明日は明日の風とともに去りぬ

Tomorrow never knows what wind will take me away: from 1 Jan 2002



12月31日

恒例の「年末フグ大会」に向かっている途中、梅田の構内で携帯が鳴った。

出ると『ミーツ』の江さんである。なんだろうと思っていたら、「今日が締め切りなんですけど・・・」というご連絡である。

てっきり「年内」だと思ってまだ一行も書いてない。(「年内」と言ってもあと一日しかないんだけど)

へこへこ謝りながら、締め切りを一日延ばしてもらう。

「いつもニコニコ現金払い」と「いつもニコニコ守る締め切り」はウチダの少年時代以来変わるところのないモットーであるが、ここにきて立て続けに締め切りを破っている。

忙しいからという言い訳は通らない。やはり気が緩んでいるのであろう。

なぜこのような破滅的状況で「気が緩む」ということが起こるのであるか。

それを「売れてきたので慢心している」というふうに捉えるひともあるだろうが、それは違う。

ウチダは「売れてきたから慢心する」ようなヤワな人間ではない。

私は「売れてなくても慢心している」人間である。

だから、この「気の緩み」はむしろ自衛的なものであろうと私は考えるのである。

窮地にいたってカリカリすると判断を誤ることが多い。

スケジュールがタイトになって、何がなんだから分からなくなったときほど、とりあえずフグなど食し、浅田次郎など読みながら、ぼおっとしていることが必要なのである。(いかにも言い訳じみているけど)

しかし、そういつまでもぼおっとしていられないので、これから『ミーツ』の原稿を「一気書き」する。そののち大学に行ってホームページを更新して、それから正月の荷物を宅急便で送り出して、それから恒例の春日神社の『翁』におでかけする予定。

しかし、それはあくまで「予定」であるので、原稿が書けなかったら、今年はどこにもゆかず、誰にも会わず、飲まず食わずでキーボードを叩きながらの年越しになる。

と書いたのが数時間前であるが、こうやってホームページが更新されているということは、無事に原稿はメールで送ってしまったのである。2時間で書き飛ばしてしまったが、こういう雑な仕事の仕方をしていると必ずや天罰がわが身に下るであろう。

ともあれ、無事に大晦日を迎え、ここに晴れて物書き廃業宣言をすることができるのは欣快の至りである。

本日をもちまして内田樹は営業を終えました。長らくのご愛顧に心より感謝申し上げます。

今後は専門研究にかかわるもの以外の執筆依頼はすべてお断りさせて頂きます。また専門研究にかかわるものでも「いそがしいから、ダメ」という理由でにべもなくお断りする場合がございますので、その場合は悪しからずご了承下さい。

では、みなさまさようなら。


12月28日

今年もあと余すところ三日となってしまった。

年内に原稿をお渡ししますというのがあと二つある。(一つはまだ何も書いてない)

しかしその間に忘年会が二つと煤払いがある。

何が何だか分からないままじたばたしているうちに、ついに原稿を一つ落としてしまった。

原稿は書き上げていたのであるが、締め切りを忘れて鹿児島に行ってしまったのである。

締め切りを守るということについては私はたいへん律儀な男であるのだが、律儀というような古風なものではもはやスケジュールがコントロールできないところまで追いつめられている。

こういうことを続けていると、私のなけなしの社会的信用はますます下落することになるであろう。ああ、困った。

鹿児島から帰ると、メールが59通たまっていた。

このままパソコンのスイッチをオフにしたい気になるが、ぐっと耐えて読み進むとその25%くらいが原稿の催促。

年末に借金取りに追われるという話はよく聞くが、原稿の督促で逃げ回るというのが悲しい。

そこに岩波書店の『図書』からお仕事が入る。

ついこの間、梁川くんと「日本の『良識』を代表するメディアとして『朝日、岩波、NHK』とよくいわれるが、いまだに岩波だけからは仕事が来ない。さすが岩波、堂々たる見識である」という話をして盛り上がっていたのであるが、うかつなことを口に出すものではない。

彼の話では岩波内部では「ウチダに原稿を頼んだら『岩波の仕事はしません』と断られた」といううわさ話がまことしやかに流布していたそうである。まさかね。

その岩波の若い編集者もまた「現代思想の挫折者」であると言う。

私がこれまで会った30代の編集者はほとんど例外なしに「現代思想の挫折者です」という自己紹介の仕方をする。

みんなあの「ニューアカ世代」である。

どういうわけか、この世代の人たちは、「現代思想」とか「哲学」という文字を見ると、肌に寒いぼを生じ、胸に疚しさを覚えてしまうのである。

まるで、むかし意を決してラブレターを送ったら、「あのバカ男、こんな手紙寄越したのよ。身の程知らずに」とクラス中で高笑いした美少女と街ですれ違うときのように。

まことに気の毒なことである。

この世代の特徴は、最新の知的トレンドにスマートにキャッチアップできない人間は「知的じゃない」という思い込みを刷り込まれたことにある。

その結果、「最新モードにキャッチアップできているふりをする」小狡い人間以外のほとんどの若者たちは(正直な若者ほど)「自分はほんとは知的な人間じゃないんだ・・・」というトラウマを抱え込むことになった。

「これが分からない人間は知的じゃないぞ」という恫喝は短期的には「よし、がんばって知的人間になるぞ」という奮起をもたらすこともある。

しかし、長期にわたってそれが続くとストレスで人間は疲れ果ててしまう。そして、「もういいよ、オレは。知的じゃなくても」ということになってしまうのである。

いまの出版危機の遠因の一つは、「現代思想の遭難者」を大量に生み出した日本の80−90年代の教化的言説にあるような気がする。

でも、そのおかげで「現代思想の遭難者救護活動」についての社会的需要が高まり、私のような「現代思想のセントバーナード犬」がブランデーの小瓶を抱えて、雪山を走り回るような仕儀になっているのである。わんわん。


12月24日-28日

鹿児島大学にて集中講義。

フルアテンダンスで、朝から晩まで公私ともにお世話いただいた梁川ご夫妻、お忙しいなか聴講下さった飯田先生、桑原先生に衷心よりお礼申し上げます。

ご静聴下さった学生諸君もありがとう。面白かった?

梁川くんのご案内で、さつまあげ、焼酎、ざぼんラーメン、ぶたしゃぶなど鹿児島の珍味を食べ倒し、デブになってしまった。

また美味しいものをたべにいきますね。


12月23日

あっと言う間に今年も終わってしまいそうである。

筒井康隆のSFにだんだん時間の経過が速くなって、最後の方は「あれよあれよ」と言っているうちに「時の終わり」が来てしまうという、非常にリアルな物語があるが、あれはたいへん実感のこもったものである。

ついこの間まで16歳くらいであったのが、あれよあれよというまに三十男となり、あれよあれよというまに厄年を迎え、あれよあれよというまに馬齢重ねること五十有余年。このままでは次の夏くらいで還暦を迎え、来年冬あたりには卒寿の祝いということにもなりかねない。

営業期間が残り少なくなったところで「駆け込み」発注があって、書かなければならない本が残り22冊となった。こうなると「生きているうちに原稿をお渡しできれば」というのもまるっきりのジョークとは言えない。おそらく22冊のうちのいくつかについては、担当編集者は原稿をとりはぐれているうちに私の訃報に接することになるであろう。

ようやく冬休みになったが、仕事が立て込んでいて、大掃除も夏物冬物整理もできないし、買い物にも出かけられない。

毎朝まずパソコンを開けて、メールを読んで返事を書く。それだけで昼過ぎとなる。

昼時ともなると空腹になるのでラーメンなどを食す。ものを食すとたちまち睡魔に襲われる。そのまま昼寝をする。日が暮れる頃にぼおっと目をさまして、あわてて仕事を始める。ものの二時間もすると日はとっぷり暮れ、「本日最初の一杯」の刻限となる。本日最初の一杯を頂いてしまうと、私の勤労意欲は「あと白波とぞ失せにけり」状態となり、そのままへたり込み、映画を見るか小説を読むか音楽を聴くか、あるいは悪銭を身に帯びて街に繰り出すか、いずれ再び睡魔が訪れるまでときは空しく過ぎ去るのである。

