とほほの日々

The days of pains and regrets: from 1 Jan 2000



10月31日

おっと、うっかりしているうちに10月も終わってしまった。

ミレニアムとか2000年問題とか騒いでから、もう1年が経ってしまったのである。20世紀もあと2ヶ月。あっという間である。

ついこのあいだまで16歳だと思っていたが、いつの間にか白髪の50男となってしまった。まったく Time and tide wait for no man である。

中学生のころに覚えたこういう出来合いのフレーズというのはいつまでも忘れないものである。いまでも、条件法を教えるときに使う英語の仮定法過去の例文はあいかわらず If I were a bird, I would fly to you. 「もし私が鳥であったら、あなたのもとに飛んで行くのだが」である。これだけはすらすらと出てくる。

いつも同じでは芸がないので、先日は石川君にもらったテープに入っていた Love has no pride の歌詞を借りて、If I could buy your love, I would truly try. 「もしもあなたの愛をお金で買えるなら、私はきっとそうするわ」というのを板書したのであるが、訳文を書いているうちになんだかこっちが恥ずかしくなってしまった。

だいたい英語とかフランス語の教科書にでてくる例文には恥ずかしいものが多い。

いちばん恥ずかしいのは Si j'etais riche, j'acheterais une maison. 「もし私にお金があったら、家を買うのだが」というやつである。こういう例文を読むと、それを書いた大学教師のかなしい家庭の事情が透けて見えて、涙が出てくる。

というわけで、時間はどんどん経ってゆく。

昨日は原君を鬼木先生にご紹介する、という大事なご用があった。

鬼木先生の体捌き、杖と太刀遣いの鋭さにすっかり感動。

「こういうふうに身体を遣いなさい、ということを本に書いてあるものを読んだことはありますけれど、目の前で実際に動いているのを見たのははじめてです。眼福、眼福」とうるうるしていた。

「神戸女学院の人たちは、ほんとうに恵まれた環境で稽古してますね。こういうお稽古を続けられたら、いずれ早稲田も東大も追い抜かれてしまうかも知れません」ということでありました。みんな、きいたかね。

稽古が終わって、ぞろぞろと「ふじや」でビールとワインをごくごく呑みながら、焼き鳥、上海やきそば、さんま、湯豆腐、チヂミ、唐揚げ、餃子、焼きおにぎりなどをばくばく食べつつ、武道についてひとびとはさらに語り続けるのでありました。

原君から「もなか」のおみやげを頂きました。明日いただきましょう。ごちそうさま。


10月30日

多田塾同門の原君が遊びに来る。

原君は月窓寺道場少年部出身、早稲田大学合気道会主将と多田先生が手塩に掛けて育てた愛弟子であり、私にとっては端倪すべからざる可能性を秘めた期待の弟弟子である。

今回は、和歌山での武者修行旅の帰途の来神である。

目的の一つは鬼木先生におめにかかって、その杖術の妙技を拝見することである。

ま、稽古は明日、ということで、さっそくビールやワインをごくごく呑みながら、合気道について語る。

いつものことだが、同門の諸君と合気道について話し出すと、もうどうにも止まらない。最後は「多田先生の門弟になれて、ほんとラッキーだったね」ということで深くうなずき合っておしまい。

ふたりの話題のひとつは「弟子のスタンス」について。

師匠に過大な期待を寄せ、師匠におのれの「人生の意味」を与えてくれるところまでをも求める、というのは弟子としてとるべき道ではない、というのが私と原君の共通の見解である。

しかし、残念ながら、先輩、同輩たちの中には、「私はこれだけ合気道に打ち込んだのに、ついに先生は私を救ってはくれなかった」と言って、門下を去っていったものが少なくない。その一部分は「宗教」に走り、一部は武道の世界に「別の〈父〉」を求めたようである。

私は師匠にこれだけ尽くした。だから、これだけのリターンがあってしかるべきだ、というふうな功利的な発想は、師弟関係になじまない、と私は考える。

いや、師弟関係に限らず、すべての人間関係はほんらいそういうものではないのだろうか。

例えば、育児がそうだ。

私はこれだけの時間と労力を割いて子どもを育てたのだから、その分の「見返り」をよこせ、と子どもに要求するのは親として間違っている。

育児というのはそういうものではない。

子どもを育てている時間の一瞬一瞬の驚きと発見と感動を通じて、親はとても返礼することのできないほどのエネルギーと愉悦を子どもを育てる経験から受け取っている。

師弟関係もそれと同じだと私は思う。

「師に仕える」ということは、そのこと自体がすでに深い満足感を伴った行為である。

例えば、私は歩み去る多田先生の背中に最敬礼をする。その私のみぶりを先生は見ていない。それは誰か他の人にショウ・オフするための行為ではないからだ。しかし、そのようなときにこそ、それだけの敬意を向けるに値する人の弟子であることの喜びを私はかみしめている。

師弟関係はそのようにして、瞬間ごとに、往還するものをつうじて、完結してゆくものだ、と私は思う。

分かりにくい話だったかもしれない。ごめんね。

師弟関係というのはなかなかきちんと論じるのがむずかしい。

というのも、師弟関係というのは弟子がある種の「修辞的誇張」を以てしか語ることのできない関係のことだからである。

逆に言えば、「修辞的誇張」を伴わないような関係は、師弟関係ではない。

すべての弟子たちは、その師について必ずや法外な形容詞を賦与する。

「私の師は大洋的な叡智の持ち主でした」というふうに。

なぜなのか。

私はこれについて、以前こう書いたことがある。

「客観性を犠牲にすることなしには触れることのできない知見がある。私たちは師に仕えてそれを学ぶのである。」

「また、もったいぶらないで下さいよ。ウチダさん。『客観性を犠牲にすることなしには触れることのできない知見』って、何なんです?」

「ひ・み・つ」


10月27日

ゼミの面接に「ミュージシャン」が何人か来たというはなしを昨日書いた。

私はご存じのように60年代ポップスから一歩も出ないでそれから30年を過ごしてきた男であるので、(いちばん最近買ったCDがブライアン・ウィルソンとジミヘンであることからも窺い知れよう)昨日も学生相手に音楽談義をしたのだが、私が例に挙げるミュージシャンたちを彼女たちは一人も知らんのよ。とほほ。

そのときは「ある種の音をすごくきれいに発声する」シンガーという話題で、「yeah」の発音がすごくよいリッキー・ネルソンと、「tears」の発音が鳥肌もののJ・D・サウザーの名前をあげたのだけれど、その場にいた学生さんたち十人くらい、誰もその名を知らなかった。

そういうもんなの?

『陽気なネルソン』見てなかったの?(見てるわけないけど)

日曜の正午からNHKでやってたんだよお。(知るわけないけど)

しくしく泣いてから、そうだ、こういうことはあの人が詳しいんだっけと、久しぶりに増田聡さんの「ロック少年リハビリ日記」を読みに遊びに行った。すると、ずいぶん前に私が書き送った「ザ・バンドとかザ・バーズとかザ・フーとか聴いてる私はもうジュラ紀の生物でしょうか」という泣き言に友情あふれるご回答が寄せられていた。

そうか、そうだったのか。私もちゃんとロック史のなかのしかるべき潮流にポジションされているのだ。うるうる。

たいへんに心温まる解説だったので、転載させていただきますね。

Jejune 'This Afternoons Malady'

「リハビリ日記に出てくる固有名詞がさっぱりわからない」というご意見を内田さんより戴きました。申し訳ございません。年齢差別の完全な撤廃を目指す本サイトはかような苦情に深く反省するものでございます。解説いたします。

過日よりワタクシがはまっておりますこのアメリカのマイナーバンドは、「エモ」あるいは「エモーショナル・ハードコア」と呼ばれる、パンク・ロックの最近出現した下位ジャンルに分類されるものであります。

80年代以降のアメリカのアンダーグラウンドなパンクシーンは、しばしば全米的なヒットチャートにバンドを送り出してくる活発な時期があるのですが、近年そのなかで頭角を表しつつあるのがこの「エモ」なるジャンルでございます(以前の同様なジャンルとしましては、90年頃流行った「グランジ」と呼ばれるジャンルがありました。代表的なバンドとしてはニルヴァーナなど)。

だからといってこのバンドが典型的なパンクロック(イメージ的にはセックス・ピストルズとか)のような音楽であるかといえばそうではなく、アメリカの90年代のパンクシーン(要するに白人の労働者階級の若者を中心に栄えている、小さなライヴハウスとインディレーベルを基盤にしたロック文化で、ブルジョアな大学生ロック文化に憎悪を燃やしている)の下部構造はさほど80年代から変化はないのですが、その音楽的な内実はドラスティックな多様化が進んでおりまして、「エモ」というのは典型的なパンク(あるいはハードコア・パンク)的な音楽的典型を逸脱する傾向(一般に「ポスト・ハードコア」と呼ばれます)が、ある音楽的様式に帰着しつつある状態を指すジャンル名であると言えましょう。

一言では言いにくいのですが、敢えて言うならよりメロディアス、かつドラマティックな曲調で、皮肉にも米アングラパンクがイデオロギー的に嫌悪していた大学生ロック(カレッジ・ロックとも呼ばれ、大学ラジオや雑誌をメディアとして流通するマイナーロック)と、極めて似通った音楽性、とも言えましょう。

マスダ的には、似ていても最近のカレッジロックが失って久しい過剰なバカパワーが溢れていることをもってエモに惹かれているわけですが。

さらにこのジェジューンに顕著なのは、90年頃イギリスで流行った、ギターのフィードバック奏法を特徴的に用いた一連のサイケっぽいギターバンド(当時は「シュー・ゲイザー」と呼ばれたりしました。演奏中うつむいてギターを掻き鳴らしていたので「クツを凝視する連中」つーわけです。マイ・ブラディ・ヴァレンタインというバンドがそれらのバンドの偉大なボスであります)の色濃い影響が見られる点です。

シューゲイザー的なバンドはイギリスではすっかり流行遅れな存在となってしまい、当時その手の音を偏愛していたマスダ的には寂しく旧譜や海賊盤を漁る日々が続いていたのですが、アメリカのアンダーグラウンドなとこからその手の音が勢いよく出現してきて「うひょー」と喜んだわけであります。

このシューゲイザー、すなわちパンクを通過したサイケデリック・ロックなわけですけど、このような音楽様式の直接の先祖は実は60年代のザ・バーズなわけなのです。

ようやく話が繋がったな。えーとバーズの2ndの「霧の8マイル」という曲はご存じでしょうか? はっきりいってシューゲイザーってのはこの曲に「かっこえー」とノックアウトされてしまった連中から生まれたといっても過言ではありません。そうなのです。結局ロックバンドの形態でやっている以上、新しいジャンルっても音楽自体は昔の焼き直しなわけで、60年代から80年代に出尽くしたアイディアが定期的に復活しているとお考えください。ジェジューンもその一つです。そんなところでいかがでしょうか。昔のロック少年に優しいリハビリ日記だったでしょうか。

はい、どうも増田さん、分かりやすい解説をありがとうございました。「昔のロック少年」も「エイト・マイルズ・ハイ」大好きです。

私も子どものころに「エド・サリバン・ショー」にザ・バーズが出てきて(リアルタイムで「エド・サリバン・ショー」見てたんすよ、凄いでしょ)、「ターン・ターン・ターン」と「ミスター・タンブリンマン」をやったの見て、「こら、えーわ」と感動したのでした。(でも中学生バンドではヴェンチャーズをやってたんですけど)

しかし、ロックやポップスやジャズを主題に研究をしたいという学生がこうもばらばら出てくると、とても私の手には負えません。今度、増田さんに来ていただいて「ロック・ミュージックへの学術的アプローチ」について語っていただけたらいいんですけど・・・

お、これはいい考えだ。どうでしょう?増田さん、読んでたら、ご返事下さい。(って本人にメールすればいいんだけど)

最初は軽く特別講義をしていただき、いずれ集中講義を、というのはいかがでしょうか。些少ですが、学校主宰のお仕事ですからギャラも出ます。そのあと鴨鍋なんかで熱いの一つ。(これはおいらのおごりで)

