とほほの日々

The days of pains and regrets: from 1 Jan 2000



5月31日

うっかり体調が悪いと書いたら、兄ちゃんから叱責メールが飛んできた。

「全部ほったらかして休む。これが責任あるひとの正しい態度でしょう。ぼくも先週、気が狂ったように忙しいなか四日間休みました。その間一度も会社に電話しなかった。でも、なーんにも問題なし。世間は自分で考えているほど自分を必要としていないのです。そんなこと知ってるだろ?」

兄ちゃんの言うとおりである。

世間は自分で考えているほど自分を必要としていない。

私がいなくなっても、当初はちょっと困る人もいるだろうけれど、まあ一週間くらいで、みんな私の不在という既成事実になじんで、それはそれ、ということで楽しく愉快にやってゆくだろう。

でも、それだからこそ、かえって「じゃあ、気楽に休もう」というわけにはゆかない。

というのは、私たちが仕事を休まないいちばん大きな理由は、自分が休んだときに「仕事に穴があいて、みんなに迷惑をかける」ことを避けたいからではなく、「休んでも穴があかないので、誰も迷惑しない」という悲痛な事実を直視したくないからである。

私もそのような事実を直視したくないので、なかなか休めないのである。

それほどまでに自己の存在基盤が脆弱なのか、おまえは、と兄ちゃんは嘆くかもしれない。

そーなんですよ。じつは。


5月30日

「週末のない生活」を4週間続けていたら、さすがに身体ががたがたになってきた。

毎月の定期検診に行くと先生に「尿に白血球が出ている」と言われた。(毎月ちゃんと内科医の検診を受けているのが感心)

「なんだか不愉快な感じとか、痛みとかありませんか」

なんだか不愉快な感じといわれてもねえ。いつも「愉快」というわけにもいきませんし。

鏡を見ると、目の下にえぐるように「くま」が出来ている。顔色もなんだか赤白まだらである。

どこが悪いというより、身体のシステム全体が機能低下しているらしい。

ゆっくり休んで、ぐっすり眠って、たっぷり食べれば三日くらいで回復するのだろうが、その「三日」がなんとも捻出できない。

毎日出講しないといけない時間割もつらい。(木金は1コマだけのために来ないといけないし、オフの月曜土曜はクラブの指導日である。)そして「週末」は6月第四週まで私には訪れないのである。

とほほのほ。

こんな生活をしていると長生きできそうもない。

別に長生きしたいわけではないけれど、できれば健康なまま死にたい。(変だけど)

というわけで、みなさんにお願い。6月中は、私に「用事」を頼まないでね。


5月29日

全日本合気道演武大会と東京大学五月祭大演武会が終了。

神戸女学院大学合気道部はなんだかたくさんの人が参加したようであった。(多すぎて、数えられない)

合気道部は方針として「現地集合・現地解散・自力更正」であり、時間はきびしくパンクチュアルで、その時間にたどりつけないひとは「捨ててゆく」。したがって、集合時間に遅れたひとは異郷の地で自力でみんながいるところまでたどりつかなければならない。もちろん交通手段や宿泊先もすべて「自力確保」である。部として面倒をみる、ということはしない。各参加者が、自分の財力と嗜好に合わせて、深夜バスから飛行機まで、シティ・ホテルからともだちの家までいろいろと選択してよいのである。

とくに集合時刻に遅れた者は「捨ててゆく」というかという原則には「ちょっとひどいのではないか」と涙する向きも多いようであるが、これは私の決めた原則であるので、変えないのである。

たとえ不可抗力であれ、なんからの事情でそこに来なられなかった人は、「ご縁がなかった」ということでご諒解願いたい。

幸い、今回はみなさん「ご縁」があった(というか、主将の江口さんが細かいフォローを入れてくれたようで)全員ちゃんと東京にたどりつき、ちゃんと寝場所も確保し、武道館にも来た。

 

演武会では「国歌斉唱」というものがある。(もちろん五月祭にはそんなものはない)

全員ご起立願って、「君が代」を歌うのである。

何年か前、「君が代」を歌う声が小さい、歌わないやつもいる、ということで開会式の挨拶で怒りまくったひとがいるが、これは怒る方が間違っている。

合気道の修業者は国内100万人、海外50万人である。国内の修業者には在日チャイニーズ、コリアンもいるし、もちろん海外から来たひともいる。彼らは植芝先生が日本の伝統武術を総合的に体系づけた東洋的な心身錬磨の技法を習得するために稽古をしており、その体系は政治単位としての「日本国」とは何の関係もない。

もし、私が例えば「野球」の世界大会に参加したときに「野球はそもそもアメリカ発祥である」ということでアメリカ国歌を歌えといわれたら、「それはちょっと違うんじゃないか」と言うだろう。ゴルフの国際トーナメントで「ゴルフはそもそもイギリス発祥なんだから」ということでギャラリーは全員起立してゴッド・セイヴ・ザ・クイーンに唱和しろといわれても困る。

そういう国家制度は合気道とは何のかかわりもない。

私自身は「君が代」を歌う。

この歌はあまり好きではない。(だから「青い山脈」に変えろという提言もしているわけだが)しかし、私自身が近代的システム=国民国家としての日本国家の一員であり、有権者としてまた納税者としてその社会の成立に積極的に関与している以上、こういう場合には「国民国家」の儀礼的フレームワークはきちんと肯定しないと筋がとおらない。それは私が現在の政治体制の内側で選挙権を行使したり、「菊のご紋章」入りのパスポートを使用していることと同じである。

ただし、これはあくまで国民国家という政治的システムに対する私自身の個人的な政治的スタンスの取りかたの問題であって、私の「政治的自由」に属する。だから、もちろん「君が代」を歌わないひとの「政治的自由」を私は尊重する。(国歌や国旗に対するレスペクトは憲法の規定する「国民の義務」にはカウントされていない。)

そして、「君が代」を歌わないひとにむかって「非国民」と怒号するような人間の政治意識の低さと感情生活の貧しさを深く激しく軽蔑するのである。

国民国家に対する最大の裏切りは国法違反である。「非国民」と呼ばれるべきなのは、国法を率先して遵守する義務を負い、かつ遵守することを他者に強制する権力を保持しながら、なお国法を軽んじるものたちであると私は思う。

 

今回、数えてみたら、参加した多田先生の門下生の関与する団体は合計15に及んでいた。自由が丘、月窓寺、北総、奈良、志木、川崎、大宮、里見、武蔵野、稲門、宏心会、神戸女学院などなど。今回は参加していないけれど、このほかにイタリア合気会、スイス合気会といった巨大な団体が控えている。

よみうり文化センターで指導している同期の小堀秋さんといろいろ話しているうちに多田先生は弟子を育てることについては卓越した力をもっているという話になった。

まあ自分たちも弟子なので、「弟子を育てることに卓越」というと、なんだか具合がわるいけれど、それにしても次々と「のれん分け」をして「独立」していった弟子たちが、多田先生を中心とした緊密で巨大なネットワークを形成しているさまは壮観である。