20日がアジサカ画伯ベルギーより一時帰国を奉祝する会、21日が合気道会納会、22日が鈴木晶先生を迎えての街レヴィ派総決起集会といかにも年末らしい賑やかなイベントが続いた。

鈴木先生が来られるというので、『ミーツ』からは江さんと青山さん、ジャックの街レヴィ派は橘さん国分さん小林さん野村さんと常連が顔を揃える。

ワインバーでウチダと久闊を叙していたら、それまで静かに呑んでいたカウンターの客たちが次々とスツールを降りて、鈴木先生にサインを求めて著書を手ににじり寄ってくるというカフカ的=フィリップ・K・ディック的情景にはさすがの鈴木先生も驚かれていた。

おそるべし、「人民の海を泳ぐ」街レヴィ派の底力。


12月21日

合気道会の納会。

納会前のお稽古、ふだんは開始時刻には二三人しか来ていないで、途中から五月雨式に登場するのであるが、今日はなんだかやたら多い。途中で数えたら、25人。

気錬会のPちゃん、街レヴィ・武闘派の橘さん、教育大の原君、深草君という芦屋地元の日笠さんという常連に、京大の赤星君、新人の阪大の佐藤さんと「男子組」もずいぶん人数が多くなってきた。男子は松田高志先生一人だけと時代を思うと隔世の感がある。

稽古では最近凝っている「站椿功」を稽古に取り入れたり、いろいろ怪しいことをしてみる。稽古では次々と新奇なことを思いつくので、すぐに時間が来てしまう。

先週の多田塾研修会では、多田先生が「わざの伸びと冴え」ということをずいぶん力説されていた。

「伸び」というのはアナログな流動のことだし、「冴え」というのはデジタルな断絶のことである。細かく切れているが連続していて、流れていてすぱっと切れるような動き。

なんだか矛盾しているようにも聞こえる。

頭で考えると、矛盾しているように聞こえるけれど、先生の動きを見ていると「そ、そうか」と身体は納得する。

そういう動きをどうやって出すのか、やはり呼吸や練功で身体を練ってゆくということしかいまは思いつかない。とにかく、いろいろ試みてみる。

稽古をされる方たちは私の仮説の「実験台」にされているわけであって、毎回いろいろな新しいことをやらされて、以前一生懸命稽古した技が顧みられないのも、なんだか申し訳ない気もするが、こちらも発展途上ということで、ひとつご海容願いたい。

稽古で一汗かいて、さっそくわが家へ。

前回の学祭打ち上げのときはずいぶん人数が少なくて、ついしみじみ語り合ってしまったが、今回は25名が14畳のリビングにひしめきあう大宴会。

シャンペン、ワインなどをごくごくいただきつつ、11月の甲野先生の講習会ビデオと、内家武学研究会の光岡英稔師範の站椿功やカリ、シラットなどを上映。見終わるころには全員が指先でバランスをとる光岡先生の意拳の不思議な動きの真似をはじめる。この「無反省な乗りの良さ」がわが合気道会の最大の強みである。

前夜が恒例の「シングルベル」で、朝の6時半まで学生諸君は年に一度の「演劇祭」にはげしく打ち興じていたので、会がすすむにつれ、一人また一人ばたばたと眠り込んで行く。

「シングルベル」は男子禁制の「演劇祭」であり、私はときおり漏れ伝え聞くだけで、その現物を見たことがないのであるが(その片鱗は一昨年の私の誕生会で拝見した)、一月以上前から週末ごとに泊まり込みで稽古を重ね、台本がホッチキスで止められないほど厚い芝居を「三本立て」で上演するというのである。

OGたちの今年の出し物は上演時間3時間だったそうである。そんな長い芝居60年代のアンダーグラウンド演劇でもなかなかやらなかった。

今年は午後10時に開演して、三本目が終わったときにはしらじらと夜が明けていたそうである。

まことに活発なお嬢さんたちである。

私も前夜はジャックで、江さん、ベルギーから一時帰国のアジサカコウジ画伯、それに「コミーツ」の学生さんたちと午前二時過ぎまでバトルトークだったので、さすがに10時になると眠くなり、いつもよりだいぶ早くにお開き。

例年は、数人がそのまま泊まり込み、翌日わが家の「煤払い」に参加いただくのであるが、今年はもうすぐ引越ということで「プチ煤払い」を年末にひとりで済ませることにして、泊まり込みはなし。その代わりに引越のときには動員をかけてお手伝いしていただくことにする。

みんなが帰ったあと、お掃除をしているうちにはげしい睡魔に襲われ、そのまま爆睡。


12月17日

朝日新聞の取材がある。

学芸部の記者の方が「大衆社会」について20分ほどお話を伺いたいという。20分のインタビューのために東京から神戸まで来てもらうのはいくらなんでも申し訳ないので、「電話取材でいいですよ」と申し上げたのであるが、会ってお話しがききたいというので、来てもらうことになった。

エリートと大衆、公益と私益というようなずいぶん古めかしいフレームワークでしばらく話す。こういう論件が「古めかしい」というふうに思われずに改めて論議されねばならないというところが当世の問題なのかもしれない。

残り時間の大半は朝日新聞批判。

連載を寄稿している人間と、朝日の記者自身とが口を揃えて「朝日はこのままではいかん」と言うのであるから、問題はかなり深刻である。

最大の問題は、おそらく送り手も気づかないうちに、「口にしてもよいオピニオン」の許容幅が年々狭められているということである。

意見の幅だけでなく、記者が深みのある知見を語るということはほとんどなくなった。

拡がりも奥行きも、みんなが「このへんで、いいべ」というラインを無意識に手探りして書いている。だから、どの頁を開いても「同じような」トーンの記事ばかり読まされることになる。

均質的である、というのは誤解されやすいことばだが、「隣の人間と似ている」という意味ではない。(間違えないでね)

人間誰だって隣の人間と似ている。

ただ、あまり似ていると気分が悪いので、ちょっとだけ変化を付けるのである。その変化によってもたらされた差異が有意であれば、とりあえず「私のアイデンティティ」というものは記号的に認知される。

このメカニズム自体は、どれほど混質的様な社会であろうと均質的な社会であろうと、まったく同じように働いている。

違うのは、均質的な社会というのは、あまりに狭いニッチにぎうぎう詰めで人が暮らしているせいで、ほんのわずかな、目にもつかないようなトリヴィアルな差異でさえも「記号的に有意」なものとして認識される、ということである。

「均質的な社会」に暮らす人々といえども、主観的には「少しも均質的ではない」のである。

だって、隣の人間とはたしかに違うんだから。

ただ、まつげの長さが1ミリ違うとか、瞳の彩度が1度違う、という程度の微細な差異でさえもがくっきりと有意化されて個体を差別化する記号的差異として認識されるというのが「均質的な社会」なのである。

そういうトリヴィアルな差異を検出できる、というのはある意味では一つの才能である。

「米粒に1000字書く」文化の国なんだから、そういうのはお得意である。

「米粒に1000字書く」ということは、米粒の幅に1000種類の記号的差異を読みとれるということであり、米粒が一合もあれば、そこに全宇宙がカタログ化される、ということである。

日本社会の均質性というのは、そういう種類の均質性である。

日本人たちのあいだにも差異はたしかにある。

しかし、それがあまりに微細なので、社会全体を遠目で見ると、成員全員が「米粒幅」にぎっしり詰め込まれているようにしか見えないのである。

私はそれが「息苦しい」と申し上げているのである。

日本の若いミュージシャンの音楽を聴いていると、私には全部同じにきこえる。

やっているご本人たちは「オレたちの音楽は、ぜんぜん違うよ。あんなのと一緒にしないでくれよ」と口を尖らせて怒るだろうが、「それでも、同じにきこえちゃう」ということについては、一考したほうがよい。

それは、彼らが棲息している音楽的ニッチが非常に「狭い」ということである。

「ニッチが狭い」ということ自体は別に悪いことではないし、中にいる人間たちが「これでいい」と言うなら、端から文句をつける筋合いでもない。

だけど「狭いよ」、と私は申し上げているのである。

すごく狭いところに犇めき合っている(「犇めく」は「ひしめく」と読むのだよ。実感がこもっているね)こと、それ自体は悪いことではないが、「そこが世界の全部だ」と思っているのは、あまりよくないことである。

