夜霧世今夜もクロコダイル

Another Crocodile in the night mist: from 1 Jan 2001



5月31日

こんどは風邪をひきかけている。

まったく「蒲柳の質」とは私のことである。

過去の日記を繙いても、ほぼ毎月のように「歯が痛い」とか「熱がある」とか「具合が悪い」とか「疲れて死にそう」とか泣き言が書いてある。

私の身体は自己治癒力が高く「トカゲの肉体」と呼ばれており、また私の精神にはある種の反省機能が欠如しているせいで「ワニの無意識」と忌み嫌われているわけであるが、考えてみたら、「拒食症のアナコンダ」「食欲不振のワニ」「不眠症のティラノザウルス」などというものだって存在しうるわけである。げほげほ。

「病身の爬虫類」。

微熱があって、喉が痛い。でも、仕事を休むほどには悪くない。こういうのがいちばん厄介である。

熱が38度もあれば、「もー、わし、しらんけんね」と原生動物に退行して、すべてを棄ててマンガ本を友に遁世することもできるのであるが、この程度であると、「ふつうの社会人」のふりをしながらふらふらしないといけない。

昨日は杖のお稽古はお休みしたが、結局家で深更まで「必殺文部科学省提出書類書き」をしていたので、疲労感はあまり変わらない。でもまあ、懸案の仕事がひとつ片づいたのでよしとしよう。

ということは、今日からは「必殺レヴィナス論書き書き週間」というものが始まる、ということである。

私がぼけっとしれいるうちに、世界のレヴィナス研究者たちは続々と研究書を出版しており、この一月だけで12冊ほど英語のレヴィナス研究が届いた。

えー。これ全部読まないといけないの?

まあ、アメリカの研究書は「最初の10頁で自分のオリジナルな意見が何であるかをはっきり書く」というありがたいルールがあるので、大急ぎでやれば、2時間くらいで12冊のうちどれが最後まで読むべきで、どれが読まなくていいかの判定はできる。

フランス語の研究書だとそうはいかない。いったい、著者は何が言いたいのか、最後の最後まで分からず、最後まで読んでも分からない、ということが頻発するからである。

でも今読んでいるレヴィナス論(Marc-Alain Ouakni, Meditations erotiques)も2頁ずつ断章がずらずら並んでいるだけで、序論も結論もありゃしない。(面白いことは面白いんだけど)

日本語の研究書の場合は・・・ま、角が立つからやめておこう。

いま書きかけの第三章『愛の現象学』(いい題名である、私は論文の章題をつけるのが特技であり、趣味なのである。)のエロス論は、最近、何となく論理の隘路が見えてきた。

あ、熱がでて、眼がうるんできた。もう一こま片づけて、うち帰って「カコナール」呑んで寝よう。


5月30日

下川正謡会の「申し合わせ」。

「申し合わせ」というのは別に「密談」とか、そういうことではなくて「リハーサル」のことである。

朝から夕方まで湊川の能楽堂で囃子方や地謡を本番とおりまじえてお稽古をするのである。

私ははじめての舞囃子なので、「初申し合わせ」である。

どきどき。

ちょっとあがってしまって、最初のすり足で「ちゃかちゃか」と歩いてしまって、下川先生に「これくらいのことで、いつものことができなくてどうしますか」と叱られてしまった。(ゆうべあれこれ書いていたけれど、さすがに一夜漬けでできるようなものではない。とほほ)

しかし、客のいない能楽堂で能楽のお稽古をするというのは、よいものである。

お囃子の先生たちも、普段着や紗の着物なんかでリラックスしている。

私は紗とか絽の着物なんか持ってないので、ウールの着物。ちょっと暑かった。

来年に備えて、一着、洒落た夏の着物を買ってしまおうかしら。

今週はあと二日お稽古がある。

必殺能楽週間はまだまだ続く。

それに並行して今週はまた「必殺文部科学省提出書類猛然製作週間」でもある。

いつになったら、私に安息の日々は訪れるのであろうか。

 

ベトナムの友人ビン君から「秋に日本に遊びに行きます」というメールが届いた。

ビン君は、たしか96年のブザンソン研修のときに知り合った、私の「うまれてはじめてのベトナムの友人」である。

教室に入っていったら(研修では私も「上級クラス」で会話のお勉強をしていたのである)となりの席にすわっていた色黒のアジア人の青年が、いきなり日本語版(あたりまえだね)『地球の歩き方』を取り出してきて、「ね、この字なんて読むんですか?」と訊ねてきた。

私は見知らぬアジアの青年に、フランス語の教室で、いきなり流暢な日本語で話しかけられたこのにびっくりした。

それから私はビン君と仲良しになって、毎日いっしょにカフェに行ったり、ビールを呑んだりして、ベトナムについていろいろと教えてもらった。

私はかつて「ベトナム反戦」を闘争課題のひとつに掲げた政治運動にかかわったことがあるので、「ベトナム」と聞くと、その瞬間にとりかえしのつかない「疚しさ」にさいなまれてしまう。

どうもすいません。おれたちの反戦運動や反基地運動が腰砕けだったせいで、ベトナムのひとたくさん死んだんだよね。おれたちはほんとはB52 に爆弾投げて基地突入とかすべきだったのに、「ベトナム戦争はんたーい」とシュプレヒコールするだけで、あとはデートしたり、映画みたり、酒のんだりしてたんだよね。いい加減で、ごめんね。

というような「うしろめたさ」があるので、前に総文に来た広州の中国語の先生が「私はベトナム戦争のときにベトナムでアメリカ軍と戦っていました」という話をきいたときにも、思わず土下座そうになってしまった。

しかし、ビン君は、そういう私の「被抑圧者=ルサンチマンの権化」としてのベトナム人というイメージからは隔たるところ遠い、「ベトナムのシティボーイ」であった。

ビン君はダナン市で「旅行代理店」を営む富裕なご家庭のご子息で、ベトナムでは数少ない大学進学者であり、給費留学生としてフランスに送られ、帰国したあとは研究者か教師になる予定の、スーパーエリートである。

そのエリートのビン君のそのときの熱い関心の対象は「日本」であった。

彼が私の社会と文化に対して抱いているほとんど異例な「親近感」に私は驚いた。

私のがわには「疚しさ」があり、彼のがわには「親近感」がある。

この「ずれ」はいったいどのような歴史的文脈のなかで生まれてきたのだろう。

それについてもっと知りたいと思いながら、短い滞在期間は終わってしまった。

でも私は「私はベトナムについて、ほとんど何も知らない」ということを学習した。

秋にビン君が来たときはうちに泊まってもらうので、ゆっくり教えてもらおう。


5月29日

「死の合気道月間」が終わって、今週は「必殺能楽週間」である。

ときどき、「働き過ぎのサラリーマンは退職後にそなえて趣味を持ちましょう。それが豊かな老後の秘訣です」などということを書いている人がいるけれど、「豊かな老後」に備えておさおさおこたりなく趣味に没頭していると、「趣味のし過ぎによる過労死」というたいへん危険な状態に陥る可能性もある。

私の場合、「趣味」をこなすために「本業」はそのつど後回しになっており、そろそろ関係各方面から「ウチダくん、なんのために大学は君に給料払ってるとおもっとんのかね」という非難の声がまじで迫ってきそうである。

すまない。

それでも、今週は『猩々』のお稽古が最優先である。

だって、いま舞の稽古で、「序破急」の身体運用リズムに薄目が開いたところだからである。

この機会を逃すわけにはゆかないのだ。

「序破急」というのは、「序盤のゆるやかな運動」と「後半の激しい運動」のあいだに「動きの質を変化させる断層」が入る、という運動の構造法則のことである。

そのことは誰だって知っている。

これを私はこれまで武道の技の中で考察してきた。

「動きの質の変化」が劇的であると、これは「消える動き」というものになる。

つまり「序」の運動から「当然予測される次の空間的な身体の位置や方向や速度」と、「急」の運動のあいだに「つながり」がないと、身体は一瞬「期待の地平」からかき消えるのである。

それが武道的な意味での「速い動き」「強い動き」である。

舞のすり足の訓練で、私は「ゆっくりした歩き方」と「速い歩き方」がある、ということを最初に学んだ。そして、なんとなく「ゆっくりした歩き方」が「序」で、「速い」のが「急」かな、と因習的に想像していたのである。(実際に、そのようにクレッシェンドで歩調が速まるように私たちは教えられる。)

「じゃあ、歩き方における『破』って何だろう?」

よくわからない。

その「破」が何か、それを最近知ったのである。

序破急は「一歩」のうちに含まれていたのである。

すり足で進む「一歩」そのものがすでに「序破急」で構成されていたのである。

ロシアの「入れ子人形」みたいなものである。

すり足で踏み出す一歩は「踵を床から離してはいけない」という約束事によって、きびしい「ため」を強いられる。しかし、重心は前に移動してゆくので、踵はついに耐えきれなくなる。しかし、そこで床を離れた踵は、宙には浮かない。浮くことが許されない。そのまま床を滑るように前方へ送り出され、ふっと爪先を浮かせて着地して安定を回復するのである。

不思議な運動だ。

だって、「浮きたがっている」のは踵なのに、「実際に浮く」のは爪先なのである。

変でしょ?

ここには運動の「矛盾」がある。

この矛盾をかろうじて成り立たせているのが、「床を離れたがっているのに離れることのできない不条理な踵」である。

これがつまり「破」だったのである。

初心者の舞は、踵が浮きたがっている「ので」、踵が浮く。プロの舞は、踵が浮きたがっている「のに」、爪先が浮く。

初心者の歩みには矛盾がなく、プロの歩みはその矛盾を実現させてしまう技術的な裏付けがある。

それゆえ、わずか一歩を歩むだけの動きのうちに「運動の消失」があり、「運動の質の変化」があり、「ドラマ」があるのである。

下川先生の足を凝視しているうちに、私はそれに気づいた。

なぜ、私の一歩は「ただの前進」であり、先生の一歩はすでに「舞」になっているのか、どこが違うのか、それが少しだけ見えたのである。

そして、ただ一歩、歩幅にして20センチを移動するために、これだけ高度な技術を要求する能のコレオグラフィーの精妙さに私は感動するのである。

私はもちろんまだそのような運足をすることが「できない」。

しかし、そのような運足を「しなければならない」ということは分かった。

何をすべきかが分かったということは、「できる」方向にむかって正しく照準したということである。このあと、できるかどうかは「時間の問題」であり、時間の問題である以上、必ず、いつかは、できるようになるのである。

こういうふうにわずか一歩を歩むだけしぐさの求める技術の複雑さに感動しているわけであるから、その他の無数の舞の手捌き足捌きの構造と意味について考えたらいくら時間があっても足りない。

「サシ」の腕の運動が、動かす腕の関節を「回転させる」ことによってではなく、反対側の半身を「消す」ことによって成り立つということは、杖道の稽古で鬼木先生から繰り返し教わったので、ほとんど同じ言葉を下川先生に言われても、いまではそれが何を求めているのかを理解できる。

