明日は明日の風とともに去りぬ

Tomorrow never knows what wind will take me away: from 1 Jan 2002



5月31日

『女性セブン』という雑誌からインタビューを受ける。

なんで?ウチダが女性週刊誌から?と驚かれる方が多いであろう。

私だって驚いた。

聞けば「精神年齢と実年齢」についての小特集を組むので「実年齢に八分の五を乗すると精神年齢が得られる」という「八分の五」理論の提唱者であるウチダ先生から専門的知見をおうかがいしたいというのである。

えーと、すみません。

あれ(e-メール時評に書いたコラム)は、何の学問的裏付けもない、ただの「思いつき」です。まさか本気で科学的な理論だと取る人がいるとは思いませんでした。

「では、なぜ八分の五なんですか?」

ほら「八分の五チップ」ってあるじゃないですか。

「ハチブンノゴ」って語感がいいでしょ?だからなの。

「そ、そんなー(泣)」

ははは、世の中そんなものですよ。では、さようなら。

と立ち去ろうと思ったが、先方も必死で追いすがってくる。

こちらも若い記者の熱情にほだされて、あまり意地悪ばかりでは申し訳ないので、「精神年齢ヴァーチャル説」という(その3秒前に考えついた)学説を開陳する。(それを延々1時間にわたって展開したんだから、私もほんとうに生来の詐欺師である。)

いわく精神年齢などというのは完全にヴァーチャルなものであって、誰でも自分で勝手に決めてよいのである。

徒然草は吉田兼好20代から晩年までのエッセイの断片だが、どれが20代に書いたものだか分からないでしょ?

それは彼が「ヴァーチャル爺い」という想像的な視座を選び取って、そこから書いているからである。

精神だけ「老成」させたこどもが世の中を眺めて書いていると、あら不思議、ほんとうの「じじい」が書いていることとほとんど寸分違わないのである。

夏目漱石だって、けっこうな若僧のときに「則天去私」なんてうそぶいているのである。

子どものときに方丈記を英訳したりしてるんだから、はじめから確信犯的な「ヴァーチャル爺い子ども」だったのである。

昔の人はそうやって、実年齢より多めに年齢を偽り、青年なのにちゃっかり「翁」なんて名乗って、俗世を離れた花鳥風月の詩境を愉しんだのである。

その伝統は13世紀の吉田兼好、鴨長明から始まり、成島柳北、正岡子規、夏目漱石、森鴎外、永井荷風・・・と連綿と受け継がれてきた。

誰でも精神年齢を好きに選ぶことができる。

どんな「老人」を想像的に造型するかを青年たちは知的遊戯として愉しんだのである。

そして、現に明治、大正、昭和の途中までは、「あんなふうになりたい老人」のロールモデルが若者たちの周囲には、豊かに存在した。

読むと分かるが、『我輩は猫である』の苦沙彌先生と弟子の寒月くんのあいだにはほとんど年齢差がない。

苦沙彌先生は、実は唐沢寿明くんくらいの年齢で、寒月くんは浅野忠信くんくらいの年齢なのである。

それにもかかわらず彼らのあいだで師弟関係が健全に機能しているのは、苦沙彌先生がすすんで「ヴァーチャル爺い」を演じており、寒月くんや東風くんも、すましてその「幻想の老人」と対話しているからである。

むかしの人は、そうやって擬制的に「老人」になったり、「ヴァーチャル爺い」の説教を聞いたりする「遊び」が大好きだった。

それは「擬似的老人」は「世俗の栄達競争レースから降りた」ことの代償に、どれほど冷笑的になっても、批評的になっても構わないという「治外法権」を許されたからである。

もっとも制約のない批評性を獲得するために、くそ生意気な青年たちは「爺いぶり」を競ったのである。

残念ながら、その知的習慣は失われた。

どういう理由でかは分からないが、とにかく「爺いぶりを競って遊ぶ」ということは知的なサークルでは流行らなくなくなった。

かわりにみんな「若者ぶる」ようになった。

人々は実年齢よりも精神年齢を低くセットすることに躍起となっている。

「爺い」なのに物欲色欲旺盛で、てらてら脂ぎり、「婆あ」なのに、厚化粧ぬりたくって、唇に紅をさし、「ひひひ」などという嬌声を上げる人間たちがそこらじゅうにわさわさしている。

最新流行にいそいそとキャッチアップし、どこへでものさばり出て、社会的リソースを独り占めしようとする、こうるさい「ヴァーチャル青年」たちで世の中は息が詰まりそうだ。

だからそれに押し出された18歳の大学生たちが、ちょっと前の小学生くらいの精神年齢になってしまったことは怪しむに足りない。

最近の高校生の中にはズボンを腰骨の下まで下げて、裾をずるずるひきずりながら歩くものがしばしば見られるが、あれはご承知のように、3歳児くらいの男児のズボンの履き方である。

というわけで、「八分の五」時代とは、別に社会の責任でもなんでもなく、人々が自分で選んだ「低い年齢」に合わせて生きているということにすぎないのである。

全部自己責任である。

年齢というのは、自分で決めるものである。

だから、私は「私は子どもです」と自己申告する人は頭のはげた親爺でも子ども扱いするし、「私はおとなです」と名乗って大人らしくふるまう人は、たとえ幼稚園のスモックを着ていても、大人として遇することにしている。


5月30日

『「おじさん」的思考』の売れ行きが順調であるらしい。

初版は店頭から消えてしまい、兄ちゃんがアマゾンで頼んだら「品切れ」という返事が来たそうである。

二刷で3000部刷るのだけれど、これは書店からのバックオーダーでそのままなくなってしまうので、ただちに三刷りに入るそうである。

景気のよい話である。

10.000部というのはウチダにとって「未知の領域」テラ・インコグニタである。

ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は人文書としては例外的に9000部売れたのだが、その当時、東京の市内では、街を歩いている人たちがその本を小脇にかかえている光景が随所で見受けられたそうである。(ほんとかしら)

ともかく、それがほんとうだとすると、私も生まれてはじめて「自分の本を読んでいる見知らぬ人」というものに偶然遭遇する、という機会に恵まれるやもしれぬ。

それってどういう気分のものだろう。

村上春樹によると、書店で自分の本を買っている人を見ると、心臓がばくばくいうらしい。

思わず手をとって「ありがとう!」と言いたくなるかもしれない。

一度、暇なときにジュンク堂か紀伊国屋に行って、自分の本をどんな人が手に取るのか観察してみたい気がする。

だが、それは、自分の名前で検索をかけて、誰がどんなことを言っているのか知りたい、というのと同じで、ある意味では危険なことだ。

私は子どものころから、人を怒らせてばかりいた。

長じてもその傾向は少しも改善されていない。

だから「2ちゃんねる」というようなコワイところには絶対に足を踏み入れない。

平川くんも甲野先生も小林先生も「2ちゃんねる」で自分についてどんなことが書かれているか、ときどきチェックしているそうである。

すごい精神力だと思う。私にはとてもできない。

私は自分が「嘘つき」で「ワルモノ」である、ということは言われなくても知っているので、(ほんとうは「言われて知った」のだが)いまさら、そのことを誰かに指摘されて「目が醒めて、正直者の善人になる」ということ起こらない。(なれるもののなら、もうなっているであろう)

経験的に言えることは、自分の悪口を聞いて気分がよくなる可能性は限りなくゼロに近い、ということである。

別に「2ちゃんねる」にまで行かなくても、私の周囲には私にびしばし批判をしてくれる人々がいる。

彼らはその固有名の責任において、私からの執拗な反撃を受けるというリスクを取った上で、私を批判している。

私はそのような「身銭を切っての」批判には注意深く耳を傾けるようにしている。

だから、本人は何のリスクも冒さないところから発せられる匿名での批判にはいっさい耳を貸さない。

平川くんによれば、「リスクを取る人間だけが、レスペクトを受け取る」。

リスクを取らない人間は、誰からもレスペクトされない。

私はこの考え方を正しいと思う。

もちろん、匿名であっても、批判が内容的に適切であり、有意義である可能性はいつだってある。

けれど、その匿名の批判者を私は「人格」としては扱わない、ということである。

 

『週刊ポスト』の読書欄で、鷲田清一さんが『「おじさん」的思考』を書評してくれている。

好意的な書評だったので、うれしくなる。

すると偶然にも共同通信から鷲田さんの新著の書評を頼まれた。

こうなると、もう「倍返し」でゆくしかない。(鷲田先生。気合い入れてほめさせていただきます。オッス)

そうでなくても、私は書評ではつねに「ほめる」ことに決めている。

本の「欠点」を探すのは簡単だ。(人名表記が原音と違う、とかね)

でも、本の「いちばんすばらしいところ」を探すのはけっこうむずかしい。

それはしばしば本に「書かれたこと」ではなく、むしろその本を「書かしめた」著者の「言い足りなさ」としてしか語れないからだ。

「書きたかったんだけど、うまくことばにならなかったこと」を聴き取ろうとして本を読む、という読み方が私は好きだ。

それがいちばん「生産的な」本の読み方だと思うからだ。

それはこのあいだ書いた「武道の術技の継承」の心構えにも通じると私は思う。

とかいいながら、『ザ・フェミニズム』の書評では、それほどフレンドリーじゃなかった。

ウチダもまだまだ修業が足りない。

上野千鶴子を絶賛できるようになったら、そのときは「ウチダもけっこう大人になったね」と言って頂けるであろう。(その日めざして、がんばろう)


5月29日

ひさしぶりの、ほんとうにひさしぶりのオフである。

たまった雑務をこなすべく、バイクにうちのって、石井内科→薬局→芦屋駅→竹園ホテル→芦屋市役所→芦屋青少年センター→灘区役所を3時間かけて回る。

ふう、つかれた。

でも、こういう短距離のところを次々移動するときは、バイクはほんとうに便利である。

いま乗っているのは、ヤマハの黒のTW200。(「ティーダブ」というやつね)

25歳のとき乗り始めたので、合気道と同じ期間バイクに乗っていることになる。

私の年齢で、27年間「ずっとバイクに乗っている」男というのは、さすがにレアである。

70年代末から80年代にかけて、バイクが大流行して、30代のサラリーマンたちがバイクで都心のオフィスに出勤する姿が「トレンディ」とされたことがあった。その流行もやがて廃れ、おじさんたちは40の声を聞く前にバイクを棄てた。

しかし、ウチダは「一度始めたことはなかなかやめない」しつこい性格なので、そのあとも5年ごとに新車に買い換え続けてきたのである。

ちなみに25歳以降のウチダの車歴(というコトバがあるのだよ)はRD50(アーバンの社用車)、DT125(平川くんからの借り物)、GX250(最初のマイバイク)、GL400(チョッパー)、XT250、GB250クラブマン、そして、現在のTW200である。

背の高いオフロードバイク(これは「足の長い人間しか乗れない」という点が排他的でウチダ好み)とどこどこ街を走るバイクが好きで、それをだいたい交互に乗っているのが分かる。

「カーン」という金属音を立ててかっとばすレーサーレプリカ系のバイクには子どものころからぜんぜん興味がない。

ウチダのバイク技術は、スキーの場合と同じく、「技術の限界を試みない」「向上心を持たない」ということを原則としている。

私も若い頃は、技術的向上心をもったこともあったし、運を試そうと思ったこともあった。激しい転倒も何度も経験した。さいわいたいした怪我もなくバイクライフを過ごしてきたが、これはどう考えても「運」のおかげである。

あのとき、あと50センチ横にずれていたら・・・ということが何度かある。

第三京浜で転倒したときは、これは死んだかと思ったが、ヘルメットの10センチ手前でトラックが停車してくれた。

そのときに私は深く悟ったのである。

「神を試みてはならない」

以後、私は制限速度で街を走る温厚なライダーとなった。

原チャリにも、ときには自転車にも追い抜かされてしまうが、そんなのどうでもよろしいのである。

風を感じ、四季の移ろいを感じ、横断歩道を小走りに駆け抜ける幼稚園児に目を細め、背骨に響く4ストエンジンの振動音を味わっているだけで、ウチダは幸福である。

でも、冬は寒いし、夏は暑いので、バイクには乗らない。

「サマー・ライダー」というペジョラティフな呼称があるが、ウチダはそれよりさらに期間限定的な「スプリング&オータム・ライダー」である。

ウチダが愛してやまないバイクにも、だがひとつだけ致命的な欠点がある。

信号待ちのあいだにシグマリオンで原稿が書けないことである。

 

朝日新聞の「e−メール時評」でトラブルが続く。

第四回目の原稿を送ったら、修正を求めてきたのである。

「ひねりが足りない、普遍化されていない」というご指摘である。

うーむ。

要するに「出来が悪い」ということである。

「出来が悪いのであれば、ボツにして下さい」ということを付記しておいたのであるが、「ボツにする」のではなく、「書き換えてくれ」というのである。

これは困る。

わずか600字の原稿である。

「ひとふでがき」のようなもので、くるくるっと書いて、一丁上がりである。

「この線とこの線のつながり具合が悪いので、ここをはしょって、ここをふくらませてくれませて下さい」というようなことを言われても、困る。

それくらいなら、もう一度はじめから別の「ひとふでがき」をくるくるっと書く方がずっと早いし、らくちんである。

私は書きたいことを書く。メディアは載せたいものを載せる。

「書きたいこと」と「載せたいこと」が一致すれば「めでたしめでたし」であるし、それが一致しなければ、「セ・ドマージュ」である。

四回書いた原稿のうち三回分について「修正を要する」とメディア側が判断して、書き直しを要求してきたということは、私の「書きたいこと」と朝日新聞の「載せたいこと」のあいだにあまり親和性がない、と考えるのが適切である。

四月から連載が始まったばかりで、気ぜわしいことではあるが、「成田離婚」ということばもあるし、まあ傷が深くならないうちに離縁した方がおたがいのためであろう、ということで、「ご縁がなかったようです、では、さようなら」というメールを送った。

するとすぐに翻意を促す電話がかかってきた。

しばらく話しあってみたが、率直に言わないと話が通じないことが分かったので、率直に申し上げた。

「いま掲載されている『e−メール時評』はどなたの書くものも、申し訳ないけれど、毒にも薬にもならない『誰でも言いそうなこと、誰でも納得しそうなこと』しか書かれてないでしょう?