混質的な社会と均質的な社会の違いは、トータルで成員をずらりと横に並べてみたときに、違和の幅が広いか狭いかということである。

そこで市民として許容される個性の「カタログ」が厚いか、薄いかという違いである。

どちらの社会も「差異の数」は市民分だけある。

問題はひとりひとりの「差異の幅」である。

差異の幅が広い社会は、生態学的にニッチが広い。だから、いろいろなタイプの人間が棲息することを許される。

ニッチが広い社会なら、音楽だって、文学だって、映画だって、政治過程だって、経済活動だって・・・みんなもっともっと「自由気まま」なもののはずだ。

それがほんとうに恐ろしいほど狭苦しい許容範囲にぎちぎちに詰め込まれている。

その「外側」があるということに思いもよらないし、みんなが不機嫌なのは「酸素が足りない」からだということにも気づいていない。

そして、狭苦しいニッチの中で、「午後五時11分01秒と午後五時11分02秒のあいだの黄昏の色調の差異」みたいなものを差別化することに必死になっている。

メディアは、そういう日本社会の均質性を言説のかたちで先取りしていると私には思えるのである。

 

朝日新聞が帰ると、朝日カルチャーセンターから講演のご依頼が来る。

信田さよ子さんという家族問題をテーマにしているカウンセラーの方と家族問題をめぐっての対談という企画。信田さんが私の本を読んで、一度話をしてみたいということでのご指名頂いたそうである。

コーディネイターの米山さんという女性は以前、甲野善紀+田口ランディ対談(司会・ドクター名越)という異種格闘技イベントをプロデュースした豪傑である。あきらかに「ご縁ライン」がくっきりつながっているのが分かる。

 

講演依頼が済むと、『日経ウーマン』という雑誌からインタビュー依頼。

これも女性記者の企画のようである。

私の書いた本の愛読者であるとおっしゃるのであるが、「女の人はあまり仕事なんかしないで、ごろごろしてましょう」というようなことを提唱している人間が『日経ウーマン』といういうなばりばりのメディアで発言したりしてよいのであろうか。

 

神戸女学院の中高部からお電話がある。

中高の礼拝でお話をしてくれというご依頼である。高校生たちから中高部長に「大学のウチダ先生を礼拝に呼んでください」というリクエストがあったそうなのである。

まさか中高生が『おじさん的思考』などという本を買うはずもないので、これは詮ずるに、彼女たちが『ミーツ』を愛読しているということなのであろう。

礼拝で話をしたことは二度あるが、中高生の前というのははじめてである。

中高生たちに言いたいことはやまのようにあるので、話させていただけるのなら、いくらでも話すが、時間は8時半から50分まで。朝早くてつらそうだ。

 

文学部事務室のメールボックスを開けると、「大田区東矢口・・・」のO井さんという方からお手紙が来ている。

「東矢口のO井さん」といえば、『おじさん的思考』に出てきた「毛皮を着た青学の綺麗な女の子」である。しかし、名前が違っている。

開封してみたら、そのかつてのガールフレンドのお母さんからであった。

たまたま『婦人公論』と『讀賣新聞』を読んで、そこで偉そうなことをしゃべっている男の写真に、その昔、のべつ家に上がり込んで、ぱくぱくご飯を食べたり、ごろごろTVを見たりしていた、娘のボーイフレンドだった不良大学生の面影を見て、なつかしくなったのでお手紙を下さったのである。

あのころは、このお気楽な青年はこの先どうなってしまうのかと懸念しておりましたが、立派に初志貫徹されて学者になられたのですね、これからも応援してますよ、という温かい文面であった。

この母上は思い返すと、なかなか親身な方であった。

「あら、また来てたの」と冷たく睨まれたこともあったが、よくご飯を食べさせてくれたし、ときどき私に「そんな夢みたいなことばかり言ってないで、卒業してちゃんとしたサラリーマンになったら」というような説教もしてくれた。

お嬢さまとはつきあって二年ほどで別れてしまったので、それ以来、矢口渡(やぐちのわたし)の駅では降りたことがない。


12月16日

四年生ゼミ最期の日。なんとなくしみじみと終わってから、我が家に移動して、「打ち上げ忘年会」。今夜は「ちゃんこ鍋」

私が「汁」と「豆腐」と「白菜」と「こんにゃく」と「合鴨」を提供し、残る動物性蛋白質は学生諸君の持ち寄りである。鯛、鶏肉団子、うずら巻き、キノコ、餅、うどんなどがどんどん放り込まれて「闇鍋」状態になる。

シャンペンで乾杯してから、わいわいと鍋をつつく。

この年度の四年生はみんな「うまのあう」仲のよい人たちであったので、ずいぶん宴会をした。卒業ゼミ旅行もみんなで城崎温泉に蟹を食べに行くことになった。

愉快な子たちなのであるが、唯一の欠点はゼミの教師の研究活動に対してきわめて関心が低いことである。

「先生『婦人公論』見ましたよ。変な顔で写真撮られてましたね」

あれは9月の話だろが。

「先生、むかし朝日新聞になんか書いてましたね。最近の大学生は幼いとか・・・」

そのあとも毎月書いてたんだよ。

「せんせいのナントカという本、本屋にありました」

ナントカという本はないだろう。

「先生の女がどーたらという本、私買いました」

女がどーたらはないだろう。

「『ミーツ』の先生の連載おもしろいです!私、毎月立ち読みしてます」

買ってあげなよ。

しかし、この点以外はたいへんによい子たちである。

あとはちゃんとした卒論を書いて頂きたいと念じるばかりである。


12月15日

久しぶりの多田塾研修会で新宿抜弁天の本部道場へ。

多田先生はじめ山田師範、坪井師範、今崎先輩のお歴々に多田塾合宿以来のご挨拶を申し上げる。ということは、私はこの日の参加者の中では、入門年次上から四番目の「長老」なのである。

まったくこんなに長く合気道をやることになるとは思わなかったですね、と帰り道ごいっしょした今崎先輩と話し合う。

背中の筋肉痛が抜けきらないので、今日も体術はパスのつもりであったが、幸いにというべきか、体術は最後の20分だけであと3時間余はフルに稽古に参加できた。

多田先生のお話することばが一言一言身にしみる。

昔は、自分とはあんまり関係ないレベルのむずかしい話だろうと思って聞いていたが、さすがに28年目になると、しみじみ身にしみることばかりである。

もちろんもっと早くから先生の教えの意味が分かっていた人もいるのだろうが、私程度の武道センスではこれくらいの歳月が必要だったのである。

とくにこの1年の、甲野先生との出会いを通じて、ずいぶんと合気道についての理解が深まった。

多田先生は中村天風先生の教えをつうじて大先生のことばの意味が分かったことが多いということを何度か話されていたが、少し離れたところに確固とした参照項があると、「本筋のこと」についての理解は進むものである。

28年稽古してきて、いまさらながら稽古のたびに発見がある、ということがほんとうにありがたい。

膝もぼろぼろ、腰もがたがたという文字通り「足腰立たない」爺になってしまったころになって、武道の術理がだんだん見えてくるというのはアイロニーではなく、たぶんこれが凡人の修業の本筋なのであろう。馬齢を重ねるというのも、なかなか棄てたものではない。

 

久しぶりに稽古でたっぷり汗をかいて、速攻で新宿プリンスホテルに投宿。

今夜の「バトルロワイヤル宴会」の会場は新宿百人町の韓国料理。7時からなので、まだ小一時間ある。お風呂にはいって汗を流し、エアーサロンパスを背中に大量噴射して、バトル会場へ。