これらの断片的な了解は、いずれ少しずつまとまりをみせ、ある程度体系化されたときに、「舞の身体論」として学術的結実を見ることになるであろう。

というわけなので、私は趣味に没頭しているのではなく、実は学術研究に没頭していたのですよ、みなさん。

それと知らずに、私、仕事してたんですよ。

はははは。

ははははははははは。


5月28日

怒濤の5月がようやく山場を超えた。

今月は、3、4日神戸女学院合気道会十周年記念講習会・演武会、19、20日広島県支部春季講習会、26日全日本演武会、27日五月祭演武会。

疲れたけれど、充実した一ヶ月であった。

土曜は日本武道館で全日本演武会。全国の合気道家が年に一度、一堂に会する合気道の「お祭り」である。

合気道は演武だけで「競技」ということをしないので、参加した5000人は全員がある意味では「主役」である。だから、終わった後はみんな充実感でにこにこしている。5000人がにこにこしている集会というのもけっこう壮観である。

恒例のとおり、多田塾で記念撮影のあと、どどどと九段会館屋上ビアガーデンにて多田塾ビールパーティ。はじめてこの場所で打ち上げをしたのはもう15年ほど前。年毎に参加者が増え、今回はイタリア合気会から三大学まで、多田門下のほとんど全道場から人が集まってきたので、120 人くらいになってしまった。

そのあと学士会館に泊まる飯田先生とウッキーを三人で「すずらん通り」にて二次会。さらに飯田先生とビールをのみながら三次会。

去年は飯田先生と午前2時過ぎまで飲み続けていたせいで、すさまじい二日酔いで五月祭の演武をするはめになった。今年は反省して、「缶ビール一本だけね」とあらかじめ約束して飲み始めたのであるが、うっかりフェミニズム論争に踏み込んでしまった。

悔やんでも後の祭り、尾を踏まれた虎は当然のごとく猛チャージ、こちらも、簡単に矛を収めるわけにもゆかず、わいわい論争しているうちにはや午前一時。ああ、また寝不足。

しかし、フェミニズム論争ではどう終わったときも、いつもこちらが「加害者」(無意識な、あるいは確信犯的な)であるような感触で話が終わる。(マルクス主義者や被抑圧民族主義者と論争するときもそうだけれど)

こちらが論争に勝ったのならともかく、言い負かされた上に「加害者」気分になってしまうというはなんとなく間尺に合わない。

でもこのときの議論ではちょっとだけ面白い話題が出た。

それは「平等」ということのもたらす一種の悪夢についてである。

社会的な差別化指標としての性差を全廃した場合、人間たちを分類する基準はどういうものになるだろう。

フェミニストが主張するように、性差や人種差や国籍、宗教、イデオロギーを問わず、人間の「クオリティ」だけを基準にして人々を階層化する、ということになると、理論的にはその先には完全な「能力主義社会」というものが出現することになる。

すべての社会的な初期条件を同一に整えた上で、全員が結果的にあらわれた能力差によって階層化される社会というのは、しかし、それほど住み良い社会だろうか、そもそもそのようなものを私たちはほんとうに望んでいるのだろうか?

男女の性差をフェミニストは「権力関係」や「階層差」というふうに「ほんらい均質的なものが作為的に分離された状態、ほんらい均等に配分されるべきリソースが偏在化されている状態」と規定する。

社会的リソースの配分が出発点においてすでに不平等である、ということに私は反対である。その点ではフェミニストと変わるところはない。しかし、それを徹底することに私は抵抗を感じるのである。というのは、初期条件が完全に平等であるため、結果的には、「すべての達成は個人的努力の功績に帰される」社会というのは、一種の悪夢ではないかと思うからなのである。

これは「完全な能力社会」である。そこでは性差も人種差も年齢差も宗教差も、どのような社会的な区別も人間の差別化をともなわず、ただ「すぐれた人間」と「そうでない人間」だけが差別化される。

これはある意味では「究極の競争社会」である。

性差が有徴的である社会(私たちの社会のような)において、社会的リソースの分配には性差による偏りがあるとけれど、その代償として、性間の「競争」と「闘争」は微妙な仕方で回避されてもいる。

それは、有徴的な性差が強いエロティックな感情を性間に醸成し、それが性間の社会的矛盾を隠蔽し、意識化させないように機能しているからである。

逆に、社会的リソースの分配に偏りがあるが、エロティックでない関係というものはいくらでも存在する。

例えばふつう「社長」と「平社員」のあいだにエロティックな感情は生じない。

しかし「親分」と「子分」のあいだや、「皇帝」と「奴隷」のあいだ、「貴族」と「召使」のあいだのむすびつきは、サラリーマンの上下関係より、おそらくエロティックなものである。

なぜか。

その違いはおそらく「差異が決定的か、のりこえ可能であるか」の違いから生じる。

「皇帝」を仰ぎ見る「奴隷」は、自分が彼と融合したり、立場を入れ替えたりする可能性をほとんど想像することができない。

しかし「社長」を見る「平社員」は、「いずれ俺も・・・」と想像したり、社内派閥闘争を利用して社長一派を追放する日のことを想像することができる。

つまり、成員の均質度が高く、差別化が個人的能力の差に多く依存するような人々のあいだの関係は「非エロティック」なものとなり、個人の努力では超えようのない差異で隔てられた人々のあいだの関係は「エロティック」になる可能性が高い、ということが言えるわけである。

フェミニストが夢想している理想社会は、このような視点から言うと、社会からほとんどすべてのエロス的要素が払拭された社会のことである。

言い換えると、すみずみまでが「下克上サラリーマン集団化」したような社会である。

私はそんな社会にはあんまり住みたくない。

私は「超えがたい差異」が意識され、なお「それを超えて結びつきたい」というロマンティックな感情が横溢し、エロティックな欲望が人々の社会的態度の決定にふかく関与するような社会の方が、「全員が算盤ずくの下克上サラリーマン社会」より好きだ。

というようなことを言いかけて、眠くなったのでやめてしまった。

私はこのところずっとレヴィナスの「エロス論」というものを考えている。

それについて書かれたものをいろいろ読むのだが、どうも腑に落ちない。

それは「差異は維持されねばならない」というレヴィナスの基本的な考想と、フェミニズムやマルクス主義に代表される「差異は解消されねばならない」という「常識」のあいだの根本的な「ずれ」を私がうまく言葉にできていないからなのである。

レヴィナスの思想は別の言い方をすれば、「人間と人間の関係はエロティックなものであるべきだ」というものである。私は最近そう思うようになった。

それは「もともとエロス的なものが男女のあいだにあるから、それをドライブして・・・」というようなベタな実在論ではない。

「エロティックなもの」とは知的、倫理的な努力によって他者とのあいだに「構築されるべきもの」なのである。

「エロティック」ではあるが「権力的」ではないような関係をどのように私たちは他者ととりむすぶことができるのか?

その問いを私はこのところいろいろ考えている。

考えているのだけれど、思弁は奔逸するだけで、さっぱり深まらないのである。

 

27日は東大五月祭の気錬会演武会。

あいにくの雨だったけれど、熱気あふれる演武会だった。うちからは矢部、林両君と私が招待校演武に出させて頂く。

気錬会は会員60名の由。層の厚さは羨ましい限りである。うちも新入部員をもっと獲得しないと。

気錬会の諸君にはたいへん鄭重なおもてなしを受けた。この場を借りてお礼申し上げます。鍋野主将はじめ、みなさんどうもありがとうございました。また来年もよろしく。

6月3日は月窓寺道場の25周年でご招待頂いたのだが、私は下川正謡会の本番なので、残念ながら欠席。次に同門のみなさんとお会いするのは秋の多田塾合宿と11月の自由が丘道場の40周年記念演武会である。

 

多田先生をお見送りしてから、雨の中を帰る。帰途はウッキーと二人旅。

新学期以来副将として大活躍のウッキーもこれでお役御免。来月からは修士論文に専念することになる。ウチダも、それにともなってウッキーをさんざんこきつかった「師範モード」から、ウッキーをいじめまくる「指導教員モード」に切り替えである。

生き方が変わっても、私にこずきまわされるという基本スタイルには何の変化はない。あまり気の毒なので、ステーキ弁当とビールを奢って労をねぎらう。


5月25日

ふにゃーとしてTVをつけたら、NHK で「斬られ役・大部屋俳優58歳の心意気」という番組をやっていた。

「あれ、もしかして・・・」と思ったら、やはり福本清三さんのドキュメンタリーであった。

福本さんとTVで出会うのはこれで三回目である。

最初は数年前、『探偵ナイトスクープ』で、次がそのあとの『徹子の部屋』。

私はあまりTVを見ない人間であり、福本さんもあまりTVに出ない人である。

(『暴れん坊将軍』にはよく出ているけれど、ほぼ数秒間の出演である。)

そのわりにはよくお会いする。

ご縁があるのかも知れない。

福本さんは東映の大部屋俳優の「斬られ役」である。

その斬られ方にはある種の「美学」があり、それを高く評価するファンがいる。

『ナイトスクープ』というのは東京では放映していない番組であり、私は90年に芦屋に引っ越して、はじめてこの番組に出会った。(私が関西に来ていちばん感動したのは『ナイトスクープ』とやしき・たかじんに出会えたことである。東京で暮らしていた40年間、どちらも私はその存在を知らなかった。東京と大阪のあいだには超えることのできない深い文化的クレヴァスがある。)

『ナイトスクープ』はすっかり気に入って毎週楽しみに見ていた。

あるとき、TV時代劇の斬られ役にとても心に残る人がいるので、ぜひその人がどんな人か知りたいという視聴者からの投書があって、桂小枝が太秦の東映京都撮影所に、それらしき人を訪ねていった。

時代劇の大部屋の人たちに、時代劇の斬られ役でよく「先生」という名前で呼ばれる人がいるでしょう、と訊ねたら「あ、それなら福本さんだ」というので、楽屋にどやどやと小枝が入っていって、メーク中の福本さんにインタビューした。

福本さんのメークが忌野清志郎のメークにあまりに似ているので私はびっくりした。

小枝が福本さんをダマしてフェイクの『徹子の部屋』に出演させる、という悪ふざけで番組は終わったのだが、そのときの「ダマされ方」がとても感じがよかった。

「ひょうたんからコマ」で、それからしばらくして福本さんは『徹子の部屋』にほんとうに出演した。

そのときも私は「サッポロ一番味噌ラーメン」を食べながら、その番組を見て「あ、福本さんだ」とびっくりした。

この人の素晴らしいところは、「斬られ役」というTVの画面の数秒しか映らない役のために全力を尽くし、そのような努力を必ず「誰かが認めてくれる」と信じているところである。福本さんのその信念がTV視聴者にもちゃんと伝わっていたのである。

よい話である。

私はTVというのはろくでもないメディアだと思っているし、「ろくでもないメディア」の流す「ろくでもない娯楽時代劇」を最後まで見通すだけの忍耐力は私にはない。

でも、福本さんみたいな人がいるのを知ると、そういうアバウトなくくり方はいけないなとも思う。

私たちが生計のために営んでいる生活の場の多くは「ろくでもない仕事」である。けれどもその「ろくでもない仕事」からも、個人の思いの強さ次第で、「輝き」に似たものを引き出すことは可能なのである。

それが「プロ」という生き方の手柄であると私は思う。


5月24日

明日の自己評価委員会に備えてどろなわでFD関係の本を読む。

FDというのは、大学関係者以外はなじみのない術語だろうから解説しますけど、Faculty Development「大学教授団教育資質開発」のことである。(訳しても少しも分かりやすくならないですね。平たく言えば、大学の教師たちの教育のスキルについて「もうちょっとなんとかなりませんか?」ということである。)

FDには10年ほどの歴史がある。

1990年代のはじめに文部省が「大学設置基準の大綱化」に踏み切った。

もちろん、これまたみなさんはご存じあるまいが、それまで「護送船団方式」で大学を一元的に管理してきた文部省が、「規制緩和」の代償として、それぞれの大学に「自己責任・自己統治」を求めた重要なシフトである。

この「規制緩和・自己責任」こそ政官主導によって、現在着々と進行しているあの「構造改革」というものと同根の発想であることはご賢察の通りである。銀行が潰れたり、ゼネコンがこけたりする経済の現状の大学版というふうにご理解いただいてよいだろう。

FDはそのような趨勢の波頭のひとつである。

それは、乱暴に言ってしまえば、「大学教育への市場原理の導入」ということである。

つまり、「クライアントが評価する教育サービスを提供する大学は生き残り、それができない大学は淘汰される」ということである。

え?

