とほほの日々

The days of pains and regrets: from 1 Jan 2000



11月30日

竹信君が遠方より来る。

竹信君は灘校出身で、自他共に認める「女学院フリーク」である。

毎年、バザーになると東京から600キロを遠しとせずに通ってきて、岡田山の初夏を満喫しないと一年が始まらないというありがたいお方である。

今回は平井先生の仕切の「Tale of Murasaki」の取材とか、吉本興業とのビジネスとか、私との原稿チェックとか、いろいろ多方面の仕事をかかえてのおいでである。

短い滞在であるが、御影のわがやにお越し願って、一夕清談を愉しむ。

竹信君はお酒を嗜まないのであるが、私がどんどん酔眼朦朧となって言うことがでたらめになってゆくのにつれて、夫子ご自身もどんどんでたらめになってゆくという特技の持ち主である。学生時代の仲間たちで呑んで、みんなどろどろに酔っているときいちばん大笑いしているのはウーロン茶だけでもりあがっている竹信兄である。

今回は、私たちを蝕む「トラウマ」の深さについて語り合う。

私たちはともに「非情」な人間であると言われているが、それは幼児期の精神外傷によるのであり、私たちだってもっと「温順」な人間に育って、ひとから「ほんとに、人柄のよいひとですね」というようなことを一生に一度くらいは言われてみたいものである。

人が困っているときに言うに事欠いて「話はきかんが、金なら貸すぞ」というのはあまりにもリアルかつクールではないかと反省もするのであるが、こういう性分はなおらんのよね。


11月29日

感染したままでまだワクチンが届いていない人がいるようである。ワクチンバンクのURLをお教えしますので、そこにアクセスしてワクチンをもらって下さい。

http://www.vaccinebank.or.jp/mtx/tool.htm

 

昨晩は「チーム変わりもん」とグループ「岡田山の良心」と「極楽スキーの会」と「ジェンダー研究会」の共催による「マルコポーロのソムリエールのO子さんを送る会」というものがあった。この四つのグループのそれぞれの会員数は十名余におよぶので、共催となるとざっと50人がとこ結集するはずであったが、実際に集まったのはわずか7名。

よく考えれば、それも当然で、「同じメンツ」がこの四団体に同時加盟している事実が昨日発覚したのであった。

昨日の七人のうち、極楽スキーの会に参加していないのはN先生おひとり。ジェンダー研究会にいまのところ参加していないのは、私ひとりである。

あとの諸兄諸姉は四団体の創設者や主軸メンバーである。

なお、おどろくべきことに、7人のうち6人が「バツイチ・シングル」であるという事実も一部歴史学者の綿密な資料渉猟の結果判明した。

どうやら「バツイチ・シングル」で、「変わりもん」でありながらも「良心」のカケラを宿し、「スキー」をこよなく愛しつつ、「ジェンダー問題」に深い関心を寄せ、かつワインをがんがん行く人たちというのが、今後の岡田山戦線における突出したケルンを構築してゆくことになるようである。

「ノイズ」を見る。

原題は「宇宙飛行士の妻」(The Astronau's wife) 

『エイリアン』と『ローズマリーの赤ちゃん』をまるっとパクったアイディア自体は悪くない。

しかし、ぜんぜんサスペンスのエッジがきかない。

けっこう怖い話なのに、なぜサスペンスが効果的でないのか、考えてみたら、主人公の「宇宙人の妻」がぜんぜん「ああ、このままではたいへんなことになる。なんとかこのひとの危機を救ってあげたいものだ」的な感情移入ができないタイプの女優さん(Charlize Theron)なのである。

『ローズマリー』のミア・ファーローはじつにはたがどきどきするほどに足下のおぼつかない若妻であった。

『暗くなるまで待って』のオードリー・ヘプバーンのピンチに観客は恐慌をきたした。

いま、「あまりに頼りなげなので、ついその身を案じてしまう」ようなタイプの女優はハリウッドにはクリスチーナ・リッチくらいしかいない。(だから売れてるのかもしれない)

まあ、これだけタフで、自立してて、堂々としているんだから、エイリアンも一人でがんばって退治してね、というふうに私はしらっと身を引いてしまっていて、ぜんぜん同情的になれないので、どれほど主人公が困惑してても、私自身は少しも不安にならないのである。

最後にエイリアンを殺して、自分も食べられてしまっても、「あ、そう。ま、そうだわな」というような感想しか私には湧かなかった。

これではサスペンスにならんぞ。

NASAの職員でジョニー・デップをエイリアンではないかと疑い、罷免されて、殺されてしまうリース君の運命のほうがずっと私の心を痛めた。

そうだ、彼を主人公にすればよかったんだ。

ハリウッドはいま「デミ・ムーア/シャロン・ストーン」型の定型的なキャラクターの女優たちを大量生産大量供給して、彼女たちが誰にもたよらず苦境を脱するという「フェミニズム賛歌」映画をとり続けているけれど、この路線は遠からず破綻すると私は思う。

少なくとも私はもうほとほと飽きた。

見ただけで胸がきゅんとなって、その人が危機におちいったら、足下が崩れるような不安を与えてくれるような「壊れもの」系の女優が必ずや次代のスターとして渇望されるようになるであろう。私はそう予言する。


11月28日

鈴木晶先生との「メル友交換日記」の原稿を書いている。

鈴木先生と私は多くの共通点がある。

先生は教駒、私は日比谷という進学校を出て(私は出てないが)、東大の文科3類に一年違いで入学し、先生はロック、私はジャズのバンドをやり、反時代的な文学研究にすすみ、結婚して娘が一人(私は離婚したが)、翻訳が大好きで(出版冊数はだいぶ違うが)、美酒と美食をこよなく愛し、時代遅れの喫煙家で、海の見える街に住んで、大学で本業以外に教えている教科が先生は「舞踏」、私が「武道」と一字違い。「精神分析による物語論」が最近の研究テーマで、同じ頃にホームページを開き、同じ頃にそれぞれのホームページをのぞいて、「おおワッタスモールワールド」とびっくりしたところまで同じである。

その鈴木先生の今日の「電悩日記」によると、日本ラカン協会というものが創設され、先生はその設立総会において、講演をされた由である。

私は前に「日本反ラカン協会」というようなものがあり、そこで「私はラカンが分からない」と泣いている人たちが愚痴を言ったり、「なんてことねーよ、ラカンなんて要するに・・・といっているだけなんだよ」と切り捨て御免を試みたりするひとがわいわいとやっているのであれば、私はそこの学会誌を講読してもよい、と書いたことがある。(入会はしないけどね)

しかし、ラカン協会に先を越されてしまった。

そこでは「ラカンが分かる人」たちがやわらかなほほえみをかわしつつ、深くうなずきあっているのであろうか。(ああ、うらやましい)

しかし、どうやらそういう集まりとはちょっと違うようである。鈴木先生のご報告を引用させていただこう。

「ラカン協会にはさっそく入会した。理由は簡単、ラカンはワカランので、勉強したいからである。しかも、これはラカン派の集まりではなく、幅広い視野に立ってラカンを研究しようという趣旨の協会だからである。ラカン派の集まりだったら、入会するつもりはないし、そもそも私なんぞに入会の資格はないだろう。(・・・)

ともあれ、この講演の準備で、ここ一週間は憂鬱であった。何を話したらいいだろうと悩んでいたのである。学生向けにラカンの解説をするというなら簡単である。しかし、今回の聴衆はほとんどがラカンの研究者である。その人たちに向かってラカンの話をするというのは、私のような外部の人間にとってはなかなか度胸のいるいることである。

そこで、ラカンが唱えた「フロイトの読み直し」ということについて、文学研究者の立場から話すことにした。

でも、講演というのは面白く、楽しくなければいけない。そこで、内田樹先生がラカン派に対して投げつけた激しい批判の言葉(これは近々出版される内田先生のウェブ日記に収録されている)を引用することにした。ひとつは樫村愛子さん、ひとつは藤田博史さんの著書に対する批判の中の言葉である(会場に行ってはじめて知ったのだが、講演の司会は樫村さんであった)。わざとラカン派の逆鱗に触れるようなことを言ってやろうと考えたのである。どんな反応をするだろうかと楽しみにしていたのだが、憮然とするかと思いきや、みんな屈託なく大笑いしていた。

ラカン協会が設立されたのであるから、そろそろ内田先生が反ラカン協会を設立されることであろう。

「定式化されたものに対しては、巻き込まれるか、放っておくことしかできない」というラカンの有名な言葉がある。ラカンはワカランという人は多い。わからないとき、とるべき道は二つである。ひとつは知らないままで済ますこと、もうひとつは理解しようと努めることである。

私が採択した道は後者である。なぜならラカンは面白いのである。ラカンのトポロジーはソーカル&ブリクモンの世紀の傑作、『知の欺瞞』でも俎上に挙がっていたが、たしかにラカンがもちだす数学はかなりいかがわしい。いや、彼の言っていることはすべていかがわしい。でも「なるほど!」と思わず膝を叩いてしまうことが多々あるのである。何よりも、彼の思想は借り物ではない。

私にはすでに人生の後半生というか、晩年を生きているという意識があり、半分ご隠居さんの心境なので、「酒とバラ」ならぬ「酒とバレエ」の日々を送っておるのじゃが(つい、老人口調になってしまう)、もう少し勉強してみようという気にさせる人物のひとりがラカンなのじゃ。」

さすが、鈴木先生は「大人」なのじゃ。

先生が他人の仕事を評価するときの規準のひとつは、そのひとのアイディアや方法が「借り物」であるか、ないか、ということである。

これは卓見であると私は思う。

ラカンがよく分からないけれど、ところどころ分かるところがあって、それはめちゃめちゃ面白い、という点については私もまた先生にふかく同感するものである。

私がラカン派のひとたちにお願いしていたのは、(「『お願い』というにはちょいと言葉が過ぎるんじゃねえのか、おい」というご批判もあろうが)「ラカンの思想を『借り物』でない、あなたの言葉で語ってみてはくれないか」ということであったのだが、どうやら日本ラカン協会は鈴木先生をむかえて、そのような前向きの方向へとふみだしてくれそうである。ありがたいことである。


