Tomorrow never knows what wind will take me away: from 1 Jan 2002
3月28日
朝日の時評の原稿を送ったら、クレームがついて戻ってきた。
「もう一ひねり」をご要望である。
うーむ。
600字の原稿というのは「ひとふでがき」のようなもので、「あらよっ」と一気に書くので、「オチを換えて」とか「マクラを長めに」とか「キックを入れて」とか言われると、ちょっと困る。
60枚の原稿であれば、一ひねりでも二ひねりでも、いくらでもご要望に応じられるのであるが、「ショートショート」ではそうもゆかない。
やむなく、その原稿をボツにして、かねて用意の「ボツ用差し替え原稿」を送る。
するとこれにもクレームがついてしまった。
「ウチダ先生らしさがない」という理由である。
うーむ。
これが「橋本治みたいに書いて」とか「ヘミングウェイみたいに書いて」というご注文を受けたのであれば、「らしくないですね」と言われても返す言葉がないが、「ウチダ先生らしさ」がないといわれると、ウチダ先生としては立つ瀬がない。
いろいろもめて、結局、「今回はご縁がなかったことで・・・」ということになるのかしらとおもってあきらめていたら、なんとか事なきを得て、とりあえずこんな感じでしばらく行きましょう、ということにおさまった。
ほっ。
しかし、800万読者を想定して何かを書くというのは、ウチダにとってはほとんど想像を絶した仕事である。
だって、私の書いたものを読んで「面白い」と思ってくれる読者は、つい1年前までは全国に29人くらいしかいなかったんだから。
それが1年かけて、いまではようやく800人くらいにまではふえたところである。
いきなりその一万倍の読者向けに書いて、といわれても・・・
『寝床』の義太夫を東京ドームでやってくれというようなものである。
「なんだよ、これ。『寝床』の義太夫じゃねんだぞ。金かえせ」
と五万人の観客に怒られても、こっちは『寝床』の義太夫しかできないんだから。
3月27日
国立大学の独立行政法人化がいよいよ2004年から実施されることになった。
制度改革の眼目は
(1) 文科省の規制が緩和され、大学の裁量権が増す(学科以下の組織改編では文科省の認可が要らなくなるなど)
(2) 学長権限の強化、外国人学長の登用、民間人の経営参加などが見込まれる
(3) 交付金の使途が大学の自由裁量権に任され、収益事業も認められる
(4) 大学は独自に中期計画を策定、「評価委員会」が達成度を評価して交付金の配分に反映させる
などなど。簡単に言えば、国公立大学が私学化=企業化するということである。
ただでさえ私学は経営が苦しいのに、そこに国公立が乱入してくるわけである。
大学生き残りをかけた「バトル・ロワイヤル」は今後ますます激しさを増すことになるであろう。
しかし、この大学の企業化の趨勢に、私は一抹の不安を禁じ得ない。
それは朝日の社説でも言及されていたが、これを機に、もっぱら大学経営実務を掌握する上級事務職員の発言権が増すことが確実だということである。すでに副学長には民間の経営者を招くという事例があるが、今後、大学事務長に大企業の人事や総務の管理職が横滑りしてくるということもあるだろう。
当然、同じことが私学でも起こりうる。
これはけっこう重大な問題だと私は思う。
ほんらい経営責任を負うのは理事会で、教師たちは研究教育だけに専念して、経営のことなんか関係しなくてよいはずである。
しかし、本学では伝統的に教授たちは大学経営について深くコミットし、財務内容についてもわりと詳しい。
「どうして、私たちが財務諸表なんか見ながら、学費の算定やら入学者の調整やら教員のリストラ計画まで考えなくちゃいけないんだ。研究に専念させてくれー」と行政職にある先輩教授たちはよく愚痴をこぼしている。
しかし、それは決して悪いことではないと私は思う。
これまで大学経営にかんして、理事会の決定と教授会決定が食い違ったことが何度かあった。そのたびにつねに教授会に理事会が譲歩してきた。
それは、教授会が大学の財務内容をかなり正確に掌握しており、「できることとできないこと」が分かっていた、というのが理由の一つであるが、そればかりではない。
教授会が最終的に一致団結してこられたのは、つねに教授会の方が「学生の目線」に近いところから発言していたからである。
自分たちの利害ではなく、学生の利害を代表しているという確信があればこそ、理事会との意見の不一致において教授会が最後までがんばることができたのである。
当然である。
理事たちは、学生と接触する機会がないが、学生こそ大学にとっての「クライアント」なのである。
クライアントがどういう人間であり、どの程度の能力と資質を持ち、何を求めて大学に来ているのか、何に不満を感じているのか、何に魅力を感じているのか・・・そういった「企業経営」にとってもっとも重要なマーケット情報については、理事たちと現場で毎日学生と顔をつきあわせている教師たちでは、データの厚みや蓄積や正確さが、まるで違う。
CS(顧客満足度)が大学経営の生命線であるとしたら、市場情報に直接アクセスしない人々が机上の議論だけで経営の基本方針を決めるのはリスキーなことだ。
かつての理事長は、入学者の偏差値は多少下がってもいいから、とにかく学生数を確保しろ、という経営のロジックで教授会をごりごり押してきた。
経営者からすれば、学生はただの「金」である。
偏差値60であろうと、40であろうと、一定数の学生が入学金と授業料を払ってくれれば、大学経営に何の支障もない。
だが、それは現場を知らない人のいいぐさである。
教育を受けることに動機づけのない学生にとって教室に坐っていることは拷問でしかない。誰も聞いていない授業を私語の騒音の中でつづけるのは教師にとっては苦役でしかない。
そんな場を大学と呼ぶことはできない。
教育を受けることに希望をもっている学生にとって教室にいることは充実した時間である。そのような学生と語り合うことは教師にとって至福のときである。
私たちはそのような出会いを求めて教育の場に立っている。
大学の収支を黒字にするために教場に立っているのではない。
大学経営は自動車を売ることとは違う。
顧客の運転技術がどれほど未熟であろうと、顧客が自動車をどれほど汚そうと、顧客がどれほど人をひき殺そうと、自動車メーカーには関係ない。
売ったあとはユーザーの責任である。
しかし、大学というのは、いわば、自動車を売ると同時に、助手席に乗り込んで顧客に運転指導をし、車の整備と磨き方を教え、よい自動車と悪い自動車の見分け方を教えるような商売なのである。
相手がだれであろうと、車を売ったらはいおしまい、というわけにはゆかない。
どんな顧客に選ばれるか、ということはクライアントにとっても大学にとっても、たいへんに切実な問題なのである。
誤解してほしくないが、大学経営に民間経営の手法を導入することそのものに私は反対しているわけではない。
ビジネスマインドを持て、ということはもとサラリーマン教員である私の口癖である。
教員の研究教育の活動を適正に評価し、その査定を予算配分や身分や給与に反映させることの必要性を私はかねてから提唱している。
学外から社会経験の豊かな人士を招いて、多様な教育機会を学生に提供することの必要性も理解している。
しかし、それはあくまで「現場を知っているひと」についての話である。
だから、私は次のことを提案したい。
今後大学経営の要職に就くものは「週一コマ授業を担当すること」。
べつに教師の経験のない人だって構わない。
「起業経営論」だって「コンピュータによる経理処理法」だって「店舗開発関連法律実務」だって「マイクロソフトの世界戦略」でもなんでも構わない。
ながく民間で働いていたなら、若い人たちに教えられることはやまのようにあるだろう。
そのネタで、じっさいに週に90分、学生を教えて欲しい。
学生が何を知っているのか、何を知らないのか、何を求めているのか、何が必要なのか、それを自分で見て欲しい。
教えるということがどれほど困難でかつ愉快な経験であるかということを身を以て味わった上で、大学経営について考えて欲しいと思う。
3月26日
朝日新聞から「e−メール時評」というコラムの執筆を頼まれる。
3週間に一本、600字ほどのエッセイである。
600字というと、執筆所要時間はウチダの場合約15分。稿料はまだお知らせいただいていないが、おそらく『ミーツ』に並ぶ「高時給バイト」であろう。
というわけでさっそくすらすらすいすいと二本書いて、昼飯前に、二ヶ月分の仕事を終わらせる。
そこへ晶文社の安藤さんから電話があって『「おじさん」的思考』が出来ましたというご連絡である。
晶文社のホームページでまだ見ぬ本の表紙だけ見る。
おおお、なんと美しい装幀であろう。
安藤さんに「きっと売れますよ」と励ましのお言葉を頂く。
たちまち頭の中は「夢の印税生活」の夢想がぐるぐると渦巻く。
「夢の印税生活」。
よい言葉である。
甘美な夢である。
中学生の頃から、この言葉をいったい何度心のなかでつぶやき、舌の上で転がしたことであろう。
爾来40年、何度も裏切られ、繰り返し苦い幻滅を味わいながら、それでも私は一度としてこの夢を手放したことがない。
「次の本こそは・・・・」と夢を描き、
えっと一冊2000円だから、印税が200円として、一万部売れたら(おお!)二百万。十万部で二千万。百万売れたら二億円!