そうなんですよ。

実はこれまで大学は「クライアントが評価しなくても」生き残れたんです。

驚きました?

私のような元サラリーマンの視点からすると、これは信じられないほどイージーな商売である。

なにしろ、年度の始めに、まだ何も「商品」を売っていない段階で、代金を全額前納していただいて、「商品」の出来についてのクレームはいっさい受理しない、資金繰りの苦労も在庫も何もない、窮極の「殿様商売」なのである。

注文を受けて、前金をいただいてから「団子」をこねて、食べて「まずいよ」と言われても「うるせえな」ですむ「団子屋」、それが私立大学だったのである。

すごい。

そんなことができたのも、大学商売が実は「団子」(教育サービス)はなく、「団子を食べたことの証明書」(卒業証書)を売っていたからなのだ。

だから、「証明書」が欲しいだけの学生さんに対して、「団子の味がどうこうなんて、野暮はいいっこなしだぜ、お兄ちゃん」で済んでいたのである。

それが18歳人口の激減という「思いもかけない事態」(18年前から分かっていた「思いもかけない事態」って論理矛盾だけど)に遭遇して、全国の大学は「団子屋の生き残り競争」という市場の現実に直面したのである。

どんな場合でも、「現実に直面すること」は「直面しないこと」よりもよいことである。

というわけで、「大学はいかにして市場の淘汰圧に耐えられるか?」という問いを私たち大学人は、明治維新以来はじめて、みずからに向けることになったのである。

その問いへの回答のこころみのひとつが「教員の教育スキルをすこし向上させよう」ということである。

はい、そうなんです。

私たちはこれまで一度として「教員の教育スキルをすこしは向上させよう」と思うことなしに教壇に立ってきたのです。

すみません。

しかし、気を取り直して申し上げますが、というわけで、本学でも今期の自己評価委員会で「教員の教育スキルの向上のための研修プログラムの立ち上げ」とか、「学生の教員評価のネット化」とか、「教育実践の評価を業績査定にカウントする方法」とか、について「議論を始める」ことにしたんです。(プログラムを「立ち上げる」んじゃないですよ。「立ち上げようかどうしようかの議論」を始めるだけです。)

あ、気が遠くなってきた。

私は明日の自己評価委員会で、もちろん「教育的スキルの客観的査定システムの確立」とか「教育評価の昇給への反映」とか「研究業績による研究費の傾斜配分システムの導入」とか、過激な(民間企業だったら「微温的な」)提言をするわけです。

あるいは教員のみなさんの中には「何と!ウチダくんは、大学教育に『勤務考課』を導入しようというのか!資本主義の走狗か君は!学問の自由、神聖な大学自治を君は弊履のごとく捨て去ろうというのか!!」というような太古的リアクションをする方もおられるかもしれない。

そのような人に対して、私はいったいどこから話を始めたらよいのであろうか?


5月23日

インターネットが繋がって「ピンチ」の一つが解決される。

BBS を埋め尽くした親切なメル友たちの必死のアドヴァイスにより、nifty のISDNの電話番号が変更になったのを私がまるで知らなかったことが原因と判明。電話番号を設定しなおしたら、すぐに繋がった。

ご心配頂いた方々にはお詫びの言葉もない。

フジイ君も「こうなったら神戸まで出張修理に行くか。まったく世話のやける教師だぜ」と内心腹をくくり、ダイアリーをめくって有給休暇の段取りを考えていたかもしれない。

みなさん世話をかけてすみません。バカでごめんね。

「ピンチ」というのはもつれた毛玉と同じであるので、一つほどけると、だいたいあともずるずるとほどけ始めるものである。

インターネットが繋がった瞬間に心なしか歯痛も収まってきた。(そういうものである。)明日はばりばり仕事をして懸案の書類群を片づけてしまおう。

改めて、私がメカに「とことん弱い」ということが暴露された。

前にも書いたが、私はいかなる機械についても、そのメカニズムを理解していない。

前にSSで店の兄ちゃんに車のボンネットを開けて下さいと言われて、「ボンネットってどうやって開けるの?」と訊ねて仰天されたことがある。

つまり車を買ってから数年間、私は自分では一度も自分の車のエンジンを眺めたことがなかったのである。

もちろん「眺める」ことで車の性能が向上するのであれば、私も眺めるにやぶさかではない。だが、やはりラジエターの様子を眺めたり、エンジンオイルのよごれをチェックしたり、ファン・ベルトのへたり具合に心を痛めたり、というようなことができないと、ボンネットを開けても仕方がない。

私はその「仕方のない人」なのである。

もう50歳であるから、この性分はもう死ぬまで治らないと定まった。

私はこれからもPCのマニュアルを棄て、サービスの電話番号を忘れ、保証書をどこかにしまい込み、シリアルナンバーをメモし忘れ、心ある人々の失笑と憐憫を買うような余生を過ごすのであろう。

それはもう既決の未来である。

もうどうしようもないし、どうする気もない。

年を取るといいことが一つだけある。

それは、もう「向上心」を持たなくていいということである。

これは楽だわ。


5月23日

ピンチである。

ピンチというのは、(アントニオ猪木によると)さまざまな否定的ファクターが「ダマ」になって押し寄せてきた状況を指す言葉である。

それぞれのファクターそのものは単独ではべつに致命的なものではないのであるが、なにしろもつれあって押し寄せてきている。

まず、歯が痛い。

これはつらい。だいたい、首から上の部位の痛みというのは耐えにくいものであるが、私の「弱点」である右の歯茎がまたまた炎症を起こして、弱った歯がぐらぐらしてきたのである。

しかたなく12月から半年ぶりに歯医者さんに再びまみえることになった。「歯医者復活戦」である。

歯医者さんは「どうしようかな。抜いちゃおうかな」と怖いことを言う。

歯が痛いので、ちゃんとご飯がたべられない。

膝が痛い。

これも業病。手当はしているのであるが、正座すると痛い。下川正謡会の本番も近いというのに、ちゃんと座れないのでは「謡」にも「舞」にもならない。

インターネットが壊れたまま。

これもいい加減になんとかすればよいのであるが、なにしろ自宅に帰るのが連日遅く、とてもそれからパソコンに向かって悪戦する意欲が残っていない。とりあえず研究室のパソコンは2台とも生きているし、インターネットにもちゃんとつながるので、一日のばしにずるずるしているが、自宅でメールチェックができないと、メールがたまって大変である。

仕事が山積。

金曜締め切りの原稿は書き上げて送ったが、来週のうちに私が片づけなければいけないのは

(1)文部科学省提出書類の書き直し

(2)フランシュコンテ大学夏期講習の準備

(3)自己評価委員会の年間計画の企画書

(4)FDについての原案の策定(FDっていっても「フロッピーディスク」じゃないよ。Faculty Development)

(5)大学院の予算編成

(6)大学院生との懇談会の設定

(7)ゼミ旅行のとりまとめ

(8)電子提案箱運用規程案つくり

などなどである。

書かなければならない原稿はついに「本6冊分」に達してしまった。(もちろん、この3週間、どの原稿も1行も書いてない)

そのあいだに合気道と杖と能楽のお稽古がほぼ毎日入っているのである。もちろん授業もやる。

「バカみたい」と思われる方もいるだろう。「自分で忙しくしてるんじゃないか。」

しかし、原稿を書くことは私にとって「無上の喜び」であり、お稽古は私の「生き甲斐」であり、官僚的作文をすることは私には「おちゃのこさいさい」なのである。

「無上の喜び」と「生き甲斐」と「おちゃのこ」であるにもかかわらず、それらが同時多発的に押し寄せ、そこに歯痛、関節痛、パソコン故障などが加わると、弁証法的な質的変化をとげて「ピンチ」に化すのである。

ピンチの解決法についての猪木の教えは「ピンチを構成しているファクターを一つ一つ解決してゆくこと」というたいへんにまっとうなものである。

ピンチを脱する起死回生の秘策などというものはない。

積もった仕事を一つ一つ終わらせ、痛む箇所を一つ一つ癒してゆくほかにピンチを逃れる術はないのである。

わかっちゃいるけど歯が痛い。

しくしく。


5月22日

私の母は(あまり知られていないが)歌人である。

女流歌人というのは、「家族のこと」をがんがん詠んでしまうので、歌集を読むと、そのひとの家族構成とか家族の職業とか人間性まで分かってしまうことがある。そういう意味では家族にとってはとほほな文芸である。

しかし、芸術は長く人生は短い。母の芸術のためになら、プライヴァシーがどうたらというような寂しいことを私はいわない。

そんな母が先般の山形吟行(じゃないんだけど)の作八首を送ってきた。

私がいちおう選者として二首を選ばせていただいたのでここにご披露したい。

わが知らぬ日の追憶に車止め夫は山を海を見て立つ

祖の墓に手を置けばかすか温みあり古りし世偲ぶ暗き境内

一首目は「車止め」が語感としてややひっかかる。(「くるまどめ」というと、あの不細工な三角形の器具を連想してしまうからね)

二首目は母からのファックスでも最後に載せてあったから、おそらくは自信の一首なのであろう。「K」音がたたみかけるように続くのが快い。

私にとって、今回の山形ツアーでいちばん印象的だったのは、「鼠ヶ関」でほとんど自失したように海を眺めている父の姿と、累代之墓に感じた奇妙な「親しみ深さ」だったので、それをちゃんと詠い込んでしまった母には個人的に拍手を贈りたい。

リュミエール兄弟は「ホームムービー」と撮るためにシネマトグラフを発明し、わが母は「家族の記録」を残すために歌を詠み続けている。なまじ「世界に向けて発信」していない「うちむき」の姿勢からある種のひろがりが生まれるということもある。母上さまにはますますがんばっていただきたいものである。

大学院の演習は舞踊論。私は繰り返し言っているとおり、舞踊のことなんかぜんぜん知らない。だが、知らないことを勉強するのには「教える」のがいちばんであるので、この主題を選んだのである。

7月には鈴木晶先生、小林昌廣先生の連続講演もある。舞踊の批評家として現代を代表するお二人にお越し頂くわけであるから、聴衆があまり初心者でいては申し訳がない。そこで、講演に備えて、少し院生たちに予備知識をと、今日は土方巽のヴィデオを見てから三上賀代さんの『器としての身体』を読むことにしたのである。

