夜霧世今夜もクロコダイル

Another Crocodile in the night mist: from 1 Jan 2001



3月30日

『ためらいの倫理学』の出版記念パーティが祇園の某料亭において盛大に開催された。

ご出席頂いたのは、冬弓舎の内浦亨さん、法政大学の鈴木晶先生、そして「鳴門のロック少年」増田聡さんである。これに装幀の山本浩二画伯が加わると、今回の出版スタッフは全員揃うのであるが、残念ながら画伯はミラノに外遊中。

私は三人を存じ上げているが、お三方は「メル友」仲間で、今日が初対面。

京都河原町の菊水前に集合し、祇園と木屋町でいきなりハイテンションな議論になって、がんがん呑み、がんがんしゃべる。あっと言う間に4時間が経ち、話は盛り上がっているのだが、終電に間に合わないので、名残を惜しみつつお別れ。

増田さんはそのまま御影のわが家へ。さらにアイリッシュ・ウィスキーなどを呑みながら、深更に至るまでしゃべり続ける。

ああ、愉快だった。

内浦さんは物静かな青年であるが、あとの三人はとにかく「しゃべる」人たちである。それが一堂に会しているのであるから、そのスピードは半端ではない。(これだけハイスピードでしゃべったのは、私も久しぶりである。私が「エイトマン加速」をしないと間に合わないのは、ふだんは小林昌廣先生としゃべるときだけである。)

これに山本画伯が加わっていたら、どうなったであろうと想像するだけでどきどきする。

話題は元ガレージ・パンク・ヴォーカリスト、元ロック・ベーシスト、元チャンチキ・ドラマーが出会ったので、まず音楽談義で盛り上がる。そのあと教育問題、大学問題と「どどど」と展開したのであるが、とても再現するエネルギーがない。

テープで録音しておいて、そのまま本にすればよかった、とあとで内浦さんが言っていた。それくらいにスピーディで濃密なおしゃべりだった。

ああ、楽しかった。

この四人はインターネットを通じて知り合った。一年前にはお互いにぜんぜん知らない間柄だったのに(鈴木晶さんの本は何冊か持っていたけれど)それがまるで十年来の知己が集まったような、楽しい宴だった。

インターネットによって人的ネットワークの形成プロセスは大きく変化するだろうという予感がする。

ふつう、私たちは初対面の人とは「名刺の交換」というようなところから始まって、それぞれの勤務先とか専門とか関心事とかについて「小当たり」にデータを取りながら話を進める。

けれども、今回の集まりではホームページで自分のことをみんな書きまくっているので、そういうパーソナル・データは周知のことであり、それどころか「今週のホームページで熱を入れて論じていたこと」も熟知している。そして、そもそもそこで論じられている問題についての接近の仕方に「共感」したがゆえに、いまこうして集まっているわけだから、話がいきなり核心的なものになるのは当然である。

それぞれの「持説」はホームページ上で繰り返し開陳しており、お互いにそれを読んで来ているわけだから、このオフ会の現場では「持説」をもう一度繰り返すことは礼儀上しにくい。

つまり、「まだ一度も公開したことのない本邦初公開的知見」を全員が今、この場で語ることを構造的には強いられているわけである。

これがハイテンションの理由のひとつであると私は思う。

私たちがおしゃべりをしているとき、相手に「得意の持ちネタ」を聞かされると、「退屈だな」と思うことがある。いままでに何度となく色々な人に話し聞かせてきたせいで、すっかり手垢のついた(あるいは話芸として「完成に近づいた」といってもよい)「ストック・ストーリー」を聞かされているとき、私たちは「あ、これは出来合いの話だな」ということがなんとなく分かる。

それが礼儀に反するような気がするのは、そこには「いま、私を相手にしている」という「出会いの一回性」に対する配慮が欠けているからである。

聞き手である私が、代替不能の対話相手として認知されていないこと(匿名の「オーディエンス」でしかないこと)にかすかな苛立ちを覚えるからである。

この場でのこの出会いのなかではじめて口にされた言葉、私が対話の相手であったからこそ選ばれた言葉、その言葉の生成に聞き手もまた関与しているような言葉。それを語り、それを聴き取るために、私たちは対話の現場にいる。

昨夜の会話の相手たちは、全員が「手持ちのストック・ストーリー」をあらかた相手に知られているもの同士である。

だから、ある意味ではかなり「きつい」会話である。

全員が舞台に上がるや、いきなり「新作」の即興演奏を求められているようなものである。おそらく、その心地よいストレスが、昨夜の絶妙なインタープレイを生み出したのだろう。

こういうような濃密な人的ネットワークはこれまでの社会では、若いときにしか作ることが難しかったし、関係の熟成には長い年月を要したものである。

それがいまやネット上で超高速で形成される。

「お手軽な人間関係なんだから、そんなのヴァーチャルな幻想なんじゃないの」

というような半畳を入れる人もいるだろう。

私も以前はそう思っていた。

けれども、これほどまでに「話が合う」と、ちょっとそのような賢しらなもの言いには同意することはできない。

インターネットの出現によって、人間関係の形成に「新しいやり方」が加わったのである。

それは純粋に「よいこと」だ、と私は思う


3月29日

「幼児虐待」についてのレポートがどかどかと3編届いた。

よほどみんなにとってリアルな問題なんだろうね。

それについてのウチダの意見は次の通りです。

「親が子どもを虐待するなんていうことは、ありえない」というふうに私たちはひさしく思いこんできました。

その「ありえないこと」が現に起こっている以上、それは「ありえること」なのだ、というところに議論の出発点を戻さないといけません。

「子どもがかわいくない親がいても、しかたがない。それを認めた上で、打つ手を考えよう」

たしかに、その通りでしょう。

何が悪いのか。

幼児虐待する親を「つくりだす」社会的原因はなにか?

それを解明することはたしかに有意義なことでしょう。

しかし、この問題について、「原因は何か?」という議論に進むときに、ちょっとだけ私はひっかかりを感じることがあります。

わずかな違和感を覚えます。

わが子を虐待する親たちには「親から愛された経験」や「濃密なコミュニケーションの経験」や「育児についての適切な知識」が欠けているというのはたしかにほんとうのことでしょう。

でも、彼らにいちばん欠けているのは、「責任」の感覚ではないか、というふうに思うのです。

評論家たちの中には「自分自身が愛情をもって育てられなかった子ども」は、成長したあと、自分の子どもを愛せないようになる、という説明をする人がいます。

この場合、「責任」は、わが子を虐待した親ではなく、「わが子を虐待するような親」を育ててしまった親に先送りされます。(そして、その「親の親」に)

あるいは、「専業主婦」という生き方そのものが暴力と憎悪の温床なのだ、という説明をする人もいます。

この場合、「責任」は、多くの女性に専業主婦という「間違った」生き方を強いる社会構造そのものに帰せられます。

あるいは「父親の不在」がいけないのだ、という説明をする人もいます。

この場合、「責任」は労働者を酷使する資本主義企業や、通勤に数時間もかかる劣悪な住環境を放置した政府の無策に帰せられます。

あるいは生活力のない親をケアーする公立施設の不在が原因だという人もいます。

その場合も、「未婚の母」や「定職のない親」をサポートする施設を充実させない行政の怠慢が責任を引き受けることになります。

どういう説明をしていただいても結構ですし、それらは一つ一つ確かにそれなりに説明にはなっていると思うのですが、私はどうしてもそういう説明の仕方に「違和感」を感じてしまうのです。

「親としての責任」の欠如が問題になっているときに、「親としての責任の欠如」の「責任」を「何か、ほかのもの」に転嫁するという発想をしてよいのでしょうか?

「責任感の欠如」が問題になっているときに、その解決策が「責任感の欠如の責任」は「当事者以外のところにある」という説明から出発してよいのでしょうか?

それだと、事態をますます悪化させることにはならないのでしょうか?

「君が責任感を欠いていることは、きみの責任じゃないんだよ」と言ってあげることは、その人自身にとって、その人を含む集団にとって、そんなに「よいこと」なのでしょうか?

それがベストの「効果」をもたらす解決策なのでしょうか?

私にはそのようには思われません。

やはり、「君は責任感を欠いているが、『責任感を欠いていること』の責任は本人が引き受けるほかないのだ」ときちんと伝えるべきではないでしょうか。

私は「子育ては親の責任」というふうに単純に考えてきました。

育児書や「愛の本能」に育児の責任をとらせるわけにはゆかないのと同じように、社会制度や文教政策に、育児の責任をとっていただくわけにもいきません。

子育ては「私の責任」です。

うちは子どもが6歳のときから父子家庭でしたが、私にはロールモデルになるような「父子家庭」を知りませんでした。

「ただしい父子家庭のあり方」なんか誰も教えてくれませんし、どんな育児書にも書いてありません。

しかたがないので、とりあえず私の判断で、「だいじなことはすべて親子二人で話し合って決める」という原則を採用することにしました。

なにしろ、二人しかメンバーがいない集団ですから、それを効率的に運営するためには、相棒である子どもさんの全面的な協力が不可欠です。

そして、子どもから全面的な協力をとりつける条件は一つしかありません。

それは彼女の意見を最大限尊重する、ということです。

どんなことでも娘と相談して決める。

それが娘に協力してもらって父子家庭を効率的に運営するたった一つの方法である、と私は考えたのです。

それは幼い娘を原則として「大人扱い」することであり、ときには、どう考えても6歳や7歳の子どもに判断できるはずもないような複雑な問題についてさえ意見を求めることでした。

ある教育学者の方に、後になって、私の教育方針は育児上のタブーに触れていると指摘されたことがあります。

小さな子どもに重大な選択を強いてはいけない、と言われたのです。それが子どものトラウマになることがある、と。

なるほど。

でももう遅すぎますけど。

でも、その教育学者が私を「責めた」のは正しいのです。

だって、「父子で話し合ってなんでも決定する」という方針を決定したのは私だからです。

そうである以上、「父子の話し合いでものごとを決定する」システムから生じたトラブルはすべて私の責任だ、ということになります。

「私たちの責任」ではないのです。

私は親子というのは、そういうものだと思っています。

どれほど民主的なシステムであろうと、「民主的なシステムでなきゃ、ダメ。反対はゆるさんけんね」と決定した親のやり方はまるで民主的ではありません。だから、そのシステムから派生したすべてのトラブルの責任はあげて親が引き受けるほかない、と私は思います。

「子育てについてはすべてが私の責任である」と言明する人、それが「親」である、と私は思います。

「子育ては(部分的にしか)私の責任ではない」と思っている人は、たとえ生物学的に「親」であっても「親」ではありません。

ましてや、自己防衛能力のないもの、暴力をふるう当の人間に保護される以外に生きることのできない弱いものを加虐するものはどのような意味でも「親」の資格がない、と私は思います。

親のがわに、子どもに対する暴力に至るどのような「せつない」事情があるにせよ、子どもにふるう暴力を「本人の責任以外の理由」によって「説明」することに私は反対です。

というのは、「親である」というのは、何よりも「わが子についての責任をほかの誰にも先んじて引き受けようとする意志」をもつことだと思うからです。

「親であること」に失敗した場合でも、その責任を自分以外の誰にも押し付けない、という自制だけが親を親たらしめていると思うからです。

子どもの親になるということは非常に重い責任を、「誰にも代わってもらうことのできない責任」を引き受けることだということを、若い人たちには繰り返し告げるべきだと思います。

子どもは「ぬいぐるみ」のようなかわいくてふにゃふにゃしたであるばかりではありません。

それを保護し、養育するものの「全面的責任」を要求せずにはいない存在です。そして、そのような責任に耐えることができるだけの成熟を要求せずにはいない存在です。

「そんな重い責任なんか負いたくない。成熟なんてしたくない」というひとには「では、親になるのはあきらめなさい」と言うほかないと思います。

それで日本の人口が減ったって、しかたがないと私は思います。

そして、今日本の人口がどんどん減っているいちばん大きな理由は、「自分以外の誰かについて、全面的な責任なんか負うのはいやだ」と若い人たちが思いはじめたからではないでしょうか。

私はそれはそれでしかたがないよね、と思います。


3月28日

吉岡さんレポートありがとうございました。

買売春に限らず、性の問題は、私のもっとも不得意とする領域でありますので、あまりたいしたコメントはできないかと思いますが、とにかく思いつくままに書きます。

この分野が不得意なのは、「性を自分の主力商品とする」ような女性のがわの意識のあり方と、「性的快楽を金銭で買える」と信じている男性のがわの意識のあり方の、どちらをも私が「きらい」だからです。

性を商品とすることを私が嫌うのは、それが「お金の稼ぎ方」としていびつなつくりになっていると思うからです。

ほんらい「お金を稼ぐ」というのは、ある種のスキルを身につけ、その行使をつうじて、「顧客のレスペクト」と「適切な対価」を得る、というただそれだけのことです。

その習熟が困難であり、かつ社会的に有用なスキルを身につけたひとは、高い対価と高いレスペクトを受け、「職業人」としては有利なポジションにつくことができます。

「よい仕事」というと、普通の人は「高い給料」をまずに思い浮かべるようですが、私はそういうふうには考えません。

「よい仕事」というのは、ほんとうは「周囲から高いレスペクトを受ける仕事」だと私は思います。

仕事をしているときに私たちを何よりも不快にさせるのは、「エゴイスティックなクライアント」、「不公平な上司」、「無能な同僚」、「反抗的な部下」などの「人間的ファクター」です。どれほどの高給であろうと、どれほど楽な仕事であろうと、私たちの神経はそれに長く耐えることは出来ません。

人間的ファクターが充実している労働環境にいれば、(「フレンドリーなクライアント」「公正な勤務考課のできる上司」「有能な同僚」などなど)私たちはかなり過酷な労働でも、相当の薄給でも、それをたのしむことができます。(だって、職場に行くのが楽しいんだから)

ふつうのひとはそのような「楽しい労働環境」を求めて、努力をします。

性的商品は、その逆のものです。

性の商品化には「職業訓練」が必要とされません。(むしろ売春婦の低年齢化が示すように、「職業訓練されていないこと」がこのマーケットでは市場価値を形成したりします。)

性の商品化は「顧客のレスペクト」を得るためのものではありません。むしろ、「顧客によっておのれの人間的威信をふみにじられること」の対価としていくばくかのお金を受け取るシステムです。

私は買売春の経験がありませんので、そこでどのような快楽が売り買いされているか知りませんが、村上龍を読む限り(私の性風俗に関する情報源はほとんどこの人なんですよね、そういえば。私の性意識に歪みがあるとすれば、それは村上龍さんのせいです)、主力商品は、身体的快楽そのものではなく、他人を自分の快楽に奉仕する「道具」にする、という「主人と奴隷ゲーム」にかなり傾いているように思われます。

たしかに売春は条件が整った場合には、相対的に「高い対価」で、「習熟するのに努力を要さない」商品を売ることの出来る「有利な仕事」のように思えるかも知れませんが、それは「仕事をする」ということのいちばん大切な部分、「その活動を通じて周囲の人々のレスペクトを獲得する」という点が脱落している点で、(反対にしばしば、「その活動をつうじて周囲の人々から軽侮されることで収入を獲得する」点で)職業としては「成立しない」というのが私の考えです。

「売春」を職業として認知すべきだ、ということを主張する知識人たちがいます。(宮台真司や上野千鶴子はそういう意見です。)私は売春は職業ではないから、「職業」としては認知すべきではない、と思います。

「そういうことをしていると、誰からも尊敬されなくなるよ」

というのが売春している女の子に言うべきいちばん当たり前の言葉だと思います。

「他者からの敬意」なしに人間は愉快に生きることができない、というのは社会生活の原則ですから。

もちろん、そういう大事なことを知らなくても別に構わないのです。

「誰にも迷惑かけてないんだから、いいじゃない」

おっしゃるとおりです。

ただ、そういう人には、この先どういう生き方を選ぼうとも、「他人の理不尽な欲望にこずきまわされて暮らす」という未来しか待っていないような気がします。

「買春する男」に対しての嫌悪感もそれと同型的です。

私の目には、このひとたちは「性を売る女の子の自尊心を金で買って、ゴミ箱に棄てている」ように見えます。

どうして、他人の自尊心をわざわざお金を出して買って、その上、それを踏みにじって、唾を吐きかけて、ごみ箱に棄てるようなことをしたいのか、私にはよく分かりません。

社会生活において「十分な」レスペクトが得られない人が、他人の自尊心を傷つけることでバランスをとっているのかもしれません。

「そんなことないよ、社会的地位が高くて、偉い人だって買春しているじゃないか」

という反論があるかもしれません。

私は「十分なレスペクト」と言っているのです。

そういう人たちは私たちからみたらずいぶん偉そうにしているように見えても、本人は「もっともっと」と思っているかもしれません。(いまの日本の総理大臣は社会的にはたいへん偉い人ですが、おそらくご本人は「尊敬されかたが足りない」とものすごく不満であるだろうと思います。だから仮に彼が買春常習者であると聞いても私はぜんぜん驚きません。)

私は買春をしたことがありませんが、それは、「私は尊敬のされ方が足りない」と思ったことが一度もないことに関係があると思います。

それは別に私がいつもいつもたっぷりと尊敬されていたということではありません。(そんなわけないじゃないですか)

そうではなくて、自分が「どの程度の尊敬に値する人間であるか」についての主観的な判断と、世間さまの私への評価が一致していたからです。

私が「こんな生き方してるとだめだよなあ」と思っているときには、誰も私を尊敬してくれず、私が「ここんとこ、がんばってるなあ」と思っているときは、いろいろな人がほめてくれる。自己評価と他者からの評価が適正にリンクしていると、「自尊心問題」というのは発生しないわけですね、これが。

つまり、買春するしないの分岐点は、性欲の多寡などではなく、「おのれの社会的ポジションに対する客観的評価の適正さ」つまり私のいうところの「知性」の多寡によって消される、というのが私の考えであります。(ちょっと強引だけれど)