たしか「人の酒は断らない」というけなげな決意をされたと聞き及んでおりますが。

どうでしょう、増田さん。


10月26日

ゼミの面接が始まる。

私のゼミは「表象文化一般」であるので、文学、映画、マンガ、舞踊、写真、身体技法、などさまざまなことに関心をもつひとが集まってくる。

定員は12名であるが、面接にはずいぶん大勢くる。

その中にはかなり「変わった人」がいる。

平準値からかなりはずれた人を「検出」するのが面接の主たる役目である。

「平均からはずれた」人を排除するためではない。逆である。

うちのゼミでは「変わったひと」を優先的にとるようにしている。

別に、それがゼミとして正しいあり方であるから、とか堂々たる理由があるわけではない。

単に、「変わったひと」がたくさんいると、私が面白いからである。

私のよく知らない世界をフィールドとしている人からは学ぶことが多い。

うちのゼミは学生さんの研究発表をきいて、みんなで「あれこれ」と半畳を入れる、という形態である。

指導教員はただぽやっとお話を聞き、アンテナのよい学生さんから新知識を仕込み、蒙を啓いてもらい、あまつさえ、お給料までいただくのである。なんと、ありがたい仕事であろうか。

しかし、人間、欲にはきりがないもので、こうなると「私の知ってる話はしちゃだめだかんね。私の知らない話で、面白い話をしなさい」というふうにだんだん贅沢になってくる。

というわけなので、ゼミ生のみなさんは毎度「新ネタ」の仕込みに忙しい。

今日までの面接を徴するかぎり、来年のゼミ生も相当「変わった人たち」が期待できそうである。楽しみだ。

「盆栽と讃岐うどん」に深い関心をよせるという方が今回の「ベストかわりもん」である。盆栽もうどんも一度として私の知的探求の対象となったことのないオブジェである。こういう「盲点」を衝かれると私は弱い。うちのゼミに来てくれるだろうか。

女優、ダンサー、ミュージシャンも何人も面接に来てくれた。芸能ネタでわいわい盛り上がっているうちに、なんだか、芸能プロの面接をしているあくどいマネージャーの気分になってしまったが、もしかすると総文2年生の「芸能系」のひと全員が集まったのかもしれない。

この学生さんたちをグループにしたら、「神戸女学院娘。」がデビューできそうである。

いや、これは意外といけるかもしれない。まじめな話。(まじめになるなよ)


10月25日

ベルギーのK井さんからお葉書が来ましたので、ご紹介します。

Bonjour

お元気ですか。私は無事コンセルヴァトワールの入試に合格しました。当日緊張ぎみであまり思うように弾けなかったのですが、結果は92点で合格しており、意外です。

10月1日から学校が始まり、ピアノの他に室内楽、ソルフェージュ、Harmonie, Analyse, Histoire, Lecture をとり、フランス語がたいへんですが、毎日楽しいです。発見があって・・・ではまた近況を書きます。お元気で

リエージュにて、K井K奈

K井さんは奇人変人の多い私のゼミの卒業生のなかでも、きわだったひとである。

なにしろ文学士のピアニストなのである。

ふつう、ピアニストというのは芸大とか音大とかに進学するのであるが、彼女は神戸女学院の文学部に来て、フランス映画で卒論を書いた。

ピアノがうまいということは伝え聞いていたが、在学中はピアノにほとんどさわらず、彼女の「情熱的」なピアノ演奏を聞いたことがあるのは何人かの寮生たちだけである。

私にとっては最初のフランス語学研修に来た「目の大きくて細い女の子」という印象が強い。

大阪空港に行く途中の十三の駅で大きなトランクを必死でひきずっている姿をみかけて、そのままおしゃべりしながらフランスまで行って、すっかり意気投合して、ブザンソンでもわいわい騒ぎ、ベニスではダブル・オガワさんといっしょにリドの海岸で「ベニスに死すごっこ」をしたりして遊んだ。

卒業後、故郷でピアニストデビューをはたし、地元のFMでは人気もの、という噂をつたえきいたが、はじめてコンサートを聞いたのは二年前のことである。サンクト・ペテルスブルク室内楽団をひきつれて、赤いドレスの裾を翻したK井さんはゴージャスにがんがん弾きまくり、最後は楽団員たちに「女王さま」のように手の甲にキスなんかさせて、えばっていた。

まったく、うまいものである。あまりのことにすっかりたまげてしまった。

去年ご結婚されて、ゼミ生いちどうぞろぞろと福山まで行って、いろいろ面白いことがあったのであるが、実はそのときにはすでに(親に内緒でうけた)ロータリーの留学生試験に受かっていたのである。ふつう結婚式をまじかに控えて留学生試験受ける花嫁はいないぞ。

とはいえ、私はK井さんの留学生申請書類のすべてのフランス語を書いたひとなので、その共犯なのである。新婚の花嫁をベルギーに送り出したご夫君の気持ちを思うと、ちょっと心が痛むが、まあ、K井君には彼の地でがんばってもらいたいものである。凱旋公演をたのしみにしておるぞ。


10月24日

弘前から帰ってきた。

弘前はよいところでした。シックな城下町で、食べ物もおいしく、お酒も美味しく、人心も穏やか。編集委員としての最後のおつとめだったので、分科会発表が終わったあとの解放感で、気持ちがはればれしたせいもあるのかもしれない。

聴取を担当した発表も「うう、わからん」と頭を抱えて泣き出すようなものがなく、みな平明で好感のもてる発表だった。ただ、若い人にはもうすこし「ガッツ」が欲しいところである。発表をきいている老大家が血圧をあげて「ば、ばかもん。何をいっとるのだ」とそのまま殴りかかるくらいの喧嘩腰の発表を、無責任な立場で聞きたいものである。

もちろん学会発表は若い研究者にとっては「デビュー」であるから、業界のお歴々に「名前を覚えていただく」という腰の引けた状態になるのはやむをえないが、あまり小さくまとまった研究では、誰にも「名前を覚えていただけない」ということもある。やはりここは懇親会の席のあちこちで

「・・・の発表きいたかね、内田はん」

「おお、きいたで。おもろいやっちゃなあ、あれ」

「いや、はらはらしたわ」

「**先生、廊下で引きつけ起こしてたで」

「いや、あれでいいんよ。若い人は」

「そやな。若いときは、喧嘩売って、顰蹙買って、なんぼやからのお」

というふうにして固有名の引用回数を増すというようなかたちで若い人にはがんばってほしいものである。

分科会聴取も終わり、懇親会も終わって、編集委員会の中山先生へのねぎらいの乾杯も終わり、佐々木さんにも腹一杯「天狗舞」をおのみいただき、佐々木さん、中山先生、北村さん、北山さんら秋田へドライブにいかれるご一同を送り出して、ホテルのレストランで朝御飯をたべながら最後の半日をどうやって過ごそうかなと考えていたら、カミュ研究会の松本先生から金木の斜陽館に行きませんかと誘われた。

なるほど、弘前といえば津軽。津軽といえば太宰治ではないか。失念しておりました。

金木は弘前からJRと津軽鉄道をのりついで1時間余の距離。半日過ごすにはちょうどよいエクスカーションである。さっそく松本先生とごいっしょにぷらぷらでかける。

りんご園が線路の両側に拡がり、左手に岩木山を眺めつつ、津軽平野をとことこ列車は走り、五所川原で乗り換えて、金木の駅につく。

では太宰治ご自身に金木について語ってもらおう。

「金木は、私の生まれた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町という事になっているようである。」(『津軽』)

この文章がなぜか金木の駅に張ってあるベニヤ板に汚い字で書いてあった。いったいどこが「都会ふうにちょっと気取った町」なのであるか、訪れた人はみな一様に愕然とするであろうが、ほんとに「これという特徴のない」寒々しい町だった。おそらく、昭和初年にはまだ農業もさかんで、活況を呈していたのであろうが、いまはその歴史的使命を終えてしまったゴーストタウンのようにしか私には見えなかった。

その中で斜陽館だけが「異常」だった。

見た目も異常であるが、中も異常だった。同行の松本先生は土佐の大地主のあととり息子で家名と蔵の重さに辟易して育ったそうであるが、斜陽館をみているうちに「肩が軽くなった」とおっしゃっていた。「これくらいのものを背負っていたら、太宰も苦労したでしょう。これに比べれば、私が負い込まされいる過去は軽い。」

斜陽館の「もう滅びた・無意味な・豪奢さ」に圧倒され、彼が歩いた同じ廊下を歩き、同じ階段を上り下りし、蔵を改造した展示室で太宰のポートレートや肉筆原稿を見ているうちに、太宰治というひとがこれまでになく親しく感じられてきた。

向かいのドライブインで「太宰治らうめん」を食し、「富士山」という地ビールを呑み、芦野公園まで足を伸ばすという松本先生と別れてまた津軽鉄道の駅舎へ戻る。

太宰の肉筆原稿を読んでしまったせいで、体の中の「太宰モード」がon になってしまい、「あの文章を読みたい」という痛切な欲望に駆られ、金木の町中、乗り継ぎの五所川原の町を本屋をさがしてあるきまわるが駅の近くには本屋がない。弘前についてまっすぐ本屋に向かい、そこで『津軽』を買い求めて、そのまま読み始める。

太宰の文章にはそういう無意味な渇望を癒すだけの過剰さがある。

青森空港までのバスのなかでずっと読み続け、飛行機の中では眠り込んでしまったので、帰りの阪急電車の芦屋川あたりで読み終えた。

近代文学史は「内面」の発明者は国木田独歩だと教えている。そういう言い方をすれば、太宰もある種の文学的装置を発明した。それは内面とか自意識とかいうものとはすこしちがう。それは「内面」を見透かす視線である。たとえばこんなふうに。

「私が三年生になって、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた箸の丸い欄干へもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れていた。全くぼんやりしている経験など、それまでの私にはなかったのである。うしろで誰かが見ているような気がして、私はいつでも何かの態度をつくっていたのである。私のいちいちの細かい仕草にも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけていのであるから、私にとって、ふと、とか、われしらず、とかいう動作はあり得なかったのである。」(『思ひ出』)

「彼は当惑して掌を眺めた」という「ト書き」を付けているのは、「私の内面」とは別のものである。その「ト書き」を付けているまなざしと言語は、「私」というような充実した密度や厚みもたない、純粋な「ト書き」の機能である。

太宰はこの「ト書き」を語る「非人称的」なまなざしが「私」の内部に生じる壊乱を文学の仕事として記述した最初の作家である。そして、それがもたらす内面の嵐の中で、太宰治は「私」ではなく、「非人称の側」に賭金をおいたのである。

そして「私ならざるものに賭金をおくもの」としての「私」を生き延びさせたのである。

「真実は行為だ」という太宰の言葉に嘘はない、と私は思う。

「私」は自明なものとして、そこにあるのではない。

「私」を言語の効果、意味の結節にすぎないとする知見にあえて与することによって、そのように「私」を否定しうるものとしての「私」の主体性を奪還すること。

ややこしい仕事だ。

その仕事に太宰は成功したのか、失敗したのか、私にはよく分からない。たぶん作家としては成功し、個人としては敗北したのだろう。

『津軽』の語り手は、旅の最後に「子守のたけ」に出会う。その最後の言葉によって太宰治は文字通り「救済」される。

「三十年ちかく、たけはおまえに逢いたくて、逢えるかな、逢えるかな、とそればかり考えて暮らしていたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊までたずねて来てくれたのかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんなことは、どうでもいいじゃ。まあ、よく来たなあ。おまえの家に奉公に行ったときには、おまえは、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんのときには茶碗を持ってあちこち歩きまわって、庫の石段の下でごはんをたべるのがいちばん好きで、たけに昔噺語らせて、たけの顔をとっくと見ながら一匙ずつ養わせて、手かずもかかったが、愛ごくてのお、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。」

これが太宰治が求めた究極の愛の言葉である。

「非人称的なもの」に与してまで、太宰が奪還しようとしたものは、平凡だけれど、「母の愛」だったのである。

私はときどき「母」になることもあるので、「たけ」のこの言葉には涙が止まらなかった。

よいなあ。太宰治は、やっぱ。


10月20日

神戸女学院創立125周年式典がある。なんか半端な周年だね、と思うかも知れないけれど、120周年のときが1995年、震災の年で、式典なんか祝っている余裕がなかったのである。その後、キャンパスの改装も一通り済んで、また比較的のんびりした日々がもどってきたので、5年遅れで周年祝いということになったのである。

周年行事として、社交館の改装や、新クラブ棟(クローバー館)の改装など学生サービス関係への配慮を優先していることを私はとてもよいことだと思う。

私も125周年記念「毛布」というものを買い入れ(原田学長が通りすがりに、いきなり「買って」とふってきたので、「先」をとられて思わず「はい」と答えてしまった)「毛布」はテレビの前において、ポテトカウチ時に愛用している。