わーい。ジャガーだ、アルマーニだ、ドンペリだ。
競馬の出走前とか、宝くじの発表前と同じような多幸感のうちに私はくりかえし浮遊し、繰り返し現実の前にどどどと崩落したのである。
この無根拠な多幸感と、ほとんどシステマティックな失速感に身をさらすことが、ギャンブル嫌いの私にとって、おそらく唯一のバクチ系娯楽なのかも知れない。
今年はとりあえず「馬券」を三枚買った。
夏休みが終わるころまでは、ずっと「出走前」の多幸的妄想のうちに浸っていられる。
3月25日
ああ、よく寝た。
日曜の夜の10時に寝て、起きたら8時。10時間爆睡してしまった。
金曜からの三日は恒例の合気道合宿。さすがに疲れた。
行く先は五年連続10回目の神鍋名色高原。
金曜早朝に御影に集合して、播但道を北上。いつものように「いけのや」という不思議なレストランで昼飯。(「不思議」というのは、ここに半年に一度立ち寄るのであるが、そのつどメニューが大改革されているからである。むかしは「出石そば&うどん」専門店だったはずであるが、その後「寿司&天ぷら」中心になり、今回は「カツ&カレー」専門店になっていた。「半年前に食べて美味しかったものをもう一度食べることができない」という点がスリリングである。今回のメニューの中には「ご好評に応えて復活!いけのや定食」というものがあった。私たちと同じようにめくるめくメニューの変遷についていけないリピーター諸君がほかにもいることがこれによって知れるのである。)
午後二時から稽古開始。
島根から長駆ご参加の石井さんを迎えて、粉雪がぱらつく寒さの中で、わいわいと午後六時まで稽古。
第一夜の夕食は「すきやき」。会食者15名とやや寂しい。
宴会でワインなど飲みながら、ごんちゃんの「彼氏ゲット計画」について、ウチダが無数の痛ましい経験をふまえて長いレクチャー。
「砂金が欲しけりゃ、砂を掘れ」というキャッチーなコピーを飯田先生から頂いて、全員深くうなずいているところへ後発隊のカナぴょん、エグッチたちがどどどと来襲して宴席ががぜんにぎやかになる。
二日目は午前七時から朝稽古。午後は昇段審査。
江口、澤の四年生二人が鮮やかな演武で二段に昇段。
二年生7人(岸田、大西、右田、勝又、久保、木葉、森島)が揃って初段となり、栄光の「ザ・ブラックベルツ」入りを果たした。
夜は恒例の「昇段祝い&新旧幹部交代&追いコン」大宴会。総勢25名。
来年度12代幹部は岸田汐主将、大西美穂子副将、右田桃子副将という布陣である。
三人とも今年一年二年生幹部として10周年行事をはじめとする実務を担当してもらっているので、引き続きのお仕事である。よろしくね。
矢部主将、ウッキー副将、一年間ご苦労さまでした。ウッキーは修論執筆という大事業をかかえながら、多くの「縁の下」的実務をこつこつとこなしてもらった。多謝。
そのあと、前年度より恒例化した「ショー形式追いコン」
卒業生たち(江口っち、岡さん、小野寺さん、澤さん、角っち、瀬戸っち、ごんちゃん)が後輩に贈る歌を歌い、二年生が卒業生に返歌で応じ、もう満座涙涙。
そして、「トリ」は、「ザ・シングルベル」のスーパースターたち(ヤベっち、かなぴょん、クー、おいちゃん)による卒業生アイデンティティ・コント。
エグっちの「だじゃれネタ」とごんちゃんの「江口ネタ」はほぼ予想がついたのだが、さすが「裏演劇部」のスターたち。絶妙のやりとりに、観客全員床を転げ回って痙攣的に笑い続け、数分前の涙はどこかへ行ってしまった。
卒業生から今年は「一本歯の下駄」と「携帯のストラップ」を頂いた。
下駄は甲野先生のオススメ・グッズで、「これで山道を駆け下りられたら、キミも達人」のひとことに「達人グッズ」に目のないカナぴょんがただちに購入し、いま合気道関係者のあいだではひそかなブームとなっている逸品である。
甲野先生から「一本歯は膝によい」ということを聞き知って、学生たちが私の身体を気遣ってプレゼントしてくれたのである。(涙)
さっそく履いてみる。身長が15センチ高くなってしまったので、いきなり鴨居に「がちん」と頭をぶつけてコブをつくる。(痛)
携帯のストラップは「LEVINAS」の文字ブロックと「こぐま」人形。
「こぐまのような風貌のレヴィナス」という『愛の現象学』の一節にちなんだプレゼントである。
みなさんどうもありがとう。(ふたたび涙)
さらに宴会は果てしなく続いていたようであるが、ウチダは泣き寝入り。
三日目はもう審査も終わったので、みんな気楽である。
時計を見ながら「ああ、あと少しで終わりだ・・・」と過ぎゆく時間を惜しみつつ、合宿が終わる。
合宿のときはほんとうに時間の経つのが早い。それだけ楽しい。
いくら「合気道部に卒業はない」と言っても、社会人になれば、これまでのように稽古にはこれないし、まして東京に行くごんちゃんやタカスとは、なかなか会うことさえ出来ない。いつまでもいつまでも別れを惜しんでいた。
ほんとうにみんないいやつらである。
帰途はクーと矢部っちを乗せて、三時間ノンストップ説教。
武道の極意は「予知能力」であるという話題になって、予知能力開発プログラムについて、思いつきをしゃべり続ける。
しかし、これはなかなかいけそうである。
こういうものは「私には予知能力がある」と断定するところから始めないといけない。
疑念や否定のプレッシャーの下では潜在能力は開花しないからね。
予知能力といっても、要するに自分の未来に関することである。
例えば、「ある人と数分後に出会うだろう」という未来予測は、そのある人と私がある一点に向かっていま移動中であるということにすぎない。だから、自分自身の行動パターンと、その人の行動パターンを俯瞰して、適正な蓋然性の推理をすれば、50%くらいは予測可能なのである。残りの50%は、その人が発信している「メッセージ」をこちらの受信能力を高めて感じ取ればよいのである。
「気の感応」力を高めてゆけば、予知はけっして原理的にはむずかしいことではない。
だいじなのは、そのような能力は「開発可能である」と断定し、そのための具体的プログラムを整備することである。
そして、その目的は、人間と人間のあいだのコミュニケーション感度を高めて、みんな気持よく暮らしたいね、ということに尽きるのである。
帰宅すると、鈴木晶先生から『メル友交換日記』の校正が届いている。
さっそく通読。
おもしろーい。
冬弓舎の内浦さんによると、これは六月刊行予定。
六月に二冊本が出ることになる。これで、とりあえず今年は三冊。目標まであと四冊。
3月21日
ゼミの瀧川さんが五月からカナダに留学することになったので、送別会。
みんな当然のようにわが家にどどどとやってくる。
めにうは瀧川さんのリクエストで「餃子、うどん、ぶたしゃぶ」。
こら、楽でえーわ。
料理と言えるのは餃子だけ。あとは材料を切って鍋に放り込むだけである。
ひさしぶりに「内田家秘伝餃子」を作る。
この秘伝は、北京のおばさんは正月にこういうふうに餃子を作るというのを青春を大陸で過ごした父から伝授されたのである。
別に秘伝というほどのこともないのであるが、ニラとキャベツと生姜と豚肉に、塩胡椒、ニョクマム、オイスターソース、胡麻油、トーバンジャン、味噌、鶏ガラスープ、などをどんどん加えて、ポリフォニックな味を構築するのである。
とりあえず味見をする・・・う、うまい!
自分の作る餃子が世界でいちばん美味しい。
だって、自分が食べたいものを自分の好きな味付けで自分がいちばん空腹なタイミングをはかって食べるのであるから、美味しくないわけがない。
鈴木晶先生も日記を拝読する限りでは、ご自身が作る料理が世界でいちばん美味しいと思っておられるようであるが、これをエゴサントリズムとかそういう定型的な批判でくくっていただきたくない。
自分で作る料理が自分の批評性に耐える水準に達するためには、それなりの下積みの努力というものがあるのである。
餃子の下拵えにトントントンとキャベツを刻みながら(やたら切れ味のよい包丁は、西宮警察署からのプレゼント)、果たして日本の仏文学者で、私よりキャベツの刻み方がうまい人が何人いるであろうかと考える。
家を飛び出して一人暮らしを始めて32年。主夫として台所を預かって12年。
いったい何千回キャベツを刻んだであろうか。
とんとんとん。
料理はほんとに楽しい。
学生がどかどかやってきて、ぱくぱくと料理を食べてわいわい笑って帰る。
3月20日
朝日新聞の朝刊で、法政大学の川成先生がまたまた「爆弾発言」をしていた。
『大学崩壊』で、ここまで「歯に衣着せぬ」ことを書くと、大学の同僚たちとの人間関係にいささかフリクションが起こらないのかしら、とウチダが心配するほど(ウチダに「同僚との人間関係」を心配されるというのは相当なものである)過激な「本音」を爆発させた川成先生であるが、今回も手厳しい。
「それにしても昨今の大学生の学力低下はすさまじい。しかも、それが年々加速している」と切り出して、返す刀で「現在、鳴り物入りで進んでいる『大学改革』の大半は『お客さま』である大学生への場当たり的な追従にしか見えない。具体的な科目名を挙げるのを控えるが、新規設置の科目の中には、これが大学で教えられるのかと思うような噴飯ものも混じっている」とカリキュラムもばっさり。
「必須科目がさらにスリム化され、適当に単位を取らせて、卒業させている。この驚くべき過保護が社会的に自立できない人間を量産しているのである。」
川成先生が提言しているのは三つ。
一つは「入試改革」。
学力テストをともなわない「青田刈り」のAO入試や推薦入試をただちにやめて、学力テスト一本、「それも、入試科目を五教科にふやして、高校卒業の基礎学力をもたない学生は入試段階でチェックすべきである。」
第二に、教員。
「研究面では全く無能だが、権力欲だけは旺盛で、教授会を『談合の場』に陥れている『学内政治家』を徹底的に排除しなくてはならない。」
第三に、「高等教育機関としてのビジョンを社会に明確に開示」して、「倒産を覚悟で、『若者のレジャーランド』『愚者の楽園』から脱却し、本来の姿を模索しなければならない」と結んでいる。
爽快な現状分析であるが、「ちょっと、待ってね」とウチダとしては、控えめに異見をさしはさませていただきたいと思う。
学生の学力はご指摘のとおり、たしかに劇的に低下している。
率直に言って、いまの文系の大学一年生の平均学力は、私自身の中学二年生時の学力とだいたいタメである。(英語はどっこい、国語と社会ではウチダが優勢、読書量ではまず圧勝)
およそ5年のビハインドである。
しかし、この方たちは小学生のときから、毎日塾にかよって、膨大な時間とエネルギーをかけてきたあげくにこれほど恐るべき学力に達したわけであるから、これはいわば日本の教育制度総体の努力の「成果」であって、大学ひとりにその責めを負わせては気の毒というものである。
五教科でも七教科でもきびしい学力テストを課して選抜する大学は、たちまち志願者激減の波に洗われ、その志を多としつつも、いきなり「定員割れ」の危機に瀕するであろう。
そもそも教科を減らしたのは、教科を減らしたら志願者が増えるという小手先のことだけではなく、「13点」が合格で「7点」が不合格(100点満点でね)というようなレヴェルの試験にそもそも選抜の意味があるのだろうか、と大学側がなげやりな気分になったのが、その大きな理由であることを忘れていただいてはこまる。
大学卒業生が「社会的に自立できない」のは、大学を卒業したら「社会的に自立」してよいはずだ、という常識自体が成立しなくなったからである。
さきほどの試算でいえば5年分のビハインドをどこかでキャッチアップしなくてはいけないのだが、どう考えても大学四年間でそれをクリアーするのは無理な相談である。
だから現今の大学卒業生はかつての高卒程度の学力に達していれば、もって瞑す可しということでよろしいのでは、と私は考えている。
教員にしたって、要するに昔の高校の先生だと考えればよいのである。
非行に走る生徒や家庭に問題をかかえる生徒のために奔走する「金八先生」に「研究面」での成果を求めるのは酷というものであるということはどなたにもお分かり頂けるであろう。
それに類する仕事にどたばたしている大学教員は現に少なくない。
また「学内政治家」と言われるけれど、大学がぼろぼろ「倒産」しようというご時世である。
ビジネスマインドのある教員が自分の研究そっちのけで、他の教員の研究環境確保のために奔走しているという事例だって少なくないのである。
少なくともうちの大学について言えば、「学内政治」のエネルギーのほとんどは「大学をどうやって生き延びさせるか」という焦眉の課題に向けられている。(私自身は自分が気楽に研究に没頭できるのは、そういうひとたちの時間とエネルギーを「収奪」したおかげだと思っている。)
彼らに「学内政治」を止めて研究せよと言うのはいいが、ではそのあといったい誰が大学の面倒を見てくれるのであろうか。
総じて、大学というものの社会的機能の歴史的変化を川成先生は、どこかで見落とされているのではないかと私は思う。
いまの日本の大学は、歴史的な「大学」とはまるで別物である。
かつての大学と違うからといって、それに「戻す」ことはもうできない。
前に言ったことの繰り返しになるけれど、「日本の大学はこの10年あまりで、奈落の底に落ち込んだ」のではなく、「奈落の底」が日本の大学がいま占めるべき歴史的ポジションなのである。
かつての大学に相当する教育機能は、「超難関校+欧米の大学+ふつうの大学の大学院」がカバーしており、そこへの進学率が5%程度であれば、昭和初年の大学進学率とだいたいイーブンで、エリート養成のためならそれで足りる、と私は思っている。
奇しくも今日の新聞に世界最高齢者は男女とも日本人ということであった。
つまり、いまの若者については、18歳がむかしの12歳、22歳がむかしの15歳、30歳がむかしの20歳、というふうに考えて、「一生トータルでの成熟達成点」がぼちぼちであれば、まあ、いいんじゃないか、というふうにウチダは考えたい。
だいたい、織田信長が「人生五十年」と謡ったのを基準にしたら、私も川成先生ももう死んでいる。それがこのように「未来」について悲憤慷慨していられるというのは、信長の時代を基準にすれば、私たちはまだ「青二才」だからである。この先まだまだ熟成するだけの時間的余裕があると思えばこそ、暴論も吐こうというものである。
「翁」がまだ「青二才」なんだから、大学が高校なのは仕方がないと私は思う。
もう少し気楽にいきません?
