Another Crocodile in the night mist: from 1 Jan 2001
7月29日
スイスのバーゼルにいる吉国さんという方からメールがきた。
この方は東京都立日比谷高校の私の同期の人である。名前は存じ上げていたが、在学中に個人的に話したことはたぶんないと思う。
どうしてその方からメールが来たかというと、思いがけないことであった。
つい先日も書くたけれど、高校の同期に新井啓右(あらい・けいすけ)君というスーパー秀才がいた。いずれ日本を代表する国際的な政治学者になるものと期待されていたが、東大の助手だったときに論文執筆中に急死したのである。
吉国さんは某夜ネットサーフィンをしているうちに、ふと新井君のことを思い出し、「あの偉大な個性が世間に知られずに埋もれてしまっていいものだろうか」との義憤にかられ、どこかに彼の記録が残っていないかとYahoo! の検索エンジンで照会した結果、私のホームページにたどりついたのである。(私も検索エンジンで照会してみたのだが、新井啓右くんについてのインターネット上の情報は私の日記に3回登場するだけであった。それも「モアイ像のように頭がでかい」とか、ぜんぜん故人の業績と関係ないことしか書いてない。)
新井啓右くんや久保山裕司くんのような、著書や作品を残していない逸材の事績については知友が回想をつうじて語り継いでゆく他に集団的記憶にとどめてゆく手段がない。
私がホームページを始めようと思った最初の動機の一つは「すでに失われてしまったものについての集団的記憶装置」としてインターネットが使えないかということであった。(もう消去されて残っていないが、最初の日記に私はこのホームページ開設の目標のひとつに「いまはなきSFファンジン『コアセルヴェート』のネット上での覆刻」を掲げていた。)
時と共に記憶は薄れ、断片化してゆく。
私は新井君についてしだいに薄れゆく断片的な記憶をとどめている。メールをくださった吉国さんは私の知らない彼の相貌を記憶している。橋本昇二くんや塩谷安男くんや小口勝司くんや吉田城くんは、また別の記憶をたいせつに抱き続けているだろう。
人々がそうやって保持した記憶をそれぞれの仕方でネット上にデポジットしてゆけば、やがてそこに亡き新井君についての記憶の巨大なアーカイヴが形成される可能性がある。
伽藍が崩壊したあと、その破片を聖遺物として人々は家に持ち帰りる。その工程を逆にしてみるように、人一人が個人的記憶の中に退蔵していた断片化した記憶の破片をすこしずつ持ち寄ってネット上に積み上げてゆけば、失われた伽藍が再建できるのではないだろうか。
私はそんなことを漠然と考えている。
スイスの吉国さんは私のホームページを読むうちに不意に連合赤軍でリンチ死した山崎順との生前の会話の記憶が蘇ってきたと書き送ってきた。
山崎くんもまたあまりにもはやく失われた逸材の一人だ。そして、彼の名がいつも同一の政治史的文脈の中でしか回想されないことに哀しみを感じている友人たちは少なくない。
山崎くんや東大時代の友人だった金築寛くんの政治的な死を無駄なものにさせないためには、彼らが何を求め、何に抗い、何に殺されたのかということをいつまでも問い続け、それについて語り続けるという以外の方法を私は思いつかない。
それを私自身は死者への忠誠であり、「供養」だと思っている。
山形浩生はホームページが「ヴァーチャル墓場」になり、そこへのアクセスが「供養」になる可能性について書いている。(『新教養主義宣言』)
ホームページをつくっていた人間が死んだ場合(たとえば私が死んだ場合)、そのあとホームページはどうなるのか。誰かがそれを保存しようとした場合、どうなるのか。山形はこんなふうに予測している。
「消すに消せないページが増え、その一方でそれらのページは、それ自体は古びることもなく生前と同じ姿を永遠に保ち続けるものの、そこへのリンクは失われ、そこからのリンクもだんだん消え、やがて無縁仏ならぬ無縁ページと化す。われわれはたまにそれを悼むようにして訪れることになるであろう。/本人の死後も、公の場所で残り続け、個人の情報を発信し続けるホームページ。それはいわば墓のような存在である。(・・・)それは今の墓参りよりはるかにビビッドでリアルな、そして個人的でひめやかな体験となるだろう。(・・・)そこには死者と生者の感情がからみつき、独特の世界をつくりあげるだろう。」
私はこの予測はかなり正確にインターネットの未来を言い当てていると思う。「死者と生者の感情がからみつく」ような幽冥境界線上での対話。
死者が同時に隣人でもあるような生活。
そういうのも悪くないと私は思う。
そろそろ「お盆」だし。
7月28日
今日は大学のオープンキャンパスというのがあって、そこで私は「ミニ講義」というものをやることになっている。高校生のみなさんを前にして、「大学の授業というのは、こんな感じです」というのをご紹介するイベントである。
本当はゼミの連中を集めて、実際にわいわい議論しているところを見せるのが「実状」を知って頂く上ではいちばんいいのだろうけれど、うちの場合、ゼミとゼミコンパはあまり見分けがつかないという状態なので、いささか外聞がよろしくない。
仕方がないので、『映画身体論入門』という短い講義を一つやることにした。
リュミエールとメリエスから始めて、『ドラゴン怒りの鉄拳』と『悪魔のいけにえ』でしめるというものだが、4年ほど前に「公開講座」でいちどご披露した「芸」である。そのあと、ロング・ヴァージョンを「映画的身体論」という論文にまとめた。この論文は『映画は死んだ』に収録されている。
しかし考えてみたら、『ドラゴン』も『悪魔』もいまの高校生からしたら、「大昔の映画」という点では『列車の到着』や『月世界旅行』と変わらないのかもしれない。