土方のヴィデオを見たのはみんなはじめて。衝撃を受けているようすが伝わってくる。

私も土方巽の生前の公演を見たことはない。でもご本人は一度だけ見たことはある。

1967年の冬に新宿ピットインで状況劇場が『続ジョン・シルバー』をやったときに、私は一人で見に行った。そのとき、私の斜め前の席に長髪をうしろで縛り、どてらを着た髭面の男がすわっていた。その人の発するオーラがただものではないことは17歳の私にも分かった。

終演後、唐十郎がそでから飛んできて、その人の隣にすわって「土方先生、いかがでしたか?」とていねいな口調で訊ねたので、その人が噂に聞く土方巽だということが知れた。

私は土方巽と唐十郎という二人の天才が顔を接するようにして語り合うのを眺めながら「おお、これってけっこうお得な経験かも」と思った。そのうち誰かに自慢しようと思っていたが、まさか34年後に大学院の演習で大学院生相手に自慢することになるとは神ならぬ身の知る由もなかったのである。

その土方の舞踏論であるが、これが実に面白い。

私の武道技法上の現在の喫緊のテーマは「膝を緩めて使う」ということと「バランスを崩して歩行する」ということに集約されているのであるが、まさにそれが暗黒舞踏の基礎技法そのものなのである。

武道と舞踏のあいだには深い関連があるに違いないという私の着眼は正しかったのである。しかし、この話はいましちゃうと次の演習のネタがばれてしまうので、今日は違う話。

土方巽の舞踏の原型に「死刑囚の歩行」というものがある。それについての土方の説明は次のようなものである。

「断頭台に向かって歩かされている死刑囚は、最後まで生に固執しつつ、すでに死んでいる人間である。生と死の強烈なアンタゴニズムが、この一人の悲惨な人間のうちに極限化され、凝集的に表現される。歩いているのではなく、歩かされている人間、生きているのではなく、生かされている人間、死んでいるのではなく、死なされている人間・・・この完全な受動性には、にもかかわらず、人間的自然の根源的なヴァイタリティが逆説的にあらわれているにちがいない。(・・・)かかる状態こそ舞踊の原形であり、かかる状態を舞台の上に作り出すことこそ、ぼくの仕事でなければならない。」

これを読んで、私は「おおおお」と思った。

というのは、私たちはごく最近、この「死刑囚の歩み」を強烈な図像的主題にした映画に遭遇したばかりだからである。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』である。

そこでは「歩いているのではなく、歩かされている人間」が、「踊り出して」ミュージカルが始まるという(松下正己がおぞけをふるった)とんでもない展開であったわけであるが、土方の言うように、生と死の拮抗そのものである「死刑囚の歩み」こそが「舞踊の原形」であるというのがほんとうならば、セルマのあのふらつく足取りこそは「暗黒舞踏のヨーロッパ的解釈」だったということになる。

そう言われて見ると、あの不思議なコレオグラフィーが実は「できの悪い暗黒舞踏」だったのだと考えると、あれこれのことが腑に落ちる。(とくに列車の上の労働者たちの変な踊り。あれはデンマーク版「東北歌舞伎計画」である。)

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』についてはずいぶんいろいろな人が論評をしていたけれど、「隠れ暗黒舞踏」だということに気づいた人がはたして何人いたであろうか。


5月21日

土日は合気会広島県支部の春季講習会。

自業自得とはいいながら、5月6月はぜんぜん「週末」というものがない。

来週は全日本合気道演武大会と東大五月祭、その次は下川正謡会大会、その次は多田先生の講習会(本部道場)。その次の6月17日が4月22日以来の「日曜日」である。

そのように自滅的なスケジュールを組んでおきながら、仕事はふえるいっぽう。

今日は半日文部科学省用の作文。あたまがどんどん官僚的になってゆく。

HDをみているうちに、ちらっと「レヴィナス論」のファイルが見えたので、ちょっとひらいてみる。第三章の最後のフレーズで論文が「ぶつん」と切れているのであるが、その続きに何を書こうとして筆をおいたのか、ぜんぜん思い出せない。

自分の書いた文章があまりにむずかしくて、読んでもわかんない。

こ、こまった。

はやくこの「死のロード」を終えて、「研究モード」に戻らないと、『アルジャーノン』になってしまう。

うう、こまった。

こまったついでに。

山形の漬け物屋で買った「小茄子」のみそ漬けがとても美味しい。

その小茄子をかじりながら、斎藤慶典さんの『力と他者』というレヴィナス論を読んでいた。

その本の書評を頼まれたのである。私は書評ではぜったいに悪口を書かない。だって、書評で悪口を書くことによって誰かが幸せになる、ということはありえないからだ。書かれた人はもちろん頭に来るし、読んだ人もいやな気分になるし、書いた当人は『剣呑な野郎だ』と思われて友人をなくす。誰も幸せにならない上に、原稿料さえろくにもらえないのである。それに、他人の書いた本をほめるというのは、なかなか気分のよろしいものである。

まあ、そういうわけで『力と他者』という本をよんでいたのである。(これはよい本である。オススメ)

するとそこにスピノザの用語である「存在する努力」(コナートゥス・エッセンディ)というラテン語がなんども出てくる。

当然のように、私の脳裏には、次の言葉がわんわんと反響したのである。

「存在する小茄子」(コナス・エッセンディ)

だから何なんだと言われても困っちゃうけど。


5月18日

文部科学省へ二度目の協議のため日帰り出張。

申請書類の難点がいろいろと指摘される。とくに私が「このへん、ちょっと詰めが甘いかな」と思っていたところがやはり「情報が足りない」と指摘される。6月の最終提出期限までにもう一度書き直しをしないといけない。ううう。

ただでさえ忙しいのに、どんどん仕事が増えて行く。今日はひさしぶりのオフであったが、まる一日この書類書きで潰れそうである。

それに加えて四日前から自宅のインターネットが接続しなくなってしまった。

NTT のサービスにやっとつながったので訊いてみたが、ISDNに故障はないので、あとは自分で調べて直せという冷たいご返事であった。

その前までふつうに動いていたインターネットがいきなり「ぶちっ」と切れたわけだから、どこかにトラブルがあるのに違いない。だが、私には原因も修理法ももちろんまるで見当がつかない。ディスプレイの前で呆然自失するばかりである。

大学の研究室のマシンが故障したときは出入りのPC屋さんに電話して「直して」と言えばすむのであるが、自宅にまでは来てくれない。

どうして「インターネット110 番」みたいな出張サービスがないのだろう?

JAF とか水漏れなんかだと24時間いつでも電話一本で来てくれるサービス会社があるんだから、PCの不調も電話一本で来てくれるサービス会社があれば、どれほどありがたいことか。

ああめんどくさい。

ISDNの設定のときも、そういえばずいぶん手こずった覚えがある。アダプターを取り付けてからインターネットに接続するまで、ジロー先生にお手伝い願って、それでも1週間くらい悪戦苦闘した。

こういうのは私にとって純粋な苦役である。

悪戦苦闘の末に接続が出来て、そうやって少しずつおのがコンピュータ・リテラシーの充実に喜びを感じるという人もいるが、私の場合は、どれほど苦労しても、次の瞬間にはどうやってそこまで到達したのかほとんど手順を忘れているので、リテラシーの向上ということは決して起こらない。

もう面倒だから、ISDNごとPCを棄てて、インターネット常時接続の新しいPCに乗り換えようかしら。

業者が、家まで来て、配線からインターネット接続まで全部やってくれて、アフターケアもばっちり、というようなTVCMをやっていた。

私は文字通り「垂涎」の表情でそのCMを眺めていた。

そう、私は「運転手付きの自動車」に乗るようにしてPCとつきあいたいのである。

洗車したり、ガソリン入れたり、タイヤのパンク直したりする「汚れ仕事」はぜんぶ運転手にやらせて、自分は手を汚さずに行きたいところへ行って、やりたい仕事をしたいのである。

それではいかん、ということを言う人がいる。

PCを利用する、という以上、「技術的コスト」は身銭を切って支払うべきだ、というのである。自分で汗を流し、涙を流して、はじめてPCを利用する喜びを人は知るのである、と。

私はぜんぜんそういうふうに思わない。

そんなのは「原稿用紙に鉛筆で字を書きたい人間」にむかって「製紙の基礎技術と、鉛筆製造法を一通り習得してこい」といっているのと同じことだと私は思う。

PCは大変便利な、「ただの電気器具」である。

私は「電気器具」を便利に使いたいだけである。「電気のしくみ」なんかどうでもいい。

どうして、私のようなボンクラで怠惰な消費者のこの切なる気持をメーカーさんや流通業者さんや小売店さんは分かってくれないのか。

「電話一本であらゆる技術的トラブルをぜんぶ解決しますサービス3年間付き」PCというものを誰かが売ってくれたら、私はいくらでも金を出す。

というわけで、このホームページをご覧の皆さんでウチダの貧しいPCライフを哀れと思し召して、私に代わってマシンを選んで、配線して、インターネット常時接続の設定して、「はい、どうぞ」までやってくれる人、急募。バイト代5万!私は本気だ。

フジイくん、どーかね。有給取って神戸に来て、ウチダのPCライフを再建するというのは、新幹線代は別に出すぞ!


5月16日

人間50にもなると身体の節々が痛んでくる。

40代もなかば過ぎる頃からあちこち痛み出す。最初は「困ったなあ」と思って、病苦を「治癒」の対象とみなし、病因の特定→患部の摘出 という外科的な図式で病をとらえていた。

しかし、あまりぱっとしない。

考えてみれば当たり前で、中年すぎてからの病気というのは、「他が全部健康で、特定の器官だけが単独に機能低下する」というものではなく、「身体のシステム全体」が失調しはじめると、その「最も弱い環」から切れ始めるという仕方で発症するものである。

患部を「敵視」して、それを「えぐり取れば」、もとの健康、「原初の清浄」が回復されると夢想するのは、身体システムの見方としては適切ではない。(社会システムの見方としても適切ではないが)

病気は「システム全体の失調」のサインである。

「そろそろ『おつかれさん』の時間だよ」

という「終わりの合図」である。

小学校の頃、放課後遊んでいるとドボルザークの『新世界』の「遠き山に陽は落ちて」という曲がかかって「さようなら、さようなら、下校の時間になりました」という放送部のアナウンスが始まった。それが聞こえると、遊んでいる子ども達は、「じゃ、これで最後ね」というふうに言い交わしてゲームを切り上げ、放り出してあったランドセルの泥を払い落とし、いっしょに帰る相手とゆるゆると校門に向かったものである。

「おじさんの病気」というのは、あの「下校の時間になりました」のアナウンスと同じ機能をもっている。

これが聞こえたら、ぼちぼち「あとかたづけ」を始めろ、ということである。

合気道のお師匠さまである多田先生によれば、「病と対峙せず、病とともに生きる」のが正しい病との接し方であるという。

『陰陽師』では安倍晴明も同じことを言っていた。「悪霊と対峙せず、悪霊と折り合いを付けながら共存する」のが正しい鎮魂の作法である、と。

「病気とともに生きる」のも「悪霊と折り合いを付ける」のも、構えとしては同じことである。それは、「おのれを害するもの」と人間はちゃんと付き合っていけるんだから、まあ、じたばたすることはないよ、ということである。