600字という制約があるから、それは仕方がないと思いますけど。

でも、私はそういうのは書きたくないんです。

私は『ふつうの人があまり言わない、へんちきなことを言う』ということを売り物にして小商いをしてるんですから、『ふつうのこと』を書くと、商売上がったりなんです。

好きに書かせて下さるか、何も書かせないか、どちらかにして頂けませんか?」

600字単発のエッセイで、大半の読者が理解できて、腑に落ちることを書こうとするならば、「すでに読者が知っていること、すでに同意していること」を、言い方を変えて繰り返すしかない。

それは私にはすごく退屈な仕事である。

だから、依頼があった最初に、「『変なこと』を書きますが、いいですか?」ということを念押ししたのであるが、確答が得られないままにスタートしてしまったのがつまづきのもとであった。

だが、担当記者のO西さんも突然の降板宣言に困じ果てておられるようなので、話しているうちに申し訳なくなり、とりあえず、第四回の原稿の処遇は棚上げしてもらって、第五回の原稿を「ひとふでがき」して送ることにした。

それにも修正意見がつくようであれば、これはもう「ご縁がなかった」という他はないだろう。

それにしても私の書くものなんか、修正したって、それによってたいして「改善」されるような代物じゃないんだけどなあ。

ちなみに、第四回の原稿とは次のようなものであった。(どこを修正しても、「朝日新聞的基準」からして適切なものになる可能性のない原稿であり、「そのまま載せるかボツにするか」二つに一つであるように私には思われるのだが・・・)

『読むものがない』

定期刊行物を読む習慣を失って久しい。

中学生のころは『週刊朝日』と『文藝春秋』を読んでいた。高校生のときは『世界』と『朝日ジャーナル』を、大学生のときは『漫画アクション』と『少年マガジン』を、大学院生のころは『現代思想』と『メンズクラブ』を読んでいた。

そして、四十過ぎて読むものがなくなった。

私を読者に想定して発行されている雑誌が日本に一つもないからである。

別に私が精神的に成長したせいで、日本文化の水準を乗り越えてしまったわけではない。

『メンズクラブ』を買っている頃は「いずれ金が出来たら、こんな服を買おう」と思って胸をときめかせていた。しかし、服を買う金が出来た時には、もう私の年の男が着られる服は『メンクラ』には載っていなかった。

『現代思想』に書いてあることは「いずれ大人になったら分かるようになるだろう」と思っていた。しかし、大人になってもやっぱり分からなかった。

『サライ』とか『太陽』とか『BRUTUS』とかが私の年齢に相応の媒体なのだろうが、どこのシャトーのワインの何年ものが・・・というような話は私には理解の外であるし、ジャガーもポルシェも買う金がない。温泉グルメ旅行に伴う伴侶もいない。

しかたがないので、『朝日新聞』を読んでいる。

別に私を読者に想定している刊行物ではないが、誰宛のものでもないみたいなので、疎外感だけは感じずにすむ。

(これがオリジナル完全版。最後の二行だけ送稿するときに自主規制して削除した)


5月26日

第40回全日本合気道演武大会。

武道館に会場を移してから25回目。

私は1977年入門二年目で初出場して、以後皆勤であるので、武道館での演武大会のすべてに出場していることになる。

一度始めたことはなかなかやめないウチダのしつこい性格はこの一事からも窺えるのである。

多田宏先生には先週に続いてのご拝顔。同門の諸兄諸姉と久闊を叙す。(久闊というほど間があいてないけど)

ブザンソン合気道講習会のときにご縁ができたコッシーくんとユリさんが来ている。

ユリさんはすでに自由が丘道場に入門を果たして、めでたく私の妹弟子となった。

コッシーは「ユリの後輩になるのはやだ」とわがままをいって、まだ入門していない。早急に入門手続きをとるようにね。

神戸女学院合気道会はぞろぞろと20名が出場。ひさしぶりのゴンちゃんタカスさんも登場して俄然にぎやかになる。

しかし、今回は「現地集合現地解散自己決定自己責任」路線にいささかほころびが目立ったことがはなはだ気にかかる。

新幹線に乗り遅れるもの、演武者集合場所に演武3分前に走り込むもの、集合時刻に到着しないもの、師範の見送りに遅れるものなど、「武道修業者にあるまじき」緊張感の欠如が目に付いた。

「自己決定自己責任」というのは何をしてもよい、ウチダは知らぬということではない。

もう大人なんだからちゃんとやれるよね、という「信頼」のメッセージなのである。

ちゃんとやれないなら、これからは「こども」扱いしちゃうぞ。

 

七徳堂の演武の観客の中に、最前列で足を前に投げ出して、後ろに手をついて多田先生の演武をみている「眼に痛い」若い女性が三人並んでいた。

膝をくずのはよい。「三角座り」も認めよう。だが、ひとに自分の足の裏を見せて話を聞くという法があるものか。

多田先生のお話中であったので、こめかみをひくつかせながら怒りに耐えていたが、演武終了後、我慢しきれず、つかつかと歩み寄って、「君たち、人の話を聞くときに、足の裏を見せるというような礼儀は我が国にはないぞ。少しは恥というものを知りたまえ」と説教をかます。

三人とも何で怒られたのか分からずに、丸い目をしてきょとんとしていた。

エレガンスとかディセンシーというのは、もうこの種の皆さんにあっては死語なのであろうか。(泣)

それに比べれば、うちの合気道部員たちは、ちょっと行動がてれんこしているだけで、礼儀は正しいし、立ち居振る舞いはしとやかだし、性格は素直だし、人間の出来がずいぶん上等である。文句を言ってはバチがあたるな。

さきほどの説教は撤回だ。

 

話を戻すと、武道館の演武会では多田先生が神懸かり的な動きを見せて、万余の観衆がしんと静まり返る。

演武会終了後、例によって九段会館屋上ビアガーデンにて多田塾同門100名でビアパーティ。

ここでユリさんとゴンちゃんがあっというまに意気投合。

この二人の乗りの合い方に一同びっくり。

終宴後、内輪で二次会に・・・と思っていたら、気錬会の工藤俊亮くんから、「気錬会の者がぜひウチダ先生とごいっしょに歓談したいと言っておりますが」とお誘いを受ける。もちろん否も応もない。

すると早稲田の宮内くんが早稲田の諸君をつれてそこに合流。あっというまに32名の大集団となる。入るところがあるかしらと思って靖国通りをぷらぷら歩き、いかにも暇そうな焼き肉屋があったので、どどどと乱入。思いもかけない来客に、店にあるワイン、日本酒、焼酎が底をつき、とうとう他の客のキープボトルまで飲んでしまった。

私は気錬会の工藤くん、木野くん、井上くん、川阪くん、山本くん、早稲田の西尾くん、入江くんらに囲まれて、ただ一人の年長者であり、すっかり「先輩気取り」となり、たちまち説教を始める。(でも、私をつれてきちゃったのは君たちなんだからね、説教されるのは覚悟の上でしょ)

 

諸君!諸君らは、実によく稽古されている。術技もおみごとである。多田塾の未来はひとえに諸君の双肩にかかっている。

しかし、足腰立たなくなった老書生の妄言に寸時耳を傾けるもあながち徒爾ではあるまい。

諸君にあえて問いたい。

師に就いて学ぶとはいかなる営みであるか。

真の弟子とは、師匠が『した』ことをではなく、『しようとしたこと』をしようとするものである。師匠を見るのではなく、師匠が見ているものを見ようとするものである。

このことは賢明なる諸兄にはすでにご案内の通りであろう。

だが「師が見ようとしたものを見る」とはいかなることであろう。

かつて仏国の巴里にバド・パウエルと称する落魄せる老ピアニストがあった。

パウエル翁は楽想は天才的に豊かではあったが、惜しいかな長年の薬漬けで老境に至って指が動かない。

ために晩年の録音はかなり無惨なものであった。

しかし、バド・パウエルの音楽を真に愛する人が聴くと、この無惨なる演奏を通じてパウエル翁が『弾こうと思ったが弾けなかったフレーズ、頭に浮かんだのだが、指がそれに反応しなかったフレーズ』が聴こえる、ということが起こるのである。

佳話である。

しかるに、これと同じことが武道の道統の継承においてもあるのではないかとウチダは愚考するのである。

残念なことであるが、私たちが多田先生に術技において届くということはありえない。

では、多田先生の超絶技巧と、その哲学的洞見は受け継ぐものを見出さぬまま、いつか先生とともに消え去ってしまうのであろうか。

私はそうは思わない。

そうであっては、弟子である甲斐があるまい。

私たちがおのれの鈍根を顧みず、なお多田先生の道統を嗣ぐものたらんとする無謀な野心を持つことが許されるのは、私たちがいま術技として示し得るものではなく、その術技を通して「実現しようとしたもの」、いわば私たちの頭の中に鳴り響いている幻想の音楽を聴き取ることのできる弟子に出会う幸運なる可能性はつねに存在するからである。

おそらく多田先生の体の中には多田先生が実現しようとはげしく望まれた大先生の中の『幻想の音楽』が鳴り響いている。そして、その大先生の中の『音楽』は、大先生がさらにその師たちのうちにその響きを聞き取ったものなのである。

道統の継承とは、この「かたちなきもの」を聞き取ろうとする欲望のことである。

多田先生の術技と思想をそのままのかたちで継承することは私たちにとって絶望的に困難である。

だが、多田先生の術技と識見を「欲望する」私たちの欲望はただしく継承することができる。

それが果たされる限り、多田先生から数代のちの弟子のうちに、私たちがもうその顔をみることもできない22世紀の多田塾門人の一人のうちに、多田先生の術技と識見を「受け継ぐ」ものが出現する可能性は担保されるのである。

弟子とは師の欲望を架橋するものの名なのである。

長説教を終えてかたわらを振り返ると、工藤君の「涙眼」が目に入った。

そーかそーか、分かってくれたか。

多田塾の未来は君たちに託そう。(単に私の説教が長すぎて、あくびをしたあと目がうるんでいただけかもしれないけれど)

 

長説教で体力を使い果たし、徒歩3分の学士会館にたどりつき、お風呂にはいると、そのままばったり。お風呂上がりにいっしょにビールをのみましょうと約束していたので、飯田先生とウッキーが私の部屋のドアをがんがんノックしたが、私はぴくりともせずに寝入っていた。(そうである)

午前7時半まで9時間近く爆睡。

というわけで気錬会の五月祭演武会で始めて「二日酔い」でない状態で演武をすることができたのである。

演武会後、北澤さんとイタリアからお越しのたいへん感じのよいお弟子様(名前が読めない)とごいっしょに、多田先生に「上天ざる」をおごっていただく。

多田先生には、20年ほど昔、市島先生とのお話合いのときに自由が丘道場の会計担当者としてお供して、やはり蕎麦やで差し向かいでざるそばをごちそうになったことがあった。

そのときまでは先生と二人でお話ししたことなどほとんどなかったので、かちかちに緊張して、おそばの味がぜんぜんしなかった。

そのときに比べると、ウチダもだいぶ劫を経たので、つるつる美味しく「上天ざる」(しつこく強調)を頂くことが出来た。つるつる。


5月24日

深夜、松聲館の甲野先生からお電話。

約束していた講演会、講習会の日程を決める。

6月28日(金)が講演会、29日(土)が講習会、ということになった。詳細はまた追ってご案内いたします。

『随感録』を読むと分かるけれど、最近甲野先生は「フェルマーの最終定理」と手裏剣にはまっている。(不思議な組み合わせである)

というわけで、電話での話題にもっぱら数学と手裏剣の話。電話をしながらそのまま右手でパソコンを操作して、インターネットで『フェルマーの最終定理』を購入。

次回の講習会では松聲館の杖(「影踏み」というかっこいい名前がついている)と手裏剣の特訓をお願いする。

合気道会はいま手裏剣ブームで、木曜の午後になると、用具室が「手裏剣部屋」と化して、剣が畳に刺さる「ドス!」という気持ちのよい音を求めて、人々が順番待ちの列を作っているのである。

話が「スティーヴンソンの蒸気機関車ができる前に考案されていた鉄の馬」のことになる。

去年の秋の朝日カルチャーでの講演で、そのお話をうかがって、「おお、これは使える・・・」ということでさっそく『寝ながら学べる構造主義』に使わせて頂いたのであるが、出典が分からないので、甲野先生にお会いしたら、おたずねしようと思っていたのである。

「先生、あれは何の本にある話ですか?」

「NHKの番組で見たのです」

そ、そうでしたか。

大瀧詠一師匠といい甲野善紀先生といい、「物知りおじさんはNHK好き」の法則というものが存在するようである。


5月23日

松本“旅人”順一大兄が遊びに来る。

松本兄は駒場時代の級友である。

ながく駿台予備校の古文の先生をしていたのであるが、50歳を機に、「リタイア」宣言をして、爾来、世界漫遊読書三昧悠々自適の「余生」をエンジョイしている、「ヴァーチャル爺い」道における、私の先達である。

「爺い」二人で、神戸の夜景を見下ろして、現代日本社会を罵倒しつつ、ワインを痛飲。

面白かったのは、45LIII9Dの我がクラスではその後、学者になった人間が(東大教授になった「ヨシダのオヤジ」、美術史の高橋くん、国文学の関谷さん、社会学の真鳥さんなど)たぶん7、8人いるはずなのであるが(50人のクラスでこのパーセンテージはけっこう高い)、いずれも「意外」な人ばかりだった、という話。

いまからタイムマシンで1970年のあのクラスに行って、「さあ、みなさん、みなさんの中で、このあと大学教授になる人間がいます。誰と誰でしょう?」というクイズをしたら、たぶんほとんど当たらないだろう。(少なくとも「ウチダが大学教師になる」という可能性に投票をする人間は、本人を含めて、一人もいないはずである。)

二十歳のころの未来像というのはまるであてにならないということがよく分かる。

松本兄も私も、実は二十歳のころは、「作家」になる予定であった。(というか、当時、東大の文IIIに来る学生の80%くらいは、二十代に芥川賞を取る予定だったのである。バカだなー)