そして、私は「知性のないやつ」は男女を問わず、大嫌いなのであります。

以上のような理由によりまして、私は買売春関係者にたいしては、「バカは嫌いだ」のひとことでこれを私の視野から排除する、という暴挙に出ているわけであります。

吉岡さんは結論で「援助交際をする女子一人一人に正確な性の知識等を教えること」の重要性を指摘していました。

「援助交際をするからにはそれなりのリスクが個人にかかってくる。それらの対応を適切にできるような知識を授業で教え込むことである。」

リスクというのは「変態男に八つ裂きにされる」というようなレヴェルのことだけではありません。「私の自尊心を殺す他人に加担する」ことによって壊れるものがあり、それは一度壊れたら、もとにもどすのがたいへん、ということです。

あるいは「元・援助交際少女」が幸福な成人女性としての生活を送るケースというのもあるのかもしれません。けれどもそれは「援助交際してお金稼げて、楽しかったわあ」というような気楽な総括の結果ではなく、その経験のマイナス面と向き合って、おのれの経験の意味を痛みに耐えて言語化することができたレア・ケースに限られるでしょう。

吉岡さんは援助交際にブレーキをかけるものとして次の三つを挙げていました。

「自己規制、親の目、恐怖心」

「ナマハゲ」論に書いたように、社会規範は「恐怖心」というかたちをとることがあります。

だから恐怖心を持つことと、社会性を持つこととは同義ですから、それはとりあえず「よいこと」です。

売春を自制する理由としては場合によっては恐怖心だけで足りるかもしれません。

でも、成熟するためにには、それだけでは十分ではありません。

そして、「成熟すること」なしに私たちは幸福になることができないと私は思います。


3月26日(つづき)

るんちゃんがついに旅立った。

JR六甲道の改札口で別れつつ

「困ったことがあったら、いつでも帰ってくるんだよ」

「うん。帰るよ」

と手を振ってお別れした。

ぐすん。

思えば1982年7月24日に日赤産院の分娩室でラマーズ法での出産時に、産道からご出生になる瞬間に立ち会って以来18年余、まさに「掌中の珠」として「よしよし」してきたわけであるが、その娘も成長して、私の手を離れることとなった。

娘の成長と、父親としての私の責務の終了を祝い、ジャック・ダニエルズでひとり静かに祝杯を挙げる。

おめでとう。

がんばるんだよ。

父ちゃんから贈る言葉はいつもシンプルだ。

「金なら貸すぞ。夜露がしのげる場所がなければ家においで」

これはすべての「ともだち」に父ちゃんが告げてきた言葉だ。

それをるんちゃんにも贈る。

私の家の扉は私の救援を求める「ともだち」のためにいつでも開いている。

るんちゃんは私の最良の「ともだち」の一人だから、当然、私の家の扉はいつでも君のために開いている。

人間としてどう生きるかにつての説教はもう18年間飽きるほどしたはずだから、いまさら言い足すことはない。

ひとことだけ言葉があるとすれは、それはこんなフランス語だ。

sauve qui peut (ソーヴ・キ・プと読むのだよ)

これは船が沈没したり、最前線が崩壊したりしたときに、最後に指揮官が兵士たちに

告げる言葉である。

「生き延びることができるものは、生き延びよ」

集団として生き延びることが困難な局面では、ひとりひとりが自分の才覚で、難局を生き延びる他ない。

これからはそういう時代だと私は思う。

万人向けの「成功のロール・モデル」はるんちゃんたちにはない。

全知全力を尽くして君たちの困難な時代を生き延びてほしい。

父ちゃんが言いたいことはそれだけだ。


3月26日

合気道の神鍋合宿から帰宅。

神鍋高原での合宿はこれで8回目である。

その前は、いろいろと試行錯誤の歴史があった。

91年の第一回の「湯の郷」合宿は、参加者30数名。全員が初心者で、受け身もろくにできない。私一人があっちこっちで教えて回っているあいだ、他の人たちは呆然自失している、というきわめて非効率的な合宿であった。初心者同士で稽古をしていると単に非能率的であるばかりか危険でもあり、負傷者が続出。二日目の午後には、集合時間に誰も集まらず、みな「エアサロンパス」の匂いの充満する部屋で倒れ臥していた。

次に、淡路島の「れもん樹」というペンションに二回行ったが、これはペンション自体が「ボーイ・ミーツ・ガール」系のつくりになっていて、なんだかラブホテルで合宿をしているようであった。私が海老ちゃんの肩を外したり、ゲンが悪いので止め。

小豆島のペンションはご飯が美味しかったのであるが、道場がものすごく汚くて、暑くて、ほとんど拷問であったので一回で止め。

二度目の小豆島は、思い出すだけで悪夢が蘇るほどに凄い宿だった。迎えのバスが港に来た段階で悪い予感がしていたのであるが、宿に着いた瞬間にUターンして帰ろうかと思った程である。あとのことは思い出したくない。

琵琶湖畔の「白浜荘」は宿もきれいで、道場もなかなかよくて、愛用していたのであるが、ホテルの同宿者に「おやじ」が多く、麻雀をして騒いだり、廊下にげろを吐いたりするので、怒って止め。

そして、4年前についに名色高原ホテルに出会って、ここを「ついのすみか」と定めたのである。

空気もよいし、景色もよろしい。道場が二階にあって、たいへんに効率的に稽古ができるし、ご飯も美味しいし、お風呂も24時間入れるし、経営者のご夫婦もとてもフレンドリー。だいたいは合気道部の貸し切り状態であるので、妙齢のご婦人たちがジャージーの首にタオルを巻いて、片目で眠りながらご飯を食べていても誰も咎める人とていない。

今回の合宿では卒業直後の現四回生5名が二段に、三回生と院生3名が初段に昇段。

学生に二段を出すのは、創部10年目にしてはじめての快挙である。それだけ、合気道部の「層」が厚くなり、4年間の稽古の質が向上した、ということと思いたい。

うれしいことである。

昇段祝いと四回生の「追い出しコンパ」をかねた昨夜の宴会は、在学生たちと卒業生たちの「ミュージカル」合戦。(うちのクラブは「歌って踊って芝居もできる」ことが幹部の条件である。)

在学生の「送る歌」に卒業生たちは感動のあまりぼろぼろ泣いていた。

なんだか感動青春ドラマ最終回を見ているようで、冷血漢のウチダもついほろりとしてしまった。

それに、卒業生たちからは心のこもった贈り物を頂いた。(ありがとね、ジャージ。これからはこれを着て学校へ行くよ)

まったく、よい子たちである。

世間では、「最近の若い者は」とかとかく批判的に言われるようであるが、合気道部の子たちはみな天使のようによい子たちである。

「よい子は集住する」という法則がある。

これはほんとうである。

私は1970年代の終わり頃に「チャーミングなおじさんたちが集住する」世界に一度足を踏み込んだことがある。(義妹が在籍していた弘済学園という精神障害児の施設である)

20代の私は「世間にはろくな大人がいない」とたかをくくっていたが、それもそのはず、「かっこいいおじさんたち」は私の知らないところに「ダマ」になって暮らしていたのである。

考えて見れば当然のことだ。

どうして、「よい子」や「かっこいい人」や「賢い人」が、世間のあちこちに均質的に「ばらけて」いる必要があろうか。

「よい子」だって、どうせなら「悪い子」よりは「いい子」といっしょにいる方が楽しいし、「賢い人」だって、どうせなら「賢い人」といっしょに仕事をする方が効率的だ。

だとすれば、おのずと「よい子」はにこにこ群れ集い、「かっこいいおじさん」たちは気楽な共同体を構成することになる。

何の不思議があろうか。

合気道部は「よい子のコロニー」である。

私のような「悪いおじさん」の主宰する道場にこのように「よい子たち」が群れ集ったのは、いったいいかなる天の配剤によるなのであろうか。

おそらくは私を改悛させんとする神の意思がこの天使たちの存在を通じて私にもたらされているのであろう。

私もさすがにちょっとだけ「よい人」になろうと、決意を新たにした。

「よい子」の功徳かくのごとし。

「よい子」は国の宝です。

ほんとに。


3月25日

「笑い」について

植田さんの「これで日本は大丈夫?」は「笑い」について、でした。

「『笑い』というものが、最近あまりにも多く、求められてすぎてはいないだろうか、と私は思う。」「しかし、今、最も支持されている『笑い』、人を下げ、馬鹿にすることにより生まれる『笑い』である。」

というのが植田さんの第一の問題提起です。

第二の問題提起は、「ノリ」について、です。

「90年代前半からノリは対人関係におけるコミュニケーションの重要な要素となっていた。『ノリ』という、後先を考えない、その場・相手の雰囲気にあわせて行動しようとする意識は現代人にはとても心地よく、安心できるものであるようだ。そのノリという感覚は、また『笑い』を求める感覚とシンクロしていて、ノリのいい奴イコール面白い奴という方程式が完全にできあがってしまったのである。そのノリは、とどまるところを知らず、また、そこから外れることは、仲間からの離脱を意味する。だから、ノリは時に大きな事件を引き起こすことも少なくない。」

「ノリ」はコミュニケーションの内容とは関係がありません。

そうではなくて、「私はいまあなたとコミュニケーションできている」という事実を確認するためのリアクション「よさ」(おもに反応速度の「速さ」)をショウ・オフする行為のことだと思います。

「ノリがいい」というのは、「コミュニケーション感度がいい」ということと、とりあえず同義だとみなしてよいでしょう。

私たちがいちばんよく用いる「ノリのよさ」の表示は、相手の言葉に対して「笑う」ことです。

ここで二つの問題が一つにつながります。

「笑い」と「ノリ」。

さて、ではその問題をいっしょに考えてみましょう。

「笑い」はほんらい、「コミュニケーションが成立している」ことを相手に表示するためにたいへん効果的な身体表現です。

にこやかな微笑みは「歓待」を意味しますし、大きな笑い声は「同意」を意味します。困ったような笑みは「え、ちょっと分かんない?」とか「うーん、どうかなあ?」という「ためらい」や「牽制」を意味します。

時代劇や古めかしい英雄ドラマでは主人公が登場してきて、ワルモノたちを退治するときにたいてい「わははははは」という笑い声を発します。

むろん旗本退屈男や鞍馬天狗や月光仮面はワルモノたちに友愛のメッセージを送っているわけではありません。この笑いは「破邪顕正の笑い」、「呪としての」笑いです。笑いによって、相手を「呪殺」することだってできるのです。

笑いの応用範囲の広いこと。

ですから、うまく笑いを使い分けるだけで、言葉を用いなくても、私たちは十分なコミュニケーションすることができます。

もし現代の笑いに何か不都合があるとすれば、それはほんらいの笑いのもつそのようなメッセージの多様性が失われ、それだけではもう十分なコミュニケーションが成り立たなくなった、という点にあるのかも知れません。

現に、私たちの社会からはもう「破邪顕正の笑い」というものが消えつつあります。

『桃太郎侍』の高橋英樹はときどき「わははは」と笑っていましたが、『暴れん坊将軍』の松平健はもうワルモノを斬るときに片頬でしか笑いません。石坂浩二の『水戸黄門』もたぶん笑わないでしょう。それはつまり、「破邪顕正の笑い」という表現手段を私たちの文化は失ったということを意味しています。

その代わりに私たちが多用しているのが「ノリのよさを示す笑い」です。

それは「歓待」や「同意」や「懐疑」ではなく、単に「コミュニケーション感度のよさを示すためだけで、特別のメッセージを含まない笑い」です。

その笑いが「根本的な何かに不十分なものを感じ、それを埋める要素として笑いに頼ってしまう」という植田さんの指摘は、その通りだと思います。

そこに欠けている「不十分なもの」とは、おそらくコミュニケーションの「内容」の豊かさでしょう。

誤解しては困るのですが、「コミュニケーション感度のよさを示す笑い」はコミュニケーションの形骸化を意味しているわけではありません。というのは、コミュニケーションにおいていちばん大事なことは、コミュニケーションの「内容」ではなく、「形式」だからです。

言い換えると、「コミュニケーションが成立していること」をおたがいに確認し合うことの方が、「コミュニケーションを通じて行き交うメッセージ」よりも大事なのです。

これについては『現代思想のパフォーマンス』のレヴィ=ストロース論から少しだけ引用することにしましょう。

「おはよう」もGood morningもBonjourも意味するところは同じである。それらの言葉は「あなたは早く目覚めた」とか「今日はよい日である」とかいう事実認知を行っているのではない。「おはよう」は人間から人間への直接な語りかけであり、祝福の遂行である。「おはよう」と語りかけたものは「今日一日があなたにとってよき日でありますように」という祈りを贈っているのである。

レヴィ=ストロースのコミュニケーション論の知見を信じるならば、祝福の贈りものに対しては必ず返礼義務が発生する。

祝福はあらゆる贈与ががそうであるように、祝福を受けた側に、心理的な負債感を発生させる。この負債感は「受け取った以上のものを返礼し、相手に新たな返礼義務を課す」ことによってしか解消されえない。というより、そもそも「受け取ったのと、ぴったり同じだけ返す」こと自体が不可能なのだ。というのも、「最初に贈る」ということは、いわば「無からの創造」であり、純粋なイニシアティヴだからである。贈与の回路を立ち上げるということは、等量の返礼を返すことによってはけっして埋め合わせできないほどに過激で、無償で、冒険的な創造の行為なのである。

だから、「おはよう」の挨拶を贈られたものは、とりあえず受けた挨拶よりも少しでも多くのメッセージを発信することを求められる。「おはよう、いいお天気ですね」とか「おはよう、どちらへ?」というふうに。

外国語の初級読本にはたいてい次のような文例が出ている。

「こんにちは」

「こんにちは、お元気ですか?」

「はい、元気です。あなたは?」

「はい、私はたいへん元気です。ありがとう。ご家族はお元気ですか?」

「はい、うちの家族はみな元気です。ありがとう。あなたのご家族は?」

初学者はたいていここらまで読んだとき、ふと「この会話は、相手の言葉を繰り返しながら、終わりなく続くのではないか」という不安にとらえられる。さいわい教科書一頁におさまる行数には制約があるために、街角で出会った二人は終わりなき祝福の交換をどこかで打ち切って、右と左に別れることになる。

けれども、初学者の心に兆した「おなじ言葉を繰り返す終わりなき挨拶」というという不条理な予感は、じつはコミュニケーションの本質を正しく直感しているのである。

というのは、レヴィ=ストロースを信じるならば、コミュニケーションの本義は、有用な情報を交換することにあるのではなく、メッセージの交換を成立させることによって「ここにはコミュニケーションをなしうる二人の人間が向き合って共存している」という事実を認知し合うことにあるからだ。そして、私の前にいる人に対して、「私はあなたの言葉を聞き取った」ことを知らせるもっとも確実な方法が相手の言葉をもう一度繰り返してみせることであるとすると、心からコミュニケーションを求め合っている二人の人間のあいだでは、「相手の言葉を繰り返しながら」「ほとんど無意味な」挨拶が終わることなく行き交うことになるはずである。

「おはよう。」

「おはよう。」

「いいお天気ですね。」

「ほんと、いいお天気。」

というふうに。

(内田 樹、難波江和英『現代思想のパフォーマンス』、松柏社、2000年)

「私の前にいる人に対して、『私はあなたの言葉を聞き取った』ことを知らせるもっとも確実なもう一つの方法」が「笑ってみせること」です。

「おはよう」

「(にこ)」

「いいお天気ですね」

「(にこ)」

でも上の会話は十分成立しますから。

つまり、「ノリの笑い」だけが過剰に行き交っている現代のコミュニケーション事情とは、言い換えれば、

「私たちのあいだにはコミュニケーションが成立しているよね?」

「うん、成立しているよ」

「私の言うこと聞こえたよね?」

「うん、きこえたよ」

ということ「だけ」をえんえんと語り合っているというを意味しています。

それは決して悪いことではありません。むしろ、とても「よいこと」だと言ってもよいでしょう。

問題は、「その先」にさっぱり進まないとやっぱりちょっと退屈かな、ということです。

TV画面に「試験電波発信中」のサインが出ているのはTV受像器が電波をキャッチしている証拠ですから、画面にカラフルなテストパターン映像が出ていることはたいへんに喜ばしいことではありますが、それだけを「じっと」1時間眺めていても退屈ですよね。

「ノリの笑い」の交換は、試験電波発信中の画面と同じです。

とても大事なものではありますが、それだけでは「つまらない」のです。

「その先」へ進むためには、コミュニケーションの回路にメッセージを載せていかなければなりません。それはふつう「言葉」で示されます。

「真剣に人と向き合うこと」、「人と直に深く接する」こと、そのためには、適切な言葉の運用に習熟しなければなりません。

でも、「ノリの笑い」にくらべて、言葉で相手にきちんと伝わるメッセージをつくることはとてもむずかしい仕事です。

そのむずかしい仕事のためには訓練が必要です。

でも、みんなあまり「訓練」は好きではありません。

だから、「ノリの笑い」でとりあえず「流す」ことでその場をやり過ごそうとするようになるのだと思います。

たぶん。


3月22日

やれやれ。11日ぶりのオフである。

長い長い「死のロード」であった。(そのうち4日間は極楽スキーなんだけど。あれはやはり「オフ」とは言えないね。「ハレ」の日だから。)

きつかったのは17日(土)の早朝に夜行で帰宅してから。お昼から合気道、午後3時から杖道の演武会、そのあと鬼木先生宅で正道会総会。

18日(日)は朝から夜まで正謡会新年会(といっても宴会じゃないんだよ。私は初舞囃子『猩々』のほかに、素謡二番『土蜘蛛』のワキと『藤戸』のワキツレ、地謡『船弁慶』『卒塔婆小町』『芦刈』、あとの時間はビデオ係。素謡『砧』のときについ爆睡)。