3月19日
卒業式。
初夏のように暖かい天候にめぐまれた気分のよい卒業式だった。
合気道部の卒業生はエグッチ、ゴンちゃん、タカスさん、セトッチ、スミッチ、岡さん、澤さん、小野寺さん、フクダサオリさん、そして修士課程修了のウッキー。あわせて10名。(フルネームをよんだり、「さん」づけになったり「ちゃん」づけになったり「ッチ」になったり、呼称にいろいろとバリエーションがあるが、理由は不明)
部員が10名もいっぺんに卒業するというのははじめてのこと。
さびしくなるぜ。(エグッチとウッキーがひきつづき本学勤務というのが不幸中のさいわい)
みんなも元気で。ひまをみつけて遊びにきてね。
このあと大阪のウェスティンホテルで卒業記念パーティ。
こちらはゼミの卒業生たちとの別れの宴である。
例年は翌日に謝恩会というのをやっていたが、二日続きのセレモニーはしんどいということで、今年からは同日の夜に開くことになった。
たしか去年から「謝恩」の文字もはずして、ただの「卒業記念」として、教師からも会費をとることにしたのである。
(「私は学生に謝恩されるような義理はない」とか「学生に謝恩を強いるのは民主的でない」とか、クレームをつける同僚がおられたのである。)
そんなのどーでもいいじゃんと思うけれど、よく考えると、「謝恩会」はいやだという言い分のほうに理がある。
以前、「謝恩会」で、立食のテーブルにならんでローストビーフをとろうとしているときに学生に肘でどづかれて横入りされたことがある。
一瞬「むかっ」として「おい、これって、謝恩会じゃないのかよ」と思ったが、これは怒る私が悪い。
別に先方には教師に対する謝恩の意志なんか特別にあるわけではなくて、単なる「さよならパーティ」のつもりでお出でなのであるから、私も学生も肘できびしくどづきあって愉快にローストビールを奪い合う、というのでよかったのである。
合気道部の「追いコン」はこれにくらべるともうすこし纏綿たる情緒があって、下級生からの「贈る言葉」に、卒業生が号泣する、というような胸うつ光景が展開する。
ウチダとしては、やはりこちらの光景の方が「卒業」イベントとしてはつきづきしいような気がする。
ともあれ、みなさん卒業おめでとうございます。
みなさんの前途に神さまのゆたかな祝福がありますように。
3月17日
家から一歩も出ず、終日原稿書き。
『寝ながら学べる構造主義』の書き直しなのであるが、私の悪い癖で、書き直しというと、つい全部はじめから、徹底的に書き直してしまう。
編集の嶋津さんから「どういうことですか?」とか「もっと具体的に」とか「意味不明」とか、きびしいチェックが入っている。それを見ながらごりごりと書き換えてゆくのである。
今朝は「ニーチェ」のところを読み直していたら、「超人」のところにチェックが入っていて、「これはどういうことですか?簡単に説明をお願いします」と質問が書いてある。
ニーチェの「超人」について「簡単に説明せよ」とはまたご無体な。
いささか長い話になるのはやむを得ない。
『道徳の系譜』『善悪の彼岸』から説き起こして、『ツァラトゥストラ』、『悦ばしき知識』へと筆を進めて、「超人」とは何でしょうというご質問に、「分かりません」というお答えを書くまでに数時間を費やしてしまった。
でも、これはウチダのせいではない。
ニーチェ自身が「超人とは何か」について何も書いていないからなのである。
超人とは、「人間がサルを見ると、サルだと思う」のと同じスタンスを人間に対して持つ者、つまり「人間がサルに見える境位」である、とニーチェは言う。
そんなこと言われても、ね。
こっちはどーせサルなんだからさ。困るよ。
どうしたらサルが「超人」になれるのか、それについてニーチェはあまり具体的な指示はしてくれない。
「わたしはあなたがたに超人を教える。」
と『ツァラトゥストラ』には書いてある。
「おお、それではお答えを・・・」と次を読むと、
「人間とは乗り超えられるべきものである。あなたがたは人間を乗り超えるために何をしたか」
と続くのである。
はてな?
あのー、「超人」のことをうかがっているんでありまして、「人間」のことを聞いているんじゃないですけど・・・
しかし、ニーチェはサルの訴えには耳を貸さない。
「人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって人間とはまさにこういうものであらねばならない。」
どうやら「超人」というのは、具体的な存在者ではなく、「人間の超克」という運動性そのもののことのようである。「人間を超える何もの」かであるというよりは、「畜群」や「奴隷」であることを苦しみ、恥じ入るような感受性や、その状態から抜け出ようとする意志のことのようである。
「人間は、動物と超人のあいだに張り渡された一本の綱である。深淵の上にかかる綱である。人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、かれが過渡であり、没落である、ということである。」
結局ニーチェは「人間とは何か」についてしか語っていない。
人間がいかに堕落しており、いかに愚鈍であるかについてだけ、火を吐くような雄弁をふるっているのである。
ニーチェにおいて、「超人とは何か」という問題はつねに「人間とは何か」という問題に、「貴族とは何か」という問題はつねに「奴隷とは何か」という問題に、「高貴さとは何か」という問題はつねに「卑賤さとは何か」という問題に、それぞれすり替えられる。
この「すり替え」がニーチェの思考の「指紋」である。
そして、この「すり替え」がニーチェの思想の「アキレス腱」である。
というのは、こういうふうに「言い換える」と、結局のところ、人間を高貴な存在へと高めてゆく推力を確保するためには、人間に嫌悪を催させ、そこから離れることを熱望させるような「忌まわしい存在者」が不可欠だという倒錯した結論が導かれてしまうからである。
ニーチェは何かを激しく嫌うあまり、そこから離れたいと切望する情動を「距離のパトス」と呼んだ。そして、その嫌悪感こそが「自己超克の熱情」を供与するという。
だから、「超人」へ向かう志向を賦活するためには、醜悪な「畜群」がそこに居合わせて、嫌悪感をかき立ててくれることが欠かせない。
おのれの「高さ」を自覚できるためには、つねに参照対象としての「低い」ものに側にいてもらうことが必要となる。
結局、自己超克の向上心を持ち続けようとするものは、「そこから逃れるべき当の場所」である忌まわしい「永遠の畜群」を固定化し、「いつでも呼び出し可能な状態」にしておくことを求めるようになるのである。
超人たらんとするものは、おのれの「高さ」を観測する基準点として、「笑うべきサル」であるところの「永遠の賤民」を指名し、身動きならぬように鎖で縛り付けることに同意することになるのである。
ニーチェの「超人思想」なるものは、こうして最終的にはみすぼらしい反ユダヤ主義プロパガンダにたどりついてしまう。
ニーチェを読みながら、向上心について考える。
向上心を持つのはよいことである。
しかし、それが「愚劣で醜怪で邪悪なもの」から逃れたいという「距離のパトス」を推進力にするものであるならば、皮肉なことに、その「忌まわしいもの」との二人三脚は永遠に続くのである。
向上し続けるために、罵倒と冷笑を永遠に吐き続けなければならないのである。
それって、なんだか寂しい生き方だとは思わないか。
私もまたあたりかまわず罵詈雑言を吐き散らし続けているが、これは向上心とは何の関係もない。
私の悪口にそんなたいそうな大義名分はない。
単に「人の悪口を言ってると気持ちがいい」ので、「悪いこととは知りつつ」、わいわい悪口を言い散らしているだけである。
悪いことをしている、ということは本人もちゃんと自覚している。
だから、さんざん悪口を言ったあとに、とってつけたように「すまない」と書き添えるのである。
ニーチェと私がどっちが「正しい」かと言えば、もちろんニーチェの方が正しい。(こっちは「私が悪いんです」とはじめから言ってるんだから「悪い」に決まってる)
でも、人生「正しければいい」というものではない。
落日に見入る晩年のニーチェの哀しい横顔を見ながら、そう思った。
3月16日
先日、秋葉原に行ったので、ついでにひさしぶりにCDを何枚か買った。
ウチダは「街場」のひとではなく、「山場」のひとなので、ふだんはほとんど「お店」というところに行かない。
CDを買うなんていうのは、半年に一回である。
今回の買い物はCS&Nとジャクソン・ブラウンとクリストファー・クロスとギルバート・オサリバン。
探していたのはステファン・ビショップとクリッターズとジョン・セバスチャンだったのであるが、「ヤマギワ・ソフト館」にも、そういう一部好事家向け70年代グッズは置いてなかった。
タワー・レコードに小唄勝太郎や神楽坂浮子を探しに行くようなものである。
ウチダはあきらめがよい。
ウチダの音楽の趣味は音楽性とはまったく無関係であって、単にシンガーが「鼻声・ブルーズフレイバー」であればよろしい。
声質的にいちばん好きなのはニール・ヤング、ジョン・レノン、J・D・サウザー、ジェームス・テイラー、ライ・クーダー。
CSN&Yをはじめて聴いたのは、1970年春の駒場の文研。
久保山裕司くんがカセットデッキを持ち込んでDeja vu を大音量で聴きながら、書き物をしていた。
横に座り込んで、久保山君に「これ、何?」と訊ねたら、会心の笑みを浮かべて、「CSN&Y・・・ウチダ知らないの?」
そのあと渋谷の「グランド・ファザー」(全線座の隣のビルの地下にあったロック喫茶)に行って、「CSN&Yの曲かけて」と頼んだら、ニール・ヤングのAfter the Goldrush をかけてくれた。
LP一曲目のTell me why を聴いたら、足が震えた。
ビートルズが解散しても、まだロックは大丈夫だとそのとき思った。
そのころはビンボーでステレオを持っていなかったので、音楽を聴きたくなるとグランド・ファザーに通った。
その一枚のLPを聴くためだけに何度も足を運んだというと、高校生のころにチャールス・ロイドのForest flower を聴くために通ったお茶の水ニューポートと、フランク・ウェスの In a minor groove を聴くために通った新宿DIGと、ニール・ヤングのAfter the Goldrush を聴くために通ったグランド・ファザー。
音楽は、それに出会うべき瞬間がある。
十代と二十代のはじめのころ、音楽はほんとうに新鮮だったし、それなしでは生きてゆけないほどに痛切な糧だった。
いまはもうそういうふうに音楽を聴くことができない。
「おじさん」になると、いろいろな能力を失う。
ロックに命がけになるという能力もその一つだ。
春の日差しを浴びながらベランダでCS&Nの「組曲:青い目のジュディ」を聴く。
洗濯物を干すときのBGMはやっぱこれやね。
3月14日
おお、今日はホワイトデーだったのか。
ウチダにチョコレート類を贈った皆様にはサイバースペース経由で「ハイホー」のご挨拶を贈らせて頂きます。
ハイホー。
みなさまの上に幸運がありますように。
さて、先日の「32年前のダンパの女の子」情報の続報である。
この女性は現在、東大病院にご勤務の臨床心理の専門家である。
今日、お電話を頂いて、なぜ私のホームページを発見したのか、その驚くべき由来をお聞きすることができた。あまりに面白い話なので、ご紹介したい。
先日、この方はドイツから来た女性学者に同行して、ある日本の学者との会談にたまたま同席された。その席で、その日本の学者が過日行った講演のレジュメが卓上に拡げられていたのをぼんやり眺めていたら、そこに「内田樹」の名前があるのを発見して、「おおお、これは32年前のダンパの!」と驚かれたのである。
そして、「あのー、私このウチダ・タツルっていう人、知ってるんですけど・・・ご存知の人なんですか?」とお尋ねになったのである。「大昔にちょっとだけご縁があった人なんですけど・・この人、何ものなんですか?」
先方も驚かれたようである。
だって、その「先方」はかの高橋哲哉氏だったのである。
その講演において、私は「ネオ・ソフト・ナショナリスト」とカテゴライズされて、加藤典洋氏ともども高橋氏の厳しいご批判を頂いていたようである。
「ネオ・ソフト(雪印)ナショナリスト」とは・・・高橋さんもコピーの天才。ウチダのポジションを言い得て妙である。
『ため倫』では高橋哲哉さんのことをずいぶんきつく書いてしまったので、そのあともずっと胸を痛めていたのである。
ウチダは高橋哲哉さんの論理を「正しい」と思っているのである。
それは同書のなかでも繰り返し書いている。ただ、「正しい」けどおいらにはその語り口がダメなので、その辺の機微を分かって頂いた上で、どうか「同じこと」をおいらも「そーだそーだ」と唱和できるような別の言い方でしてはくれないだろうか、という欲張りなことを言っているのである。
もちろん、それが身勝手な要請だということは百も承知である。
けれども私と高橋哲哉の距離と、私と藤岡信勝の距離はまったく違う。
「どっちの陣営」と言われれば、私はためらわず「高橋さんの方さ」と答える。
けれども高橋さんは私を「藤岡」や「西部」と同じカテゴリーに入れたがっている。
でも、私は古典的な意味での「ナショナリスト」とはまるで無縁な人間だ。
私は均質的な集団が嫌いなだけである。
ナショナリズムが集団の均質性を要求する限り、私はそれを断固拒否する。
でもナショナリズムを批判するときの語法が「反ナショナリズムの均質性」を求めるならば、私は「それじゃナショナリズムと同じじゃないか」と思ってぶーぶー文句を言うのである。
加藤典洋さんを私が支持するのは、彼が「多様性」を容認する人だということが直観的に分かるからだ。
高橋哲哉に距離を感じるのは、彼が「正しさの均質性」というものを恐れていないような気がするからだ。
正しいことはもちろんすてきなことだ。
でも、均質的であることは、正しさを損なう。
私は「正しくない」ことよりも「均質性がない」ことの方がよりキライなのである。
ものごとにはグラデーションがあった方いいと私は思う。
グラデーションがある方が「正しさ」がほんとうの意味で実現されるためには有効だろうと、私は経験的に信じている。
理由はうまく言えない。
私を「ナショナリスト」と呼ぶのは、私を藤岡信勝や西尾幹二と「均質化」することだ。
高橋は均質化することがやっぱりすごく好きな人なのだろうか。
そうはいっても、私に「ネオ」と「ソフト」と二つの限定形容詞がついていることは評価されなくてはならない。
「新しくて」「柔らかい」んだ。
新しいというのはあきらかに誤認だが(私はほとんど「古典的」な人間である)、
「ソフト」であるというのはうれしい評価だ。
政治犯になって拷問されるときに、鞭でびしびし打ったり、爪を剥いだりするやつと、「君にもいろいろ考えがあるんだよね、おじさんにも若い人の気持ちは分からんわけじゃない。ま、煙草でもどうかね。カツ丼食べる?」というやつと「どっちに尋問されるのがいい?」と聞かれたら、私はぜったい後者の方がいい。
そんなこといっても、革命運動を抑圧する効果から言えば、犯罪性において本質的に選ぶところがない、いう人もいるだろう。
でも、じっさいに拷問される立場になったら、やっぱり「本質的同一性」よりも「経験的差異」の方が重要だと私は思う。
私は高橋哲哉が言うとおり、わりと「ソフト」な人間である。
でも「ソフト」であり続けることに身体を張る、という点については、けっこう「ハード」なのである。
ハードじゃないと生きていけないし、ソフトじゃないと生きてる甲斐がない。
マーロウさんもそう言ってるじゃないですか。
3月13日
三日家を明けて、家に帰ると、メールや郵便物が貯まっている。
順番に片づけるが、まだ終わらない。
仕事の依頼が一件。3週間に1本、600字のエッセイ、という気楽な仕事なので、二つ返事で引き受ける。
原稿の書き直しが二件。
確定申告が15日までと気がついて、あわてて書類を整理する。
確定申告は25歳くらいのときからずっとやっているのだが、いまだにそのメカニズムが理解できない。毎年同じような仕事をして、同じような生活をしているのだが、ある年は還付金があり、ある年は追徴金が取られる。
去年は3万円ほど戻ってきた。
今年は、さっき自分で計算したら33万円収めないといけない。
収入はほとんど同じなのに、どうして?