「ブルース・リーって誰ですか?」
「トビー・フーパーって誰ですか?」
ううむ、その可能性を吟味し忘れていたよ。
高校生全員が静かに寝息を立てている前で、頭から湯気を立てながら、私が「ああ、ブルース・リーのこのしなるような身体の動き・・・素晴らしいですねえ。おおお、レザー・フェイスが出ましたよ。ゴチン。あああ、痛そうですねえ」と一人で感極まっているいるという悲惨な情景がいまから想像できる。(といっているうちにミニ講義も終わってしまった。ずいぶん大勢の人が来ていた。両親もたくさん来ていた。例年より集まりはよいらしい。みんな、さいごまで怒らずに聞いていた。やれやれ、よかった。)
鈴木先生からスラヴォイ・ジジェクの Everything you always wanted to know about Lacan but were afraid to ask Hitchcock. が送られてくる。原題は「ラカンにいつか聞こう聞こうと思っていたけれど、ついヒッチコックにききそびれてしまったいろいろなこと」。
仏語版の訳は『ヒッチコックによるラカン』という題で露崎俊和さん他の訳でトレヴィルという本屋さんから94年に出ている。(この本はほんとうに面白かった。)
英語版は仏語版とは内容がだいぶ違っているというので、私と鈴木先生(精神分析の専門家とバカ映画好きのコンビ)で違うヴァージョンをご披露しようという企画なのである。
私はいま仕事をどかどか抱えていて、破滅的に忙しく、この上翻訳をもう一つ引き受けるというのは自殺行為に等しいのであるが、鈴木先生との「共訳」という美味しいプロジェクトについふらふらと魔が差してしまったのである。許して下さい中根さん。
というわけで、前期最後のおつとめも終わった。
いよいよ明日から私の「アカデミック・ハイ」な夏休みが始まる。さあ、仕事だ仕事だ。
7月27日
鈴木晶先生の日記を読んでいたら、私が先日の日記で言及したクラスメートの故・佐々木陽太郎くんが鈴木先生のお知り合いでもあったということが分かった。
What a small world.
というより、鈴木先生も書かれているように、私と鈴木先生が長い間ずいぶん近くを歩いきていながら、ずっとそれに気づかず来たということなだろう。
癌で夭逝した佐々木くんのお葬式は池袋の近くの葬儀場であった。(私と鈴木先生は二人ともそれと知らずにそのささやかな葬儀に参列していたのである。)
私は久保山裕司君や伊藤茂敏君といっしょに葬列に加わった。
帰りに池袋でひさしぶりに会うLIII9Dの級友たちとご飯を食べた。
そのあとどうしたのか覚えていない。たしか麻雀好きの佐々木くんを偲んで、みんなで追悼麻雀をしないかと私が提案したのだが、同調者が四人得られず、そのまま流れ解散してしまったような気がする。
そのころは、みんなサラリーマンとして脂が乗っているころで、「いや、このあとも仕事が・・・」みたいな感じだった。いまなら、全員、そのまま昼酒を呷り、よしなき昔話をしながら、麻雀しただろう。知命を過ぎると、「わし、もー、どーでもえーけんね」的ななげやりな気分が横溢してきて、私としては、そういうほうが好きだ。
佐々木くんの遺稿はそのあと友人たちの努力で私家版の『パスカルとサド』という本にまとめられた。その本はいまでも研究室の書棚にある。
以前、同僚の浜下昌宏先生が私の書棚を見て、「おや、内田さん、佐々木君の本持ってますね」と驚かれたことがあった。浜下先生は大学院のころに佐々木君と交友があったそうだ。その異才と夭逝を浜下先生も深く悼んでいたのである。
どうして才能の豊かな人間は早く死んでしまうのだろう。
私が知る限りもっとも頭脳明晰な少年であった新井啓右君は27歳で東大法学部の助教授に昇任する直前に心不全で急逝した。「不整合世界の住人」佐々木"とんぺー"陽太郎君は39歳、大腸癌で。私が大学時代にいちばん深く影響を受けた詩人哲学者久保山裕司君は享年47歳、骨髄の癌だった。
佐々木君は著書を残したが、新井君と久保山君はまとまった書き物を残していない。
だから、彼らの豊かな稟質は友人たちによる回想を通じてしか語り継がれることがないのである。
今年も「法事」の季節が近づいた。
あと3週間ほどで「久保山裕司メモリアル・キャンプ」がある。夭逝した親友を偲んで、彼の愛した中禅寺湖畔でおじさんたちが「難民キャンプ」をするのである。久保山君の好きだったバーボン・ウィスキーを今年も持っていこう。
7月25日
小泉首相の「痛みを伴う構造改革」というのは、具体的には足腰の弱い業界から順番に失業者が送り出されてゆくということである。製造業はだいぶ前からリストラが始まっていたが、ゼネコン、金融、流通あたりからも続々と失業者が流れ出している。
もちろん大学もそのような世間の動きの圏外にあるわけではない。
大学のお得意さまは「お子さまたち」である。「お子さまたち」は構造改革なんかへのかっぱであろうが、「お子さまたち」の学費を捻出する「保護者のみなさま」はそうはいかない。親御さんが生計に窮するようになれば、教育費にまわす金はない。
受験料収入と授業料収入が減少すれば、大学としては支出を切りつめる他ない。
大学教員のリストラはいよいよ来年あたりから各地で本格化すると私は見ている。
すでに私立大学の3割が学科によって定員割れを起こしている。国公立大学では独立行政法人化を視野に、大学同士の統合の動きが始まっている。(筑波大学と図書館情報大学につづいて、神戸大学と神戸商船大学が統合されることになった。)
そのような大学構造改革の徴候として、専任の大学教員の「転職」がここ二三年、にわかに激しくなっている。「やばそう」な大学からのがれて、経営基盤のより確かな大学に移ろうとし始めているのである。