そのあと反省会。いつもなら下川先生のお小言を粛々として社中一同拝聴するのであるが、今回は新入門の「おじさん」が大暴れして大幅に時間超過。

「私が女に生まれていて、このおじさんが上司だったら、ぜったいに武闘派フェミニストなっていたな」とひしひしと感じさせてくれるタイプの「痛いおじさん」であった。

19日はご案内のとおり卒業式。そのあとるんちゃんとの「あと3回の晩御飯シリーズ」第一弾「芦屋シャンティのインド料理」。タカハシナヲコさんノリコさんご姉妹と「吹ける楽器はなんでも吹くぞ」笛方タキザワさんも登場して、「不思議な楽器」話で盛り上がる。

20日は卒業記念パーティのあと、清水学科長、松田教務部長の「慰労会」と上野新学科長の「激励会」。一滴もお酒をのまない学院チャプレンの爆走に全員あおられる。さらに二次会で、若手を中心にけっこうまじめに大学の将来について語り合うが、さすがに午後1時の帝国ホテルのシャンペンからはじまった昼酒、「司」での夕酒、「麦太郎」での晩酒で、あたまがくるくるしてきて、何を話したのか定かでない。

21日はたまったメールのご返事書きをしてから、上野先生と御影駅前で大学院申請書類の作成の打ち合わせ。そのまま大学へ走って合気道、杖道のお稽古。

終わってから、るんちゃんとの「あと3回の晩御飯」シリーズ第二弾「芦屋木繁の唐揚げラーメン」の予定であったが、残念ながら本日休業。やむなく御影の「もっこす」の具たくさんの「チャーシュー麺」をもって代える。

残る「第三弾」は私の手作り餃子である。これは今晩。ふたりで「シンプソンズ」を見ながら餃子を食べてビールを呑むのである。(娘と呑み交わすビールはうまい)

明日から日曜までは合気道の合宿で神鍋高原である。

そして、月曜にるんちゃんは旅だってゆく。

別れが近づいているせいか、ほとんど毎晩のようにるんちゃんが小さな子どもだったころの夢を見る。

夢の中のるんちゃんは当然「夢のように」かわいい。

走り寄って、その夢のようにかわいいわが子をぎうっと抱きしめて、「さあ、もう大丈夫だよ、お父さんが来たからね」とつぶやくと、私の身体の内奥から凄まじい「エネルギー」がわき上がってくる。そして、「おう、ワシがウチダじゃい。こん腐れ外道どもが。うちとこの娘に手えだしたらただすまんど。こら。うちの利息はたこおまっせ」と唐突に「竹内力」化してしまうという、なんだかよくわからないパターンの夢である。

もしかしたら、私の「闘争心」の大半は父性愛によってエネルギー備給されていたのかもしれない。

とすると、るんちゃんがいなくなったあとの私はどうなるのであろう。

「歯槽膿漏の狼」とか「狭心症のサラブレッド」とか「草食性のコブラ」とか、そういうへなへな様態のものに変化してしまうのであろうか。

どうしよう。

『リオ・ブラボー』のディーン・マーチンみたいに「闘争心を無くしてへろへろになったウチダ」に、「被害者」のみなさんが積年の怨みを晴らすべく報復の挙に出るというようなことはないのだろうか。

うーむ。

困った。

 

ま、それはさておき。

昨日の「これで日本は大丈夫?」についていささかゼミの指導教員としてコメントを加えたいと思う。

インターネット上で公開ゼミを行われて、公開説教されては学生諸君はたまらんだろうが、大学というのがどういうところであるのかを広くお知らせする、という点ではなかなか効果的なものではないかと思う。(という鈴木晶先生のお墨付きもいただいたし)

西岡くん、植田くん、気の毒だが、「先駆者」の責務とおもって耐えてくれたまえ。

今日はまず西岡くんの「押し掛けお泊まり中学生」という論件からいきましょう。

「『押し掛けお泊まり』とは、『住所を調べあて、前連絡もなしに合宿所よろしく突然人の家に上がり込んで好き放題をする』事を言うのですが、つまり、地方に住んでいる中高生ぐらいの年齢の子が、都心で開かれるコンサートやイベント事などの為に、例えば音楽雑誌などの『文通希望』の欄や、自費出版物の奥付から住所を調べ出し訪ねて来て、宿泊費等を浮かす為に会場近くに住んでいる人の家をホテル代わりにするなどの行為です。」

それ自体は決して悪いことではないと私も思います。現に、うちにも先週六人の「押し掛けお泊まり女子高生軍団」が来ましたからね。みんななかなかよい子たちでした。(おふろのお掃除もしていったし)

しかし、それは例外的であるらしい。

「彼女たちは、皆がみな、一様に恐ろしいほどの非常識と、無知と、無邪気さを携えて、終電が過ぎるのを狙ったように真夜中に突然やってき、『電車はないし、今夜寝る所も行く所もお金も無いんです』を口上に、全く面識も無い人の部屋に上がり込み、家の中を勝手に漁り飲食物を要求するなど、傍若無人に好き勝手振舞った挙句に、コンサートのチケットや、本やCD・MD、現金などを平気で盗って行きます。」

これはひどい。

この原因として西岡さんは、ネット・コミュニケーションという新しいタイプの人間関係の発生を挙げています。

「このように目痛い人が増加して来た要因には、インターネットによる情報発信力があるのではないかと思います。チャットや掲示板、メールによって簡単に情報が行き来するにつてれて、押し掛ける側が相手に感じる「敷居」は低くなり、まだヴァーチャルな世界と現実との区別を付け辛い若年層にとっては、ネット上で繰り広げられる世界をそのまま実社会に持ち込みがちになります。それが「押し掛け」を助長してしまうのではないでしょうか。」

なるほど。この分析はなかなか鋭いものがあります。

現に、先日の「かしこ」さんなるヴァーチャル女子大生をめぐっては「なんというけしからん女子学生だ」という抗議のメールが何通か寄せられました。

現実世界とヴァーチャルな世界の敷居はたしかに低いです。(クスミさん、めっちゃ不評でしたよ。「かしこ」さん)

今一つの理由は「教育」の問題。

「最終的な要因には「親」(親の意識)が深く関わっている」と西岡さんは見ています。

「押し掛けをした子供の親は、こぞって子供と同じような意識・感覚でいたり、子供の事は放任でその責任も放棄、或いは、子供への愛で盲目になって泊めるのを渋った相手を罵倒する」。

この指摘が私には興味深く思われました。

「家庭崩壊」とか「家庭内暴力」とかいう言葉を聞くと、私たちは家族の成員がばらばらになっている、というふうな印象を受け取ってしまいますが、ほんとうに家族は解離しているのでしょうか?

むしろ、密着しすぎているのではないでしょうか?

家族同士が密着しすぎ、「同じような意識・感覚」を共有しすぎているせいで、家庭内が密室化し、そこが「ふつうの社会のふつうの常識」から遮断された、すごく風通しの悪い、濃密な空間になってしまっていることが、むしろ子どもたちの逸脱行動の原因になってはいないでしょうか?

新潟で9年間少女を密室に幽閉していた男は、家全体をその母親を含んだ、もう一回り大きな「密室」に化していました。

同質性の高い空間に自閉していれば、当然ながら、子どもはコミュニケーション能力が育ちませんし、自分とは「違う」感覚、「違う」価値観をもっている他人と「折り合う」仕方を学習する機会にも恵まれません。

親が子どもを放任する、あるいは、こどもに対する責任を放棄するということは、(例えば、「掃除当番をさぼる」というふうに)「親として責任をとること」という明確な「しごと」が何であるかを知った上で、あえてそれを放棄しているわけではないと思います。

おそらく、そのような親たちは「親としての責任をとる」というのがどういうことなのかよく分かっていないのではないでしょうか?

親の仕事とは、ひとことで言えば、「こどもを適切な仕方で社会化する」ということです。

しかし、自分自身が「適切な仕方で社会化される」経験を持たず、そのような訓育がなされている現場に立ち会ったこともない親には、とてもむずかしい仕事だと思います。

西岡さんは続けてこう書いています。

「『こういう事をすると、だれそれに叱られるからやめなさいね』という形でしか子供を叱る事が出来ない親が増えている昨今、正しい説教(教育)が出来るかというと、おおいに疑問を感じずにはいられません。」

私はこれにはちょっと別の考え方があると思います。

というのは、このようなしかり方自体は、決して間違ってはいないと思うからです。

たしかに「叱られるからやめなさい」は説明としては十分ではありません。

けれど、「とにかく、怒られるから、やめなさい」というのは、社会的規範の教え方の「常道」なのです。社会的な規範というものは決して「諄々と理を説けば、子どもにでも分かる」ような成り立ち方では作られていません。

例えば、子どもに「どうして19歳ではお酒呑んではいけなくて、次の日に20歳の誕生日になったらお酒を呑んでもいいのさ?」と訊ねられた場合に、その境界線の設定に深い意味がある、ということを説明できる人はいないでしょう。(私だってできません)

「そう決まってんだよ」

としか言いようがありません。

「先生にみつかったら怒られるぞ」

というような仕方のほかに有効な禁止法はありません。

それは「悪いことしてっと、ナマハゲに喰われっど」とか「はやく寝ないとトリゴラスがきちゃうよ」とか「言うこと聞かないと赤マントがさらいに来るよ」とかいうのと同型の恫喝であって、まったく論理的な説明になっていませんが、これこそが「しつけ」の本道なのです。

「親のロジック」を越えたところ、親の力及ばぬところに、「社会のロジック」があり、その象徴である「ナマハゲ」が到来したら、親がいくら懇願しても子どもは「喰われてしまう」という権威の「位階差」を教える、ということ、これは「子どもの社会化」のための大事なしごとです。

「家の外部」が存在し、そこでは「家の中」とは別のロジックが支配しており、「親」は、それに服属し、それを承認するほかないということ、「ナマハゲ」説話の類は子どもにそれを理解させるための人類学的なツールです。

つまり、「ナマハゲ」に対する恐怖を「親もまた実感している」ということを子どもに感じ取らせることがここではたいへん重要なのです。

そう考えると、西岡さんの次のフレーズが問題になってきます。

「『勉強は塾や家庭教師でしっかり教えていますので、学校では躾やモラルなどについてしっかりと・・・』などといった事を言っているような親が、痛い言動を繰り返す子供を産み出してしまっているのではないかと思います。」

このような言葉を口にする親はどうしてダメなのでしょう?

「(家ではなくて)学校でこそ、しつけやモラルなどについてしっかり教えるべきだ」と思っているからでしょうか?

その考え方自体は別に間違っていません。

現に、教育について無関心な親、あるいは仕事が忙しすぎて子どもを構う余裕のない親は、昔もたくさんいました。そういうこどもたちは家では「野獣」のように育てられていましたが、学校が親にかわって、彼らを訓育して、社会化する任をきちんとになっていたのです。

このような言葉を口にする親がダメなのは、「学校でしつけをしてほしい」と言っておきながら、本音のところでは、「学校」を権威としてぜんぜん承認しておらず、「学校でしつけやモラルなんか教えられるはずがない」と思っているからです。

ほんらい、学校は「ナマハゲ」と同一の機能を果たしています。

学校を子どものしつけやモラルの教化装置として効果的に機能させたいのなら、学校をとりまく地域社会全体が「学校を畏れている」か、あるいは「畏れているふり」をしなければなりません。

だって考えてもみてください。

もし、玄関からどやどやと闖入してくる「ナマハゲ」に対して、家で待ちかまえた親が

「くんのがおせーんだよおめーたちはよお。どっかで腰すえて呑んでたんじゃねーのか。まったくしょーがねーやろーだな。おいおい、土足であがんじゃねーよ。足拭けよ、うるせんだから、ウチのが。おっし、じゃ、はじめっか」

というような態度であった場合、その親のようすを見ていた子どもたちははたして「ナマハゲ」を畏れ、その恫喝に屈して「よい子」になろうと決意したりするでしょうか?

「学校では・・・」というようなことを口にする親の態度から子どもが学ぶのは、その言葉の内容(「学校ではしつけやモラルを身につけるべきだ」)ではなく、その言葉を口にしているときの親たちの「口ぶり」です。

学校は親がやりたがらない面倒くさい「汚れ仕事」をやっとけばいいんだよ、という「なめた」態度を親がしていれば、子どもはそのような社会的態度を瞬時に学び知り、それを自分もまた学校に対して繰り返すことになります。

子どもが学校に敬意を抱かないのは、親が学校に(無意識的にではあれ)敬意を抱いていないことを子どもが知っているからだと私は思います。

「押し掛けを起こす人たちを更正させるという意味での適切な対応策など、ありません。(・・・) 元々そのような痛い行動を繰り返す人が、生半な事で更正する事は少ないですし、そのような性質の人間だからこそ、痛い行為を繰り返しているとも言えなくも無いのではと思います。(・・・) 日本のトップと呼ばれる人たちの言動を見ていると、困った言動をする子供と大して変わらない大人の多い事に気付き、若者がどうだなどと言っていられる状況にこの国は既にないのだ、そんな思いが拭いきれなくなりました。」

まさにご指摘の通りです。

子どもたちの社会的行動は、本質的にはすべて年長者の行動の「模倣」です。

ただ、あらゆる模倣行動がそうであるように、モデルの「いちばん悪いところ」がいちばん真似しやすく誇張しやすいせいで、あたかも世代間に断絶があるかのように見えてしまうというだけです。

子どもたちの社会的行動はつねに大人たちの社会的行動の「醜悪な戯画」です。

いまの子どもたちに共通する「社会的規範の軽視」「公共性への配慮の欠如」「ディセンシーの欠如」「ほとんど自己破壊的なまでの利己主義」などは、その原型をすべていまの日本の「エリート」層の中に見ることができます。

子どもたちは親の真似をし、教師の真似をし、「成功者」たちや、指導者たちの真似をして、いまこのようになっているのです。

子どもを変えることは簡単です。

大人たちが変わればいいのです。

まず「私」が変わること、そこからしか始まりませんし、そこから「すべて」は始まるのだと思います。

「社会規範」を重んじ、「公共性に配慮し」、「ディセントにふるまい」、「利己主義を抑制する」ことを、私たち一人一人が「社会を住み良くするためのコスト」として引き受けること。

遠回りのようですが、これがいちばん確実で迅速な方法だと私は思います。


3月21日

春休みレポート「これで日本は大丈夫?」に次々と力作が寄せられている。(今回は「かしこ」さんのようなヴァーチャル女学生ではなく、ほんとうのゼミ生さんたちです。)

面白いテーマなので、ご紹介しましょう。

最初は西岡さんの「押し掛けお泊まり中学生問題」では、西岡さん、どうぞ。

 

近年、東京都内を中心に「押し掛けお泊まり中学生」が増殖しています。

中学生に限らず、高校生、大学生、二十歳を越した大人でも、「お泊まり中学生」といわれる行為をする人が増えているのですが、ではこの「押し掛けお泊まり」とは、一体何なのか、というと、『住所を調べあて、前連絡もなしに合宿所よろしく突然人の家に上がり込んで好き放題をする』事を言うのですが、つまり、地方に住んでいる中高生ぐらいの年齢の子が、都心で開かれるコンサートやイベント事などの為に、例えば音楽雑誌などの「文通希望」の欄や、自費出版物の奥付から住所を調べ出し訪ねて来て、宿泊費等を浮かす為に会場近くに住んでいる人の家をホテル代わりにするなどの行為です。

これだけを聞くと、大した問題でも無く「泊めてあげればいい」と思えてしまいますが、その実態を知ると、これからの日本を憂えずにはいられないような、痛い(この「痛い」は、見聞きするに堪えない。また、いたわしい。ふびんである。はなはだしく。閉口する。といった意味ですが)言動の子供ばかりが日本に増殖しているように思えてしまいます。

彼女たちは、皆がみな、一様に恐ろしいほどの非常識と、無知と、無邪気さを携えて、終電が過ぎるのを狙ったように真夜中に突然やってき、「電車はないし、今夜寝る所も行く所もお金も無いんです」を口上に、全く面識も無い人の部屋に上がり込み、家の中を勝手に漁り飲食物を要求するなど、傍若無人に好き勝手振舞った挙句に、コンサートのチケットや、本やCD・MD、現金などを平気で盗って行きます。

東京都内にその被害が多いのは、主にそういったコンサートや大規模なイベント事が行われるのが、たいてい東京都内や、東京近郊の場所である、というのが原因だと思われます。このような世も末な事態は、昔からあったようですが、近年この「押し掛けお泊まり」は増えて来ており、警察沙汰となる事も少なくないようです。

このように目痛い人が増加して来た要因には、インターネットによる情報発信力があるのではないかと思います。チャットや掲示板、メールによって簡単に情報が行き来するにつてれて、押し掛ける側が相手に感じる「敷居」は低くなり、まだヴァーチャルな世界と現実との区別を付け辛い若年層にとっては、ネット上で繰り広げられる世界をそのまま実社会に持ち込みがちになります。それが「押し掛け」を助長してしまうのではないでしょうか。

そして更に、そのようなイベント事への参加のし易さの引き金となっているのもネットではないかと考えます。交通手段、参加の為のノウハウ、行動に移す時の同志や仲間は手軽にネット上で見つける事ができます。このような情報入手の多様化によって若い彼女達がコンサートやイベントに参入しやすくなり、参加人数が増えた結果、「泊まる所がないなら、押し掛けよう」「お金が無いなら、そこにあるのを貰えば(盗れば)いい」と言うような、短絡的な思考をしてしまう人の割合も増えてしまったからに他ならないと思います。

ですが、最終的な要因には「親」(親の意識)が深く関わっているのではと思います。

様々な「押し掛け」に纏わる話を聞いてみても、たいていの場合が、押し掛けをした子供の親は、こぞって子供と同じような意識・感覚でいたり、子供の事は放任でその責任も放棄、或いは、子供への愛で盲目になって泊めるのを渋った相手を罵倒する、というパターンです。

「こういう事をすると、だれそれに叱られるからやめなさいね」という形でしか子供を叱る事が出来ない親が増えている昨今、正しい説教(教育)が出来るかというと、おおいに疑問を感じずにはいられません。「勉強は塾や家庭教師でしっかり教えていますので、学校では躾やモラルなどについてしっかりと・・・」などといった事を言っているような親が、痛い言動を繰り返す子供を産み出してしまっているのではないかと思います。