税務署は私にとってカフカの『城』のように不可解な存在である。
そもそも私は足し算で「¥」が単位につくと、必ず計算を間違える。
浅田次郎は、数字に「¥」がつくといきなり計算能力が向上するそうである。
珠算教室などでは、「***円なり」と読み上げているから、「¥」がつくと計算能力が向上する方が一般には多いのであろう。たぶん人間はことがお金にかかわると、真剣になるのである。
しかし、私の場合は、お金のことを考えると、とたんに多幸的な空想に耽ってしまう。
お金があったら、まず能楽堂付きの道場を建てる。
道場はざっと100畳敷き。その畳部分を見所に見立てて、反対側には檜の床の能舞台。
橋掛かりが渡り廊下になっていて住居部分に続いている。
住居は中庭を挟んで道場と向かい合い、全室和室で、縁側に障子戸。
庭には築山、竹林に紅葉をあしらい、春には庭で花見、秋は縁側で月見、冬は炬燵で雪見。夏は下駄を履いて庭を下るとそこは白砂青松の青海原・・・
と真剣に空想に耽ってしまうので、計算が合うはずもないのである。
そうはいっても、私は「必要経費」というものを一円も申告しないので(ジロー先生には「バカだ」と言われるが)確定申告のときにはたいへんらくちんである。
私の研究テーマは「思想」と「映画」と「武道」である。
新聞を読むのも寝ころんでTVを見るのもトイレでマンガを読むのも道場で稽古をするのも、研究活動といえないものはない。新聞代もNHK受信料もマンガの代金も多田塾研修会の旅費も能のお役料も、ことごとく必要経費に算入可能である。
しかし、まさか下川先生に「必要経費で落としますから、お役料の領収書下さい」とか多田先生に「研修会の参加費の領収書下さい」とか言うわけにはゆかないではないか。
そもそもこれらの活動は言わば私の「道楽」である。道楽をしておいて、研究活動だから税金負けてとは言いにくい。
というわけで、必要経費ゼロで申告書類を書く。
控除されるのは、基礎控除と扶養者控除だけ。
今年から確定申告はコンピュータが導入され、画面の問いに答えて行くといつのまにか申告書類が出来上がって、支払うべき税額もちゃんと算出してくれる。
あと3100円払わないといけないと画面が告げる。
自分の計算とえらい違いである。
理由は不明。
しかし、カフカ的世界を相手に条理を説いても始まらない。
そのまま帰りに郵便局で3100円払って平成13年度の納税作業が終了。
灘税務署までの行き帰りを入れて、「あ、確定申告しなきゃ」と思い立ってから、終了までの所要時間、2時間15分。
3月12日
平川克美君に久しぶりに会う。
平川君はこのところ秋葉原の一角に千代田区と秋葉原の地元商店会と企業各社から資本参加してできた「リナックス・カフェ」というところに陣取っている。
1Fがサントリー系列のカフェで、2Fがオフィス、3Fが教室、4Fが研究所。
どういうコンセプトなのだかよく分からないのだが、もう「ビジネス」という従来のカテゴリーには収まらない活動であることは間違いない。
何かが運動し、生成する場を創出するということが目的であって、短期的にビジネス的なプロフィットが出るかどうかというような「せこい」ことを考えている人間は、もう平川くんたちの活動は理解もできいないし、関与もできない仕掛けである。
10年後、30年後の日本の産業構造や社会制度そのものをどう設計するか、という本来なら政治家がやる仕事を、平川君たちがヴォランティアでやっているのである。
ビジネスの世界で先端的な人たちは政治に対しては「口を出すな」という以外にはもう何も期待していないのだ。いまだに政治家とかかわることに何か意味があると思っているのは土建屋と金融屋だけだろう。
ビジネスの最先端にいる平川くんがたどり着いたのは、最後に必要なのは「教育インフラの整備」だ、というのに驚ろかされた。
日本の学校制度はもう破綻していて、使いものにならない。まったく新しいタイプの教育システムを立ち上げて、日本の若い世代に必要なスキルを習得させなくてはいけない、という言葉を聞いて、教師としては顔が赤くなる。
平川君の仕事でビジネス・パートナーになれるのは個人、企業、自治体だけである。「絶対にいっしょに仕事をしないのは、中央省庁、特殊法人、そして大学」
理由は簡単。「誰が意思決定をし、誰が責任をとるのか、分からないから」
そんなところを相手にしている暇はないよ、と平川君は笑った。
中でも大学のデシジョンメイキングと責任主体のあいまいさは驚くべきものだという。
耳に痛いことばだ。
平川君の次の仕事はだから「大学作り」である。
これにはびっくり。
ただし立花隆の「ユービキタス大学」とはだいぶ趣向が違う。
内外から資金を200億ほど集めて、スタンフォードやUCLAに対抗できるようなまったく新しいタイプの大学(研究機関とビジネス拠点をかねる)を作る予定だそうである。
これまで「やる」といった計画はすべて実現させてきた平川君であるから、きっとこの大学作りも実現させてしまうのであろう。
あまりに途方もない話に頭をくらくらさせながら、帰途に就く。
夜はお兄ちゃんとユータが登場。
ユータは二ヶ月前からまじめにドコモの携帯電話ショップの営業マンになって毎日ネクタイをしめてスーツをきて出勤しているそうである。
なんと無遅刻無欠勤。
あまりの人間の変わりぶりに兄は感涙、母も私も「えらいえらい」と就職祝いをはりこむが、クールでリアルな父上だけは「いつまでつづくかね、ふふふ」と冷笑。
「子どもの言葉をもっと信じてやろうよ、お父さん」と言いながら、「これからはまじめになります」という子どもの約束を決して信じないような人間に父がなってしまった理由に思い至り、語尾が消え入る。
11日には数ヶ月ぶりで、るんちゃんにも会った。
るんちゃんが何か「けなげ」なことを言って、私が「ほろり」としたら、涙をぬぐう木綿のハンカチーフを探しつつ、さりげなく内ポケットに手をやって「これは、些少だけど、ま、当座の小遣いにね」と差し上げようとタイミングをはかっていたのであるが、ついに最後までぴしりと封印されてしまい、880円のオムライスをおごるのが精一杯であった。
親が小遣いを渡すタイミングを完全に封じ切るとは、さすが、わが子ながら天晴れという他に言葉がない。
3月11日
ひさしぶりの東京。
紀尾井町の文藝春秋社で、嶋津さんと『構造主義』の原稿チェックを3時間。
読者層の高齢化が進んでいて、主たるコンシューマーは50−60代。
市井の読書人たるおじさんおばさん向きの本じゃないと売れません、ときっぱり言われているので、これまでのような「平川君」や「お兄ちゃん」を読者に想定した「内輪の語法」は許されない。
「間主観性」も「分節」も「オープンソース」も全部チェックが入る。
こういう術語には必ず解説を施さなければならない。
「解説」といっても「現代用語辞典」のようなのはだめで、とにかく「たとえ話」を必ず入れて「あ、あのことね」というふうに読者が腑に落ちる説明をしてください、というのが編集者からの要請である。
なるほど、「たとえ話」ね。
それなら自信がある。
「たとえ話」ならいくらでも思いつく。
むしろ、今回の原稿では、終わりなく「牛のよだれ」のように繰り出す「たとえ話」を実はひそかに自制したのである。
編集者から「ウチダさん、この小話だけでまるまる一冊埋めようというのは、ちょっとあんまりあこぎなんじゃありませんか?」と上目遣いに見られるのでは、とウチダには珍しく気を回したのである。
慣れないことはするものではない。
題名にしても『いきなり始める構造主義』は「インパクトが弱い」というご指摘である。
もっと、リーダーフレンドリーな題名を営業サイドは望んでいる。
じゃあ、といささか腰が引けつつ
『寝ながら学べる構造主義』はいかがです?
あ、それで行きましょう!