伝え聞くところでは、ずいぶんと偉い先生がた(その大学の教育研究と行政のおそらくは中核的な存在であろうお方たち)までが続々とよその大学の公募にアプライし始めている。
船で言えば、「一等航海士」とか「機関長」という格の方々が乗員乗客を置いて「救命ボート」に乗り込もうとしているのである。こういう人たちが抜けたらその大学はどうなってしまうのだろうと心配であるが、おそらく、立場上、そのような先生たちのほうが、自分の大学の先行きについて情報を十分に持っていて、「逃げ支度」において一般教員よりもアドヴァンテージがあるのであろう。切ない話である。
仮に、小泉構造改革が成功して経済が回復し、数年後に親御さんの懐がふたたび暖かくなっても、18歳人口が増えるわけではない。大学の構造的な危機はまだ続く。ただし、10年もすれば、淘汰される大学は淘汰されしまって、大学の数が減っているので、需給関係がふたたび安定するものと予想されている。だから、とりあえず2011年までサバイバルすることが大学の急務なのである。
いまの大学のあり方は、10年前の「予備校・冬の時代」とよく似ている。
当時、浪人生の激減に伴って、中小の予備校は次々と廃校の憂き目に遭い、生き残ったところは「御三家」(駿台、代ゼミ、河合塾)に系列化された。
同じようなことが私立大学についても起こる可能性があると私は見ている。
経営基盤の弱い大学が「居抜き」で買われて、「慶応大学・大阪分校」とか「日大芸術学部・神戸校舎」とかに看板を付け替えるのである。
もとからいた教員はどうなるのかよく分からないが、あるいは駐車場係とか掃除夫とかで雇用確保されるのかもしれない。
本学はとりあえず単年度黒字で回っているし、特徴のある教育内容で知られているから、いきなり再編の波に呑み込まれることはないだろうとみんな思っている。でも私は近年中に(はやければ来年早々に)「あっと驚くような激震」に遭遇することは間違いないと予測している。
私はとりあえず「リストラされた場合」に備えての手を打ち始めている。
いま本学で「リストラされた場合」に備えて、「次の仕事」の準備をしているの教員が何人いるであろうか。
私一人ということはないだろう。
私としては「大学の生き残り」の仕事は、そのような同僚たちと協力してやりたいと思う。
というのは、このような時局において最終的に情勢判断を誤らず、適切な行動がとれるのは、「大学がつぶれたら行き場がなくなる人間」ではなく、「大学がつぶれても何とか喰っていける人間」だからである。(失うものが大きい人間ほど客観的状況判断と主観的願望を取り違える。)
危機的状況にある組織をつぶさないために必要なのは、「組織がつぶれてもあまり困らない」人間たちであって、「組織がつぶれたら困る」人間たちではないのである。皮肉な話だけど。
7月24日
7月24日というのは、何か大事な日であるような気がしていたが、それは単に1時半から委員会があるというようなことではなく、うちの娘の誕生日なのだった。
るんちゃんも19歳である。
ハッピーバースデイ。
娘の誕生日を私がいっしょに過ごさないというのは、これがはじめてのことである。
「お洋服代カンパして頂きたいなーと思っております。おねがいー」という手紙が来たので、月々のお小遣いに添えてお洋服代をお送りする。その額を聞くと、勤労学生諸君の中には怒りで眼圧が上がる人がいるかも知れないので、教えない。
私の子育ての方針はたいへんに分かりやすい。
「金は出すが、口は出さない」というのがそれである。
学校のテストなども、すべて金で解決。
つまり100点一科目で2000円、90点で1000円、80点で500円・・・というふうに価格表があって、9科目満点であると18000円の臨時小遣いが入るということになっている。
塾や家庭教師に払うくらいなら、その分自分で勉強してもらって、できのよいテストに賞金をつける方が経済的である。(家の中でお金が環流するだけなんだから。)
というわけで、当然のごとく、娘は父親から金を出させるためには、「お金要るので、チョーダイ」と言えばすむので、たいへん正直な娘に育った。
正直な人間に育つ方が、口実やら言い訳やらのうまい人間に育つよりずっとよいことであると私は思う。
ただし、この甘い父親も賞味期限があって、あと3年8ヶ月後には、私は別人のような「冷酷無比」な父親になる予定である。
「何、金がない?たくあんのしっぽでも囓ってな」
とはいえ、娘の涙顔を前にして、私にこんな台詞が果たして言えるだろうか。
いまから学生をいじめて非情になる練習をしておく必要がありそうだ。
「何?単位が足りなくて卒業できない?それで俺が何か迷惑するってか?」
こういう台詞をすらっと言える悪魔のような教師になりたい。
7月23日
土曜に合気道部の「新歓コンパ」があった。1月の新年会以来、久しぶりの「大宴会」である。
新歓コンパというわりには新入部員が一人も参加しない不思議な宴会であったが、代わりに来年から関西に赴任する東大気錬会の常田さんと秋にはボストンへ去る(はずの)高雄さんと、三連休で神戸に遊びに来た北澤さんが来て、歓迎会&送別会となる。
最近の宴会は昔に比べるとずいぶん静かである。みんなばくばくご飯を食べごくごく呑みながらちゃんと理性的に話しをしている。(むかしの宴会では、泣いてる人とか歌っている人とか踊っている人とかゲロ吐いてる人とかあちこちにいて、廊下を歩くと酔いつぶれている人にけつまずいたりした。だいたい参加者の半数近くがそのまま家に泊まり込んで騒いでいたが、今回は全員電車のあるうちに帰って行った。)
この変化はどういうことなのであろう。
パーティというのは、主催者のエートスが濃厚に反映するものである。おそらくは、ウチダ自身がこの10年間で、すっかり軟弱な野郎になってしまったということなのであろう。