そして、世の中の絶対数的な非常識人の割合が増えて、しかも傍若無人ぶりのレベルも高くなり始末に終えなくなっているのが現状ではないかと思います。

これらのような「押し掛けお泊まり中学生」の例の他にも、日常の社会生活の中でも、一般的レベルの常識を持ち合わせていない若者による目痛い行動をよく見聞きしますが、21世紀のこれからの日本を背負って立つであろう若い者がこんな事で、日本は本当に存続していけるのだろうかと、憂えて仕方がありません。

適切な対応策といっても、「お泊まり中学生」に対する適切な対策なら可能ですが、その中高生を根絶させる為の対応策はというと、一朝一夕に出来るようなモノではないでしょうし、むしろ、これからこういった痛い発言・行動をする人間はもっともっと増えて来るのだろうと思います。

端的に言ってしまえば、押し掛けを起こす人たちを更正させるという意味での適切な対応策など、ありません。あるとすれば、本人に自分のしている事への罪悪観念を呼び起こして、彼女達自身がその己の姿に気付く事ではないかと思いますが、元々そのような痛い行動を繰り返す人が、生半な事で更正する事は少ないですし、そのような性質の人間だからこそ、痛い行為を繰り返しているとも言えなくも無いのではと思います。

このような性質の中高生が増えた事については、日本語が変化していったように、戦後から現在に至る人間の質の変化というか、「近年多発する未成年者の犯罪」にも似た空気を感じますが、時代や歴史の流れによってその親の世代から、必然的に社会が変わってしまったからではないかと思います。

その上に、顔を上げて日本のトップと呼ばれる人たちの言動を見ていると、困った言動をする子供と大して変わらない大人の多い事に気付き、若者がどうだなどと言っていられる状況にこの国は既にないのだ、そんな思いが拭いきれなくなりました。

 

はい、西岡さん面白いテーマをありがとうございました。

これは「他者をいかに歓待するか?」というたいへん大きな問題にリンクしているので、ちょっと時間をかけて議論したいですね。

次は植田さんです。

 

テレビの番組表を見ていて、正月や、番組改編時の特番などに特に多く見られるジャンルの番組がある。バラエティ番組である。クイズ番組を含めトークショウや、料理にいたるまで、バラエティ番組一つにしてもとても広い幅がある。そして、その中で最も重要視されている項目。それが、「笑い」である。唇をつりあげるだけの微笑みであるとか、嬉しいときに自然とこぼれる笑い、日々の生活で何気なく繰り返している愛想笑いなど、「笑い」にも多くの種類がある。その「笑い」というものが、最近あまりにも多く、求められてすぎてはいないだろうか、と私は思う。

バラエティ番組の目的は、そのショウにより人を楽しませることである。しかし、最近の番組は、人を楽しませることが人を笑わせることとイコールになってしまいがちである。その人を笑わせるという風潮はバラエティ番組に限らず、ほとんどの番組にも浸透しつつあり、今や「笑い」は、出演者達においても大きな重大要素となってきている。例に挙げると、本来ならば音楽要素を評価されるはずのミュージシャンでさえも、トーク番組での「笑い」の要素が、そのイメージに大きく影響を与えてしまったりするという状況である。

以前、「笑い」というものは話し手の巧みな話術や、小粋なジョークで生み出されていた。洋画などを見ていてそのやりとりに思わず吹き出してしまうというように、そのような「笑い」は今でももちろん存在している。すばらしいコメディアンは数多く活躍しているし、彼らの「笑い」は絶えることはない。自らを下げ、周りをわかせるという「笑い」に関しては、吉本新喜劇が有名であるが、この吉本新喜劇の台頭もそういった「笑い」を求める現代の風潮のなせるわざであると私は思う。しかし、今、最も支持されている「笑い」は、それとは全く正反対のもので、人を下げ、馬鹿にすることにより生まれる「笑い」である。

では、なぜ「笑い」がこれほどに重要視されるようになってきたのだろうか。これには、笑いを求める者、与える者の両者に要因があると思われる。まず一つに、それは、「ノリ」という現代人の感覚が問題であると私は思う。90年代前半からノリは対人関係におけるコミュニケーションの重要な要素となっていた。「ノリ」という、後先を考えない、その場・相手の雰囲気にあわせて行動しようとする意識は現代人にはとても心地よく、安心できるものであるようだ。そのノリという感覚は、また「笑い」を求める感覚とシンクロしていて、ノリのいい奴イコール面白い奴という方程式が完全にできあがってしまったのである。そのノリは、とどまるところを知らず、また、そこから外れることは、仲間からの離脱を意味する。だから、ノリは時に大きな事件を引き起こすことも少なくない。

もう一つは、すべての人々において、自分の一番すべき仕事の不足部分を補うことに「笑い」を用いるという風潮があるということである。それは、役者であったり、ミュージシャンであったり、制作であったり、プラスアルファの要素としてではなく、根本的な何かに不十分なものを感じ、それを埋める要素として笑いに頼ってしまうのである。そうすることによって、彼らはつぎはぎの100%の力を発揮することができる。

昔と比べて、芸能界での地位が大きく変わったのは「笑い」に携わる仕事をする、バラドル(バラエティアイドル・タレント)や芸人達である。彼らが出演枠を占めるということは、これからも「笑い」を求める風潮は、当分変わることはない。

こういった事態を改善するためには、まず、人々がノリに流されない自分というものを持つことが大切であると思う。それも、孤立するというのではなく、真剣に人と向き合うことをおそれないことである。現代ではメールや携帯電話など、人と直に深く接する機会を奪う仲介者が多く存在する。そんな中で、ノリだけを求めることなく、自己を確立し、なお人と深く接するのは少々困難なことかもしれないが。

そして、もう一つは、誰もが本物を求め続けることである。「笑い」に頼らなくても100%の力を発揮できる自信と技量を誰もが追い続けることが、何かにつけて「笑い」を求める風潮を薄れさせていくだろう。

しかし、「笑い」そのものは否定してはならない。ユーモアはいつも人々を、明るく、幸せにしていく。その重大さも、決して忘れてはならないものだと、私は思う。

 

「笑いの変質」についての植田さんのレポートでした。どうもありがとう。

これもまたコミュニケーションの問題に深いところでふれているようです。

それぞれについていろいろとコメントしたいことがあるのだけれど、いまちょっと時間がないので、またあした。

ほかのゼミ生諸君もそろそろ締め切りだよ。


3月19日

卒業式。

今年の卒業生は合気道部だけで8人。それにゼミ生が12人。

いちどに20人の教え子たちがいなくなると思うと悲しい。

でも、しかたがない。

月に群雲、花に風

さよならだけが人生だ

春はわかれの季節なんだよね。

るんちゃんとともに過ごす時間もあと7日。(そのうち3日は合宿でいないから、実質4日だけ)

思えば、1989年4月3日から、12年間におよんだ父子家庭生活もあと一週間で幕を閉じることになる。

るんちゃんは毎日マンガの整理(持って行くのと古本やに売るのを選別しているのである)と私のCD、レコードからMDへのダビング作業をしている。(モンキーズとかツェッペリンとかバッファロー・スプリングフィールドとか)

今日はいっしょに芦屋のシャンティでカレーを食べる。あさっては木繁のラーメン。しあさっては手作り餃子である。(るんちゃんのご指定めにう)

私はろくでもない父親であったが、娘と「いっしょにご飯を食べた」ということに関しては、だれにも後ろ指をさされない自信がある。(夕食の「親子共食率」はたぶん99%くらいに達する)

「この鶏肉美味しいね」とか「ラーメンにはコーン缶だね」とかいうどうでもいいような会話をしただけだけれど、私たちは過去12年間、ほとんど「同じもの」を食べて生きてきた。

これは人間が共同体を形成してゆく上ではけっこう大事なことだと思う。

儀礼としての人類学的な意味でも、同居者の器質的同質性を高めるという生物学的な意味でも。

なんだか泣けてきたぜ。

しくしく。

ま、感傷はさておき。

極楽スキーの会は「爆装派」ワルモノ先生の圧倒的な登場と、「爆走派」ウエノ先生のカーヴィング購入によって、従来の書記局主導の「プチブル穏健派路線」への批判の高まりが懸念されていたが、ワルモノ先生のドタキャンと、爆走派の逸脱行動に対する「同行の次女によるきびしいチェック」のせいで、既定路線が粛々と維持され、その反動的体質がますます強化される、という予想外の結果を見た。

政敵の一時的退潮に乗じた書記局派はこの機に一気に大勢を決すべく、あらたに予定外の「極楽スキー三箇条」の制定を画策、キャスティングボートを握るジェンダー研系の極楽レディースとの連携に成功、多数派を制した。

あらたに制定された極楽スキー三箇条とは、

(1)向上心を持たない

(2)技術の不足は金で補う

(3)シュナイダー、牛首滑走禁止

知性と美貌は衰えをしらぬまでも、足腰に衰えを隠せない極楽レディースが従来の過激派路線から、ブルジョワ的な現状肯定路線に転じたことに、会の内外からは「おおお」という驚きの声がひろがっている。

この極楽レディース攻略にさいしては、書記局は「極楽スキーの会の宗教法人化」を取引のカードに使ったものと見られている。

書記局を仕切る「極楽派」はほんらい無思想的武闘派であるが、無思想ゆえに、しばしば節操のないオカルト志向を示していたが、今回「やまびこゴンドラリフト」内での非公式折衝において、「スキーの本質は行であり、瞑想であり、宇宙との一体である」という新綱領を唐突に提唱し、「瞑想」という言葉に親和的なピアノバー派の懐柔に成功した。

その後も、天候がよいとか雪質がよいとか飯が美味いとか風呂が気持ちがよい、とかいう万象をことごとく「スキーの神様のおぼしめし」である、という一元的な説明によって乗り切り、自分たちの「ひごろの行い」に対して、過分とも思える好条件でスキーを愉しんでいることに一抹の不安を感じていたレディースの心理的弱点につけこんだ書記局派の老獪ぶりがきわだった。

宗教法人としての極楽スキーの会は当面、次のスローガンを掲げることを決定している。

「スキー上人なく、人下スキーなし。われはスキーなり、われはスキーと一体なり。」

宗教法人としての新教典(内容未定)は題名のみ「極楽神礼賛」に決定している。

 

前回、ウチダゼミのレポートをいちはやく送ってくれた「かしこ」さんから反論が寄せられたので、採録しておきたい。

内田先生こんにちは。こないだ、誰よりも早く春休みの宿題レポート「これで日本は大丈夫?」を提出した「かしこ(かし子)」です。ホームページに載せていただいて、おまけに先生のコメントまでいただいてありがとうございました。

すぐ消えちゃったみたいですけれど、あたしのレポートについての先生のコメント、しっかり読ませていただきました。あれから一週間、いろいろ考えてみたけど、やっぱり腹が立ってしょうがないので、反論させていただきます。

あたしが今一番心配なことは、団塊の世代の父たちが集団自殺することだって、レポートに書きました。いつも競争させられてばかりで、苦労してやっとここまで生きてきたのに、最近ではリストラの対象世代にされて、きっと養老院もいっぱいだろうし、もうすぐキレてしまうんじゃないかしら、意気地のないおとーさんたち、酒を飲んで愚痴言って暴れたあげく、多分集団自殺をしてしまうに違いない、そうすると、人口ピラミッドがいびつになるし、生命保険会社は保険金の支出に耐えられなくて倒産するし、日本経済は壊滅してしまう。だから、日本全体でもっと父たち団塊の世代をケアする方法を、今のうちに考えてほしい、それが日本を救う道、そう書いたのですが、先生のコメントは次のようでした。

> レポートありがとうございました。でも、先生はあなたとはちょっと意見が違います。

> 人口ピラミッドが多少いびつでも別に誰も困りませんし、日本の生保業界は鬼のようなところですから、「団塊世代集団自殺」は阪神大震災と同じように「内乱・革命・天災」に準じる事案として処理して、保険料不払いにすることは確実で、金融の混乱の心配もありません。それに、自殺するより先に、団塊の世代は幼児期からためこんだ発ガン性物質のせいで、五十歳を過ぎたあたりからばたばたと死んで行くはずです。

> いずれ私たちの世代が存在したことそのものが、歴史的な「ボタンのかけちがい」のようなものとして忘れ去られてゆくでしょうから、団塊の世代が集団的に消滅しても「まるで日本は大丈夫」です。どうぞ、ご安心下さい。

> お父さんにはたっぷり生命保険をかけて、毎日お酒やあぶらっこいものを食べさせてあげて下さい。きっと「なんてかわいい娘なんだ」と泣いて、お母さんではなくて、あなたを保険の受け取り人にしてくれると思います。

> がんばって、いいこぶって下さい。

人口ピラミッドがいびつでも別に誰も困らないって先生はおっしゃいますが、私が言っていることの深い意味を先生はお察しになって下さらないことが残念でなりません。

あたしたちの生命は、連綿と続く生命連続体のベルトコンベアに乗っています。そりゃ、たぶん人生は無意味でしょうけれど、生物学的に言ってこの連続体を人為的に断絶させることは、安易に為すべきことではないと思います。でも、すでに存在している世代が集団消滅するだけだから、生命連続体を断つのではないと、先生は言うのでしょうね。(集団消滅って、小松左京さんのSFが得意の分野ですね。面白いこと教えましょうか、内田先生。小松左京さん、いま鬱病で、重症の引きこもり症なんですって。「噂の真相」に出てたよ。関係なかった、もとい。)しかし、特定の世代が集団消滅することは、残された人たちの精神生活に重大な悪影響を及ぼすということ、内田先生は理解できないのでしょうか。デリカシーのない方ですね。反省して下さい。

具体的な例を挙げます。あたしたちの世代をどうのこうの、団塊の世代の人たちは特にうるさく批判します。そういう時あたしたちは、「うるさいわねぇ、けっ、なによあの人」「構うなよ、あいつあの悪名高い団塊の世代で、全共闘くずれなんだから」「そっか、それじゃしょうがないか」というような会話をします。それで私たちの精神は浄化されるのです。団塊の世代は、そういう大切な役割を担っているのです。勝手に消滅されては、私たちも困るんです。お分かりになりましたか。人口ピラミッドがいかに大事かということが。

次に、日本の生保業界は鬼のようなところですから、「団塊世代集団自殺」は阪神大震災と同じように「内乱・革命・天災」に準じる事案として処理して、保険料不払いにすることは確実で、金融の混乱の心配もありません。と先生はおっしゃいます。

これについては同感です。ほんとうに、生命保険業界は鬼ですね。生保レディーなんて、親戚を一通り回ればそれでお払い箱で、もっと頑張ろうとすれば、色仕掛けで助平野郎のご機嫌をとらなければならないのだそうです。女性をなんだと思っているのでしょう。腹立たしいです、書いていて頭に来た。

だいたい、人の命を商売道具にするなんて許せない。生命保険業なんて「賤業」の最たるものです。(差別語かしら)

「賤業」といえば、失礼ですが、大学教師なんかもその範疇だと思います。とくに文学部。工学部や医学部は、社会に有用な学問ですが、文学部の先生って、具体的に社会に有用な何かを生み出したことがあるのですか。どーでもいいことを、ああだこうだって、枝葉末節にこだわったり重箱の隅をつついたり、人の論文のアラ捜しをしたり、ろくでもないことばかりしています。「人生とは何か、どう生きるべきか」なんて、大げさなこと言って、そんなこと、分かるわけないでしょ。それに、一言じゃ言えないわよ。あえて言うなら、人生なんて「色と欲よ」。そんなこともわからなくて、よく大学の先生なんてやってられるわね。バーカ。

興奮して、はしたないことを申上げました。失礼しました。もとい。

うちの父も、酒乱ですから当然重症アルコール性肝炎です。ガンマGTPは400を超えています。糖尿病ですし、ハゲはじめていますし(ハゲは病気じゃなかった、もとい)、最近は前立腺肥大で、おしっこが出ないと言っています。大腸憩室炎もあります。病気の缶詰みたいです。よほどろくでもないものばかり食べていたのでしょう。私にも影響が出なければいいですが…

先生のコメントはさらに続きます。

> お父さんにはたっぷり生命保険をかけて、毎日お酒やあぶらっこいものを食べさせてあげて下さい。きっと「なんてかわいい娘なんだ」と泣いて、お母さんではなくて、あなたを保険の受け取り人にしてくれると思います。

先生の論理は粗雑です。さっき、保険金は出ないと言われたばかりではないですか。団塊の世代の集団自殺は、阪神大震災に準じる扱いを受け、生命保険をかけても無駄なのに、無駄な保険金をあたしがなぜ掛けなきゃいけないんですか。

きっと、あたし程度の人間には、論理矛盾なんかには気がつかないだろうって、見くびっていらっしゃるのね。うーん、悔しい。キーッ。そこまで馬鹿にするんですね、覚えてらっしゃい。ゼミの部屋、火事になっても知らないわよ。

がんばって、いいこぶって下さい。

内田先生は最後にこうおっしゃいました。

かし子がほんとにいいこだったら、先生のゼミなんかに入りません。ご専門はブランショ(何だか歯ブラシの名前みたい)、レヴィナス(車の名前みたい)なんていう難しそうな学問なのに、本当の専門は合気道と居合と杖道と謡という噂で、普通に考えると(どう考えても)性格破綻者のように思われますが、一見支離滅裂に思える(その確信は日に日に深まります)そういう先生に興味があって、ついふらふらとゼミに申し込んじゃっただけなんです。優しそうだし。

でもかし子、後悔しないわ。

 

はい、かしこさん長いご批判をありがとうございました。

ヴァーチャルキャラクターの造形力によって、その人の想像力のレンジはかなり測れるのですけれど、今回のかしこさんは「色と欲」とか「全共闘くずれ」とか、大学生の語彙には存在しない死語を使ってしまってちょっとぼろを出してしまいましたね。

