしか受発信することしかできない、情報感度のきわめて低い知性を大量に生み出している。

「中枢的で単一の自我」を理想とするイデオロギーは、「カルト」や「マニア」への社会の細分化、さらには社会集団の「ローカライゼーション」や原理主義や偏狭な部族主義と構造的には同型である。

社会集団は「同質的で、単一で、ピュアであるべきだ」という危険なイデオロギーを声高に批判する人々が「自我は同質的で、単一で、ピュアであるべきだ」という近代の自我論を放置し、しばしば擁護するがわにまわるのか、私には理解できない。

いまの社会では、「自分らしくふるまえ」、「自分の個性を全面的に表現せよ」といった「自我を断片化して使い分ける」ことにたいするきびしい禁忌が幼児期から働いている。そのような社会では、「ある局面においての私」と「別の局面での私」というものを切り離す能力は育たない。そして切り離せない以上、「もっとも傷つきやすく、もっとも耐性に欠け、もっとも柔軟性を欠いた私」なるものがあらゆる場面でまっさきに露出してくることは避けられないのである。

「学級崩壊」というような事態は、単純に言えば、「学校の教室で屈託している私」と「それとは別の世界にいる私」を適切に分離できない、という「自我の多重化不能症」の症状であると私は思う。

最近の若い営業マンのなかには、仕事上のささいなミスを注意すると、血相を変えて怒るものがいる。それが商取引という限定的な人間関係におけるできごとである、ということが理解できず、業務上の失態についての注意を自分の全人格に対する攻撃であるかのように受け取るからそういうことがおこるのである。

学級崩壊もそれと同じである。

教室にいる自分を「へらへら演じる」ことができないで、教室にいる自分を「まるごと生きて」しまうために、精神が痛めつけられるのだ。

いずれも「限定され、断片化された『私』を便宜的に演じる」訓練ができていないことに由来する。

この趨勢はフェミニズムにも典型的に露出している。

「妻らしく」「女らしく」「娘らしく」・・・といった一連の「らしさ」の否定とは、要するに「最終的に収斂すべき、単一の、かけがえのない、中枢的『私』」という幻想なしには、成立しえない。それがどれほど危険な幻想であるか、ほんとうに理解しているフェミニストはおそらくいないだろう。

私がインターネットであれこれと持説を論じたり、私生活について書いたりしているのを不思議におもってか、「先生、あんなに自分のことをさらけだして、いいんですか?」とたずねた学生さんがいた。

あのね、私のホームページで「私」と言っているのは「ホームページ上の内田 樹」なの。あれは私がつくった「キャラ」なの。

あそこで私が「・・・した」と書いているのは、私が本当にしたことの何万分の一かを選択し、配列し直し、さまざまな嘘やほらをまじえてつくった「お話」なの。

「私」はと語っている「私」は私の「多重人格のひとつ」なのだよ。

そういう簡単なことが分からないひとがたくさんいる。

私が匿名でものを書かないのは、そのせいである。

私は匿名で発信する人間が嫌いだけれど、それは「卑怯」とかそういうレヴェルではなく、「本名の自分」というものが純粋でリアルなものとしてどこかに存在している、と信じているそのひとの妄想のありかたが気持ち悪いのである。

私は「内田 樹」という名前で発信してぜんぜん平気である。それは自分のことを「純粋でリアルな存在」だと思ってなんかいないからである。


1月13日

卒論提出が明日なので、学生さんたちがぞろぞろと最終チェックにやってくる。

10月にファーストドラフト20枚書かせているので、12月になって「まだテーマが決まらないんですけど・・・」というような恐ろしいことをいってくる学生はさすがにいなくなった。

先月のはじめくらいに、セカンドドラフトを読んで、そこでさらにあれこれと注文をつけたのだが、こちらの予想を超えてどんどん内容がよくなる。

最初アイディアをきいたときはどうなることかとあやぶんだ論文が、あっと驚くナイスな仕上がりである。

なんだかみんな急に頭がよくなったみたいである。

おそらく四年間の大学生活で脳細胞をフル回転させる機会があまりたびたびはなかったのであろう。使う気になればこれだけ使いでのある知的リソースを自分が所有していることを本人たちが気づいてくれたのであれば、卒論というシステムもなかなか教育的だということになる。

今年の卒論のテーマはまったくばらんばらんである。

日本の美術館の運営についての批判的考察、マスメディアによる甲子園野球の神話化、丹波の町おこしの企画、『ムーミン』論、,手塚治虫論、戦国時代の女性の社会的地位について、摂食障害、大人の絵本、自我論、アニマル・セラピー、音楽療法、母性の危機、「死」の商品化、美人論、Jポップ論、宮崎駿論・・・