11月26日

ウイルスがはびこっていて、私に感染させられた人々から哀訴のメールが届いている。

こまったなあ。

現象的には

「メールを送るとそれに、同一の送信者名で見知らぬメールがはりついて送信される」

「それには添付ファイルがついている」

「開けると感染する」

「感染すると、その人が出したメールにも同じ見知らぬメールがはりついて送信される」

というものである。

私のPCもウイルス感染前後から調子が不安定であり、通常の操作のさいちゅうに頻繁に「不正処理」の表示が出る。開かないサイトもある。

困っていたら、「感染源」からワクチンが届いた。やれやれ。

しかしワクチンによるウイルスの検出にはやたらに時間がかかる。1時間半ほどDOS画面を眺めていたが、飽きたのであとを風邪ひきで休んでいるるんちゃんに任せて家を出る。

私から感染したみなさんには私のPCが修復しましたのちに、ワクチンをご送付させていただきます。ご迷惑をかけまして申し訳ありませんでした。

 

土曜日は日本イスラエル文化研究会の研究例会があった。

同志社女子大と本学が関西での研究例会を隔年で行うことになって5年目。今年は同志社女子大。

発表はお二人ともアメリカ文化研究者。論題は広瀬佳司先生の「ホロコーストとユダヤ系文学」と堀邦雄先生の「ニューヨーク知識人−ユダヤ的知性とアメリカ文化」。

イスラエル文化研究会はユダヤ人とユダヤ教に関係するものであればどんなテーマでも受けつける領域横断的な学会であり、聖書学、ユダヤ教学、西洋史、日本史、政治思想史、政治学、国際関係論、言語学、文学と、いろいろな専門家が登場して、さまざまなお話をしてくれる。

「ヘブライ語のクレオール」の話や「カフカのイディッシュ詩」の話や「日猶同祖論」の話など、ここ以外のどこでも聞くことのできない実に奇想天外な事実を私はここで耳学問した。

私はこの学会のけっこう古手の会員である。

都立大の助手をしているとき、エドゥアール・ドリュモンという反ユダヤ主義の開祖的イデオローグについて研究したことがあり、そのおりユダヤ人問題についていろいろ調べているうちにこの学会の存在を知ったのである。

はじめて早稲田大学でやっている例会に行ったときに、集まってくる会員たちの様子がなんとなく辺りをはばかるようで尋常でない。

ききとれぬほどのハスキーボイスでユダヤ人とイスラエルの不思議な歴史について語る小林正之先生の話を聞くうちに、「おお、これはひそかにユダヤ問題を研究しているマッドサイエンティストたちの地下ネットワークだな」と私は直観し、すぐに入会した。

しかし、残念ながら、イスラエル文化研究会はマッドサイエンティストたちの地下組織ではなく、きわめてまっとうな篤学の先生たちの集まりであることがその後判明し、私はちょっとがっかりしたのである。

しかし、この会の研究会で私が仕込んだ「豆知識」と、会員の先生たちの情報ネットワークがその後の私の研究にどれくらい役に立ったかははかり知れない。

とにかくヘブライ語でもアラム語でもイディッシュでもカバラーでもタルムードでも反ユダヤ主義でも、それぞれの分野に「生き字引」がいるのである。これは便利。

私はこのネットワークには、わずかにフランスにおける反ユダヤ主義の歴史についてと、レヴィナスの思想についてのインフォーマントとして参加させていただいているのである。それも、ぜんぜん「生き字引」ではなく、「その主題についてはこういう本があります(読んだことないけど)」とか「その問題はナントカさんが専門家です(会ったことないけど)」というような頼りない情報屋にすぎない。

お役に立てなくてすまない。

さて、今回はアメリカのユダヤ文化である。

私はこの領域についてはまるで疎い。

『ユダヤ教−過去と未来』という本を訳したときに、アメリカにおけるユダヤ教思想の展開という一項があり、モルデカイ・カプランとかアブラハム・ヘシェルとかいうひとのことは少し調べたことがあるのだが、ユダヤ系知識人というのが文壇と論壇にこれほど決定的な影響力を行使しているとは知らなかった。(あの本には20世紀アメリカの左翼的、前衛的思潮はほぼまるごとユダヤ人の「仕切り」である、なんてことは書いてなかった。)

広瀬先生は文学の領域で、堀先生は主に政治思想と芸術批評の領域で、20世紀アメリカ文化においてユダヤ系の知識人が果たしたきわめて重要で、かつ特徴的な業績についてレポートしてくれた。

「眼からウロコ」が二枚落ちた。

私の無知はひろく人の知るところであるが、この発表で言及された「著名なユダヤ系アメリカ知識人」のほとんどの名を知らなかったのにはさすがに私自身も驚いた。

みなさんはご存じだろうか?

イズラエル・ジョシュア・シンガー、エドワード・ワラント、シンシア・オジック、ジャージー・コジンスキー、ウィリアム・バレット、ルイス・コーザー、ネイサン・グレイザー、クレメント・グリーンバーグ、シドニー・フック、アーヴィング・ハウ、アルフレッド・ケイジン、アーヴィング・クリストル、ドワイト・マクドナルド、ウィリアム・フィリップ、ノーマン・ポドレツ、ハロルド・ローゼンバーグ、マイア・シャピロ・・・

昨日出てきた人名で私が知っていたのはノーマン・メイラーとフィリップ・ロスとスーザン・ソンタグとダニエル・ベルとソール・ベローとハンナ・アレントだけである。(読んだことあるのはそれだけ)

どうして、その他の人々の事績について私の情報は構造的に欠落していたのであろうか?

おそらく私は人生のどこかで「アメリカの左翼知識人」という概念を空集合として処理してしまったのであろう。

しかし、アメリカにもスターリニストやトロツキストの学生たちがいて、信じがたいことであろうが、モスクワ裁判やコミンテルンの方針をめぐって路線論争をしていたのである。

つまり、アメリカにもヨヨギやブントがあり、クロカンやヨシモトがいたのである。

いやー、なんでも聞いてみるものである。

今回は三杉圭子先生もご同行。

三杉先生は知る人ぞ知る「アメリカ・ユダヤ文学研究者」であり、今回の発表の論題こそ先生の専門そのものである。

にもかかわらず私が「ひえー、しらんかった」と叫んでいるということは、私はこれまで三杉先生と「先生のご専門」についていちどもきちんと話したことがない、ということを含意している。

では、私たちはこれまで一体何を話していたのであろうか。

「このワイン、美味しいね」と「わはは、スキーは極楽」と「サタデーナイト・ライヴ」の話だけで私はあの貴重な時間を費やしてしまったのであろうか。

ちょびっと反省。


11月25日

昨日の教授会で2011年までの減員計画が承認された。

教員は17%の減員である。それと同時に受け入れ学生数も減らすから、教育サービスの質はむしろ向上する。(教員一人あたりの学生数は30と変わらないが、学生一人当たりの空間や図書冊数やPC台数は増えるからだ。)

需要が縮小すればそれにあわせて供給も減少するのは当たり前のことだ。

このキャンパスはもともと1000人程度の学生を想定して作られたこぢんまりしたものである。1000人とは言わないけれど、1500人くらいにまで減らしてよいのではないかと私は思う。(いまは2600人いる。)

そういう小さくてインティメイトな感じの大学というのが女子大としてはいいのではないか。(『あしながおじさん』のジュディが通っていたカレッジみたいの、私は好きだぞ。)

日本はこれから「右肩下がり」の時代に入って行くと私は思っている。

経済が失速し、政治的プレザンスが消滅し、文化的発信力はさらに希薄になるだろう。

しかし、べつにそれを嘆く必要はない。

これまでだって世界に覇を唱えた帝国はつねに滅びてきたのである。

近世以降もポルトガルやスペインは世界を二分していたし、オランダやイギリスも世界の海を支配したことがある。

いまはそうじゃないけれど、だからといってそれらの国の人々がいますごく不幸か、というとそんなことはない。

人間と同じで、国もまた未熟なときもあれば、壮健なときもあり、老衰してゆくときもある。

老人には老人の生き方、老人ならではの生活の楽しみ方がある。

日本はいま「老人国」になろうとしている。

それはべつに高齢化社会とかそういう意味ではない。

国そのものが「お疲れさん」状態に達している、ということである。

明治が起業期で、昭和のはじめに世間知らずのまま夜郎自大的に事業を拡張、中年で倒産して路頭に迷い、一念発起でニッチビジネスで再起を果たし。いつのまにやら大金持ち。それを無意味に蕩尽し果てて、すかんぴんの晩年、というのが近代日本の「人生」である。

すかんぴんにはすかんぴんの生き方がある。

それについては日本文化にはちゃんとロールモデルがあるではないか。

長明、西行、芭蕉、荷風、百間、小実昌、康(って町田ね)。

彼らのすかんぴん美学に導かれて、「小さくてもほっこりした国」めざして粛々と滅びて行くというのはいいことだと私は思う。

時代全体はいまその方向に向かっている。

宮沢喜一がこのあいだの予算委員会で、危機的な財政構造を指摘されて、「税収がふえれば、すべてうまくいきます」と答弁していた。

理論的にはまったく正しく、しかしそれがまるで空語であることを質問した仙石議員も答えた宮沢蔵相も熟知しているような「しらけた」顔であった。

税収はもうふえないだろう。民需は拡大しないだろう。財政危機はますます破綻に向かって突き進むだろう。

そのことを全員が知っていて、とりあえず「困った困った」と言っているが、それは真夏に「暑い暑い」といってもぜんぜん涼しくならないのと同じで、ほんとうは「困った」なんて言ってもどうしようもないから、「困った」というのもうやめない?ねえ?と内心はみんな思っているのである。