たしかに多田先生の道統を「継承」し、次代のネットワークの中核となりうるような「一頭地を抜く」弟子というものは存在しないけれど、そのような「ツリー状」の継承関係とは違ったかたちで、いわば「リゾーム状」のネットワークはみごとに機能していると思う。

東大気錬会や早大合気道会の諸君が次々と神戸女学院合気道会の稽古に参加してくれるのもそうだし、うちの学生諸君が「東京お稽古ツアー」で月窓寺で楽しくお稽古させていただいたりするのも、みなこれ同門同士のコミュニケーションの風通しのよさの効果であると私は思う。

 

演武大会のあとは恒例により九段会館屋上ビアガーデンにて多田先生のご招待により大宴会。百人以上集まった上、学生は無料なのである。にわか雨に怯えつつ、ホスト役で走り回る多田先生をひきとめてわいわいとご歓談。

 

多田先生の主宰行事はすべて「ぱっと始まって、ぱっと終わる」。

だから、うっかりしていると先生のお見送りの機会を逸することになる。(前回の広島では、二回とも先生のお見送りに学生たちは間に合わなかった。私は多田先生のすばやさを知っているので、必死に着替えて間に合った)

 

今回も、「ではこれで終わります」の声を聴いて、すぐに階段を駆け下りて玄関まで走ったが、先生はすでにはるか後ろ姿となっていた。というわけで「ご縁のないひと」は先生となかなか別れのご挨拶ができないのだ。

 

飲み足りないので、気錬会OBの高雄君と現役の矢野君をまじえて、瀧さん、溝口さん、飯田先生、ウッキーと神保町でビールとワインをごくごく飲む。

矢野君は合気道をはじめてまだ1ヶ月という新人であるが、高雄君の古くからの「バンド仲間」ということで、高雄君の意外なアーティストとしてのアナザーサイドを知ることになった。そのふたりを話の種にして飯田先生とウッキーががんがん飛ばす。

 

そのあと私と飯田先生は宿舎の学士会館へ。そこでさらにビールを飲む。

「私は実は悪いひとなのだ」という話題になって、「自分がいかに性格の悪い人間であるか」について語るのだが、飯田先生があまり私の「悪さ」を正しく評価してくれない。「そのくらいなら、ぜんぜんふつうですよ」と取り合ってくれない。しかたがないので「おいらは、こんな悪いことも、こんな悪いこともしてるんだぞ」とむきになってしゃべっていたら午前二時になってしまった。

 

案の定、翌朝は二人とも「サバ眼」。

睡眠不足水分不足で東大七徳堂へ。

受け身をとるとげろをはきそうなので、静かにしている。

プログラムは順調にすすみ、OB演武で北澤さんの受けを江口さんがとることになった。主将の凛々しい姿に一同拍手。神戸女学院の学生諸君の演武も「さわやか」でたいへんよろしかったと私は思う。

私の演武はなるべく(くらくらする)頭を動かさないようにして動いたので、なんだか「仕舞」のようなものになってしまった。

演武会には自由が丘の亀井先輩もお見えになっていた。亀井先生には神戸に行く前に餞別代わりに、親しく差し向かいの「送別」稽古を付けていただいた恩がある。演武のあと、ずるずると這いずって行って「どうも、お粗末さまでした」と申し上げたらにやにや笑っていた。二日酔いだったのがばれたかもしれない。

 

多田先生の説明演武をビデオに収める。これは貴重。

最近得意の「庭に猫」の話が出る。

多田先生が庭に立っていると、向こうの垣根から猫が一匹、こっちから一匹・・・というヴィジュアルなイメージが鮮烈すぎて、お話の趣旨が分からなくなってしまった。

 

演武会後、「現地解散」。

私は早大東大のOB諸君をまじえてお昼ご飯。

原君が話してくれる合気道「裏話」に笑い興じる。実に面白い話だったが、面白すぎてここには書けないのだ。

 

というわけで波乱の二日間が終わった。

神戸女学院合気道会、合気道部のみなさん、お疲れさまでした。

楽しかったですね。


5月26日

K談社のKさんと三宮で歓談。

たいへんフレンドリーで熱情的なエディターであった。

Kさんは『現代思想の冒険者たち』シリーズの編集者。ここ数年、現代思想の本を読み続けてきて、いささかストレスがたまってきたところに、『現代思想のパフォーマンス』に出会ってその読者に対するなりふりかまわぬ「サービス精神」にびっくりされて、こういう本を書き、怪しげなホームページをせっせと更新しているのはいかなる人物であるか好奇の念にかられて、出張ついでの神戸でご歓談というはこびになったのである。

三宮の香港飯店で飲茶。生ビールをくいくい飲みながら、レヴィナスについてデリダについて信仰について神について哲学の未来について、熱く語り合う。

熱く語っているうちに、勢いでレヴィナスの入門書を書く約束をしてしまった。

コリン・デイヴィスが終わって、せりか書房の方が終わって、『困難な自由』の改訂訳が終わってからさらに先の話なので、あまり現実感はないけれど、とにかくまた仕事をふやしてしまったことは確かである。

しかし、「来るオッファーは拒まない」というのが私の基本方針であるし、「仕事の依頼があるうちが花」ということもあるしね。

ほんとうは『現代思想のパフォーマンス』をK談社学術文庫化してもらって、ぼくと難波江さんは「文庫版のためのあとがき」だけ書き足して、印税でバリ島というような夢を一瞬は思い描いたのだが、そういうことではありませんでした。

 

小川さんが研究室にきて、今年も学振の応募の季節だという話になった。

ついでに、「君の論文にはメッセージ性が足りないね」と言ったら、片づかない顔をしていた。

言葉が足りなかったようだ。

メッセージ性というより、「パフォーマンス性」といったほうがいいだろうか。

学術論文というのは、客観的なレフェリーがいて、それが公平な成績査定を行う、という共同幻想のうえに書かれているが、もちろん、それはバーチャルであって、実際にはそのようなことはなされていないし、おそらくなされるべきでもない。

私は学術論文は、美術や文学や映画と同じような「作品」だと考えている。

作品を展覧会や映画祭に出品したり、文学賞にアプライして、そのレフェリーたちの審査を受けることは、作家にとって作品のクオリティを反省するうえでのひとつのめやすにはなるだろう。

しかし、審査員たちが作品の出来不出来についてあれこれ議論している「密室」は、作品の「本来あるべき場所」ではないと私は思う。

作品の「本来あるべき場所」は、不特定の観客=読者の前という「オープンスペース」である。

そこでの拍手(とブーイング)の音量、好意(とそして悪意)の強度、作品をめぐる評価の喧噪にさらされ、気まぐれなサポーターと執念深い批判者に翻弄されること。

そこに作品の栄光と悲惨はある。

ロック・ミュージシャンで「日本経済新聞」の「今月のレコード評」に一喜一憂するひとはいないだろう。それは彼らが自分たちの音楽のレフェリングはどこでなされているかをよく知っているからである。