いったい何の研究をするゼミなのか、これだけではぜんぜん分からない。しかし、それぞれの卒論のクオリティはけっこう高い。

意表を衝かれたのは「町おこし」。町おこしについての研究ではなく、卒論そのものが丹波の町おこし「プロジェクト」の提言なのである。それをそのまま篠山市の市役所に持っていって「どうですか、これ」とうかがってみたときのお役人のリアクションまで書いてある。「参加型」というのであろうか、インターラクティヴである。

同じ傾向は、美術館研究(これも美術館への取材のプロセスと、研究する当の相手の対応そのものが批判的に論究されている)やふたつのセラピー研究(どちらも現場にいってセラピーにかかわっている)やJポップ論(書き手はコアな「おっかけ」さまである)や摂食障害(ご本人の経験にもとづいている)などについても見られる。

自分の経験がそのまま研究の素材になっており、研究の成果が直接、自分の現実にかかわりをもってくる。こういう研究スタイルは、少なくとも人文科学の分野ではこれまでにはあまり見られないものであった。

「自分」がなまなましく露出する研究スタイルというのは、ある意味では高度に反省的であり、ある意味では、それゆえの限界もある。限界はあるけれど、「身銭を切って」とか「身体をはって」とかいうスタイルは、基本的には、私の好むところである。

これが当今のある種の知的な「型」なのか、それともたまたまそういうひとたちが「るいとも」で集まっただけなのか、いまの段階では判断しかねるけれども、なかなか興味深い現象ではあるのでした。


1月11日

文学部教授会は思ったほどの波乱なく終わりました。しかしいろいろと大胆なご発言が飛び交い、あるいはあの日の会議が神戸女学院大学の「分岐点」だったのかもしれません。(そういうことは未来になって振り返ってみてはじめて分かるのですが)

私の個人的印象としては、W部先生の「研究者としての生活さえ保証されるのであれば、そのほかのいかなる苦難も私は甘受する」というひとことが会議の雰囲気を決定したような気がします。

たしかに贅沢言ってられるような状況ではないのだと私も思います。

しかし、自分でふった話を自分でひっくり返すようですが、以前に廣松渉について書いたことを思い出しました。

話を「現在は危機的状況である」という認識の共有を求めるところから出発する、というのは、マルクス主義の論理構成の常套手段なのであります。

マルクス主義者の論の進め方はこんな具合です。

 

「現在は危機的状況である」(命題A)

→「現在を危機的であると感知できないのは、現状から受益している支配者階級の主観的願望(「このままであってほしい」)ゆえの認識の濁りである」(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)

→「『危機感の強い』ひとは知的かつ倫理的であり、『そうかなあ?』と懐疑的になるひとは非知的かつ非倫理的である」(命題B)(ルカーチ『歴史と階級意識』)

→「変革のプランはラディカルであればあるほど正しく、微温的であればあるほど誤っている」(命題C)(レーニン『国家と革命』)

私が知る限り、マルクス主義者(とかフェミニスト)の書くものは全部、この論法で書かれています。

しかし、よく読むと分かりますが、これはかなり危険な論理の飛躍を含んでいます。

→でつないでありますけれど、「現状は危機である」という「命題A」と「『現状は危機である』と認識する知性は、そうでない知性よりも高度である」という「命題B」のあいだには、実は全く論理的関係がありません。

そもそも命題Bは、蓋然的にはともかく、論理的には偽命題です。

たとえば『ジョーズ』では、危機感の強い保安官は鮫の襲来を予測して超法規的措置に訴え、危機感のない市長はパニックを引き起こします。(蓋然的に妥当する例)

でも『タイタニック』の場合は、危機感の強い乗客たちは醜くボートを奪い合い、危機を生き延びることよりも「現状維持」にこだわる人たち(弦楽四重奏団のひとたちなど)はむしろ人間的には堂々たる態度をとります。(妥当しない例)

で、何が言いたいかというと、「危機管理」をめぐる議論は、その前提となるはずの「現状は危機か否か」というところで、いきなり知性のクオリティの競い合いになってしまうので、けっこうもめちゃう、ということなんです。

「今は危機か否か」という判断は、「あしたは晴れるか雨になるか」というような単なる予測の妥当性の問題ではなく、判断するひとの「知性」の問題に置き換えられます。

「危機派」の人々は、はじめから「啓蒙的」なスタンスをとり、「現状維持派」の人々は、いきなり「知的劣位者」のポジションに放り込まれます。

これはかなりアンフェアな議論の進め方ですよね。

私自身はもちろん「危機派」なんですけれど、自分が会議の席だと、なんとなく「あのね、かみ砕いておしえてあげるけどね」的ないやみな口吻になってしまうのには気がついているのです。そして、それが私の個性から発しているのではなく(一部は私のいやみな個性から発しているが)、むしろこのような論の立て方を選んだ瞬間にそこに内在している言説構造に私自身がからめとられているわけでもあるのです。