新宿のこのあたりは私が大学生のころとはずいぶん様変わりしてしまった。

まさに国際都市「不夜城」である。

会場が分からなくてうろうろしていたら、かつかつと下駄音も高らかに闊歩する音がきこえる。案の定、甲野善紀先生とその「期間限定美人秘書」大出真里子さん。

期間限定であろうと地域限定であろうと、「美人秘書」とはうらやましい限りである。

いいなあとぼおっと見ていたら、「何言ってるんですか、ウチダ先生には学生さんたちがいるじゃないですか」と甲野先生はおっしゃる。でも先生、うちの学生さんたちは私に用事を頼むことについてはやぶさかではないが、私の用事を減らす方向にはそれほど関心がおありにならないのですよ。

会場に三人で先着。そこに晶文社の編集の足立恵美さんとライターであり松聲館の門人でもある田中聡さんが到着。

田中さんは甲野先生の本を来月晶文社から出すのである。足立さんはその担当者。私はどちらも初対面であるので早速名刺を交換。

稽古後でお風呂にまではいってしまったので全身が「ビール!」状態なので、ランディさんと安藤さんを待たずにとりあえず生中で乾杯。

ビールが全身の細胞にしみじみと染みわたり、舌がなめらかになる頃に、田口ランディさんと晶文社の安藤聡さんが登場。

いよいよバトルロワイヤル宴会の始まり。

ランディさんは想像通りのキュートでスマートな女性である。

「ぼく、ランディさんのファンなんです。本、読んでます」といきなりミーハーモードで宴会が始まる。

そもそも甲野先生とのご縁は、甲野先生がご自分とランディさんの両方について言及しているサイトを検索したら、私のホームページがヒットしたというところから始まったわけであるからして、私がこのお二人のファンである、というのが今夜の宴会のもともとのきっかけなのである。

「個人的アイドル二人」と同席して晶文社のおごりで酒池肉林というわけなのだから、ウチダ的には「夢ではないか」状態である。

すっかり興奮して、3時間、わいわいとしゃべりまくり、爆笑のうちに宴会は果てる。

調子にのってずいぶんとお二人には失礼なことを申し上げてしまったような気がするけれども、どうかご海容願いたい。

実に愉しい一夕であった。

セッティングしてくださった晶文社のお二人の編集者と、多忙な中おつきあい下さった甲野善紀先生、田口ランディさん、そして、私の危険なジョークに受けまくってくださった田中聡さんに心からお礼申し上げたい。

甲野先生とは来月の12日NHKのラジオ深夜便で対談相手としてごいっしょさせて頂くことになっているので、またお会いできる。

80分生放送しゃべりっぱなし、という無謀な企画である。どんな展開になるか見当もつかない。聴取者はともかく、話している二人だけは大いに楽しめそうである。

一日のうちに、多田先生と甲野先生と田口ランディさんに会うという、実にヘビーにしてディープな一日ではありました。


12月13日

期間限定物書き廃業の日まであと2週間となった。

「もうしわけありません。ウチダの営業は終了しました。またのおいでをお待ちしております」と仕事を断るのはどれほど気分のよろしいことであろうか。(すでに新年からの連載を二社断ったが、なかなか気分のよいものである)

バックオーダー19冊の本はもちろんこれからも書き続けるが、メディアには出稿しないのである。

どうして、メディアに出稿したくないのか、その理由はいろいろ考えたし、いろいろ書いたが、最近、またひとつ腑に落ちることがあった。

メディアにものを書くと、怒る人間が多いからである。

私のところに「怒りのメール」というものを送ってくる人がときどきいるが、これが例外なしに新聞雑誌の読者である。(そのほとんどは朝日新聞の「e−メール時評」の読者である)

たいがいは「さきほど新聞を開いたらこのような非常識なことが書いてあったが、いったいおまえは何というとんでもないことを言うのであるか」というような感じの叱責メールである。

「おまえの本を大枚投じて購入したが、ろくでもないことばかり書いてあった。金返せ」というような投書は来ない。

同じように、図書館で借りて読んだ人も、友だちに勧められて読ん人も、ブックオフで買って読ん人も、私のところには文句を言ってこない。

なぜ新聞雑誌の読者はその怒りをただちに私にぶつけ、量的にはその数十倍非常識なことが列挙してある単行本の読者は私に向かっては怒らないのか。

詮ずるに、それは、ここに「自己責任」というものが介在しているからである。

大枚を投じて、新刊でバカ本を買ってしまったことは私にも経験があるが、そのときの怒りの向かう先は自分の選書眼の低さであり、著者ではない。

図書館や古書店で本を選ぶときに読むべき本を間違えたのは誰でもない自分である。

ろくでもない本を勧めるような愚鈍な友人を持っているのは他でもない自分である。

バカな文章を読み、時間を空費した責任はあげて「ご本人」にあるわけで、そこに書いてあることがくだらなければくだらないほど、自責と自己嫌悪の念は高じるのである。

人はそういう恥ずかしい経験を積み重ねて、しだいに「本の選び方」にも「友の選び方」にも慎重になってゆくのである。だから選書における自責と自己嫌悪はすぐれて教育的な経験であると言わねばならない。

しかるに、新聞雑誌などで「何気なく読んだ」文章については、読者の側には「選んだ」自己責任というものがない。

だって、その人は、まったく違う目的(政治記事を見るとか、料理記事を見るとか)でその媒体を購入したわけで、その購入自体は本人にとって自己責任に照らしてなんら非の打ち所のない「適切」な行為だからである。

そこに、たまたま「ろくでもない文章」が載っていた。

こんな「ろくでもない文章」に対してオレは金を払ったつもりはないぞ、と読者は思う。

おっしゃるとおりである。

「金を払ったもの」については人間にはそれを「選んだ」自己責任というものが生じるが、「金を払ったつもりのないもの」に対しては、一片の有責性もない。

だから、一読したあとの怒りと不満はストレートに著者に向かってゆくことになるのである。

「なにをぬかすか、このバカは!」

ということでさっそく私の名前を検索し、そのホームページを訊ね当て、そのメールアドレスに「怒りの投書」をしてくるのである。

こういう短絡的な怒りの投書の中に掬すべき知見が語られるということは経験的にないので、私は通常そういうものは、二三行読んでそのまま「削除」してしまう。

しかし、最近ちょっと興味深い同傾向の投書が二つあった。興味本位でつい最後まで読んでしまった。

それをご紹介したい。

ひとつは「貧乏を恥じるのは恥ずかしい」という趣旨のエッセイについてのものである。

『朝日新聞』をお読みでない読者のためにまず私の書いたものの全文を掲げる。

 

人事院のマイナス勧告に準拠して、私の勤務する大学でも給与が下がることになった。

それと同時に専任教職員の減員、担当コマ数増など、労働強化も進みそうな気配である。給与は下がり、仕事は増える。そういう時代なのだから仕方がない。こういうときは考え方を切り替える方がいい。

友人のビジネスマンが前に「絶対会社を潰さない秘訣」を教えてくれた。「入る金より出る金が少なければ、会社は永遠に潰れない」というものである。なるほど。

にもかかわらず,実際には破産する企業があとを断たない。

なぜか。

それは人間が「生活水準を上げる方向には簡単に変化できるが、下げる方向には変化しにくい」生き物だからである。

経営が赤字になってもじゃぶじゃぶ配当や賞与を出すようなことができるのは企業の財務体質の問題というより経営者の心性の問題である。

彼らは貧乏になるのがいやなのだ。

会社が貧乏になったら、そこで働く人間もいっしょに貧乏になるというのは「ものの道理」である。それを嘆き悲しむことも恥じることもない。

貧乏であることを卑しむ心根は貧乏であることよりずっと貧しい。

広い一戸建てが狭いアパートになり、ベンツが軽四になり、ハワイが江ノ島になるくらい、どうだっていいじゃないか。

国産の軽四、性能いいし。

 

と書いたところ、それは「金持ちの言い分」ではないかという抗議がと来た。

あなたは貧乏ではないから、「貧乏だっていいじゃないか」というようなお気楽なことが書けるのである。人間の人生を変えるような貧乏だってあるはずだ、というご指摘である。

この人に対しては次のようなメールでご返事した。(この人の書き方が礼儀正しかったので、そういうときはご返事をするのである)

 