姉妹校の同志社やアメリカのKCCからもデリゲーションがおみえになって、堂々たるご祝辞をたまわり、さらに五代目学長のデフォレスト先生の詩に音楽学部の澤内先生が曲をつけた「記念歌」のご披露があった。いちど教授会で聴かせていただいたのを今日はいっしょに歌う。とてもよい楽曲である。KCCのガチョック会長がうるうると感動の涙にむせんでいるのにつられて人々もうるうると涙ぐみ、感動的な式典となった。

私はこういう儀式ばったことをきちきちとやるのが好きである。

いつでもどこでも「俺は俺だよ」という「素顔のままで」通すことをプリンシプルとしている人もいる。要は「心」であって、「かたち」なんかどうだっていいのだ、というのはなかなか立派なお言葉だが、私はそれはけっこう不自由で息苦しい生き方ではないかと思う。、

それらしい場面ではそれらしいふるまいをすること、「かたち」から整えて、「心」を細工してゆくこと、というのはなかなか気持ちの良いものである。

ゆうべNHKで11時から大江千里の司会のトーク番組に町田康が出ていたので、見る。

町田康の本は『くっすん大黒』からばたばたと読み続けて止まらなくなり、先週は『実録・外道の条件』で大笑いしたあとなので、期待に胸を膨らませてTVを見たが、期待にたがわぬ立派な人である。

大江千里君はあまりうまい司会者ではなくて、(誰がゲストの時も)質問がさっぱりインスパイアリングではないのだが、町田君は、そのつまらない質問から引き出しうるもっとも面白い問題を選りだして、それについて語っていた。

その中で印象に残ったのは、「自己表現するのはつまらない」という言葉であった。

私はこう思う、こう感じる、ということを人に言い聞かせるのはさっぱり面白くない。逆に、人に影響されること、自分の中にはないはずのもの経験をすることが面白い、というのである。

私はTVの前ではたと膝を打ち、そうそうそーなんですよ。さすが町田さん、分かっておられると一人うなずきを続けたのであった。

真に知的な人は「自分の内部にはないもの」に対する感受性が発達している。それは決して「他者性の倫理」とかそういうことごとしいものではなく、たぶん出発点においては「自分が自分でしかないことに対するうんざりした気分」というようなものなのだろうけれど、それがパンク・ロックから俳優稼業から文学にまで展開する過程で、とても深みのある思想になっている。

日本文学は町田康を得たことによっていささか命脈をつないだ、と私は評価している。

おそらく、今後しばらくのあいだ、町田康は村上春樹以来、最多のエピゴーネンを得ることになるだろう。もちろんエピゴーネンたちの大半はゴミだろうけれども、それでも「エピゴーネン」を創り出すというのはすごいことなのだ。

さて、明日から月曜までは学会で弘前である。日記はしばらくお休みです。ではさいなら。


10月19日

前にご紹介した在日朝鮮人・韓国籍の方から三度目のメールが来た。

この方も私同様、なんとなく疲労感にむしばまれてきていて、トーンは下がっているが、ジョン・フォードの『静かなる男』のショーン・ソーントンとレッド・ウィル・ダナハーの殴り合いみたいに、このタフな論争相手に対して、私自身はひそかな敬意を感じ始めている。

とにかくメールをありがとう。「付け足し」とこの方は書いているけれど、自分の言いたいことが適切に私に伝わっていないことへの寂しさが私には伝わってきて私は不覚にも涙をこぼしてしまった。

不思議なものだ。「異見」を理解することに抵抗する私の精神は、その「異見」が私に理解されない発言者の悲しみ(と言ってもこの人はたぶん怒らないだろう)に対しては無防備になってしまう。

とにかく、この方のお言葉をご紹介しよう。

えーとですね。最新の日記のその前の日記の分を読ませていただいたんですけれど、幾分困惑しております。左翼的…?私の書いた意見は在日の事情を語るときのごく一般的な概略からそんなに大きくは外れていないはずです。あまりたいしたことは書いておりません。

私どものような人間が何かしら主張することが、内田さんや、内田さんにメールを送った方を傷つけるのでしょうか? だとしたら、本意ではないとともに、主張を変えはしないもののお気の毒に思います。

何が抑圧的な物言いになるかはなかなか自分自身では判じがたいものですが、私どもは日々、朝鮮人ということで抑圧されることが多いというのは事実でありまして、それを言うことがまた他の方々の抑圧に繋がるというのならばたいへん困ったことです。けれど、内田さんもそうですが、メールを送った方も私どもの事情からは単に遠い方のように見受けました。関心がないのならばそれでもいいのです。それでもいいのですよ。

在日朝鮮人は、今、現在他の国々で迫害されている人々に比べれば、随分平和な暮らしをできてはいるのです。…「恩恵」と言っても良いかもしれませんね。経済的発展をとげた日本に住み、私たちは確実にそのおこぼれには預かっています。殺されたり飢えていないというだけで、そのことの証拠となります。まだまだ甘ちゃんであることは疑う余地がありません。よく忘れてしまいますけどね。

このメールは付け足しのようなものでありまして、私は内田さんに対する反論を一応以前の二通のメールでしましたし、それらは特に改変することもなくほぼ全文掲載していただいていますので、もう言うべきことは言わせていただきました。

このメールは転載していただかなくても結構です。名前を伏せていただければ、転載していただいても構いませんが、…まあ、もういいでしょう。

では、これから寒くなりますが、ご自愛ください。ごきげんよう。

 

あなたもご自愛下さい。メールをありがとう。お礼を言います。

もう一人、鹿児島の梁川君からもメールがきた。相変わらず歯に衣をきせぬ直論だが、私はこの年少の友人の「お小言」にはいつも素直に従うことにしている。今回も耳の痛いお説教をされてしまったが、彼の言うことは反論の余地なく正しく、私は「なるほど、ごもっともです」と静かに聞き役に回ることにする。

では梁川君に語って頂こう。

 

内田大兄

お久しぶり。梁川です。在日の人との対話があまり生産的な方向に行ってないようで、残念です。「みなさん意見を言って」ということでしたので、以下に(無粋ながら)気になったことだけちょっと書きますね。返事のことは気にしないで下さい。「あいつそう考えたのか」と参考にしていただければそれで結構。誤解があれば、私の方で今後それを正すよう努力しますから。

まず、大兄の「多文化社会」ということばの使い方です(実際には、多民族・多文化共生社会と言ってますが、私はこれを「多文化社会」のことだととりました)。

私の知るかぎり、ふつうこの言葉は「異った民族や人種が、それぞれの差異を明確に表明しながら互いに共存する社会」を指すものとして使われています。したがって現在の「多文化社会」は、つねにゲットー化・モザイク化の危険と隣り合わせの不安定なものです。

しかし大兄が「日本は多文化社会にならなければならない」と言うとき、それは「異る民族や人種が、それぞれの差異が気にならないほどに国家理念に奉仕しあう社会」という意味で使われているような気がしてなりません。これは私の知るかぎり大兄独自の使い方です。

いいかえれば、通常の意味での(つまり、これまでの)「多文化社会」が、ナショナリズムを不治の病として捉え、その病を抱えたままいかに共存していくかを模索する結果生まれたものだとすれば、大兄の言う「多文化社会」は、それがあればナショナリズムという病を克服することができる(あるいは気にしなくていい)一種の処方箋として提示されているように思えます。

私は在日の人との議論が噛み合わない理由は、相方が「多文化社会」に与えている、この意味の相違にあると思います。つまり在日の人は普通の意味で受け取り、大兄はそこに個人的な意味を付与しているということです。

通常の「多文化社会」では「名乗り」が不可欠です。「私は土着日本人」「私は在日」「私はアイヌ」ということが、この社会の原理だからです。だから在日の人からすれば「多文化社会を是とする以上、お互いに名乗りあって権利を主張しようじゃない」ということになるでしょう。

しかし大兄からすれば「そういう態度をとる限り本当の多文化社会にはならない」ということになるでしょう。

私見では、大兄の言うことは御自身でおっしゃるように「理想」であり、その限りにおいて正しいものです。しかしその「理想」はまた大変に蓋然性の低いもののように思われます。どこの国でも実現されたことがなく、今後も実現される見通しのない(と言っちゃいますね)具体性を欠くものへの「命懸けの跳躍」は、在日の人たちの「再び私たちに日本国籍を取らせたいと思うのならば、まず国籍法を生地主義に改めることで「日本人」の定義を法的に変え、二重国籍も認めるべき」という具体的で現実的な要求との交換条件にはならないのではないか、というのが私の考えです。要は、双方の主張の次元があまりに違い過ぎるということです。これでは相手の要求を「理想」の名のもとに宙吊りにすることにはならないでしょうか。

加えて、大兄の「理想」は本来「世界国家」の理想とリンクされるべきもので、

「日本社会」という個別的なものに対して言われるべきではないのではないでしょうか。

もしそれが「日本社会」の理想として提示されれば、それはかなり過激なナショナリズムと紙一重のものと受け取られても仕方がないと思います。なぜなら、現在私たちがその理想の実現として具体的に思い描けるものは、ナショナリズム以外にないのですから。

以上、話しを一点に絞ったつもりです。在日の人に言いたいことは一切省きました。

それから、フランスの多文化社会論については、Wieviorka, Touraine などCADIS のメンバーのものが参考になります。

ともあれ、メールによる議論は難しいですね。私は最近、親しい人への私信か、仕事の用事か、褒めること以外に、なるべくメールは使わないようにしています。物事やはり便利だけではすまないということでしょうか。

 

梁川君の言うことは正しい。私が自分で「自分の主張の弱いところはここなんだけど」と思ってびくびくしているところをことごとく指摘している。

ただ、繰り返しになるけれど、一つだけいい足しておきたいのは、私は今回の議論では原理原則についての一般論だけを語っており、一度も具体的な法制の水準での議論をしていない、ということである。(梁川君も分かっていると思うけれど)

法制の問題は、「これだとわりとうまくいくんじゃないですか」という非情緒的でテクニカルな精神の領域の仕事であり、計量的知性の登場する領域である。私は情緒的な語法で語るのをやめて、計量的知性が主人公になるような次元に話をすすめませんか、ということだけを言い続けているのである。

その「計量的知性が主人公になるような次元」(「ゲゼルシャフト」といってもいいけれど)への共同的な踏み込み(私はそれを「命がけの跳躍」と書いたのである)をある人は「偽装したナショナリズム」ではないかと疑い、梁川君は「不可能な夢」と判断している。

なるほど、私はそれが「偽装したナショナリズム」に見えることをやむをえないと思うし、「不可能な夢」かもな、やっぱりとも思う。けれども、誰かがこういうことを言わないと議論の「軸」というものは立たないだろうとも思うのである。

それがさまざまな意見の異同と妥協の可能性を前景化させるのであれば、このようなスペキュレーションもそれなりの歴史的機能は果たしていることになると私は思う。(なんだか情けない総括だな)

とにかく、ここに来て、私はなんだか豊かな気持ちになれた。なんでも書いてみるものである。議論に参加して下さったみなさん、どうもありがとう。ちょっと一息入れましょう。


10月18日

本ホームページに新連載企画が二つあります。

一つはBBSでも告知した松下正己君の"Seven days in Tibet"

もう一つはヘル・葉柳の『長崎通信』

こうやってお友達が私のホームページをにぎわすために(ほんとは、私が勝手に「載せてもいいよね」と頼み込んでいるんだけど)コンテンツを提供してくれるのは、まことにうれしいことである。

筆者をご紹介しておこう。

松下正己くんは、私の中学生のころからのおともだちで、私たちのコンビの来歴については『映画は死んだ』の「あとがき」に詳しい。このホームページの「内田 樹の研究史」の所にもちょっと出てくる。「おとぼけ映画批評」の常連寄稿家であるので、その驚異的な映画的知識とシャープな批評精神はみなさんご案内のとおりである。彼はまた「辺境好き」という特異な傾向もあり、(そのため現在も「横浜のチベット」といわれる僻地に住んでいる)しばしば私が敬して遠ざけるような怪しげなところに足を伸ばしている。今回はチベット。

葉柳和則くんは神戸女学院大学のドイツ語の非常勤講師をしていたので、卒業生の読者のかたのなかには「ああ、あこがれの葉柳先生だ・・・」と胸をしめつけられるような方もおられるかもしれないが、ヘル・葉柳は素敵な奥様とかわいい子どもたちとプレスティージのある学者ポストを得て、長崎でカステラや「からすみ」や「さらうどん」を飽食される身となられ、いまや人生順風満帆、ペレス・プラードの「順風マンボ」なのである。その高笑いの日々をご紹介しようという企画である。