もう少しお酒を控えてからレポートを出すようにしましょう。それにしても、ガンマGTP400というのはすごいですね。


3月12日

私も株主(エンジェル投資家ね)であるところのビジネス・カフェ・ジャパンは『エスプレッソ』というお洒落なビジネス誌を刊行している。

これは『学士会会報』と『映画秘宝』と並んで、私が定期購読しているレアなメディアである。

このビジネス誌には、平川克美くんがときどきかっこいい論文を書いている。

今回の第四号には「Linuxパラドクス−IT革命の本質とLinux」という論文を寄せている。

何度も書いたが、平川くんは私の「鏡像自我」である。

「鏡像自我」というのは、「他我」などというなまやさしい代物ではなくて、その思考プロセスそのものが、テクストを読んでいると「まるで自分の思考回路をたどっているかのように」私の意識に直接的かつ根源的に現前してしまうという、フッサールも裸足で逃げ出す「共同主観性」の相方である。

さて、その平川君の今回の論文はLinuxのお話である。

うちの学生さんの中にはLinuxなどといっても Lux石鹸と区別できない困った子もいるかもしれないので、ちょっと説明するね。

これについては私も実はあるところにちょっとだけ書いたことがある。

去年の5月のビジネス・カフェ・ジャパンの創立パーティのときに、Linux 関連のヴェンチャーの人がプレゼンをしていて、それがあまりに面白かったので、そのあと書いたのである。そのまま採録。

 

Linuxの話をしよう。

「Linuxって何?だいたい、なんて読むの」と戸惑われている方が少なからずおられると思う。

「リナックス」と読む。

いまやビル・ゲイツのウインドウズ王国の世界覇権を脅かしている新しいOSの名前である。

「OSって・・・何ですか?」

おお、すまなかった。OSというのは、(私もよく知らないが)「オペレーティング・システム」のことである。

言い換えても、少しも分かり易くならないが、手元のパソコン用語辞典によるとパソコンのするさまざまの仕事のうち「料理のしたごしらえ(じゃがいもの皮むき)みたいな」泥んこ仕事をやる基本ソフトのことである、と絵画的に説明してある。(ありがとう小田嶋君。)

あの小さな箱のなかで、小さなコックさんがいそいそとじゃがいもの皮むきをしている姿を想像するとなんとなく心が温まるが、実はこのOSをパソコンの世界ではMS−DOS以来マイクロソフトが(マックOSを蹴散らして)一元的に仕切ってきたのである。(ワークステーションの世界ではUNIXの独占体制。)

つまりどんなパソコンでも、「コックさん」は同じ「コック派遣業者」からしか採用できない、という日々が続いていたのである。(で、当然にもけっこう高額の「派遣料」と取り立てていたわけだ、マイクロソフトさんは。)

しかるに1991年のある日、フィンランドの天才ハッカー、リナスさんがまったく新しいOSのリナックスのアイディアを提唱して、それをインターネットで公開し、このOSの開発を全世界に呼びかけたのである。

この「誰でも参加できるOS開発」というプロジェクトにヴォランティアで参加したコンピュータ・フリークが全世界に無慮10万人。その人たちが朝な夕なに知恵を絞り、インターネット上で意見を交換しあい、アイディアを共有し、またたくうちにリナックスは異常な「進化」を遂げてしまい、いまなお日進月歩ならぬ「分進秒歩」の変容を遂げつつあり、いまやスーパーコンピュータ市場では、UNIXを駆逐する勢いなのである。

リナックスの特徴は、もとが「無料」ということと、(どういう仕掛けかがまるごと公開されているので)改造が自由ということと、全世界のヴォランティアによる現在進行的共同開発なので問題点の修正が瞬時に行われるという点にある。

これは大変なことである。

画期的に堅牢で信頼性の高いOSをつくったリナスさんは、これで天文学的な利益を手に入れることができたのに、それをせず、

「ねえ、みんなでもっとこのOSに磨きをかけようよ」

と無料で公開してしまったのである。(ご本人はいま米国でサラリーマンをしている。)

リナックスOSの特許をとれば彼は大富豪になれた。しかし彼はその道を選択しなかった。

自分の「発明」をできるだけ多くのひとの無償の協力によってさらに洗練させること、それによって安価で堅牢なコンピュータを市場に提供することの方が自分ひとりがリッチになることよりずっとすてきだ、と彼は思ったのである。

なんて偉い人なんだ。

「自分ひとりがお金もちになるより、世界中のひとが少しでも便利になるほうがいいから」と考えたのである。

だが、リナスさんは決して無欲の人ではない。

リナスさんはOSのアイディアを得た。そして、それがインターネットを通じて、全世界を駆けめぐり、無数の天才的プログラマーたちの好奇心を刺激し、彼らのアイディアを次々と吸い上げて地球的なプロジェクトに膨れ上がるさまを「この眼で見たい」という強烈な欲望に捉えられたのである。(たぶん)

メルセデスやプール付きの家などより、自分の名前を冠したOSが世界標準に「進化する」のを見る快楽をリナスさんは選んだ。

これは欲望のあり方としてきわめて健全であると私は思う。

なぜ、健全であるかというと、これは一種の「先祖帰り」を果たしているからなのである。

どういう点が「先祖帰り」であるのか。ちょっと説明が必要だね。

私たちはビジネスというものをする。

私たちは貨幣を作りだし、市場を形成し、商品を売り買いしている。

しかし、なぜそんなことをしているのか、その本当の理由については私たちはふだんあまり考えない。

「何言ってんだか。ビジネスは金儲けだよ」。

ふむ、君は同語反復していることに気づいていないようだね。

そのへんを闊歩している元気な若いサラリーマンを誰でもいいから捕まえて、尋ねてみたまえ。

「貨幣て何?商品て何?市場て何?」

おそらく誰も答えられぬであろう。(マルクスを読んでいる人は別だけれど、残念ながら「マルクスを愛読しているサラリーマン金太郎」などというものは存在しない。)

答をお教えしよう。

貨幣や商品は「くるくる動き回るもの」である。

市場は「ものがくるくる動き回る場所」である。

以上。

(こんなことを書くと『資本論』講義のノート作りで骨身を削っているワルモノ先生はむなしさのあまり卒倒するかもしれない」。ごめんね、いつも話が雑で。)

どうしてそういうことになるかと言うと、私たちは何かがくるくる動き回るのを見るのが大好きなだからである。

それなしでは生きてゆけないのである。

理由は知らない。

三浦雅士の説によると、ネアンデルタール人と現生人類の祖、クロマニヨン人を隔てる決定的な違いは、クロマニヨン人は「何かと何かを交換する」ことが好きで好きでたまらなかったという点にある、という。

ネアンデルタール人の行動半径は、その使用器具の原材料の入手源から見て約50キロ。これに対して、クロマニヨン人になると、彼らが使っていた道具の材料のとれる場所は一気に数百キロにまで増大する。別にクロマニヨン人がネアンデルタール人の十倍走り回ったからではない。交易というものをしたからである。

装身具用の貝殻とか珊瑚とかいうものは海岸地帯から千キロ近く離れた内陸部でも発見されている。

三浦はこう書いている。

「人間は必要に応じて物を交換すると普通は思われている。だが、ネアンデルタール人からクロマニヨン人への決定的な飛躍は、むしろ逆に、交換が欲望を生み、必要を生んだことを教えている。」(『考える身体』)

海岸近くのひとはたくさん魚が獲れ、山のひとはたくさん野菜がとれるので、それぞれあまった魚とあまった野菜を交換したのが交易の始まりである、というふうに普通は考える。(私が習った頃の小学校の教科書にはたしかにそう書いてあった。)

実は、これが逆なのである。

クロマニヨン人はとにかく交易がしたかったのである。

それで海岸のひとたちは「必要以上に」魚を獲り、山の人は「必要以上に」野菜を獲ったのである。要るだけ獲っていれば、別に気楽に暮らせたのに、交換したくてたまらないものだから、むりやり多くを採集し栽培する。かくして労働が発生し、分業が発生し、貧富の差が発生し、階級が発生し、国家が発生したのである。

というのが経済人類学ならびに考古学の近年の説である。

大事なのは、物と物がとにかく交換されることである。

かくして貨幣が登場する。

貨幣はひさしく「何かと何かの交換」を加速するための最良の、もっとも効率の良い装置であった。だから、貨幣自体にはほんらい何の価値もなくて構わない。というか、使用価値みたいなものがあっては困るのである。

金貨とか銅銭とかいうのは貨幣としてはほんとうは「邪道」なのである。(ペンダントにしたり、文鎮にしたりして退蔵するひとがいるから。)

貨幣はできるだけほかに使い途のないへらへらしたもので、すぐに消え失せたり、燃えたり、破れたりするのがよろしいのである。

中世イタリアの商人は、さらに効率のよい装置を求めて「クレジット」や「為替」を発明した。こういうものはもう実体がない。完全にヴァーチャルである。

いまではデジタル・マネーである。

私たちはそれが可能な商品については、お店まで行って財布を開けてお金を払うよりも、家のパソコンからカードのナンバーを打ち込むだけでものを買う方を選ぶ。

その方が価格が安かったり、品質のよいものが手には入るからではない。(いまのところほとんどの商品はインターネットで買うほうが割高だし、手にとって品質をチェックすることだってできないからスカをつかまされる可能性も高い。)

にもかかわらず、私たちが電子取り引きに魅了される。

それは、単にそのほうが「物が速く動く」からである。

私たちは「物と物ができるだけ速く、できるだけ大量に交換される」事態に抗しがたい魅力を感じてしまうのである。

それはクロマニヨン人の子孫なんだから仕方がないと私は思っている。

で、リナックスの話。

リナックスの発明者、リナスさんは

(1)リナックスOSの特許でたくさんお金を手に入れる、

(2)リナックスのソースコードを無料公開してOSが「進化する」のを見る、

という二つのオプションを前にして、ためらわず(たぶん)(2)を選んだ。

これはリナスさんが博愛主義者であることを意味しない。

彼はおのれの「クロマニヨン性」に忠実だったということである。

その本来の社会的機能に即して言えば、貨幣に価値があるのは、それが交換を加速する場合に限ってのことである。

貨幣以上に速くかつ大量に「物と物の交換」を促進するものがある場合、クロマニヨン人の血を引くものは、それを「貨幣以上に貨幣的なもの」と判定するはずである。

リナックスOSのインターネット上での無料公開は10万人規模の「データの交換」、「アイディアの交換」、「エールの交換」、「罵倒の交換」などを可能にする。

もちろん貨幣をつかってもOS開発はできる。(マイクロソフトがしているように)

しかし、有料でのOS開発の現場でなされる「交換」と無料OSの開発においてなされる「交換」ではその規模の桁が違う。

リナックスOSの世界標準化は「マイクロソフト帝国」の終焉をも意味している。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という『平家物語』の冒頭も「歴史は階級闘争の歴史である」という『共産党宣言』の一節も、その意味するところは同じである。

交替がなされなくてはならない。同じものが同じところにとどまっていてはならない。ひとたび権力を掌握したものは、すみやかにその座を次のものに譲らなければならない。

理由は知らない。

おそらく、同じ物が同じ物のまま同じところにとどまっていることに、私たちの「クロマニヨン人」性が耐えられないからだろう。

平家が滅びたのと同じ理由で、マイクロソフト帝国もしずかに「歴史のごみ箱」へ去ることになる。

「ウインドウズOS?あ、あったみたいですね、20世紀に、そーいうの。その頃ってOSって有料だったんですか?そんな空気に課金するみたいなことされて、みんなよく黙ってましたね、昔のひとは。ははは」

という時代がいずれ来るであろう。

 

ということを書いたのが10ヶ月前。もちろん平川くんはこれを読んでいない。

そして今日平川くんの書いた論文を読んで、びっくり。

その中のLinuxについて書いた箇所を採録しよう。

 

「Linux の発明者である Linus Torvalds は、Linux をどのように成功させたか、次のような興味深い見解を述べている。

『簡単なことです。僕はたったひとりの人間でしかありませんから、何から何まで自分でやるのは不可能です。助けが必要だし、それにはほかの分野では自分よりずっとすぐれた人がいるという事実を認めることも必要です。』

リナス自身が述べているように、Linux の革命性はOSそのものの出来映え以上に、そのプログラム作成のプロセスそのものの中に存在している。そのことの意味をもっとも深く理解し、それをメタフォリカルに表現してみせたのは、fethcmail の作成者であるエリック・レイモンドだろう。彼の書いたエッセー『伽藍とバザール』によって、Linuxおよびオープンソースを取り巻くものの考え方、行動様式は少数派の運動からひとつの新しいカルチャーになったといってもよいかもしれない。

『はっきり言って、ぼくはリーヌスのいちばん賢い、影響力のあるハッキングというのは、Linux のカーネル構築そのものではないと思う。むしろLinux 開発モデルの発明だと思う。』(『伽藍とバザール』)

このレイモンドの言葉に、Linux の持つ意味が象徴的に現れている。ここでいう開発モデルにかれは『バザール方式』という言葉を与える。『バザール方式』とは、未完成の状態でもソースコードをリリースしてオープンにし、ユーザも含めてプログラムを修正してゆくやり方を指している。それに対して『伽藍方式』というのはそれまでのFSFや商用ソフトの世界で行われていた中央集権的で閉鎖的な開発方式(伽藍建設型開発モデル)を指している。

『バザール方式』は『プロジェクトの複雑さとコミュニケーションコストは、開発者の二乗で増大する』という『ブルックスの法則』にチャレンジし、『全世界を才能プールとして使用』することが可能であり、安上がりであることを示した。

しかし、『バザール方式』の成功は、単にプログラミングの方法に関する新しい提案にとどまることはなかった。ユーザを巻き込む開発方法は、それまでの商用ソフトウェアの開発方法とまったく異なった新しいビジネスパラダイムを提供したのである。つまり、ここでは生産者(開発者)と商品(プログラム)と買い手(ユーザ)の関係は、従来のように固定した関係ではなく、相互に役割を変えて乗り入れるというダイナミズムを得たわけである。(・・・)

現在のわたしたちの社会に支配的な交換経済は、財の希少性に対する適応行動というかたちをとる。交換経済では、社会的な地位はモノ(あるいは人)をコントロールできるパワーの大小できまる。それに対して贈与文化とは希少性ではなく、過剰への適応である。贈与文化の支配的なところでは、社会的なステータスはその人が何をコントロールしているかではなく、その人が何をあげてしまうかで決まる。贈与文化は、生存に不可欠な財が欠乏しないような社会で見られる人類学的なモデルなのだ。(・・・)

レイモンドはオープンソース・ハッカーたちの社会はまさに贈与文化であるという。

『生存にかかわる必需品』つまりディスク領域やネットワーク帯域が深刻に不足しない場合には、ソフトは自由に共有され、ナレッジは自発的に差し出され名誉と交換される。競争的な成功の尺度は仲間内の評判だということである。

『情報』が商品となったときから、交換の経済とは異なったモメントが動き始めたといえるのかもしれない。情報はまさに与えなければ得られることがないように流通する。(・・・)

Linux あるいは他のフリーソフトウェアが、今後どのようにビジネス社会の中に取り込まれ、位置づけられるのかは予断を許さないが、もはやオープンソースのカルチャーというものを抜きにしてビジネスを考えることは避けては通れないということは確実であるように思われる。」

 

平川くんのオリジナルテクストはもっと長くて、面白い部分(ポトラッチに言及した部分とか)もたくさんあるのだが、Linux についての核心的な記述だけを引用させてもらった。

それにしても、でしょ?