メール拝受しました。

あの時評で書きたかったことは一つだけです。

それは「貧乏であることを卑しむ心根は貧乏であることよりずっと貧しい」という一行です。

貧しさというのは比較の中でしか機能しないものです。

日本は2000年の一人当たりGDPはルクセンブルクについで世界二位です。(37,556ドル)アメリカより2000ドルほど上です。これはフランスの1・75倍、スペインの2・7倍にあたります。

年収377万円の二人以上世帯にある家財の普及率は、冷蔵庫、洗濯機、カラーテレビが99%、エアコンが78%、VTRが71%、自家用車が73%です。

平均世帯年収は761万ですから、その半分でもこの生活ができるということです。

このような状況の中で自分を「貧しい」と感じる日本人は、何を基準にしてそう感じているのでしょう。

昨日の新聞によると、グアテマラの日雇い農民の日給は240円です。365日一日も休みなく働いても年収87、600円です。

グアテマラやソマリアの人の前に立って、なお自分の生活を「貧しい」と言える日本人がいるでしょうか。

貧しさというのは、限定的な比較の中でしか意味のないことばです。

あなたの場合でしたら、自分と同世代の、自分と同じような階層の、同じような能力をもった同学齢集団のなかでの比較で、自分の貧乏というものを位置づけていると思います。

でも、そういう比較はほんとうに視野の狭いものです。

そういうことばにあまり振り回されるべきではない、ということを私は書いたのです。

「人生を変えるような貧乏」というのは、グアテマラの農民のような救いのない貧困のことだと私は思います。

その状況では、ほとんどいかなる個人的努力も報われる可能性がないのですから。

今の日本で、ほとんどいかなる個人的努力も報われる可能性がないような仕方で未来が閉ざされた「貧乏人」は、ごく少数の例外的事例だけだと私は思います。

 

次の回には「古書店の出店規制と図書館への補償金」の問題について書いた。こんな文章である。

 

最近著作権について二つのことが話題になった。

ひとつはブックオフに代表される巨大な古本屋の出現によって、コミックを中心に新刊の売り上げが下落したことに漫画家たちが不安を抱いて、規制を訴えたこと。ひとつは公共図書館が無料で本を貸与するせいでさっぱり新刊が売れないから、図書館は補償金を出せ、と作家たちが言い出したことである。

いずれも新刊が売れない出版不況というご時世が背後にあってのことだが、この訴えに私はあまり共感できない。

もの書きのはしくれとして基本的なことを確認させて頂きたいが、私たちが何かを書いて発表するのは「一人でも多くの読者に読んで欲しい」からである。頒布形態がどんなものであるかは副次的なことである。

古本屋であろうが、図書館であろうが、インターネットであろうが、どんな媒介を経由したにせよ、書いたものが一人でも多くの読者の眼に触れれば私は嬉しい。

金銭的なリターンはあればそれに越したことはないが、なくても別に構わない。

書いた本を全部裁断する代わりに一億円払うというオプションと、その本を全国の図書館に無料配布するのとどちらがいい?と問われたら、私は迷わず後者を選ぶ。

いま一瞬でもためらった人は物書きには向いてないと私は思う。

 

これに対して、怒り心頭に発した人からはかなり痛烈な罵倒メールが届いた。

ことばが乱れていて、よく意味が取れなかったのだが、「筆一本で生きている売文業者」の気持ちがお前のような安楽な身分の大学教師にわかってたまるか、という趣旨のものであった。

私はこの手の「おまえのような・・・にオレの気持ちが分かってたまるか」というようなワーディングをする人間の話はまともにとりあわないことにしているのだが、気になることが書いたあったので、ちょっと解説させていただくのである。

私は別に貧苦にあえぐ「売文業者」のみなさんのお仕事の邪魔をしたつもりはない。

ブックオフについては「コミックの新刊が売れなくて困る」という漫画家の事例を念頭において書いたのである。この運動の発起人にはちばてつや、松本零士といった超メジャーなみなさんが含まれている。『ジョー』と『ヤマト』があれだけ稼いで、まだ新刊が売り足りないのかなあ、というのが私の率直な印象である。

ようやくコミック単行本が出たばかりの新人マンガ家の場合にしても、一人でも多くの読者に名前と画風を知られることの方が、(そして、その読者が次は新刊を買ってくれる可能性に賭ける方が)いくばくかの印税を確保することよりもクリエイターとしてのコストパフォーマンスはよいのではないだろうかと考えたのである。

図書館で本を借りる人間多すぎて新刊が売れないから、図書館は補償金を払えという作家たちの言い分も私にはどうしても理解できない。

作家たちの言い分とおり、図書館が新刊購入のたびに、それに上乗せして、作家に対して補償金を払うということになると、その結果として、年間に購入される新刊は補償金分だけ「減る」ことになる。

補償金分だけ新刊書は売れなくなり、図書館利用者はその分読む本の点数が少なくなる。

これによっていったいどこで誰が利益を得ることになるのか私にはよく分からない。

私に怒りのメールを送りつけてきた売文業者の方は、ブックオフを出店規制し、図書館から補償金を取り立てることで、具体的にどういう利益を得ることになるのであろう。

あるいはこの怒りは、単に余技で本を書いている程度の「お気楽な大学教師」が、必死で働いている売文業者の業界について知ったようなことを言うんじゃないというようなことを意味するだけなのかもしれない。

大学教師が余技で本を書いて、「ぼくの書くものはコピーフリーです、ははは」というような気楽なことを言っていられるのは、他に定収があるからだ、筆一本の人間はそんなこと言いたくても言えないんだよ、というご指摘はたしかに言われてみればごもっともである。

たしかに私は誰にもきがねせずに「気楽なことを書ける」ポジションにいる。

しかし、このポジションは天から降ってきたわけではない。

これは30年かけて獲得した私の立ち位置である。

原稿用紙のマス目を埋めてお金を稼ぐという渡世のスタイルは21歳から30年を越した。

技術翻訳、ラジオテレビの放送台本家、児童図書の下訳・・とあれこれ試行した果てに、学術論文のエクリチュールがいちばん性に合っていると判断し、「好きなだけ本を読み、好きなだけ書ける」この渡世を選んだのである。

これが私にとってはいちばん気分よく「書ける」立ち位置である。

それをして「気分のよいポジションからものを言うな」と言われても困る。

ひとは誰しも「気分のよいポジション」に立ちたい。だからこそそれぞれに刻苦勉励しているのである。

「書く」というのは作家やジャーナリストたちが考えているような、狭苦しい「営業」のことだけを言うのではない。

「書く」というのは、もっと自由で闊達なものだし、そのスタイルはさまざまなものがあってよいはずである。

ガリ切りの同人誌も、壁新聞も、インターネットのウェブ日記も、筐底に秘された草紙も、ラブレターも、学術論文も・・・すべての書き物は、「書くとは何か」というむずかしい問いについて、それぞれに有益で深遠な回答を含んでいる。私はそう考えている。そして、私は「インターネットで発信する学術的物書き」という固有のスタンスから「書くとはどういうことか」について私見を述べているのである。

書くことと金銭的リターンがじかに結びついた職業をしている人間だけが「書くことのプロ」であり、それ以外のライティング・スタイルを取っているのは「シロートさん」なんだから書くこと問題については、黙って引っ込んでろ、というのは、その人たちの夜郎自大な「職業幻想」にすぎないと私は思う。 


12月12日

12のゾロ目は畏友久保山裕司君の命日である。

96年の12月だから、あれからもう6年になる。

久保山君は、毎年書いているけれど、私が大学生のときにいちばん影響を受けた友人である。

友を選ばば書を読みて、六分の侠気四分の熱という俚諺がある。もしかすると文言を間違えて記憶しているのかもしれないけど、久保山君はまさにそのことば通りの快男児だった。

彼は「書を読む」人であった。

高校時代にも読書家は私のまわりにたくさんいた。

うんざりするほどいた、といってもいいくらいだ。

けれども久保山君のように、それが一瞬のうちに骨肉化するような、ダイハードな読み方をする人はいなかった。

高校時代の秀才たち(天才もいたけれど)にとって、書物は「書物的知識用ストッカー」にきちんとラベルを貼られて、「必要なときにいつでも取り出せる状態」にファイルされていた。