では、お楽しみ下さい。


10月17日

ややテンションの高い話がつづいて、ちょっと気疲れしていたら、鳴門の増田さん(この方の張ったリンクのおかげで私は本を出すことになったのである。足を向けては寝られない恩人である)から「はげましのメール」が来た。こういうのはすごくうれしい。ちょっとご紹介します。

えーとそれと今日の日記も読ませていただきました。

僕はうちださんの議論に完全に同意します(ヨイショではなく)

ナショナリズムとか関係の政治的なハナシはなんで党派的な語り口になってしまうのか(そしてガクシャ業界では多かれ少なかれ左翼的な党派を強制されてしまうのか)というのが僕的には悩みの種でして

そのあたりのもやもやしたところがうちださんの書くものの中にはっきりと言語化されてるのをみると「おーいえー」という気分になるのです。

というかそういった「もやもや」を切り捨てるような政治的正しさならいらねえよ、と思うのですが、いかんせんアタマが悪いので「正しい」物言いの前に沈黙してしまう。んで鬱屈溜まる人々が、単に「正しさ」がキライという理由だけで「反動」的党派に身を投じてしまう(ほかに行き先がないから)、というのがいわゆる「若年層の右傾化傾向」といったようなのの実状なんじゃないかと思っています。

僕もカルスタとかマルクスとかフェミニズムとかの方々と正しさ比べやるのは面倒だし、かといってそれをちゃんと改善できる能力も知力も根性も度量もありませんので「マルクス主義右翼、かつ九州男児」という投げやりな自己規定で開き直るしかないんですけど、それもたぶん偽悪としか取られないのでしょう。やだやだ。

というわけで僕にできるのはこーいった普通の(僕は自分は日本で一番普通の市民だと思っていますが誰も認めてくれません。しくしく)人が持つもやもやみたいなのを、他の人と共有できるコトバと論理に変えていく作業を遂行しておられるうちださんを褒め称えることしかないわけなのです。「世界への最も正しい対し方」というのはまさにその意味で本気なのであります。

ですから「マスダの推薦なんて絶対に信用できねえぜ」なんつうことになってしまっては逆効果ですんで、ワタクシもまた日々の生活を正しく律しているつもりです。人の酒は断らない、とか。

すみません長々とわけのわからないことを書き殴りましたがとにかくうちださんの書くことは僕にとって非常に役に立っているということが言いたいわけであります。はい。

それでは。ワタクシもがんばります。

 

という増田さんからの「元気の出るメール」でした。

増田さんもがんばってください。

「自分は日本で一番普通の市民だと思っている」のだけれど、メディアに流通する言説のどれについてもどうしても共感がもてない、という悩みをもっているのは増田さんばかりではない。もちろん、それもそのはずでこの方たちは実は自分でおもっているほどは「普通」ではないのである。だが、「サイレント・マイノリティ」のこのみなさんたちこそ私にとってはかけがえのないオーディエンスである。

村上春樹が「お店の経営」のこつとして、「10人来る客の9人に好かれようと望んではいけない。10人のうちの1人が繰り返し来てくれればお店は成功である」ということを書いていた。

ホームページもお店と同じようなものだと私は思う。

私のホームページは、この鳴門の増田さんや、鹿児島のasukaさんや東京の平川君や鈴木先生や長崎の葉柳君のような「リピーター」によって支えられている。逆に言えば、あまりに意見や立場の違う人に対しては、基本的なサービスはするけれど、あまりフレンドリーなサービスは提供できない。

BBSに「内田さんに問いたい。あなたはいったい何と名乗っているのですか」という問いを書き込んだ人がいる。

あのね。このホームページは一応私の「家」である。

ひとの「家」に「お邪魔した」ひとが「あるじ」に向かって「あなたは何もののつもりなのだ?」と問いかける、というのはちょっとないんじゃないかと私は思う。

私は固有名で発信しており、住所も電話番号も公開している。政治的意見も社会的立場も、日本語を読めるひとであれば誰にでも分かる程度には明らかにしている。

それにたいしてわずか数行の書き込みを匿名で行う人間が、まるで対等の立場であるかのように「人定質問」をしかけてくる、というのはどういうことであろうか。

匿名で発信するということは、そのこと自体においてすでにいくぶんか「暴力」的である、ということをこの人はよく分かっていない。

匿名で書くものはリスクなしに人を侮辱することができる。

だからこそ、固有名で発信するものには許されるような発言を匿名で書くものは自制しなければならない。(私はそれがいやなので、固有名でしか発言しないのである。)

私はちょっとびっくりしたぞ。

私は「対話をしたい」ということを繰り返し申し上げているが、対話を継続するためには条件がある。それは最低限のディセンシーをわきまえるということである。それは他者性の倫理とか、政治的正しさとかいう「以前」の問題である。

もしこの問いを発した人が私の友人であったり、同僚であったりした場合、「あなたはなにものなのだ」という質問はそれほど失礼なものではない。(言い方にもよるが)私はその人が知りたいことをできるかぎり精密に伝えようと努力するだろう。しかし、おのれが「なにものであるか」を明らかにしない匿名の人間からの質問であれば、私はそれほどていねいには応接できない。(努力はするけど)

このような問いかけに私がにこやかに回答して、知りたいことを教えてくれるはずだ、とこの人は信じて書いたのだろうか。そうだとすれば、世の中はそういう仕組みにはなっていないよ、というほかない。

このような問いかけをすれば、相手が絶句したり、何かぼろを出すだろうと期待して論争的な意図でしかけた問いなのだろうか。だとすれば、この人が習得したこの論争方法を私はあまり好きではない。

そういう論争の仕方はたしかに経験的に相手を黙らせるためには有効だ。でも、そこからは何も始まらないと私は思う。それは何かを終わらせるための言葉であって、何かを始めるための言葉ではないからだ。

論争というのはふつう「私は正しい」と思っているもの同士のあいだで行われる。それぞれがそう信じているくらいだから、それぞれの言い分には必ずいくばくかの掬すべき知見が含まれている。それぞれの言い分のうちの汲むべき知見を汲み上げて、お互いを豊かにして、終わったあとに「ああ、話してよかった」となるのが対話的論争の楽しみである。

論争を不毛にしないための工夫はだからコンテンツにではなく、「相手からどうやって有益な知見を引き出すか」をめざす語り口にある。

どれほど違う意見でも適切な語り口で語り出されれば、なけなしの共感をそこから引き出すことができるし、どれほど近い意見でも語り口を間違うと、得るところなく終わってしまう。

私はいまあまり「対話的」な気分になっていない。これはあまり自分でもよくないと思う。でも、私だってたまには不機嫌になるときもある。

でも、そういうのは長くは続かないから大丈夫である。明日はまた機嫌をなおしますから、今日はちょっと口調がきつくてごめんよ。


10月16日

先日メールをくれた方(在日朝鮮人・韓国籍)の方から二度目のメールが来た。

意図的に悪口を書く以外に、不用意な発言で誰かを怒らせるのは私の望むところではない。しかし、「私はあなたの発言に怒りをおぼえた」という人がいる以上、私はその怒りに対して有責である。

その有責性をどうやって引き受けることができるのか、私には「正しいやり方」が分からないが、とりあえずその方の言葉と私の言葉を並べて提示し、みなさんに「判定」して頂くのがいちばんフェアだろうと思う。読んで下さい。

 

私は、当初の内田さんの文章を読んだときに、深い深いところで静かな怒りがわきおこるのを感じました。

傷ついたわけではありません。近年、あなたのような一見リベラルと中立を装いながら、決してそうではない意見をよく見るから慣れています。

それに、私はすでに10年以上前に、内田さんの意見と同じようなことを書いた本を読んでおり、そのときに深く傷つけられています。それは、「現代コリア研究所」というところの所長をやっていた人物が書いた、「在日韓国・朝鮮人に問う」という本です。その内容は、「在日は甘えている。日本以外の国籍を持つことで、特権を持っている」というものだったように思います。「現代コリア研究所」というのは、「新しい歴史教科書をつくる会」と人脈的につながりがあり、主張するところは双方かなり親和性があります。内田さんが自由主義史観の批判をなさっていたのを読んだ記憶がありましたが、私から見れば、今回の内田さんのご意見は彼らのもつメンタリティにかなり近いものがある。私は、通常は、そういう意見は見ても放っておきますが、今回意見する気になったのは、あなたが「多民族共生社会」の到来を肯定するようなことを書いていたからです。傷つきはしないが、深い深いところで静かな怒りを感じます。

パギル(朴一)さんの民族性云々というくだりに違和感を憶え、それが気になるのなら、民族性に捕らわれているのはあなたではないのかと前信では書いたのです。自らの民族性というものが他民族の民族性によって侵食を受ける、もしくは損をするというメンタリティがあるのではないかと書いたのです。だから、お金のたとえも出てくる。もっと論じられるに値することは山のようにあるというのに、その程度のことで、そういう言葉が出てくる(笑)。そして、私が何か言うと「咎める」と言われる(笑)。

おそらくパギルさんは二世で、朝鮮語を話す両親に育てられた世代でしょう。私は三世で、親も私も日本語で考え日本語を話し朝鮮語はできない。私は日本の学校に通い、民族教育を受けたことがない。親族以外は在日コミュニティとの接触はほとんどない。食べるものはほとんど日本食、敬愛する友人はほとんど日本人です。全身日本に浸かっているようなものです。

ばりばりの民族主義者に会ったなら、「せめて朝鮮語を憶えろ」ときっと私は説教されてしまうことでしょう。私は朝鮮語ができないことを恥じません。空気を吸うように朝鮮語を習得できなかったのは私のせいじゃないからです。しかし、今私が日本に暮らし日本語を母語としていることは、明らかに歴史的経緯の末に生まれた状況です。それは、私は決して忘れません。同じように、私が現在日本国籍を持たず、韓国籍を持つという、内田さんのような方からみたらへんに思われるような状況にあることも全く恥じないし、そうなった歴史的経緯も決して忘れない。

私たちは、戦前には日本国籍を持っており、選挙権もあった。それがサンフランシスコ講和条約で取り上げられ外国人ということにされた。私たちは朝鮮人だが、私たちを恣意的に日本人にしたり朝鮮人にしたりしたのは日本です。例えば、私はその成り行きの延長線上で韓国籍を持っているわけですが、それをずるいことのように評されても困ります。再び私たちに日本国籍を取らせたいと思うのならば、まず国籍法を生地主義に改めることで「日本人」の定義を法的に変え、二重国籍も認めるべきです。

今では在日の多くが日本人と結婚し、その子どもがある年齢になったら日本国籍かもうひとつの国籍かどちらかを選ばなければならない局面が増えているかと思いますが、そういう選択を迫られること自体、あまり健全なこととは思えません(ところで、前信で国籍法が父系の血統主義であると書いたのは、私の誤りでした)。何も私たちが内田さんの言うところの「命懸けの跳躍」をしなくとも、法律を変えるだけでかなりの問題は解決するのです。そして、これは今までもいたし、これからも来るであろう「ニューカマー」と呼ばれる人々にも充分あてはまることです。

「命懸けの跳躍」を他人にさせようとしないでください。あなたが現在インサイダーであること、もしくは自認することはあなたの都合なのです。そして、私たちをかわいそうな人たちのように形容するのもやめてください。内田さんは「共生」を救命ボートにたとえ、私がまだ海に浸かっている人間というふうにお書きになりましたね。私はそのたとえを認めません。私はボートに乗せてくれと懇願しているのではない。ボートに乗っていないのでもない。私たちは、内田さんが生まれる前から連綿と続いて日本で生活していたのであり、日本人という他人との「共生」などとっくに果たしているのです。それが一般的日本人からは見えなかっただけです。それが充分に吟味された上での「他民族共生社会」という理念でなければ、かつての大東亜共栄圏の発想と根っこは変わりません。それに、私は理念に駆り出されて動かされることがあまり好きではないので、内田さんのお供はできないかもしれません(笑)。これからの「他民族共生社会」は理念とともにやって来るのではありません。日本が移民を入れざるを得なくなって(日本の都合ながら)いやおうなしにやってくるのです。そのときに日本人、そして、在日が「新しい住民」に対してどのような皮膚感覚を持つかが正念場だと考えます。日本しか知らない在日もその点では日本人と条件は同じです。しかし、私たちにはかつて日本に新しくやってきたという来歴がある。その意味で、「新しい住民」に対する責任は日本人より重い。かつての日本人のように彼らに対してふるまってはならない。とは言っても、なかなか責任が全うできるものではないのですが、忘れないでいることはしようと思っています。