だから、私が代わりに言ってあげるのである。

「困った」と言うのをやめましょう。

それが「当然なんだ」だと思いましょう。

夏が暑いのと同じで。

日本は確実に滅びて行く。滅びて行くって言ったって別に死ぬわけではない。

元気のない国、つねに運動の渦中にあるような動的なエネルギーの出ない国になる、というだけの話である。税金で国債の借金を払って役人に給料払ったら一円も残らないという「完全リサイクル予算国家」になるというだけの話である。

そういうところで「ほっこり」暮らしてゆくというのはべつに少しも恥じることでも、悪いことでもないと私は思う。

私たちの知的努力の向かうべき方向は、いかにしてこの国の崩れかけた屋台骨を支えるかではなく、傾いた屋根の下で、雨漏りやすきま風に文句をつけながらも快適に暮らせるような「生活の知恵」の涵養である。

だから、来年あたり志ん生の落語が中高生のあいだで「ひそかなブーム」となっても私は少しも怪しまない。


11月23日

ひさしぶりの休日だし、洗濯日和だし、しあわせな気分で、ごろごろする。

新聞のTV欄を見ると村上龍がNHKで教育問題の生放送デスマッチをやっている。さっそく食後のコーヒーなどをいただきつつ見る。

なかなか面白い。

学校教育について「だめだ」「崩壊している」という事実認知を何百回繰り返しても、その先には進めない。

いまのが学校教育が根本的な改革を必要としていることは誰にでも分かっている。

問題は、では教育制度をどう変えるかということと、「変える」ための意志決定プロセスをどのようなしかたで立ち上げるか、二つの水準にかかわってくる。

これはどちらもたいへん大事な問題である。

「どう変えるのか?」という問題と、「誰が、どういう仕方で、それを決定するのか?」という問題は複雑にからまりあっている。

総理大臣の諮問機関のようなところが教育の未来について設計図を描いているかぎり、日本の教育に未来はない。それはたしかである。

というのは、たとえば、このような委員会に集まってくる人たちは「日本文化はだんだん退化してゆく」とか「日本は国際社会におけるプレザンスを縮小してゆく」とか「日本経済はこのまま沈下を続けてゆく」いう「前提」に立って発想することが原理的に許されていないからである。

しかし、現実にうちの子ども達の世代は、自分たちがひとの親になる頃には、日本はもっとひどいことになっていて、生活水準も、知的水準もいま以下になっているだろう、という予測のもとに生活設計をしている。

子ども達の直観を軽んじてはならない。

そのような「近未来についての悲観的見通し」を前提にして、そのような脆弱な知的インフラ「の上に」なお、いかなる教育制度を再建しうるか、というかたちで教育の未来については語られる必要があるだろう。

村上龍は、作家的直観にもとづいて、「学校に通う」ということが複数の教育オプションのうちの一つとなるような制度を構想している。

私はこの見通しに賛成である。

「知識」についていえば、私が持論としているように、そんなものはいくらためこんでも何のたしにもならない。

必要なのは「知識」ではなく「知性」である。

「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。

「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手にはいるか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。

学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。

古いたとえを使えば、「魚を食べさせる」のではなく、「魚の釣り方を教える」場所である。

自分が何を知らず、何ができないのかを言うためには、自分自身を含むシステムの全体についての概括的な「見取り図」を持っていることが必要である。

自分がこの社会のどこのポジションにいて、今進んでいる道はどこへ向かっており、その先にはどのような分岐点があり、それぞれの分岐はどこにつながっているのか。それが分からないものにマッピングはできない。

マッピングが出来ないということは、主体性がもてないということである。

というのは、「マッピング」というのは、「自分がいる場所」、つまり「空間において自分が占めている場所」つまり、「他の誰によっても代替不可能な場所」を特定することであるからだ。

学術研究論文がまず先行研究批判からはじまるのは、「自分の位置を知る」ことが、おのれの「オリジナリティ」「唯一性」を知るためのたった一つの方法だからである。

主体性とは「他の誰によっても代替されえないような存在で自分は在る」という覚知とともにしか成り立たない。

そのためには「マッピング」が不可欠である。

そして、「マッピング」のための問いとは実定的な問い「私はどこにいるのか?」「私はなにものであるのか?」「私は何ができるのか?」ではなく、「私はどこにいないのか?」「私はなにものでないのか?」「私はなにができないのか?」という一連の否定的な問いなのである。

学校教育とはほんらい、このような否定的な問いを発する訓練のための場である。

自分が「何を知らず、何をできないのか」を正しく把握し、それを言葉にし、それを「得る」ことのできる機会と条件について学び知ること、それが学校教育で私たちが学ぶことのすべてである。

それさえ提供できれば、すべての場所は「学校」である。

それは制度である必要も、空間的現実である必要もない。

たとえば、サイバースペースはもはや十分に学校として機能している。

なぜなら、そこで何かのデータを得ようとするものは、なによりもまず「自分はどのようなデータを欠いているのか」「自分はそのデータに到達するためのどのようなスキルを欠いているのか」をできるかぎり分かりやすい言葉で交信の相手に伝える必要があるからだ。

自分の「欠如」や「不能」を適切に言語化する能力を人間関係に翻訳すると、それは「ディセンシー」と呼ばれる。

求めているデータを待つときの忍耐と沈黙は「レスペクト」と呼ばれる。

インテリジェンスとは、「おのれの不能を言語化する力」の別名であり、「礼節」と「敬意」の別名でもある。

それが学校教育において習得すべきもののすべてである。

その原点に立ち戻るならば、私たちのまえにはまだ無数の可能性が開かれているように私には思われる。

では「どのように学校を変えるべきか?」、「誰がどのようにしてそれを決定すべきか?」

これについては、みんなの意見を聞きたいですね。


11月22日

昨日の大学院の演習では川島武宜の『日本社会の家族的構成』を読んだ。

川島先生は私がもっとも尊敬する日本人学者の一人である。(私が「東大教授」に敬意を抱くというのは、ものすごくレアなことである。)

『日本人の法意識』を読んだのは20代の終わりのころであった。

その本は私に深い衝撃を与えた。

「ものすごく頭のいい日本人」が書く、異常にクリアカットな文章を読んだ、これが最初の経験である。

川島の文章はほとんど詩的明晰性に達していた。

私はその足で大学の図書館に行って、川島武宜の法社会学全集を一巻から順番に借り出して読んだ。

大塚久雄と土居健郎との鼎談『「甘え」と社会科学』で、川島はこの二つの知性を相手に、驚くことに、噛んで含めるような「啓蒙」を行っていた。

川島武宜はおそらくその時代において自身を「日本でいちばんすぐれた知性」だと自負していたはずである。

「日本でいちばんすぐれた知性の持ち主である」という自覚は本人にとっていかなる経験なのであろうか。

私にはうまく想像できない。

川島の仕事に対する他の誰の評価も、川島自身のおのれの仕事に対する評価の厳密さに及ばない、というのはどういう経験なのだろう。自分の仕事の「意味」をほんとうに理解している人間が自分しかいない、というのはどれほど孤独なことなのであろうか。

川島の内面は私の想像はとおく及ばないが、ともあれ、「誰にも私の深さは理解されないだろう」という断念から出発した知性が選び取った文体はすばらしく明晰な「啓蒙」の文体であった。

私はこの文体を愛する。

私たちは「自分が賢い」ことを示そうとすると、必ず韜晦する。

経験が私たちに教えているのだ。

欲望を実現したければ、欲望を隠せと。

権力を示したければ、権力を行使するな。

知性についても同じことがいえる。

何を言っているのかよく分からないことを言う人間に私たちは畏怖の思いを抱く。

その経験知からなかなか私たちは自由になれない。

川島の文体にはそのような「陰翳」がない。

「深み」や「奥行き」を示すような「襞」はそこから周到に排除されている。なぜなら川島には「自分が賢者である」ことを示す必要がないからだ。(だって、川島自身がそのことを「知っている」のだから。それこそ誰に保証されるよりも確実なことなのだ。)

川島は自分が知っていることのうち、読者が緊急に学び知らなければならないこと「だけ」を厳選し、精密な語法で、噛み砕いて、語る。

それを私は「啓蒙の文体」と呼ぶのである。

それは「分かり易い」文体ということでは尽くせない。

それは、完全なコミュニケーションを断念したものだけが獲得しうる、ある種の「哀しみ」をたたえた文体なのである。これに類するものとして私は漱石のエッセイの他に多くを知らない。


11月21日

週末は合気会奈良県支部の創設35周年記念行事があり、神戸女学院合気道会のメンバーはぞろぞろと奈良県橿原へ。

奈良県支部は、自由が丘道場時代の大先輩窪田育弘師範が創設された道場で、いまや傘下に十余の道場を擁する一大ネットワークである。その名門道場の周年行事であるので、たいへんにぎやかである。

植芝守央合気道道主、多田宏先生、多田塾門下の各道場からのデリゲーション団、近畿一円の各道場、海外の諸道場からのゲストたち・・・と窪田師範の人脈の広さを窺わせるスケール。

うちは単一団体としてはおそらく最大規模のべ40名を二日にわたる行事に送り込んだ。多田塾同門の道場は、関西には奈良県支部とうちだけであり、いわば奈良県支部は「近所に住んでるお兄ちゃん」であるから、ぞろぞろゆくのは当然なのである。

初日は多田先生の講習会。

今年は広島県支部での講習会、多田塾合宿と、多田先生のご指導を親しく受ける機会に恵まれ、神戸女学院合気道会一同はたいへんハッピーであったが、一年の終わりにこういうかたちでまたも豊かな経験ができた。

貴重な機会を提供して下さった窪田師範と奈良県支部のみなさんには言い尽くせぬほどの感謝の気持である。(さっそく頂いたポロシャツを着て、これを書いている。背中に 35th Aikido Nara-ken-aikikai とプリントしてある。日曜日の講習会に出た人に全プレ。なかなか着心地よろし)