学術論文の場合だってそれと同じである。

論文が、泡立つオリジナリティと形式的な端正さをともに備えていることを求められ「作品」であるかぎり、それが本来あるべき場所は、論文の完成度の査定を行う役人や学者たちの前ではなく、誰も知れぬ、どこにいるかも分からない、不可視の「読者たち」の前である。

作品の入手のために対価を支払い、それを繰り返し玩味し、そこに癒しと愉悦を見出すような読者たちの前に作品は差し出されなければならない。

作品を批評家のために書いてはならない。作品は読者のために書かれなければならない。(だって、ほっといたって批評家は悪口を言ってくれけれど、ほっといたら「読者」はぜったい読んでくれないからね。)

そのことを私は言いたかったのですよ。

自分と同世代の、同じような感覚と臆断を共有する読者たちへ向けて、「熱く」語りかけること。彼らを挑発し、同時に、彼らに知的快楽を提供すること。それがパフォーミング・アートとしての学術論文の真正なあり方ではないのだろうか。

そのことを私たちの業界のひとはあまりに軽んじていると私は思う。

というわけだ。小川さん、「熱いの一丁」お願いね。


5月26日

K談社のKさんと今夕ご歓談の予定である。

会談に備えて、どろなわで高橋哲哉『戦後責任論』を読んで予習する。

書いてあることはすごく正しい。

学級委員的に正しい。

学級委員が「君たち、静かにしたまえ」ときびしく叱責しているのだが、クラスの悪ガキたちは誰も言うことをきかないで、教室じゅうを走り回っているときの学級委員の苦々しさ的に正しい。

女子の学級委員が、怒りにふるえる彼の端正な横顔をみつめつつ「ああ、素敵なお方・・・」とためいきをつくのがよく分かる。

勉強のできるひとたち、規則をきちんと守るひとたちにとっては、とても頼りになるリーダーだ。

でも、勉強もできないし、規則もまもらないし、徒党を組んで悪さのかぎりを尽くすことに人生を賭けているバカガキたちは「うっせーな」というだけで、ぜんぜん相手にしない。

そういうポジションにいる、ということについて高橋君には「これでは、ちょっとまずいかもしれない」という自覚があまりないように思われる。

「ぼくの正しさをわかってくれるひとたちだけに話すね」というスタンスだと、オーディエンスがだんだん少なくなってくるのではないだろうか。(ドイツやフランスでオーディエンスを増やしても、あんまり意味がないように思う。)

もちろん「正しい」ことをあくまで筋を通して語り続けるというのは大事なことだし、勇気のいることだ。

でも、それだけでは足りないと思う。

加藤典洋と藤岡信勝を「ネオ・ナショナリスト」というふうにひとくくりにしてしまうのは、学級委員的な潔癖さの現れだと思う。

でも、加藤と藤岡はぜんぜん違うよ。

藤岡と対話するのは困難だろうと思うけど(バカだから)、加藤と違和を超えて対話できないはずはない、と私は思う。

そこに生産的な対話を成り立たせるには、どのような語法を見出すべきなのか。

これは私にとってもたいへん切実な思想的課題なのである。

私の場合は、たぶん「へらへらした語り口」を選び取るということになるのだろうけれど、これは気質の問題ではなく、熟慮のすえの思想的な態度決定なのである。(私は決して「へらへらした野郎」ではない。どちらかいえば「かりかりした野郎」である。)

でも、なんで「へらへら」になるのかを説明するのはとてもむずかしい。


5月25日

いきなり怖い話。

飯田先生が、階段で「先週、岡真理さんに会いましたよ」と言ってにっと笑った。

ぎく。

岡さんといえば、ちょっと前の「うほほいブックレビュー」で批判がましいことをくだくだ書いた(そのあと反省したけど)若手のフェミニストである。

「岡さん、内田先生のホームページ読んだそうです。」

ぎくぎく。

それはないでしょう。

本人が読まないという前提でこういうものは書いてるんだからさ。

本人が読んだら気を悪くするじゃない。

私はセレブリティをある種の立場を代表する非人称的存在として論じているのであって、ご本人には別に何の遺恨もない。

本人が読むと知っていたら、悪口なんか書きませんよ。(書いている場合もあるが)

しかし考えてみると、セレブリティといっても人の子。世間では私のことをどう論じているのだろうかと気になって、自分の名前をキーワードにしてサーチエンジンをかけるということだって当然あるだろう。そして、うっかり私のホームページに出くわしてしまって、「なんだこのやろう、勝手なことを書いて」とかりかり怒るということだってありそうだ。

うーむ困った。

私も主夫業のかたわら業界にもちょっとかかわっているので、あまり世間を狭くするわけにもゆかない。まあ、私の世間なんかどうだっていいのだけれど、本人が気を悪くされてはすごく申し訳ない。

村上春樹がどこかで書いていたけれど、有名になるというのは、知らない人からぜんぜん身に覚えのない「好意」と「悪意」を同時に向けられる経験だそうである。

私は有名人ではないので、私に向けられた(「好意」については身に覚えがない場合もあるが)「悪意」はすべて「身に覚えがある」ので納得できる。しかし、岡さんは有名人と普通のひとの中間くらいのところにポジションしているので、見知らぬひとからの批判にはまだ慣れていないだろう。けっこう傷ついたかもしれない。

うう、すまないことをした。

ごめんなさい。

以前、K談社のKさんという人からメールを頂いた。

「戦争論」で高橋哲哉のことをいろいろけなして書いた私のURLを次郎君が教えてしまって(Kさんは高橋哲哉の担当編集者なのだ)「貴重なご教示をありがとうございました」という冷や汗もののメールがきた。

高橋さんご本人には見せないでね、とさっそくお願いしたのだが、どうなったのであろうか。

そのKさんご本人が明後日神戸にやってくるという電話があった。

レヴィナスについてなど、いろいろお話をしたいという。

「いろいろ」って何だろう。「シロートさんが商売のじゃましちゃ困るんだよ、おう」とかぱしぱしキックがはいるのかもしれない。うう、怖い。

しかし、ホームページにひとの悪口を言いたい放題書いておいて、本人には(気を悪くしたら困るから)読んで欲しくないというのも、なんだか情けない。私の批評精神というのは居酒屋のカウンターより広い範囲には出てはならない程度のものなのであろうか。うーむ。これは情けない。

などといいつつ、村上春樹編・訳『月曜日は最悪だとみんなは言うけれど』を読んで、大発見をした。

このアンソロジーにはレイモンド・カーヴァー、ジョン・アーヴィング、ティム・オブライエンなどアメリカの錚々たる作家諸氏の短編やエッセイやインタビュー記事が村上春樹ののりのいい訳文で収録されているのだが、その中にトム・ジョーンズの『私は・・・天才だぜ!』という短い自伝的エッセイが収められている。