えええ、そうだったの。
「寝ながら学べる」では、あまりにも態度が悪すぎると思って自制したのである。
「富士には月見草」がよく似合い、「ウチダに自制心」は似合わない、というのが本日の教訓でありました。
新幹線車内と都内の移動中に三浦雅士の『青春の終焉』を読む。
500頁近い本だったが、あまりに刺激的だったので、一気に読み終えてしまった。
三浦雅士はほんとうに頭のよい人である。
「かゆいところに手が届く」とはこのことである。
読んでどきどきする本には二種類ある。
何が言いたいのかよく分からないけど「なんだか、すごい」という本と、「ああ、それこそ私が言いたかったことなのよ」という「ひとりうなずき」が繰り返し訪れる本である。
『青春の終焉』はその両方を兼ね備えた名著である。
胸を衝かれた箇所は枚挙に暇がないが、ひとつだけ挙げるならば太宰治の口述筆記についての逸話である。
1998年太宰治の草稿が二つ発見された。
『人間失格』と『如是我聞』である。
『人間失格』はともかく、人々が驚いたのは『如是我聞』に草稿があったことである。というのはそれは口述筆記されたものだったからである。
死の直前の6月4日、太宰は『新潮』の担当編集者を電報で呼び出し、夜を徹して『如是我聞』(四)を口述筆記した。
口述筆記は『駆け込み訴え』など、それまでも複数の作品で試みられている。
「太宰はこたつにあたり、盃をふくみながら全文、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しもなかった」と伝えられている。
しかし、『如是我聞』の草稿発見によって、私たちは意外な事実を知る。
それは、太宰は完成稿を書き上げ、それを完全に記憶したのち、それを声に出して筆写させたということである。
三浦は太宰のこの不思議な創作態度を「舌耕文芸」の太古的伝統を受け継ぐものと考える。以下は三浦の文章から。
「太宰治は自分の作品を自分で上演していたのである。その上演は、電報を打って、編集者を呼び寄せ、徹夜してまで実行されねばならないほど重要なものだったのである。
太宰治は学生時代、義太夫を習っていたが、これではまるで義太夫語りである。おそらくその通りなのだ。さらにいってしまえば、いかにも近代的な苦悩に満ちているようでありながら、太宰治の作品の根底には前近代的とでもいうほかないものが色濃く流れているのである。」
三浦の論はこのあと同じく口述筆記の人であったドストエフスキーからバフチンへ、そしてカーニヴァル的なポリフォニック文体論と展開するのであるが、私は口述筆記のエピソードを読んだだけで、「ああ、そうだったのか」と太宰における言語と身体について、大事な秘密に触れたような気がしたのである。
なぜ太宰の小説は最初の数行を読んだだけで、もうその「語り」の中に絡め取られてしまうのか。それはことばが「声」を経由して、太宰治の身体を経由して語られているからだ。
読者はことばの「意味」にではなく、そのことばを語りつつある当の作家の身体の響きに巻き込まれてしまうのだ。いわば太宰治に「憑依」し、されててしまうのだ。
それは「ことば」が「声」を経由することによってのみ獲得する力だ。
口述する作家の文章を音読するとき、読者の中に、何か生々しいものが、眼を閉じたそのあとも身体の中に残響するものが生成することを、太宰治は経験的に知っていたのである。
『レヴィナスと愛の現象学』のなかで私は「理解を絶した言葉に、それにもかかわらず、身体がなじんでくる」という経験について書いた。
そういえば、レヴィナス先生の文章がなぜあのように「邪悪なまでに難解」とされているのは、哲学が「語り言葉」でかかれているからなのであった。
「・・・ではないだろうか」といううねるような否定疑問文の連打は、目の前でその問いかけに「絶句している」読者に、息の詰まるような緊張を強いるために、なされている。
タルムードは黙読されてはならない。
それは師弟のあいだで音読され、それが起源においてそうであったような、対話態に「解凍」されねばならないとレヴィナス先生は繰り返し書いておられたではないか。
聖句は読み手の身体を経由して読まれねばならないということは、単に読み手の実存に「引きつけて」読むということだけでなく、文字通り、「音読されねばならない」ということをも意味していたのである。
そのほか、『青春の終焉』には「眼からうろこ」的知見が随所にちりばめられている。
ウチダが心からオススメの一冊。諸君ただちに書店に走れ。
3月10日
鈴木宗男と外務省の醜聞から始まって、徳島県知事の収賄、加藤紘一元秘書の収賄・・・と、毎日新聞を開くたびに「はあ」とため息をつくような事件が目白押しである。
貪官汚吏佞臣奸臣は権力あるところに必ず発生するものだから、いまさら驚いたり嘆いたりしてみせるようなナイーヴさは、劫を経たおじさんであるウチダは持ち合わせていない。
しかし、それにしてもこの連中の「性根の悪さ」は見逃すとしても、「頭の悪さ」を私は許すことができない。
こんなことを今さら言うのもなんであるが、およそ官途にあるもの心得は「李下に冠を正さず、瓜田に履を納れず」ということに尽きる。それ以外はすべて副次的なことである。
中学生のときに読まされた国語の本にもそう書いてあったはずである。知らないとは言わせない。
「李下に冠を正さず」というのは、「すもも」の成っている木の下では、冠がゆるんでいても、ひもに手を掛けると、「すももドロボウ」だと思われるから、冠がずり落ちてきても我慢してそのまま立ち去れ、という教えである。
「瓜田に履を納れず」というのは、「瓜」の成っている田んぼでは、立ち止まると「瓜ドロボウ」だと思われるから、くつが脱げても履き直すなという教えである。
お分かりだろうか。
この古諺は「官人というのは、とりあえずドロボウの容疑者とみなされているから、そのつもりで挙措進退を心がけるように」と言っているのである。
あんたたちは「いつも容疑者」(usually suspect) なんだから、そのつもりでおるように、と言っているのである。
通常の法諺は「疑わしきは罰せず」であるが、役人や政治家にはこの原理は適用されない。
官人は「疑われたら」自動的にその社会的地位を喪失する。
だから、「疑われたら、おしまい」なのである。
「疑わしきは、即、処罰」という例外的存在なのである。官吏や政治家は「市民」ではない。
市民の人権を保護する規則は彼らには適用されない。
だって、官吏や政治家は他人の「人権」を制限する権能を持たされているのであるから、そのような存在には市民と同じ「人権」は認めるわけにはゆかないのである。
公人に私的利害の追求の権利を認めるということは、サッカーの試合で、「レフェリーもシュートしてよい。ゴール数が多かったら、レフェリーの勝ち」というルールでゲームするようなものである。
ゲーム開始前に、ボールをもってグラウンドへ出てきたレフェリーがさりげなくボールを無人のゴールに蹴り込んで、ゴールの瞬間に「ピピー」と試合開始を宣言したら、誰も止められない。
だから公人は「ゲーム」に参加することが許されないのである。
「レフェリー」としての市民たちのあいだの利害の対立や確執を調整する役目のものが、ゲームしてどうするというのだ。
官吏や政治家に通常の意味での「市民権」はない。
株式市場の動向を左右するようなインサイダー情報を得られる(かもしれない)立場にある人間には、株の売買をする権利はない。新幹線計画を知っている(かもしれない)人間には、建設予定地の土地の買収をする権利はない。
「知っている人間」がではない。「知っている(かも知れない)」人間にはすでに経済活動をする市民権はない、と私は言っているのである。
本人が「知らない」と言い張っても、「知っていたかもしれない」「知っていた蓋然性が高い」場合、それは「知っていた」と同じに扱う。
なぜなら、公人とは「眼を離したら、即ドロボウをするやつら」という規定をこうむるものだからである。それが「李下瓜田」の古諺の定めるルールである。
官途につく、ということは「ユージュアリイ・サスペクツ」として「世間の疑いのまなざし」に身をさらし続けるような生き方を選ぶ、ということである。
「冠がずり落ちても」「沓が脱げても」、ふつうだったら、我慢できないくらい気持が悪いだろうが、そこで「ふつうの人」みたいな反応をしたら、その瞬間に回り中から「ドロボウ!」と怒鳴られる仕事をしているんだから、そこは泣いて我慢せよ、と言っているのである。
その意味では、今回名前があがっている人々はことの真相が露顕する以前にもちろん全員「くび」である。
たとえ潔白でも、「あ、ドロボウ!」と誰かに言われたら、もう「おしまい」というのがこの商売のルールなんだから。
「ドロボウであるかどうか」ではなく、「ドロボウに見えるかどうか」を基準にする、というのが公権力にかかわる人間の資格を審査する準位なのである。
「訴状を見ていないからコメントできない」とか「法の裁きを待って進退を決する」とかいうものは、このルールがぜんぜん分かっていない。
それはボクシングの試合が終わったあとになっても、「私と彼とどちらがほんとうの勝者であるかは、どちらが先に死ぬかを見きわめない限り結論がでないことである」と称して、敗北を認めないボクサーみたいなものである。
もう試合は終わったの。
「あ、ドロボウ!」と一声出た瞬間に、官途にある者の生命は終わるのである。
「そんなのひどい」と泣かれても困る。
そういうルールでやりましょう、と大昔から決まっているのである。
そういう「きついルール」でやらないと国家組織はぼろぼろになってしまうから仕方がないのである。
公的生活とは、「ほんとうは何が起こったか」ではなく、「何が起こっているように見えるか」を基準線にして展開する。そこ「だけ」が勝負どころなのである。
だから逆に言えば、政治家は有能である必要はない。
「有能であるように見えれば」それで及第点なのである。
官僚は清廉である必要はない。
「清廉であるように見えれば」それでOKなのである。
民は太っ腹なのである。
役人や政治家が「ほんとうは」バカでも貪婪でも実はまるで構わないのだ。
それが「疑われさえしなければ」、政治はうまくゆく。
「露顕さえしなければ」ではないよ。
たとえ真相が「露顕」しなくても、「あいつ実はバカじゃないの?」「あいつ実は貪官なんじゃないの?」と「疑われたら」、ほんとうはどれほど有能でも清廉潔白でも、システムはもう持たない。
官人の仕事は有能であることでも清廉であることでもなく、システムをうまく運営する、ただそれだけのことである。そして、そのためには「有能であり、清廉であるように見える」ことが、それだけが死活的に重要なのである。
簡単な話なんだからさ、頼むよ。
「あんたがバカでも強欲でもぜんぜん構わないから、最後までおいらたちを騙してくれよ」
私はただそうお願いしているだけなのである。
「すもも」や「うり」が好きでもいいから。そのときは自分の家に帰ってから、ひとりでゆっくり食べてくれ、お願いだから人目にたつところでは喰わないでくれ、とそうお願いしているのである。
庶民の哀しい願いなんだからさ。頼むよ。
3月9日
『ミーツ』と『ジェンダー・スタディーズ入門』の原稿を同時発送。
どちらもお題は「恋愛について」
『ジェンダー・スタディーズ入門』は本学ジェンダー研究会の強面のおねーさん、おにーさんたちが出版する恐怖の「フェミニスト本」である。
目次と内容の要約を読んだだけで、冷や汗が出て、足が震えてくるような教化的、道徳改良的、啓蒙的な良書であり、私のようなものが一体なぜここに寄稿を求められたのかは不可解という他ない。
とりあえず、「恋愛について」、あまり教化的とはいえず、どちらかといえば道徳紊乱的であり、かつ読者が一層蒙昧の度をましかねない文章を書いてお送りした。
森永編集長が烈火のごとく怒って「ボツ」になる可能性が高いのだが、ムダをしない主義であるウチダは、すばやく街的ロング・ヴァージョンを改作して、それを『ミーツ』に送稿したのである。
しかし、このフェミニスト本は「怖い」。(要旨しか読んでないのに、怖がるのは過剰反応かもしれないけれど)
この「怖さ」は何かに似ている。
考えてみたら、私が学生時代に強制的に読まされたマルクス主義の「学習本」に酷似していた。
父権制イデオロギーという「諸悪の根源」があり、すべての社会矛盾が(結婚制度も性も恋愛も不況も失業も学校崩壊も)、それで説明できるというsimplisme の力業に私の「身体」が拒否反応を示してしまうのである。