それでもひさしぶりの愉快な大宴会であったので、翌日はもうどろどろである。
朝起きだしてお茶漬けを食べて、そのまままたベッドに戻り、起き出してラーメンを食べてまたベッドにもどり、お風呂にはいってからベッドに戻り、ビデオを見てからベッドにもどり、素麺を食べてからベッドに戻る。というようなソファーとベッドの往復運動をして一日をすごしてしまった。
その間に浅田次郎の『プリズン・ホテル』二巻を読み、竹内力の『ミナミの帝王』をTVで見て、ビデオ屋で借りてきた『新・仁義なき戦い』を見る。
つまり一日中「やくざ」さんたちの話に浸かっていたわけである。
なぜか、二日酔いで、思考力が低下してくると『昭和残侠伝』とか『まむしの兄弟』とか『総長への道』というようなものに強い親和力が働く。
これはどういうことなのであろうか、と説明を試みるのであるが、もちろん二日酔いでどろどろしていて理性的思考が不可能な状態であるので、いっかな結論が出ないのである。
7月20日
女性学インスティチュートから頼藤和寛先生の追悼文集の原稿を頼まれていたので、先生の『わたし、ガンです−ある精神科医の耐病記』(文芸春秋)を読む。
前に『人みな骨になるならば』(時事通信社)を読んだとき、「人間いつ死ぬか分からない」memento mori という言葉の、ほとんど強迫的なまでの繰り返しに驚いたけれど、先生はその言葉のとおりに、ガン発見のあと、まっすぐ自分の死を見つめて、死と向き合う人間の精神がどのように揺れ動くかを、ひとすじの感傷もまじえず、出来合いのどのような死生観にも依拠せず、恐ろしいほどに明晰な言葉で書き記した。
死を前にしてのこの平静。どのようなものであれ、知性を曇らせる可能性のある「逃げ道」を峻拒する、徹底的な理性主義には脱帽する他はない。
先生はガン患者の心情をこんなふうに書いている。
「ふつう、『ふだんは(そのことを)忘れている』という単純なやり方だけでも十分効果的である。それだけでは心許ない場合は『何かの間違いかもしれない』とか『今の療法がたまたま奇跡的に効くのでは』とかの空頼みめいた希望にすがる。いずれも現実直視からはどんどん離れていくが、同時に絶望からも遠のくので心身にはよいはずである。免疫機能も低下しにくいので、少しは長生きできるかもしれない。われわれの心や身体は、このように自らを防御する仕組みを備えているから、油断すると必ず不都合ないし脅威的な現実を歪曲し、あるいは糊塗してしまう。心のあちこちに夢と希望が生まれる隙間を作り始める。
私は、これを自分に許すことができない。認識はすべからく禁欲的でなければならぬ。たとえそのために精神衛生を損ねて免疫機能が低下し余命を縮めることになるにせよ、現実と願望を混同したくない。わたしは『認識の鬼』でありたいのだ。」(164頁)
頼藤先生は自らを称して「認識の鬼」とした。ずいぶん温和な「鬼」ではあるけれど、たしかにおのれの知性へのこの絶対的信頼はほとんど「鬼気迫る」ものがある。
「おのれの知性への絶対的信頼」というと、誤解する人がいるかもしれないけれど、比喩的に言うと、それはポンコツ自動車に乗っている律儀なドライバーみたいなものである。
自分の車だから、どのへんにガタが来ていて、どのへんがうまく作動しないのか、運転手本人は熟知している。だから、直し直し、だましだまし、おどしたりすかしたりしながら、1キロでも「先へ」進むように運転する。
車をどこかの修理工場に預けて、「代車」で旅を続けるということもあるいはできるのかもしれない。場合によれば、通りすがりの調子のいい車にヒッチハイクで乗せて貰ったり、特急電車に乗り換えたりすることもできるのかもしれない。
現にそういうことをしている人もいる。
けれど、「おのれの知性への絶対的信頼」とは、自分の運転している自動車がどんなに不調であっても、そこから絶対に「降りない」ということである。
どれほど息も絶え絶えになろうとも、自分であつらえた「燃料」を喰って、自分の「タイヤ」で地面を踏みしめながら、前に進む限りは、「自分の車で行く」というのが「鬼」の覚悟である。
これは知的活動についての比喩だけれど、それと同じことを自分の身体臓器についても頼藤先生は貫徹しているように私には思えた。
ガン細胞は先生にとって「闘病」の敵手ではない。
「闘病」という発想は、病気の原因を有限の「有害」なファクターに限定しようとする発想と同根のものである。
外来の「邪悪なもの」が自分の身体に侵入し、破壊する、という病気のとらえ方は「精神衛生上」は好ましいものである。(それは『野生の思考』の冒頭でレヴィ=ストロースが証明してくれた。)
それは出来合いの「自分の病気についての物語」をもって自分で自分を騙しているということである。
先生は「現にガン細胞を体内にかかえて生きる身として」、いわば、「身内」として、自分のガン細胞を捉えようとする。それは遺伝的にDNA についた傷かもしれないし、長年の生活習慣や、発ガン性物質にあふれた現代社会で生きてきたことの結果かもしれない。いずれにせよ、それは外からやってきたものというよりは、「身内」に根拠をもって成長してきたものだ。
だから「身内ゆえ」の温情をもって「最後は宿主と心中するようなかたちで共に滅びてくれるのである。」
そのような「病との共存」(より正確には「病との共滅」)を先生は「養生」という言葉に託している。
これもまた別のひとつの「物語」なのかも知れない。
しかし、私はこの物語の方が好きだ。
病との「共犯」という見方で、おのれの生と死をとらえる考え方のうちには、「鬼」という言葉とはうらはらな、「暖かみ」がある。