夜の直会では学生たちとともに多田先生を取り囲んでお話を伺う。

来年の神戸女学院合気道会・神戸女学院大学合気道部10周年記念行事の日程もその場で決まる。(5月3日、4日。3日に多田先生の講習会、4日に演武会と総合説明演武)

ついに、悲願成就である。

これまで本学に多田先生をお呼びしようとしたことは二度あり、二度とも日程の調整が不調で流れたのである。一度などは会場もホテルの予約も済み、学内にポスターまで貼ったあとにキャンセル。一同の落胆は大きかったのである。

今度は三度目の正直。多田先生の年間スケジュールに入れてもらったから、もう大丈夫。

私は直会で多田先生に「武道の競技化」についてのご意見を伺う。

いま書いている論文のわりと大事なところなのである。多田先生がどういうご意見であるかはだいたい聞き知っているつもりだったが、やはりちゃんと確認しておこうと思って伺うことにする。

武道の競技化は武道の退化である、という実にきっぱりとしたご意見を拝聴して、心を強くする。

直会のあと、先生のお供で来た早稲田合気道会の原君、東大気錬会の工藤君、うちの「客分」の気錬会OB高雄君、ウッキーとホテルの近くの居酒屋で軽く二次会。若い人が相手だとついうれしくなって、どんどん呑んでしまう。

二日目は講習会と演武会。

演武会には懐かしい顔が一堂に会する。東京から日帰りで来ている人もいる。同門の先輩後輩たちは実に律儀である。

自由が丘道場が来年40周年。11月23日に記念の講習会をやるそうだから、一年後には諸兄とまたお会いできる。楽しみである。

演武会では、道主、多田先生をはじめとする気合いの入ったみごとな演武を堪能する。

うちからは林佳奈、江口さやかの新旧主将と、私と高雄啓三君が演武をする。

女子の演武は華麗であったが、自分の出来はよく分からない。ま、いいか。今回は二日酔いではなかったし。

というわけで、さらにあれこれとあるのだが、全部書くのもたいへんだし、合気道を知らない人は読んでもぜんぜん面白くないであろうから、これにておしまい。

昨日の夜はずっとTVを見ている。

加藤紘一、山崎拓の造反劇の顛末を見ていたのであるが、夜の9時からのゴールデンタイムにワイン片手に「国会中継」を見ているというのは、考えてみたら、私はうまれてはじめての経験である。

内閣不信任決議案の趣旨説明というのをはじめから終わりまで聞いたのもはじめてである。

いやー。面白いね。

るんが、鳩山さんに「そうだそうだ、いけいけー」と声援を送り、反対演説の中馬弘毅に「何言ってんだ、ねぼけんなー。おやじー」と罵声を送っている。

これをして「政治参加」といわずして何と言いましょう。

途中で松波健四郎が水かけたり、加藤さんがなきべそをかく図像が入ったり、実に楽しい3時間であった。

加藤さんは久米宏にも筑紫哲也にも、「腰砕けやろう」とうふうにずいぶん悪く言われていたようであるが、ワタシ的には、「ふりあげたこぶしが腰砕け」というところまで含めて、これだけ楽しませてもらったので、お礼を言いたいくらいである。

やはり、こういうことは誰かがリスクを負ってやらないといけない。

「リスクを負い切らなかった」という批判が多いけれど、「リスクをちょっとだけでも負った」という点をほめてあげてもいいじゃないか、と私は思う。

加藤さんをあまりけなすと、結果的には「自民党から第二第三の加藤が出てくる」というエンターテインメントの芽をつぶすことにはならないだろうか。

やはり、ここはみんなで加藤さんに拍手をしてあげて、「いや、結末はまずかったけど、途中までは面白かったよ」ということにしておけば、「じゃ、次は私が・・・」というお調子ものが出てくるのではないかね。

私は密室政治というのが嫌いであるが、それは「手法として陰湿」とかそういう意味だけではなく、密室での談合では「政治家のバカさ」がはっきり見えない、という点が困るのである。

それは私が大学の教師は定期的に論文を書く可し、といっているのと同じ理由である。

私は大学の教師ならそれにふさわしい「賢さ」を示せ、と言っているのではない。(そんなこと誰も期待してない。)そうではなくて、「頭の中身」を満天下にばらして、どの程度の知性の持ち主が大学の教師をやっているのか、みなさんによく知っていただくほうがシステムの健全のためにはよい、という「情報開示」の精神でそう申し上げているのである。

政治的オプションの決定プロセスがオープンになることは、たいへんによいことである。

政治家の知的資質や、倫理性がメディアに露出するのは、たいへんによいことである。

政治家はすべからく、その頭の中身と腹の底を満天下にさらして、どのような人間が国政を担当しているのかをみなさんによく知っていただくべきである。そのほうが、隠蔽するよりも、システムの健全な機能に資するところが大きいであろう、と私は考えている。

その意味では、今回の騒動のおかげで、加藤紘一という政治家がどの程度の器量の人物であるかが分かったし、山崎拓というひとがまるで自主性のないひとだということもよく分かったし、小泉純一郎が存外策士だということも分かったし、野中広務が自民党を実質的に支配しているということも分かったし、そしてなにより森総理という人がまるで、ぜんぜん危機管理能力がない、ということもよく分かった。

そういう意味で今回の政局は情報開示の好個の見本であるかに思うのである。

というわけで加藤紘一さんにザブトン一枚。


11月16日

研究所に白井亨の『兵法未知志留辺』をコピーしに行ったら、真栄平先生がいて、話し込む。

真栄平先生は日本近世史、とくにアジア交流史がご専門の碩学である。

先生はものすごく頭の良い人なので、こちらが尋ねたいことをわずかなキーワード入力で一発で読み当て、必要な情報をたちどころにアウトプットしてくれる「歩く日本史百科」である。

だから、先生とおしゃべりをすると、なんとなく「賢くなった」ような気になれる。たいへんありがたいお方である。

大学という制度にはいろいろ問題もあるが、こういう人が隣近所にいつもいるという点はじつに便利である。

今日お尋ねしたのは「川勝平太の『鎖国論』は梅棹忠夫の『生態史観』の学統を継承した発想ではないですか?」という、ちょっと前から気になっていたことである。

真栄平先生は当たり前のように「イエス」とお答えになった。

そこで先生にあれこれ質問する。

「どうして、江戸時代の徳川幕府の統治システムが『前近代的遺制』ではなく、効率的で、超近代的な可能性を含んだものであった、というような歴史評価の逆転が近年になって急にさかんになったのでしょう?」

真栄平先生のお答え。

「日本史研究は一貫して『農本主義的』な発想に立っており、すべての歴史的変化は農業生産の現場から始まるというかたくなな思い込みに領されていたのです。それゆえ、実証的な歴史研究は荘園制度や小作制度など農業生産様式とそれにかかわる法制の研究に集中していたわけですね。

しかし、日本には農業生産者だけしかいなかったわけではありません。

中世史の網野善彦は従来の歴史家が見落としてきた遊行する存在に着目し、中世、近世の日本社会には、土地に縛られた生産者だけでなく、移動することによって社会的に活動している人々がいたことを明らかにしました。

網野の仕事を契機にして、中世近世の日本は、これまでの歴史家が記述してきたような、閉塞的で繋縛的な社会構造だったのではなく、けっこう自由でフレキシブルなシステムだったという考え方がさかんになってきたわけです。」

「じゃあ、その到達点が江戸時代再評価、『パックス・トクガワーナ説』だというわけですね?」

「そうですね。pax tokugawana説とは、梅棹の生態史観を下敷きにして、『第一地域』の西欧と日本では、それぞれ別の政治システムが発達し、日本では江戸時代にピークを迎えた、という考え方です。」

川勝平太によれば、「ヨーロッパは、大西洋を『われらが海』となし、環大西洋圏で物産を需給する『近代世界システム』を作り上げることによって輸入代替に成功し、自給を達成した」それと同時期に日本は鎖国体制を完成させた。

つまりヨーロッパの産業革命とほぼ同時期に、日本は「鎖国」を物的に裏付ける自給自足体制を完成し、それまで旧アジア文明圏から輸入していた物産をほぼすべて国内土壌に移植して物産の国内自給を達成したということになる。

ヨーロッパは ヨーロッパは広大な土地に資本を投下する「資本集約型」、日本は狭い土地に労働を投下する「労働集約型」と、それぞれ生産革命の形態は違うが、いずれもこの生産革命によって、貨幣素材の海外流出が止まった。

ヨーロッパと日本の違い(つまり「近代世界システム」と「鎖国」の違い)は、ヨーロッパが開放系であるのにたいして、日本が閉鎖系である点にある。物資の需給システムが、開放系は貿易に依拠し、閉鎖系は国内交易に依拠するという違いである。

近代世界システムとは、国際関係論の用語を借りて言えば「ウエストファリア・システム」つまり、国家主権の覇権闘争システムのことだ。

このシステムのいちばん根っこにあるのは、国家主権の発動の手段として「戦争をすること」は国際法(という発想そのものがこの時代に生まれた)に照らして正当であるという発想である。

これに対して、パックス・トクガワーナ・システムでは、はそもそも「国際法の下で平等な諸国が競合的に並立する」というスキームそのものを受け付けない。

パックス・トクガワーナ・システムの国際関係理解は、中国と朝鮮から伝わった「華夷秩序」あるいは「文明と野蛮パラダイム」である。

「華夷秩序」については川勝の説明をそのまま引こう。

「華夷秩序は、明、清中国、さらに李氏朝鮮などからなる東アジア世界を律した国際関係であり、冊封体制と朝貢貿易を二つの柱とする。中国に朝貢し、中国皇帝から国王として冊を封ぜられた者が交易を許されるシステムである。」(川勝、「鎖国を開く」、8頁)