この人は相当の変わり者で、村上春樹が本人とあったときの話ぶりをそのまま採録すると

「ヴェトナム戦争にずいぶん深くコミットしていたんだが(そのコミットの内容については彼は多くを語らなかった)、事情があって戦争そのものには行かなかった。それでちょっと頭がいかれちまって(ボム!)フランスに行ってしばらく好きなことしてごろごろしていたんだ。でもいつまでもそんなことしてられないから、しょうがなくてアメリカに戻ってきて、広告代理店に入った。四十くらいまでそこで働いていたんだが、俺は何しろコピーライターとしては腕が良くって、ばんばんカネが入ってきた。いやになるくらいもうかった。そのころはジャガーに乗っていた。ジャガーだぜ。知ってるか、ジャガー?知ってるよな。いい車だ。でも仕事そのものはつまらなくて、会社を辞めて、今度は学校の用務員になった、そいでもって用務員を五年やってな、そのあいだにばんばん本を読んだ。そしてこれくらいなら俺にも書けるぞと思った。用務員の仕事もけっこうしんどいから、そろそろ広告業に復帰しようかと思ったんだが、入れてくれないんだ。広告代理店を辞めて学校の用務員になるようなやつはアタマに問題があるって、戻らせてくれないわけよ。それでしようがないからせっせと小説を書いて雑誌に送ったら『ニューヨーカー』が採用してくれたんだ。それでこのとおり作家になった。しょっぱなから『ニューヨーカー』だぜ。うん、ぶっとんじゃうよな。」

というエキセントリックで豪快な人生のひとなのである。ほかにも海兵隊とボクサー時代の話もあるのだが、残念ながら村上春樹はそこまで聴けなかったそうである。「あまりに話すべきことが多いので、適当にはしょったのであろう」と村上は推察している。

そのトム・ジョーンズ自身の短い自伝的エッセイによると、彼はなんとイリノイ州オーロラの出身なのである。

彼は自分の故郷の街を「ブラジルのジャングルの真ん中にあるおぞましい金鉱山」と「そのまわりにひろがる薄ら寒いクソ田舎文化」に類比して、「なにしろ町で唯一生き生きとしている」のは図書館だけで、もし図書館がなかったら「町はどうしようもなく無味乾燥なものとなっていたに違いない」と口を極めて故郷の町の退嬰性を罵っている。

だからどうしたって?

やだなあ、イリノイ州オーロラですよ。

KCMMFCの諸君はもうお分かりでしょ。

パーティ・オン!

そうです。イリノイ州オーロラはトム・ジョーンズとウェイン&ガースの故郷だったのです。

いかにも、という組み合わせでしょ?

 

訂正のお知らせ:昨日の本欄で「鹿児島国際大学の堀田先生」とありますのは「飯田先生」の間違いでした。(梁川君から「ご訂正のおしかりメール」が来た。)委員会のときに「堀田先生」と「飯田先生」が並んですわっていたので名前を間違えて覚えてしまったようです。ごめんなさい。「とほほ」のほうは訂正すみです。


5月23日

あー疲れた。

ようやく「死のロード」が終わって神戸に帰ってきた。

疲労困憊はしたけれど、なかなかに充実した四日間でありました。

カミュ研究会が学会のたびに開かれて、研究発表と情報交換と懇親が行われる。

同じようなタイプの研究会がプルースト、マラルメ、ヴァレリー、サルトルなどなどについて存在するが、本カミュ研究会のきわだった特徴は(代表の三野先生のご説明によると)「大家がいない」ということにある。(「おおや」じゃないですよ。あ、それもいいね。「店子」だけの研究会。)

だから、「ここだけの話だけど」的なあっと驚く大胆不敵な学説を聞くことができる。(今回の発表もけっこうびっくりした。)

私のカミュ論なども紛れもなく「珍説」の類であるが、ここでは実に暖かいオーディエンスを得ることができる。そういう、とてもウオームハーテッドな研究会である。

その『カミュ研究第四号』が発売されたので、学会入り口にブースを頂いて営業して、通りがかる先輩諸氏に売りつける。

「え、内田君が書いてるの。じゃ、買わないとね」とにこやかに財布をひろげてから、¥1300という価格にみなさん「えっ」と絶句していた。

お買いあげ頂きました西谷修、鈴木道彦、吉川一義、西川直子、北山研二、吉田城、諸先生の雅量に深謝。(なぜかプルースト研究の大家のみなさまに集中的に売りつけてしまった。)

学会のできごとについて、あれこれと報告したいのだが、学会に行って分かったのが、けっこう大勢の同業者がこのホームページをチェックしているということであった。

うかつなことを書けない。

うー、書きたいことがいろいろあるんだけどなあ・・・。

日曜日は午前中だけ分科会を拝聴して(バタイユとラカン)、おおあわてで横浜中華街華正楼にて父の米寿の祝いに駆けつける。

何年ぶり、何十年ぶりという親戚ご一統さまと懇談。

いとこ達もみんなけっこうなお年になられたせいか、話題はなぜか「内田家のルーツ」をめぐって盛り上がる。

内田家は庄内藩士の出だということは知っていたけれど、今回、そのさらにご先祖さまが埼玉の郷士で、その村には「内田」という家がいっぱいいる、ということを教えて頂いた。

戦後の混乱期には、うちの父がその遠い郷土へ「買い出し」に出かけて、一族のみなさんから暖かく迎えられたという逸話も始めて聞いた。新徴組の隊士で千葉周作の玄武館にいて、そこそこ剣術を遣ったひとが四代前くらいにいたというのも初耳。

人間、年を取ると、自分の家系について知りたくなる。

どうしてなんだろう。

内田家の菩提寺は鶴岡にある宗伝寺という曹洞宗のお寺だそうである。一度行ってみたいね、と兄ちゃんと話し合う。

月曜日は学会の委員会が終わってからアーバンに顔を出す。

なんだか凄いことになっている。

私が出資した「ビジネス・カフェ・ジャパン」は会長が村井勝さん(コンパックの前の社長さん)、社長が平川君で、アドバイザーには成毛真さん(マイクロソフトの社長さん)とかの名前が並んでいる。マックフリークの次郎君が聞いたら絶交されそうである。

会社案内を拝見したら「東京−シリコンバレーをつなぐインキュベーションネットワーク」という私にはもう全然理解の及ばない世界になっていた。

しかし、とにもかくにも私も株主である。(四億円のうちの100万円だけど)

さっそく「株式店頭公開したら、いくらになるの?」というせこい話を振る。

アメリカ出張直前で走り回っている平川君がにこやかに「秋に十倍、店頭公開したら百倍かな」と軽く言ってくれる。

ひゃくばい?

それって、「いちおくえん」ってこと?