病んだ身体であっても、それが「私の身体」である限り、できる限り慈しむこと。それを決して「モノ」のようには扱わないこと。
限界のある知性であってもそれが「私の知性」である限り、それに最後の最後まで「仕事」をしてもらうこと。誰か他の人に自分に代わって考えて貰うという道を選ばないこと。
この二つのみぶりはおそらく頼藤先生にとっては、同じ一つのことだったと思う。
7月19日
「新しい歴史教科書を作る会」の扶桑社版の教科書を採択した栃木県の採択協議会決定が地区内の市町村の教育委員会で次々と否決された。
ことの順序として、これがいちばん「まっとう」なやり方だと私は思う。
少し前に高校の社会の先生と話す機会があったとき、「あの教科書を採択するところありますかね」と尋ねたら、「ほとんどないでしょう」という答だった。私立の学校では採択するところが少しは出るかも知れないが、公立校ではたぶんないだろう、それくらいには現場の教員たちの力と良識を信じて欲しいということだった。
ルールと運用ということの、これは健全なあり方だと私は思う。
私自身は「作る会」の歴史観は愚劣なものだと思っているし、西尾幹二の『国民の歴史』のルサンチマンの深さにはげんなりした。だが、どれほど愚劣であろうとも、おのれの信念を語り、出版する権利については、たとえ諸外国がその発禁を求めても、これを擁護すべきだと思う。そして、彼らに自由に発言させた上で、そのような考え方を私たちは「採らない」というかたちで実質的に否定することが民主的な言論のあり方だと思っている。
韓国政府は日本政府が文部行政に介入し、超法規的措置をもってこの教科書を韓国の修正要求通りに改訂しなければ外交問題にするという強硬姿勢を打ち出している。この韓国政府の要求に合理性を認めるものは、「作る会」の教科書を批判している人たちの中にも少ないだろう。
もしも、日本政府がこの要求を政治判断によって呑んだら、「作る会」は民主主義と憲法が保証する言論出版の自由の名において「受難する正義」の立場を獲得することになる。だから、いま韓国政府の干渉をいちばん喜んでいるのは「作る会」の人々である。このような干渉を導き出すことによって、日本国内に韓国への敵対感情が醸成されることは「作る会」にとっては願ってもない展開である。韓国にもそのことを理解している人はいるはずである。
原理的には、言論の自由を認め、運用面において、言論のもたらすイデオロギー的影響を無害化する、というのが民主主義的なすすめ方だと私は思う。
もちろん、このようなトラブルが起きる最大の理由は、国家による教科書検定という制度そのものにある。
「検定を通した」ということはそのまま政府がそのようなイデオロギーを「承認した」という意味である、と韓国政府が解釈するのは、その意味で反論を許さない。
現に、西尾幹二や藤岡信勝が「私的に」出版している本の修正や発禁を韓国政府が求めているわけではないからだ。「検定済みの」教科書だからこそこれほどまでに強い拒否反応を示しているのだ。
この問題へのいちばん合理的な回答は国家による教科書検定制度の廃止である。
どのような「歴史観」にも国家はかかわらない、というのがこのような問題で国家間の友好関係を傷つけないための唯一の「正解」であると私は思う。
その正解が出せないあいだは、とりあえず栃木の人々がしたように、運用面でしのぐほかはないだろう。
そのような日本の民主主義の「成熟」を韓国の人々はもう少し信じて欲しいと私は願っている。それを望むのは、歴史的経緯からして無理なことなのだろうか。
と、書いたあと、夕刊を見たら、朝鮮史専門の吉田光男東大教授が同じ問題を論じていた。
吉田さんの力点は、この韓国サイドから修正要求には、複雑な思いが込められているということにある。吉田さんによれば、韓国の人々のすべてが日本非難の大合唱に唱和しているのではない。
韓国の14の歴史学会は「日本の歴史教科書の改悪を憂慮する声明」を今日発表したが、その趣旨は「『歴史教科書問題』が『日本に対する否定的な認識を再び拡大させる契機』となることを憂慮し、『日本の歴史教科書が偏狭な自国中心主義から脱皮し、国際理解の精神で人類の和解と共存を志向する』ように要望している。ここに見られるのは、日本に対する期待と連帯感である。難詰に満ちているように見える韓国の『日本歴史教科書歪曲対策班』の修正要求も、『日本が隣国と平和に交流協力してきた事実』を軽んじてはならないと強調している。韓国の教育者や研究者たちは、日韓がより友好的で親密な関係を築くためには歴史をどのように考え教えるのかと日本に問いかけ、ともに歩んでいこうとしている。」
これを読んで、私は少し救われた気持になった。
なかなか東大教授もよいことを言うではないか。
そして新聞記事の顔写真を眺めているうちに、温顔禿頭の吉田教授が「吉田のおやじ」であることに気がついた。
「吉田のおやじ」は1970年入学の東大文IIIの私たちのクラスでの、彼の愛称である。
18、19のガキばかりだった私たちのクラスで、吉田さんはきわだった年長者であった。(本人の説明を信じるならば)吉田さんは高校を出たあと、うどん屋をやって家族を養っていたために、5年ほど遅れて大学に進んできたのである。
受験勉強が終わった爽快感で、すっかり気が緩んで毎日遊び暮らしていた私たちの中にあって、「吉田のおやじ」は、学問的なものに飢えていたように、ずいぶんまじめに勉強する人だった。
だから、私たちが早速「安保粉砕クラス・スト」を始めて、授業をやめてしまったのでなんとなく迷惑そうな顔をしていた。(そのわりにはよく一緒に麻雀をしたが)