華夷秩序においては、朝貢する国は、自国の特産品を宗主国に納め、その見返りに莫大な回賜品を受け取る。

つまり、「華」であるものは、形式的な主従関係の代償に、物質的には物的贈与を行うことによって「夷」である隣接集団との安全保障を確保する、というのが華夷システムなのである。

これは相互に平等な国家主権が「戦争と平和」のゲームを国際法上で展開するウエストファリア・システムとはまったく国際関係理解を異にしている。

川勝の主張は、この華夷秩序は「ポスト・戦争・パラダイム」の有望なモデルとなるのではないか、という点にある。

「『鎖国』や『海禁』は自国の文明を相手に押しつける民族同化主義とは正反対の姿勢であり、民族の『住み分け』として読みかえることもできるだろう。(・・・)地球という限られた存在を考えるとき、『鎖国』という有限世界のなかで培われた異なる国(藩)同士が互いに住み分けていた知恵には学ぶべきものがあるだろう。民族は交流しつつも住み分けうるという展望を持つことができるのである。」(232頁)

なかなか大胆な理説である。

「どうです、真栄平先生、川勝鎖国論をどう見ます?」

「うーん。どうかなあ。徳川時代の統治システムのもつ権力的、抑圧的な側面への目配りがちょっと足りないのではないですか。ぼくは、ちょっと川勝さんにはついていけないですね」

なるほど。

ながながと書いて申し訳ないが、ほんとに五分間でこれくらいしゃべったのである。本一冊分くらいの情報を頂いてしまった。あたまのよい人のお話をきくのはほんとに効率的である。

先日、「水戸黄門」話のついでに、徳川の統治システムの有効性について、大衆的なメンタリティはそれに無意識的に同意している、ということを書いた。

であるとすれば、「徳川時代の統治システムこそ、21世紀のグローバル・スタンダードになるかもしれない」という川勝鎖国論が俗耳に快い響きをもたらすことは怪しむにたりない。

だって、それって「ウェストファリア・システムの水戸黄門化」のことなんだから。

あれ、なんか、昨日も同じようなことを書いていなかったかな?

これって、私の潜在的願望なのかな。

「世界の日本化」。


11月16日

「不眠日記」が反響を呼んでいる。

みんな心配してくれている。いい人ばかりだね、世の中は。小川君。

さて、「いい人といえばこの人」の、私の兄ちゃんからもアドヴァイスが来た。(兄ちゃん、株の配当と歯ブラシありがとうございます。株の配当で美味しいものをたべて、そのあと歯ブラシで歯を磨くことにします)

では、お兄ちゃん、どうぞ。

「気持ちがリラックスできなくて眠れない時は、顔の一部が必ず緊張しています。例えば無理に目や口を閉じているとか、頬に力が入っているとか。顔の緊張は自分でも意識すれば判りますし、緊張を解くこともできます。 顔が緊張しているときは、必ず身体にも緊張があります。こういう状態は眠りにつきにくい状態といえます。

まず顔の緊張を取ってください。そうすれば口は半開きになるし頬はだらしなく緩み、目もカッチリ閉じていないような、そんなふうになるでしょう。その状態では体は絶対に緊張していません。(緊張は全て顔から始まりますから)

つまり、脳より先に、身体を睡眠の状態にしてあげる、ということです。この状態では脳の活動もほとんど不可能になりますよ。(何か考えているときは、必ず顔が緊張しますから) この状態で1分以上起きていることは不可能です。

不眠症に効くかどうかはわかりません。」

ということでした。どうもありがとうございます。

顔が弛緩していると、脳の活動がほとんど不可能になる、というのは卓見だと思う。

ということは、次は「いかにして顔を弛緩させるか」という技術的な課題が前景化するわけだが、いちばん直接的な方法は文字通り「顔をごしごしマッサージする」ことである。(これはけっこう有効)

呼吸法をしながらのリラックス法も効果的。(左足首から始めて、全身のパーツをひとつずつ「緊張」「弛緩」させてゆく方法。合気道の合宿でこれをやるといきなり寝ちゃう人がいる。)

私の不眠症のときには「ラベンダー」や「せせらぎの音CD」などを試みたが、あまり劇的な効果はなかった。(でも、その思いやりには涙したものでした。ありがとうね、るんちゃん。う・・・嗚咽)

お、そういえば、「泣く」のは、なかなか効果的である。

泣くとき、赤ちゃんは全身が発熱したようになり、汗をびっしょりかき、身体の奥のほうから、深い呼吸をするようになる。これは大人でも同じ。

「泣き寝入り」ということばがあるくらいだから、泣くと全身がかなり弛緩する。(もちろん顔もめちゃくちゃになるし。)

ふとんに入ってまず「わんわん泣く」という睡眠導入法は意外にいけるかもしれない。

いろいろと試みて下さい。


11月15日

大学院の演習の今日の教材は梅棹忠夫の『文明の生態史観』。

1957年の論文だが、そこで梅棹が立てている仮説は40年以上たっても、かなりてごわく有効であるように思われる。

梅棹はある地域においてどのような社会制度が発達するかについて、歴史的条件よりもむしろ「風土」の重要性に配慮している。(そういう点では和辻哲郎と発想は似ている。)

気候、地質、地形、動植物相、そういった生態学的な条件がそこに住む人々の生活のデザインに影響を与えるのはたしかに当たり前といえば当たり前である。

だが、梅棹の卓見は「第一地域」(西欧と日本)と「第二地域」(ユーラシア大陸のそれ以外の地域)は風土の条件が違う、ということを指摘したことにあるのではない。

そうではなくて、「第一地域」は「風土」にあまり繋縛性がなく、そのためにそこに暮らす人々は「風土の制約」から比較的自由であり、「第二地域」は「風土」に強烈な個性があるために、人々は「風土の制約」から脱却しにくい、という点に着眼したことにある。

どちらの地域でも、歴史的条件の変化にともなって社会構造は変化することに変わりはない。しかし、「第一地域」では「変化の仕方が急激に変化する」のである。

明治維新以後の日本と、阿片戦争以後の清帝国の差は、「変化の仕方の差」である。

日本は「西欧化」をある程度果たした。中国や朝鮮はそれに遅れた。その違いは、日本が「西欧化」を受け容れる「インフラ」があらかじめ整備されていたとか、「西欧化」というヴィジョンにはじめから親和的であった、ということではないだろう。

歴史的条件の変化に即応して変貌しうるシステムそのもののフレキシビリティ(つまり「風土の制約からの開放度の高さ」)が日本の「近代化」をおそらくは可能にしたのである。

梅棹の生態史観は、風土決定論であるように見えて、そうではなく、「風土」の違いが「風土から自由になる度合いを決定する」という「一回ひねり」の風土論である。そのように私には読めた。(って、いうか、ほんとは「盗聴生」飯田先生のアイディアなんですけど。すみません、パクって。)

人間を例にとって考えよう。

知的な人間と知的でない人間の差は、知識の量にあるわけではない。

無知というのは「情報の欠如」のことではなく、「情報の欠如の見落とし」のことである。

私の知る限り、無知な人間のあたまには膨大な量のゴミ情報が詰まっている。

そのゴミ情報の過重負荷によって、その人の情報処理システムそのものがうまく機能しなくなっているという「情報」が読み落とされている事態が「無知」である。

仮に、国際政治について膨大な情報をもっている人がいるとする。

ところが、彼はそのすべてを「ユダヤ人の世界支配の陰謀」というスキームに基づいて処理している。

「お、南アフリカで政変か。デ・ビアスが一枚噛んでいるな」

「お、タイの米相場が動いたな。ジョージ・ソロスが糸を引いているな」

「お、パレスチナで争乱か。シオンの長老の陰謀やな」

こういう人は(実際に存在するが)日経からCNNから『噂の真相』まで読破しているにもかかわらず、彼自身の「ものの見方」を修正するような情報の取り込みを構造的に遮断している。

これを私は「無知」と呼ぶのである。

知性とは、おのれ自身の情報処理システムの「不調」を最優先的に検出する運動性のことである。

「あれ、おれって、何か、何見ても『ユダヤ人の陰謀』に見えてんじゃねーかな?これ、やばくねーかなあ?」

というような「あれ?」が知性の機能である。

「だけど、この『あれ?』という気づき方にも、なんか俺の場合、一定のパターンがあるような気がするけど、気のせいかなあ?」

というような自己懐疑が知性の機能である。

自分の発想法そのものの定型性について優先的に危惧し、さらに「自分の発想の定型性を優先的に危惧するような反省の仕方そのものの定型性」を危惧し、さらに・・・

というような「タマネギ」的自己言及にはまりこんでしまうのが「知性という症候」なのである。

で、話を戻すと、梅棹の言っている「第一地域」と「第二地域」の違いというのは、「社会システムの変化の仕方そのものを変化させようとする精神」と、「社会システムは変化するのだけれど、変化の仕方そのものはあまり変化させる気がない精神」の差、というふうに言い換えることができるのではあるまいか、というのが私の意見である。

たとえば、中国の現代政治システムは清王朝の政治システムとずいぶん違っているし、市場経済のあり方も200年前とはずいぶん違っているが、「中央政府の理念的な経済政策と民間の現実の市場経済の動きのずれがシステムの変化をもたらす」というパターンはあまり変わっていない。

どちらが「進歩的」かとか、どちらが「より民主的か」とかいう問題ではなく、社会制度が変わるときに、「システムだけが変わる」社会と「システムを変える仕方も変える」社会があって、それはずいぶんその後の社会のデザインの仕方が変わってくる、といことは言えそうである。

これはレヴィ=ストロースが言っていた「熱い社会」と「冷たい社会」という二類型にも少し似ている。

日本はどうなのであろう。

梅棹説が正しければ、日本は「システムを変える仕方そのものを変える」という仕方で社会制度の「遷移」を遂げてきた社会のはずである。

そういえば、国家的ヴィジョンの提出が急であるような政局において、「選挙制度の手直し」や「次の首相の選出手続き」といった「システムの変え方」をめぐる議論にほとんどの政治家のエネルギーが集中している社会というのは、たしかに世界史的にもすごくユニークであるような気がする。

選挙後の「集計作業」に全世界が注目しているアメリカ大統領選挙というのも、そういう視点から言うと「変化の手続き」が「変化そのもの」よりも焦点化している社会だということになる。

これを「アメリカの日本化」と言ったら、アメリカの人、怒るかな?