わお。

持つべきものは友である。

松下君ももちろん株主なので、ふたりで、一億円て積み上げると何センチくらいかなと視線をうつろに中空に泳がせつつ夢想にふける。

平川君は、最近、日経やビジネス関係の雑誌ではすっかり「話題の人」である。

有名になるとジャーナリストたちは、「平川克美ってどんな人なの?」ということで、とりあえずインターネットで検索をかける。すると、あろうことかこのホームページがヒットしてしまう。

そらそうだわ。しょっちゅう「平川君」が登場するからね。

このホームページを読んでいる経済誌の記者諸君はどのように思うのであろうか。

「小学校五年生からの友だちと仲良くしているから非常に信頼性の高い人物である」というふうに判断するのか、「ワールド・ビジネスシーンに羽ばたくには、ローカルな人間関係にやや難あり」ということになるのであろうか。

えーと、これをご覧になっている経済誌のみなさん、平川君はすっごくいい人です。

ビジネスセンスは抜群だし、スケールは大きいし、空手もつおいし、友情に篤いし。

ほんとに。

平川君が空港にいってしまったので、松下君とふたりでお昼を食べに行く。

例によってずっと映画の話。

話し出すと面白くって、どうにも止まらない。

「次の本」をまた出そうね、ということで後ろ髪をひかれつつ、新幹線にのって神戸に帰る。

大沢在昌の『無間人形』を読みつつ家に帰ったら、さっそく電話がかかってきて「今日の杖のお稽古どうしたんですか?」と小川さんに詰問される。

そう言えば、午後はやくに戻ってきて五時からの稽古に行くつもりでいて、そういうことをみんなに言っていたような気もする。

松下君との映画話ですっかり時間を忘れてしまった。

ごめんね、みんな。

メールもどかどかたまっている。

H君から、公募に出していたN大学の内定が貰えたという嬉しいニュース。

公募28回目だそうである。

私も30回以上公募して全部落ちた経験があるので、その嬉しさはびしびし伝わってくる。

よかったね。

鹿児島大学の梁川君からは「おしかりメール」。

この人は私を「叱る」数少ない同業者の一人であり、それが私の「成長」を切望しての苦言であるだけになかなかヘビーである。

ちょうど午前中の委員会で、同席した鹿児島国際大学の飯田先生と梁川君の噂をして、「梁川君ってさ、先輩にも遠慮なしに、ばりばり喧嘩売ってくるんだよね。『内田さん、くだらないもの書くなよ』って言われて、論文くそみそに言われたことあるよ」

「そうですか?最近はそういうことないみたいですよ」という話をしたばかりであったが、やはりあまりお変わりなっていないようである。

「お叱り」の詳細にはわたらないが、私のホームページを見て、「レヴィナス研究者の言うことだから・・・レヴィナスの思想って、こういうものなのかなあ」と思う読者に対する責任をもう少し自覚して語れ、という厳しいご指摘であった。

反省。

仏文の同業者もけっこう読んでいるそうだし、日経の記者も読んでいるそうだし、だんだんうかつなことが書けなくなってきたよ。(うちの両親も読んでいるし。)

そう言えば、金曜の晩に家に帰ったら、母親が開口一番。

「あら、いいネクタイしてるじゃない」

もちろん、これだけでは終わらない。

「いつもと違って」

それさえやめたら、うちのお母さんも「すごくいい人」って言われるようになるのにね、と息子は思いました。 


5月18日

明日から「死のロード」である。

金曜日から学会の委員会、土曜がカミュ研究会、日曜が米寿の祝い、月曜がまた委員会。四日間のおしごとである。(ただし肝腎の学会分科会は出られない)

その次の週末もまた東京。こんどは全日本合気道演武大会と東大五月祭での演武。

その次の週末は下川正謡会の本番。

その次の週末は新歓コンパ。

その次の週末は身体運動文化学会での学会発表と杖道の昇段級審査。

つまり当分「週末」というものが「ない」ということである。

にもかかわらず中根さんに5月中にコリン・デイヴィスの訳稿をお渡ししますと約束してしまった。竹信君には6月中にJapan Quarterly の原稿をお渡ししますと約束してしまった。

いったい、いつ仕事をすればよいのであろうか。

『アイズ・ワイド・シャット』なんか見てる暇ないんだよ、ほんとは。

というわけで、とうぶんこの「日記」は更新されませんので、悪しからず。

次は来週の火曜日にお目にかかります。


5月17日

日曜が「母の日」だったのだが、母親のことをころっと忘れていたら、その母親から「督促」の電話がかかってきた。(さすが私の母である。)

母の日の贈り物とかしなくてごめんね、でも今週末学会で東京いくときうちに泊まるからさ。「伊勢の赤福」でがまんしてねと適当ないいわけをして逃れる。

きっと兄ちゃんが息子を代表して母親にカーネーションとか贈ってくれているだろう。

すると私のところに札幌の田口さんから「母の日おめでとう」メールがきた。

私もこれまでさまざまなものに擬せられてきたが、「よそのうちの子」から「お母さん」と呼んでいただいたのはこれが始めてである。

田口さんはいったいまたどうして私を「お母さん」だと思ってしまったのであろう。

私の生来の「おばさん」性が社会的演技としての「父性」とまじりあって「母性」になってしまったのだろうか。(それでは単に「おとこのおばさん」というものにしかならないような気がするが)

男の本質は母性であると太宰治が書いている。

どういう意味なのかよく分からない。

「赦し」を原理とする対人関係ということなのだろうか。

たしかに私は「赦す」ことにかけては人後に落ちない。

わびを入れ、前言を撤回し、まとめて水に流し、「それはこっちへおいといて」、堅いこと言わずに手締めでちゃんちゃん、というのが私のもっとも得意とするスタイルである。

これをして、竹を割ったような(中身のない)人物だと評するひともいる。情が薄いというひともいる。単に世間をなめているだけだというひともいる。「お母さんみたいに無原則だ」というひとがいてもおかしくない。

ともかく、「父でありまた母である」ような大人になりたい、というのは私の年来の悲願であったのだが、めでたく田口さんのおかげでその可能性がかいま見えてきた。

そういうアンドロギュノス的な気分で寝転がって『アイズ・ワイド・シャット』と『セレブリティ』を見る。

こら、あきまへんわ。詳しくは明日の『おとぼけ映画批評』を見よ。

 


5月16日

土日と広島の合気会広島県支部主宰の多田先生の講習会にぞろぞろと15名で参加。

ひさしぶりにお稽古を堪能した。

前回広島にいったのは学会のときで、一度目の鬱病のさなかであった。

鬱というのは(やったことのある人はご存じだろうが)体調と意識の日変化がはげしい。

朝はこの世のものならぬ自己嫌悪と無力感のうちに目覚め、午後になるとだいぶ回復して、深夜、宴会などをしているとふつうの人と変わらない。

宴会中は、「ああ、いまはふつうだけれど、酔いつぶれて目が覚めると、またあの最低の気分が戻ってくるのか・・・」という明日への恐怖感で、どんどんお酒を飲んでしまう。

そのときも鈴木道彦先生や佐々木滋子さんとわいわい騒いだ翌朝、自己史上最悪の「二日酔い+鬱」の朝を迎えた。

世の中にはいろいろと苦しいものがあるが、「二日酔い」で「鬱」の朝、というのはちょっと名状しがたいものである。

そのときの広島のグルーミーな心象風景が記憶に深く刷り込まれていたので、その後近寄る機会がなかった。しかし、こんどは多田先生の講習会である。

たっぷりと稽古して、汗を絞り出して、冷たい生ビールをごくごく飲んで、美味しい広島焼きを食べて、たいへん幸福な気分で帰途につき、広島の印象は一新された。

鬱病というのはなかなか不思議な病気である。

いきなり始まって、いきなり終わる。

ある日突然、自分が生きている価値のないくだらない人間であるということがしみじみ骨身にしみ、それが突然治って「わはは、わしはえらい」になってしまうのである。(これを「治った」といってよいかどうかは別の問題であるが)