私たちはほとんど「同じこと」を書いている。

まあ、Linux について肯定的に書けば、たぶん誰でもだいたい同じようなことを書くことになるのかも知れないけれど、それを「交換」という「人類学的」な営為に結びつけて解釈して、これは「カオス」ではなく、「新しいタイプのノモス」なのだ、という結論に強引に引っぱってきて、「ま、そーゆーわけだから。がたがたいわんと、私に資本を回しなさい。悪いよーにはせんから」いうところにオトす、という戦略の組み立てにおいて、私と平川くんは双生児的である。

もちろん私も平川くんも「私に資本を回して」もらって、それを退蔵する気はさらさらない。

それでは、なぜ私たちが資本主義社会において、ビジネスでの成功をめざしているかというと(申し遅れましたが、私もまた資本主義市場において「教育ビジネス」「学術ビジネス」での成功を追求しておるのです)、私と平川くんは、「手に入れた資本」を一瞬も「寝かしておかない」ことに関してはほとんど「天才」だからである。

「江戸っ子だってね」

「おうよ。宵越しの銭ぁもたねえぜ」

私たちは何かを退蔵するとか、秘匿するとか、私物化する、とかいうことができない「江戸っ子」なのである。

「クロマニヨン」性格が濃厚な人間類型と言ってもよい。

たしかに、私たちは「お金持ち」になりたいと思っている。

けれどもそれは先に書いたように「メルセデスやプール付きの家」が欲しいからではない。

お金もちになったら、お金をどんどん人にあげることができるからである。

他の人がお金を持っている場合よりも、私たちがお金を持っている方が、貨幣の循環を加速するであろうことについて、私たちは断固たる自信がある。もう、これは、確信を込めて断言できる。

私たちは「ひとにものをあげる」のが異様に好きな人たちだからである。

平川くんがビジネスで成功して、次の段階にスケールアップするときに選んだ仕事は「お金が欲しい起業家に、お金が余っている投資家からお金を調達する」ビジネス(「インキュベーション・ビジネス」というのだよ)であった。

私は身を削って得た学術情報をインターネットで無償で公開することと、骨をきしませて習得した武道の技法を無償で伝授することに手持ちのエネルギーと時間の過半を割いている。

それによって、「名誉や権力や婦人の愛」(@フロイト)を得たいからではない。(ちょっとは得てもよいが)

そうせずにはいられない、やめられないとまらない「エビセン」体質のゆえなのである。

だからLinuxの話を聴くと私たちは「お、フィンランドにもいるのね。エビセン男が」というような好意的なリアクションをしてしまうのである。

財やサービスや情報や権力が「くるくる」動き回るのを見るのが、「エビセン男」たちは好きで好きでたまらないのである。

理由は分からない。


3月11日

ウチダは明日から「極楽スキーの会」で野沢温泉です。

寝てる時間と温泉にはいっている時間と宴会をしている時間のあいまには、なんとスキーもできるという願ったりかなったりの「極楽リゾート」である。

ここで一年分の疲れを流して、「蘇る勤労」となって3月17日以降の非人間的スケジュールに挑むのである。(あ、考えただけで頭痛が・・・)

出発前に、なんとかレヴィナス論の第三章を仕上げたいものである。

第一章「レヴィナスと出会いの経験」はすでに書き上がった。(ショート・ヴァージョンが『ユダヤ・イスラエル文化研究』の次号に載ります。)

第二章「非-観想的現象学」(別名、「寝ながら学べるフッサール」)は昨日脱稿。

第三章「愛の現象学」は『全体性と無限』のエロス論をフロイトをてがかりに読解しようじゃないのというなかなか野心的な企画である。返す刀でリュス・イリガライへの積年の怨みもこの機会に晴らしておきたい。(私はあまりひとを憎まないたちであるが、イリガライだけは許せんのじゃ。あ、名前を口にしただけで怒りで身体が震えてきた。)

第四章はたぶんハイデガー論になるはずである。しかし、フェミニズム批判であまり紙数をつかってしまうと、「サルにも分かるハイデガー」の頁数がなくなってしまう。

いずれにせよ、こんな調子で好き放題書いていたら、本がめちゃくちゃ厚くなって誰も買ってくれなくなってしまう。(600頁、五千円の『高校生でも分かるレヴィナス』なんて本、誰が買うだろう)

しかし、まだできていない段階で言うのもなんであるが、これは「よい本」である。

なんといっても「分かりやすい」。

私は「自分に理解できないこと」は絶対に書かない、ということを原則にしている。

しかるに、この世界には「私に理解できないこと」があまりに多い。

したがって、私は書きながら、「理解できないこと」をなんとか理解しようと努めている。

それは哲学上の概念を、私がふだん使っている言葉に何とか置き換えるということである。もちろん逐語的に置き換えることは不可能である。

ではどうするか。

「たとえ話」をつくるのである。

フッサールは「間主観性」を説明するときに、「世界中の人がペストで死に絶えて私ひとりが地上に残った場合でも、私は自分がいま見ている物体の『私には見えない側』を見ている他者の視線を想像的に経験している」という印象的な「たとえ」を挙げている。

世界に一人だけ残った「超越論的自我」がじっとみつめる「サイコロ」。

彼には最大「サイコロ」の三面しか見えない。

しかし、彼は残りの「見えない三面」をありありと「それを見ている他者(ってもうひとりもいないんだよ)の視点」に自己移入することを通じて想起することができる。

というか、「それを見ている他者(いないのね、しつこいけど)」が「いる」と想定しないと、「サイコロの三面」らしきものは「サイコロの三面らしきもの」としてさえ認識不可能なのでらう。

つまり、「ひとりでも共同存在」なんだよ、人間は。

これほど巧みに「間主観性」の構造を伝えてくれる比喩はなかなか思いつかない。

というわけでウチダは毎日毎日「たとえ」ばかり考えて暮らしている。

今回のベストたとえばなしは「村上春樹の目には『Fの鉛筆』が『セーラー服を着た女子高校生』に見える」という『村上朝日堂』の一節を使って「ノエマ−ノエシス」構造を説明した箇所である。これはわれながら分かりやすかった。

いま考えているのは、「超越論的自我」の内部に「超領地性」が生成して、その「女性的なもの」の「優しさ」の様態において他者が顕現する、という『全体性と無限』の「すまい論」をどうやって「高校生にも分かるように」書き換えるかという難問。

エゴイスト的東京の真ん中に「真空」の皇居があって、そこに「女性的なるもの」としての天皇が降臨する、というような「たとえ」だとなんだか三島由紀夫みたいだしなあ。

どうしたもんか。


3月10日

入籍事件(ってこれは事件か?)が岡田山に静かな波紋を呼んでいるワルモノ先生に、同僚たち(主として「極楽」系)からいろいろと「つっこみ」が入っており、それにワルモノ先生がお答えをしている。

さて、その中にVSMSについての言及があったので、みんなでいっしょに考えてみよう。

ワルモノ先生曰く。

「そして,おそろいことだ。いつのまにか「バツイチ連合」が「独居老人孤独死」仲間の会にまで発展していたとは。ボクの場合,今後も「バツ」がふえる可能性は高いのだけど,でも「紙」のうえにバツがつくことと,ペアをつくることとはまったく別ものだと思っていたので。…って,でもそんなことは「極楽」先生も同じなのに(たぶん)。じゃあ,いったい何が? 問題は死に方なのか? 人生やっぱり孤独死でなければだめなのか? 例えばペアの相手が先に死んで,それからひっそり会則にしたがって「孤独死」する場合はどうなるのか(心千々に乱れる)?」

細心にして剛胆なワルモノ先生も、極楽系同僚たち(極楽先生ことウチダと「粘り目笑い」のジャン森先生)のリアクションにはいささか意外の感をもたれたようである。

そもそも入籍問題については、われらバツイチ諸君はいろいろろトラウマもあり、若い人たちのように

「戸籍なんてカンケーねっすよ。愛があれば、ね、トモコちゃん」

のような軽やかなリアクションができないのであり、いきおい眉根に小さくシワよせて、

「ま、なんだわな。戸籍というのは、化石とは、ちょっと違うわな」

というような歯切れの悪い対応になってしまうのである。

私はいちど結婚して入籍したことがあるが、そのときびっくりしたのは、入籍と同時に、実に多くの、おもいもかけぬ人々から暖かい「認知」のお言葉が得られたことである。

私が「おお、私も市民として認知されたのだ」と思ったのは、実にこのときである。

(それまでの25年間、私は自分のことを一度も「市民」だと思ったことがなかったのである。それもいささか問題ではあるが)

もちろん、世の中というのは「ただ」で人に温かい言葉をかけてくれるほど気のよいシステムではない。当然、それには「裏」がある。

「認知」の代償として、私は年金を払ったり、確定申告をしたり、選挙に行ったり、免許をとったり、それまでまるっとネグレクトしていたさまざまの市民的義務を果たし、「システム」のさまざまなマトリックスに喜々として「自己登録」するような「小市民」と化したのである。

まあ、これは私個人の特殊な例であって、ワルモノ先生は筋金入りのレーニン主義者であるから、その程度のことで市民化するほどヤワではないだろう。

しかし、まわりからすると、「ただ同居している」ということと「入籍する」ということは意味がかなりちがってくることはどなたの場合でも変わりはない。

単に「同居している人間たち」は「ペア」としては認知されない。

というか「ペアとして認知しない」ほうが礼儀にかなっている場合がしばしばある。

彼らは「ふたりの独立した個人」である。

だから、

「あ、ヤマダくんいる?いないの?あのさ、ヤマダくん、明日ヒマかな?」

みたいな問い合わせに同居人のトモコさんが

「あたしはヤマダの番人じゃないわよ」

と冷然と答えても、失礼なのは電話をかけたタナカの方であって、トモコさんの対応はまったく正しい。

しかし、入籍するとそうはいかない。

「お、ヤマダ、『死霊のはらわた』の無修正版が手に入ったんでさ、明日うちで上映会やるから来ない」

みたいなオッファーのさいごに

「トモコさんもつれといでよ」

を付け加えないと、バカ映画好きのヤマダくんもちょっと快諾しかねるのである。

このあたりのやりとりはきわめてビミョーなものであって、結婚したことのない方にはちょっとむずかしかったかな。

ともあれ、「ふたりの個人」である場合と「ひとくみのペア」である場合は、外側からするアプローチに(とくに「遊び」系のオッファーに)わずかにデリケートな違いが生じるのである。

ワルモノ先生に対する極楽系教員の「粘り目」は、そのあたりの機微を伝えていたように私には思われた。

ただ「孤独死」については誤解があるといけないので、ここで説明を少し付け加えさせて頂くく。

「孤独死」というのは、けっして「ひっそりとした閉じられた死」を意味するのではない。むしろ、「万人に解放されている」ような種類の死である、と私は考えている。

「孤独死」の逆のものをお考えいただきたい。

「情死」がそうだね。

「情死」というのは、その死の意味は当事者二人以外に「ぜったいわかんないかんね」的に閉ざされている。それに閉ざしたままにしてあげるのが礼儀正しい死者へのかかわりであるような「閉じられた死」である。

あとは、病院で死のうと、畳の上で往生しようと、アナコンダに呑み込まれようと、それらの死は程度の差はあれ他者による解釈に「開放された死」である。(「なんで、タナカはアナコンダの檻になんかパンツ一丁で飛び込んだんだろね?」「幼児退行願望じゃねーの」)

その「開放された死」のなかで、もっとも開放度の高いものを私は「孤独死」と名付けようと思うのである。

どうして、一人で死ぬのが開放的だか分からない?

ではご説明しよう。

「家族の中で死ぬ」というのは、いまの社会では、その死を引き受ける「喪の作業」の主体が家族に限定されているということを意味している。

とりあえず、家族以外の人間は、その死の意味について、個人的な「意味づけ」をする義務からは解放されている。解放されているとも言えるし、そこから排除されているとも言える。

私は「喪の作業」を家族の数名とか、親しい友人とかに限定することをあまりよいことだと思っていない。

田口ランディの『アンテナ』と『コンセント』を読むと、知的、情緒的リソースが限られた人間たちにとって、親しいものの死の「喪の作業」がどれほどきつい心理的負担になるか、よく分かる。

他者の死の「引き受け」という作業は、できれば、なるべく多くの人間で「分担する」方がよいのではないか、というのが私が田口ランディを読んで得た結論である。

私はできれば

「ウチダも死んだね」

「まったく最後まで、はた迷惑な野郎だったな」

「ま、死んだから遠慮なく言わせてもらうけどさ」

というような会話を死んだあとにできるだけたくさんの人にしてもらいたい。

だから「孤独死友の会」という表現は背理的なものではないのである。

「なんで、孤独に死ぬ人間にうじゃうじゃ友だちが要るんだよ」

とお怒りになる方もあるやもしれぬ。

それはいささか短見といわねばならぬ。

「孤独死」こそは「開かれた死」なのである。

なにしろ、友の会の諸君(私が死ぬ頃には数百名には達していると予測されるが)は、その全員が一人一人、「喪主」の気分で仲間の一人の死を全身で引き受けるのである。

会員は、死んだ会員の一人一人について「喪の作業」を引き受ける。その代償として、その孤独な生と死の意味は、当人以外の全会員によって「語り継がれる」のである。

それが孤独に死ぬことの唯一の代償である。

ワルモノ先生がおそらく誤解されているのは、孤独死が「ひっそりとした死」だと思われている点である。

それは違う。

孤独死は喪主がぞろぞろいる「にぎやかな死」なのである。

ウチダのような宴会好きが「ひっそりとした死」を準備するために会なんか作るわけないではありませんか。


3月9日

福岡地検の次席検事が福岡高裁の判事に捜査情報を漏洩した件で守秘義務違反容疑で告発された事件は、嫌疑不十分で不起訴となった。

法務省はこの行為が「検察と裁判所の癒着」についての疑惑や不安をかきたてた点を重く見て、次席検事を停職六ヶ月の懲戒処分とした。検事は退職する予定である。(退職金は七割だけもらって、三割は返すそうである。この数字の算出根拠は何だろう?「泥棒にも三分の理」かな?)

まったく訳の分からない事件である。

いちばん分からないのは次席検事が情報を漏洩した「動機」である。

これについて最高検は

(1) 公になれば、センセーショナルに報道され、裁判所や司法界全体のスキャンダルになる

(2) 被害の拡大を防止するために、専門家である判事の協力が得られるはずと次席検事が「考えていた」と「認定」した。

本当だとしても、不思議な動機である。

だって、その動機に基づいて捜査情報を漏洩した結果

(1) 事件はいやがうえにも公になり、センセーショナルに報道され、裁判所や司法界全体のスキャンダルになり

かててくわえて

(2) 専門家である判事は捜査妨害をした

のであるから。

おそらく彼の推論は次のようなプロセスですすんだものと考えられる。

彼はちょうどたき火が家に燃え移りはじめた現場に通りかかった人のようなものである。

彼はこう考えた。

「わ、なんだか火事になりそうだな。どうしよう・・・燃焼の三要素って何だっけ。えーと、酸素と熱と燃えるものだ。じゃ、『燃えるもの』をなくしてしまえば、火事にはならないんだ。えーと、『燃えるもの』を手早くなくすいちばん簡単な方法って何だろう・・・あ、燃やしちゃえばいいんだ。おれってかしこいな。ぼわっと。ひえー。火事だあ」

この次席検事はいったいどうしてこんなにバカなのであろう。

しかし、これは現代日本の「エリート」たちの知性のレヴェルを測る上で興味深い実例であるように思われる。この機会に彼の思考のあとを順にたどってみよう。

彼は、司法官が犯罪にかかわっているということが明るみに出ると、業界全体の威信と信頼が低下する、と考えた。

この考え方は間違っていない。

たしかに、ある人が犯罪に加担したことがばれると、その人の属している業界全体の信用が低下し、ひいては社会全体に悪影響が及ぶのは事実である。

税務署員が脱税していては、国民の納税意欲が低下する。

政治家が収賄をしていては、政治不信に歯止めがきかない。

母親が子どもを虐待すれば、「母親」に対する信頼が崩れる。

肉まん屋が、夜な夜な人を殺して「人肉饅頭」を売っていたと知れたら、肉まん業界は大きな打撃を蒙るであろう。

あらゆる犯罪者は、その人が属している業界全体の威信を低下させ、ひいては社会全体に不安と不信を蔓延させる。

これは揺るぎなき真理である。

では、この次席検事の考えたとおり、社会的な悪影響が心配だから、あらゆる犯罪は隠蔽した方がよいのであろうか。

たしかにそう言われれば、そうかもしれない。

どのようなものであれ、犯罪の事実が公になったおかげで「社会的によい影響」がある、ということは考えられない。

現に、あらゆる凶悪犯罪は「模倣犯」というものをぞろぞろ生み出す。

アメリカでの「高校での銃乱射事件」とか「シリアル・キラー」とかは、もうほとんど「いかに、みごとに『本歌取り』するか」というあたりにまで関心がシフトしている。

うちの社会には犯罪なんかない、と全国民が信じてくれる、ということは体制の安定にとってはたいへんに好ましいことであろう。(だからたぶん北朝鮮の新聞には犯罪記事というのは非常に少ないのではないだろうか。読んだことないから知らないけど)

司法官たちは体制の安定、良風美俗の維持こそを天職としているわけであるから、「日本には犯罪がない」と国民みんなが思ってくれると、たいへんにありがたい。

朝、新聞をひらいたら、犯罪の記事がひとつもなかった、というのが司法官たちの夢であろう。

おそらくかの次席検事はそのような社会の実現にいささか性急だったのであろう。

気持は分かるけどね。

しかし、それが無理だということは彼にだって分かる。

司法試験に受かるくらいだから、そこまでバカではない。

彼にも分かるのは、「犯罪なき社会」では検事は飯の食い上げだということである。

だって、犯罪のない社会に、司法官はまったく不要のものだからだ。

新聞に犯罪記事がまったく載らなくなったら、一年もしないうちに納税者たちは「だったら、警察も検察も裁判所も、リストラしましょ。あってもムダだし」ということになるだろう。

病気のない世界に医者が要らないように。

これは困った。

しかたがないので、検事はさらに考えた。

そうだ、「犯罪があってはならない業界」と「犯罪があってもいい業界」に社会を二分しておくというのはどうだろう。

つねに適量の犯罪の供給があって、司法官の仕事には事欠かないし、ある程度体制の安定、良風美俗の護持もかなうのではないか

悪魔のごとき狡知である。

というわけでかの次席検事は社会二分法を採用することにしたのである。

そして、彼は「その威信が低下すると社会的に悪影響がもっとも多い業界」、つまり「犯罪があってはならないので、ないことにする集団」として何が適当であるか熟慮したのである。

そしてその結果、彼が選んだのは「自分の業界」だったのである。

素晴らしい推論である。

ここまでの彼の判断には少しの曇りもない。

たしかに道徳的にはいささか問題であるが、論理的には間違っていない。

しかし、彼はあることを勘定に入れ忘れた。

それはほかのすべてのことはたくみに隠蔽したにもかかわらず、彼の判断を動機づけたのが彼の利己的な欲望であり、その欲望だけは彼以外の全員に「まる見え」だ、ということである。

私がラカンから学んだことの一つは、ひとがものを隠すときに絶対隠せないものが一つだけある、それは「隠したい」という欲望である、ということである。

次席検事は実にたくみに推論した。

にもかかわらず彼が失敗したのは、彼のたくみな推論の全体が「他人の犠牲の上に、自分たちだけが不当な利益を得る」という素朴な欲望の上に構築されていることを、彼自身が「見落として」いたからである。

ひとはあらゆるものを勘定に入れる。「勘定している自分の欲望」以外は。

私はこの次席検事が犯罪的な人間だとは思わない。

でも頭が悪い人間だとは思う。

ほとんど「犯罪的に」。


3月8日

年年歳歳花相ひ似たり、歳歳年年人同じからず。

春ですなあ。

何をひとりで興じているかというと、私の知人たちの「劫を経たおじさん」の一人が結婚しちゃったからなのである。

そう、あのI先生である。

ご自分のホームページで公開しているから、別に秘密ではないのであるが、「これから、ずっとひとりでやっていこうねって、みんなで約束した」「極楽スキーの会」バツイチ連合としては、「独居老人孤独死」仲間が一人減るのはいささか悲しいものがある。