11月14日

「不眠日記」の小川さんにはほんとうに申し訳ないが、毎日「爆睡」している。

一昨日は11時間、昨日は9時間半。まだまだ眠れるが、仕事にいかないといけないので、やむなく起きる。ああ、寝るより楽はなかりけり。

私の父は88歳であるが、父の説によると、人間は年を取るにつれて寝る時間が長くなり、そのうち一日24時間寝るようになるのが「ご永眠」なのだそうである。

前向きな考え方だと思う。

私も壮絶な不眠症を二度経験したことがある。二度目のほうがひどくて、薬を控えたために、まったく一睡もできない日が二日続いたことがあり、このときは(いまの小川さんとおんなじで)全身が痙攣した。

もう起きあがる気力もないのだが、横になっていても眠ることが出来ない。その日は教授会で昇任人事の報告があって、這ってでも大学にいかなければならない。這うようにして大学に行き、教授会に出た。用意した原稿を読み上げただけなのだが、声が震えて、原稿をもつ手もぶるぶる震えていた。あれはまさに生涯最悪の一日(のうちの一日、ほかにも100日くらいある)であった。

というわけなので、小川さんの不眠の苦しみはよく分かる。

よく分かるけれど余人にはいたしかたもない。

「売れるものなら、私の睡眠時間を売って上げたい」と心底思うのである。

そこで「1時間1000円でどうかね」と申し出たのであるが、ご本人は「高い」というお答えであった。

たしかに8時間の睡眠時間に8000円は高い。(それに、そんなに買われたら、私の睡眠時間がなくなってしまうし。)

誰か「これでどんな人でも眠れます」という秘訣があったら教えていただきたい。

私の知り合いに、「枕元でひとびとが宴会をして騒いでいると眠れる」という不眠症患者がいる。これはたしかに不眠症患者の感じる社会からの孤絶感を緩和する効果はありそうである。

「死ぬほどつまらない講義を我慢して聴く」というのも効果的であるように思われる。

たしか小川さんはそのむかし私の「フランス文学」の講義のときにいちばん前の席でよく熟睡されていたかに記憶している。

教授会の昇任人事の第二読会というのも、たいへん眠りやすい環境であるが、残念なことに、これは一般公開していない。


11月12日

ああ、突かれた(ってこのギャグ今日二度目なんだけど)。

今日は兵庫県の杖道講習会。

矢鋪さんにごんごん水月と脾腹を突かれたので、腎臓破裂しているかもしれない。

しかし、ふたりでまあ、ずいぶん稽古してしまった。10時から4時まで、手の皮が剥けるくらいにばりばり杖のお稽古をした。

いつもは学生たちと「ちょっと手加減して」稽古するか、鬼木先生に「たいそう手加減をしていただいて」稽古しているか、どちらかなので、「くりゃー。死ねー」という感じでごんごんいけるととてもハッピーである。

もちろん、鬼木先生相手に「死ねー」という感じで突きをかますということも可能性としてはありうるのであるが、その「あと」に鬼木先生の眼が「きらり」と笑って「あ、そういうことなのね。じゃ、こっちも、いいかな?」ということになると、とてもとても恐いことになるので、そういう虎の尾を踏むようなことをする人は兵庫県下には存在しないのである。

矢鋪さんは西宮長和会という居合道の会で五年間ほどいっしょに居合と杖を習っていた同門のおともだちである。私は二年前に事情があって居合道を止めて、鬼木先生の門下で杖道を専修することにした。所属団体が違うので、もう同じ道場ではいっしょに稽古することができない。しかし、県の講習会であれば、話は別である。

高砂の講習会会場にいったら矢鋪さんがいた。

「あ、来てたの?」

「うん」

「じゃ、やろか?」

「やろやろ」

ということで道着が汗でべとべとになるまで稽古をした。

とても楽しい一日であった。

今日の講習会は再来週の昇段審査のリハーサルなので、初段、二段を受審する正道会の諸君12名が参加していた。

講習の最後にみんなの演武も見せていただいたが、なかなか堂々たるものであった。

隣にいた七段の先生に「どうです、うちの連中は?」と尋ねたら、

「女学院て男子学生もいるの?」と聞かれた。

高雄さんと小菅さんがまじっていたのである。

「いえ、彼らは京大の院生たちで、杖道の稽古に参加しているのです。」と答えたら

まぶしそうな眼をして「京大?・・・・そうは見えんな」というお言葉であった。

何に見えたのであろうか。

もしかしたら「兄弟の院生」だと思ったのかも知れない。

たしかに、そうは見えない。


11月11日

重信房子が逮捕された。

西成のワンルームに逼塞して、高槻のホテルで捕まった。

私は日本赤軍という政治党派にいちどとしてシンパシーを感じたことがないけれど、この逮捕には少しだけ心が痛んだ。

何ヶ月か前、函南の駅で過激派の中年男の方が刺殺されたときも何となく気持ちが暗くなった。

一体、この人たちはいま何を考えて「政治」をしているのだろう。

1970年代の初め頃に左翼の運動から「足を洗う」ときに、(洗うほど浸かっていたわけではないけれど、それでも)一度はある政治党派の運動に荷担した以上、(そして、その綱領や党派の「名において」何人かの人々を罵倒したり、傷つけたりした以上)その方向転換を説明する責任が自分にはあると考えた。

どういうロジックで私は自分の転向を説明すべきだろう。

「政治から撤退する」ことについて、どう考えてみても「ポリティカリーにコレクトな」言い分はありそうになかった。

現に、そのころ、私のまわりでは運動から撤退する人たちがぞろぞろいたけれど、アカウンタビリティについて、お手本になれそうな人は一人もいなかった。

彼等の多くは「一夜にして」転向した。

前の日の午後までアジ演説をしていて、翌朝にはもう姿をくらましていた。(そして、ほとぼりがさめた頃、髪を切り、めがねをかけ、こぎれいな服装で大学へ戻ってきた。)

彼らは何も弁明らしいことは言わなかった。

ただ以前の知り合いの姿をみかけると逃げ出すだけだった。

私は別に恨みも憎しみもあるわけではない。ただ聞きたいだけだった。

「いったい、どうしたんだよ」

彼らはふてくされて答えた。

「なんとでも言ってくれ。おれは東大出という看板を棄てるわけにいかないんだよ」

なるほどね。

そのあと彼らは一流企業や中央省庁に入っていった。

居酒屋で若い連中をつかまえて「おれらはな、身体はって戦ったんだよ」みたいな見苦しい説教をして嫌われることになったのはこの人たちだろう。

これほどドラスティックではなく、なんとなく「自堕落」に崩れ落ちて行くというパターンもあった。

薄汚い四畳半に鬱屈して、安酒と麻雀とジャズとセックスにどろどろよどんでいく「サブ・カル系」の人たちは、そもそもはじめからあまり政治的な人たちではなかったのかも知れない。彼らは運動が反秩序的で祝祭的であるかぎりは喜々としてつきあうけれど、ルーティン化するとあっさり見限って、彼らの「趣味の世界」に隠棲した。

私はどちらかと言えば、この人たちと仲良しであった。

ベ平連のような市民運動上がりのリベラル派の学生たちもけっこうタフだった。

彼らはデモに出ながら授業にも出ていたし、バリ封のあいまにサッカーなんかしていた。

そのままさしたる葛藤もなく卒業した彼らは、有機農業やったり、市民運動をしたり、田舎でペンションをやったり、ジャズコンサートのプロデュースをしたりして、地方の「ちょっと毛色の変わった教養人」みたいな快適なポジションをいまもたぶんキープしている。

私この人たちが苦手だったし、いまも苦手である。

そして、学生たちの政治運動が現実的にほとんど無意味だということが分かっても、「革命」が幻想だということが分かっても、なお党派や組織にしがみついている「きまじめな人たち」がいた。

私が「言い訳」を用意しなければならなかったのは、たぶん、この人たちに対してである。

この人たちはずいぶん酷いこともしていたけれど、その「つけ」もきちんと払っていた。

彼らは約束されかけていた快適な社会的ポジションやプチブル的な快楽を棄てて、誰も感謝せず、誰からも尊敬されない「革命闘争」にその青春を費やし、彼らが求めた理想を何一つ実現できぬままに、何人かは無惨な死を迎え、何人かは白髪の老人となった。

私は彼らにシンパシーを感じないけれど、彼らが20代の一時期にいささか性急に選択した一つの生き方の「つけ」を生涯をかけて払い続けていることにはいくばくかの敬意を払う。彼らはとにかく「自分の負債は自分の身銭を切って払う」という態度を貫いているからだ。

この人たちと私の分岐点はどこにあったのだろう。

「物理的暴力が嫌い」という私の気質はたぶんその分岐の一つだ。

私は「物理的暴力が嫌い」な人間だというとびっくりする人がいるかも知れない。10代後半からほとんど休みなく武道(それはいかに効果的に人を殺傷するか、という技術の体系だ)を稽古してきた人間が「暴力が嫌い」だと。

でも、ほんとうに嫌いなのだ。

正確に言うと「暴力が恐い」のである。

私は身体的な暴力に対して異常に弱い。

拷問にあったら、拷問者の靴を舐め、ぺらぺらと仲間を売るようなタイプの人間である。

痛いの大嫌いだから。

そして、わずかな物理的暴力に屈服して、自分が最低の人間であることを思い知らされるというのは、痛いことよりもさらに気分が悪そうだ。

「人に痛い目に合わされる」というのは私にとって二重に気分が悪いことであるので、そのような機会をできるだけ最小化したいというのが少年期からの私の生き方の大原則であった。