最後に。私は国籍にアイデンティティを重ねることを最もやってはいけないことの一つと考えていますし、「民族的」なるものからは極力自分を遠ざけて生きてきました。だからこそ、パギルさんのおっしゃるような程度の「民族性」という言葉には、それほど気にならないといいますか。日本に首までどっぷり浸かって暮らしているのはパギルさんとて同じだろうと想像します。その中で発露する程度の民族性です。枕詞のようなものかと思います。もし在日が鼓舞されたとて、たかだか60万人です。

今後、移民の数はもしかすると数年でこれを越えてしまうかもしれません。

西成彦さんの『クレオール事始』という本の冒頭に面白い言葉があって紹介しようと思ったのですが、ちょっと今は本が見当たりませんのでやめておきます。自由への道がここにはある(かもしれない)というふうには思わされたことでした。

長々と書いてしまいましたが、今回も名前を伏せていただければ、転載していただいて構いません。むしろ、転載していただきたい。

おつきあいいただきありがとうございました。

では、ごきげんよう。

 

というものである。

私は対話のためにこのサイトを開いており、ここでは誰かを黙らせることや、対話を終わらせることを主な目的として発言することはしないようにしている。

私への反論はこのサイトの貴重なコンテンツであり、それは私のサイトの不可欠の構成要素であると思っている。反論の対比によって、私が言いたいことは、みなさんにはたぶんより見えやすくなるだろう。(それは「より批判しやすくなる」ということでもある。)

そこで、話をもう一回だけ蒸し返すけれど、この件についての私の意見はほんとうに単純である。

(1) 日本は多民族・多文化共生社会になるべきである。

(2) 単一民族・単一言語・単一文化という幻想に固着している人がいる。

(1)は理想である。(2)は現実である。私の問題の立て方は、どのようにして(2)の現実を解消して、(1)の理想を実現するか、というものである。(2)の現実を追認したり、強化したりする言説は(1)の実現の阻害要因になるだろう、というのが私の意見のすべてである。

私はこのような考え方の中には排外主義的なモメントは含まれていないと思う。

この方はナショナル・アイデンティティを保持しつつ、多民族社会を構成することはできるというふうに考えている。民族性などというのは「枕詞」のようなものでそれほどの実体はないのだ、というふうにも書いている。

しかし、フランスやドイツやアメリカの多民族「共生」の実状に徴する限り、あるいはもっと過激な例では旧ユーゴスラビアの実態を徴する限り、民族幻想というものの根深さと、それがしばしば分泌する排他性と暴力性を過小評価することはむずかしい。

たとえば、私とこの方は同じ空間を共有し、同じ言語を語り、同じ文物を享受していながら、かなり酒精分の高い言葉をやりとりしている。(私にとっては珍しいことだ。)

これは、「民族的な立場の違い」ということが主たる理由であると私は思う。

この方はメールの中で繰り返し(笑)という貶下的な記号を使っているし、メールの最後では私との対話の打ち切りを事実上宣言している。

こういう「熱い態度」ととる人は、これまで私が扱った政治的論件に関しては一度もこのサイトに登場したことがない。それだけ、この問題は「ホット」だということだ。

私は民族性と言う問題を主題にして語っているわけだが、それは私が「ナショナリスト」であるからではない。私とこの方を二人ながら(おそらく、ふたりともふだんは自分のことを「知的でクールな人間」と信じているはずなのだが)不本意にも「熱く」させてしまう、ナショナリズムというものをなんとかして相対化したいからであり、そこから逃れ出たいからであり、さらに言えば「無害化」したいからである。

法制を整えて、外国から二重国籍の移民を受け容れ、日本にさまざまな出自のエスニック・グループが物理的に混在し、それぞれ平等の政治的権利を有することが、日本の国際化の第一歩だというふうに私は考えていない。

私はナショナル・アイデンティティの排他性とその無意識的な根深さをそれほど甘く見ることができないからである。

現に、この問題についてこの方の批判は私の思考を「日本人であるがゆえの、逃れえぬ無意識的なナショナリティ」のうちに回収することをひとつの論争的戦略としている。これはある意味では自己矛盾的な批判である。

というのは、私が自由主義史観派と同類であるというふうに見える視点というのは、「日本人がそれと知らずに共有している無意識的なナショナリティ」というもののはかりしれない根深さと、治癒不能性について絶望的な見通しを持っている人に固有のものだからだ。

その「見通しの暗さ」については、私とこの方はそれほど隔たっていないようにに思う。

「おのれ自身をとらえているナショナリズムに気がつかないのがナショナリズムの深さの動かぬ証拠なのだ」というふうに言う人は多い。しかるに、そのような知見は人間のさまざまな言動のうちに「ナショナルなもの」の痕跡を執拗に検索するまなざしぬきには成り立たない。そして、「人間のさまざまな言動について、ナショナルなものによる動機づけを優先的に探索するまなざし」のことをふつう私たちは「ナショナリズム」と呼んでいるのである。(ブランショ的な無限後退だ。やめよう、これは)

ともかく、その意味では、私もこの方も程度の差はあれ、ナショナリズムという病に罹患していると私は思う。

私たちが分岐するのは「そのあと」の処方である。

私はナショナリズムというその痼疾からどうやったら私自身は治癒されるのか、ということを考えている。

「君は(自分では気づいていないかもしれないが)病気だ」という診断がまず最初にくる。ふつうはそこから始まる。私はその診断を受け容れる。

しかし、「君は病気だ」という言葉を繰り返しても、それ以上さきには進めない。

「どうやったらこの病気から癒されるのか」というふうにどこかで問いをシフトするほかない。

この方の意見を読むと、あるとき(例えば、私が無意識的な排外主義者であることを指摘するときには)にはこの「病気」の不治性を嘆き、べつのところでは(在日の方たちのナショナリズムについては)この「病気」が軽微なものであると書き、べつのところでは(さまざまな出自の移民たちの受け容れを薦めるところでは)いろいろな種類の「病気」の罹患者が混在すれば、「病気」の毒は相対化されるというふうに書いている(ように読める)。

私はこの点についてずいぶんと評価を異にしている。

私はこの「病気」が危険な病であり、簡単には癒やすことができず、それが「混在する」ところでもっとも危険な症候を呈する、という経験的知見から出発する。

それを克服するためには、ナショナルな出自とは無関係に、ある明確な理念を備えた「国家ヴィジョン」というものを公共的水準に理念的に設定するほかない、というのが私の意見である。そのことはすでに書いた。

その共同体へ市民としてのクレジットを供与することを「命がけの跳躍」というふうに書いたのである。

自分が「誰であるか」ではなく、「誰になるか」の方にアイデンティティの軸をずらすことでしか、真の共生は成り立たない、という原則に同意すること、そこから「その先」が始まると私は思う。

「理念に駆り立てられるのは」ごめんこうむる、とこの方は書いているが、私はこの点にかんしては譲るわけにはゆかない。

共同体が成立するためにはある種の「当為」が課せられる必要であり、それは情念の言語ではなく、論理の言語で語られるべきだというふうに私は考えている。それだけが情念的で排他的なナショナリズムからテイク・オフする道だと思っている。これは私の「信念」である。

もちろん、いま私たちの前に、「あるべき日本社会」を明示するような広大なヴィジョンは存在しない。それが最大の問題なのだが、それが「最大の問題であり、誰かがそれを語り始めなければいけない」という認識を共有する人々を私たちはいま必要としている。

私はこのような言葉を「ナショナリズムから自由な精神」の名において語っているわけではない。(私はそれほど気楽な人間ではない。)ナショナリズムは私の痼疾である。しかし、そこから身をよじるようにして抜け出すことなしには「先へ」はすすめない、と私は考えている。

その方法についての提案を私は求めているだけである。

同じ話をなんどもしつこく書いてすまない。


10月13日

大学の研修会があった。今回のテーマはFD (Faculty Development) である。

最近、さかんに語られるこのキーワードは「大学教授団の機能の改善」を意味している。

おもに「教授法」の改善が論点である。

大学の先生というのは教員免状をもっていない。教育実習の経験もないし、教育法を体系的に学習したこともない。いわば「教えること」については「ドシロート」である。

その「ドシロート」がいきなり教壇に立って難しい話をするのである。学生にわかるはずがない。

しかし、怪しいことに、これを「変だ」と広言する人がこれまであまりいなかったのである。

たしかに「変な教師」というのは少なくない。

私が知っているいちばん凄い先生は一学期に一回しか演習をしなかった。(それ以上休むと休職扱いになってしまうので、フル・サラリーをもらうために一回だけ登校するのである。)

演習に来た学生たちに一枚のコピーを配る。そこには一編のフランス詩が書いてある。学生はそれを黙読し、辞書を引いて意味を調べ、訳詩をつけるのである。沈黙のうちに90分が経ち、チャイムがなっておしまい。その訳詩は添削されて返却されることさえなかった。おそらくそのまま研究室のゴミ箱に捨てられたのであろう。

私たち院生は彼はおそらく「時給100万円」くらいの効率でお給料をいただいているのではないかと推察し、何がなんでも「大学の教師になりたい」と欲望の青い炎を燃やしたのであった。

この先生はけっして例外的に「凄い」わけではない。これに類する教師は本学にも存在する。

もちろんそういう先生方はFDの研修会なんかに来るはずない。休日返上で学校に来て、講演を聞き、夕方まで激論をかわすのは教育熱心な先生ばかりである。だから、考えてみると、あんまり意味がないのである。

やはりここは「おれは教育なんかする気がないね」というような暴言を吐き散らす猛者が登場してくれないと、議論ははずまない。しかし、ふだんそれに類すること(「最近の学生はバカばっかで、もう教える気もしないわ」)を口にする教師連も、昨日はおとなしかった。

講演に来たFDの専門家が「そういうことをいう教師こそダメ教師です」と最初に釘をさしたからである。

私はこういうことになるとぎゃあぎゃあうるさく発言するはた迷惑野郎であるので、さっそく分科会でも難波江ちゃんと「マイクのとりあい」を演じ、全体会議でも持論を展開した。

私の言い分はこうである。

学生の学力はたしかに下がっている。しかし、それは18歳までの勉強の仕方が間違っている(あるいはしていない)からであって、基本的な知的ポテンシャルは決して低くない。したがって、適切な教育プログラムさえ組めば、学力は相当程度向上する。

同学年の学生集団内での学力格差が広がっている。これに対しては「階層化」「学力別クラス編制」をもって対応する。平均主義はできる学生のやる気を殺ぎ、できない学生を切り捨てることになる。

逆に学年ごとに階層化されている「輪切り」を解消して、学年間の科目選択を流動化し、モチヴェーションの強い学生はどんどん高学年対象(大学院を含む)を受講できるようにする。逆に低学年次の履修プログラムを繰り返したい学生も受け容れる。(卒業間際になって「初級英会話」をインテンシヴにやりたい、とか「体育」で身体を鍛え直したいとか、「一般教養」を身につけたいとか思う学生は少なくないはずだ。)

突出して「出来る学生」に対してはプラス・インセンティヴを与える。奨学金、「ホノラリー・システム」(選ばれた学生だけの特別教育プログラム)、派遣留学など。

つまり、同質集団を「階層化する」ということと、異質集団間の階層差を解消して「流動化する」という二つの原理を同時に導入する、というのである

ちょっとややこしい話だったので、わかりにくかったかもしれない。

基本的に私は「背馳する二つのことを同時に行う」ことの有効性を経験的に信じているので、どうしてもこういうわかりにくい話になってしまうのである。

FDについては、教育実践の共同研究機関を公的に立ち上げるべきだと私は思う。

教育の仕方については、「失敗例」からも「成功例」からも学ぶことはほんとうに多いからだ。最初は授業の公開や査定を受け容れる少数をもって始めるしかないだろう。だが、ほんとうは「私の授業はぜったいに見て欲しくない」という教師の授業こそが問題なのである。

 

というところで、昨日書いたことについてある在日朝鮮人(韓国籍)の方からメールが届いた。名前を伏せるのであれば公開してもよい、というお言葉が付してあったので、転載させていだたくことにした。