もちろん「おのれを害するもの」との永遠に共存できるわけではない。

そうすることで、私たちは、ちょっとだけ「死神」から時間をかすめ取るだけである。

でも「無限にある」と思い込んでいる時間と、死神からかすめ取った時間では、その「かけがえのなさ」が違う。時間の密度が違う。時間の厚みが違う。

多田先生が「病とともに生きる」ことの大事さを繰り返し強調されたのは、そうすれば「健康にもどる」からではない。そうやって生きる方が人間は運命に与えられた時間を豊かに、かつ愉快に過ごすことができるからである。

私たちにもいずれ武道の稽古ができなくなる日が来る。

武道人生の「終わりのチャイム」が鳴ったときの対処の仕方について、私たちは素晴らしいロールモデルを有している。

そう、「宗方コーチ」である。

彼に選手生命の終わりは唐突に訪れる。そして、そのあと、テニスプレーヤーとしての絶頂期を「自分のプレーヤー生命にいつか終わりがくる」ことを一度も予想せずに過ごしてきたことにきづき、深く恥じ入るのである。そして、彼は愛弟子の「ひろみ」に私の失敗を繰り返すなと諭し、「この一球は唯一無二の一球なり」という言葉を伝える。

『エースをねらえ!』を読んだとき、私は20代のなかばであり、それまで自分にもいずれ武道家人生の終わりがくるということなど考えたこともなかった。

でも、『エースをねらえ!』を読んだ私はいずれ必ず訪れる武道家人生の終わりのために、一日一日の稽古を、一本一本の技を、「唯一無二の、かけがえのない経験」として生きるようにしようと決めた。(若いのに感心である。)

それから25年経った。いま「終わり」が来ても私は平気である。

だって、「思い残す」ことなんか何もないからだ。毎日、「今日が最後の日かもしれない」と思いながら稽古してきたからである。

師に恵まれ、道友に恵まれ、弟子に恵まれた私にいまさら「やり残した」ことなんかあろうはずがない。

レヴィナス先生は、倫理の根元的形態とは「お先にどうぞ」という言葉に集約される、と書いている。

「そんなの簡単じゃないか」と言う人がいるかもしれない。

エスカレーターの前や、ドアの前で「お先にどうぞ」と言うことはそれほどむずかしくない。

でも「タイタニック号、最後のボートの最後のシート」を前にして「お先にどうぞ」と言うのはそれほど簡単ではない。

レヴィナス先生は、あらゆる場面で「お先にどうぞ」と言い切れること、それが倫理的に生きるということの具体的なかたちである、と論じている。

これはとってもむずかしい。なぜなら、「やり残したこと」がある人間は強い意志をもって欲望を抑制しないかぎり、その言葉を口にすることができないからだ。

「やり残したことのない」人間にはそれほどの克己心は要らない。だって、もう「やり残したことはない」からだ。「ま、いいすよ。おいらは。人生じゅうぶん愉しんだし」と本心で思っているからである。

人は幸福に生きるべきだ、と人は言う。私もそう思う。でも、たぶん「幸福」の定義が少し違う。

そのつどつねに「死に臨んで悔いがない」状態、それを私は「幸福」と呼ぶ。

幸福な人とは、快楽とは「いつか終わる」ものだということを知っていて、だからこそ、「終わり」までのすべての瞬間をていねいに生きる人のことだ、と私は思う。

だから「終わりですよ」と言われたら、「あ、そうですか。はいはい」というふうに気楽なリアクションができるのが「幸福な人」である。

「終わり」を告げられてもじたばたと「やだやだ、もっと生きて、もっと快楽を窮め尽くしたい」と騒ぎ立てる人は、生き続けても結局幸福になることのできない人である。

幸福な人は、自分が幸福なだけでなく、他人を幸福にする。だから、私はみんなに幸福になって欲しいし、幸福になる努力をして欲しいと思う。(おおっと、なんだか武者小路実篤の文章みたいになってしまった。)

つまり何だね。ウチダくんみたいに、「永谷園のお茶漬け海苔」でお茶漬けしながら、目を細くして「ぐふ、うんめー」というようなタイプの人間は死に臨んでも「美食を食べ残した」というような後悔をすることがない、ということだね?

うーん、ちょっと違うような気もするけど・・・そうなのかも。


5月15日

週末は両親と兄と四人で、山形旅行。

山形県鶴岡は内田家のルーツのひとつである。

幕末に武蔵嵐山の郷士内田柳松(りゅうまつ)は江戸の治安部隊である「新徴組」に応募して動乱のときに佐幕の志士として活動した。この人が私の高祖父である。

新徴組は(新撰組が会津藩お預かりであったように)譜代の庄内藩酒井家お預かりであったため、江戸退去に際して、柳松さんは庄内藩の江戸詰め藩士とともに鶴岡に下り、そこで戊辰戦争を戦った。

柳松さんの跡目をついだのが内田維孝(いこう)。この人が私の曾祖父。事績については知られていない。

そのあとが重松(しげまつ)。この方が私の祖父である。戦前になくなったので、私はもちろん顔を知らない。鶴岡に育ち、師範を出て教師になったが、その性いささか狷介にして、繰り返しつとめをしくじって、生涯不遇のまま鶴岡、酒田、鼠ヶ関、さらには帯広、旭川を教員として転々として仙台に没した。

私の父は酒田で生まれ、鶴岡で六歳まで過ごし、そのあと北海道に渡ったのである。

今回の鶴岡ツアーは、この重松さんが大正八年に建てた「内田家累代之墓」に詣でて、高祖父以来のご先祖さまおよび亡き伯父上たち(顕士、秀雄、博郎)の霊を弔い、あわせて父親が「子ども時代をすごした場所」を探訪するためのものである。

どうも年を取ると「ルーツ」にこだわりを感じるようになる。

十代のころは「おいらはおいらだい。ご先祖さまなんてしらねーよ」で気楽に通してきたが、30を過ぎたころに、ふと「生まれた街」を見たくなった。

ふらりと訪れた自分の生まれた家を眺め、遊び暮らした路地の狭さに驚いた。

齢知命に達するに及んで、「父母の生まれた街」が見たくなってきた。論理的に考えると、そのうち「祖父母が生まれた街」が見たくなるはずである。

これはいったいいかなる意識のなせるわざなのであろう。

たぶん「何かを継承している流れの中に位置づけられたい」という欲望が私たちのうちにはあるのだろう。

自分が生まれてきたのは、何かを受け継ぎ、次代に伝えるためである。私たちは漠然とそんなふうに考えている。

私はなんとなくある種の「エートス」のようなものを受け継ぎ伝えることが自分の「ミッション」ではないか、というふうに思うのであるが、その「エートス」とは何か、とあらためて問われると、よく分からない。

たぶんそれが知りたくなって「内田家累代之墓」を眺めに行ったのであろう。

内田家の墓を眺め、祖父が不遇をかこった鼠ヶ関の海を眺めて感じたのは、「負けっぷりのよい一族」の自分が末裔である、ということであった。

山形は空気がきれいで、海がきれいで、食べ物の美味しい土地であった。

またゆきたい。


5月11日

小林昌廣先生と田川とも子先生に院生たちをまじえて「新学期顔合わせ」宴会。 

さすがに関西にきて11年になるので、ふだんずいぶんゆっくりしゃべるようになったけれど、小林先生としゃべっていると、私の中の抑圧されていた「早口でしゃべりまくりたい欲動」が活性化してきて、アルコールがはいると、「ぷつん」と切れてしまう。

「早口」というのは、一定の速度を超えると、「頭脳の回転」より「舌の回転」の方が速くなる。

つまり、その場合、「自分がしゃべっているのを聞きながら、自分が何を考えているかを知る」という倒錯的事態が発生するわけである。

むろん、誰かれかまわずそのようなことが起こるわけではない。

小林先生のように、ご自身もまた「舌の回転」が「脳」をオーヴァーランしちゃっているようなタイプの「超高速アーティキュレーション」に触れてはじめてこの現象は起こるのである。

これは一種の快感をもたらす。

というのは、そのときに、思考と思考が言語を媒介として交通するのではなく、言語と言語がじかに「びしっ」と言う感じで触れ合うからである。

言葉に言葉が感応する。舌が勝手につぎのフレーズを引きずり出してくる。

「売り言葉に買い言葉」の自動書記状態である。

これって、ちょっとジャズにおけるインプロヴィゼーションに近い。ミュージシャンは決して頭の中に描いた音符を演奏しているわけではない。身体が「もう」音を出しているのである。

そのときの話題は「身体はものを考える」ということ(これは前日の橋本治ネタのつづき)と、その逆に「極限にまで純化された身体表現は脳を剥き出しにする」というダンスの話。

そこで、身体は物質的というよりむしろ脳的であり、知性は脳的というよりむしろ身体的であるという話になる。

しかし、「舌が脳化」したふたりの恐怖の早口男の知的高揚も、田川先生のピアッシングのお話の「痛み」の前にもろもろと崩れてしまったのであった。

脳には痛覚がないから、「痛さ」勝負では勝ち目がありません。


5月10日

橋本治『「わからない」という方法』(集英社、2001)を読む。

私は『桃尻娘』以来の忠実な読者として久しく先生の叡智を称える顕彰事業に携わってきたが、先生のご明察、近年ますます冴え渡り、まさに天馬空を行くの境にある。ご高著一頁繙くごとにわが俗眼からは鱗が落剥し、我が家の床は剥離した鱗によってほとんど七色に輝いている。

最新刊をパジャマすがたでウイスキーを喫しつつ拝読する。まず「まえがき」にびっくり。

長いけれどそのまま引用する。

本書のタイトルは、『「わからない」という方法』である。

しかし、「わからない」などということが、果たして「方法」となりうるのだろうか? 人は普通、「わからないから方法を探す」のであって、「わからない」ということを「方法」にはしない。だいたい、そんなものが「方法」になるはずはない。ところがしかし、人に「あなたの方法論は?」と問われて、それに答える自分を撮り返ると、私はいつも、「だってわからないから」と言っているのである。(・・・)

「なぜそんなにもいろんなことに手を出すのか?」ということになれば、その理由はいたって簡単である。「わからないから」 である。「わからないからやってみよう」とか、「こんなにも〃わからない〃と思ってしまった以上、自分のテーマにするしかないな」などと思う。(・・・) それで「書く」と決めた場合の私の答は、だいたいがところ、「じや、わかんないから書いてみます」になっているのである。   

気がついたら私の場合、「わからないからやってみる」と、「わからない」を「方法」にしてしまっているのである。

「わからないこと」を書けるわけがない。そんなことをしても、文章がまとまらない。しかしある部分では、「わかる」というような気がする。「わかるような気がする」という断片がいくつもフワフワと漂っていて、それが一つにまとまらない。なぜまとまらないのかと言えば、全体像が「わからない」からである。「わからない全体像」は、まとめようがない。「わからないんだからわからない」である。

しかし、この「わからない」の全体像をまとめる方法が一つだけある。それは、「自分はどのようにわからないのだろうか?」と考えることである。

(・・・)「わからない」を生み出すのは、「自分の頭」なのである。さまざまな「わからない」はあったとしても、その「わからない」は全部、「自分の頭」という一つのものに由来しているのである。そう思った時、″方向″は一つになりうる。つまり、「自分はどうわからないのか?」を考えてしまえば、さまざまの「わからない」が、全部「自分の頭」という一つのところに収まってしまうからである。