たぶん執筆されているみなさんは年齢的に言って、学生時代に「マルクス主義の学習本」を読んで、「あらゆる社会矛盾を革命論的に説明する」という課題を毎度毎度出されては、その説明の出来不出来を政治委員に「査定」されるというような哀しい経験をお持ちではないだろうと思う。
ウチダは経験がある。
そして、そこでウチダがいちばん驚いたのは、政治問題も経済問題も社会問題も文化も芸術も、ありとあらゆる事象は、すべて「革命的か反動的か」の二元論で「処理」することが「できる」という事実であった。
これが、まあ、あっと驚くほど「簡単」なのである。
東映やくざ映画が「革命的」で、松竹映画は「反動的」、藤圭子の演歌が「革命的」で、天地真理のポップスが「反動的」、アルバート・アイラーが「革命的」で、チャールス・ロイドが「反動的」、状況劇場は「革命的」で、俳優座は「反動的」・・・そういった「なんでも二元論」的言説を私は60−70年代にゲロを吐くほど読まされたし、おのれ自身書きもした。
そして、もうこりごりしたのである。
そして、二元論的革命論とオサラバして、「そうは言っても、ま、大島渚さんには大島さんの、小津安二郎さんには小津さんの。カラジューローさんにはカラさんの、アサリケータさんにはアサリさんの、それぞれお立場というものがあるわな」という、「それぞれのお立場尊重主義」というものに宗旨替えをしたのである。
その「それぞれのお立場尊重主義」的立場から言わせていただくならば、フェミニズムのみなさんは日本におけるマルクス主義的文化論言説の弊害というものをどのように批判されてきたのか、それがいささか疑問なのである。
「全共闘のマルクス主義?あれは父権制イデオロギーの尻尾をひきずった感傷的なプチブル的急進主義よ。バッカみたい。フェミニズムはそういう前時代的な男性中心主義を乗り越えた思想的地平を切り開いたんじゃないの」
あのね、それではまんま「前車の轍を踏んでいる」ような気がおじさんはするんだけど。
問題はイデオロギーの「コンテンツ」ではなく、イデオロギーを語るときの「マナー」なのだ、ということをさいぜんからウチダは申し上げているのである。
私はイデオロギーを語ることが「悪い」と申し上げているのではない。(そんなこと口が裂けても言えるはずない)
そうではなくて、どうせわれわれは全員程度の差はあれイデオロギーを語っているわけなんだから、せめて「自分はイデオロギッシュである」ということについての自覚だけは持ちましょうよ、と申し上げているのである。
その自覚があると、おのずから語るときに「タメ」というか「腰の引け」というか「言いよどみ」というか、そういう風情が漂ってくるでしょ。
ウチダはイデオロギーの内容についてはとやかく言いません。お好きなことを語っていただいて結構。
でも、その「言いよどむ風情」というものには、いささかのこだわりがある。
それは「言いよどまない人間はコワイ」ということを骨身にしみて知っているからである。
科学的言説を語っているつもりの人間は、そこに充溢しているおのれの欲望を構造的に見落とす。
だから、ウチダはずっと以前に「科学的言説」を語ることを止めたのである。
そして、「客観的学知を語る者はつどつねにその言説を駆動している自分の欲望を勘定に入れ忘れるという事実」をオデコに貼って、「ウチダの書き物はそのつどつねにウチダ自身の欲望を勘定に入れ忘れておりますので、その空白は読む人が『代入』して読み進んでください」というお断り書きをしたうえで、ものを書いているのである。
たしかにややこしい話だ。
「私の言うことを信用するな」と言いながら際限もなくしゃべり続ける人間の「逃げ腰の図々しさ」には正直うんざりする方も少なくないであろう。
しかしとにかくこれは私が貧しい政治的経験から習得したぎりぎりの「マナー」であって、「止めろ」と言われて「はいそうですか」と止めることのできぬものなのである。
話がくどくてすまない。
3月8日
うっかり本を出したりすると、「あ、ウチダだ。こんなことしてたのか」と、思いがけない人からメールを頂くことがある。
このあいだは駒場のときに知り合いだった植村恒一郎さんという哲学者からご本を送って頂いたという話をしたけれど、またまた「32年前にお会いしたことがあります」という方からメールが来た。
こんどは女性である。
名前に覚えがないので、「大学のときの知り合いですか?忘れちゃっててすみません(冷汗)」というご返事メールをしたら、なんと、1970年の五月祭のダンパで、私が「ダンスしない」とフロアに誘った女の子だった。
さいわい先方は私の意馬心猿の下心を見透かして、賢明にも言下にお断りになったため事なきを得たのである。
そのわずか一分ほどの出来事について、私はもちろん何一つ記憶していないが、先方は私の名前まで覚えていて下さったのである。
別に私がそれほど印象深い人間だったからではなく、その方のお友だちから「あなたに声かけた男はウチダ・タツルといって、とんでもないワルモノなのよ」と事後に情報提供があって、「ふーん、いい名前だな」と思って、(「いい男だな」ではなく)顔は忘れちゃったけど、名前だけずっと記憶されていたのである。
思い起こせば、それは1970年五月祭のときのダンパで、私は一年生空手部員として「警備」に当たっていたのである。(何の「警備」だか)
五月祭のダンパというのはもう「ボーイ・ミーツ・ガール」の修羅場のようなところであり、私も「警備」の合間を縫って、こまめに「ミーツ」を心がけていたらしい。
ミーツおよびミーツ以後の出来事については、私の記憶中枢は完全に空白となっているので何一つご報告できないのが残念であるが、19歳のときのウチダは現在の温良な風貌とはだいぶ様子が違っていて、「東大生とは思えないほど粗暴で野卑な青年」であったと当時の関係者が口々に証言しているところを見ると、そのおりも「粗暴で野卑」なふるまいが散見された可能性は否定できない。
しかし、大学に入ってまだ二ヶ月足らずなのに、どうして他大学の女の子にまで「ウチダというのはとんでもないワルモノだ」というような根拠のない風評が喧伝されていたのか、思えば謎である。
そう言えば、その一月ほど前、入学式のあとにクラスで自己紹介したとき、私が「ヒビヤを中退したウチダです。よろしうたのんます」と挨拶したら、教室の後ろの方から伊藤くんがびしっとガンを飛ばしてきて、「おめーが、ヒビヤのウチダか。噂はいろいろ聞いてるぞ」とにやりと凄まれたことがある。(広く知られているように、1970年は東大入試中止の翌年であり、全国の品のよい秀才はみな東大を敬遠して、ほかの大学に行ってしまい、この年度の入学生には、最高学府の学生とは思えないようなたたずまいの学生が相当数含まれていたのである。)
私としても最初からなめられると、あとが大変なので、ガンを飛ばし返して、「何聞かされてっかしらんけど、ま、それはそれよ。ワシもご当地は新参じゃけ、あんじょう引き回したってや」と悪魔のような笑みを返したのであった。
でもいったい伊藤くんは誰から何を聞かされていたのであろう。
ああ、気になる。(そのときすぐに伊藤君に聞き返せばよかったのであるが、まわりが聞き耳を立てていたので、質問をはばかったのである。惜しいことをした。)伊藤さん、こんど会ったとき教えて下さいね。
3月7日
甲野先生からお手紙といっしょに「手裏剣」が贈られてくる。
江崎義巳氏作の業物である。
ウチダもこれまでいろいろなものをいろいろな方から頂いたが、手裏剣を頂いたのはこれが生まれてはじめてである。(ふつう、そうだね)
12年前、自由が丘道場を離れるときに、送別稽古会のあとに道場のみなさんから記念品として刀を贈って頂いた。
そのときもほんとうに嬉しかった。
武道家にとっては、武具を贈って頂くというのは、ある種名状しがたい、身体の奥底から湧き出るような喜悦を覚える経験である。
仏文学者が記念品に仏和辞典をもらうというのとは、ヨロコビの質が違う。
なんだか「わおー」と叫びたくなるような根源的な感動がある。
一人の武道家として、甲野善紀先生に「認知」していただいたということの嬉しさと感謝で身が引き締まる思いがする。
甲野先生ありがとうございました。
この逸品の名に恥じぬように手裏剣もしっかり稽古致します。
合気道の稽古も熱が入っている。
「不安定の使いこなし」が、そのヒントを甲野先生にご教示頂いてからの、ウチダの合気道のメインテーマである。
今日は後ろ両手取り。
斜め後ろに捌きながら、「おいどおとして、かかとあげて」(@井上八千代/by courtesy of 小林昌廣)、片足を仮足にして、斬りの冴えを出し、親指の方向に相手を導きながら、相手を崩す、という技法をいろいろと工夫する。とりあえずその場で思いついたことをどんどんみんなにやってもらう。
みんなの技が眼に見えて変化し、道場全体がいよいよ怪しい雰囲気になってゆく。
二時間半休みなしの稽古なのに、みんな息も上がらないし、休む人もいない。わいわい笑いながら稽古している。
みんな自分たちのわざが「いきなり」効き出したことをちゃんと感知しているからだ。
武道はほんとうに愉しい。
家に帰ってから「松聲風伝」14号を読むと、中島章夫さんが最近の甲野先生の技法について解説を加えている中につぎのような文章をみつけた。
「不安定な方が強いことに関しては、自分のバランスをとるのに懸命で、受の相手をしていられないからだと言っていました。受としては相手にされないということで予測がはずれるのでしょう。このあたりの消息を、やくざが殴り込みに行ったら、相手の事務所が火事で大騒ぎになっていたら、もう殴り込みどころじゃないでしょう、というたとえで言い表しています。わかるようなわからないような・・・
これはおそらく自分が安定していても、押そうとした相手が不安定だと力が出せないからです。不安定な側は相手が安定しているので、安心して押すことができる。しかも力を出していないのだから好都合です。
なぜそうなるかというと、たとえ倒そうとするときでも、相手に触れると、相手と自分でバランスをとろうとするからだと思います。相手が安定していると互いに『安定』というバランスの中で押し合いができます。ところが相手が不安定でぐらぐらしていると、『不安定』な方に合わせてバランスを取るのです。」
これを読んでいるうちに、多田先生が「相手に囚われてはいけない」ということをしばしばおっしゃられるのを思い出した。
相手がそこにいようといまいと、まったく関係なしに身体を遣う。それは相手の身体を「杖」にしたり、相手の安定を「勘定」に入れたりすると、「相手が主、自分が従」になってしまうからだ。相手を中心にして、自分がそれを必死になって追いかけ回し、それに「合わせる」ような身体運用になってしまうからだ。
二人の人間が触れ合う。それぞれの身体のあり方は違う。
それはいわば変数が二つある一次方程式を解こうとするようなものだ。
もちろん、変数が二つあると一般解は出ない。
すると人間は必ず一方の変数を定数にして解を出そうとする。
変数が「不安定」、定数が「安定」というふうに言い換えてもいい。
自分の身体を「定数」にして、相手の動きを「変数」にする、つまり相手の変化に「応じる」ことができるように、自分の身体システムそのものは「恒常性」を保っているほうがいい、というのが常識的な身体運用だろう。
それを逆転する。
自分の身体を「変数」にする。すると、相手は解を求めて、自らが「定数」になろうとする。
身体システムが恒常性を回復しようとするのだ。
その「定数になろうとする」変化の「起こり」を咎める、というしかたで技をかける。
甲野先生の術理はおそらくそういう考え方だろうと思う。
それは「相手に囚われない」という多田先生の教えと技術的な水準では似ている。
似ているが、微妙なニュアンスの差がある。
この「微妙なニュアンスの差」のあわいに身を置くというところが、また愉しい。
3月7日
みじろぎもせずに一日翻訳をしている。
ほんとうによく働く。
私のことを「遊んでばかりいる」人間だと思っている人々はゼウスの雷に打たれるであろう。
レヴィナスの『メシア的テクスト』を訳しているところだが、これはフランス語圏ユダヤ知識人会議というところでの口頭発表を採録したものであるので、ところどころに「さきほどジャンケレヴィチ氏がおっしゃったのとは違う意味ですが」というようなコメントが入っている。
ジャンケレヴィッチが何を言ったのであろう。
気になる。