私はそのクラスで最も態度の悪い学生だったので、そのうちにクラス内には「反内田グループ」というものが自然発生的に結成された。たしか「吉田のおやじ」も、亡き佐々木陽太郎くんや国文学者になったセキヤさんやマーボーたちと麻雀をしながら、「ウチダにはいずれ天誅が下るであろう」と語り合っていたはずである。(「天誅がくだるであろう」と予測するだけで、別に自ら手を下すわけではないあたりが、みんなよい人たちである。)
あれから30年。クラス一の異才だった佐々木君も、クラス一元気な少年だった久保山裕司君も夭逝した。金歯を光らせていつもにこにこ笑っていた「吉田のおやじ」は堂々たる東大教授となって、日韓関係の明日について、私たちに希望を語っている。
その言葉に感動しながら、私はなんだか感慨無量である。
7月15日
あ、暑い。
暑いせいで、眠りが浅いのだろうか。朝起きて「うーん、いっぱい寝て気持ちがいいなあ」という感じにまるでならない。
「ううう、だるい」とうめきながらベッドから転げ落ち、だらだらと朝御飯を食べ、新聞を読んでいるうちにどんどんだるくなってきて、そのまままた出てきたばかりのベッドに戻って、ひるまでぐーすか寝てしまう、という世間のサラリーマンが聞いたら、怒り狂うであろうような自堕落な毎日送っている。
私だって申し訳ないと思っている。
こんな自堕落な暮らしぶりでは天罰が下るのではないかと怯えるころだってある。
ちゃんと6時ころにはね起きて、きちきちと家事をこなし、8時には机に向かってこりこりと原稿を書くような人生を私だって望んでいるのである。
しかし、この暑さと湿気が私の気力を洗いざらい奪い去って行く。
今日は、これから会議をひとつ、試験をひとつ、面接をひとつ、歯医者に寄ってから、能のお稽古である。果たして、お稽古から帰ったあとに、机に向かってサルトルを読み続ける気力が私に残っているであろうか。
でも、読み出したらけっこう面白いんだな、これが。サルトルのフランス語は教科書の例文に使いたくなるような、思わず大向こうから声をかけたくなるような名文句が一頁に一回くらい出てくる。これはなかなかたいしたサービス精神だと思う。
なんで、いまごろサルトルの『文学とは何か?』やボーヴォワールの『第二の性』なんか読んでいるかというと・・・その話は前にしたからもういいね。
私自身はサルトルという人の思想内容はあまり好きではないけれど、この人の書き方は好きだ。書き方が好きということは、他人に向かうときの構えが好きということである。たぶん、会って話をする機会があったら、好きになってしまっていただろう。
レヴィナス老師もサルトルさんはいい人だと言っていた。(どこまで本気か知らないけれど)
サルトルのいちばんいい点は「金離れがいいところだ」というのが老師のご意見である。
人間の倫理性は「金、貸して」と言ってきた人間にたいしてどう接するかで決まる、というのが老師のお考えである。
「被抑圧人民との熱い連帯」を呼号している人間が、身近の困った人間に対して無慈悲であるという例はいくらでもある。老師はこういう人間をまったく信用しない。
サルトルのいいところは「困っている人は気の毒だ」と心から思っているので、被抑圧民族もとなりのおじさんも困っている人はみんなひとしなみに「気の毒」になってしまう無原則的にオープンハーテッドなところである、と老師は書いていた。
「お先にどうぞ」と「金なら貸すぞ」がレヴィナス老師の示す「二大倫理」である。
レヴィナス倫理学というと「他者」がどうたらとか「応答責任」がどうたらとか、いろいろと小うるさいことが書かれているが、要するに老師が私たちに実践を求めているのは、この二つに尽きる。そのほかのはすべて枝葉末節にすぎない。
これは年期の入った知見であると私は思う。大人にしか言えない言葉だと思う。というのは、「お先にどうぞ」というためには「すでに満ち足りている」必要があり、「金なら貸すぞ」といえるためには「貸すほど金をもっている」必要があるからだ。
子どもには絶対に言えない言葉である。不幸な人間にも、怨みがましい人間にも、欲望に取りつかれた人間にも言えない言葉である。
私もこれを目標にがんばりたいと思う。
そのためには幸福でお金持ちである必要がまずある。
前者はクリアーできそうだが、後者の条件がちょっと。
7月14日
あ、暑い。
地球の温暖化は本格的に進行中のようである。
あるいは記憶の改変なのかもしれないけれど、どうも私が子どものころの方がずっと夏は涼しかったような気がする
子どものころ、私の家の前は「ダート」であった。
私は東京大田区の下丸子というところで生まれ育った。
先日、パソコンに向かっているときに、「どきっ」として、いったい何に「どきっ」としたのか、あたりを見回したら、プリンターの横に置いてあったインクカセットの箱に「キャノン株式会社・東京大田区下丸子・・・番地」と書いてあった小さな文字に驚いたのであった。
そういえば、私の家から歩いて5分くらいの多摩川の河原にキャノンの本社があった。私は子どものころ毎朝まだ誰も歩いていないキャノンの通勤路を通って河原に犬と散歩に行っていたのである。
父親は「キャノン」の話がでるとよく「タツル、なんで『キャノン』という社名になったか知ってるか?あれはね、創業者が観音信仰の人で、社名を「カンノン」のつもりでCanon と表記したのだよ」と教えてくれた。
ブロニカというカメラメーカーがあった(もうないかもしれないけど)。ブロニカの創業者のお孫さんが高校時代の友人の新井啓右くんで、彼から「あの社名は爺さんの名前が善三郎なので、カメラの商標を『ゼンザブロニカ』としたのを縮めたんだんだよ」と教えたもらったことがある。
ブリジストンは創業者が「石橋さん」、サントリーは「鳥井さん」、トヨタは「豊田さん」、ホンダは「本田さん」である。もうそういう起源はだんだん忘れられてゆく。誰も覚えていないであろうから、後世のためにここに記しておく。
えーと、何の話だっけ?