はじめまして。

私は在日朝鮮人(韓国籍)の者です。

おおむね、内田さんのおっしゃっていることは正しいと思いますが、以下の部分が気になります。ナショナル・アイデンティティと「民族的に生きていくこと」を内田さん自身も混同なさっているように見受けるのです。

「つまり、考えて欲しいのだが、もし朴さんがいうように、日本が「多民族・多文化共生社会」になって、そこには日本以外の国民国家にナショナル・アイデンティティを抱くひとがたくさん含まれる場合、日本人(つまり日本以外の国民国家にはナショナル・アイデンティティをもつことのできない人)はどういうふうに「民族的に生きていく」ことができるだろう?」

他民族共生社会は、一民族としての日本人の存在をないことにするものではないはずです。むしろ、現時点では日本人自身には見えにくい「日本人の民族性」が他民族が日本社会の中で可視的な存在となることによって良くも悪くも意識されることでしょう。自分たちの「普通」が「自分たち日本人にとっての普通」であるというふうに。

今は一般的な社会通念として、「日本人=日本(大和?)民族=日本国籍所持者」というのがありますけれども、日本人を定義するときに「日本民族=日本国籍所持者」という部分をそれぞれ別のものとして扱わなければ、日本社会は他のナショナル・アイデンティティを持つ人々を許容できないという流れを導いてしまいます。

これはアメリカの場合と大きく違う点ですが、現在の日本の国籍法は父系血統主義をとっていますので、国籍の取得は「日本民族の血統を持っていること」が条件となります。それ以外の人が国籍を取ろうとするときには「帰化」、すなわち、「日本民族になったことにして同化すること」を求められます。例えば目立ったところでは、名前を日本人風の名前に変えることが条件の一つであった時期が長く続きました。これは、裁判の末、自分の名前を取り戻した人が出たことでおそらく今では改められているのかもしれませんが、他にも、帰化には様々な条件がつきます。そして、日本の国籍法がこうなっているのは断じて在日をはじめとする外国人の責任ではありません。

私は、日本人に日本民族をやめろとは言いませんけれども(そんなもの、やめようがありません)、日本という国がある場所にいる一民族であるという認識には至って欲しいと思います。そうならない限り、「朝鮮系日本人」だの「日本人」だの、自称する気もなければ、そう呼ばれたくもありません。別に、今のところは国籍もいりませんね。これ、日本人に対してずるい要求をしている言説に見えるのでしょうか? そういうふうに単純に相対的に扱われてしまうと、決して日本人と同じ条件を持たないものとしては困ってしまいます。

 

というものである。実は、「とほほの日々」を見てもらうと分かるけれど、この方が引用されている箇所は私の文章にはない。はじめはあったのだが、そのあと読み返して「なんだか言葉が足りないね。これでは国民国家へのナショナル・アイデンディティと民族的エートスという水準の違うものがいっしょくたみたいだ」と反省して、書き換えてしまったのである。

現在のものをごらんいただければ、そういうふうには読まれないだろうと思う。けれども、「そういうふうに」読まれてしまうようなものを一度は書いてしまったことは事実なのである。気分を害した人がいたらすみません。

さて、この方へのご返事であるが、簡単には答えることが出来ない。

というのは、私は民族主義というものに対しても国民国家というものに対しても、二つの相反する感情をいだいているからである。

それが醸成するエネルギーに対して私はときに敬意を感じ、ときに嫌悪を感じる。揮発性の高いナショナリズムは、ときに私を感動させ、ときに私を恐怖させる。

ナショナリズムが「統合の原理」として機能しているとき、私はそれを支持し、ナショナリズムが「排除の原理」や「分断の原理」として機能しているとき、私はそれに反対する。

そんな器用に見分けられるものか、と言われれば力無く「そうかもね」と答えるほかない。

いずれにせよ、私は多民族・多文化共生社会というものが簡単にできるとは思わない。

それは立派な理念であるが、そのような社会が成立するためには、「統合の原理」としての「多民族・多文化共生社会」に対する信憑というものが必須だと考えるからである。

ある理念の上に社会を構築するときには、その理念に対する「ファナティズム」が必要だ。

正義の上に社会を構築するためには正義に対する熱狂が必要なように。

愛の上に社会を構築するためには愛に対する盲信が必要なように。

多様なファクターを含む社会を編制してゆくためには、「多様なファクターをふくむのはよいことだ」という信憑が成員たちに共有されていかなくてはならない。単一であり、ピュアであり、同質的であるような集団はむしろ「穢れている」というような発想の転換が必要だ。

そういう立場からすると「論壇」に載ったようなロジックはずいぶん杜撰なような気がする。

単一でピュアで同質的な「エスニックグループ」が物理的に混在していても、それは「多様性を統合原理」とするような社会ではない、と私は思う。

私は「共生」というのを「救命ボート」に乗り合わせた人々のようなものだと考えている。

彼らが「そもそもなにものであるか」というようなことは何の関係もない。ボートをなんとか沈没させずにすすめたいという願いと、行く先についての合意だけがあれば、人々は共生することができる。

必要なのは、だから二つだ。「どうすれば日本社会を安全で、快適で、条理の通る社会として機能させるか」ということと、「日本はどこに向かって進むべきか」ということについて、メンバーのあいだで合意が成り立つこと。それが不可能であれば(おそらく不可能だが)「合意形成に至るプロセスについの合意」が成り立つことである。

この二つの課題を優先的なものとして引き受ける人たちによって日本社会は形成されるべきだと私は思う。民族的出自や文化の差異や言語の問題などは、この合意に比べればなにほどのことでもない。

これはあくまで原理的な話である。

メールをくださった方のような立場にあれば「そもそもあなたは救命ボートにもう乗っているわけで、私はまだ海に漬かって手を差し出しているところである。おぼれている人間に向かって『おれたちのボートに乗るには条件があるぞ』というようなことをいうのは倫理的だろうか?」と詰め寄りたくなるだろう。

おっしゃるとおりである。

話を変えよう。

いま日本は在住外国人に対して「非倫理的」だと私は書いた。

これをどういう口調で語るかによって、社会成員のポジションはきまるのではないか。

ある社会についてその不合理や犯罪性を批判して少しも心が痛まない人間と、言われると心が痛む人間がいる。

私は後者をその社会の正規のメンバーだと思う。

もし、ある集団の成員としての適格条件があるとしたら、その社会の「穢れ」をおのれの罪だと感じる、ということになるのではないだろうか。

メールをくださった方はこう書いている。もう一度引用する。

「日本という国がある場所にいる一民族であるという認識には至って欲しいと思います。そうならない限り、「朝鮮系日本人」だの「日本人」だの、自称する気もなければ、そう呼ばれたくもありません。」

言いたいことはよく分かるけれど、それではそれ以上先へは進めないのではないかという気が私にはする。

私が言いたいのは「呼ばれる」ではなく「名乗る」ということからしか「私たち」を主語とするような社会集団は始まらないだろうということである。

「咎める」立場から「恥じ入る」立場に転位することで、ひとは社会集団の「インサイダー」になるのだと私は思う。

これはその社会から排除されたり差別を受けてきた人にとってはきわめて残酷な要求だということは分かる。

しかし、もしこの方が日本社会というものを彼にとって真に快適な場所に変えようと望むのであれば、どこかで「彼ら日本人は」と言う代わりに「私たち日本人は」と名乗るという「命がけの跳躍」を行わなければならないと私は思う。

そんなのは「ナショナリズムの踏み絵」だと言う人もいるかもしれない。「新しい創氏改名だ」と怒る人もいるかもしれない。たしかに、扱い方をまちがえれば、私の言っていることは悪質な「査定の原理」に転化する可能性がある。

しかし同じことを繰り返すようだけれど、もし日本社会を多民族・多文化共生社会に作り上げようと思ったら、「そうでないことを咎める」言説をどれほど精緻に語っても所期の目的は得られない。

「そうでないことを恥じる」感覚を引き受ける人々だけがそのような社会を作り出すことができるのだ、と私は思う。

私はそのような社会をさまざまな民族的文化的出自の人々とともに作り上げたいと考えている。


10月12日

永住外国人に対する地方選挙への参政権について、自民党の一部議員が今国会での成立に反対している。彼らの主張は「参政権がほしければ日本国籍を取得せよ」ということと、そのために「国籍取得条件を緩和せよ」ということである。

それに対して、「21世紀の多民族・多文化共生社会」のためには、一定期間定住している外国人には国政参政権をも与えるべきである、というかたちで批判する声が高まっている。

私は永住外国人が日本社会の運営に主体的に関与することは当然の権利だし、望ましいことだとも思うけれど、「共生」を呼号するひとたちの論調のなかにちょっと気になることがある。それについて書く。

10月11日の朝日新聞の「論壇」に朴一大阪市立大学教授が次のように書いている。

「定住外国人が最も容易に参政権を手に入れる方法は、日本国籍を取得することである。(・・・)これからも多くの在日韓国朝鮮人が国籍取得という手段を通じて参政権を手に入れるだろう。彼らがコリアン・ジャパニーズとして日本の政治に参与していくことは、日本の国際化にとって望ましいといえる。だが、在日韓国・朝鮮人は、そうした選択を望む人たちばかりではない。これからも韓国・朝鮮籍を維持したまま、民族的に生きていこうとする人もいる。(・・・)日本政府に参政権を求めてきた在日韓国・朝鮮人はむしろ後者の生き方を望む人々であり、そうした人々に参政権と引き替えに国籍取得を要求するのは本末転倒的な論理である。」

私はここで少し考え込んでしまう。自分たちのナショナル・アイデンティティを日本以外の国民国家に対して抱いており、日本国籍の取得を拒否する外国人たちを日本人は「共生すべき同胞」として迎え容れよ、というのは何となくおさまりが悪いのではないか?

というのはある特殊な国民国家に対してナショナル・アイデンティティを感じるということは、「多民族・多文化共生」と正反対なベクトルをもつ感受性だからである。

日本人に向かって「民族的に生きる」というような有害な幻想をもつのはやめて、「多文化・多民族共生社会」を志向しなさい、と指導するのはとても正しい発言なのである。だが、そう語っている当のご本人が、定住外国人に対しては「民族的に生きる」ことを許容し、あるいは推進しているということは矛盾しないだろうか。

Aさんは「民族的に生きる」ことが許され、Bさんにはそれが許されない。その上で、AさんBさんが「共生する」ということは可能なのだろうか?

私の単純なあたまで考える限り、多民族・多文化共生は、「単一文化・単一言語・単一民族のメンバーは世界のどこにいても、同じ国民国家に帰属している」という幻想そのものの廃棄なしには実現できない。

私はその考えを支持する。

私自身は「民族的に生きる」ということは生活習慣や信仰や芸術的感受性にかかわるエートスの領域に属しており、それは政治単位としての国家とはほんらい別次元に属する問題であるとかんがえている。

「民族的エートス」とはある種の「風土」に対する愛着である。それはその「風土」の上に現在存在している近代国家機構とも、それが発行するパスポートともかかわりなく、堅固に存立しうると私は考える。

現にユダヤ人たちの多くは「エルサレム」に強烈な執着をもっているが、それは彼らがさまざまな国の国籍を取得していることを少しも妨げない。

どうして在日韓国・朝鮮人の一部の人々は例えば「アメリカにおけるユダヤ人」のようにふるまうことを拒絶するのであろうか?

翌日の同じ論壇で岡崎勝彦というひとが同じ趣旨のことを書いていて、その根拠として、こんなふうに述べている。

「今や世界的に見れば、国家連合、二重国籍の容認など、国民主権-国民-国籍という強固な観念的枠組みは、それ自体が相対化されつつある。」

というのは、ほんとうだろうか?

たとえば、いまの問題の当事者である在日韓国・朝鮮人の「祖国」においては「国民-国籍」という強固な観念的枠組みは相対化しつつあるのだろうか?

もし岡崎がいうように国籍幻想が「相対化」しているのであれば、どうして、その「相対化」の思潮を論拠として、「国籍を維持したい」という民族的な願いの実現が要求されるのだろうか?