さいわいこの学会は発表記録が公刊されているので、それを読む。(450頁もあるんだよ)
1960年のことであり、これはレヴィナス先生が「タルムード講話」をこの学会でやるようになって四年目のことである。
先生の肩書きは「東方イスラエル師範学校長」。私塾の先生である。まだ『全体性と無限』も出してないし、博士号も取ってない。市井の一篤学者である。
だから、口頭発表のあとの質疑応答で、参会者からは「何いってんだか、むずかしくて、わっかんねんだよー」「この問題はどーなっとんの、論及されてないじゃないの、おう?」というような(ほどではないが)、相手を見下したような、ぶしつけな質疑が飛び交う。
レヴィナス先生が汗を拭きつつ、「どうも私の意図がよくご理解いただけていないようですが・・・」と壇上で当惑しているようすが行間から伺える。
そして、「そうはおっしゃいますが、私の師匠がそうおっしゃっていましたから、師匠がそう言えばカラスも白い・・・」と、ふたことめには「師」を持ち出して防戦にあい努めておられる。
そうか、老師さまにもそういう時代があったんだ。
老師さまにも「老師さまの老師さま」以外に頼るものとてない孤立無援の日々があったんだ。
それを読んでいるうちにちょっとほろりとしてきた。
レヴィナス老師は質疑に応じて、最後に感動的な長演説をする。
「この発表はわが『師』への私からのオマージュなのです。私が師について学ぶようになったのはずいぶん年を取ってからですので、師の叡智のほんのひとかけらほどしか身につけることができませんでした。私は師の方法のわずかな微光を感知したにすぎません。ですから残念なことに、その知と触れ合う機会を失った今、私の手持ちの光では、師の光が照らし出したはずの範囲を照らし出すことができないのです。(・・・)しかし、賢者の叡智を信じるということ、それは、人がユダヤ教の信者であろうとする限り、信仰が踏みとどまるべき最後の境位なのです。口伝律法の博士たちは真の賢者でした。私はそう確信しております。きわだった知性の持ち主でした。かれらはすべてを考え抜いておりました。すべてを考え抜く能力を備えておりました。すべてを考え抜く方法を知っておりました。そして、その時代において、すでに人間的事象のすべての細部は踏破され、すべては思考されていたのです。」(La Coscience Juive, 1961)
あれこれと発表内容にけちをつける発言者に囲まれて、最後の最後で、師と律法の賢者たちへの法外な信頼を語るレヴィナス老師の姿に私はほろりとしてしまったのである。
弟子が師から学ぶのは何らかの実定的な知やスキルではない。師の師への欲望である。
レヴィナス先生は最後の最後にあらゆる実証的基礎づけを超えたところに、師への絶対的信頼を置き、それが「信仰の踏みとどまる最後の境位だ」と断言した。
師は神の地位にあるのである。
なんと幸福な師弟関係であろう。
そして、いまから42年前、老師のこのような思考の深みを理解できる人は、その場にいあわせたフランスの卓越したユダヤ知識人たちの中にも決して多くはなかった。
驚いたことに、私の「だって、そう言ったって、レヴィナス先生がそう言ってるんだから、仕方がないじゃないですか」という言い訳の仕方は実は老師直伝のものだったのである。
バカ弟子は変なとこだけ師匠に似。
3月6日
朝から委員会が三つ。
委員会に出ると、人間が「他人の時間」というものに対してどれくらい敬意を抱いているかがよく分かる。
「他人の時間」をドブに棄てていることにまったく気づいていない人間がときどきいる。
これほど想像力を欠いた人間が、生身の人間をあいてに教育なんかできるのだろうか。
私は懐疑的である。
頭の良い人は「ハナシが早い」
それは、自分の用事で他人に時間を割いてもらっていることに対する「疚しさ」を感じているからである。
私の友人の中でもっとも頭の良い人の一人である山本浩二画伯の「ハナシの早さ」は尋常一様ではない。
電話が鳴る。
「はい、ウチダです」
「フグだけど」
思わず吹き出してしまった。
名前も名乗らず、時候の挨拶も抜きで、「単刀直入」に「フグだけど」。
まあ「だけど」がついただけでもいいか。
兄上さまも私の知友の中では抜群に切れる人であるが、兄上の場合は「メール」が短い。
「ミーツ送って」
これだけ。
電報じゃないんだけど。
3月5日
『ミーツ』の最新号が届いたので、読む。
アジサカコウジさんのマンガが楽しい。
『レヴィナスと愛の現象学』の書評の他にレコード評にまで本の名前が出てきたのにはびっくり。ソウルのCDの批評にレヴィナスが出てくる時代なのだ。
老師も草葉の蔭でくすくす笑っておられることだろう。
「街レヴィ」(@橘真)(これは「街のレヴィナス派」の略語です)のさらなるご活躍を祈念したい。
しかし、私は岡田山キャンパスと御影山手の「山から山へ山めぐり」(@山姥)をしているだけのひとで、考えてみたら「街場の現代思想」とかいいながら、「街」は車のウィンドー越しに眺めているだけである。そんな人間が偉そうに「街場では・・・」みたいなことを書いていてよいのであろうか。
おそらく同世代で私ほど家から出ない人間も珍しいであろう。
昨日も今日も夕食の買い出し以外ほとんど家から出ず。
ひたすら背中をこわばらせて『困難な自由』の翻訳に励む。
いまは第二章の「注解」を訳しているところ。
紀元一−二世紀ころのバビロニアやパレスチナの律法博士たちの「メシア」にかかわる恐ろしくディープな議論である。
これがどういうわけか滅法面白い。
なぜ面白いのか理由が分からない。
理由が分からないけれど、面白い。
レヴィナスの綴る律法解釈の一行一行が全身の細胞にしみこんでゆく。
私が何かを面白いと感じるのは、ほとんど身体的な水準の出来事である。
「理屈抜きに面白い」という表現があるけれど、私が「面白さ」を感知するのは、「理屈」経由ではない。「身体」経由である。
私が他の学者と違うのは「身体をベースにしているからだ」とこのあいだの電話できっぱり甲野先生に断言されてしまった。
「身体をベースにして学問している」というのはどういうことなのだろう。
別に身体論的視座から哲学書を読んでいるわけじゃない。「論」はいつだって「あとづけ」である。
身体で本を読む。
それはたしかだ。
「数学の問題は肘で解け」というのは竹信学兄にお聞きした名言であるが、これは灘校の数学教師のお言葉だそうである。
ことの本質を衝いた言葉だと思う。
私もフランス語の授業で動詞の活用を板書しているとき、口では別のことをしゃべりながら、手だけは関係なしに勝手に動詞の活用表を黒板に書いている。
フランス語動詞の活用表を「手が覚えている」のである。
武道では「身体を割って遣う」ということがたいせつだ。
右半身と左半身が別の仕事をする。上半身と下半身も別のことをする。
手の内でも上半分と下半分は別のことをしている。
セグメントに割れれば割れるほど武道的には「甘みのある」動きになる。
頭にはこんな芸当はできない。
身体はいろいろなことができる。
ときどき街を歩いているとき、若い人(とくに若い女性)の身体のあまり鈍感さに驚くことがある。
背中に表情がない。
こわばっている。
たぶん前から見たら視野狭窄的な目つきをしているのだろう。
ほとんどの人は前半分しか使っていない。背中が死んでいる。
ストーカー被害ということが頻繁にあるけれど、stalk という英語の原義は「そっと忍び寄って獲物を仕留める」という意味である。
あの鈍感な背中では、いくらでも忍び寄れるだろう。数センチのところまで近寄られても気がつかないのではないか。
サバンナの草食動物だったら、みんなライオンに喰われている。
ふつうに「すっ」と立っていて、「すたすた」歩いていて、それでいて全身が活発にセンサー機能を発揮している感じのする人には背後からでも「忍び寄る」ことができない。
そういう感じのする女性はほんとうに少ない。
いると、「ああ、いい感じだな」と思う。
都会を歩くというのはサバンナを歩くのと同じだ。
それは身体感覚を鋭敏にする、というだけのことではない。
「自分を含む風景の全体を鳥瞰的に見下ろす」想像力も動員しなければいけない。
そういうふうに「ランドスケープの中にいる自分」を眺めるという想像力の使い方がいまは構造的に欠如している。
私が街に出ない理由の一つはそれで疲れちゃうからである。
ラッシュアワーの大阪駅なんかにいるとびりびり気が張って、ぐったり疲れてしまう。
だって、誰かに背中から押されたら、最後である。
電車がホームに入ってくるとき、私は絶対「白線」の側になんかいない。
甲野先生はいつも着物で高下駄で刀を持って街へ出る。
その条件では「匿名的マッス」に紛れ込むことができない。
自分だけが「特異なもの」として(必ずしも友好的ではない視線によって)注視されているという意識をあえて持ち続けることで、先生はおそらく「鳥瞰的視座」を確保している。
能の下川宜長先生も、街へ出るときはいつでも即喧嘩になる覚悟をしているとおっしゃっていた。
まわりは全部「怪しい奴」と思って新幹線に乗っているそうである。いきなりナイフでつっかけられてもかわせるような心づもりでいるという。
はじめにそれを聞いたときは先生の「用心深さ」にげらげら笑っていた。
そんな、先生にいきなり斬りかかる人間なんかいるわけないじゃないですか。
だが、よく考えてみたら能楽師である下川先生はおそらくそのようにして、「360度から見られる」身体感受性を絶えず訓練されていたのである。
それはおそらく日常の生活の中ではすぐに鈍磨してしまう、身体のある感知機能をオンにしておくために必要な稽古なのだ。
そういう身体感受性を磨く訓練法というものを日本社会は、家庭でも学校でももう誰も教えない。
「男は外へ出れば七人の敵がいる」という言葉が昔はあった。
この「敵」というのはおそらく実体的な人間のことではない。
前後左右八方のうち、正面の視野を除く七方についても決してセンサーを働かせることを忘れるな、少なくとも自分を含めた七人くらいまでの範囲の「ランドスケープ」はつねに鳥瞰的視座から見下ろすような身体的想像力の訓練を怠るな、というこれはおそらく教えなのだ。
それはとてもとても大事な身体訓練であり、たぶんそのまま「知性」の稽古でもあると私は思う。
「やーね、『男は』とか『七人の敵』とか、ばっかじゃないの。そーゆーのを父権制イデオロギーってゆーのよ」
そういう世迷い言をいつまでも言ってると、ほんとに身体から腐っていくぞ。
3月3日
東京のe−womanというウェブ・マガジン(ていうのかな)の編集者が二人、合気道のお稽古を取材にくる。
なぜわざわざ港区南青山から西宮まで神戸女学院合気道会の取材に来るのかというと、編集長が『ため倫』をお買い上げ下さって、私のホームページを訪れ、たままたそちらでは「身体」をテーマにした連続インタビューをしていたので、「じゃ、つぎはウチダにしよう」と、私のところまで長旅をしにいらしたのである(ついでに越前蟹も食べるらしい)。
私の前の回は養老孟司先生の由。
甲野善紀先生と養老先生は『古武術の発見』以来三冊の対談本を出す仲良しである。
養老−名越康文対談本というものも甲野先生は企画中とうかがっている。(おお、シンクロニシティ)
インタビュアーは養老先生のところに行ったのと同じ平木さんという女性記者なので、話題はもっぱら彼女の前回のネタ本で、私も著者ご本人から頂いて読んだばかりの甲野−養老共著の『自分の頭と身体で考える』をめぐって展開する。(おお、シンクロ・・・もう、いいか)
この中で両先生がお話ししていることに、年来私の身体技法論はずいぶん深いところで影響を受けているから、話は通じやすい。
ネットワークというのは、不思議にばしばしと繋がってしまうものである。
インタビューには飯田先生とウッキーも同席してもらって、いろいろサポートとしていただく。(どうもありがとうございました)
身体のリズムと宇宙のリズムが同調する感覚、というようなことを言ったらインタビュアーが怪訝な顔をする。
「それ、どういうことですか?(お、怪しい宗教か?)」
すかさず飯田先生が「ほんとです」と合いの手を入れてくれて、コズミック・リズムとのシンクロ感覚を証言してくれたので、疑念がいくぶんか払拭された(ようにみえた)。
しかし、単に「こいつら三人そろって怪しい宗教だ」という確信を深めただけかもしれない。
「合気道とは身体感受性を高め、身体を賢くするエクササイズです。『一を聞いて十を知る賢い身体』をつくること、それが稽古の目的なのであります」と言ったところでテープがカチンと止まり、みごとにフィニッシュが決まった。