すぐに話が脇へ逸れるのが老人の癖である。
そうそう、下丸子の私の家の前は「ダート」だったという話である。
家の前がダートであるということは、夏は水撒きすると、1時間くらいは涼しい風が家の中に吹き込んできたのである。なにしろ自動車が一時間に一台くらいしか通らない。だから水撒きすれば、ずいぶん長いあいだ泥道は濡れたままだったのである。
舗装のない道は、春になるとタンポポやレンゲが咲き、梅雨時には小学生の膝まで浸かりそうな深い水たまりができ、冬になると「霜柱」と「氷」が道路を埋め尽くした。だから、小学生だった私たちは霜柱を踏み砕き、氷を割りながら学校に行くので、登校にすごく時間がかかったのである。
それが昭和30年代の東京都区内の道路事情である。
私の家の庭には葡萄棚があり、柿の木があり、イチジクの木があり、葡萄とイチジクは私たちのおやつになった。(葡萄は酸っぱかったけれど、イチジクは美味しかった。)
昭和30年代は東京のサラリーマンでも庭の果樹がおやつになるような生活をしていたのである。それって、なんだかいまよりずっと豊かなような気がする。
というわけで、21世紀最初の夏はめちゃ暑い。
うちのマンションのすぐ裏はもう100 メートルほどで六甲山系である。裏が山なのに、少しも山から風は吹いてこないし、海からもそよとも風は吹かない。吹いているのかもしれないけれど、そこらじゅうのマンションからの冷房の排気のせいで、街全体が蒸し暑いのである。(私だって自分の家からの冷房の排気の熱でベランダにはいられない。)
これって、何かおかしくはないだろうか?
御影山手近辺の住民全員が冷房を切れば、地区全体の気温は2度くらい下がるのではないか。六甲からの風も家に吹き込むのではないか。
21世紀の日本は「滅びの時代」に入るであろうと私は繰り返し予測している。
それを私はむしろ楽しみにしているからである。
昭和30年頃の日本に戻ったら、私たちの生活はどれほど快適だろう。
冷房のある家なんか東京の私の家の周りにも一軒とてなかった。
だって、必要ないんだもの。
暑かったら水を撒けば30分間は家の中に涼風が吹き込んだんだから。
どの家もお父さんたちは午後6時半には家に帰って、お風呂にはいって、ご飯を食べたあと、庭に縁台なんか出して団扇でぱたぱた扇ぎながらビールを呑んで「ぷふー」なんて言っていた。
みんな仕事しすぎだと私は思う。
生活水準を上げることに必死すぎると思う。
もっとのんびりしてどうしていけないんだろう。
7月13日
あ、暑い。
うー、たまらん。今日は会議が4つ。私がいてもいなくてもいい会議が3つ。いないとまずい会議が一つ。ちょっと二日酔い気味のあたまで学校へ。
昨日は小林昌廣先生の「BUTOH の身体表現」。
大雨のなか、50名ほどの聴衆が集まり、小林先生のグルーヴィなお話と、次々と繰り出される秘蔵ヴィデオを堪能した。
先週は鈴木晶先生のバレエ話。今週は小林先生のButoh 話。
なんと贅沢なラインナップであろう。
今回は、鳴門から増田聡さんがわざわざお越し下さった。おひさしぶり。
講演後、どどどと「ふじや」に乱入してバトルトーク。
例のごとく難波江先生、飯田先生。それに小林学派の田川とも子先生がごいっしょに。先週から連続でジャン=リュック・ジロー先生も難波江さんとのカラオケ二次会の準備も万全に登場。
「今人生絶好調」を豪語する難波江さんのマシンガントークに必死でうなずいているうちにはや2時間半。増田さんをともなって御影の我が家へ。こんどは焼酎を痛飲しつつ、増田さんの「鳴門うずしおトーク」に呑み込まれて気が付けば午前3時。
小林 - 難波江 - 増田という「私の知り合いのなかで、いちばんはやくしゃべることができる人々」三人さまのお話を連続11時間聴いたことになる。
脳味噌が電子レンジで加熱されたような状態となるのも無理はない。
今日はとびっきりおバカな映画でも借りて、少し頭をゆるめないと発火しそうである。
小林先生、楽しいお話をありがとうございました。(今度は「かぶく身体」でお願いしますね)
増田さん、楽しい話をありがとうございました。(また呑みに来て下さい。)
難波江さん、毎週お付き合いありがとうございました。(ジャン=リュックの世話までおねがいしちゃって、すみません。て、私はべつにジャン=リュックの保護者じゃないんだけど)
講演会にご参加、ご協力くださったみなさまに心からお礼申し上げます。ありがとうございました。
次のイベントは10月15日の講演会「ベトナムからみた日本」(ファン・デュク・ビンくん)。これもよろしく。
7月12日
暑い。
暑いとか寒いとか、私はうるさく口にするが、これはご存じのとおり、温度が高いとか低いとかいう事実認知的なことを言っているのではない。
「暑い」というのは遂行的な言明であって、「このように暑いので、私は人生全般にたいしてたいへんなげやりな気分になっているので、関係者一同はそのおつもりで」ということを宣言しているのである。
私に「レイザーシャープなご回答」とか「オープンハーテッドなご歓待」とか、そういうものを期待している方は、失望する確率がたいへん高い季節になりましたね、ということを申し上げているのである。
暑いので、あまり頭が働かない。
このところずっとレヴィナスのエロス論でひっかかったままである。
どうしてレヴィナスはフェミニストが「鬼の首でもとったように」喜びそうなことを書いてしまったのか。
あれほど周到な知性がフェミニストのロジックを知らないはずがない。
ああ、わからん。老師はいったい何を考えておられたのであろう。
じっと読んでいるうちに、もしかするとこれは何かの「ひっくり返し」ではないか、と思いついた。
そう言えば、レヴィナスという人はなんでも「ひっくり返す」。
有名なのは『実存から実存者へ』であるが、これはハイデガーの「存在者から存在へ」をまるごとひっくりかえしてみせた「逆-存在論」とでもいうべき論理構成をもった思想であった。
フッサールの場合も、その現象学の基本概念である「志向性」を「視覚に傾斜したテオリア主義」とみなし、「非志向的現象学」あるいは「非テオリア的現象学」というまったく逆転した現象学のアイディアを提出してみせた。
ではエロス論でレヴィナスは何を「ひっくり返した」のか?