しかし、I先生が暖かいご家庭をお持ちになることは素直にお祝いしたい。

ご多幸を祈る。

と同時に、近日中に「孤独死」仲間の補充がありそうだ、という朗報も同時にもたらされている。

ともに喜ばしいことである。

会員の入れ替わりがあったことを機会に、このたび「極楽スキーの会バツイチ連合」を発展的に解消して、正式に「独居老人孤独死友の会」を発足させることにした。略称はVSMSである。La vieillesse solitaire a mourir seuls(「ひとり死ぬことを宿命づけられた孤独な老人たち」)

人は誰しも一人死ぬのである。この存在論的宿命をみすえ、おのれの存在しうることの本来性を大悟徹底するというハイデガー的課題に果然と立ち向かいつつ、「もうすぐ死ぬんだから好きなことやらせてよ」という反論不能のエクスキューズを以て傍若無人不惜身命に現世の快楽を味わい尽くそうではないか、というのがVSMSの趣旨である。

多くの同志の参加を望む。

参加条件は「30歳以上、バツイチ以上」。

 

ゼミ生諸君からはまだとどいていないが、友人のクスミさんからレポートが届いた。

あまりに面白かったので、転載。

内田ゼミ 春休みの宿題レポート「これで日本は大丈夫?」

 

私は今とても心配なことがあります。こんなことで本当に日本は大丈夫かって、真剣に悩んでいます。でも、こんなことを考えている人って、まずいないと思います。

私って変なのかもしれません。

それは、私たちの父の年代の人たちが、近い将来集団自殺するのではないかと考え

ているのです。

ふざけて言っているのではなくって、真剣にそう思っているのです。

父はいわゆる団塊の世代ですが、いつも「俺たちゃひどい時に生れた。戦後のどさくさで、貧乏人同士することないものだから適当にくっついて、計画性もまるでないまま粗製濫造されて世の中に放り出されて、食い物と言えば、脱脂粉乳、鯨の大和煮、ボーリングのピンみたいに固いパンの給食がご馳走で、おやつと言えば、大腸菌がいっぱいの真っ赤っかのサッカリン付きアイスキャンデーとか、新聞紙のインクのしみたやきそばとか、変なものばかり食わされてきた。今みたいな食品の有害物質がどうのこうの言われていない時代だったから、きっと今の数千倍の無茶苦茶な毒を食べていたに違いない。最近やたらからだが変なのはそのせいだと思う。学校へ行ってみれば、同世代がうじゃうじゃいて気持ち悪くなるし、先生は乱暴ですぐ殴るし、校舎は兵舎を改造したような薄暗くて汚いところで近視になる奴続出だったし、何より、やたら競争させられて、進学するには今とは比べものにならないくらいの狭き門だった。やっと大学に入ったら、ゲバ棒を持たされたり逮捕されたりするし、やっとの思いで卒業したけど、就職も狭き門で、それでも高度成長の末期だったから何とか入れたと思ったら、すぐオイルショック、それでも頑張ってやっとお前たちが大きくなってひと安心と思ったら、バブル崩壊で日本経済はガタガタ、すると日本経済の構造が駄目で特に駄目なのは団塊の世代だと言われて、おとーさんたちは真っ先にリストラの対象だって。年金もまともに貰えないんだってさ。おとーさんの上の世代の人たちはばっちり貰っているのに、こんな不公平があるもんか。おれたちの世代が何か悪いことしたか、戦争で人を殺したか、何か贅沢したか、えっ、言ってみろ。おとーさん、何か悪いことしたか、ふざけるんじゃねー」などと、毎日酒を飲みながら、クダを巻いて暴れてばかりいるのです。

私は、これ以上父の年代の人たちを社会がスポイルすると、切れてしまうと思います。切れてどうするかと言うと、今の私たちの世代のように、周りの人を殺すほどの勇気もない、臆病で、小心で、いじけた年代の人たちなので、きっと開き直って「養老院も特別擁護老人ホームもいっぱいじゃねーか、どこまで馬鹿にするんだ、ぐれてやる、不良になってやる、死んでやる」なんて叫びながら、次々に首をつったりして自殺するのではないかと思うのです。

そうなったら、日本は、団塊の世代がいなくなって、いびつな人口ピラミッドになります。自殺でも、生命保険は一年以上かけていれば出ますので、生命保険会社は軒並み倒産します。そうでなくても日本の金融界は危機的ですから、生命保険会社壊滅となれば、日本はクラッシュします。「これで日本は大丈夫?」どころの話ではありません。

内田先生は、こういう事態が発生した歴史的、構造的な要因をほりさげ、かなうことなら、それに対する適切な対応策についてまで言及するようにとのことですが、歴史的、構造的な要因は酔っ払いの父の言う通りだと思いますし、私は、戦争のすぐあとの世代が日本においてどんなに不幸だったかということを、酔っ払いの父の味方をするわけではありませんが、もっと日本人は知るべきであると思います。あまりに父が可愛そうです。母には粗大ゴミのように扱われてばかりですし。

適切な対応策について言及します。団塊の世代の男(男だけで女はいいです)のリストラは、法令を以って禁止すること、年金は前払いで、割り増しで支払うこと、養老院は豪華な施設を造ってあげること、などを、緊急に国会で決議し、関係法令の整備を急ぐべきだと思います。そうすることで、団塊の世代の人たちの集団自殺を食い止め、日本の崩壊を未然に防ぐことができます。これこそ、もうすぐ首になる森総理大臣が念仏のように唱えているIT革命とやらより、もっともっと重要かつ緊急に為されるべき政治課題であることを確信します。

それにしても、毎日毎日酔っ払いの父の愚痴を聞いていると、涙が出てきます。内田先生も父と同じ世代だと思いますが、うちの父と同じようなお気持ちなのでしょうか。

くれぐれも先生におかれましては、団塊の世代の集団自殺の仲間入りをなさいませんように、少なくても私が先生のゼミを終えるまでは、早まったことをなさいませんように、このこと、伏してお願い申し上げる次第です。

まこと精神異常のようなことを書き連ねて失礼いたしました。お気分を害されませんように。ご本買いますから、及第点下さいね。(文字数2021)

                                   かしこ

 

レポートありがとうございました。

でも、ウチダはあなたとはちょっと意見が違います。

人口ピラミッドが多少いびつでもべつに誰も困りませんし、日本の生保業界は鬼のようなところですから「団塊世代集団自殺」は阪神大震災と同じように「内乱・革命・天災」に準じる事案として処理して、保険料不払いにすることは確実ですから、金融の混乱の心配もありません。

それに、自殺するよりさきに、団塊世代は幼児期からためこんだ発ガン性物質のせいで、50歳をすぎたあたりからばたばたと死んで行くはずです。

いずれ私たちの世代が存在したことそのものが歴史的な「ボタンのかけちがい」のようなものとして忘れ去られてゆくでしょうから、団塊の世代が集団的に消滅しても「まるで日本は大丈夫」ですから、どうぞ、ご安心下さい。

お父さんにはたっぷり生命保険をかけて、毎日お酒やあぶらっこいものを食べさせてあげてください。きっと「なんてかわいい娘なんだ」と泣いて、お母さんではなくて、あなたを保険の受け取り人にしてくれると思います。

がんばって、いいこぶってください。


3月6日

後期入試が終わった。

うちの学科の後期入試定員20名のところに160名の志願者というのは、現在の私学女子大の水準から言うと、涙が出るほどありがたい数である。

近隣の女子大はつぎつぎと壊滅状態になっている。

すでに今年の入試においては近隣のK大学のある学科で、一般入試の志願者が2名(判定教授会では「やけくそで」そのうちの1人を落としたそうである。)S大学のある学部では定員80名のところに志願者16名といった、ほとんどSF的な事態が出来している。

こういう大学は、これからさき、いったいどうするのであろう。

ハヤナギ先生によると、富山にあるS学園大学短大は、廃校になり、ドイツ語の専任教員は系列大学の「事務員兼英語講師」になられるそうである。

大学教員たちが大挙して路頭にまよう時代がもう指呼の間に迫っている。

かつては高学歴失職者たちの受け皿であった予備校は大学より先にいちはやく壊滅状態にあり、翻訳の仕事も、出版界自体が壊滅的状態であるので、生活を支えるには遠く及ばない。

いったい、高学歴失職者たちのこれから先はどうなるのであろう。

「国に帰って家業を継げる」ひとはまだラッキーで、国がないひとはどうすればいいのだろう。

大学をやめた大学教師というのは、ほんとうに「つぶしがきかない」。

「先生、先生」と20代から呼ばれつけてきているので、ひとに頭を下げることができない。勤務考課というものをされた経験がないので、自分がいまどういう仕事をしていて、それが何の役に立つのかを適切な言葉で伝えることができない。何年間も一本の論文も書かなくてもどんどん給料が上がってくるので、「マーケット」や「自己責任」という概念が辞書にない。

長年かけてしっかりとみずからを「つかいものにならない」人間へと造形してきたわけであるから、いまさらどうしようもない。

もちろん、いまとりあえず経営は安泰、という大学に奉職している教員たちだって、別に、路頭にまよう教師たちより研究者教育者として優秀だというわけではない。単に、「たまたま」経営基盤のしっかりした大学からお呼びがかかった、というだけの「時の運」があったにすぎない。

それが、大学冬の時代に遭遇するや、一方は路頭に迷い、一方は「三日やったらやめられない」教師商売をのんきに続けている。

クレヴァーな大学経営者に恵まれたか恵まれなかったかが運の分かれ目だが、仕事を探しているときには「これからつとめる大学は理事会に経営マインドのしっかりした人がいるだろうか」なんてことは誰も考えない。

不条理である。

ひどい話だが、世の中はそういうものである。

本学はかろうじて「勝ち組」に「指一本」かかっている、と以前書いたけれど、ポジティヴ・フィードバックの恐ろしさ、わずか1ヶ月で「腕一本」まで事態は進行した。このまま大学改革とパブリシティ活動と学生サービスの充実のための集中的な努力を怠らなければ、来年は「上半身」くらいが「勝ち組」ボートに乗り込めるかもしれない。

いまが正念場である。

ここで、「わはは、勝った勝った。もう安心して手抜きでいこう」というようなだらけた対応をした日には、淘汰の「第二の波」がきたときにはひとたまりもないであろう。

大学が生き残るか沈むかはただちに私たちの明日の「ごはん」の問題に直結する。

私は美味しいごはんを明日もたべたい。

来年も再来年も「ほそかわ」で「ふぐ」を食べたい。

そのためにはとにかく「仕事」をしなければ。

それは大学の教師にとってはとても単純な話だ。

「お金を払ってでも聴きたい講義」をすると言うことに尽きる。

その査定は自分自身でできる。

「私が学生だったとして、私のいましている講義に金が払えるか?」

そう、自問し続けるのである。

えー。ずいぶん厳しい自問ですね、ははは、などと笑ってもらっては困る。

そのような問いかけは「ふつうの商売」をしているひとにとっては、「あったりまえ」の問いである。

「自分が消費者だったとして、この商品を買うだろうか?」

ふつうの商売人はみんなそう考えて、商品の質を吟味している。

自分が買いたくないものを誰が買うだろうか。

自分が愛情を持っていないものに誰が愛情を持つだろう。

自分が誇れないものを誰が誇るだろう。

大学教育だっておんなじである。

私がいま学生だったとして、私のやっているこの講義には、何をおいても駆けつけます、と断言できる教師がうちの大学に何人いるだろうか。

うー。私もそう自問すると、胸がきりきり痛む。

きりきり。いててて。


3月4日

お雛祭りなので、「るんの卒業祝い」と『ためらいの倫理学』の出版記念内祝いをかねて並木屋にお寿司を食べに行く。

西北の並木屋はグルメの山本画伯ご推奨のお寿司やさんであるので、たいへんに美味しく、かつお値段もリーズナブル、お寿司を握るおじさんたちもフレンドリーで、よいお店である。

私はほとんど外食をしない。自分で作るご飯をぱくぱく食べているといちばん幸せ、という安上がりな男である。(昨日は「マーボー麺」、今日は「シーフードカレー」。どちらも美味しかった。)

そのわりにはこのところ美食が続く。

先週は三宮の鴻華園でベトナム料理を飽食。明日は「ほそかわ」で「ふぐ」である。

(そういえば、すべて山本画伯のご紹介のお店だ。)

なんで、そんなにいきなり外食が続くかというと、るんちゃんがもうすぐいなくなるので、最後くらい美味しいものをたくさん食べさせてあげようという親心なのである。

そのあとも今週末は大学の集まりでポートピアホテルでご会食だし、そのあとは野沢温泉で山海の珍味、謝恩会は帝国ホテルでご会食、月末は出版記念パーティの本番である。なんだか一年分の外食機会がこの三月に集中しちゃったみたいである。

まあ、いいでしょう。

論文を毎日書いているせいで、どんどん痩せてきているから、ぱくぱく食べても大丈夫である。

今日も一日レヴィナス論を書いていた。

この3週間ほど「レヴィナスとフッサール」という章を書いている。

レヴィナスはフッサールのどこに惚れ込んで、どこが嫌いになったか、という話である。

男女の出会いと別れと同じで、「要するに、別れちゃったわけでしょ」みたいな括り方をしたのではあんまり面白くない。

すごくいいところまでいったんだけど、「ちょっとここが、ね」という微妙な消息をなんとか自分の言葉で書きたい。

でもそうすると、どうしても「現象学とはどういう学知か」ということをはじめから書かないといけない。

「現象学とはどういう学知か」ということを、誰にでも分かるように書く、ということになると、これは一仕事である。

なにしろ、私自身が現象学のことをよく知らないんだから。

というわけで、『イデーン』と『厳密な学としての哲学』と『デカルト的省察』と『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』をもう一度はじめから読み直して、それを自分の言葉に書き換えるということを朝から晩までやっている。

それで少なくともひとつだけ分かったことがある。

それは、偉大な哲学者は「話がくどい」ということである。

たぶん、それは「お願いだから、分かって」という切なる願いのせいで、繰り返しが多くなってしまうからだろうと思う。

偉大な哲学者は「大事なことは一回しか言わないぜ」というような底意地の悪いことは絶対にしない。

ほんとうに伝えたいことは手を変え品を変え何度も何度も書くので、どうしても心配性のお父さんのように「話がくどく」なってしまうのである。

伝えたいことはたいていオリジナルなことであるので、出来合いの言葉ではうまく伝えられない。だから、特殊な術語を発明して、それを読者の「私家版語彙」に登録してもらわないといけない。特殊な術語は「他の言い方では言えないこと」を言うためにあるので、その含意が読者の身体になじむまで、結局は時間をかけてしつこくしつこく書くしかないのだ。

というわけで、私はすっかりフッサール好きになってしまった。

話はくどいが、よい人である。

でもレヴィナス老師はフッサールにはちょっとご不満だったのである。

むずかしいものである。

フッサールが終わったら、次はハイデガーである。

この人も「くどさ」に関しては人後に落ちない。

来週からは『存在と時間』を私の言葉に言い換えるというお仕事である。

おそらく、一月くらいあとには、「ハイデガーも話はくどいがよい人である」というようなことを書いているのであろう。

私は誰であれ、自分の言いたいことを伝えるために、自分の言語の限界を試みる知性には深い敬意を抱くのである。

こんどの原稿のおかげで、フッサール現象学とハイデガー存在論を「ウチダ語訳」にするという課題を経験できたのは喜ばしいことである。

おそらく本になるときは、いまの原稿の三分の二(「サルにも分かる現象学」「寝ながら学べる存在論」)は棄てることになるだろうけれど、それはそれでいいのである。

おかげで、これからは、「ねえ、間接的現前と根源的現前って、どうちがうんですか?」とか「ノエマとノエシスって、対象と意識のことですよね?」とかいうことを学生さんにいきなり訊かれても、「よくぞ訊いてくれました。あのね、ここに『マクドナルドのてりやきバーガー』があるとするでしょ」というふうにご説明できる。

 

鈴木晶先生のホームページがリニューアルされた。

さっそく毎日おじゃましているが、今日は映画の話が書いてあった。

面白かったのでちょっと再録しますね。

「テレビで『フィフス・エレメント』を見始めたが、最初の10分間でいやな予感がしてきたので(衣裳ジャン・ポール・ゴルチエというタイトルバックをみたとき、すでに悪い予感がした)、時間の無駄になるに違いないと思って、切ってしまった。きっとつまらない映画だろう。『ほとんど見ていないんだから、おまえに判定する権利はない』といわれれば、その通りだが、そんなことを言い出したら、何から何まで観なくてはならない。『すべてを観なければ、語ってはいけない』ということになってしまう。でも、人生は短いのだ。

といいつつ、先日、深夜にやっていた『素顔のままで』(なんという邦題。原題は『ストリッパー』だ)をタイマー録画して、見始めたら、最初の5分間で、どうしようもない映画だということはわかったのだが、デミ・ムーアの踊りがセクシーだし、グラマーが次々に出てきて半裸で踊るもんだから(ただそれだけの映画なのだ)、ついつい最後近くまで観てしまった。「近く」というのは、タイマーの関係で、なんと最後の10分間がとれていなかったのである。だから結末はわからないが、わからなくてもいい映画だった。」

鈴木先生ご賢察のとおり、『フィフスエレメント』は見るだけ時間の無駄である。

(私のように「リュック・ベッソンは幼児退行するであろう」という予言を『レオン』の批評でしちゃった人間見ないわけにはいかないけれど。)

『素顔のままで』(って、ビリー・ジョエルの歌の題?)というのも、ひどい映画だった。

結末が分からなくてもよい映画である。(私も覚えていない。)

同時期に『ショーガール』というこれまたひどい映画があったので、印象が混乱しているけれど、たしかデミ・ムーアは元FBI職員で、離婚の慰謝料が届かないので、生活に困ってストリッパーをしている、というような設定ではなかっただろうか。