家に帰ってごろごろしていたら、その甲野先生からお電話がある。
先日の愉快な一夕のお礼を申し上げる。
あの夜の談論風発ぶりは甲野先生の随感録と名越先生の日記にも記録されている。
甲野先生はあれから岡山に回って、そこで先日も話題に出た希代の達人とまたまた刺激的な稽古をされたらしい。
「世の中は広い。ほんとうにすごいひとがいます。」
と甲野先生も興奮気味。
この出会いを起点にして、いろいろな出来事を企画しておられるようである。
しかし、甲野先生という人もどんどん「渦巻き」を起こす人である。
そう申し上げたら、先生から「何を言ってるんです。ウチダ先生こそ、とんでもない勢いで仕事をしていて、巻き込まれているのは私の方ですよ」と笑い返されてしまった。
ともあれ、甲野先生も私も「事態を沈静化させる」方向にはまったく興味がない人間であることだけは間違いない。
昨日の合気道の稽古ではもちろん先週甲野先生からご教示いただいた、さまざまな術技を練習してみる。どんどんわざが変化してゆく。
甲野先生は「空間的」な比喩の使い方が絶妙である。
「空中にいるあいだに仕事をする」という表現はみごとだ。
多田先生はこのような体の変化−動きと動きのあいだが「一こま」抜ける感じ−を「わざに甘みが出る」と表現される。
それは呼吸法と、未来の=理想的な自分の身体状態をリアルにイメージできる想像的造形力によっておもにコントロールされるのである。
多田先生の説明はどちらかというと「時間的」である。
「思い描いた型のなかに自分を放り込む」という多田先生の説明は、ラカンのいう「前未来形」で「過去を語る」という人間のあり方に通じているし、「鏡像段階論」におけるラカンの比喩ほとんどそのままである。
つまり、合気道のわざを正しく遣うということ自体が、そのまま「人間が生きること」の本質に触れているのである。
ひとつの原理が人間的事象の全行程に貫徹している、ということ。
これは身体技法を学んできた私の確信である。(同じことをレヴィ=ストロースも社会制度について断言している。)
例えば能楽の足運びの序破急の「序」の部分を取り出して仔細に見ると、その中にすでに「序破急」の構造がある。
剣の基本動作である「斬る」という単一動作の中には、右手が「押し斬り」、左手が「引き斬り」という異なる二要素がすでに働いているが、その右手だけを取り出して見ると、その掌の上半分は「押し斬り」、下半分は「引き斬り」をしている。
私にはまだそこまでしか見切れないが、その「先」もきっとあるに違いない。
顕微鏡ができてスペルマが観察されるまで、ひさしく生物学者たちは男性の精液の中には男性と同型の小人(ホムンクルス)がいる、と信じていた。
この荒唐無稽な想像はしかし人間の本質を直観していると私は思う。
合気道の身体技法も同じはずである。
「宇宙の中心を貫くもの」と一体となり、そのコズミック・リズムに同調して脈動するというのは宗教的なヴィジョンではなく、技法の「基本」であり、技法の「術理」なのである。
宇宙を構成するものは、その最小単位から最大単位までが、同一の構造法則で貫かれている。
だから、「正しい技法」と「正しい生き方」が同一の構造をもつのは「あったりまえ」のことなのである。
私たちが「身体」と呼んでいるものや「意識」と呼んでいるものは、その無限のグラデーションから恣意的に切り取られたたかだか一こまの「切片」にすぎない。
私はつねづねそういうふうに考えている。(って、いま思いついたんだけど)
昨日のインタビューのときに、そう答えればよかった。
いつでも「あと知恵」なんだな、これが。
3月2日
玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』(中央公論社)を読む。
ずいぶん前に新聞の書評を見て、すぐに買って置いたのだが、『ミーツ』でフリーター論を書くことになっていたので、「影響されると困るな」と思って読まずにいたのである。
誰でもそうだけれど、ものを書くときには、あらかじめ頭の中に「いいたいこと」があって、それを文字化するわけではない。
何にもないところでいきなり書き始めて、あとは「手で考える」のである。
だから書き終えてから、「ああ、私はこういうことを考えていたのか」ということを事後的に知ることになる。
ほんとうは「そのとき思いついたこと」だから、「前から考えていたこと」ではないのだが、本人は「前から考えていたこと」を思い出したのだと信じている。
だから、「前から思っていたこと」という「袋」には何でも入る。
当然、他人の意見も入ってしまう。
「無意識とは他者の言説である」というラカンの命題は、ひらたく言い換えれば、「自分の意見だと思い込んでいることの過半は他人の意見だ」ということである。
まったくその通りである。私もまえまえからそう思っていた・・・・って、これがその好個の適例。
というわけなので、ほかの人の本を読んで「あ、これおもしろいわ」と思ったことは当然記憶に残るのだが、原稿を書くとき、私はずるこくそれを「自分が前から考えていたこと」として思い出してしまうのである。
玄田さんの本は書評を見ると「なんだかウマが合いそう」だったので、これを読んでしまうと、玄田さんの言説がウチダの無意識を構造化しそうで、それを忘れて自分の意見だと思って原稿を書いて、読んだ人に「なんや、マネッコやんか」と言われるとやなので読まずに放置しておいたのである。
しかし、無事にフリーター論も仕事論も書いたので、その次のネタに、と『仕事のなかの曖昧な不安』を取り出した。
よい本である。
私は雇用状況についての統計資料の読み方なんか知らないし、労働経済学という学問にもとんと不案内であるが、
(1)むかし会社を経営して、若い社員を雇っていたことがある
(2)むかし若い営業マンだったことがある
(3)いまも三社のヴェンチャー企業の株主・役員であり、ときどき雇用形態について意見を聞かれることがある
(4)就職の面接をするおじさんたち(私の旧友たち)から採用の内情を聞くことがある
など、複数の判断材料を持っている。その点では、ほかの大学教師よりはだいぶ若年労働者の雇用事情には通じている。
その上で玄田さんの本を読んで、深い共感を覚えたのである。
この本についての論評ではフリーター論の新しさがとくに強調されていた。
玄田さんはこう書く。
「フリーターが増えるのは、就業意識が薄いからと強調するけれど、それ以前に社会構造的な問題があります。つまり、中高年の雇用を維持する代償として若年の労働機会が減っているのは間違いない。まずこの問題を解決するのが先決。若年層だけをいじろうとしても効果的とはいえない。」
実際に聞いてびっくりなのだが、失業率という数値が内容を示さないままに一人歩きしている、ということである。
メディアの論調では、まるでそこらじゅうでどんどん中高年がリストラされているかのようであるが、年齢別に見ると、失業率には大きな格差がある。
2000年度で、大卒45−54歳の失業者数は(実数だよ)5万人である。310万人の完全失業者数の2%である。東京ドームに入りきるのである。
一方、中卒または高卒、25歳未満の失業者数は38万人。
日本の失業者の四人に三人は中卒、高卒者であり、そのほとんどは若年層と老人に集中している。
社会の二極化がここでもはっきり進行している。
玄田さんの力点はこの問題にあるのだが、ウチダはもう一つの統計数値のほうに驚いた。
それは、「非労働力人口」。
これは「家事」「通学」「その他」に分類される仕事をしていない人たちの数である。
これが2000年で4057万人。
「家事」の主体は主婦、「通学」は生徒学生であるが、分からないのが「その他」。
これが1466万人いる。(90年代に326万人増えた)
「その他」のひとたちがまじめに仕事を探していれば、「失業者」である。
するといきなり日本の失業者数は1800万人になり、失業率は30%を越してしまう。
失業率30%といったらもう「革命前夜」である。そこらじゅうで放火略奪が起きてよいような社会情勢である。
さいわい、(ほんとうに、さいわいなことに)この「その他」のみなさんの大多数は「なんとなくいい仕事があったら、してみようかな・・・」という程度の、「本人ですら自分がいま仕事を探しているのかどうか、不明確なケースが多い」ので、とりあえず「非労働人口」に算入され、失業率算定の分母からは控除されているのである。
つまり、失業率というあらゆる施策の基本となる統計数値の根拠になっているのは、その人が「仕事を本気で探している」と「仕事を何となく探している」かの副詞の違い、気分の違いだったのである。
「なんでもやります。とにかく仕事したいんです」と言えば失業者。
「仕事?やっぱ、クリエイティヴでやりがいのある仕事がいっすよね、やっぱオレ的には?オレらしさ?っていうの、そういうこだわりっていうの?」と言えば非労働人口。
これにはびっくり。
気分で決まってたんだ。失業率。やっぱし。
これで私が『ミーツ』の今月号に書いたデタラメ・フリーター論が労働経済学統計データによって論証されてしまった。
どういう話かは、本屋さんで買って読んでね。
3月1日
朝からごりごりとレヴィナスの『困難な自由』を訳す。
400頁もあるのに、まだ120頁しか訳していない。
しかし、これを「まだ120頁しか来てない」と考えるか、「あと280頁しか残ってない」と考えるかで、仕事の意味はおおきく変わる。
私は「まだ280頁も訳すところが残っている。あと280頁分の老師の叡智が私を待っている」というふうに考えるようにしている。
いまは第二章「注解」を訳しているところであるが、一行一行に「びっしり」老師の叡智が詰まっているので、訳しながら興奮して、鼻息が荒くなる。
ほんとうに老師は凄い。
1950年代に書かれたものなのだが、その一行とて、一語とて、そのあと40年にわたって展開するすべての考想に連接しないものがない。
この本を訳すことのできる幸福をしみじみ感じる。
『困難な自由』はよい本だよ。
ずいぶん前から絶版になっていて、近年の読者は見たこともないだろうけれど、ほんとうによい本である。
年末には国文社から出るから買って下さいね。
ウチダの本は買わなくてもいいから、これだけは買って!
どんどん翻訳がすすむ。
30分で1頁。一時間2頁。
ということはあと150時間で全部終わっちゃうんだ・・・しくしく。
うれし泣きしているところに晶文社の安藤聡さんが登場。
『〈おじさん〉的思考』(題名決定)の二校ゲラの受け渡しと、「ども、はじめました」のご挨拶と、次の仕事の打ち合わせのために、御影駅前「高杉」でお茶をする。
安藤さんとはメールと電話だけで半年やりとりしていて、今日がはじめてのご対面である。
いつも電話でげらげら笑いながら打ち合わせをしているし、ウェブサイトから安藤さんが選び出したトピックの「趣味」で、だいたいこういう感じの人かなということは分かっていたけれど、印象通りのほんとうにフレンドリーで愉快な方だった。
編集者と話すときの楽しみは、担当している有名人のみなさんの話を聞けることである。
安藤さんは田口ランディさんのエッセイや山形浩生さんの本の編集をした方。私は二人ともファンなので、いろいろと話をきく。
ランディさんは甲野善紀先生、名越康文先生とも仲良しなので、いろいろと話が交錯する。そのうちランディさんともご縁ができるかも知れない。
山形さんの裁判(山形さん負けちゃったけど、私がホームページに書いた山形擁護のテクストが一部、裁判の証拠資料に使われたというご縁がある)の話で、ここには採録できないようなことをいろいろしゃべる。
安藤さんは聞き上手なので、例によって、「前から思ってたんですけど」という(うその)前振りで、その場でおもいついたことを熱く語る。
しゃべりながら、甲野先生と養老孟司先生の『自分の頭と身体で考える』の中で、甲野先生が道場でわざの説明をしながら、実はその場で思いついたことを話しているので、自分の説明をいちばん熱心に聞いているのは自分自身だ話しておられたことを思い出す。
私もそうだ。(飯田先生もそうらしい。授業でしゃべっているさいちゅうに、「ああ、いましゃべっていることで論文一本書ける」と思って、はやく研究室にもどって忘れないうちに書きとめなきゃ、と焦るそうである。)
晶文社では、引き続き私の「おじさんの説教エッセイ」集を出して下さるそうである。
ありがたいことである。