「国籍なんかどうだっていいじゃないか」と岡崎が主張する限り、私はそれを支持する。しかし、「国籍なんかどうだっていい」時代がくるんだから「この国籍じゃなきゃいやだ」という要求を認知せよ、という主張には論理性をみとめることはできない。

「人生、金ばかりじゃないぞ」というのは正しい。

「金なんか、他人にあげてしまいなさい」というのも正しい。

でも、その人が「で、あなたが捨てたそのお金、私にちょうだい。定期にするから」というのは変である。

多民族共生は理念としては正しいし、私も日本社会がそうなるべきだと考えている。

けれども、それを主張する人が、自分の「祖国」である国民国家の「国籍」に固執しているかぎり、その人の唱える「多民族共生」というのは論理的な言葉ではありえないように私には思われる。

私の言ってることは変だろうか?


10月10日

多田塾合宿から帰ってきました。

本学からは総勢11名。全体では120名。群馬の山奥で二泊三日の心と身体が澄み渡るような合宿でした。

部員諸君の多くにとって、多田先生から直接指導を受ける機会はあまりない。今年はさいわいにも5月に広島で講習会があり、すぐに全日本演武会、翌日に五月祭演武会。こんどの合宿に続いて11月には奈良県支部道場創立35周年記念演武会での講習会が予定されており、多田先生をまぢかに感じる機会が例年になく豊かである。

お目にかかる機会が増えたせいもあって、部員のあいだの「多田先生崇敬」の想いは沸騰点に向けて急上昇、今回の合宿の大量参加とあいなったのである。

今回は群馬の山中ということで、前日から車三台をつらねて出発、まず現地近くの老神温泉で美食と湯治で身体をやすめ、しかるのちに万全の体制で合宿に突入というプログラムが立てられた。

参加者は飯田先生、溝口さん、吉永さん、サッポロから武者修行中の田口さん、ウッキー、佳奈ちゃん、楠さん、おいちゃん、江口さん、澤さん、それに私。

中国道、名神、中央道、長野道、上信越道、関越道の6高速道路を踏破して老神温泉へ。所要時間9時間半。さっそく露天風呂に入って「前夜祭」大宴会。

多田塾合宿参加への高揚感と温泉大名旅行の上機嫌があいまって、前夜祭はいきなりトップスピード。「全駄連」(全日本駄洒落連盟、家元・江口さやか)「全魔連」(全世界魔法使い連盟、教祖・林佳奈)「全麦連」(全日本麦チョコ連盟、開祖・神原麻理)の三団体が老神温泉牧水亭において相次いで発足し、ただちに段位の発行条件などについて細則が定められた。

ウッキーは成立したすべての団体の「第一号弟子」となり、みずから「全弟子連」を発足させたが、会の性質上、会員はウッキー一名にとどまった。ウチダは全駄連、全魔連の「理事長」職を一方的に宣言して独占、その権力的な体質を遺憾なく発揮したが、全麦連については後難を恐れてか、「私は麦チョコ芸などというものは知らない」と無関係を装う意向である。

「全駄連」ではすでに1級を取得していたウッキーが帰途、駄洒落連発芸により(個々の作品のクオリティには疑義が呈されたものの、「連発」を評価されて)家元から初の「初段」を允可され、同時に「江口家さ右」の芸名を授与された。

「全魔連」には4回生全員とウッキーが参加、さっそく牧水亭において「初級・魔法講習会」がもたれ、目線の使い方、指先を口元によせる仕草、発声法などについて、「初心者形」の稽古が熱心に行われた。マジカル・佳奈ちゃんの熱意あふれる指導の成果あって、魔法の「発表会」となった多田塾合宿期間中には、かいがいしく立ち働く弟子たちが「やきそばソース」や「奈良までの航空券」をゲットする姿が見られた。

そんなことばかりしていたので、合宿所についても「宴会モード」から「稽古モード」への切り替えに一同かなり苦心していたようである。

合宿についての詳報は、書くことがあまりに多いので、合気道のホームページの方にまたあらためてご報告させていただきます。

帰途は渋滞や内田の居眠りなどもあり11時間半を要し、家に着いたのは真夜中。

しかし、一同無事に、多くのものを得て帰って参りました。

ああ、楽しかった。お世話になったみなさまに心からお礼申し上げます。

すばらしい時間を与えて下さった多田先生。合宿のすべてでお世話になった坪井先生。同室で貴重なお話をしてくださった窪田先生。ハートウオーミングなご配慮をして下さった原さん。ありがとうございました。ほかのみなさんもあまりに数が多すぎてお名前を挙げ切れませんが、ほんとうにありがとうございました。

などと気楽なことを書いていたら、藤田博史さんからメールが来た。

fujita hiroshi って誰だろうと思ってメールを開けたら『人間という症候』の藤田博史さんであった。

うわ、これは大変。

「ご本人」に読まれてしまった。

繰り返し書いているとおり、私の書評は「本人は読むはずないよね」という楽観的な想定のもとになされている。だから本人が読んだら気を悪くするようなことも書いてしまうのである。しかし、現在は検索エンジンも発達しているから、うっかりしたことを書くと、たちまち露見してしまうのである。

私はもちろん自分の名前でサーチをかけるような怖いことはしない。おかどちがいなことか肺腑を抉るようなことかどちらかしか書かれていないはずある。私は弱い人間であるから、どちらも読みたくない。

藤田さんはたいへん紳士的な方で、私がかなりディセンシーを欠いた感じの悪い書評をホームページで掲載したにもかかわらず、たいへんていねいな口調で私のホームページが面白かったこと、自分は私がラベルをはったような「ラカン派」ではなく、ラカンの治療技法の展開を臨床で試みていること、できれば会って「対論」したいこと、などを書き送って下さった。

ああ、このようなジェントルな方の著作に対して、私はなんと非礼な文章を書いてしまったのであろうか。自分の性格の悪さというのは、私が不快な想いをさせた相手の「怒り」によってよりもも、「寛容」によってよけい思い知らされる。

しかし、藤田さんの著作への悪態を収めた私の著作はすでに第二校を終え、いまさら「あれは差し替えね」というわけにもゆかない。礼節に対して非礼をもって報いる私はほんとうにひどい人である。というわけで私はここに満天下の読者のみなさまに対して、「藤田博史さんはとても紳士的でディセントな方です」ということを申し述べて、そのような方の書いたものにいやみな書評を書いた私の不明を恥じたいと思います。

岡真理さん(は読んでしまった)も、高橋哲哉さん(はまだ読んでないかもしれない)も気分を悪くしたら、ごめんなさい。あらかじめ謝っておきます。

それならもう批評なんかしなければいいのだが・・・それがそうもいかない。困った性分である。


10月5日

四回生の卒論中間発表会。11名のゼミ生諸君が力作の経過報告をしてくれる。一人15分程度と指定しておいたのに、学会発表みたいに朗々と30分以上原稿を読み上げる人もいて、ずいぶん時間がかかってしまったが、中身は濃かった。

今年の卒業生たちの選んだテーマは

「花火の魅力」「非日常の身体運用-どうしたら武道に上達するか」「少年愛マンガを消費する少女たち」「世紀末のジャポニスム」「人はなぜ服を着るのか」「顔のあり方」「主婦論と経済」「南総里見八犬伝」「ダンス・ムーヴメント・セラピー」「現代日本演劇の観客論」「異性装とジェンダー」

大学院進学予定者たち(いまのところ3人。本学の比較文化学、神戸大の総合人間研究、慶応大の社会学)は修士課程での研究につながる最初の学術論文になるので、おのずと力が入っている。中間発表をきくかぎり、その構想通りに論文が書けたら、学士号でなく、修士号をこの場で差し上げたいくらいである。それくらいに着眼点とプランは面白い。

それにしても12名のゼミ生のうち大学院志望者が4名というのはずいぶんな数字である。私の生き方をみていて、「大学の教師って、ほんとに楽そう」と思ったのかもしれない。

うちのゼミでは文献研究だけで論文をかくことを許さない。

「現場に行って、本人に会って、対象そのものに触れてくる」

というのが卒論研究のルールである。「若いときはとにかくフィールド・ワーカーたれ」というのが私の教育方針である。だからみんな花火を上げに行ったり、巫女さんの修行に行ったり、イタリア武者修行に行ったり、ダンス・セラピーを受けに精神病院に行ったり、コミケで少年愛おたくを観察したりとフットワークは軽快である。

卒論研究の教育効果は実は「仮説を論証すること」ではない。

最初に用意した仮説が現実の厚みの前で破綻して、「これって、話が違うじゃないの・・・」とうろたえたあげくに、研究を始めるときには自分で予想もしなかった新しい視点に導かれて、そこから未知の光景を記述すること。ここに妙味がある。

研究することとは自己表現ではなく、ほんとは自己発見なのである。知っていることを書くのではなく、書くことによって知ることなのである。

そういうことを一年半にわたってうるさく説教してきた甲斐あって、ゼミ生のみなさんのスタンスはどれもたいへんにチャレンジングである。

「・・・というふうに一般には思われておりますが、私はそうは思わない」

「・・・という評価が先行研究においては定説化しておりますが、何を言ってやがるでございます」

という喧嘩腰の視点に多くのゼミ生が立っている。

みなさん、私から学ぶべきものはちゃんと学んでいるようである。

大満足で中間発表会を終えて、そのまま我が家での「打ち上げ宴会」に雪崩れ込む。

この1週間で3回目の大宴会である。さすがに近所の目が冷たい。エレベーターで出会う近所のおばさまがじろりと私を睨む。

「年中、若い女を連れ込んで、大酒を呑んでるこの男はいったい何者?大学の教師とか言ってるけど、大学の先生が、こんなに宴会ばかりしているはずないわ。女子大生パブの店長かなんかじゃないのかしら」

わーん、違うんですよお。これも教育活動の一環なんですよお。

とかいいながら、ゼミ生諸君を前にして、酔眼朦朧としてとくとくと「悪女のすすめ」について講義を行う。若い学生諸君にはなかなか「悪女になる」とか「嘘をつきまくる」とか「おいしいとこだけ食べて捨てる」とか「別れやすそうな男とつきあう」とかいう男女の機微が理解できないようであるので、噛んで含めるように教えて上げる。

恐るべきことに、私が半世紀にわたる悲痛な経験から学んだこの「愛の叡智」のことごとくについて、にっこり笑って「ふふ、そうなんですよね」と同意するのがマジカル・カナちゃんである。はたちそこらで「そこまで」分かっているとは、さすがに魔法遣いはたいしたものである。

さあ、明日から多田塾合宿への旅である。帰ってくるのは月曜の深夜。それまでみなさんさようなら。


10月4日

ついに昨日から学校が始まってしまった。

ふたつ演習がある。3回生と大学院。3回生はわりとちゃんとしていたが、大学院生はまだ頭脳が始動していないらしく、全員呆然としている。いつもは鋭いつっこみをみせる「盗聴生」の飯田先生も昨日は「まだ頭が夏休み」のままだそうで、目がくるくるしていた。

演習が終わってからソッコーでお能のお稽古。『巴』を上げて、次は『船弁慶』。『猩々』の舞囃子のお稽古をマンツーマンでばりばりしてもらう。汗びっしょりになって家に帰って、ソッコーで晩ご飯の支度。さんまとおでん。

新学期がはじまるといきなりソッコーの日々である。とほほ。

食後に鬼木先生にいただいたバカラのグラスでスコッチをのみつつ、吉見俊哉の『カルチュラル・スタディーズ』を読む。読んでいるうちに、眠くなってきた。

吉見の本にはいろいろなことが書いてある。しかし、情報量が少ないように私には思えた。

「情報量」というのは「データの量」ということとは違う。

私の勝手な定義によると、ある学術情報の含む情報量とは「その情報にふれることによって、節約される時間と労力」の関数である。

だから、先行研究について言及するような場合、「この本は読まなくていいです。この本は、この章とこの章だけ読んでおけばいいです。こいつはバカだから無視していいです」ということがきっぱり書いてある本は「情報量が多い」と言って良い。逆に「これについては、こういうことを言っている人がいます。こういうふうに言ってる人もいます。こういうふうに・・・」と列挙する本はこちらの仕事がふえるばかりであるので、「情報量が少ない」ことになる。

吉見の本は(私の基準からして)あきらかに「三流以下」の学者の先行研究についてまでこまかく言及しているように思われた。もっと「ばっさり」切り捨てて、本当に読む価値のあるものを絞り込んでもらわないと読む方はちょっと困るです。

私の基準における「一流の学者」というのは「五十年後も読まれ、引用される学者」、「二流」というのは「二十年後も読まれ、引用される学者」。あとはみな「三流以下」である。