私は結局、一編の小説も書かないまま、「武道系レヴィナシアン」という、なんだか訳の分からない学者になってしまった。

同じく作家になるはずの松本兄はキングレコードに入って、布施明の『シクラメンのかほり』をプロモートしたあとに、「予備校出世すごろく」を順調に駆け上がって斯界の有名人になった。(『「おじさん」的思考』が二刷で7000部、と私が喜んでいたら、松本兄に彼の『試験に出る漢字帳』(みたいな題名の本)は11万部売れたよ、とあっさり切り返されてしまった。)

とまれ、人生というのは「一寸先は闇」だわな、とおじさん二人はしみじみと神戸の夜景に見入ったのでありました。

 

紀伊国屋BookWeb の「デイリーベスト」で、『「おじさん」的思考』が20、21日に第二位、22日に第三位にチャートイン。(23日は第九位・・・あらあら)

全ジャンルいっしょのチャートでベスト10入りというのは、この手の本としてはたいした善戦である。(晶文社の安藤さんは、強気で「二刷は3000部、行きましょう!めざせ10000部」と意気軒昂である)

ちなみに本日のベスト10は。

1 辻希美・加護亜衣写真集[ワニブックス]

2. 愛国対論[PHP研究所]

3. 本当の学力をつける本[文藝春秋]

4. 死なないでいる理由[小学館]

5. 本能寺の変[講談社]

6. 男の子って、どうしてこうなの?[草思社]

7. 三色ボ−ルペンで読む日本語[角川書店]

8. トヨタはなぜ強いのか[日本経済新聞社]

9. 「おじさん」的思考[晶文社]

10. 龍馬4(薩長篇)[角川書店]

というラインナップでありました。

月、火と売れたのは、もちろん朝日読売の「同時多発」書評のおかげであるが、(池尾さん、鵜飼さん、どうもありがとうございます)それにしても日本の「読書人」という方々がどういう基準で本を買っているのか、ウチダにはぜんぜん分かりせまん。


5月22日

瀋陽の総領事館への北朝鮮難民の駆け込み事件は、とりあえず第三国への出国という「人道的配慮」で手打ちになりそうな気配である。

それについて思うところを書く。

先月、中国から来ていた専任研究員R先生の歓送の宴で、前から気になっていた「中国の人は北朝鮮という国をどう思っているのか」ということを訊ねてみた。

R先生の答えは以下のとおり。

中国人のほとんどは将来的にアジアでのパートナーになるのは日本しかない、と考えています。

政治経済の先進度、社会の安定性、文化の成熟、どれをとってもアジアでは日本が群を抜いている。

朝鮮の人はちょっと困りますね。

あの人たちは怒るにしろ悲しむにしろ、感情的になりすぎる。

つきあい方がむずかしいです。

北朝鮮は、はっきり言って古めかしい独裁国家です。

中国の人間は、北朝鮮の政治体制を支持しているわけではありません。

それなのにどうして中国は北朝鮮との外交関係を重視するのか。

それは、中国と国境を接している国はほとんどぜんぶ潜在的には敵国である中で、北朝鮮だけがまぎれもなく友邦だからです。

ロシアも台湾もベトナムも日本も、中国と戦いました。いまは平和的関係ですが、永続する保証はありません。

将来を見越せば、中国人は日本との友好関係を育てたい。しかし、いま現在は安全保障上、北朝鮮との同盟関係を優先せざるをえないのです。

ですから、日本が中国のパートナーとして信頼性を高めるにつれて、北朝鮮と中国の同盟関係はその重要性を失って行くでしょう。そして、私たち中国人は総体としてそのような方向を望んでいるのです。

という、実に分かりやすい解説をしていただいた。

そのあとにこの事件があった。

私はすぐに中国の人たちの「ハムレット的ジレンマ」を考えた。

北朝鮮との同盟関係を考慮すれば、北朝鮮の破滅的な政治状況の「生き証人」である政治難民をすいすいと総領事館に逃げ込ませるわけにはゆかない。

日本との友好関係を考慮すれば、総領事館に許可なく踏み込むわけにはゆかない。

中国官憲の逡巡は深いものであったに違いない。それがTVで放映された「ゲート」近辺での「おれたち、敷地内に入ってませんからね、あ、ちょっとはいっちゃったけど、これは『勢い』ですから、見逃してね」という感じの警官の「自制」ぶりにうかがえる。

そのあと、どういう事情で館内にまで武装警官が入り込んで難民二名を捕縛したのか、それについてはわからない。

しかし、あの「入り口付近」での必死の「自制」ぶりからうかがうに、「建物内部」での警察活動については、中国側が「総領事館から同意が示された」という感触を得てから行動したと考えるのが自然である。

総領事館側に、国家主権の不可侵性について、どれほどのきびしい自覚があったかは分からない。しかし、現場の判断として、「敷地内で警察活動をすることを許可する」ことも、「可能な選択肢の一つ」ではありうると思う。

難民への人道的配慮が足りないことを国際社会で批判されても、中国との信頼関係を重視することによって中国に「貸しを作る」方が、長期的に見て、日本の国益にかなう、という政治判断は「あり」である。

しかし、この判断もやはり「ハムレット」的な二律背反のうちで、苦渋のうちに、瞬時に下されねばならない。

私が問題だと思うのは、この「現場での決断の切迫感」が日本の外交官には見られなかった、ということである。

この事件のあと「マニュアルを作れ」とか「外交の基本方針が決まっていないからだ」というような訳知りのコメントをする人がいた。

なにをゆーておるのか。

「マニュアル」や「基本方針」が整っていれば外交ができるなら、マクドのお姉ちゃんだって外交官になれる。

外交の現場というのは、「マニュアルにないことが起こり」、「基本方針そのものを揺るがすような判断が切迫する」場のことである。

中国の警官は「北朝鮮との同盟関係」と「日本との友好関係」の軽重を瞬間的に天秤にかけて、命がけで判断を下した。(もし、彼の判断があとで誤りであったとされたら、あの国のことだほんとうに「命がけ」である。)

それと同じ覚悟が日本の領事館員にあったか。

「日本の国家主権の護持」と「中国との友好関係」の軽重を瞬間的に判断して、その判断に外交官生命を賭ける覚悟の人間が、あの場にいたか。

「どうしたらよいか」について誰にでも納得できる判断基準がないときに、なお判断を下さなければならないことは私たちの身にしばしば起こる。

その場合の判断の重みを担保するのは、決断を下した人間が責任をとること、ただそれだけである。

判断が誤りであったことが事後的に明らかになったら、その責任を取って、粛然と制裁を受ける可能性を粛々とわが身に引き受けることのできる人間だけが、「マニュアルがない」現場で判断を下すことができる。

責任をとる気がない人間は、決断できない。

日本社会は、責任を取る気がない人間、決断できない人間を長期にわたって構造的に生産してきた。

現場の判断で、治外法権の総領事館敷地内に踏み込んだ中国人警官と、その警官の帽子を拾っておずおずと差し出す日本人外交官。ここに前景化したのは、中国と日本の「外交関係」ではない。それぞれの国の「公務員」の覚悟の違いである。

中国が侮ったのは、日本の外交政策や国家主権ではない。

それを運用する現場の人間の「無責任」と「覚悟の欠如」である。

それが政府中枢から末端まで貫徹していることをこれほどみごとに表象した図像を私はこれまで見たことがない。


5月21日

いきなり「説教モード」全開となってしまった。

F121フランス語文法のクラスで、宿題の採点が終わって、答案を回収しているあいだに、それまでしんとしていた学生たちが、一斉にわいわいしゃべり出したからである。

私語を止めるように。

なぜ、教室で私語をしてはいけないか、それについて今から先生がご説明しよう。

長い話になるから覚悟しておくようにね。

教室における教師と学生の関係は、非対称的な関係である。

教師が一方的にしゃべり、学生は黙ってその話を聞く、ということが基本の構図である。

どれほど退屈で無内容な話であっても、制度的に学生はそれを拝聴しなければならない。

教師は、一方的に「じゃ、抜き打ちテストをやる」とか、答えられないむずかしい質問を発したり、いきなり怒鳴りつけたり、ねちねちイヤミを言ったりする「権利」を担保されている。

もちろん、それに抵抗する権利は学生にもあるが、その場合は「ふん、じゃ君は単位が要らないのね」と出席簿に赤々と「不可」と書き込む権利は教師に属する。

つまり教室というのは、教師が権力を独占し、学生はほとんど無権利的な状態に放置されている場なのである。

となると、学生としてまず考慮すべきことは「ディフェンス」である。

いかにして、教室における教師との非対称的関係を「傷つかずにやりすごすか」ということが学生にとって喫緊の課題となる。

その方法は一つしかない。

それは「教師の話を熱意を込めて拝聴している恭順なる学生」のふりをすることである。

これが無権利状態にある学生にとってもっとも効果的なディフェンスである。

教室におけるこの関係は、社会の縮図である。

諸君の大半は、このあと社会人となって働くことになるが、20代の労働者の社会経験のほとんどは「権力を持つ人間に一方的に査定され、いたぶられ、こづき回される」というかたちで進行する。

この状態は諸君が周囲から十分なレスペクトを受けるだけの社会的能力を獲得するまで長々と続く。

諸君は、「では、どうやってすばやくそれだけの社会的能力を身につけるか」というふうに前向きに発想するだろうが、それだけでは十分ではない。

それ以前になすべきことがある。

それは「自分を守る」ことだ。

権力を持つ人間からの攻撃によるダメージを最小化することだ。

ダメージを最小化するためには、自分を傷つけ損なう可能性のある人間の前には、できる限り自分の「私性」を曝さないことが必要だ。

だってそうだろう。

もし、自分の「私的」な人格を剥き出しにしておいて、そこを立場上反撃が許されない人間から攻撃されたら、どれほど傷つくだろう。

だから、そういう可能性があるところでは、その場にふさわしい「仮面」、つまり諸君を傷つける可能性を持つ人間から見て、「無徴候的」であるような「顔」を向けることが最良の自己防衛なのだ。

そういう場では「絶対、素顔を見せない」「素に戻らない」ということが生存戦略上必須なのだ。

あらゆる場面を「素顔で通す」ということは、裸で街を歩いているのと同じことだ。

「気分がいい」こともたまにはあるかもしれないが、経験的には圧倒的に「気分が悪い」ことに遭遇する機会の方が多い。

「素で通す」人間というのは、「遮蔽壁のない潜水艦」と同じだ。

潜水艦は細かいユニットに分かれている。だから、ある箇所が浸水しても、ドアをロックしてしまえば、浸水はそのユニットで止まり、船は沈まない。

「素で通す」人間は、そのようなユニットに分かれていない潜水艦だ。

だから、教室でその「素顔」を教師に怒鳴られたときに、それを人格全体への否定として受け止める他ない。

これはきついよ。

教室にいるときに「仮面」をかぶっている人間は、教師からの攻撃をどれほど受けても、ダメージはその「仮面」にしか残らない。チャイムが鳴って、教室から一歩出てしまえば、そんな「仮面」はどこかにしまい込んでしまえばよい。そうすれば、来週のその時間まで、その不快な経験のことをさっぱり忘れることができる。

それが権力を持たない人間にできる最も効率的な「ディフェンス」だ。

「私語」というのはprivate talk である。

そこには「私」が露出している。

そこを攻撃されたら、傷は深い。

教壇から見ているとよく分かるが、「私語をする人間」は、いわば全員が「制服」を着ているべき場所に「パジャマ」で来た人間に等しい。みんなが仕出し弁当を食べているところで、「ママのつくったお弁当」を拡げているに等しい。

どうしてそのような無防備なことをするのか。

権力を持つ人間の前には決して「固有名」で立たない。

これは弱い立場にある人間の自己防衛の基本である。

というわけだから、諸君が、私からの権力的、抑圧的な攻撃からの被害を最小化するためには、「熱心に授業を聞いている恭順な学生」のふりをすることが、ベストの生存戦略なのである。

教室にいったん踏み込んだら、決して「素に戻らない」。

決して「私的」なものを教師の眼前に露出させない。

これが真にクレバーな学生の必然的選択なのである。

という長い説教を終えたころには、クラス全員が「目をきらきらさせて」私の話に聞き入っていた。

うむ、さすがに学習能力が高いな。

では、今日は主語人称代名詞についてお話しよう。

しーん。

あとの数十分、教室は、私の声と「こりこり」という鉛筆がノートをこする音しか聞こえなかった。


5月20日

多田先生の講習会で「気合い」の練習をして、のどを潰してしまった。

よせばいいのに、「いちばんでかい声を出すぞオレは」とがんばってしまったのである。

多田塾合宿では、八顕会の野本さんと、川崎市役所の広瀬さんにはいつも声で負けているので、広島では「おっし、ここにはライバルはいない」と声の限りに「ヴェーイ!」とやって、毎回、「ミッチャン」で広島焼きを食べるころにはハスキーヴォイスになっている。

今日は、いろいろなところにけっこうめんどうな用事で電話をしなければならなかったのであるが、「もひもひ、はたひは、ほうへひょはくいんはいはくの、うひらともうひまふが・・・」というような聴き取り不能の声を発さなければならず、中日新聞社に電話をするつもりで104に電話番号をきいたら、中日劇場に回されてしまった。

中日新聞社に電話をしたのも、理解不能の問い合わせで、「先日、中日新聞社のどなたからか原稿依頼を受けたのですが、どなたに原稿を送ればよいのかをご教示頂いたファックスをどこかにしまいこんでしまって・・・あのー、私は誰に原稿をお送りすればよいのでしょう?」というバカな質問を代表番号にかけたのである。

さいわい中日新聞社の交換の方はたいへんフレンドリーで、「どういう原稿ですか?」と訊いてくれたので、「有事法制についての原稿です」と答えたら(実際には「ゆーひほーへーにふいてのへんほーれす」と言うように聞こえたはずである。二回聞き直されたから)社会部に回して貰い、社会部の記者の方が、それはきっと文化部でしょうということで文化部に回して貰い、文化部の記者の方がきっとそれは***君の依頼でしょう、私が承っておきますとメールを受け取ってくれた。

「もし、その***さんが『そんな原稿頼んでねーよ』ということでしたら、そのままごみ箱に棄てて下さい。頼んだ方から『原稿、まだですか!』というお怒りの電話が来たら、それで誰が頼んだか分かりますから」という不得要領な返事をしてしまった。