これほど世界の風景が激変すると、「ありのままの事実」というものへの根元的な信憑は失われる。同一人物であってさえ、脳内のわずかな化学物質の組成変化で、これだけ世界の様相や経験の意味が変わってしまうのである。他人の目から見える世界がどんなふうであるかなんか、まるで見当がつかない。

他方、私が鬱病で悶々としているときに、周囲の人間のほとんどは私が絶望の縁をよろよろしていることに気付かなかった。それもそのはずで、とにかく学校にはきちんと通い、稽古をばりばりやって、翻訳を出し、論文をわしわし書いていたのである。私の「外面」は恒常性をキープしていた。

タフで惰性的な「外面」に比しての「内面」のこの脆弱さ、その頼りなさに私は一驚した。

というわけで、鬱病で二度ほど泣きを見たせいで、「コギト」に対する私の懐疑は決定的なものとなったのである。

私がコギト主義を徹底的に批判したレヴィナス先生の理説に深く傾倒するのは、そのせいもあるのである。


5月12日

朝、研究室のドアをあけて中に入ったら、机のうえにメモがあった。

時間が押していたので、ちらっと一瞥すると「・・・かさを・・・りました。 小川」とだけ読める。

「・・・かさ」の前には本があってその前が見えない。

「愚かさを悟りました。 小川」

と私には読めた。

はて、小川さんは、いかなる愚かさを悟られ、いかなる叡智に達されたのであろうか。もしかすると、私のような人間を師匠としてきたことの愚かさについに思い至って、新たな知の荒野をめざして冒険の旅に出ることにしたのだろうか。(わくわく)

そのへんのことを詳しく書いてもらわんとのう。

よく見たら「かさを借りました」だった。


5月11日

17歳の娘との家庭内対立が深まっている。

だって、あんまりなんだもん。

先週は学校さぼって岡山までライブを見に行った。

それは許してもよい。暑い日なかに対校戦の応援なんかのために伊丹まで行くのがいやだというのは分からんでもない。

しかし、なんとなく眠いから今日は休む、とかなんとなくたるいから今日は遅れていく、とかいうことを無原則にされていると、親としてはだんだん不愉快になってくる。

今朝もそうだった。

なんとなく面倒らしく、学校にいかずに朝食のあと部屋にもどってまた寝ている。

ほっておけば、また夕方まで寝ているつもりなのだろうか。

学校が嫌いなのは分かる。私も嫌いだった。

勉強をしたくないのも分かる。私もしたくなかったことがある。

眠いのも分かる。私も眠い。

しかしね、何かがいやだ、という以上は、それに代わるものをもっと真剣に探し求めるべきではないかね。

学校が嫌いなら、学校以外の「どこか」をなぜ探そうとしないのか。仕事をしたければ、仕事をすればよい。漫画家になりたいというのなら、漫画家さんに弟子入りすればよい。ロック・ミュージシャンになりたければ貸しビデオ屋の店員になればよい。

私は「世間にみっともないから高校にちゃんと通ってくれ」なんてひとこともいってやしない。

どの選択肢をとろうと、私は物心両面で応援する用意があるといっているのである。

だからちゃんと目的をもって生きてくれよ、と頼んでいるのである。

それに対して、ドアをがちゃんと閉めて黙ってでてゆくという法があるかね。

たしかに自立の「欲望」だけがあって、自立の「能力」がない、という矛盾にいちばん苦しんでいるのは17歳のご本人なのかもしれない。

だけどさ。能力の開発というのは力仕事だぜ。毎日、ちょっとずつ訓練するというしかたでしか、どんな能力も開発されない。

それは今すぐ、この瞬間からでも始められることではないのかね。

いや、これも無意味な詰問だったかもしれない。

その昔、兄ちゃんが私にむかってつくづくつぶやいたことがあった。

「たつるよ、おまえは自分は勉強ができて、兄ちゃんは勉強が出来ないと思っているだろう」

「うん」

「たつるよ、それは違うぞ。『勉強ができる』というのはね、『勉強をする気になれる』ということと同義なのだよ。おまえは勉強をする『気になれる』が、兄ちゃんはどうやっても勉強を始める気分ではないのだよ。分かるか。」

「だったら、勉強する気になれるように努力してみたら?」

「バカだね、この子は。努力というものが『できない』人が勉強ができない人なのだよ。すべては同語反復なのだ。勉強できない人間というのは、勉強なんかどうでもいいと思っている人ではない。勉強をしなければいけないということが分かっていて、それでいて机に向かうことができない人なのだ。努力ができない自分をもっとも憎んでいるのは努力ができないそのひと自身なのだよ。分かるかね」

「ふーん。なるほど。ね、兄ちゃん。悪いけど、勉強のじゃまだから、話のつづきは今度きかしてくれる?」

兄ちゃんのいうとおり、こういうものには原因とか説明とかいうものはない。何かができるというのは、そのための努力ができるということであり、何かができないというのは、「それができるようになるための努力」をすること自体ができないということなのである。

るんちゃんは自立ができない。それは今のところ「自立のための努力をすること、そのものができない」というかたちをとっている。その人に向かって「せめて努力している姿勢をしめせ」というのは、おぼれている人間にむかって「まず泳ぐ努力をしてみなさい」というのに似ている。泳げないからおぼれてるのに。

ま、いいよ。おいらはものわかりのいい父だからね。

17歳の苦しみを忘れたわけじゃない。

でもさ、せめて「ただいま」と「いってきます」と「おはよう」と「おやすみ」と「いただきます」と「ごちそうさま」だけは言おうよ。

もう、それ「だけ」でいいから。


5月8日

17歳の犯罪が連続して起こった。

原因はいろいろだろうが、それらの現象を貫通するものが少なくとも一つあるように思う。

それは「社会制度一般」に対する攻撃的なまでの軽侮の念である。

それについてなら私も分かる。

私の17歳のときと同じだからである。

私は17歳のときに高校をドロップアウトして家を飛び出した。

よく考えると不思議なのだが、別に私は家にも高校に具体的に何か際だった不満があったわけではない。

私の家庭はそれまでの私の(かなりふまじめな)生活態度に対して基本的にかなり寛大であり、ほとんど無干渉であった。学校そのものは冷静に評価すると1967年時点で考え得る範囲でもっとも制約の少ない気楽な学校だった。

にもかかわらず、私は家が私の自由を損なっており、高校は牢獄だと思い込んでいた。

私があらがっていたのは具体的な内田家や日比谷高校ではなく、抽象的な「家庭」と「学校」という観念に対してであった。

今から思うと、少年の暴力的な抽象観念の犠牲となった内田家のみなさんや高校の先生方にはたいへん申し訳なく思う。

しかし、どうしてそういうことになったのであろうか。 

理由ははっきりしている。いまでも鮮明に覚えている。

17歳のある日私はいきなり「世界」を一望できるような包括的な視座に立ちたいという強烈な欲望に襲われたのである。

それまで「内田のたっちゃん」という生身の身体と物語をもった具体的な生活に首まで浸かってきた少年がいきなり「世界を一望する非人称的な視座」、いわば「ラプラスの魔」の視座を欲望するのである。これはとんでもないことである。