この基準でいくと、読むべき本は一瞬のうちに整序されて、世の中は実に平明になって、たいへんによろしい。


10月2日

川成洋『大学崩壊!』(宝島社新書)を読む。

大学の知的崩壊については、これまでおもに大学生の学力低下が論じられてきたが、この本では大学教授のバカさという「それは言わない約束でしょ」的真実が赤裸々に暴露されている。

大学教授の恐るべき実態については筒井康隆の『文学部唯野教授』という傑作があるが、川成先生によると、あれはほぼ事実だ、ということである。(わお)

1980年に文部省が全国の大学(国公立私立)の全教員について調査を行い、過去五年間に何本の研究論文を書いたか調べたところ、一本も書いてない教員が25%だったそうである。

助手、専任講師、助教授は昇格人事があるので、論文執筆がほぼ義務化しているから、この25%の過半はもう審査される心配のない教授職にあるものと思われる。

全教員中の教授の比率は大学毎に違うが、それでも25%というのは全教員数に占める教授の比率にほぼ等しい。つまり、大ざっぱに言って、大学教授のほとんどは過去5年間に一本も論文を書いていない、というのが日本の大学の実状なのである。(その後、文部省はこの種の調査をしていない。よほどショックだったのだろう。)

もちろん5年間何も書いていない人が6年目に満を持して大論文を書くということはふつうあまりない。

あまり書かずにいると書き方を忘れてしまう、ということもあるが、論文というのはリアルタイムで進行している研究主題に活性化されて、「勢い」でわっと書いてしまうことが多いので、何も書いていない人は、さしあたり寝食を忘れて没頭しているような研究主題が「ない」というふうに解釈してよいからである。研究テーマがないひとに論文は書けない。

私の知り合いにも過去20年ほとんど論文を書いていない人が数名いる。

理由はいろいろである。

一つは若い頃の論文のクオリティが高かったので大学の先生にはなれたのだが、研究の目的が「大学の教師になる」ということに傾きすぎていたために、ポストを得たとたんに人生の目的を失った人である。これはけっこう多い。

もう一つは、ちょっとしたきっかけで渾身の論文の完成に挫折し、周囲の期待が高かったし、本人の自負もあり、中途半端なものではお茶を濁すわけには行かない、というので、ごりごり勉強しているうちに、「眼高手低」になってしまった、というパターンがある。

「眼高手低」というのは「批評眼ばかり肥えてしまったせいで、自分の書いたものの完成度の低さを自分が許せない」という自閉的な傾向のことである。

書いては破り、書いては破りしているうちに、研究主題そのものが時代遅れになってしまったり、同じようなアイディアで誰かが論文を先に発表してしまったり、夫子ご自身がその主題に対する関心を失ったり、という悲しいことが起こるのである。

論文というのは本人にとっても、テーマにとってもその「旬」というものがある。「旬」を逃すと、それっきりなのである。

川成先生は「論文を書かない大学教師」を一括して「バカ」としているが、私はそれはやや不正確ではないかと思う。

彼らは決して知的に劣っているわけではない。むしろ彼らの多くはなかなかすぐれた頭脳の持ち主である。ただし、「自分が思っているほどには頭がよくない」というだけのことなのである。

現に、彼らは他人の業績を批判するときや、学内政治においては、しばしばその卓越した才知を発揮する。

とはいえ、論文の「点数」だけで教員のアクティヴィティは評価できない、というのはたしかに正論である。

例えば、教育活動というようなものは数値化することができない。教育に熱心なあまり、研究活動に支障を来すということもある。(現に私がそうである。)しかし、これは好きでやっていることだから、あまり言い訳にはならない。

また論文の「点数」だけを評価の基準にとり、その「クオリティ」を問わないのはおかしい、というのも正論である。

ただし、「クオリティの査定」はなかなかむずかしい。

私は論文の点数の多い教員であるが、そのクオリティは「低い」(とほほ)とされている。

クオリティの査定基準は「厳しいレフェリングのある国際的な学術誌」への投稿と、他論文での「引用回数」である。

私は同時代の日本人読者にむけて発信しているので、日本語で書くわけであるから、当然「国際的な学術誌」には載らない。

「レフェリング」のある学術誌では(私自身がレフェリングに参加している場合を除き)ほぼ一貫して「あなたの研究は評価になじまない」という悲しい査定をされてきた。

他論文への引用は、そもそも人目に触れるような媒体に書かないのだから、「ない」と言って過言でない。(たまに平川君やジロー君が引用してくれるけど、彼らは「身内」だからなあ)

だからといって私の論文のクオリティが「低い」(とほほ)と断定するのは、いかがなものか。

オリジナルな研究というのは、なかなか既存の評価枠組みになじまないものなのである。だが、これも言い訳めくので黙っていよう。(ぶつぶつ)

ま、それはさておき。

論文の(質にはとりあえず目をつぶり)点数だけで数えて、論文を書かない大学教授は辞めてもらおう、という川成先生の提案に私は原則的に賛成である。

それは、(ここは川成先生の意見とは違うところだが)どんなものでも論文を書けばその人の「頭の中身」は天下の人の知るところとなるからである。

定期的に「頭の中身」を満天下に明かして、批判の矢玉に身をさらすのは、学者の責務であると私は思う。

学術論文の執筆ということの意味を大学人の多くは勘違いしているように私は思う。

あれは「賢さを示す」ためのものではなく「バカ度を公開する」ためのものなのである。

論文を書かない人はよろしくないと私が言うのは、彼らが「賢くない」からではなく、「バカ度を公開しない」からである。

教育サービスとしての大学教育で、「それぞれの教師の言うことの真実含有率」をできるだけあきらかにしておくのはたいへんに大切なことである、と私は思う。

「ただのバカなんだか『大いなる暗闇』なんだか判別できない」ようなパフォーマンスをする教師は学生を混乱させるだけで、教育上あまりよろしくない。「ただのバカ教師」と分かった上でじっくり観察するならば、それはそれなりに学ぶものもあるのである。

私はここで本学の全教員に率先して、あえて捨て石となって、学生諸君のために情報公開に踏み切ろうと思う。

私の話に含まれている真実含有率はアイリッシュ・ウイスキーのアルコール含有率よりは少なく、ビールのアルコール含有率よりは高いです。(メイビー)

なお、著者の川成先生は「略歴」の最後に「趣味・合気道、杖道」と書いておられた。これは本文の内容とは全然関係ないのであるが、あえてこう記したのは本書を読んで怒り狂った大学教師たち(法政大学の同僚などはとくに危険と思われる)からのフィジカルな攻撃に対して、予防線を張ったものと推察される。

私もこれからは川成先生にならって論争的なテクストの巻末には「合気道・杖道・居合道など武道百般を究める。休日には自宅縁側で愛刀呉服山則利の手入れに余念がない。『ふふふ、こいつも最近は血を吸っていないので、夜泣きしてますよ』」などというコメントを書き加えておこうかと思う。


10月1日

昨日は私の生誕50周年記念祝賀パーティがあった。

かわいい合気道会の諸君が手作りパーティをしてくれた。

午前中に稽古をしたあと、一次会は大学の同窓会館で「大演芸大会」、二次会はイタリアン・レストランでご会食、三次会はわが家で歴代主将による「回顧・合気道部のこの10年」座談会、四次会はその流れでどどどの宴会。ぜんぶ終わったときは次の日になっていた。

最初の「大演芸大会」というのがそもそも私には不可解であった。予定では1時から4時まで3時間もとってある。いったい、合気道部の諸君は3時間も何をするのであろうか、凍り付くような漫才とか、麦チョコ投げとかで3時間も間が持つのだろうかと怪しんでいたのである。

これが見てびっくり。まったく大した才人たちである。

最初が一回生たちによるパフォーマンス。(いかなる必然性があるのか分からないが)バニーガールとかチャイナ・ドレスとか茶摘み女の扮装の諸君が美しい歌声でハーモニーを聞かせてくれた。

次いで瀧さんが演出指導の「麦チョコ合気道」(「麦チョコ」芸が出るのでは、という私の予感は的中)。

知らない人のために解説しておきますが、本学合気道部には「麦チョコ空中捕食」という伝統芸がある。これは神原麻理さんを開祖とする珍芸で、合宿の夜には学生たちが大口を開けて飛び交う麦チョコを「かぽ」と食べる姿が必ず見られる。

六代目主将の小浜ちゃんが鬼木先生宅でこれを披露したことをきっかけに「主将芸」に認定され、以後、歴代主将は「麦チョコ空中捕食」を主将指名とともに相伝することになったのである。

その麦チョコを「道」にまで高めよう、というのが「麦チョコ合気道」の趣旨であるらしい。

「マドロス姿」の私のポートレートを上座に掲げて、部員諸君が「麦チョコ・天の鳥船」、「麦チョコ・雄叫び」 「麦チョコ・体捌き」「麦チョコ・一教」「麦チョコ・入身投げ」などの芸を見せてくれた。

「天の鳥船」では「われは麦チョコと一体なり」と念じて瞑想するなど、多田塾関係者にしかわからないエッジのきいたギャグが満載。私は笑いすぎて椅子から落ちそうであった。

しかし、これはほんの序の口。次の4回生の「劇・ウンパンマン」には文字通り抱腹絶倒。

矢部君が私の「形態模写」を得意とするところは部内ではつとに知られたことであるが、彼女がこれほど私の特徴を捉え得ているとは思わなかった。

野球帽を前後ろ逆にかぶり、TシャツGパンに黒いソムリエ・エプロン、レイバンのサングラスをかけた矢部君扮する「ウンパンマン」が、パジャマ姿にうさぎの帽子をかぶった北川さん(渾身の熱演!)演じる「バイキンマン」を合気道技で退治して、良民のみなさんに感謝される、という話なのであるが、全編に仕掛けられた「内輪ギャグ」が大受け。

笑い死にしかけていたら、次は一転して、江口主将脚本、高洲さん・ゴンちゃんの「演劇部」コンビの熱演による本格大シリアス近未来SF大作「ジェーン・リッチ」(なんと上演時間45分)

つかみの「江口ダジャレ」で始まったので、「お、ギャグものか」と思わせておいて、実は遺伝子操作を扱った重いテーマのシリアス・ドラマであった。さすが理科系。

異彩を放っていたのは、達者な演劇陣にまじって一人だけ「宝塚」をやっていた瀬戸っちと、会場から「かわいいー」というため息がもれた澤さんの子役。

部員諸君はこの芝居のために何ヶ月も前からシナリオを書いて準備していたそうである。まったく揃いも揃ってお祭り好きな人々である。

最後に部員やOG諸君からのお祝いの歌を送られて、内田もこみ上げる感動を禁じえませんでした。こんなふうに50歳を祝って頂き、内田はしあわせものです。しくしく。

二次会はゲスト鬼木正道先生の感動的なスピーチから始まる。私と鬼木先生の不思議な「ご縁」についてお話ししてくれた。6年前の鬼木先生との出会いは私にとっては忘れることのできないものであったが、それは鬼木先生にとっても思い出深いものであったということを教えて頂いた。こうしたご縁がひとつひとつ織り合わさって、いまの合気道部や杖道会の活動があるのである。

二次会からあとは合気道部創部以来の珍しい顔がたくさん集まった。

歴代主将は(富山に引っ越して出産を控えている七代主将小国さん以外)九人全員が顔を揃えた。初代田口亮子さんは北海道から、二代嵐裕美子さんは名古屋西枇杷島町から、三代海老澤邦子さんは浜松から、四代浦西真規子さんは奈良から、五代鎌田ゆかりさんは加古川から、六代宇野聖子さんは岸和田から、八代小浜弥生さんは塚口から、九代林佳奈さんは芦屋から、十代江口さやかさんは池田から遠路はるばる(でないひともいるが)お越し頂いた。太田晴子さん、田村京子さん、田口佳代さんら懐かしい顔のOGも来てくれた。

みんなの懐かしい顔を見て、わいわいおしゃべりしているうちに二次会も三次会もあっというまに終わってしまった。歴代主将による座談会は瀧さんがテープ起こしをして、いずれホームページで公開致します。お楽しみに。

ほんとうに楽しい一日でありました。企画をしてくれて、これだけ立派なパーティを開催してくれた主催者の田口亮子さん、江口さやかさんはじめ合気道部のすべてのみなさん、最初から最後までお付き合い下さった鬼木先生、一次会と三次会のための「炊き出し」をいつものように担当してくれた割烹「小川」ご主人に心からお礼申し上げます。それから山のようなプレゼントをみなさんどうもありがとうございます。

内田はほんとうに果報者です。わーん。(号泣)