「期間限定物書き」であるから、こういうだらけた態度をとることができる。まことにありがたいことである。

しかし、それにしても、私はこれまで実に多くの編集者を失望させてきた。

『現代思想』や『ユリイカ』に執筆するのは院生や助手のころはけっこうなステータスであったので、最初に依頼があったときは大喜びしたのであるが、私の原稿はそのような媒体にはふさわしからぬ「白っぽい」ものであったせいか、いずれも二度と依頼が来なかった。(漢字が少なくて、改行が多いのだ、私の文章は)

おととい、朝日新聞の「e−メール時評」の原稿も送ったけれど、原稿受領のご返事がない。

そうだろうなあ。

「読むものがない」という題のエッセイで、「しかたがないので、朝日新聞を読んでいる」というのが原稿の最後の一行なんだから。

受け取ったO西さんは、これをデスクに見せたものかどうか煩悶されているのではないだろうか。

私がデスクだったら、烈火のごとく怒って「ウチダには二度と朝日の敷居をまたがせるな!」と担当記者の襟首をつかむところである。

でも、朝、新聞を開いて自分の写真と見つめ合う、というのはあまり爽快な気分のものではない。(やってみると分かるけど、朝御飯がまずくなる)

人間、「おのれの分限を知る」というのはとてもたいせつなことである。

自分で責任をとれる範囲というのは、それほど広くない。

私は自分で責任のとれる範囲で生きてゆきたい。しかるに、どう考えても、私の持説に同意してくださる人が、全日本に2000人以上いるとは思えない。

あとのほとんどの人は、私の書いたものを読んで「むかっ」とするわけであるから、やはり単著でご機嫌を窺うのが、筋というものだろう。(単著なら、「うっかりウチダの本を買って読んで、腹が立った」という経験をする確率は、「うっかり新聞を開いてウチダの書いたものを読んで、腹が立った」場合に比すべくもない。)

私は他人を怒らせることについては「天才」と言ってよい人間である。

他には、何一つ「天才」を称することのできる分野はないが、これだけは自信がある。

だからこそ、あまりあちこちに顔を出さない方が世のためだし、私自身の身のためでもある。

私の書いたことに文句があるやつは家に来い、と言い切ったのは吉本隆明だが、この等身大の倫理に私は深い敬意を抱くものである。

とはいえ、私もいろいろ忙しいので、私の書いたことに文句がある人はあらかじめアポイントをとって頂きたいと思う。(その際は、身長体重と、武道経験の有無、および「度胸千両」系のご職業の方かどうかについても、お知らせ頂ければ幸いです)


5月19日

土曜日曜は、広島で多田先生を迎えての合気道講習会である。

三年前から毎回参加させていただいている。

県立武道館は設備がすばらしいが、それよりなにより受講生にはじめて多田先生の指導を受ける人が多いので、多田先生が合気道の術理と思想について、たいへん懇切な初歩的説明をして下さるのがありがたい。

私はふだんは「指導者」なので、偉そうに懐手をして道場を歩き回り、「違うよ、そうじゃない、こうやるんだ」などと説教をこいているばかりなので、だんだん足腰が弱ってきている。

だが、多田先生が指導する講習会や合宿では、私も一介の受講生なので、タフな若い人たちにぶんぶん投げられてどたばた受け身を取ってると、日頃の鍛錬不足がたたって、はーはーぜいぜいと息が上がる。

とは言え、私は劫を経た「悪いおじさん」なので、疲れてくると、いきなり「説教モード」に切り替えて、「君ね、ちょっと術理の理解が違うようだね。ここはひとつじっくりおじさんの話を聞きなさい」とあれこれ「指導」を開始する。

これは別にその方の術技に問題があるのではなく、(問題がある場合もあるが)、単に私の息が続かないので、ズルしているのである。

思えば私もいくら稽古しても少しも疲れない若者だった時期もあった。

むかし真夏に東京都の指導者講習会があったとき、とんでもなく熱い道場で稽古しているうちに、高段者たちが次々と息が上がってリタイアして、道場の端に座り込んでいるのを見て、当時三段くらいだった私はぜんぜん疲れを知らずに、「あんだよ、あのジジーたちは、ふだん説教ばかりしているから、このザマだぜ」と憎まれ口をきいていたのであるが、自分がそのジジーになるとは想像だにしなかった。

ひさしぶりに道衣が汗で重くなるほど稽古をした。

これはほんとうに愉しい。

土曜日の夜は、そのままどどどと焼き肉屋へ直行して、「飲み放題食べ放題」で食べ散らかし、ホテルではウッキーの部屋にみんなで乱入して、冷蔵庫にあるだけの酒を飲み尽くす。

日曜の昼は、いつもの「みっちゃん」で「特製スペシャルそば入り」と生中二杯。

ビールがいちばん美味しいのは、広島の講習会と多田塾合宿の最後の夜である。

生酔いのまま新幹線で爆睡。

朝日と讀賣の読書欄で『「おじさん」的思考』が取り上げられ、どちらも好意的な(というよりは、「いーから、黙って買え」(@増田聡)的な)書評であった。

不思議な感じがする。

私は「変な」ことばかり言う人間として久しく白眼視されてきたので、こういうふうな暖かい賛意のことばを聞くと、うれしいより先にびっくりしてしまう。

しかし、ほめられて悪い気がする人間はいない。

さっそく朝日読売二紙を父の遺影に捧げてお焼香。

本がどんどん売れて、巨万の印税が入ってジャガーを買えますようにと父の霊にお願いする。


5月17日

父が死んだあと、「お哀しみでしょう」ということばをいろいろな方にかけていただくが、あまり哀しくない。

父の死は「悔やまれる」けれど、「哀しく」はない。

私は父と仲良しだった。

でもたぶんその関係は通常「仲の良い親子」ということばが使われるときに人々がイメージするものとはかなり違う。

私と父のあいだには「愛憎こもごも」というような深い感情的な絡み合いがない。

もう、まるで、みごとなほどに、ない。

子どものころ、私は父を尊敬していた。

しかし、高校生のころになると、それまでするすると耳に入ってきた父のことばがうまく「のみこめなく」なってきた。

一方、私は新しいことばを手に入れ、それを使って語り始めたが、そのことばは父には届いていないようであった。

ふつうは、そこから「敬意と侮蔑、愛着と憎悪がないまぜになった」どろどろした親子関係が始まるのであるが、私はそういうのが心底苦手なので、「あれ?何だかうまくコミュニケーションができないなあ・・・」と感じるとほとんど同時に、家を出てしまった。

だから父の目からは、「タツルは少し前までにこにこと食卓で談笑していたのに、どうもここしばらく黙り込んでいると思っていたが・・・家出ちゃったの?いきなり?」というふうに見えていたと思う。

最初の家出は半年ほどで終わり、尾羽打ち枯らして家に戻ってからの一年は、恥ずかしくて家の片隅に息を殺して逼塞していたので、ほとんど父と会話することもなかった。父も別に「ほらみたことか」というような意地悪なことを言わなかった。

そして、大学に合格すると同時に家を出て、(まだ入学手続きもしていない三月中に)駒場寮に不法滞在して、そのまま家には戻らなかった。

ずいぶん薄情な息子だ、と思う人もいるだろうが、私はこれでよかったのだと思う。

だって、そのせいで「内田家」についての私の記憶は、愉快なものしか残っていないからである。

不愉快な親子関係が始まりそうな予兆がしたと同時に私は「内田家」からオサラバしてしまった。だから、家の中で親子が怒鳴り合うとか、ちゃぶ台がひっくり返るとか、無言の食卓が何ヶ月も続く、とか、そういうTVドラマ的な出来事をひとつも「経験せずに済んだ」。

その一方で、親たちは、私の暴力的でうわずった政治運動や、自堕落なナイトライフや、ノイジーな音楽趣味や、傍若無人な悪友たちを「見ずに済んだ」。

「知らぬが仏」とはこのことである。

親子兄弟が仲良く暮らすためにだいじなことは、ぴったりと寄り添うことではない。

お互いが何ものであり、どんなことを考え、どんな生活をしているのかをあまり知らず、知りたがらず、ときどき会ってにこやかにほほえみ交わし、「じゃ、またね」と手を振って別れる・・・そういうのが、結局いちばんよいのではないか、と私は思う。

親しすぎる家族では、家族ひとりひとりが、他の家族の愛情や信頼や期待によって、深く逃れ難く繋縛される。

家族のみんなの期待に応えようとする役割演技と、自由を求める気持ちのあいだのコンフリクトが、家族のひとりひとりの精神を痛めつける。

家族の期待を裏切ったり、家族の利益に反する行動をとる個人は、それ以後まともに社会生活を営むことさえ危うくなるほどに感情と利害が絡み合った家族関係。

私はそういうものが嫌いである。

ただ、私が求めているのは、フェミニストが言うような、「あたらしい家庭」とは違う。

制度上どれほど互いに無責任であろうと、成員たちが感情と利害で抜き差しならないほどに絡み合っている集団は見苦しい。

私は「同居人」とか「パートナー」とかいうことばを聞くと全身に鳥肌が立つが、それはそういうことを言っている人間たちが、制度的な支えの弱さをカバーするために、濃密なイデオロギー的・感情的しがらみで相互に繋縛しあっている姿を見苦しく思うからである。

家が制度的な単なる「入れ物」であるかぎり、中にいる人間同士のあいだには距離があり、それぞれに自由がある。

家という「枠」がなくなって、個人と個人が待ったなしで向き合っており、その結びつきの必然性が間断なく言語的に確証され更新されなければならないような「同居人」たち。

私はそのようなものを少しも素晴らしいと思わない。

制度的には互いに有責なのだが、その制度的有責性が大枠を保証しているせいで、濃密な人間関係を取り結ぶ必要がなく、成員たちが適当にふらふらしていても大丈夫な家族。

家族の一人が何年も家をあけていて、ひょっこり帰ってきて「ただいま」と言っても、「お帰り」と何事もなかったかのように迎えてくれる家族。

私はそういう家族が好きだ。

内田家はそういう意味で、私にとってほとんど理想的な家だった。


5月14日

通夜、告別式とあわただしい二日間が終わった。

さすがに母、兄、私と三人とも疲れて、精進落しの会が終わり、家に戻って、しばらく昼寝。

よろよろと起き出して、遺骨と遺影の祭壇だけ整え、食事にでかけ、苦労をねぎらい合う。

会葬者の名簿を整理しながら三人で父の思い出話をしているうちに夜が更ける。

12日の午後に父が息を引き取ってから、二日あまり、時間的にも余裕のない中、とにかく父の遺志にある程度かなうようなかたちで、簡素で気持ちのこもった葬儀を済ませることができた。

父は骨の髄まで近代人であったので、仏式の葬式が大嫌いであった。

だから「戒名をつけるな。坊主を呼ぶな。線香を焚くな。お経を読むな」とさんざんわがままなことを以前から言っていた。

ところが、不思議なことに、そういう父本人は仏式であれ神道であれ、葬儀の「仕切り」を得意としており、親戚の葬儀での父の差配の手際よさと、そのよどみなくかつ感動的な「遺族を代表してのスピーチ」を子どものころの私はほれぼれとうち眺めたものである。

「父なら『父の葬儀』を間然するところのない手際で切り盛りするであろうが・・・」とせんないことを考えた。

ともあれ、ある程度は世間のしきたりに妥協していただかなければことも進まず、ご宗旨の曹洞宗のお坊さんには来ていただいたが、戒名はつけず、式の前後は父ご指定のバッハの無伴奏チェロ組曲を流した。

最初から最後まで、きっちり葬儀を仕切ってくれた兄の親友でビジネスパートナーの星野茂さんと、フィード株式会社の社員のみなさまにはお礼の申し上げようもない。

星野さんは兄の親友というだけでなく、私もまた小中高とお世話になった先輩であり、父にとっても小学生のときからのお気に入りでもある。ほんとうにお世話になった。ありがとうございました。

ご多用中のなか会葬してくださったウチダ関係のみなさまにも心からお礼申し上げたい。

お忙しい中遠路お越し頂いた多田宏先生。合気道自由が丘道場の道友諸兄。東京大学蛍雪友の会の諸君。日比谷高校の懐かしい級友たち。そして通夜、告別式と忙しいなか弔問に来てくれた平川克美君(金曜日は神戸で、月曜日は東京で、ずいぶん種類の違う集まりで飲み交わしたことになる)旧友松下正己、石川茂樹の両君。遠く芦屋から来てくれた高橋奈王子さん。弔電をお寄せ下さった原田学長、松澤院長、上野学科長、神戸女学院の教職員学生院生のみなさん。合気道会のみなさん。一人一人名前をあげていたらきりがないけれど、みなさんほんとうにありがとう。 

近親者をなくすというのは私にとってはじめての経験だけれど、ふしぎに喪失感がない。

ひとつには父が九十歳まで長生きしてくれて、父に対して息子として「あれもしたいこれもしたい」と思っていたことがだいたい果たせたからである。

「墓にふとんはきせられず」というけれど、生きているうちにまめに「ふとん」をかけさせていただいたので、思い残すことがあまりない。

数年前からは四人で毎年旅行に行った。

箱根、城之崎、有馬、四国。去年のいまごろは父の故郷の鶴岡を訪れ、菩提寺宗傳寺の内田家累代のお墓に詣でて、父が大正のはじめに子ども時代をすごした鼠ヶ関の海べりも父と並んで歩いた。

この正月に甥の裕太もまじえて湯本に行ったのが最後になったけれど、あのときも愉快な旅行だった。

もう一度みんなで旅行したかったし、卒寿の祝いもしたかったけれど、欲をいえばきりがない。

最後の夜は一夜をそばで過ごすことができたし、死に目にもなんとか間に合った。

最近の著書も読んでもらったし、父が最後に力をふりしぼって眼鏡をかけて読んでくれたのは、木曜の朝日新聞の「e−メール時評」だったと母から聞いた。生涯最後に読んで気持ちがかたづく、というような内容のものではまるでなかったけれど、「せがれも、まあなんとか世間なみにがんばっとるようだ」というくらいのことはご納得頂けただろう。