ラカン的にいうと「他者が私を通して語っている」わけです。

これはすごく腹が立つのだ。(なんでおいらがマルクス主義者みたいな口のききかたをしてしまうだろう。うう、くやしい)

私は自分の言葉でしゃべりたい。

「内田君て、『自分ではそれと気づかぬマルクス主義者』なんじゃないの、単に」

うーむ。そういう見方もあったか。気が付かなかったよ。

だとすると、私は実は「自分ではそれと気づかぬフェミニスト」で、「自分ではそれと気づかぬポストモダニスト」でもあるのでしょうか。

それだけは、勘弁。


1月6日

湯本で両親と別れて、新幹線で帰神。

車中で夏目漱石の『硝子戸の中』とジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』を読む。どちらも面白い。前日から『二百十日』『野分』と続けて読んだが、漱石はほんとに「いい人」である。レヴィナス先生も偉いが漱石先生も偉い。ファンクラブがあれば入りたいが、なぜか作家思想家については「ファンクラブ」というものがないのが不思議である。

私は「エマニュエル・レヴィナス先生遺徳顕彰会」というものを主宰していて、ひさしくその会長なのであるが、いまだ一人も参加申し込みがない。

みんなで集まって「コワントロウ」を飲みつつ、「レヴィナス・トリヴィア・クイズ」をしたり、「生写真」をみせあったり、「御真筆」のオークションをしたりしたいのだが、そういうことにはみなさん興味がないようである。なぜであろう。

今回の上京では『映画は死んだ』が局地的に(兄ちゃんと平川君に)好評であった。例外は父親。

「うーむ、あれは哲学だなあ。むずかしい。俺は最近はノン・フィクションしか読まんから」

というコメントでした。いちおうノン・フィクションなんですけど・・・。ん?フィクションかな、あれは。

明日から、また散文的な大学生活。初日からいきなり文学部教授会である。

「どういうふうになるんですか?」というお問い合わせの電話があった。

「ジャブの応酬から始まって・・・そうですね。途中からクリンチ、バッティング、ローブローが出て、悪くすると、耳噛み切られてドローじゃないかな」

「誰の耳が噛まれるんでしょうね」

「ぼくのじゃないといいんですけど」

「耳たぶないと、よくきこえないですよ」

「眼鏡もかけられなくなるしね」

「耳、噛まれないといいですね」

ありがとう。気をつけるよ。


1月5日

老両親とともに箱根湯本に湯治にゆく。夕方兄ちゃんが合流。

米寿を迎える父親が「遺産分配」について家族会議を召集。兄ちゃんはすでにスーパーリッチマンであり、私はちかぢかリッチになる予定なので、遺産などといわずに生きてる間に全部遣って下さいな、という鷹揚な結論になる。そういうことを言いながら旅館の代金はぜんぶ親が払う。(兄ちゃんはちゃんとビール代を払ったが、私はコーヒー代¥500しか払ってない。すまない)

美味しいご飯を食べ、ウイスキーをのみ、お風呂に入り、やたら景気のいい話をみんなでしてしあわせな気分になる。


1月4日

東京で会うべきともだちはまだたくさんいるけれど、疲れたので実家で昼寝。藤沢周平と夏目漱石とロバート・B・パーカーと大槻ケンヂを読んで過ごす。


1月3日

エックス義母のところにお年始に伺い、エックス義父の位牌にお焼香。

エックス義父はこの間ノックさんが辞任したとき「戦後、不祥事で在職中に辞任した知事たち」という記事に名前が出ていた。るんは「あ、おじいちゃんが新聞に出てる」と大喜び。さっそく記事を切り抜いて、学校にもっていってクラスメートに自慢すると言っていた。

あまり自慢できる話ではないように思うのだが。

このエックス義父は非合法共産党の中央委員のときに小林多喜二といっしょに捕まって留置場で小林と同じ拷問を受けながら生き延びたという剛の者で、彼が酔っぱらって話す「戦後保守党史裏話」はめちゃめちゃ面白くて、私は爺様の話を聞くのが好きでした。合掌。

そのあと自由が丘の「ヒルズコーナー」で平川君と年賀のご挨拶。

「ヒルズコーナー」は高校同級の植木君のお店。

平川君はサン・ノゼに「ビジネス・カフェ」という、アメリカの起業家と日本の資本のマッチメーキング(ビジネス用語では「インキュベーション(孵化)」というそうです)の会社をつくっているそうである。東京都にもお金を出してもらうので明日は石原慎太郎に会うのだと言っていた。しかしこの平川君が1月22日に本学に来て講演するのは、そういうハイテクビジネスのはなしではなく松濤館空手の話なのだ。