吉本隆明風に言えば、「大衆」から「知識人」へ一気に所属階級を変更しようと私は望んだのである。

世界を一望したい。しかし、哀れなことに17歳の少年は「世界」をほとんど知らない。

知らないけれど、「知っている」ことにしないとこのシフトは成就しない。

しかたがないので少年は「世界には知るほどの価値のあるものはない」と断定することになる。

私はニーチェを読み、マルクスを読み、フロイトを読んだ。

子どもの直観は馬鹿にできない。

この三人は17歳の「ウッドビイ知識人」にとってはこれ以上ないほどのベスト・チョイスあったからである。

彼らは三人とも「世の中の常識というものは全部幻想である」と書いていた。

社会制度を成り立たせているのは、ニーチェによれば「愚かさ」であり、マルクスによれば「ブルジョワ・イデオロギー」であり、フロイトによれば「リビドー」であった。

17歳の私にとってはどれでもよかった。

何であれこの世の中の諸制度を成立させている根拠は「ろくでもないもの」だということが分かればよかったのである。

「17歳の危機」は、ある種の生物にとっての「脱皮」に比しうるものだと私は思う。

そのときに私たちは等身大の生活領域に居心地良くおさまっている「具体的生活者」であることを止めて、非人称的な視座から冷たく世界を見下したいという強烈な欲望に灼かれる。

それは非人間的で、傲慢で、身の程知らずで、利己的な欲望だ。

17歳には、にこやかに家族と夕食のテーブルを囲んだあと、みんながTVドラマをみている横で、『内的体験』を読むというような芸当はできない。

「けっ、ばっかじゃねーか」というような捨てぜりふとともにまこと君(17)は二階の自室に駆け上がる。

ドアをばたんと閉めながら「あいつらいっぺんみな殺しにしたろか」とふと口をついてでる暴力的なまでの「日常」の切り捨ては、「大衆」から「知識人」への「テイク・オフ」のカタパルトである。

子どもはそれなしには「もう一つ先」へ進むことができない。

「まことちゃん、イチゴ食べる?」

「ううん、いまジル・ド・レーが子どもを切り刻んでるとこだから、ここ読んだら食べる」

というような「大人の会話」ができるようになるためには、まこと君にはあと10年の修業が必要だ。

「17歳の危機」は成長の過程で多くの人間にとって不可避である。

世界をバーチャルな「一望」のもとに捕捉したいという欲望は必然的に暴力的である。

「死がどのようなものであるかをこの目で経験したかった」という17歳の殺人者の言葉はかなり正確にこの欲望のあり方を指し示している。

というのは、「死」こそは「具体的生活」のいわば極限だからである。

いかなる強記博覧の老賢者といえども「死」について実定的に語ることはできない。彼は死を経験していないからだ。

しかし、たとえ17歳であろうとも、決断さえすれば、それを自分のものとすることも、それを他人に与えることもできる。

それはポップミュージックを聴きはじめた中学生が、音楽史的知識の欠落を補うために、「もっとも新しい音楽」「あまりにマイナーであるために、ほとんど誰も知らない音楽」(したがってしばしば聴くに耐えない音楽)に対する情報感度を異常に発達させるのに似ている。

「私はまだ誰も聴いてない音楽を聴いている。いまあるジャンルの生成の瞬間に選ばれた聴衆として立ち会っている」という感覚によって、彼の「無知の哀しみ」は癒される。

「死」は17歳の「切り札」である。

17歳の私はニーチェやマルクスやフロイトのうちに人類に対する「死亡宣告」を聞き取った。

それは私にとってのバーチャルな「牛刀」であったはずである。

バーチャルな「牛刀」とほんものの「牛刀」のあいだにどれほどの距離があるのか、私にはまだよく分からない。

小田嶋隆がこの事件(5月4日)と石原慎太郎の「三国人」発言(4月10日)について、あいかわらず鋭い批評を行っている。小田嶋は、即物的な意味でも、隠喩的な意味でもおそらく一度も「高みから」暴力を行使する側に立ったことのないレアな「知識人」である。その点で、私と小田嶋はずいぶん違う。(私は殴る側、告発する側の人間であったことが決して少なくない。)その分だけ、小田嶋の批判は私には痛切である。


5月5日

連休なので、とにかく眠る。11時ころに床について、11時ころまで眠っている。

布団を蹴飛ばし、パジャマをめくりあげて、とんでもない姿勢で眠っている。こういう解放感のある眠り方をするのは久しぶりである。起きたときに軽い運動をしたあとのように筋肉や関節がゆるんでいる。三日間でのべ30時間くらい寝た。

 

のそのそ起き出して夕方から大阪能楽会館に「松月会能と囃子の会」を見に行く。

午前九時から午後7時半まで、というやたら長い会である。

能『融』の高橋奈王子さんの小鼓がお目当てなのだが、大トリなので出番は7時過ぎ。それまで長山禮三郎、大槻文蔵といったシテ方たちの舞囃子を堪能する。(素人会なので入場無料なのだ)

高橋さんは合気道部の創立メンバーの一人。クラブの初期の活動を支えてくれただけでなく、自治会活動や「チューリップ作戦」を通じてずいぶん本学のために尽くしてくれた偉い学生さんである。

その彼女が、卒業後、何を考えたか「能の囃子方になる」と言い出した。

古典芸能はもともとは家伝のものである。稽古の密度が違うので、素人がはたち過ぎてから始めても「上手な素人」で終わることが多い。

しかし周囲の危惧をよそに、彼女は大倉流久田舜一郎師の門下に入って数年間、ほとんどすべての時間を小鼓と能楽の稽古に割いて、とうとうこの春には若手のプロにまじって能楽養成会入りを果たしてしまった。

本格的な能を打つのは二度目のはずだが、実地に拝見するのははじめて。

予想を上回るじつに堂々たる舞台だった。たいしたものである。

 

学生諸君のなかには将来にいろいろな希望をもっているひとがいる。

こんなことをやってみたいのだけれど、私にできるでしょうか、とよく質問される。

もちろん私のところにそういう相談にくるひとは、相談をするというよりは、(腹はもう決まっていて)ただ最後の「一押し」を求めて来るわけなので、私は原則として「できます」と答えることにしている。

高橋さんの舞台を見て、その感を深くした。

「強く念じれば実現する。」(もちろん努力も必要だけどね)

 

会には鬼木先生と小川さんが来ていたので、帰り道、いっしょにカッパ横町の丸一で串カツとおでんをつつきながらビールを飲む。

鬼木先生と飲むのはこの一週間で三回目。その間、ずっと武道の話だけをしているのだが、話題が尽きない。昨日は長山禮三郎師の「立ち方」について細かい観察を語ってくれた。