父は私にとって、いちばん辛口の批評家だった。

これから書いたものを父に読んでもらってその感想を畏まって拝聴するという機会がなくなってしまった。残念だけれど、しかたがない。

親が長生きしてくれるというのが子どもにとってどれほどありがたいことか。正月にも同じことを書いたけれど、ほんとうに身にしみた。

その点がなによりも、ありがたい父であった。

喪失感がないもう一つの理由は、父の死が私たち家族の「私事」ではなく、ある種の公共性をもつできごとだった、ということにある。

もしこの死を家族三人だけで受け止めなければならないとしたら、私たちは、父の存在したことの意味とその記憶を担保する全責任を負うことになる。

それは重たい仕事だ。

なぜなら、家族といえども父のしてきたこと、考えたこと、感じたことのすべてを知っているわけではないからだ。

その私たちの知らない、私たちがアクセスする方途をもたない父の「アナザーサイド」については、それは父の死とともに永遠に失われてしまう。

しかし父の親友・矢野澄夫さんはじめ、多くの会葬者の方々、多くの知友のかたがたの心のこもったご挨拶を聞いているうちに、この方たちひとりひとりが全員、私たちの知らない父の記憶を有していることに気づいた。

考えてみれば当たり前のことだ。

父にかかわりのあったすべての人々は、父について、それぞれ「かけがえのない記憶」を有しており、それぞれ固有の仕方で父の死を悼んでいる。

父の生涯は多くの人々に分有されて記憶に刻み込まれている。

その無数の記憶の断片の総和としての「内田卓爾」はこれからも存在し続ける。

だから私たち家族は、「家族の記憶」と、さらには「私と父」のインティメイトな思い出だけをひとりしずかに抱きしめていればよいわけである。

父はこんな人だったんですと私がことさらに言挙げする必要がないということ、自分ひとりで父と向き合っているだけでよいのだということを、私は深い哀しみの眼で父の遺影をみつめる「私の知らないひとたち」から教えていただいた。

私は彼らの哀しみがどういう質のものかを知らない。彼らが父とどんなことを話し、どんなことで笑い、どんな愉快な時間を共有したのか、知らない。

その私の知らない、想像もできない無数の個別的な経験をとおして、その人々は父の存在を私たちと分かち合っているということを私は葬儀の席で実感し、救われた思いがした。

分骨した小さな骨壺と宗傳寺の境内で笑っている父の遺影がいま御影の家に置いてある。

明日からは家に帰ってきたときに「ただいま」という相手がいる。

いっしょに暮らす家族が一人ふえたような気がする。


5月12日

二月ほど前に5月12日の日曜日に父親の卒寿の祝いをすることに決めて、スケジュールのところに、他の用事を入れないように、そう打ち込んでおいた。

今日、携帯のスケジュールを開いたら、「卒寿」と書いてあった。

残念ながら、卒寿の祝いはできなくなってしまった。

本日午後1時36分に、父親は永眠してしまったからである。

11日の夜は私が付き添った。

夕方の五時過ぎに睡眠薬を投与し、一度薬を切ったときに一度だけ覚醒して、苦しげにふとんを押し下げ、酸素マスクをはずしたが、看護婦さんにお願いして、すぐに薬を戻してもらった。

そのあとはずっと眠り続けていた。

呼吸が浅く、ときどきたんがからむので、吸引をしてもらっていたが、のどにカテーテルを差し込まれても、もう痛みを感じないようで、わずかにまゆねをしかめるだけだった。

午前1時半ころまで、父の浅い呼吸が気になっていたが、明け方には私も眠り込んでしまった。

付き添ったといっても、何もしてあげらられず、ただときどき手を握ったり、反応のないままに小さく声をかけるだけだったが、父と二人きりで、父の生涯最後の数時間を過ごすことができたのはありがたいことだった。

その前は兄が二晩を父と過ごした。

兄弟がひとりずつが最後の三晩を父のベッドの横で過ごしたことになる。

その兄が朝の7時すぎに来てくれたので、交代して家に戻り、昼すぎまで仮眠をとった。

昼過ぎに起き出してひとりでご飯を食べていたら、母から電話で「もう長くなさそうだ」という連絡が入る。

病院にもどると、その15分ほどのあいだにもう呼吸がほとんど停止していて、瞳孔も反応がない。

枕元にすわって数分後に、医師が「心臓が停止しました」と宣告した。

そのあとしばらくは間欠的に呼吸があり、やがてそれも止まった。

母と兄と私に囲まれて、父は静かに息を引き取った。

享年90歳。

兄も私も涙はでない。

ふしぎに悲しみもない。

よく生きてくれたと思う。

よい父親だったと思う。 


5月11日

そういう印象がするというだけなので、統計的に根拠があるかどうか分からないけど、20代後半から30代なかばにかけて、精神的に不安定な若い女性がふえている。

不眠や鬱病は軽症で、妄想や幻聴など専門的な治療が必要な人間も少なくない。

あるいは私の周囲の、中産階級の家庭で育った高学歴の女性にとくにその傾向が強いのかもしれない。

発症のきっかけはさまざまだが、全員の状況に伏流しているストレスの形態は共通している。

それは自我理想と、現実の自我のあいだの痛ましい乖離である。

「こうありたい」ロールモデルと、「現にある自分」のあいだにはいつでも落差がある。その疎隔のストレスを推力にして、人間は成長する。

だから、ロールモデルと現実の自分のあいだに「ずれ」があることは当然のことであって、別に困ることではない。

むしろ、理想我と現実の自我がばっちり一致している人間の方が(そんな人間なんて、たぶんいないと思うけど)よほど始末に負えないだろう。

理想と現実の落差それ自体は教育的・生産的なものである。

私たちはその落差を手がかりにして、自分が「何をできないか」「何を知らないか」「どこにいないか」「誰でないのか」について欠性的なしかたでデータを詰めて行く。

それを私は「マッピング」=地図上における自分の位置を特定すること、誰にも代替しえない、かけがえのない自分の位置を知ることだと考えている。

ロールモデルからの「隔たり」、理想への「いたらなさ」、目的への「手の届かなさ」を知ること、それこそが、自分が「何ものである」かを知るための、いちばん確実な自己規定である。なぜなら、私たちは全員がそれぞれ固有の仕方で「理想を逸している」からである。ゴールに手が届かない仕方、的をはずす仕方、その「失敗の経験」を通じて、私たちはおのれのアイデンティティを確証する。

理想を持つことは教育的である、というのはそのような意味である。

高い理想を持つものは、低い理想を持つものより、失敗する確率が高い。だからこそ高い理想をもつことが称揚されるのである。

というのは、このゲームでは「たくさん失敗したもののほうが、自分についてより多くのデータを採集できるから、結果的には自分のアイデンティティについてより確信を深めることができる」からである。

より多く失敗するものがより多くをゲットするゲーム。

それが「成長」というゲームである。

だから成長ゲームは「サクセス・ゲーム」ではない。

現実をより豊かにするために、失敗をより生産的なものにするために、挫折から引き出しうるメリットを最大化するために、目標は設定される。

だから、このゲームで「サクセス」というような概念の入り込む余地はない。

成長ゲームで「サクセス」をねらうというのは、将棋で「ツモ上がりをねらう」とか、サッカーで「三振をねらう」というのと同じく無意味なことばづかいである。

しかるに、最近の若い女性のうち、とくに向上心の強い人たちを見ていると、どうやらこの「成長ゲーム」を「サクセス・ゲーム」と勘違いしているように思われるのである。

経営学修士号とか外国語とかコンピュータ・リテラシーとかスレンダーなボディとか見栄えのよいボーイフレンドとか「ワインにはちょっとうるさいのよ」とか、そういうスキルや情報をごりごり「収集」してゆくと、人間的成長と社会的サクセスがめでたくゲットできる、というふうな手ひどい勘違いをしているように思われる。

悪いけど、そんなスキルや情報は「ゴミ」である。

だって、そんな「もの」はいくら収集しても彼女が「ほんとうはなにものであるか」について何も教えてくれないからだ。彼女のアイデンティティを少しも基礎づけないし、彼女を少しも成長させないし、彼女を少しも倫理的にしないからだ。

成長するというのは、一言で言えば、自分の「かけがえのなさ」を知るということである。

「私は、誰によっても代替されないような仕方でユニークである」という覚知を「エートス」と言う。それはギリシャ語で「個性」という意味だ。

おのれの「エートス」をどこまでも掘り下げて行くと、「私には私の使命があり、あなたにはあなたの使命があり、60億の人間は60億の異なる使命を託されて生まれてきた」という人間観に突き当たる。

だから、おのれのユニークさに対する自覚と他者の未知性に対する敬意とを同時に思い知ること、それを、「エートス的」、つまり「倫理的」ethiqueと呼ぶのである。

いまの若い女性の理想自我の設定のしかたはいちじるしく没個性的であるが、それはアイデンティティの確立とサクセスを同一視しているからである。

サクセスというのは、簡単に言えば

「他人が持っているもので/自分も持つ資格があると思い込んでいるものを所有すること」「他人がそうであるもので/自分もそうなる資格があると思い込んでいるものになること」

であって、端的に言えばアイデンティティを掘り崩し、「誰でもない人間」になることである。

そんなことのために汗水たらしていれば、いずれ「私は何でここにいるのだろう」「私はいったい何のためにこんなことをしているのだろう」というdisorientation に至るのは当たり前である。

だって、マッピングすること=自分の位置を知り、自分の歩む道を知るとは、できるだけ多くの失敗を繰り返し、「自分にしかできない失敗の仕方」を通じて自分が誰かを知ることなんだから。

理想やロールモデルというのは「適切な仕方で失敗する」ためにある。

だから「オレはオレだから、あくまでオレらしくやりたいわけよ」というように自己完結して、外部に理想をもつことを拒否する若者も、できあいの「サクセス・モデル」に似せよう必死に努力する若者も、いずれも「失敗することを回避する」がゆえに、遠からず必ず道に迷うことになる。

若い女性に心の病が多いと冒頭に書いたけれど、それは彼女たちが強迫的に失敗を恐れ、失敗のリスクを取ることをかたくなに拒否していることに原因があるのではないかと私は思う。

 

というようなことを平川くんの講演にインスパイアされてこりこりシグマリオンに打ち込みつつ新幹線にのって実家に戻る。

父の容態がかなり重篤であるという連絡を受けたからである。

病室へ行ってみると、容態は予想以上に悪化しており、もう呼吸するのも苦しそうである。

夜もなかなか眠れないということで、点滴に睡眠薬を混入してもらうことにする。

意識が混濁して、そのまま戻らない可能性もあるということなので、今生の最期となるかもしれない私の挨拶を受けるべく、父は苦痛に耐えて私の到着を待っていて、私が病室につくと、両手をあげて迎えてくれた。

「タツルが来れば楽になれる」ということで、昨日からずっと「タツルはまだか」と母に繰り返し訊ねていたそうである。

長く待たせてしまって申し訳ない。

点滴に睡眠薬を入れると、すぐに眠りに落ちた。

息づかいは早いが、呼吸は規則的で、とりあえずほっとする。

一昨日、昨日と兄が病室に泊まり込んでくれたので、今日から私が交代である。

もうすっかりやせ細って、抱きかかえると驚くほど軽い。

かつて私たち兄弟をかるがると抱き上げた長身筋肉質の父親のおもかげはもうない。

このまま痛み苦しみを味わうことなく、生涯最後のときを安らかな眠りのうちに閉じてもらうことだけが私たちの願いである。


5月10日

平川くんの講演会。

平川くんに女学院に来て貰うのは三回目である。

最初は93年か94年頃。

インターネットは世界をどういうふうに変えるか、というような今から考えるとけっこう牧歌的なテーマだった。(まだ「インターネットって何?」というような人がけっこういたんだよね)

二度目は99年の武道シンポジウム。

このときは松濤館空手の指導者という立場から、空手の身体技法についてお話ししてもらった。

今回は、またまるで違う主題で、日本のITビジネスと、インキュベーション・ビジネスとオープンソース・ムーヴメントの「仕掛人」という先端的なビジネスマンの立場から、大学教育のあり方をビジネスの視座から批評してもらった。

第一回のときとくらべると、平川くん自身の日本のビジネスシーンにおけるポジションはずいぶん変わってしまった(ご本人のスタンスはぜんぜん変わってないんだけど)。

いちばんはっきり感じたのは、シリコンバレーと秋葉原でのビジネスカフェの成功によって、「なーんだ、ぼくのスタンスはワールドワイドなビジネスシーンのどこでも通じるんじゃん、やっぱ」ということが分かってしまった平川くん自身の「だっからさー、話は簡単なんだってば」的な態度のいっそうの徹底ぶりであった。

これはうちの「兄ちゃん」にも通じるのであるが、ビジネスの先端にいるひとの言うことは、めちゃめちゃ「平明」なのである。

兄ちゃんによれば、「ビジネスの基本」は「正直」である。

平川くんに言わせれば「ビジネスの基本」は「コミュニケーション」である。

身近にいる二人の国際的ビジネスマンに共通するのは、どんな種類のものであれ、ビジネスが人間の欲望に関連するものであるかぎり、ひとの欲望をコントロールするポジションを担保する決定的なファクターは、彼ら自身は欲望を持たないこと、彼ら自身が他者の欲望の対象となることである。

彼らは自身の欲望にほとんど配慮しない。

彼らが興味をもつのは、他者の欲望だけである。

「きみは何が欲しいの?」

それが彼らのたったひとつの関心事である。

「欲しいものがあるなら、あげるよ」

そうはいっても、もちろん、彼らだって「他者が欲するモノ」をまるごとモノとして供給することはできない。

彼らがはただ「私は贈り物をする、君たちは贈り物を受け取る」という非対称の構図をきっちりキープしているだけである。

私たちはモノを所有し、それを占有し、それを誇示し、それを差別化の指標にしたがるような人間には、嫉妬や憎悪は感じるけれど、欲望は感じない。

私たちが制御できない灼けつくような欲望を感じるのは「私たちに贈り物をし、自分は何も受け取らない人間」に対してだけである。

だって、そんなことができるというのは、私たちには想像もできないほど「いいもの」、「誰とも分有しえないもの」を彼らが特権的・独占的に所有しているという以外にありえない(ように思える)からだ。

「工夫すれば奪い取ることができるもの」に対する欲望と、「どのような手だてを尽くしても奪い取ることができないもの」に対する欲望の熱価の差は比較にならない。

「どのような手だてを尽くしても奪い取ることができないもの」を持っていると他者に信じ込ませること、それが他者の欲望の焦点となり、他者の欲望を統御するもっとも有効な方法である。