「自分はどうわからないのか?」−これを自分の頭に問うことだけが、さまざまの「わからない」でできあがっている迷路を歩くための羅針盤である。「自分はどうわからないのか?」−それこそが、「わかる」に至るための”方向〃である。その”方向〃に進むことだけが、「わからない」の迷路を切り抜ける「方法」である。「自分はどうわからないのか?」−これを自分の頭に問うとき、はじめて「わからない」は「方法」となるのである。

これに付け加えるべきどのような言葉があるだろうか。

哲学的反省とは、「私は知っている」ではなく、「私は知らない」から始まる。平たく言えば、「おのれのバカさの構造」の分析から始まる。これは私の年来の主張である。

すべからく哲学を志すものは、自分の思考がどれほど多くの臆断と偏見によって領されているかを列挙する「バカ自慢」からその省察を開始すべきであると私は考えているが、これまでこの思想に同調してくれる人はあまりいなかった。

しかし、ここに橋本先生の力強いご同意を得たわけである。

橋本先生の「ものを知らないこと」こそ叡智への本道である、とする思想はさらに後段に至って、「ものを考えるのは脳ではなく、身体である」という過激な主張へと展開してゆく。

先生は「僕の身体は頭がいい」と言う。

「バカかもしれない」とか「へん」とかいうものが、いつも私につきまとい続けるということだが、私は自分の身体に100%の好都合を感じているので、べつに「バカ」でも「へん」でもかまわないのである。(・・・)

身体とは知性するものである。脳は「わからない」という不快を排除するが、身体という鈍感な知性の基盤は、「わかんないもんはわかんないでしょうがないじゃん」と、平気でこれを許容してしまう。であればこそ、身体は知性を可能にするのである。(・・・)

「わからない」は身体に宿る。これを宿らせたままだと、「無能」とか「不器用」としか言われない。それはサナギの状態だから仕方がない。脳の役割があるのだとしたら、そのサナギになってしまった身体を羽化させることだけである。

サナギを羽化させるために脳がするべきことを私は一つだけ知っている。「自分の無能を認めて許せよ」-ただこればかりである。

私はみずからの実感として橋本先生の「身体が知性する」ということを信じる。

私が「知的に」耐え難いものはすべて、その没論理性や不合理性を私の脳が感知するよりさきに、身体が拒絶してきた。

ロジカルには筋が通っている(らしい)話や、自分の手持ちの知識ではどうにも反論できない話を聴いているうち、「鳥肌が立つ」とか、「じんましんが出る」とか、「げろを吐きそうになる」ということが私の場合にはこどものころからしょっちゅうあった。

そういうとき、私は自分の脳よりも身体を信じて、その場から遁走するのがつねであった。

そのスタンスはいまにいたるまで変わらない。

この「身体的知性」は自覚的に開発させてゆくと、どんどん強化することができる。

高橋源一郎は、どのような本も最初の一頁を読むだけで、それが読むに値する本であるかどうかを判定できる、といばっていたが、橋本治先生が「その本の題名を誰かが口にするのを聞いただけで、その本が読むに値するか否かを判定できる」と豪語していると伝え聞き、「負けた」と思った、と述懐している。

私は橋本先生ならそういうこともあるだろうと思う。

そのような高度なわざはそのための身体感覚を選択的に磨き上げてきた人にしかできない。けれど、意識的に鍛錬すれば、決してそれほどにはむずかしいことではないようにも思う。

たとえば、「むずかしい思想」というものがある。

その「むずかしさ」には、「私にゃかんけーないから、どうでもいいや」という類のむずかしさと、「私の今後の人生になんだか深い関係がありそうなので、早急になんとかお近づきになりたい」むずかしさの二種類がある。

この見極めができる人とできない人がいる。

これは純粋に身体的な知性のはたらきである。

できない人は、その人の身体が拒否している勉強を一生懸命やって、身体を壊したり、精神を病んだりする。(「むずかしいもの」のうちにはときどき強烈に毒性の強いものが含まれているから)

できる人は、「自分の役に立つむずかしさ」だけに選択的に取り組めるので、愉快な気分でバカからの脱出路を発見することができる。

しかし、そういう身体の知性の使い方について教えてくれる人はすくない。

橋本先生の洞見のうちもう一つ印象深かったのは、「記憶は身体に宿る」という考え方である。

記憶というのは身体に宿って、有能な身体は、その記憶を必要に応じて取り出す。ただそれだけのことなのだ。私は、自分自身の経験に従って、そのように判断する。(・・・)

身体もしゃべる。身体も考える。ただしかし、それを可能にするには、かなり時間がかかる。ただそれだけのことである。

私は長い時間をかけて、けっこういろんな「能力」を我が身に宿らせているのである。問題は、その能力の多くが「当座は何の役にも立たないもの」でしかないことである。役に立たないから、平気で眠らせている-つまりは「忘れている」。しかし、「忘れている」ということは、「どっかにある」ということである。どっかにあって、それを内蔵している私の身体は、「俺を使ってくれよ!」と騒ぎ立てるのである。そういう身体を持っているから、なんとかなるときにはなんとかなってしまうのである。(・・・)

私にとって「生きる」ということは、自分の中に眠らせている「能力にも値しない能力」を「能力」として復活させてやることでしかないのかもしれない。しかし、それがなかったら、生きていてもきっとおもしろくはなかろうと思うのである。

私ウチダもまたさまざまな「能力」とよぶには値しないような「能力」や、「情報」とよぶには値しないような「情報」を無意識のうちに身体に山のようにためこんできた。

しかし、それは私の身体が「いつか使ってやろう」と思って選択的にとりこんだリソースである。それが「使って!」と言い立てるような「状況」を作ってやれば、それらのリソースは骨の髄まで有効利用できる。

だから、問題は、どのように「自分の身体が知りたがっていること」を知り、「自分の身体が表現したがっていること」をしゃべらせてやるか、ということになる。

たとえば、私たちの身には「あ、今日、強烈にトンカツがたべたい」というようなことが起こる。「腹がトンカツ型にへこんで」しまって、そこにはもうトンカツ以外のものが入り込むことができないようなしかたで空腹が形成されることがある。

これを知的水準で展開すればよいのである。

「ああ、なんだか無性にハイデガーが読みたい」とか、「いまもーれつに永井荷風な気分」とかいうことが私の場合、間欠的に訪れる。このばあいのハイデガーは身体知にとっての「トンカツ」と同じである。

こういうときには「ぱくぱく」食べるとどんどんこなれて栄養になる。

読みたくもないものや知りたくもないことを勉強するのは、ブロイラーに給餌しているのとおんなじである。ブロイラーは自分のために食べているのではなく、誰かに「食べられるために」食べているのである。

お、なんとなく哲学的なおちがついたので、おあとのしたくがよろしいようで。


5月8日

父から手紙がくる。

私はこの明治生まれのオールドリベラリストの父親にあらゆる意味で頭が上がらない。

頭が上がらないので、私は十代終わりに父のもとから逃走して、それ以来盆と正月くらいにご尊顔を拝し、ご高説を拝聴しては、「ま、父上さま、ご一献」などとはいつくばってご機嫌を伺う、という前近代的父子関係に終始している。

その父からの封書である。うやうやしく一揖して拝読。中身は『ためらいの倫理学』のご講評である。

明治の父親というものは50歳の息子に対して、このような手紙を書くのである、という生きた見本のようなお言葉であったので、ここに謹んで再録する。

「(・・・)『ためらいの倫理学』、手に入れてすぐにざっと一通り読んだところでは、哲学的な思考径路になかなかついて行けず、なんと難しい表現をするんだろうナ?というような感想をもちました。九十歳の老人の頭の回路は相当錆びついているからね。

興味深く読んだのは戦争論と異邦人についての論考。これは面白く読んだ。

いま二回目に精読しているところです。

もうじき終わりますが、今回は論旨はよくわかる。なかなか正論を吐いているナという実感があります。感心しています。

おやじとおふくろが息子の著作に真面目に取り組んでいるなどというのは近来珍しい佳話ではないですかね。

益々の精進を祈ります。」

ありがたいお言葉である。今回の本はいろいろな人から批評の言葉を頂いたが、父からのこの感想がいちばんうれしかった。

明治生まれの父は「縄文時代」と地続きのような北海道で少年期を送り、満州に出奔し、北京で敗戦を迎え、戦後の混乱期に組合運動にかかわり、会社経営者として高度経済成長期を生き、退職後は日中友好の草の根運動に献身的にかかわってきた、恐ろしく「タフ」な男である。ロシア革命も大恐慌も満州事変も焼跡闇市も血のメーデーも列島改造も石油ショックもぜんぶリアルタイムで経験してきたこの世代の男たちは、あまりに多くの「幻想」の瓦解に立ち会ってきたせいで、骨の髄までリアリストである。

その父に「なかなか正論」と評されるということは、私の思考も、それなりの風雪を経て父の懐疑的な読みに耐えられる水準に達したということである。(まあ、「身びいき」ということもあるから、多少は割り引いても)

増田さんや内浦さんや葉柳さんのような若くスマートな知性に支持されることもうれしいけれど、九十になる父親に「正論」と認知されたことが、私にはとてもうれしかった。

親には長生きしてもらうものである。

ほんとに。


5月6日

小泉首相の改憲発言と憲法記念日が重なって、改憲論議が盛んである。

今日の「サンデープロジェクト」でも、九条の改訂が議論されていた。

考えてみたら、憲法問題について私はまだこのサイトに一度も意見らしいことを書いたことがない。

この機会に私の立場を明らかにしておこう。

私は九条の改訂には反対である。

ただし、私の憲法観はいわゆる「護憲」派のそれとはだいぶ違う。自衛隊についての考え方も違う。それについて書きたい。

まず最初の確認。

法律は、「よいことをさせる」ためではなく、「悪いことをさせない」ために制定されている。私はそう考えている。

経験的に言って、人間はプラスのインセンティヴがあったからといって必ずしも「よいこと」をするわけではないが、ペナルティがなければほとんど必ず「悪いこと」をする。

これは自信をもって断言できる。

憲法九条は「戦争をさせないため」に制定されている。

なぜなら「人間はほうっておけば必ず戦争をする」からである。

これが憲法論議の大前提である。

これは護憲、改憲を問わず、どなたにも了解していただける前提だと思う。

とすると、論理的には「では、どうやったら人間に戦争をさせないようにできるか」という問いが次に来る。

「戦力を持たない」というのがいちばん簡単だが、日本はもう戦力を持っている。

だとしたら「戦力をできるだけ使わない」ためにどうするかというふうに考えるのが現実的である。

しかるに、改憲論者たち(例えば今日のTVでしゃべっていた山崎拓と扇千景)は九条の第二項「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」を廃して、「日本は陸海空軍を有し、自衛のため、国連安保理事会の議決に従って、武力を行使することができる」というふうに変えたいという。

この改訂の意図はどう考えても「戦争をしたい」という他に解釈のしようがない。

というのは、九条をそのように改訂するということは「戦争をしてもよい条件」を実定的に定める、ということである。どれほど合理的で厳密な規定であろうとも、「戦争をするためにクリアーすべき条件」を定めた法律は「戦争をしないための法律」ではなく、「戦争をするための法律」である。