武道を稽古したのは、できるだけ「痛い目」に合わされないためである。

強くなれば相手を痛い目に合わせられるからではない。

相手がむやみに多かったり、「ひ、卑怯な、飛び道具とは!」という状況では私程度の武道能力はあまり役に立たない。

そうではなくて、武道を稽古していると、「やばい」状況というものに対する予知能力が高まるからである。

「なんだか、この角をまがるとやばいことがありそうだ」というような感覚はけっこう鋭くなる。

おかげで、爾来30年、一度もやばい目にあったことがない。

ただのおっさんを見ても「うーむ、一見ただのおっさんだが、実は拳法の達人だったりして・・・」と妙に気を回して、こそこそ迂回するからである。

ま、とにかく、暴力を行使するのも、行使されるのも、私は大嫌いである。

大、大、大、大嫌いである。

ところが、過激派の政治というのは、暴力というものを政治課題実現の手段として論理的には肯定する。

私が行使する暴力の被害者が(私と同じように)暴力に屈してへこへこしながら、心底自己嫌悪に陥っている胸中を察すると、私には自分に暴力を行使する権利があるとは思えなかった。

それが分岐の一番目。

もう一つの理由は、「政治的なもの」というのが「いわゆる政治プロセス」だけに限定されたものだというふうには考えられなかったことである。

ある種の爆発的な政治運動を駆動するのは、綱領の整合性でも、政治課題の立て方の正しさでもない。

不意に時代に取り憑く、ある種の「気分」である。

その「気分」のメカニズムを理解したものは政治的に影響力を行使できる。「気分」のメカニズムが分からないものは何もできない。

そして、「気分のメカニズム」を理解したい、という私の知的欲求に、過激派の政治学は全く答えてくれなかった。

二十歳のころの私は漠然とそれを「狂気の構造」とか「物語への没入」とかいうふうな言葉で考えていた。サドやブルトンやバタイユは少しだけそのヒントを与えてくれた。しかし、それは非常に堅固なある精神的風土の産物であり、温帯モンスーンのびちゃびちゃした精神的風土に移植することはできそうになかった。

日常のごくトリヴィアルな経験のうちにしみこんでいる「政治性」について理解すること、そのことの方が現実の政治過程に対する具体的なアクションの「正しさ」を論証することより優先順位の高い課題であるように私には思えた。

というのも、レアルポリティークの場面では私は結局「誰かの尻」についていくことしかできないし、「誰かの尻」についていって、何らかの政治的成果を勝ち得たとしても、それは結局「私のもの」ではないからだ。

私は「私の政治」というもの−私以外の誰によっても構想しえず、私がいなければ決して実現できず、私が完全なる熱狂をもってそのために死ぬことができるような政治行動−がありうるのかどうかを知りたかったのである。

要するに、暴力が大嫌いで、知的操作が大好きな二十歳のガキだったわけだ、私は。

しかし、とにかく私はそのような危うい理説を掲げて学生たちの政治からの撤収を宣言した。

私は「夜逃げ」もしなかったし、「四畳半」にも逼塞しなかったし、「シコシコ」とかいう擬態語で語られた「小さな政治」にもかかわらなかった。

私は自分が属していた党派の巣窟に行って、これこれの理由で私は君たちと縁を切る、と宣言した。

活動家の諸君はちょっとびっくりして私を見ていた。

彼らは別に怒りもせず、非難もせず、「あ、そう・・・」というふうにぼんやり私を見ていた。もともとあまり私の政治力についてあてにしていなかったから、失って惜しい人材でもなかったのであろう。

私は「じゃ、そーゆーことで」と言ってすたすたと出ていったけれど、さいわい追いかけて引き留める人もいなかった。

でも、それ以後も私は活動家の旧同志たちとけっこう仲良くやっていた。

学内で会うとにこにこ笑い合い、いっしょにお茶を飲み、ご飯を食べた。

いちばん仲の良かった金築君はそのしばらくあとに神奈川大学で敵対党派のリンチにあって死んだ。

フラクの「上司」だった蜂矢君はしばらくして殺人謀議で指名手配された。

大学を仕切っていた政治委員たちは地下に潜った。

そしてみんないなくなった。

私はぽつんと残された。

自由が丘の駅でデートの相手を待っているときに交番のところに彼の写真が貼ってあった。

「あ、蜂矢さんだ」と小さな声でつぶやいたら、制服警官がでてきて、「知り合いか?おい、知ってるやつか?」と尋ねてきた。私は気まずくなってその場を早足で去った。

1973年の冬、金築君は太股に五寸釘を打たれてショック死し、蜂矢さんは逃亡生活をしていた。私は毛皮のコートを着た青学の綺麗な女の子とデートをしていた。

どこに分岐点があったのか、そのときの私には分からなかった。

いまでもよく分からない。

生き残った人間は正しい判断をしたから生き残ったわけでない。

でも、生き残ってよかったと私は思う。

少しは世の中の仕組みについて分かったこともある。少しは世の中の役に立ったことも(たぶん)ある。

重信房子はどう思っているのだろう。

彼女もまた自分は世の中の仕組みについて理解を深めたし、世界を少しだけでもよい方向に押しやったと信じているのだろうか。

たぶんそうだろう。そう思わなければ30年もやってられない。

では、私と重信房子のどちらがより「妄想的」であり、どちらがより「現実的」だったのであろう。

そもそも誰にそれを判断する権利があるのだろう?


11月10日

住吉で狂言の会があるので、寒空にバイクを走らせて見にゆく。

だしものは『千鳥』と『二人大名』。京都の茂山家から茂山七五三(しめ)さんと茂山宗彦君、地元の善竹家から善竹隆司君と善竹隆平君。人気の若手狂言師の競演である。プロデューサーは(「おさわがせ」講演の第一回にお越し頂いた)大倉流小鼓の久田舜一郎さん。

見てびっくりしたのは茂山宗彦君の変貌。

少し前までは細面のさらさらロングヘアで、どちらかといえば「アイドル系」の狂言師だったのに、これはいかなることか。あたまはざっぱり坊主刈り。芸風はもうお祖父ちゃんの茂山千作さんのまんま。「ぐははは」と破顔一笑すると、会場のこどもまでがつられて笑い出す、骨の髄までコメディアンに化身していた。

ああ、宗彦君の身にいったい何が起こったのであろう。

おそらく彼はうつろいやすきものを棄て、芸道に生きることを選んだのであろう。

茂山宗彦君は大きな壁を突破し、まっすぐ人間国宝・茂山千作の芸風を継ごうとしている。

弱冠25歳。

狂言界の明日は明るい。(能楽界はだいじょうぶかね)


11月9日

というわけで忘れないうちに「水戸黄門」の話をします。

今回のゼミ発表はナショナル劇場の長寿番組「水戸黄門」。

69年に始まり28部、30年余。実に900回に及ぶ国民的TV番組の人気には隠された「理由」があるに違いない。

しかし、発表者も「視聴者のニーズにジャストフィット」というばかりで、「なぜジャストフィットなのか」の理由については適切な説明ができなかった。

さて、これについては私は十年来の持論がある。今日はそれについてお話ししたい。

10年前、私は遊びに行った岡山の伯母の家ですることがないので、ごろごろと『暴れん坊将軍』の再放送を見ていた。

そのとき私の心にふと根源的な疑念が兆したのである。

なぜ「暴れん坊将軍」という番組があるのに、「暴れん坊天皇」という番組はないのであろうか?

若き明治天皇が口うるさい侍従・山岡鉄舟の眼を逃れて皇居の井戸から抜け出して、市井の遊び人「睦ちゃん」に身をやつし、このいたずらをにたにた笑って見守る勝海舟や、鉄舟の密命を受けてボディガードを任じる清水次郎長、西郷隆盛の密命を受けて「睦ちゃん」の後を追う桐野利秋、花柳界でとぐろを巻いている成島柳北やら山内容堂公と入り交じって、長屋の娘に岡惚れされたりしながら、井上馨の汚職やら、黒田清隆の酒乱やら、藩閥政府の悪政を糺してゆく、という話はけっこう面白そうではないか。

「静まれい。このお方を誰と心得る。この菊のご紋章が目に入らぬか」

「へ、へ、陛下・・・」

「おう、黒田。おいらの勅任の公職にありながら、こりゃまたずいぶん派手に私腹を肥やしてくれたじゃねえか」

「お、恐れ入ります」

「いくら伊藤や山県の目はごまかせても、おいらの背負った皇祖皇宗のご遺訓が黙っちゃいねえぜ。おう、黒田。このけじめ、どうつけるつもりでい。」

「ええい、こうなったらやぶれかぶれじゃ。ものども、出あえい。陛下の名を騙るこのくせもの、切って捨てい」

なかなか楽しそうではないか。

私は深く考え込んでしまった。

普通の人があまり悩まないこういうことを深く悩んでしまうのが私の癖である。

宮内庁からのクレームとか、右翼の過剰反応とかいうリスクがあるから企画段階で一発でボツになったということであろうか。

いや、私はそうは思わない。

そもそも「暴れん坊天皇」は企画としてブレストのテーブルにさえ上がったことがないのではないか。電通や博報堂のおきて破りの企画マンでさえ、天皇を主人公にしたヒーロー劇の可能性を思いつくいことはなかったであろう、と私は思う。

なぜか。

そのわけは、その逆を考えればわかる。

これまで、時代劇として放映されたTV番組を思い出してみよう。水戸黄門を筆頭に、大岡越前、遠山の金さん、長七郎江戸日記、うんたらかんたら。総じて、これらはすべて徳川幕府の(準)公務員が、民間のニーズを汲み上げてシステムの不調を調整する、というドラマである。

システム中枢から派生された調整役が、システムそのものの安定のために、システムの中に不可避的に生じる「ノイズ」を超法規的に解消してゆく、というのはテクニカルには「サイバネティックス」と呼ばれる学知の夢である。水戸黄門や遠山の金さんは「サイバネティックス」的に言えば理想的な「ノイズ・クリーナー」なのである。

つまり、私たちが毎日見せられているワンパターン時代劇は、暗黙のうちに「徳川幕府は理想的な仕方で機能していた統治システムである」というメッセージを運んでいたのである。

もちろん、おバカな評論家はこれをして「体制への帰順を庶民の無意識に刷り込むためのプロパガンダ装置である」というような評言を口にしてなにごとか分かった気でいる。

しかし、これらの時代劇が「体制への帰順」を刷り込む目的で生産され消費されているとするなら、それではなぜ「暴れん坊天皇」がシリーズ化しないのかを説明することができない。

同じ理由で「暴れん坊首相」(森総理がうるさい野中や青木の眼を逃れて官邸から抜けだし夜な夜な赤坂の料亭で・・・って、面白くないか、別に)という番組をだれも企画しないことの理由も説明できない。

なぜ、すばらしく効果的に機能しているのが徳川幕府であって、明治政府や平成政府であってはいけないのか?