そして、「どのような手だてを尽くしても奪い取ることができないもの」を持っていると他者に信じ込ませる方法は、ひとつしかない。

それは「ぼくは何にも要らないよ。ぼくは贈り物をしたいだけなんだ」と断言することなのである。

ビジネスで成功する秘訣は、「ビジネスで成功することになんか何の価値もない、ぼくはただ君に贈り物をしたいだけなんだ」と思っている人間であるとクライアントに信じ込ませることである。

そして、当然のことながら、「ビジネスで成功することになんか何の価値もないと思っている人間である」と他者に思い込ませることにつねに成功する人間とは、「ビジネスで成功することになんか何の価値もないと心底思っている人間」なのである。

レヴィ=ストロースの人類学的知見とこれはみごとに符合する。

レヴィ=ストロースはこう言った。

「人間は自分が確実に手に入れたいと思うものは、まずそれを他人に贈与することによって手に入れる」

私たちは欲しい物を手に入れる最良の方法は、それを奪取し、占有することだと考える。

それは人間の欲望の本質についての根本的な誤解である。

欲しい物を手に入れる最も確実な方法は、それを贈与することなのである。

すぐれたビジネスマンはそのことを本能的に知っている。


5月8日

上野千鶴子・小倉千加子の『ザ・フェミニズム』を読む。

フェミニズムとマルクス主義はよく似ているというのは私の持論であるが、この本を読むと、70年代の末期マルクス主義者のものいいと似ているので、きっとフェミニズムももう終わりということの指標なのであろう。

70年中頃のマルクス主義末期の風景というのは、既成左翼が完全に体制の補完物として取り込まれてしまう一方で、「新左翼」が、一人一派的にまでどんどん理念的に先鋭化し細分化し、現体制をどれだけ激しいことばで「全否定」できるか、「価値」とされていることをどれだけ「冷嘲」できるかを競い合う、「ツバのはきっこ」というか「しかめっ面の競い合い」のようなことにみんなが熱中しだした、というものであった。

どこでどんなマルクス主義の思想や運動が破綻しても、どのマルクス主義者も「あんなものは似非マルクス主義だ」と歯牙にもかけず、ほかのマルクス主義者の歴史的失敗についてマルクス主義者の誰一人として「責任」をとろうとしなくなった時代である。

「イズム」の名において、他の「イスト」がなしたこと、発言したことについて、「イスト」たちが連帯責任を引き受けたり、その意図するところを代弁したりすることを自分の仕事だと思わなくなったとき、つまり当事者意識を失ったときに「イズム」は終わる。

マルクス主義はたしかにそういうふうに終わった。

そのまえに、軍国主義もそういうふうに終わった。

『ザ・フェミニズム』を読んで、フェミニズムもそういうふうに終わるのだなと思った。

この二人に共通するのは、フェミニズムの運動がどんどん退廃してゆくことに対する冷たいまなざしと、日本社会がどんどん悪くなって行くことに対する「有責感」の欠如である。

I don’t care

という「デタッチメント」の感覚がお二人の話に伏流している。

例えばこんな具合だ。

上野−家父長制下で従順に育ってきた子どもたちの方が、家父長制にとっていちばん大きな脅威になるんです。見て下さい、若者たちのあの保守性と受動性を。−こんな話を続けていると、『希望はないのか?希望は?』と言われてしまいますよ(笑)。フェミニズムが日本を滅ぼすのか。

小倉−フェミニズムは滅ぼさへんの。フェミニストを嫌っていた男たちが可愛がっている女たちが日本を滅ぼすんです。滅んだらええやんか。

上野−その点ではみごとに身から出たサビというか、自業自得というか、自分たちが望んだ通りの滅び方ですね。(・・・) 三代かけて思った通りの子どもたちを育てて来たんですから、日本の戦後教育はみごと成功したんですよ。

小倉−まんまと成功して、国が滅びる

上野−その通りだと思う。

小倉−もう、国ごと沈没するだけです。しゃあないわね」

 

ね、君たちって日本社会のフルメンバーじゃないの?

この社会がけっして住みやすい場所でないことは私も同意するけれど、それはぜんぶ「フェミニストを嫌っていた男」たちと「男に可愛がられいる女」の責任であって、フェミニストは、日本が滅びていくのを(笑)ですませる、ということでいいのだろうか?

もしフェミニズム思想を宣布した罪で、お二人ともこの25年ほど網走刑務所に収監されていたというのなら、こういう発言をしてもしかたがない。

でも、お二人とも、長いあいだ大学の教員をしてきて、たくさん本を書いたり、メディアで発言し、その結果ずいぶん多くのひとびとのものの考え方や行動に影響を及ぼしてきたはずである。

「戦後教育」の現場の当事者としてずいぶんな数の「子どもを育てて来た」はずである。

その上で、悪いのはぜんぶ「父権制」の責任というわけにはゆかないんじゃないだろうか?

いや、むしろ、積極的に日本が悪くなる方向に関与してきたのではないだろうか。

現に、「国を滅ぼすような子どもたち」がざわざわと叢生することをじつにうれしそうにお二人とも語っているから。

なぜなら、子どもたちの幼児的なエゴイズムが抑制をうしなって暴走すると父権制が「空洞化」するからなのである。

小倉は「最近の若い女の子の新・専業主婦志向」とは「結託」できるという。その理由は、「新・専業主婦というのは自己利益を最優先する女たち」であって、その戦略から「結婚制度を逆手にとって」、亭主に働かせて、自分は家でごろごろしていて遊び呆けているのが秩序破戒的でよろしいというのである。

小倉−自己利益を最優先することによって、結婚制度を内部から崩壊させてしまえるから結託できるということ

 

でもさ、これって論理が倒錯してないか?

結婚制度を内部から崩壊させることの対価として、人間のクズを大量生産させることって、社会改良プログラムとして算盤勘定が合うの?

夫も子どもも親も地域共同体も、ぜんぶ自己利益を最優先するために、利用するようなエゴイスティックな若い女が輩出することによって、そんなに日本は住み易くなるの?

たしかに、そういうふうになったら結婚制度は内部から空洞化するだろうし、異性愛体制も、父権制も崩壊するかもしれないけれど、それ以前に「市民社会」が崩壊しないだろうか。

いまさら大学の先生に説教するのも変だけど、近代市民社会というのは、人間たちが「自然権」に基づいて自己利益を最優先する行動を「止めて」、幻想の共同体に決定権の多くを委譲したときに始まった。

なぜ、自己利益の追求を最優先するのを止めたかというと、「自己利益の追求を最優先すると、自己利益が安定的に確保できない」ということが分かったからである。みんなが自己利益を最優先すると、ホッブスのいう「万人の万人に対する戦争」状態になってしまう。誰しもが欲しいものを他人から奪い取っても詐取してもいいということになってしまう。

そうなると、ひとにぎりの強者がすべての社会的リソースを独占することになって、ほとんどのひとはおのれの身体生命財産の保全さえままならなくなる。だから「私利の追求を制限する」という発想が生まれたわけである。(ロックの『統治論』やホッブスの『リヴァイアサン』を読むと、そう書いてある)

たしかにフェミニストが言うように、近代社会はいろいろ問題があるし、父権制的かも知れない。

でも、「それでは」というので自己利益の確保を最優先したら、(ロックやルソーを信じるなら)、たぶんそのような若い女性こそ自己利益の確保という生存戦略においてもっとも不利をこうむるような「ワイルドで権力的な競争社会」というものがいずれ現出することにはならないのだろうか?

フェミニズムはどんな社会を理想としているのだろうか?

残念ながら、彼女たちはこの本質的な問いには答えてくれない。

上野−私は『フェミニズムは何をめざすのか?』と聞かれると、『なんでそんな問いに答える必要があるの?』と聞き返します。

小倉−それは正しい。

 

どうして?

どうして「フェミニズムは何をめざすのか?」に答えないのが「正しい」の?

ウチダには分からない。

何をめざすのかを示さないし、問うことさえ許さない社会理論は、いったいどのようにしてその当否を検証されるのだろう?(日本が崩壊したあとに、「日本が崩壊する」ということを予言し、そのために協力を惜しまなかった社会理論は「正しかった」ということが事後的に明らかになるからいいのかな・・・)

上野はこう続ける。

『何が解放か』というのは、当事者が自己定義するしかないということ。これが解放だと人に押し付けられるのは、もはや解放ではない。(・・・)ですから『フェミニズムは何をめざすのか?』と問われるほど、反フェミニズム的な問いはありません。(・・・)『何をめざすんですか』という抑圧的な問いの中には『フェミニズムの望ましい未来について青写真』という代替案の提示を求める姿勢がある。『代替案がなければ現状を変更することもできない臆病者なのかおまえは』と思っちゃう(笑)

 

もちろん私は反フェミニストだからこそそう問うわけだけれど、「それは反フェミニスト的な問いだから答えない」と回答を拒まれたのでは私の立つ瀬がない。

もし上野が私に向かって「ウチダはこういうことをホームページに書いて何をめざしているのか?」と問いかけたときに「それは反ウチダ的な問いだから答えない(笑)」と答えたら、上野だって「むかっ」とするだろう。

それはルール違反だぜ。

『望ましい未来についての青写真』は見せないとまずいと思う。

だってそうでしょ?

べつに、その青写真を見せてほしいのは、「自分にかわって未来社会について上野に考えて欲しい」からじゃない。

いったい上野たちはどんな未来社会を作ろうとしているのだろうか、その青写真を見せていただいて、変なところがあったら「変だよ」と言いたいと思っているわけである。

社会改造案を私に代わって考えて欲しいんじゃなくて、上野が「日本をどうしようとしているのか」を知りたいだけなのだ。

社会制度の改革について発言している以上、その「青写真」を示すアカウンタビリティというものは上野にもあると思うけど・・・

私の言っていることはそんなに変だろうか?

とにかく、さっきの「新・専業主婦」論と、上野の「援交支持論」は私にはいくら考えても、少しも魅力的な提言には思えない。

上野−援交を実際にやっていた女の子の話をきいたことがあるんですが、みごとな発言をしてました。男から金をとるのはなぜか。『金を払ってない間は、私はあなたのものではないよ』ということをはっきりさせるためだ、と。(・・・)つまり、あなたが私を自由にできるのは、金を払っているあいだだけのことで、それ以外は私はあなたの所有物ではない、ということをはっきり示すためだと言うんです。

 

なんで、「これは自由の切り売り」であって、「自由の全部売りではない」ということを意思表示するために、売春なんかわざわざする必要があるのだろうか?

買春するほうの男の中には、「私はあなたの所有物じゃないのよ!」というようなつっぱった女の子こそ「好み」というような奴だっているのではないだろうか?「いくらでも金があって無限に少女の自由を買える買春男」がいたらどうするのだろう?

「私があなたの所有物ではないこと」を示すいちばん手早く確実な方法は売春しないことではないだろうか?

違う?

こういう上野の発言を聞いて「よっしゃ、明日から私も自由な人間であることをアカシ立てるために売春しよ!」というような女子高生が叢生してきたら、どうすんだろう。

若い連中をどんどん「バカ」で「エゴイスト」になるようにアオって、いったいこのお二人は何を得ようとしているのだろうか?

日本が滅びるのを早めたい、というのは分かったけど・・それだけなの?ほんとに・・・・?

まあ、こんな質問にも「反フェミニズム的で抑圧的な問いには答えない」という答えしか返ってこないだろうから、別にもういいや。

でも、彼女たちがこういう発言を通じて、何らかの知的・倫理的価値を創出しつつあると信じている人が日本にいまだにたくさんいるということの意味がウチダにはぜんぜん理解できない。

この不可思議な事態は、たしかに、上野たちが言うように、「日本人は心から日本社会の壊滅を望んでいる」という以外に説明のつけようがない。

あ、そうか。じゃ、やっぱり上野千鶴子のいうことは正しいんだ。

なるほど。


5月7日

讀賣新聞の学芸の鵜飼さんという記者のインタビューを受ける。

再来週の讀賣の読書欄に「著者インタビュー」として『「おじさん」的思考』が紹介していただけるのである。

これで朝日、讀賣から取材を受けたことになる。あとは毎日から来ると「三大新聞制覇」グランドスラムだ。

毎日の学芸には日比谷高校雑誌部の先輩のY川さんがいるはずで、先輩から「おい、ウチダ、話聞いてやっからら、東京の毎日の学芸まで顔出せや」と電話一本いただければ、「はい!」と直立してうかがうのであるが、(ウチダは長幼の序については、たいへん律儀な人間である)お電話がない。(待ってまーす)

たいへん愉快な取材で、1時間半ほどわいわいしゃべる。

私はさきに宣言した通り、「期間限定物書き」であって、2003年3月をもってメディアへの出稿を終え、あとは「誰にも相手にされない、静かな学究生活」に戻る予定である。

この半年ほど、注文があるごとに「ほいほい」と書いていたけれど、やはり私が似つかわしいのは、「ホームページ日記」と紀要論文と国文社の翻訳であって、メジャーなメディアはなじまない。

今年度いっぱいで注文原稿は書かないと決めたら、気分がすっきりした。

どうせ、こっちが「書きたい」と言っても、先方が「もう、いいです」ということになるだろうしね。(だって、みんな「おんなじ話」なんだから)

私が表現者としてのロールモデルにしているのは大瀧詠一である。

大瀧詠一は84年の『イーチタイム』を最後にアルバムを発表していない。

でも大瀧の『日本ポップス伝』と山下達郎との『新春放談』は他のどんなミュージシャンのレギュラーな活動よりも私の音楽生活を豊かにしてくれている。

「音楽って、もっと自由なもんじゃないの?毎年アルバムつくって、ツァーやって、っていうのだけが音楽じゃないよ」と大瀧は語っている。

畏友石川茂樹くんが毎年プレゼントしてくれる『新春放談』のテープを私は十年以上前から学校への行き帰りの車の中でほとんど全文を暗記するほどに聴いている。

今日のインタビューで、改めて私は自分がどれくらい大瀧詠一から影響されてきたのか思い知った。

表現することについて、私が確信を込めて語っていることのほとんど大瀧のことばそのままである。

私は自分が「何かを知りたい」からものを書く。

だって、書かないと自分が何を考えているか、何を知りたいのかさえ分からないからだ。

でもそれは書いた段階で、私が「自分が書いたものを読んだ」段階で、その使命を終えている。

私は自分が書いたものを読むのが好きだ。

それを「商品」にするかどうか、売れるかどうかということは、私にとっては副次的なことにすぎない。

たまたま私の「兄ちゃん」とか平川くんとか江さんとか、それを「読みたい」と言ってくれる人がいるから、活字にしてもいいかな、と思うだけで、活字にしなくても読めのなら、別に活字にする必要もないのだ。