鬼木先生に師事してから六年になるが、その間に(弟子の分際でこういっては失礼だが)どんどん先生の武道家としてのスケールが大きくなってゆくのが感じられる。

ひとを教える立場にいると、弟子が成長してゆくのをみるのは心楽しいものだけれど、ひとに教わる立場にいて、師匠がどんどん大きくなってゆくのを見るというのは「心楽しい」というよりは「息詰まる」ような高揚感がある。

鰯のフライをこりこりかじりながら古流伝授の意義について熱く語る先生の横顔をみつめつつ、ああよい師匠についた、としみじみ思った。

というわけで、「ものを習う」ことの厳しさと楽しみについていろいろ考えてしまった一日でありました。


5月3日

2日は全国杖道大会。大津の武道館まで正道会のメンバー11名でおでかけ。

会として初の公式行事であるので、みんなけっこう気合いが入っている。

今年は平日の開催ということで、参加者はあまり多くなかったが、おなじみの顔ぶれにお会いしてあちこちでご挨拶をする。

鬼木先生おひとりにご出場願って、私たちは「鬼木先生の応援」ということで行こうかしらという案も当初はあったのだが、「競馬場まで行って馬券を買わない手はない」といういささか不謹慎なメタファーのままに応援団も出場することになった。

成績は不本意であったが、鬼木先生からは演武内容はよかったと「合格」のお言葉を頂いた。

全国の杖道家たちの術技を見学することが参加の主目的であったので、その目的は十分に満たせた。

残念だったのは、鬼木先生の優勝シーンを見られなかったこと。(みんな、かなり期待していたんですけど)

終わってから「反省会」を鬼木先生宅で行う。(土曜日に大宴会をしたばかりで、中二日でまたまた)しかし、秋乃ちゃんと遊んだり、ビールをごくごく飲んだり、「駄洒落」大会に堕したりしたために、十分な反省を行い得なかったことがしみじみ反省される。

大会で、若い杖道家とお話しする。居合の大会でよく顔を合わせたことのある非常に礼儀正しい若者。自衛官なので、なかなかレギュラーに稽古ができないという。物腰が丁寧で、非常に折り目正しい。

最近「折り目正しい、爽やかな若者」というものをあまり見たことないので、なんだかびっくりする。ああ、こういう若者がまだ日本に残存しているのだ、と感慨ひとしお。

もしかしたら、自衛隊には彼のような「絶滅種」が奇跡的に棲息しているのであろうか。(「ロスト・ワールド」のように、あるいは三島由紀夫が晩年に夢想したように。)

彼のような自衛官は先般の自衛隊不祥事や石原知事発言をどのように受け止めているのであろうか、ちょっと興味があったけれど、「たぬきのおじさん」の好奇心をさらりと逃れて、彼は爽やかに挨拶して爽やかに立ち去ってしまった。徹底的に「爽やかな」青年であった。

 

果たして私は教育者としてどのような人材を育てようとしているのであろうか、とふと考える。

「自分の言葉で語ることのできる人間」ということを私はひさしく達成目標としてきたが、なんだかそれだけでは審美的には十分ではない、という気がしてきた。

やはり、「美しい」ということはとても大事なのではないか。

「美しさ」というのはむろん外貌のことではない。「たたずまい」とか、「身の処し方」とか、「去り際」とかにかすかにただよう「欲望の淡さ」のことを私は言っているのである。

たぶんかの青年がたたえる「美しさ」は、バーチャルな祖国と同胞のために、戦場で「死ぬ」ことを回避しない、と宣言した瞬間に彼が獲得した「欲望の淡さ」の効果である。

自分のもつ可能性を全部開花させて、フルに自己実現したい、と望むことは間違ってはいない。間違ってはいないけれど、それでは「欲望が濃すぎる」。

欲望の濃度はおそらく「美しさ」と反比例する。


5月1日

土曜日は合気道、杖道を5時間稽古したあと、鬼木先生宅で神道夢想流杖道正道会発足記念大祝賀会。女学院関係の宴会としては珍しく男性参加者が多い。(六人もいた。東大気錬会OBの高雄君、やはり合気道出身で京大院生の小菅君、この春から大阪の高校教師となった早稲田大学合気道会OBの武藤君も稽古に顔を出してくれたのでそのまま宴会に拉致。)

いつもの宴会は女性上位なので私はご飯をつくったりお酒を注いで回ったりの「召使い」状態であるが、この日は珍しく男性が多かった。そのせいで気が緩んでか、ワイン、ビール、ウイスキーなどをどんどん飲んで出される料理を食べ散らかし、鬼木家のご長女を泣かし、言いたい放題言い散らかして、すっかりご酩酊。

翌日が下川正謡会の舞台稽古なので、9時頃にはおいとましようと決意して出かけたばずなのだが、案の定、帰りは終電もなくて、西北からタクシー。

さあ、たいへん。日曜の朝、ヂリリという目覚ましで目を覚ましたときはスーパー二日酔い。

ベッドから這い出して、お風呂でぬるいシャワーを30分ほど浴びるが、とても朝御飯を食べる元気はない。刻々と開演時間は迫る。頭を動かさないように、のそのそと移動してずるずると車まで這って行って、半分眠りながら湊川神社へ。

しかし、よくしたもので、下川先生のお顔を見て「おはようございます」と精一杯の爽やかさを演じつつご挨拶して、きりりと帯を締め、袴を付けると、とりあえずなんとかかっこがついた。

でも、アセトアルデヒドの分解のために全身の血を肝臓に送っているので、脳に酸素が回らないらしく、何がなんだかよくわからない。

開演早々、いきなり『恋の重荷』の地謡を下川先生に命じられ、謡本を借りて、あわてて舞台へ。よく知らない曲なので、隣の下川先生の吸う息吐く息に同調して謡う。

それでも3年余、下川先生の謡をずっと聞き続けいてるので、吸う息と身体の微妙な動きから、なんとなく「次の声」が予測できるようになってきた。

謡出しとフレーズのフィニッシュがぴたりと決まると、なかなかよい気分である。

『恋の重荷』(というタイトルが凄いね。奥村チヨの歌だねと言われてうっかりうなずく人がいても私は驚かない)の地謡で身体に振動を送ったのが幸いしてか、アセトアルデヒドは無事分解されたらしく、そのあとは眠いだけで何とか一日が終わった。

仕舞の『安宅』も「鳴るは瀧の水」の「な」の音が弱いというご注意を受けただけで済んだ。

最後の演目素謡『安宅』の地謡で「虎の尾を踏み毒蛇の口を遁れたる心地して陸奥の國へぞ下りける」を猛スピードで謡い終わってフィニッシュが「ぴ」と決まって、なんとなくよい気分になったところで家路につく。

しかし土曜日からの過激な日程のせいで、家でお風呂にはいったらもうまぶたが重い。そのまま這ってベッドにもぐりこんでトマス・ハリスの『ハンニバル』(うう、おもしろいぜ)を数頁読んだところで爆睡。

こうして、やたら忙しいゴールデンウィークの第一日が終わった。