その少し前の『ハーフムーンストリート』(題名がちがうかもしれない)はシガニー・ウィーヴァーが元外務省の官僚で、離婚の慰謝料が届かないので、売春婦をしている話だった。

そういうものなのなのだろうか。

FBIとか外務省とかの女性キャリアって、離婚すると、とりあえずストリッパーとかプロスティチュートで糊口をしのぐくらい「まるで平気よ」というくらいに「性意識が解放されているのよ。ふふふ」ということなのであろうか。

それとも、「いいから、早く慰謝料払え。さもないとエックスワイフが殺人事件に巻き込まれたりして、めんどうなことになるぞ」という恫喝なのだろうか。

それとも、「別れた妻に慰謝料を届けないと、いろいろ面白いことがあるみたいだから、滞納してみたら?」という隠されたメッセージをアメリカの離婚夫たちに送っているのだろうか。

なんとなく、最後の可能性がいちばん高いような気がする。


3月3日

 

松下正己くんから先日の「バカ映画批評」についての書き込みがあった。

「うーむ。

バカ映画批評に関してのお言葉拝見しました。

思い起こせば自分の文章で

『周知のように』(『周知のごとく』ですが)を多用しているのは、私です。」

そういわれて見れば、松下くんの文章には「周知」の語が散見されるようである。

だが、松下くんに反省を促すのはもとより拙論の趣旨ではない。

たしかに、松下くんが「周知のごとく」と書くあとには、「松下くん以外たぶん誰も知らない映画史的情報」が続くのは事実である。

だが、これは「テクストの宛先を『選ばれた一部の読者』に限定する」ための言葉ではない。

むしろ、「テクストの宛先なんか、ないぞ」という松下くんの決然とした社会的態度(と言うより「反社会的態度」だな)を表現している言葉である、と私は思う。

ということは、松下くんはいわば「読者全員にあてて」喧嘩を売っているのである。

松下くんの一見「孤独」と見える知的営為の根源的な「開放性」をこれほど鮮明に語る言葉はないであろう。

私も読者限定的な修辞は極力避けるようにしている。

ジョン・ウォーターズ先生に倣って、私は「万国のボンクラ諸君」を読者に想定して書いている。

だが、不幸なことに、「私はボンクラだ」と思っている読者はあまりいない。(「ボンクラ」たちは、自分が「ボンクラ」であるという正確な自己認識を獲得することがなかなかできない。だからこそ「ボンクラ」なのであるが。)

それゆえ、一見「他者指向的」と見える私のテクストは、実は絶望的な自閉を宿命づけられているのである。

しかし、ご心配には及ばない。

なぜなら、「私は万国のボンクラ諸君宛てに書いている」という命題は、それ自体が「テクストの読解の仕方」についてのメッセージ、つまり、情報理論で言うところの「メタ・メッセージ」だからである。

「メタ・メッセージ」である以上、それは(ボンクラ、非ボンクラを含む)読み手全員に読解可能なものとして開かれている。

ややこしいことを書いてすまない。

ちょっと説明するね。

「クレタ島人は嘘つきだ」というクレタ島人の話をご存じだろうか。

「クレタ島人のパラドクス」と呼ばれるものである。

「クレタ島人は嘘つきだ」のが本当だとすれば、そう言っている当のクレタ島人も嘘をついていることになるから、「クレタ島人は嘘つかない」ことになる。

しかるに、このクレタ島人が嘘をついていないということになると、「クレタ島人は嘘つき」だということになる。

ああ、ややこしい。

しかし、バートランド・ラッセルというひとが「階型理論」というものを持ち出してきて、この歴史的パラドクスを解決してくれた。

それは、「メッセージの読み方」についてのメッセージは「メタ・メッセージ」であり、水準が違うので、「メッセージ」の内容に拘束されない、というものである。

「クレタ島人は嘘つき」というのは「クレタ島人が口にする言葉の解釈にかかわる規則」であるから、「メタ・メッセージ」に分類される、それは「クレタ島人が口にする言葉」の内容に拘束されない。

つまり、「クレタ島人が嘘つき」だというのは(クレタ島人が口にした場合でさえ)「ほんとうのこと」なのである。

だから、誰かが「私の言葉を信じるな」と言ったときには、「その言葉」だけは信じてもよいのである。

「私がいま語りつつあること」の「読み方」を読者に対して指定するメッセージは「メタ・メッセージ」であるので、経験的には、それは素直に信じてよいのである。

つまり、端から端まですべて「真実」であるようなテクストがあるとすれば、それは「書かれつつある当のそのテクストの読み方を指定するようなテクスト」である。

なぜ私がかくも執拗に私の書くテクストの「読み方」について(その語法について、その宛先について、それが含む「真実含有量」について)書くのか、その理由がこれでお分かり頂けたであろう。

それは私が「根が正直者」だからなのである。

そして、松下くんが「自己言及の装置」としての映画にこだわるのも、私とまったく同じ理由によるのである。

意外なことだが、松下くんと私は、「根っからの正直もの」なのである。

実に意外である。

 

というところまで書いたら『ためらいの倫理学』が届いた。

おお、なんと美しい本なのであろう。

ぱらぱらとめくっているうちに、すっかり読みふけってしまった。

まるで『ヘルプ』におけるジョン・レノンのようである。(え、このギャグ知らない?うーむ。こまったね。)

ところがびっくり、この本にはそこらじゅうに「周知のように」が出てくるのである。

まったく人のことは言えない。

最後の「ためらいの倫理学」というタイトルロール論文などいきなり「周知」から始まるのである。

「周知のことであるために、誰も問題にしないことがある。例えば、『異邦人』の刊行とカミュのレジスタンス参加がほぼ同時期だとういことのその一つである。」

これはいかん。

『異邦人』の刊行とカミュのレジスタンス参加がほぼ同時期であることを熟知している日本人読者がいったい何人いるのであろう。(これは「カミュ研究会」というところで口頭発表した原稿から起こした論文だから、その場では「周知」だったんですけどね)

これでは、このままゴミ箱に投げ捨てられても文句は言えない。さいわい、この論文はいちばん最後なので、読み出していきなり投げ捨てられるリスクは回避できたわけである。

ほっ。


3月2日

そうこうしているうちに、いよいよ『ためらいの倫理学』が上梓されることとあいなった。

じつに喜ばしいことである。

これは私が個人名で出版する最初の本である。(共著はいくつかあるけど)

これまでの松下、難波江両氏との共著本が「夫婦のあいだに子どもが出来た」というような感じのものであるとすれば、これは「単性生殖で子どもが出来た」というような感じのものである。

プラナリアとかが「ぶちっ」と細胞分裂して増殖してゆくというのは、あるいは壮絶な快感を伴うものではないか、と誰かが書いていたが、たしかにそれはそれで、なかなかよろしいものである。

単性生殖とはいえ、もちろんプラナリアを肥らせたり、しっぽをちぎったりする他者はそれなりに介在するわけで、そのおひとりであるところの「鳴門のロック少年」増田聡先生がすばらしい宣伝コピーをご自身のホームページで展開してくださった。

あまりに感動的なコピーなので、そのままご紹介させて頂く。

「マスダ敬愛する所の内田樹氏の新著『ためらいの倫理学』(冬弓舎)3月10日発売!

冬弓舎のサイトで絶賛予約受付中! 

なんでもええから騙されたと思って買え!オラァ買わんかい!」

「なんでもええから騙されたと思って・・・」というのは、人を騙すときの常套句であるから、騙されて買ったみなさんが「あ!騙された」と思うことは火を見るより明らかであるが、なにしろ、あらかじめ「騙されたと思って」いるわけだから、「やっぱな。こんなことだとおもっとったわ」と千円札二枚ほどの散財をもって「騙されることを予期して騙された」おのれの洞見を確認してニッコリという「おとなの」態度で臨んで頂けるものとウチダは信じて疑わない。

しかし、あまり卑屈になるのも宣伝上よろしくないので、少し強気の発言も試みたい。

私がこれまで著者の口車に乗せられた買った本の代表というと、小田嶋隆の『笑っておぼえるコンピュータ事典』(Justsystem, 1992)であるが、この序言は「本の宣伝」としては古典的名文であるので、ここに再録したい。

「はじめに

元来、事典は読むためのものではない。

どちらかといえば『引く』ためのものである。

事実、世に流布している凡百のパソコン用語事典は、もっぱら引くことを主眼として作られている。

だから、とても読めるような代物ではない。

内容空疎、構成散漫、記述平板、解説生硬。しかも噛んで含めるような難解さを備えていたりする。

こんなものは、読めない。

しかし、本書は読める。

読み出したら止まらないことと言っても少ししか過言ではない。

しかも、もちろん引くことだってちゃあんとできる。

世に流布している凡百の用語事典は、読者に異常なまでの循環参照を強要し、読者が引くというよりも、むしろ事典の方が読者を引きずり回している場合が多い。

ところが、この事典はどちらかといえば押しまくる態度で書かれている。

『読者が引くのなら、こっちは押そうじゃないか』

簡明な態度である。

原則として一項目一解説で完結し、読者に他の項目の参照を求めない。

立派な姿勢である。

さらに、本書は、笑える。

場合によっては、笑いころげ回ることも可能だ。

もちろん、スベった笑いも散見はしているが、そういう場合、著者は、あやまっている。

謙虚な生き方である。」

実に簡明にして謙虚な態度である。本の「まえがき」はかくありたいものである。

『ためらいの倫理学』もまた、「読者が引くなら、こっちは押そうじゃないの」という態度で一貫している。

原則として、エッセイ一本一話完結で、読者に他の項目はおろか他の書物への参照さえ求めていない。(とくに書評の場合などは、原著を参照されると不都合な箇所も散見される。)

しかし、残念ながら、本書にはあまり「笑える」箇所はなく、それゆえ「笑いころげ回る」というような身体的爽快感は期待できない。申し訳ない。

「スベった」批判もまた随所に見られるが、そういう場合、著者は、読者が気がつくより先に謝っている。

謝るくらいなら、書き直したらどうか、という条理の通ったご意見もあろうかと思うが、それは「ビールを呑むごとにおしっこに行くくらいなら、はじめからアサガオにビールを注いだらどうか」という『ショージ君』的短絡的発想であって、にわかには肯んじがたいのである。そもそも、「口が滑って」とんでもないことを書いてしまい、そのあと、あわてて謝るという「前言撤回」そのものを私はテクスト・パフォーマンスとして展開しており、書き直すと書くことがなんにもなくなってしまうので、この点はご海容願わなくてはならない。

ともあれ、『ためらいの倫理学』はなかなかよい本である。

私自身が著者であるために、客観的な批評が出来ないのが残念である。

私がもしウチダと無関係な一読者であれば、「おお、なんと、私が言いたいことが、一言一句たがわずに、私の生理にぴったりの文体で書かれているではないか」と驚愕するに違いない。


3月1日

小林先生の「超多忙研究日記」(って私が勝手に命名しているので、ご本人にとってはこれは「ふつうの忙しさ」なんでしょうけど)を読んでいたら、面白いことが書いてあったので、転載させて頂きます。

「ウチの大学に限らないことであるし、何も若い世代だけではないだろうが、漢字の読み書きができない。

ひどいもんだ。

で、参考のために「高校入試」に頻出する漢字の問題集というのを見てみた。

難易度よりもビックリしたことがある。

例文の「質」である。

いくつか挙げてみる。

結婚のジョウケンは優しくてお金持ちであればいいわ。

失恋したらジョウチョが不安定になった。

身勝手なことをしているとクラスのなかでコリツするよ。

彼女が僕にビショウした。

二人はついに恋人センゲンをした。

右手に残る彼の手のカンショクは忘れないわ。

彼女のヨウシならモデルにもなれる。

などなど。

ぼくは別に好んで「高校入試色道篇」を選んでいるのではない。

見開きの頁をランダムに開ければ必ずこうした例文が出ているのだ。

それでいて、「昔の教師はイゲンがあった」とか「あそこの炭坑はもうヘイサされた」とか「親は教育を受けさせるギムがある」といったアナクロが例文も混ざっている。

漢字の問題集を一冊見ただけで、なんだか今の中学生の置かれている状況がわかってしまった気がする。

教師だよ、やっぱり。

こんな例文しか作ることのできない教師の品性の低さが、勉強というなんでもない作業を遠い遠いものにしてしまっているのだよ。」

私は小林先生の着眼点は鋭いと思う。

私たちの「意見」というものは、「個人的な思い」という内的で未定型的なものがまずあって、それが「それを表現するに相応しい言葉」を身に纏って表出される、というかたちをとるわけではない。

「コミュニケーションの現場でとりあえずやりとりされている言葉」を適当に順列組み合わせして話してみて、自分が口にした言葉に「あまり違和感がない」場合に、事後的に「あ、私はこういうことを考えていたのか」というふうに承認する、というしかたで、私たちは「自分の意見」というものを構成してゆく。

「売り言葉に買い言葉」とはよく言ったもので、「言葉の市場」においては「売っている言葉」を「買う」しかない。

であるから、この「高校入試漢字問題集」のようなものを毎日読んでいると、その人の言語中枢の中にこれらの例文が「ストックフレーズ」として堆積してゆくことになる。

そして、「売り言葉を買う」ほかないような、せわしないやりとりの場において、私たちの口を不意について出てくるのは、この慣れ親しんだ「ストックフレーズ」なのである。

「結婚のジョウケンは優しくてお金持ちであればいいわ。

失恋したらジョウチョが不安定になった。

身勝手なことをしているとクラスのなかでコリツするよ。」

というような文型を「ストックフレーズ」として刷り込まれる、ということは考えるとたいへんに恐ろしいことである。

何かのはずみに「結婚の条件は?」と訊かれたときに、思わず「優しくてお金持ちであればいいわ」と言ってしまって、そのあと「自分が言ったことに、それほど違和感がない」ので「ああ、これが自分のほんとうの気持なんだ」と納得してしまうのである。

「それほど違和感がない」のは、単に問題集で何回も読んだからにすぎない。

もしこれが

「結婚のジョウケンは、性欲と無知である。

失恋したとたん、相手にサツイを感じた。

身勝手なことをしているうちに、みんなが私をイフするようになった。」

というような文型を毎日読まされていた場合では、その人の世界観はずいぶん違ってくるのではないか。

実は、私は高校1年のときに、「ひとは自分が聞き慣れたストックフレーズだけを使って自己表現する」ということを発見し、さっそく大学ノートに「ウチダ・タツル私家版語彙集」というものを作ったことがある。

そして、そこに、本を読んで見つけた「お、いいな」という箴言をかたっぱしから書き込んで言ったのである。(たしか記念すべき最初の一行は『ツァラトゥストラ』のニーチェの言葉だった。もう覚えてないけど、おそらく「世の中のほとんどの人間はバカである」というような、ニーチェがいかにもいいそうなことだったかに記憶している。というかニーチェって、それしか言ってないんだよね。実際の話)

ニーチェに始まるその私家版語彙集が私の人生観にどれほど深い影響を及ぼしたかは贅言を要すまい。

大学院受験のときに、仏文科の学生は誰でもギュスターブ・ランソンの『フランス文学史』という1300頁もある本の内容を暗記することを強要されるのであるが、私はこれを「一頁にワンフレーズ」、「これで決まりだ」というかんじの決めのフレーズを探し当て、それをノートに記して、暗記したのである。

例えば、ラブレーの項だと

Rabelais n'a qu'un principe: l'homme a le droit, le devoir d'etre le plus homme que possible.

なんていうのが「決め」の一句になる。

(意味は「ラブレーにはただひとつの原則しかない。人間は、可能な限り人間的になる権利と義務がある、ということである」)

ロラン・バルトにめちゃくちゃにけなされたせいで、いまでは顧みるひととてない文学史家ランソン先生はしかしながら、作家の個性をひとことで言い当てるキャッチーなコピーを作ることにかけては掛け値なしの天才であった。(もちろんバルトはランソンの文学史がそうやって「高校受験漢字問題集」的に効率よく機能したせいで、フランス文学の読み方を定型化したことに対して抗議していたのである。)

バルトが出てきたので、そのままバルトのお知恵を拝借することになるが、このような社会的経験の中で無意識的に刷り込まれた基本文型や語彙やイントネーションやアーティキュレーションのことを「ソシオレクト」と呼ぶ。「社会的な方言」ということである。

ソシオレクトは自己表現の「道具」のように見えるが、実は、そうではない。

一度、あるソシオレクトを選んでしまうと、私たちはそこから出ることがむずかしい。

営業マンには「営業マンのソシオレクト」があり、おばさんには「おばさんのソシオレクト」があり、やくざには「やくざのソシオレクト」がある。それは人々の発語の仕方のみならず、身体運用や、服装や、嗜好や、価値観までをも規定している。

それぞれのソシオレクトにはそれにふさわしい話題があり、それをもっては適切に論じることのできない主題がある。

「いまどきの高校生のソシオレクト」は、たしかに「いまどきの高校生」のある種の倦怠感や徒労感を表すにはたいへん適切な語法であるが、例えば、それをもってしては、「現象学的本質直観」について語ることはきわめて困難であると言わねばならない。

「だからよー。ほら、ここにマクドのてりやきバーガーがあるじゃん。でよ、タカナからはそっち側の包み紙しかみえないし、オレは自分の歯形のついたバーガーしかみえねーけどさ。これが『てりやきバーガー』である、ってことはよ、二人ともわかってるわけじゃん。」

「あたりめーだろが。おれが平日半額のチーズバーガーにしとけっていうのに、てりやきバーガーがいいんだって言い張ったのはおめーじゃんか」

「ちげーよ。オレが言ってんのは、てりやきバーガーの包み紙だけしかみえなくてもよ、タナカにはこれが『てりやきバーガー』だって分かるのはどうしてか、ってことだよ」

「バカかおめー。てりやきバーガーの包み紙の中にチーズバーガーが入ってたら、おらあマクドに火いつけるぞ」

これでは、ノエマ-ノエシス構造をタナカ君に理解させるためには「五劫のすりきれ」ほどの時間が必要であろう。