大瀧の言った中で、一番印象的だったのは、「音楽は消えてゆくからいいんだ」ということばだ。

『新春放談』でスタジオでのテイクを流したあと大瀧は「これをCDにして出せとかいうオッファーは一切お断り。たまたまラジオ放送を聞き逃したから、もう一度というようなことは言ってもらっても取り合わない。それは『ご縁がなかった』ということなんだよ」ときっぱり語っていたけれど、私はそれはほんとうだと思う。

出会うべきものには、出会うべきときに出会うし、出会わなければそれは『ご縁がなかった』ということだ。

私はたまたま2001年から2002年にかけて、読者に出会うチャンスに恵まれた。

それはすごくありがたいことだから私はほんとうに感謝している。

でも、その「チャンス」が永続することを願うのはむなしいことだし、たぶん、ものを書くことの本旨に悖ることだと私は思う。


5月5日

世間は連休であるが、私は終日机にむかってごりごり原稿を書いている。

とうとう一日誰とも話をしなかった。

こういうことがよくある。

しかし、一日中、問いかけと答えの運動のなかで次々と本を読んでいるので、頭の中ではいろいろなひととのかわした会話がまだわんわん残響している。

昨日のお話相手はショシャーナ・フェルマン、レヴィナス、ハイデガー、ヘーゲル、コジェーヴ。

なかなか豪華な対談相手である。

なんで、こんなものを読んでいるかというと、女性学のノートのために、フェルマンの『女が読むとき、女が書くとき』の論理構成を分析しているからである。(学生さんに聞かせても、ちょっと分かって貰えそうもない話題だから、もうノート作りじゃなくて、たんに自分の趣味でやってるんだけど)

フェルマンがラカンの「語り」論と「主体性」論を下敷きにしてそのフェミニズム言語論を構築していることは、ご本人も認めている。

しかるに、ラカンのその二つの論件はコジェーヴ経由で彼が学んだヘーゲルの「自己意識」論を下敷きにしていることは、精神分析史の本には必ず書いてある。

そこで、「あ、そうか」と私は膝を打った。

ヘーゲル−コジェーヴ−ラカン−フェルマンの線が繋がったのである。

だから、フェミニズム言語論の最先端的知見であるショシャーナ・フェルマンは、よくよく読むと「ほとんどヘーゲル」なのである。

例えば次の文章。

「彼は自己を人間であると思い、そうであるとの『主観的な確信』をもっている、と言うことができる。しかしながら、彼の確信はいまだ知とはなっていない。彼が自己に帰属させる価値は錯誤であるかもしれず、彼が作り出す自己自身の観念は偽りのもの、或いは妄想かも知れない。この観念が真理となるためには、この観念が客観的実在性を、すなわち単に己れ自身に対してだけでなく、己れ以外の他のもろもろの実在に対しても価値をもち、そして現存在する存在を開示しなければならない。したがって、この場合、人間が実際に、そして真実に『人間』であるためには、そしてまた自己をそのように知るためには、彼が作り出す自己自身の観念を自己以外の人間にも認めさせねばならない。すなわち、彼は自己を他者に承認させなければならない。(・・・)彼は自己が承認されていない世界を、この承認が働く世界へと変貌せしめねばならない。このように人間的な企図に対し敵対的な世界をこの企図に適合する世界へと変貌せしめること『行動』とか、『行為』と呼ばれるものである。」

これはコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』の一節であるが、この引用の中の「人間」を「女性」に、「彼」を「彼女」に置き換えると、あら不思議、これはそのまんまフェルマンのジェンダー論の結論なのである。

どうもフェルマンは凡百のフェミニストに比べて、読んだときに深みがあるというか、スケールが大きい論客だなといつも感心していたのだが、それは彼女が(おそらくはそれとしらずに)ヘーゲリアンだったからなのだ。

聞いてびっくりである。

しかし、それにしても「男性中心主義的言語」をラディカルに批判し、「男性的精神」をもって思考し、記述することからの決定的テイクオフをなしとげたはずの当のフェミニストの言説がまるごとヘーゲルのスキームをそのまま借用しているというのは、ちょっとまずいんじゃないだろうか。

だって、ヘーゲルって、「男性的精神」どころかヨーロッパ近代を差し貫くファロサントリック形而上学の「宗家・家元」であり、「つねに男性形で書かれてきた」主語の占有者であり、「あらゆる主語=主体とあらゆる言説の守護者たる神の文法上の性」をつねに独占してきた「男性的−父親的」精神の権化なんだから。


5月4日

今朝の朝日新聞の「私の視点」に、神奈川大学教授の尹健次という人が「戦争への反省こそ日本の道」という一文を寄せている。

おそらくある意味では朝日新聞的には「模範解答」な有事法制論なのだろうが、私は一読して「またか・・・」とため息をついた。

そこに展開されている議論は、一般読者には定型的なもの、「聞き慣れた」ものに読めるかも知れない。

しかし、「こういう議論に慣れてしまうのは、ちょっと、まずいぞ」と私は思う。

それについて書く。

文章は次のように始まる。

「『有事法制』というのは『戦争法』である。つまり『有事』とは戦争または戦争を予想する状態であり、日本はいつでも戦争を辞さないという明確な意思表示である。

これは日本の植民地の所産である在日朝鮮人の一人としては、到底受け入れられるものではない。」

この文章には論理的な段差がある。私はそれにいきなりつまずいてしまう。

ここには二つの文がある。

前段は有事法制の定義という事実認知であり、後段は在日朝鮮人としての政治的態度を語った決意表明である。

有事法制についての定義はこれでよいと私も思うし、尹さんがいかなる政治的態度をとろうとも、それは彼の神聖不可侵の政治的自由だ。

しかし、それでも、この前段と後段のあいだには論理的なつながりがないということは指摘しておかないといけない。

二つの文のあいだには、論理的な「深淵」がある。

この深淵を飛び越すためには、何らかの論理的架橋が必要だ。

ありうる論理的架橋は次のようなものしかない。

(1) いかなる国であろうと、「戦争を辞さない国」であるという意思表示をすることは許れさない。

(2) 私は植民地主義的な戦争の被害者であった朝鮮人であるから、とりわけ、そのような意思表示には反感を覚える

これなら話が通じる。

しかし、ここで問題が起こる。

「戦争を辞さない国」であることを意思表示している国は世界中に200近くある。

そのすべてに対して尹さんが「到底受け入れられるものではない」と主張しているのであれば、いささか理想主義的な議論ではあると思うが話の筋はとおっている。

しかし、尹さんが反対しているのは、とりあえず日本についてだけである。

私も尹さんと同じく、日本が「戦争を辞さない国」であるというような意思表示をすることに有害であると思っているが、それは「他の国には許されるそのような意思表示を、日本だけはする権利がない」というふうに考えているからではない。

どの国家のも意思表示する「自然権」はひとしく賦与されているが、それは日本国憲法の理念に反するし、現実の国際関係に照らしても有害無益だから、あえて「戦争を辞す国」であるべきだ、と思っているからである。

日本は「交戦権」をみずから「放棄」したのであって、誰かに「禁止」されたわけではない。(実質的にはGHQの主導で「禁止」されたのかもしれないが、当時の日本国民の過半が「戦争なんて二度とまっぴら。軍人がいばるのももうごめん」と思っていたことは間違いない。)

しかし尹さんの立場は私とは微妙に違う。

彼はその名乗りからみて、朝鮮民主主義人民共和国に帰属感を有している。

北朝鮮の現在の指導者は、知られているように、「戦争を辞さない国であることを意思表示」し、しばしば「戦争カード」をちらつかせることよってきわどい国際外交を展開していることで知られた人物である。

尹さんは北朝鮮が「戦争を辞さない国」であるという「明確な意思表示」をしていることについてはどう考えているのだろう。

もし北朝鮮をも含めて、そのような危険な外交ゲームに踏み込むあらゆる国家の行動に警鐘をならすのが尹さんの意図なら、「在日朝鮮人の一人として」という名乗りは不要のものだろう。むしろ論拠を危うくするものだろう。

しかし、あえてそのような名乗りをした上で彼が日本の有事法制を批判したということの意味は、論理的には一つしかない。

それは、「戦争を辞さない国」であるという意思表示を「してはいけない国」と「してよい国」があるということである。

日本はそのような意思表示を「してはいけない国」であるが、北朝鮮は「してもよい国」である。尹さんはそう考えている。

そういう考え方は「あり」だとは思う。

すべての国家はひとしく同一の倫理コードに従って行動すべきだ、という考え方があり、すべての国家はそれぞれの事情で倫理コードが違ってもよいという考え方もある。

私は、尹さんと同じく、すべての国家が一律おなじ倫理コードに従うことはない、と考えている。ただ、そのねらいは彼とはおそらく違う。

私はすべての国は自国には他国より「きつい」倫理コードを求めるべきであり、他国に自国より「きつい」倫理コードを求めることは誰にも許されないという考え方をしている。

過去に帝国主義的・植民地主義的な侵略を受けた経験のある「被害国」は、「加害国」に対して、倫理的な「貸し」があるので、「加害国」には許されない種類の政治的行動(たとえば、独裁やテロや暴力)を自分には許すことができるという考え方がある。

これは「倫理の相称性」−「同罪刑法」の原理−をふまえた発想法であり、人類の歴史と同じだけ古い。

1960年代の民族解放闘争においては、そのロジックに世界中の「左翼知識人」が唱和した。いまなお、そのロジックに支えられた「大義」のもとに、世界各地で毎日多くのテロが行われている。

かりに尹さんが、日本には許されない国家的行動が北朝鮮には許されると考えているとしても、それは「被害国」のテロリストが「加害国」市民を爆殺するのは「恐怖の相称性」を回復しているにすぎないと主張するのと同じく、「同罪刑法」の原理をふまえたものであり、「よくある」考え方、むしろ世界の大勢に従う考え方である。

私自身は「同罪刑法」的応酬をどれほど徹底しても、決してそれによって世界に最終的な正義や永遠の平和がもたらされることはないと考えている。

だから、この同罪刑法的な思考から導かれる彼の結論に私は同意することができない。

尹さんのそのあとの議論は標準的な経路をたどって結論に至る。

「日本は戦前のアジア侵略・植民地支配の歴史を反省し、謝罪・補償を誠実におこなうどころか、逆に過去の戦争を美化し、歴史を歪曲する特異な国である。」

「小泉人気の振幅の激しさに見られるように、日本の大衆意識はファシズム的要素を十分にもっている。それを利用した日米軍事同盟の強化、そして戦争への途ではなく、アジア諸国の人びとと手を携えて歩んでいくのが、日本が選択すべき方向ではないのか。」

この主張に私は賛成である。

しかし、そこから導かれる次の結論には同意できない。

「日本のマスコミがあおっている朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本人拉致疑惑や不審船事件も、その解決の方策はまず日本が過去の植民地支配を反省し、国交を樹立することである。その過程で未解決の懸案事項は解きほぐされ、また北朝鮮の閉鎖的・硬直的体質も漸次改善さえれてゆくのが期待される。」

尹さんはかりに日本人拉致疑惑や不審船事件のような「未解決の懸案事項」が日朝間にあったとしても、それを解決するためには、北朝鮮が何らかのアクションを起こすより先に「まず」日本が過去の植民地支配を反省することから始める他ない、と言う。

これは言い換えると、仮に「悪いこと」を北朝鮮がしていたとしても、それは日本が過去に犯した「もっと悪いこと」の必然的な代償なのであり、日本の罪はこの程度の「悪いこと」でトレードオフできるようなものではない。だから「まず」日本から反省しなければならないということである。

これをして私は同罪刑法的思考と呼ぶのである。

私は論脈上、いま尹さんから「加害者」として「償い」を求められている立場であるので、いまから危険なダブル・スタンダードを使って語ることになる。

私は「当事者」という立場においては、尹さんのこの「応報」の主張に理ありとせねばならない。

しかし、もし「第三者」の立場から同じ問題を観ることを想像的に許されるなら、尹さんの主張は「間違っている」と言うほかない。

おそらく、「当事者のくせに、第三者的立場から批評するな」という非難を私に加える人が多くいるだろう。

しかし、心を落ち着けて考えて欲しい。

日朝問題のような、絡みつくようなルサンチマンと恩讐と利害の当事者たちが第三者的な立場から自分たちを見ること−自分たちを含む風景ごと自分たちを想像的に俯瞰すること、歴史の滔々たる流れのうちに呑み込まれてゆく豆粒のような自分たちを冷たい目でみおろす視座へ想像的に脱自すること−が、歴史的文脈において判断をあやまらないためにもっとも確実な手続きではないのだろうか。

人間はそのような脱自的想像をなしうる力を「知性」と呼んでいたのではないだろうか。

この「ダブル・スタンダード」はしかし本質的にはひとつの水準に帰着する。

よく考えて見れば分かることだが、私が「日本人」であり、「かつての植民地主義的侵略の加害者」であると「みなしている」のは、私が知的操作を経て獲得した自己意識である。

無反省的、非知性的な状態にとどまる限り、私が生まれる前に、私ではない人間が犯した罪過の責任を私が負わなければならないという発想は出てこない。

私がいまの等身大の自分を想像的に離脱して、「日本国民」という歴史的にも地理的にも、はるかに私一身を超える想像的な共同体の成員としての自己意識を獲得することによってはじめて、私は「朝鮮という想像的な共同体」の成員である尹さんを「被害者」とみなし、おのれを「加害者」としてみなすことのできる論理的準位に達するのである。

ならば、そこからさらに想像の翼を拡げれば、「人間たち」というさらに包括的な共同体の成員としての自己意識も獲得できるはずだと私は思う。

その論理的準位において、同じ問題を眺めたら、違う相が見えてくるのではないか、と私は言っているのである。

繰り返し言うが、私は国民国家という幻想の準位では、「加害者」は「被害者」に償いをしなければならないと思っている。

それでもやはり、「国民」という意識は、脱自的想像力によって知的に獲得された「自己意識」に他ならないのであり、パセティックではない語法で、この自己意識の成り立ちについて語ることが、私たちの優先的な課題であるように私には思われるのである。


5月2日

父の病室で終日看病。

父は微熱を出してうつらうつらしている。

横に座ってシグマリオンでばしばしと「女性学」のノートを作る。

エレーヌ・シクスーやリュス・イリガライが何を言いたいのか、それが私には依然としてよく分からない。

「いったい、彼女たちは、何を力んでいるんだろう?彼女たちが必死に紡ぎ出しているこれらの、のたうつような、カオティックなことばは、いったい誰に聞き届けてもらうためのことばなのだろう?」

たとえば、つぎのようなフレーズは、誰あてなのか?