ビジネス・カフェに投資してよ、というので投資を約束する。(平川君と私が創業した会社の株が店頭公開されると私は一夜にしてチッリマンになる予定なので。)

新年早々景気のよい話である。


1月2日

東京に行く。八重洲富士屋ホテルに投宿。というのは、このホテルのバーで高校のクラスの新年会をやるからである。酔いつぶれてもエレベーターで部屋まで帰れる。

シンガポールから来た「信ちゃん」と私のつごうに合わせて急遽召集したので、ふつうに家庭を大事にしているふつうのクラスメートは誰も来ない。来たのは、「信ちゃん」のほかに、「かっちゃん」、「あきら」、「なお」、「とおる」。みんな「家庭の幸福は諸悪の根源」というふるい言葉をいまだに信じているやくざなおじさんたちである。

私はふだん「大学」と「家」を往き来するだけの世間知らずの「主夫」なので、日本経済の先端にいるおじさんたちの話にいちいちびっくり。

この新年会で聞いたびっくり話。

その一:「あきら」は大手化学会社を「早期退職」して、いま「隠居」。なんと、彼の会社では管理職の半分がリストラされたそうである。

「でもね、辞められた方は運がいい方なんだ。残った連中は、まだローンの払いが残っているとか、子供が小さいとかいう理由で辞めるに辞められないんだよ」

つまり「難破船」からたっぷり退職金をいただいて抜けだせたひとはむしろラッキーで、残った連中は、うっかりすると船もろともに沈没。

そういう「早期退職」おじさんがいま世間にはごろごろしているらしい。とりあえず生活には困らないけれど、ひまなのでビデオ屋の店員でもやろうかしらと思っても奥さんが「世間体が悪い」と言って何もさせてくれないので、座敷牢で飼い殺しになっているおじさんはけっこう多いそうである。哀号。

その二:外資系企業の女性キャリアは「収賄」に対してきわめてガードが甘い。

女性であるがゆえに「不当に」アンダーレイトされてきた、という原体験のゆえにか、彼女たちは「不当に」オーヴァーレイトされることに対してきわめて寛大である。

「ちょっとした贈り物」や「ちょっとした役得」を「職務上の権限に付随するリベート」というふうには考えずに、「自分の個人的能力に対する評価のしるし」というふうに理解するので、抵抗なしに受け取ってしまっていろいろトラブルが絶えないそうである。うーむ。

その三:国歌を換えよう

国旗国歌の法制化については「日の丸はよいが、『君が代』はよくない」ということで衆議一決。2002年のワールド・カップまでに国歌を制定しなおしたほうがよいということに決した。条件は「みんな知ってて、サッカーに勝てそうな元気の出る曲」。

私が提案したのは『軍艦マーチ』。これは元気が出るし、なによりも『秋刀魚の味』のテーマ曲であるというのが推薦理由。しかし「守るも攻むるもくろがねの」という歌詞が軍国主義的であるという理由で却下。「じゃあ、インストだけ」。「インストだけだといよいよパチンコ屋」という理由で却下。

かっちゃんが「東京行進曲」を提案。いやそれより「東京ラプソディー」のほうがいいという反対意見あり。中山晋平で行こうということで「カチューシャの歌」「ゴンドラの歌」などが出る。いやいや日本を代表する作曲家といえば古賀政男だから「影を慕いて」との説もあった。小学生たちがうつむき加減の暗い顔で「まーぼろーしのー」と歌う声が卒業式の講堂にこだまするというのはかなりシュールな光景である。歌い上げる曲想のものがよいということで三橋美智也の「わーらーにまみれてよ」も候補にのぼったが、最終的には「青い山脈」に決したような気がする(けれど、かなり酔っていたので定かでない。)

そのあと某医大の偉い先生であるかっちゃんとさらにワインなどを飲みつつありうべき大学教育について悲憤慷慨。高校一年生のときからふたりでいつも日本の将来を嘆いていたが、35年たっても、あまり日本はよくなっていないらしい。


1月1日

丹波篠山春日神社で元朝能『翁』を観る。ここが日本でいちばんはやい。午前0時に除夜の鐘が鳴ると同時に神事が始まり、12時半から『翁』が始まる。

「とうとうたらりたらりら。たらりあがりららりとう。ちりやたらりたらりら。たらりあがりららりとう。」

というのが神歌の最初の詞章である。古代の呪句祝祷の言葉であろうと推察されているが、意味がわからない。赤塚不二夫の漫画に頻用される「たりらりらーん」という意味不明の言葉と何らかのかかわりがあるものと思われる。