例えば刑法199 条は「殺人罪」を「人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ三年以上ノ懲役ニ処ス」と規定しているが、「人を殺してもよい条件」は規定していない。

改憲論者のロジックは、「自衛ノタメ又ハ公共ノ福祉ニ適スル場合ヲ除キ」という限定条件を刑法199条に書き加えろといっているのと同じである。

「どういう場合なら殺人をしても罰せられないかをあらかじめ規定しておきましょうよ。だってときには人を殺さなければならない場合だってあるでしょう。除外規定を決めておけば、すっきりした気分で人が殺せるじゃないですか。」そうこの人たちは主張しているのである。

ときには人を殺さなければならない場合があることは事実である。

しかし、そのことと「人を殺してもよい条件を確定する」ことのあいだには論理的なつながりはない。

殺人について私たちが知っているのは、「人を殺さなければならない場合がある」という事実と「人を殺してはならない」という禁令が「同時に」存在しているということ。そのふたつの要請のあいだに「引き裂かれてあること」が人間の常態だ、ということである。

矛盾した二つの要請のあいだでふらふらしているのは気分が悪いから、どちらかに片づけてすっきりしたい、と彼らは言う。

それは「子ども」の主張である。

「普通の国家」か「非武装中立」かの二者択一、というのは、「子どもの論理」である。

ちゃんとした「大人」はそういうことを言わない。

もう一度繰り返すが、「人を殺さなければならない場合」がある、ということと「人を殺してもよい条件を確定すること」のあいだには、何の論理的なつながりもない。

なぜなら「人を殺してもよい条件を確定」した瞬間に、「人を殺してはならない」という禁戒は無効化されてしまうからだ。

「人を殺してもよい条件」を確定してしまったら、そのあとは、「人を殺したい」という要請と、「そのためにクリアーすべき条件」を「合理的に」整合させることだけに人間は頭を使うようになるだろう。

人間がそういう度し難い生き物である、ということを忘れてはならない。

憲法第九条の趣旨は「人間に戦争をさせない」ということである。

それに対して、九条改訂論者は「戦争は必要ならばしてもよい」ということを主張している。

その論拠は「現に戦争が行われており、自衛の必要がある」からである。

しかし、それは彼らが信じているほど「現実的な」推論なのだろうか。

彼らは九条を「空論」だという。

「もしどこかの国が侵略してきたらどうするのだ」と彼らは脅かす。

だが、よく考えると、これは、刑法が「空論」だと言っているのと同じである。

なぜなら、刑法199 条があるにもかかわらず、毎日のように日本では殺人事件が起きているからである。

改憲論者が憲法九条は「空論」だから戦力の行使を認めろと主張するのは、刑法199 条は「空論」だから、市民は銃器で武装すべきだというふうに主張するのと同じである。

しかし、彼らもそんな愚かな主張はしないだろう。

改憲論者だって、武装することによって新たに生じる危難の方がいま起きている危難より多い、ということを予測できるからである。

刑法199 条が「空論」でないのと同じように、憲法九条は「空論」ではない。

私はそう考える。

なぜなら、現に日本は自衛隊という「武装」を有して、「外敵の侵略」に対する備えをすでになしており、かつ、その「武装」はどういう条件で行使されるべきかについての「社会的合意がすでに存在する」からである。

いまさら憲法九条を改訂するまでもなく、その「条件」は刑法37条にはっきりと規定されている。

「自己又ハ他人ノ生命、身体、自由若クハ財産ニ対スル現在ノ危難ヲ避クル為已ムコトヲ得サルニ出タル行為ハ其行為ヨリ生シタル害、其避ケントシタル害ノ程度ヲ超エサル場合ニ限リ之ヲ罰セス」

日本国民のおそらく全員が「緊急避難」についてのこの考え方を承認するだろう。

その場合、この条文において、「正当防衛・緊急避難の行為より生じたる害」が「回避しようとした害」よりを超えた場合には、それは罰せられると明記していることを忘れて欲しくない。

それは上で書いた銃器規制についてのロジックと同じである。

「銃の所持によって生じる害」が、「銃の所持によって回避される害」より大きければ、それは禁止されるべきである。

簡単な算術だ。

それと同じ算術によって、私は(おおかたの日本国民と同じく)「戦力の行使によって回避される害」が「戦力の行使によって生じる害」より大きければ、戦力は行使すべきであり、「戦力の行使によって生じる害」が「戦力の行使によって回避される害」より大きな場合、戦力は行使すべきではないと考えている。

自衛に関する議論は、これで尽きると思う。国連の決議とか安保条約とかいうようなことは、すべてこの原則「から」派生するものであって、それに先立つものではない。

自衛隊は「緊急避難」のための「戦力」である。この原則は現在おおかたの国民によって不文律として承認されており、それで十分であると私は考える。

自衛のためであれ、暴力はできるだけ発動したくない、発動した場合でもできるだけ限定的なものにとどめたい。

これを「矛盾している」とか「正統性が認められていない」と文句をいう人は刑法の本義だけでなく、おそらく「武」というものの本質を知らない人である。

「武は不祥の器也」。これは老子の言葉である。

武力は、「それは汚れたものであるから、決して使ってはいけない」という封印とともにある。それが武の本来的なあり方である。「封印されてある」ことのうちに「武」の本質は存するのである。

「大義名分つきで堂々と使える武力」などというものは老子の定義に照らせば「武力」ではない。ただの「暴力」である。

私は改憲論者より老子の方が知性において勝っていると考えている。それゆえ、その教えに従って、「正統性が認められていない」ことこそが自衛隊の正統性を担保するだろう、と考えるのである。

自衛隊は「戦争ができない軍隊」である。この「戦争をしないはずの軍隊」が莫大な国家予算を費やして近代的な軍事力を備えることに国民があまり反対しないのは、憲法九条の「重し」が利いているからである。憲法九条の「封印」が自衛隊に「武の正統性」を保証しているからである。

自衛隊は憲法制定とほぼ同時に、憲法とおなじくGHQの強い指導のもとに発足した。つまり、この二つの制度は「兄弟」なのである。それは、この二つの制度が同じ一つの政治単位(端的に言えばマッカーサー元帥の頭脳)から生まれたということを考えれば当たり前すぎることである。

憲法九条と自衛隊が「矛盾した存在である」のは、「矛盾していること」こそがそのそものはじめから両者に託された政治的機能だからである。

平和憲法と軍隊を「同時に」日本に与えることによって、日本に国際政治的な固有の機能を果たさせることをアメリカは求めた。

憲法の制定が1946年、警察予備隊の発足が1950年。憲法に4年の時間的アドバンテージがあるために現在の論争の構造が定着しているが、もしこの順番が逆だったら、かえって憲法九条の意味ははっきりしたはずである。

憲法九条を無効化するために自衛隊が作られたというよりは、自衛隊を規制するために憲法九条が効果的に機能しているという構図が見えるはずである。

憲法九条と自衛隊は相互に排除し合っているのではなく、いわば相補的に支え合っている。

「憲法九条と自衛隊」この「双子的制度」は、アメリカのイニシアティヴのもとに日本社会が狡知をこらして作り上げた「歴史上もっとも巧妙な政治的妥協」の一つである。

憲法九条のリアリティは自衛隊に支えられており、自衛隊の正統性は憲法九条という「保証人」によって担保されている。憲法九条と自衛隊が「リアル」に拮抗している限り、日本は世界でも例外的に「安全な」国でいられると私は信じている。

おそらく、おおかたの日本国民は私と同じような考え方をしていると私は思う。だからこそ、これまで人々は憲法九条の改訂を拒み、自衛隊の存在を受け容れてきたのである。


5月5日

北朝鮮の金正日総書記の長男「金正男らしき人物」が偽造パスポートで日本に入国しようとして拘束され、中国に退去させられるという事件があった。

新聞報道はおもにこの不可解な事件の対応に苦慮する日本政府サイドの動きに焦点をあてていたが、みながあえて口にしないこの事件の「ショック」な部分はもちろん、「北朝鮮の次期国家元首がドミニカの偽造パスポートで子連れでディズニーランドに来た」という行動の奇矯さと、29歳という年齢が信じられないその「若さのない」風貌にある。

しかし、よく考えると、この不可思議な行動や、奇異な風貌も別に怪しむほどのことではないのかもしれない。

私は北朝鮮という国が嫌いである。

ただし、私が北朝鮮を嫌いな理由はわが国のナショナリストたちが北朝鮮を嫌うのとは理由が違う。

私が政治体制を評価する基準は一つしかない。

それは「私のような人間が基本的人権を保証されて生きていけるかどうか」だけである。

私は北朝鮮で生まれたらおそらくずいぶん前に強制収容所で死んでいるだろう。

けれども、わがナショナリストたちは違う。

彼らはどちらかといえば北朝鮮に生まれたら「主体思想」の信奉者となり、金日成の巨像の前にひれふして感涙にむせび、私のような懐疑的な人間を収容所に送り込んで「害虫を駆除した」気分になれるタイプの人々である。

もし、いま藤岡信勝が北朝鮮の「平壌大学」の教授であったとしたら、彼がどれほど猛々しく日本の「新しい歴史教科書を作る会」を罵倒したか、想像することは少しもむずかしいことではない。

いま日本で「北朝鮮て嫌い」と思っている人間には二種類ある。

一方は「もし北朝鮮に生まれていたら『金正日総書記万歳!』と呼号しただろう人たち」であり、一方は「北朝鮮に生まれていたら強制収容所に送られていただろう人たち」である。

この二種はまるで異質な人間たちであり、これを「北朝鮮を嫌う排外主義的日本人」というふうに一括りにして考えていただいては困る。

どこの国にも「わけもなく自分の国が大好きで、外国が嫌い」な人間は山のようにいる。私は「そういう人間は国籍がどこであれ、同じタイプの人間であり、私はそういう人間が嫌いだ」と言っているのである。

というわけであるから、メディアが「アジアの政治状況の安定のためには金正日のご機嫌をそこねないほうがわが国の国益にかなう」というようなしたり顔の社説を掲げるのを読んで鬱々として楽しまないのである。

そこにもってきて、今回の騒動で「次期皇帝」のご尊顔を拝するに及んで、私の憂いは深まった。

彼の行動や、顔付き、物腰から、私たちは彼に施されたはずの30年間にわたる「帝王学」が彼をどのような人間にしたのか、近似的に想像することができる。

率直に言って、あれは「へつらう人間たち」に囲まれて生きてきた人間の顔である。

おそらく彼の養育係のうちには彼に人間関係の信義や、適切なコミュニケーションのルールについて教えた人間はいなかったのであろう。

だが、彼の不可解な行動と、犯罪者として拘引されながら、「威風あたりを払う」(つもりでいる)様子から察して、彼がある種の「政治的センス」を磨き上げてきたことは認めなければならない。

それは「どうすれば他人を不安にすることができるか」についての経験則である。

なによりもまず「自分が何ものであるかを明らかにしないこと」と「その行動に一貫したロジックが見られないこと」である。

これはまさに独裁者の資質というにふさわしい。

私はまえにこう書いたことがある。

「独裁的な権力者は、理不尽な暴政を行うほど呪術的な威信を帯びる。殷の紂王からスターリンに至るまで、独裁者はその理不尽さゆえに畏怖され、憎まれる。もっとも独裁的な権力者とは、定義上、その没落を彼以外の全員が切望するような権力者のことである。」(『現代思想のパフォーマンス』)