「女性が女性に向けたエクリチュールにおいて、そしてファロスの支配する言説の挑戦に応じることにおいて沈黙以外のどこかで、すなわち象徴界内に象徴界によって女性のために取り置かれた場所以外のどこかで女性を肯定しうる女性的なテクストは男性的テクストとは異なる。」(シクスー)

少なくともバルトとデリダとラカンの理説に通暁していないと、(つまり「エクリチュール」と「ファロス」と「象徴界」の意味が分かっていないと)このフレーズは理解できない。(通暁していたとしても理解できるかどうかは保証できないけれど)

しかし、愚考するに、バルトとデリダとラカンに「すでに通暁」している読者であるなら、言語論/ジェンダー論について、いまさらシクスーから教えてもらわなければならないような知見があるとは思われない。

一方、「ファロス」の意味も「象徴界」の意味もよく分からない読者にとって、このフレーズはいかなる理解をも絶した「呪文」である。

つまり、このフレーズは、それを理解できる読者にとっても、それを理解できない読者にとってもともに「無意味」なのである。

たぶん、「業界人」や「博士論文準備中の大学院生」とかに、「ストックフレーズ」の文例として読まれているのであろう。

私はこういう書き方をする人間は、マルクス主義者であれフェミニストであれラカニアンであれレヴィナス主義者であれ、むかしから信用しないことにしている。

「エクリチュール」というのは仮説である。「ファロス」というのは操作概念である。「象徴界」というのは「治療の方便」である。

それぞれの現場で、「使ってみたらうまくいった」という経験的事例があったからこそ流布しているが、もとは「ただの思いつき」であり、言い出した全員が「いずれもっと実効的な概念がでてくれば、誰も使わなくなるけど、ま、とりあえずね」という節度をわきまえていた(はずの)術語である。

そういう現場での治験の裏付けがあって、条件が整ってはじめて使える操作概念を、「りんご」とか「たぬき」とかいうようなことばと同じように、コンテクストのちがうところで、普通名詞として使用するというのは、ことばを使う人間にとってきわめて危険なことなのである。

だって、そうでしょ?

「象徴界」だって、「ファロス」だって、見た人なんかいないんだから。

見た人がないことばでも、人を動かせるという点で、それは「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」と同じ機能を果たしている。

「それって、ほんとは何のことなの?」

という「子どもの疑問」を決して許さないという点でも、「ファロス」と「八紘一宇」はよく似ている。

意味が分からないけれど、その「ことばづかい」を繰り返すと誰かに「ほめてもらえる」という点でもよく似ている。

ストックフレーズを「まるごと」記憶して、それを疑いもせずに繰り返すとほめてもらえる場所というのに、私は成長過程で繰り返し出会った。

学校というのはもちろんそういう場所だし、学生運動も、商社相手のビジネスも、仏文業界も、そうだった。

「階級」の意味も「大衆」の意味も「資本」の意味も「貨幣」の意味も私は知らなかったが、別に「仕事」に不自由はなかった。

だからたぶんそれと同じく、「象徴界」の意味も「ファロス」の意味も、同業者の過半は知らずに使っているであろうと私は推察するのである。

ことばというものは、そういうふうに「ほんとうは・・・?」というラディカルな問いかけ抜きで流通するものである。

「ほんとうは・・・」という問いかけだって、ほとんどの場合は、辞書の中の単語の意味を辞書の別の単語に置き換える「循環参照」にしかたどりつかない。

ことばというのは、本質的にそういう「いかがわしい」ものだ。

しかし、「本質的にいかがわしくないことばづかい」というものをシクスーやイリガライが求めている、というのがほんとうなら、彼女たちがそういう「先例」を無批判に繰り返しては、話の筋が通るまい。

ことばのイデオロギー性や、制度性についての、本質的な批判がありうるとすれば、その批判は、これまで誰も語ったことがないほどに「無垢な」ことば、「ほんとうは、それって、どういう意味なの?」とどこまでも遡及的に問い続けて倦むことのない、「こどものことば」で語られるべきだろう。

だが、私は彼女たちのことばづかいのどこにも、「自分がいま用いているこの術語は、ほんとうは何を意味しているのだろうか?」という足元を揺るがすような自問を見出すことができない。

彼女たちはいかにも自信たっぷりに、「女性的エクリチュール」なるものについて語ってみせる。

私は、ことばに対する、このような「なめた」態度を「下品」だと感じる。

「下品」であることと「政治的に実効的」であることは別に矛盾しないから、彼女たちの政治的成功には期待がもてるのかもしれない。

だが、これほどまで「ことばの使い方」に鈍感な諸君から「ことばの使い方」について、何かすばらしい洞見を授けられるだろうと期待することはできない。

驚くべき事に、彼女たちの中心的論件は「ことばの正しい使い方」なのである。

おいおい、ほんとかよ。

どうしてそういうだいそれたことが「できる」と思いこむことができたのか、私にはよく分からない。

それって、「瀕死の病床にある人間からきかされる不老不死の秘訣」とか「死刑囚の語る裁判必勝法」と同じじゃないのか、とウチダは思う。


5月1日

なんとか熱は下がったが、思考力がないので、TVでサッカー観戦ならびに阪神戦観戦。

ウチダはラグビー以外はTVも見ない人間なのだが、今年はW杯ということで、世間のみなさまといっしょに盛り上がるべく、ナショナルチームの試合だけはチェックしている。

サッカーの場合は、どうも解説者とアナウンサーのことばが耳障りだ。

妙に浮き上がっているか、妙にクリティカルであるかどちらかで、対象との距離のとりかたが悪い。

TV解説ではセルジオさんという人がコメントしていたが、この人が何ものなのか、何ものとしての立場から発言しているのか、聴いていて分からない。

ヨーロッパや南米を転戦した元超一流プレイヤーなのか、どこかのナショナルチームの代表監督経験者なのか、日本代表チームの強化をサッカー協会から委託されたコーチなのか。

まさか一介ののサッカー評論家ではこれほどえらそうに語れるはずがない。

プレイヤーに対する評価も、ほめすぎかけなしすぎか、どちらかであって、妙にねちっこくて、涼しい愛情が感じられない。

それに比べると、ラグビーの解説の場合は、ナショナルチームのテストマッチでも、相手チームを敵視するような発言も愛国主義的絶叫もなく、一流選手だけが語ることのできる鋭く技術的なコメントがときどきぽつりとはさまれるだけで、選手をつねに「大畑君」というふうに距離感と親しみの両方が感じられる敬称で呼ぶのも好感がもてる。 

サッカー批評において私が日本で一番信用しているのは(他の分野でもそうであるが)小田嶋隆である。

今回の試合についての小田嶋のコメントを再録しておこう。私は小田嶋を(他の問題についてもそうであるように)100%支持する。

全文を読みたい方は「おだじまん」へ。

セルジオが吼えているので、途中でビデオ鑑賞を断念。

私の目で一度観たゲームど、もう一度セルジオの目で観る理由がどこにあるだろう。

スタジアム観戦のもたらす福音ひとつは、先入観なしに試合を観られることだと思う。

腹に一物ある解説者がミスリードをたくらんでも、ナマで観戦した者の脳内映像を編集することはできない。

セルジオよ。

柳沢は、あんたが言うほど悪くなかったぞ。

百歩譲って、柳沢を右サイドに置く采配が言語道断の奇策であるのだとしても、試合の位置づけ次第では、奇策もまた策だ。こんなことは、キミだって本当はわかっているはずだろ?

戦術の深化のために戦略的敗北が必要であるのと同じ意味で、システムの活性化のためにはシステムの死が不可欠だ。とすれば、柳沢の右サイドは、無意味だという意味だけでも意味がある。そうじゃないか?

言っておくが、

「ゴールキーパー無しの試合をやってみたい」

というトルシエの発言は、あれはジョークではない。

状況が許せば彼はそれをやるだろう。

「そんなものはサッカーではない」

とキミは言うだろう。

私もそう思う。

しかしながら、ピッチャーにとって27三振が究極の投球であり、4回戦ボクサーの考える理想の試合が眼鏡をしたままのファイトであるように、ある種のサッカー監督はキーパー抜きのゲームを夢想するものなのだ。

わかってやってくれ。

そして、トルシエを勘弁してやってくれ。

不埒な理想でも持ってないよりは良い、と、そう考えてやろうじゃないか。

何? 代表監督は何よりもまずリアリストでなければいけない?

うん。その通りだ。

でも、リアリストが日本の代表監督を引き受けると思うか?

それに、私見を述べるなら、私はリアリストの失敗に加担するよりは、ロマンチストの敗北につきあってやるつもりだ。

.トルシエ・ジャパンについての国民感情をこれほど適切に語ったことばを私は他に知らない。

 

父親の再入院のお手伝いをしてから町田で、T摩書房の編集者のK山さんと、新書の打ち合わせ。

打ち合わせといっても、まだどんな本にするのか、彼にも私にも腹案がないので、「どんな本にしましょうか?」というお気楽な話に終始する。

私の特技はこういうときに、「実は前から思っていたんですけど・・・」という静かな前振りで、3秒前に思いついたことを口から出任せでいくらでも話せることである。

この技は「3秒前に思いついたことを、これほど確信ありげに人間は話せるものではない」という世間の常識の虚を衝いているので、なかなか見破られないのである。 

 

K山さんと「出版危機」と「新書戦争」について話す。

新書へのシフトは、人文科学、社会科学系の単行本が売れなくなったので、だいたい同じような内容をいささか希釈して、読みやすい廉価版で提供するという、それ自体は悪い趣旨のものではない。

しかし、問題は、その読者が50代、60代の男性サラリーマンに限定されているということと、「入門」的なものを読んで「何となく分かった気になって、それでおしまい」で、さらに興味がわいた方面にディープにわしわしと読み進むようになる、ということがない、ということである。

彼らはいわば悪しき「教養主義」の最後の世代であり、最後の世代に相応しい負の刻印を背負っている。それは「何でも知ってる、ちょっとずつ知ってる。でも深くは知らない、深くは考えない」ということである。

その下の、40代ー30代後半の諸君は、かの「ニューアカ」の洗礼を高校大学時代に受けたせいで、「知的であるとは最新の思想のモードにキャッチアップすることである」という拭いがたい原印象の虜囚である。それゆえ、ご本人たちが「最近のはやりもんには、オジサンたちは、もーついていけんよ」と自嘲気味に『東スポ』を読み出した瞬間に、およそあらゆる知的営為に決然と背を向けてしまうのである。

30代前半以下になると、もう「本を読む習慣がある」人間の数は「手相を読む習慣がある」人間の数より少ない。

これはもちろん彼らのせいではなく、表層教養主義の「オールドアカデミズム」と、ポップでクールでスカスカな「ニューアカ」の先行二世代の責任である。

第一の世代の罪は、知は「網羅的、百科全書的」でなければならない、というこけおどしで人々を恐れ入らせたことにある。

第二の世代の罪は、知的前衛でありたければ、息の続く限り「最新流行」を追い続けなければならず、「***なんて、もう古い」という切り捨てには誰も反論してはならない、という大嘘を信じ込ませたことにある。

知性はどのような意味でも「網羅的」であることなどできない。

知とは本質的に「選択する」作業であり、ある「読み筋」にまつろわぬすべてのデータを排除し、無視することではじめて成立する。

知が網羅的でありうる、という前提そのものが間違っているのだ。

経験的に言って、ありえないことを目標にかかげる人間はどこにもゆきつけない。

知的前衛であることが知性の最高到達点であると信じ込み、「・・・なんて、もう古い」が批判のワーディングとして成り立ちうると思い込むのは、ただの近代的進歩史観である。

いかなる論拠によっても、私たちは後から来たものは、先にあったものより「すぐれている」と言うことはできない。

私たちが知っているのは、カール・ポパーが教えてくれたとおり、「あとから来る理説」によってできうるかぎり「反証しやすい」形態で命題化された理説は「科学的」であり、どんな反証がなされても、あれこれ言い逃れができるように設計された理説は「反科学的」だ、ということだけである。

知性の質が計量されるのは、同時代であれ、先行後続世代であれ、反論者にたいする「対話的な開かれ方」のマナーだけであり、どちらがあとから語ったか、というようなことには何の意味もない。

しかし、戦後半世紀、アカデミズム二世代がかりの日本国民知性劣化戦略がみごとに奏功して、人々は教養を厭い、知的流行を憎悪するようになり、そうしてまったく本を読まなくなった。

なぜ「網羅的知識を持とうと望む必要はない」こと、「知的流行を追う必要はない」ことを、きっぱりと断言し、「あなた自身の極私的知的課題を、深く、熱く、全身をあげて、執拗に追い求め、その深みからあなたにだけ見え、あなたにだけ記述できる世界の眺望を語ること、それこそが、知性の王道である」と言い切る学者がいなかったのであろう。

いたのかもしれないが、少なくとも私はレヴィナス老師のほかにそう語った学者には一人も出会ったことがない。

もう一度日本人を書物に呼び戻すためには、現代日本社会に深く瀰漫している「知的なもの」に対する嫌悪と憎悪を払拭する必要がある。

「知的である」ことは、「お金があること」より「健康であること」より「ルックスがいいこと」より「権力があること」よりも、ずっと人間の本性にかなっており、気分がよいものであるということを思い出してもらう必要がある。