でも、久保山君の本の読み方はそうではなかった。

久保山君は、ほとんど無節操に本を読んでいた。そして、どんな本からも、彼のハートに「ぐぐっと」くるフレーズを見つけ出した。そして、それを極上のワインを舌の上で転がすように、何度も何度も口ずさんだ。そして、五分くらいで、そのフレーズは彼の語彙に登録された。

大学一年のある日、彼は初等フランス語の文法の教科書を読んで、命令文の例文の「ルネ、窓を閉めなさい」(Rene, fermez la fenetre)という一フレーズに「ぐぐっと」来た。

たぶん[f]と[r]と[e]の音の連続が、彼の詩的語感のどこかに触れたのであろう。

その秋、級友の漆間君(当時は梶井君)の軽井沢の別荘で、クラス闘争委員会の合宿があったときに、久保山君はそのフランス語のフレーズを秋の空に向かって何度も繰り返しつぶやいていた。

それはハイデガーやメルロー=ポンティや矢沢永吉や中原中也のフレーズと同じように彼の語彙に登録され、それは同時に彼のまわりにいた私たちにとって、「久保山語録」の一つとして記憶されたのである。

本というのはこういうふうに読むこともできる、ということを私は久保山君から教わった。

「音の響きがいい」というような理由で選ばれたフレーズが哲学者の箴言と同じ資格で私的な語彙を形成してもよいのだ、というような言語に対するひろびろとした感覚を私はそれまで誰からも教わったことがなかった。

既存のどんな知的基準にも拘泥しないで、自分の身体的な「気持ちがいい」という感覚に知性の有り金を賭ける潔さを私は久保山君のうちに見た。

以後、それは私の言語的倫理の規範となった。そして、その規範は何度も私を窮地から救ってくれた。

その点について、私はこの友人にどれほど感謝しても尽きせぬほどの感謝の気持ちを抱き続けているのである。

友の冥福をあらためて祈る。

久保山君の若き日の肖像は、ホームページの「非日常写真館」に若き日のウチダの脳天気な顔とともに、掲載してある。


12月10日

ようやく風邪が治りかけてきた。

朝御飯もたべずに、パジャマの上にドテラをはおって、ずるずるコーヒーをすすりながら、そのままパソコンの前にへたりこむ。

こういうときはパソコンが私の「主体」であり、私の頭や手足はその「パーツ」であるような気分になってくる。

バイオメカノイド状態である。

そういうのがウチダはほんらい大好きなのであるが、あまり続くと、「もっと人間らしく生きたい」という反動的な欲求が湧き起こることもある。

「落葉をめでつつ街を散策する」とか「冬のコートを探しながらウィンドー・ショッピングをする」とか「お茶をしながら買ったばかりの小説を読み始める」とか、そういうこともたまにはしてみたい。(「たまに」でいいから)

だが、年内に角川書店の原稿を仕上げないといけない。(「今秋刊行」などという大嘘の広告をホームページで打ってしまったが、原稿がいつまでたっても届かないのでさすがに温顔のY本さんも不安を隠せない)

しかし年末は24日から鹿児島大学で集中講義があるので、原稿書きはできない。ということは残された日数はあと二週間。

年内に訳稿は必ずお渡ししますと中根さんに誓ったあの『困難な自由』の全面改訳はどうなったのであろう。

年内に原稿はかならずお渡ししますと渦岡さんに誓ったあの『身体論』の原稿はどこへいってしまったのであろう。お母さん、あの原稿ですよ。霧積から碓氷へ抜ける山道で谷底に落としてしまったあの原稿。どこへいったんでしょうね。あれは僕の好きな原稿でした。(くどくてすまぬ)

そのほかにもいろいろな人にいろいろな誓いを立てたような気がするがだんだん記憶が遠のいてゆく。

それに今週末は東京で、多田塾の研修会と、そのあと甲野善紀先生+田口ランディさんとのバトルロワイヤル宴会というものが企画されているのである。ふたりのお話をほうほうと拝聴しながらぱくぱく料理をつまんでいればよい、というのならありがたいのであるが、なかなかそうもいかないみたい。

ともあれ、あと二週間、ウチダは悪鬼羅刹のごとき原稿書きマシンとなる予定である。

というわけでここで関係者のみなさんに業務連絡。

マシン状態のウチダは頭が完全に「あっち」へ飛んでいるので、ほとんどひとの話を聞いていません(聞いているような顔はしていますが)。ですから、この時期に「約束」とか「アポ」を取ることはなるべくお控え下さい。「はいはい」と生返事はしておりますが、たぶん何も覚えていませんから。アポの時間に指定の場所にいったがウチダが来ていないというようなことがありましても、どうか「ははは、あいつらしいや」と笑って流して下さい。


12月9日

まだ熱が抜けないけれど、とにかく起き出して、今日締め切りの朝日新聞のe- メール時評の原稿をこりこり書いてそのまま送稿。

世界思想社から「生と永遠」というお題でエッセイ10枚を頼まれていたので、いきおいがついたついでに、『敗戦後論』と『陰陽師』と『ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学』と『呪の思想』と『精神分析の四基本概念』から少しずつ引用して、「お弔いのたいせつさについて」の原稿をまとめる。

「弔うこと」がこのところの私の思考の中心的な主題であるというのは、これまで繰り返し書いてきたとおりである。

「弔うこと」とは「鎮めること」であり、「呪で縛る」ことであり、「名づけること」であり、「かっこに入れる」ことであり、「シニフィアンを中心に象徴秩序を編成すること」である。

というふうに乱暴な等号でつないでしまうと、岡野玲子からフッサールまで、ラカンから村上春樹まで、白川静から井上雄彦まであら不思議、みんな繋がってしまうのである。

なあんだ、そういうことだったのか、と誰もが腑に落ちるウチダの「葬制論」、『墓石に、と彼女は言う』(とーぜん仮題)はちくま新書からそのうちに刊行予定なのだ。


12月8日

福岡の哲学研究サークル「ライオンとペリカンの会」にご招待頂いて、「レヴィナスとラカン」と題する研究発表をする。

木曜から風邪気味で、金曜の午後から発熱。土曜も微熱でふらふらしながら博多着。

改札口に主催者の別府さん、杉山さん、森本さんがお出迎えに来ている。

博多にくるのは15年ぶりくらいのことである。

前回来たのは学会。そのときは学会よりも『博多っ子純情』名所旧跡ツァーがおもな目的で、櫛田神社をはじめマンガに登場する博多の名所を二日かけて巡歴したのである。

今回の会場、赤煉瓦館(むかしは歴史資料館)もそのとき訪れたことがある。(これは郷六平と小柳類子の高二の夏休みのときのデートコースなのである。「なしてついてくるとや」と六平が聞くと、類子がうつむいて「好いとうけん」という場面が忘れられない)

その辰野金吾設計の由緒正しい赤煉瓦の建物で30名ほどの聴衆を前にする。

「ライオンとペリカンの会」は海鳥社の別府大悟さんという編集者が中心になって組織された読書会サークルで、すでに活動10年。これまで竹田青嗣、加藤典洋、橋爪大三郎、小浜逸郎といったひとたちが講義講演をしているそうである。(そのご縁もあって、海鳥社は『加藤典洋の発言』と『竹田青嗣コレクション』というシリーズを刊行している。)

この会で、先般私の『レヴィナスと愛の現象学』が取り上げられ、そこで書いた本人を読んでいろいろ話を聞こうではないかということになって、今回のお招きとなったのである。

そういうハードコアなサークルなので、こちらも「なめられていけない」というので、気合いを入れて「レヴィナスとラカン」などという無謀な論題を立てたのであるが、いかんせん力量不足で当日になってもまとまらない。

こういうときは「つかみ」のネタだけ決めておいて、あとはその場の勢いに任せるということにしているのであるが、今回は全員初対面の会場で、手に余る大ネタで、しかも発熱中というハンディがあり、「その場の勢い」がさっぱり出ない。途中でだんだん熱が出てきて、一瞬自分が何をしゃべっているのか分からなくなった。