独裁者の権威は、その「理不尽」さ、つまり「彼が次に何をするか分からない」ことを淵源とする。

諫言をする忠臣が処刑されるかと思うと、溺愛されていたはずの寵臣がその翌日処刑される。次は誰が殺されるのか、その判断基準が「分からない」ということが「恐怖政治」の重要な本質をなしている。

判断が論理的であるために、その行動が容易に予測できるような人間は決して独裁者になることができない。なぜなら、彼は誰にも恐怖や不安を与えないからである。

「金正男らしき人物」は拘引後の限界状況において、「帝王学」でおさめたその政治的ツールを使用してみせた。(それはおそらく彼の「宮廷」では非常に効果的に機能していたのであろう。)

今回の行動で、彼はむしろ北朝鮮金王朝の玉座を継ぐ資格が十分にあることを内外にアピールできたのかもしれない。

「何を考えているか、何をするのか分からない人間」が、東アジア政治情勢の「鍵」を握っているという「恣意性の恐怖」こそ、金正日が手持ちの政治的リソースを国際政治で最大限効果的に発揮するために見出した奇策だからである。


5月2日

大津で全国杖道大会。各地の道友のみなさんと久闊を叙し、また鬼木先生の活躍に部員一同大興奮。先生は残念ながら準優勝。部員たちも「メダル」には届かなかったけれど、次回を期したい。

いよいよ多田先生を迎えての十周年記念行事の日々が始まる。

緊張。


5月1日

朝日の夕刊に並んで二つインターネット関連記事が出ていた。

小田嶋隆によると「朝日のインターネット関連記事は読むに耐えない」ということであるが、それは昔の話。最近はそうでもないだろう。と思って読み出したが・・・

一つは「多元主義の文化を求めて」というシリーズ記事の第一回。

私は「朝日の多元主義」はなんだか信用できないので、関連記事はとりあえず眉に唾をつけて読んでいる。

それほどまでに信用できないなら講読を止めればよいのに、と思う方もおられるでしょうが、それは甘い。私は生まれたときからずっと「朝日」なので、その記事が「どれくらい信用できないか」を一読しただけで正確に算出できる。だから適正な「減算率」を乗すれば、いかなる「ハンパ記事」からも有用な情報が得られるのである。他の新聞ではこうはゆかない。

その「多元主義」関連記事は「欧州知識人に聞く」とあって、最初のインタビュイーは「ポール・ヴィリリオ」。

私は朝日の「多元主義」関連記事を「あまり」信用していない。加えて当今の「知識人」というのを「あまり」信用していない。「ポール・ヴィリリオ」については、読んだことがないからなにものか知らないけれど、例の「ソーカル本」では「バカ代表」に挙げられていた。これだけ不利な条件が揃うと、いささか不安である。

案の定、そこでは「インターネットの浸透は英語圏文化の世界支配」「サイバーネットの中での新たな植民地化の進行」といった脳天気な言葉がだらだらと繰り出されていた。

しかし、次のような文章を誰がまじめに読めるだろうか?

「思考がなくなった世界では、条件が課されると反応だけが起きる。電気は役に立っても原子力発電そのものが危険なようにインターネットは危ない。」

インターネット=思考の均質化=『1984』的悪夢というような観念連合こそ「思考がない人間の条件反射的反応」のごく通俗的なかたちだと私には思える。

「思考がなくなった世界」というのがどういうものか私には分からないが、「思考がなくなった世界で、私だけは思考している」というのは権利づけの非常に難しい哲学的難問である。そのようなラディカルな問いをみずからにつきつけている人間はあまり「通俗的なこと」は言わないはずだが・・・

「電気は役に立つが原子力発電が危険」というのも私にはよく分からない。

危険なのは原子力発電「そのもの」ではなく、原子力発電を運用する人間に十分な知性が欠如している、という人間の側の問題である。手持ちの知力で統制できるテクノロジーとそれでは統御できないテクノロジーを識別できない人間の頭の悪さが問題であって、「原子力発電そのもの」が危険なわけではない。

それにインターネットは原爆のように一度に何十万人を殺し、数百年にわたって生命を絶やすほどに地球を汚すわけではない。もしインターネットによってもたらされる思考の均質化が原爆と同程度に破壊的だという意味なのだとしても、どの点が「同程度に」破壊的なのかは教えてくれなくては困る。

思考の均質化が世界に害毒を流すことについては私はヴィリリオ氏と一点を除いてまったく同意見である。違うのは、私はヴィリリオ氏の思考こそ「均質化された思考」の一種の典型であって、とても有害なものだと思っているが、氏はたぶんそう思っていない、ということだけである。

この「欧州知識人」はさらにつぎのようなことを言う。

「超高速でものは運ばれ、サイバー世界の高速移動も地球を縮小し、取るに足らない存在と思わせ、ひとは閉じられた世界で生きるようになってしまう。海も水ならコップのなかも水だ。問題は自然な大きさで、それを忘れると閉所恐怖症に陥ってしまう。あらゆるものが加速され、短縮されて世界はあまりに小さくなり、わたしたちは窒息する囚人となってしまう。」

私には意味がよくわからない。きっと私の頭が悪いせいだとおもう。どうか誰か解説してほしい。どうしてインターネットのせいで「わたしたちは窒息する囚人になってしまう」のか。

もし、このロジックを受け容れるなら、およそ情報の速報性を可能にするすべての通信テクノロジーは世界を縮小し、ものごとの「自然な大きさ」を損なうことになる。

ならば、ヴィリリオは当然マルコーニにまで遡って通信テクノロジーを全否定するべきだろう。

おそらくヴィリリオ氏の家には電話もテレビもラジオもないのだろう。

そのようにして形成された自閉的な世界について「何がそれを打破するのでしょう」というインタビュアーの質問に彼はこう答えている。

「希望はバーチャルな世界だ。リアルが縮小した時に代替の場所となる。サイバー世界の拡張が、地理的世界の縮小を補うだろう。日本のオタクがそうでしょう。彼らは別の世界の空間に代替を求めている。バーチャルな世界はいまはまだ広告業者の宣伝程度にしか過ぎず、電子的なドラッグによる加速が幻覚を生み出すという意味で巨大なハリウッドとなってしまっている。」

「広告業者」?「電子的なドラッグ」?「巨大なハリウッド」?

いったいいつの時代のどこの国の話をしてるんだろう。

私にはよく分からない。

ヴィリリオは最後をこうしめくくる。

「やがて観念、思考、精神の世界となり、肉体を伴った世界とそれぞれが高音と低音を分け持つハイファイ的状態が出現する。わたしたちはそこで生きることになるのです。」

「ハイファイ」ですか・・・「真空管」と言わなかっただけましかもしれない。

この人の思考はその語彙とともに40年くらいまえのどこかで停止しているのかもしれない。よく分からないし、あまり分かりたくもない。

まあフランスは世界に冠たる「インターネット後進国」だから、(97年に行ったときに「インターネットとは何か?」という特集を『レクスプレス』がやってたから)これくらいの「とんちんかん」な問答があっても不思議はないのかもしれない。

どちらにしても、インターネットの功罪についてフランス知識人に意見を聞くのは、バナナ・プランテーションの経営法についてアイスランド知識人に意見を聞くようなものだと私は思う。

朝日新聞のやることはときどきすごくディープだ。

もうひとつの記事は「大学制度を揺さぶるネット」と題した東京女子大の黒崎政男教授のエッセイ。

こちらはヴィリリオとちがってたいへんまともな論考であった。

インターネットを利用する学生と利用できない大学教師のあいだで「メディア・リテラシー」格差が生じてきて、教師の知的優位性が脅かされている、という論旨である。

「従来、学者や教師など専門家の権威を形作ってきたのは〈情報の独占〉と〈情報のタイムラグ〉であったと言える。情報をより早く所有し、それを自分たちだけで囲い込むことで専門家の権威は発生してきた。(・・・)大学制度を成立させてきたのは、結局のところこのような〈情報の落差〉だったのである。」

まったくご指摘のとおりである。

「インターネット情報はそれとは正反対の〈開放性〉と〈同時性〉という特質を持っている。(・・・)ちょっとした努力で、必要な情報や資料は、関心ある者すべてにいわば平等に開かれている。」

だとすれば、明治以来の大学の知的威信を制度的に支え切ることはもう不可能だということである。

いまや大学人が知的威信として示しうるものは「情報をみきわめる判断力や、断片的知識の寄せ集めから統一的な意味を見出す洞察力」のほかにはない。

黒崎さんは「まっとうではあるが、歯切れの悪いこのような言説しか、今日の大学人には残されていないのかもしれない」としめくくっている。

私はこの論旨には全面的に賛成である。

ただこの言い分はすこしも「歯切れが悪い」ものだとは思わない。

喩えて言えば、いままでの大学人は食材と料理器具を全部「囲い込んで」おいて、料理学校を開いていた料理人のようなものである。

それが食材も料理器具もマーケットで簡単に手にはいるようになったというだけのことである。

同じ素材と同じ道具を使って生徒より料理が下手だったら、そんな料理人はたちまち失職して当然である。

そのような大学人が淘汰されることに私は何の異論もない。どんどん進行してほしいし、お手伝いできるなら、どんどんお手伝いさせていただくにやぶさかでない。

黒崎さんが「歯切れが悪」く感じるのは、そう言うと「角が立つ」から言わずにいるせいだろう。

木曜午後から金土と微熱の中で寝たり起きたりして過ごす。

日曜月曜は一年に一度の「京都旅行」の日程が入っている。まだ熱が残っていたが、とにかくでかける。途中の舞鶴道で熱が出てきて歯茎も痛みだしたが、もう構わずどんどん行く。

年に一度の京都旅行の先は美山町の小林家である。

小林節子夫人は私の別れた妻の田園調布双葉時代の旧友である。

私は前にも書いたが「離婚ごとき私事で」それまでの長いつきあいを「チャラ」にするほど人間関係を希薄なものと考えていないので、一度ご友誼を賜った方とはよほどのことがないかぎりずっと「おともだち」である。

結婚しているときに家族で京都に招かれて行って、たいそう楽しい数日間を過ごしたので、るんちゃんと二人で芦屋に移ってきてからも、近くなったのを幸いと毎年連休を利用して美山町を訪れる。

美味しい山菜を頂きつつ。節子夫人とは「子育て」の苦労についてかこちあい、ご主人の小林直人氏とは美酒を酌みつつ清談し、二人のお嬢様たちのご機嫌を伺うのである。

直人氏はその世界では高名な「知性派林業家」(別名「哲学する山林王」)であり、世界各国、各業種の人々がその草庵を訪れて、その知見を拝聴したり、単にお酒を飲みに来たりする。

昨日は元京大人文研所長の谷泰先生と奥様のアンナさんとご一緒になる。

牧畜文化研究の谷先生とはここで会うのは二度目。今回はアンナ夫人の「いちごのタルト」を頂きつつ、日本の入管制度への鋭い批判に一同聴き入る。

興味深かったのは、日本のキャリア女性外務官は外国人女性に対して「意地悪」だという経験的ご意見。

なんとなく、分かるような気がする。どうしてか、はうまく言えないけれど。