私はここで「はた」と膝を打ったのである。

もし徳川幕府がすばらしく効果的に機能している統治システムである、という話型を戦後数十年にわたって私たちが享受してきたのだとすれば、それは迂回的には、「では、誰がそのような素晴らしい統治システムを破壊したのか?」という問いにたどりつくはずである。

葵が枯れて、菊が栄え、葵の栄華だけが讃えられ、誰一人菊の栄華をことほがない。

そうなのである。

時代劇のメッセージはその顕在内容にではなく、それが執拗に言い落としているもののうちにある。

「誰がこんなすばらしい統治システムを壊したのだ?」

天皇制である。

時代劇の隠されたメッセージは実は明治維新から1945年までの77年間の「天皇制の日本」を迂回的に非難することにあるのだ、というのが私の解釈である。

考えてもみたまえ。

戦後55年のあいだに「明治時代の名刑事」とか「大正時代の名判事」とかを主人公に擬したTVやラジオの番組があったであろうか?

私たちが知っている唯一の例外は「昭和初期の名探偵・明智小五郎」であるが、彼はどのような意味でも彼の時代の統治システムの有効性を証言しない。

あるいは、生涯にわたって明治時代の統治システムの有効性の再評価を求め続けた司馬遼太郎の作品のうちTV化されたのは、(明治政府と戦った)「新撰組血風録」であり(生きていればおそらくは明治政府を否定したであろう)「龍馬がゆく」であり、(明治政府の統治能力の欠如を描いた)「翔ぶが如く」であり、「坂の上の雲」ではない。

「坂の上の雲」が映画化もTV化もされないのは、日本海海戦のセットを組む予算がない、というだけの理由なのだろうか?

メディアは口を開けば、日本人はその恥ずべき過去の清算をしようとしない、と苦言を呈する。

しかし、ほんとうにそうなのだろうか?

これほどまでに執拗な「明治維新から敗戦までの統治システムへの評価」についての言い落としと、「時代劇」を通じての「徳川幕府の統治システムの(あきらかに歴史的には疑わしい)有効性」についての物語的反復には何の意味もないと言い切れるであろうか?

私はそうは思わない。

私はこれを明治維新から敗戦までを「かっこに入れて」、1868年を1945年にじかに接ぎ木したい、という潜在的な欲望の発露であると思う。

「明治時代はけっこう楽しそうな時代であった」という言説が関川夏央や高橋源一郎によってごくごく近年になって言い出されたということは、考えて見れば奇妙なことだ。それは逆に言えば、明治がこれほど遠くなるまで、その時代について肯定的に語ることが無意識に忌避されたきたということを意味しているからである。

先日大正天皇についての本格的な歴史的評伝が上梓された。これもまたよくよく考えて見れば奇妙なことだ。なぜ、大正がこれほど遠くなるまで、その統治者の資質について肯定的に語る研究が忌避されてきたのか?

私たちの時代がひさしくある種の「抑圧」を受け続けていたという可能性はないのだろうか?

「抑圧」というのは、そこに「抑圧」がある、という事実そのものが決して前景化しないというかたちで機能する。

戦後の大衆的エンターテインメントはほとんど一度として1868年から1945年までの統治システムを正面から「断罪」したことがない。

それを私たちは「政治性の欠如」というふうに言い慣れてきた。

しかし、ほんとうに日本人はそれほどまでに政治性を欠いていたのだろうか?

ある政治体制について直接の論評を控え、「それが滅ぼしたもの」について過剰なまでの賛美を語るという仕方で、戦後日本は明治以来の近代史へネガティヴな評価を示してきたのではないだろうか?

そして、このような欠性的な言説編制こそ、すぐれて「政治的なもの」と呼ばれるべきなのではないだろうか?


11月8日

ふう。忙しい。

三年生のゼミ(水戸黄門のはなし)が面白かったので、その話を書きたいのだけれど、忙しくて書いてる暇がない。(長い話になので)そのうちひまになったら書きます。

ばたばた走り回って、増田さんの研究会の申請書類を作り、会場を予約し、来年のゼミ生の選考を終え、次の大学院のテクスト(加藤周一の『日本文化の雑種性』)の下読みをし、来週用のテクスト(梅棹忠夫の『文明の生態史観』)をコピーし、旅行会社にゼミ旅行の日程変更をお願いし、学生から依頼の図書を発注し、日記と種々のコンテンツをアップロードし、甥の健チャンにこどもができたのでサンフランシスコへ祝賀メールを打ち、休み時間に次の武道論の原稿を書き、JQの竹信君と電話でおしゃべりをしているうちに授業開始のベルが鳴ってしまった。大学院の演習を終えて、大急ぎで能のお稽古。忙しさにかまけて『船弁慶』のおさらいをせずに行ったら、出来が悪くて下川先生に死ぬほど叱られる。そのまま大急ぎでうちにかえって大急ぎで焼きそばを作り(美味しい!)、そのまま大急ぎで倒れ臥す。それでも今日すませておくべき仕事があと三つも残ってしまった。哀号。

この「大急ぎ」人生をどこかで止めねば。


11月7日

学祭、打ち上げ大宴会、有馬温泉「親孝行」ツアー(とか言いながら、宿代もビール代も親に払わせている50男です、私は)、文部省陳情ツアーとめまぐるしい日々が続いている。

陳情ツアーは大学院の博士課程増設のための事前協議である。

一昔前は、文部省の若い担当官がえばりちらして、大学の偉い老学者先生が土下座まがいの対応をさせられる「お白州」的なパフォーマンスであったらしい。

人間科学部の新設認可がおりたあと、当時の滝野学部長が「もう一度生まれ変わっても、二度と文部省に認可申請をしたくありません」と涙ながらに教授会報告をしたことを思い出す。

しかし、そのご規制緩和の波が中央省庁にも訪れ、文部省のお役人さまもすっかりユーザー・フレンドリーになったということであった。

噂のとおり、対応に出た担当官はお二人とも、たいへんに物腰の柔らかい、親切な方たちであった。

応対に多少不愉快なことがあっても机を蹴飛ばして「こら、学者なめたらあかんど」というようなことをしないように、別れ際にお兄ちゃんから厳重に注意されていたが、ぜんぜんそういうようなことはなかった。(お兄ちゃんは厚生省、農林省相手に『昭和残侠伝』前半1時間の高倉健のような忍従の日々を送っているらしい。そのうちにお兄ちゃんぶちきれて「こら、資本主義渡世のアントレプレナーなめたらあかんど。そっちがお上なら、こっちにだってマーケットはんがついとんのやぞ」というふうになるのだろうか。なお、兄は横浜の人なので、関西弁はつかいません。)

予想よりスムーズに事前協議は終わり、用意していた質問事項にもきちんとお答えいただいて、一同5人(研究科委員長、学部長、学科長、担当事務官と私)はほっと胸をなで下ろして、ぞろぞろと東京駅に向かう。さっそく新幹線の中でビールで乾杯(と言っても私と上野先生だけ)。うまく認可まで持ち込めるとよいのだが。

しかし、さすがに東京日帰り出張はつらい。

家にはいずり帰って、ビールを呑んで、スマップの番組でリッキー・マーティンを見て「これ誰?」とるんに聞いてバカにされる。

「リッキー・マーティンだよ」

「それ、誰?」

「・・・・リッキー・マーティン」

「だから、誰なの?あ、スペイン語しゃべってる。ねえ、なんでスペイン語しゃべっ

てるのに、リッキー・マーティンなの?なんで、ホセとかサンチョとかじゃないの?ねえ?ねえ?」

「うっせーよ」

すみません。

仕方がないので、ずるずるベッドに這っていって村上春樹・柴田元幸の『翻訳夜話』を読む。

やあ、これは面白い。私も「翻訳をするのが三度の飯より好き」な人間であるので、このお二人の話は一言一言が身に染みるほどよく分かる。自分と同じ意見にふかく頷きながらいつのまにか寝付いてしまう。ぐー。


11月3日

大学祭である。ふつうの先生たちは四連休であるが、私は一年でいちばん忙しい日々である。あまりにいそがしいので、雨の中を走り回っていたら、階段から二回も滑り落ちた。石の床なので、ぬるぬるしているのである。転んでいる人は私だけではないよ。

やすものの雪駄をはいていたので、底がゴムでまるでアイススケートのようによく滑る。

おかげで左足をしたたかにうちつけてしまった。

このコンディションで今日は演武をしなければならない。鬼木先生の杖のお相手もしなければならない。生きて「打ち上げ」を迎えられるであろうか・・

「負傷の弟子」(満身創痍なのだ)小川順子さんの最新論文をアップロードしました。市川雷蔵論。ご感想をお寄せ下さい。


11月1日

『イデオロギーとしての日本文化論』についてのコメントは「うほほいブックレビュー」に転載しました。