それでも四苦八苦して、フーコーの『侍女たち』の解釈を媒介にして、レヴィナスの「他者」概念とラカンの「他者」概念のあいだにはリンケージがある、というとりあえずの結論にはたどりついた。2時間しゃべってへろへろ。

こういう「自転車操業」は止めようと思っても、なかなか止められない。

あらかじめきちっと原稿を準備しておけばよいのだが、結局、いつでもその原稿とはぜんぜん関係のない話になってしまう。

しかし、だからといって原稿を用意しないで行くと、今回のように結論にたどりつくまで綱渡りのようなことをしないといけない。

それでも、その場の雰囲気でなんとなく思考が活性化されてくると、ちょうど飛行機が滑空をはじめるときのように、それまで頭の中になかったアイディアやフレーズや比喩が次々と浮かんでくる瞬間が訪れる。

そのときの浮遊感はうまくことばにならない。

今回も迷走しつつ、とりあえずフィニッシュは決まったので、なんだか気分がよくなり、そのあとのなかなか手厳しい質疑応答もなんとか凌いで、いそいそと街へ繰り出す。

神戸の「街レヴィ派」もテンションが高いが、博多の「街レヴィ派」も過激である。

仕事が終わってほっとしたのか熱も下がり、委細構わずビールワインなどをどんどん頂き鍋をつつきながら、差し出される本にサインとネコマンガを描きながら、ウチダ本の読者のみなさんを相手に好き放題なことをしゃべりまくる。

聞けばこの日の参会者の中には遠く鹿児島、熊本、大分などからも駆けつけて下さった方もいる由。どうも遠いところをわざわざありがとうございました。(熊本からお越しの有江さんはこのホームページのBBSに「エロ爺二段」というハンドルネームで投稿している方であることが二次会で判明。「ええええ」とみんなびっくり)

歓談に時を忘れて、気づけばすでに午前2時半。あわててホテルに走り帰り、パブロンを呑んで寝る。

サバ目で起きだして、ブランチを約束していた大濠公園のボートハウスへ。

別府さん杉山さん高田さんと朝食をともにしながら歓談。

せっかくご縁ができたのだから『レヴィナスとラカン』は完成したら、海鳥社から出していただくことにする。

先日は、これを文春新書に回してウェイティングリストを減らそうか、とも思ったけれど、今回このお題で口頭発表して分かったが、「レヴィナスとラカン」はやはり新書にしてはテーマが重すぎる。「のどに小骨が刺さるようなものをごりごり噛み砕きたい」というコアな読者向きの本として書く方がよさそうである。

レヴィナス本はレヴィナス本として、ちゃんと書きますから、嶋津さん、ご勘弁。

一昨日は世界思想社から『レヴィナスを学ぶ人のために』というオッファーが来たので、海鳥社の新規企画を入れて、これで「負債」は19冊となった。(海鳥社は加藤典洋さんと私の「対談本」というのも企画してくれたので、加藤さんがこの企画を受諾してくださると、これを入れると20冊)

もう「笑いもひきつる」状態である。

ばかすか書きまくって、どんどん編集者に渡して、みんなを楽にさせてあげたいのはやまやまであるが、いくら私が「口から出任せ」といっても、そうそうほいほいと書けるものではない。

もうこれ以上、オッファーはありませんようにと神に祈る。

博多駅で「めんたいこ」を買って、海鳥社刊の『加藤典洋の発言2・戦後を超える思想』を読みながら神戸に帰り、そのままベッドに倒れ込む。ぐー。


12月6日

うー。具合が悪い。

数日前から鼻づまりであったが、ついに発熱。

休講にしようとかとも思ったが、1限、2限とゼミが続く。1限に休講にされると、遠路眠い目をこすりながら登校してきた学生諸君は「な、なんだよお」と呆然自失してしまうのである。それも気の毒であるので、熱をおして登校。二コマ片づけて、もう一つ昼の会議も出る。しかし次の教授会まであと2時間。だんだん熱が上がってくる。

上野学科長に「すいません。熱出たので、帰ります」と告げて、いたわりの声を背に一路帰宅。

パブロンを呑んでベッドに潜り、ルーディネスコの『ジャック・ラカン伝』を読んでいるうちに爆睡。

しかし1時間ほどでチャイムに起こされる。のろのろ起き上がってインターフォンまでたどりつくと、もう切れていた。

起こすなよー。

ふたたび『ラカン伝』を読む。

しかし、ラカンというのも色々と人格的に問題の多い人ではあるようだ。(弟子にこれだけ書かれちゃうというのが問題だよな)

お腹が空いてきたので、のろのろ起き出して「マルちゃんのたぬきうどん」を食べる。

明日は福岡で「レヴィナスとラカン」についてしゃべらないといけないのだが、まだ全然、話す内容がまとまらない。

どうして、私はこういうふうにいきあたりばったりの人生を送っているのであろうか。

昨日の夜は酔っぱらっているところにAERAの編集部から電話取材があって、「ちかごろの大学生の受講態度の悪さについて、大学の先生からコメントを」というお問い合わせ。

私の授業の受講生たちはどのクラスも私語もなくきらきらと目を光らせて静かに私の話を聞いているが、そんな答えではまるで記事にならないので、大学教育のカバリッジが「中等教育と高等教育」の二つの領域にわたってきたという事実について、所見を述べる。

今日の昼間は本学の非常勤の先生から、学生にどうやって上手なプレゼンテーションをさせたらよいのかについてアドバイスを求められる。

別にコツがあるわけではないし、だいたい私のゼミの諸君が「上手なプレゼンテーション」をしているのかどうか私にはよく分からない。(私には面白いから、それでいいんだけど)

ただ、質問をするときに「答えを知っていて、学生が正解するかどうか確かめるために質問する」場合と、「答えを学生に教えて欲しくて質問する」場合では、学生に対する敬意のあり方が違うだろう。

学生がその潜在能力を発揮する機会を最大化するのは、叱責や論破ではなく、教師が敬意をもってその所見に耳を傾けることであると私は思っている。意見の違う人もいるだろうが、私は経験的にそう信じている。というようなことをいきあたりばったりにしゃべる。

家にもどるとファックスや手紙がいっぱい来ている。

見ると、いろいろな原稿の校正のようである。いったい、いつこんな原稿を書いたのか覚えていないが、とりあえず校正する。

机の横には次に書かなければならない締め切り間際の原稿依頼の手紙やファックスが積み上げられている。

一体、いつ書くんだろう、こんなに、と思いつつ、熱が出てきたので、また寝る。

寝ているあいだに「こびとさん」がばりばりと原稿を書いてくれるとありがたいのだが。


12月4日

オフなので一日原稿書き。

7日の福岡での講演会『レヴィナスとラカン』の草稿が毎度のことながらどんどん長くなってゆく。とても一回の講演で話し切れる内容ではないが、こうなったらもう仕方がないので、気にせず書く。

すでに150枚。あと100枚書いたら、本一冊分。

文春の嶋津さんが、「よろしければ引き取ります」と言ってくれているので、そのまま新書の原稿にしていただけるとありがたい。(リストから仕事が一つ減るし)

新書の原稿を書くというのは、ものごとを根底からつかむためにはよい経験である。

対象が一般読者で、レヴィナスにもラカンにもほとんど予備知識がない、ということになると、基本的な概念の解説から始めることが必要になる。

ところが、この「基本的な概念の解説」というものができると、実は話は終わったようなものなのである。

レヴィナスの場合でもラカンの場合でも、それぞれの「他者」という概念をきちんとふつうの人にも分かるように説明できれば、(そして、どうして二人とも「同じことば」をここで使っているのかを説明できれば)、この二人の思想家のいちばん根本的な考え方は語れたことになる。

それと同時に、どうして20世紀のフランスにおいて、「他者」の概念が要請されたのか、その思想史的必然性も語れることになる。

レヴィナスとラカンは「ほとんど同じこと」を書いている。

というようなことを言うとびっくりする人が多いだろうが、考えて見れば当然である。

レヴィナスやラカンやフーコーやレヴィ=ストロースやバルトやブランショのような「死ぬほど頭のいい人」たちが「人間の成り立ち方」について語った叡智のことばがそれほど違っているはずがない。

どのような分野においても、道を究めた人が言うことは、帰する所一つである。

これは半世紀生きてきた私の経験的確信である。

レヴィナスとラカンの最終的な違いがあるとすれば、それはおそらくラカンが「師を持たなかった」ということだけだろう。

レヴィナスにおける「知っていると想定されている主体」は師である。

ラカンにおける「知っていると想定されている主体」は分析家である。

でも、師と分析家はまるで違う。

たしかに転移はどちらにも生じるが、分析家は「金を受け取って治療する」人間であり、症候が寛解したら、用のない人間である。いくらラカン派の分析が長期にわたるといっても、生涯にわたるということはありえない。

師弟関係はそのような個人的な利害得失を超えている。

レヴィナスは自身を古代から続くタルムードの対話的師弟関係のうちに位置づけている。だからシュシャーニ師からレヴィナスが受け継いだ思考法をその弟子たち(フィンケルクロート、ウアクナン、マルカ、レヴィ)らは粛々と継承して、また次の世代に伝えて行くことになる。

弟子が師に仕える仕方は、レヴィナス自身がシュシャーニ師に対して演じてみせてくれたのであるから、弟子たちは師の口ぶりをそのまま真似て、「わが師の叡智は無尽蔵であった」と語ればよい。

そして、師の叡智が無尽蔵である以上、弟子たちのレヴィナス理解がそれぞればらばらであっても、そこには何の不都合もない。というより、弟子によって理解の仕方がばらばらであることこそが師の多面性と深みの証なのである。

だから、レヴィナス派の人々は「どちらがよりよくレヴィナスを理解しているか」というような論争には興味を示さない。

それはラカンの死後の(あるいは死の直前の)、ラカン派の「王位継承」の騒々しさとは対称的である。

ラカンは彼の弟子たちの誰にも「師に仕える仕方」を教えなかった。「学統を継ぐ」というのがどういうマナーを要求するのかを教えなかった。だから、フランスのラカン派の人々はどんどん派閥化して、ずいぶん口汚くお互いを罵っている。

その点については、レヴィナスはラカンより成功した教育者であったと思う。

その他の点については、ほんとうにこの二人はずいぶん似ている。

そして、生前、あの狭いパリの思想界に身を置きながら、お互いの仕事にぜんぜん興味を示さず、たぶんお互いの著作をろくに読んでさえいないこの二人が、「ほとんど同じこと」を考えていたという事実に私はまことに驚きを感じるのである。


12月2日

歯が痛い。

正確には歯茎である。右上の奥歯の歯茎と、中央下の歯茎が腫れている。

どうも歯茎の弱い体質で、ある程度以上きつめにブラッシングすると、てきめんに翌日、歯茎が腫れてくる。

歯茎が痛いとご飯が美味しく食べられない。

しくしく。

能楽のお稽古をして、大学でゼミをやって、杖道のお稽古をして、家にもどって「キムチ煮込みラーメン」を食す。

白川静『漢字百話』を読みながら寝る。

白川先生の本を読むと、漢字というのはほとんど全部が呪礼にかかわるもので、古代人というのはもう明けても暮れても呪鎮の儀礼ばかりやっていたようである。

少し前の私であれば、「ほんとかね」と懐疑したであろうが、いまの私はごりごりの「葬制主義者」であるので、白川先生のご説を拝聴しているのである。

神戸新聞から「いまどきの昭和ブーム」の理由について解説をお願いしたいというインタビュー依頼が来たので、さっそく「呪鎮説」によるでたらめ解釈を縷々申し上げる。

いま流行しているのは1970年代の風俗らしい。

なるほど。1970年代を呪鎮せんとしているのであるか。

70年代というのはどういう時代だったのか、ということが取材にこられた60年代生まれの記者の方にはどうもぴんとこないようである。

「輝かしい高度成長の時代、ということですか?」

そうではございませんよ、お若い方。

あれはとても「恥ずかしい時代」だったのです、ということをお話する。

その前のシクスティーズというのは、ある意味でグローバルな時代であった。

政治でも文学でも音楽でも映画演劇でも、日本でやっていることはダイレクトに世界に繋がっていた。

『朝日ジャーナル』を読むと、世界中の若者たちが「先週やったこと」が報道されており、それは私たちが「先週やったこと」とあまり変わらず、私たちと世界はほとんどリアルタイムで連動していたのである。

それが1970年を迎えてがらりと変わった。

若者たちは街頭から「四畳半」にもどって、そこに逼塞した。そして「神田川」を聴きながら「おでん」なんかを女の子を差し向かいで食べながら、「いつまでも、こうしちゃいられねえよ」と暗くつぶやいたりしたのである。

世界中の若者がいっせいにドメスティックになったのが70年代であった。

みんな内側を向き、足下をみつめ、身体感覚が受け容れるものしか受け容れないようになった。

お酒がひどく身にしみ、音楽がひどく身にしみた時代であった。

そんな時代をいま人々は回顧している。

なんのために?

未来社会のモデルとして?

まさかね。

理由はひとつしかない。『アメリカン・ビューティ』でケヴィン・スペイシーが70年代に回帰したのと同じ理由だ。

死ぬためである。

死ぬ前に、自分の欲望の原点をチェックしに戻ったのだ。

あれから30年、私が求めてきたものはなんだったのか?

酔生夢死の30年間、いったい何だったのか?

その答えが70年代にあるような気がして、そこに戻ろうとしている。

1970年はひとつの歴史的転轍点である。

1945年にいちど「大日本帝国」の時代が封印された。

1970年にもういちどこんどは「戦後民主主義」の時代が封印された。

そのあと、「恥ずかしい日本」の時代が始まったのである。

私たちはいまその三度目の封印に立ち会おうとしている。

なんのために?

だから、死ぬためである。

この時代に引導を渡し、この時代を封印するためである。

私たちは「リセット」しようとしている。

リセットするときには「どこに戻すか」という問題がある。

そのとき、みんなが選んだのが1970年だったのである。

前回の「葬式」の時点にまでもう一度立ち戻り、その分岐点からこんどは違う道をたどってみようとしているのである。

なかなか悪くない着想だと私は思う。

1970年から再スタートして、時代を逆行してゆく。

私の夢想の中で、日本がいちばんよかった時代は1958年(昭和33年)である。

毎年、生活はゆたかになり、家の中には笑いが絶えず、戦後民主主義はまだ元気で、自然はまだ汚されていなかった。

日本の再建を担ったのは明治生まれの人々だったから、江戸時代はまだ「すぐそこ」にあったのに、ラジオからはエルヴィス・プレスリーが聞こえていた。内田百間も小津安二郎もアルベール・カミュも現役ばりばりだった。

あの時代に戻りたい。


12月1日

ひさしぶりのオフ。

オフの日なので集中的に仕事をする。(変なの)

土曜の福岡の講演のお題が「レヴィナスとラカン」というものなので、その草稿をごりごりと書いている。

なぜこの二人の思想家の書くものはかくも難解であるのかについてはたいへん分かりやすい説明ができた。(なぜこんなにわかりにくいのかについての理由が分かっても、それによってレヴィナスやラカンが分かりやすくなるということはないのだが)

残りのネタはレヴィナスの「他者」(Autrui)と「他なるもの」(autre) の概念の区別と、ラカンの「大文字の他者」(Autre) と「対象a」の概念の区別のあいだには何か相称的な関係があるのではないか、という問題である。

私はなんとなく「ある」という直感がするのであるが、これは大ネタなので、なかなか簡単に結論が出そうもない。

うんうんうなりながら『セミネール』を読む。

気がつくと夜の8時になっていたので、あわてて次の仕事である「喪中はがき」の宛名書きにとりかかる。

すでに終日の原稿書きで背中も首もばりばりであるが、「喪中はがき」の投函をこれ以上遅らせるわけにもゆかないので、ひいひい言いながら200枚余の宛名書きを一気にする。

ひとりひとりにコメントやネコマンガを書かなくてよいので、年賀状書きよりはずいぶん楽である。

それでも書き終わったら午前1時。

背中一面にエアーサロンパスを噴射して寝る。