私はここで「はた」と膝を打った。
イリガライのレヴィナス批判なんか読んでしまったので、つい「いま」を起点にしてレヴィナスのアンチ・フェミニズムを読み解こうとしていてあたまが混乱してしまったが、考えてみたら、『全体性と無限』を執筆していたのは1950年代のことである。その時代に「フェミニズム」を代表する著作といったら、あれではないか。
そう、ボーヴォワールの『第二の性』である。これが1949年刊行。
さっそく本棚の奥からごそごそと取り出して読んでみる。
案の定というか。やはりレヴィナス老師のエロス論は『第二の性』を「ひっくり返した」ものであった。
レヴィナス先生のいうことはフェミニズムにもとるとフェミニストが怒るのも当たり前である。だって、先生ははなからボーヴォワールの書いたことをわざわざその言葉遣いまでまねて、その上でぜんぶひっくり返してエロス論を書いたんだから。
ボーヴォワールの主張は「女性的本質などというものは存在しない」というひとことに尽くされる。
レヴィナスのエロス論の主張は「女性的本質というものがある。ただしこれは『存在論的カテゴリー』ですけど」というのに尽くされる。
ほぼ同時期にレヴィナスはサルトルの『ユダヤ人問題についての省察』についても痛烈な批判を加えていた。
『ユダヤ人問題』におけるサルトルの主張は「ユダヤ的本質などというものは存在しない」というひとことに尽くされる。
レヴィナスのユダヤ論の主張は「ユダヤ的本質と言うものがある。ただしこれは『存在論的カテゴリー』ですけど」というのに尽くされる。
同じ実存主義的スキームで社会問題一般を論じるサルトル=ボーヴォワール・ペアに対してレヴィナス老師はまったく同型のロジックを以て同時に反論したのである。
つまり、サルトルのユダヤ人論への老師の批判の構造をたんねんに再構築すれば、おのずと老師のフェミニズム批判の構造も浮かび上がると、こういう仕掛けになっていたのである。
なるほど。
「さすがお師匠さまでございますな」
「ふふふ、そう簡単に底が割れてはね、わしもつまらんじゃろうが」
「しかし、お師匠さまもお人が悪い。ボーヴォワール、大嫌いなものだから、あえて一行も『第二の性』から引用しないし、反論しているそぶりさえみせないで」
「あの二人ともね、ほんとは、わし嫌いなのじゃ。なんかさ。生活者の実感みたいなものがまるでないでのう」
「生活者ですか・・・」
「ご飯を食べたり、仕事をしたり、お金をためたり、家庭をつくったり、子どもの成長を目を細めてながめたり・・・そういう生活の、なんじゃろかい、現場のささやかな哀感とヨロコビみたいなものに基礎づけられた哲学ってのがほんとは大事じゃろうと思うわけよ、わしとしては」
「でもお師匠さまの書くものってまるで生活実感ないみたいに言われてますけど」
「ふふふ、若いもんには分からんじゃろがね。わしの書くものは一行一行一語一語すべて生活実感の厚みの上に構築されとるんじゃよ。ま、熟読玩味してごらんよ。では家元は帰るぞ」
ああ、お師匠さまー。
7月7日
ビジネスカフェから『Esapresso』の最新号が来る。
毎号このビジネス誌に掲載される平川くんのエッセイを私は楽しみに読んでいる。
というのは、私がこの世でいちばん好きなことの一つは「新しい言葉」を学習することだからである。
平川くんは前歴が現代詩人なので、「言葉の現実変成力」がいかほどのものかは熟知している。同じ事象を別の言葉で言い表せばそれはもう別の事象となる。だから、彼はある概念の見落とされている含意を強調したいとき、しばしばそれを類義語に言い換える。
たとえば、彼は「企業家」を「アントレプレナー」と表記する。
この言葉は私をどきどきさせる。というのも、駿台仕込みの私の英語の語彙に「アントレプレナー」という言葉はないからである。
「事業家」は enterpriser 「エンタープライザー」である。
「アントレプレナー」にいちばん近い語はフランス語のentrepreneur 「アントルプルヌール」である。
つまり、この語はおそらくフランス語からアメリカのビジネス・ヴォキャブラリーに入ってきたということである。
近過去のどこかに、「エンタープライザー」の使い古された語感を嫌って、外来語を改作してentreprener と表記したアメリ人がいたのである。そして、平川くんはそのアメリカのビジネスマンの言語感覚に反応して「アントレプレナー」をあえて日本のビジネス・ヴォキャブラリーに導入したのである。私はかように推理する。
さて、そのような詩人的な言語戦略に基づく平川くんのビジネス・エッセイは例によってかっこいいフィニッシュを決めている。引用しよう。
「最近わたしの友人たちに『知性』とは何かと問うてみました。もちろん、昨今のナレッジマネジメントという『流行語』が念頭にあってのことですが、30名程度のビジネスの最先端で活躍する友人たちから返ってきた答えはほとんど『人間力』『おもいやり』『問題解決能力』といったなつかしいものでした。
わたしにとっての『知性』とは『自分が何を知らないのかということを知っていること』だと考えています。あらゆる知性というものがその内部に『自己否定の胚珠』をもっていることが、『運動する知性』にとって重要なことであると考えています。
『運動する知性』とは、自己を相対化し、他者と連動し、現状を変革してゆくエネルギーの源泉といった意味で使いたいと思っています。
かつて、会社の寿命は30年という言葉が流行しましたが、その真理は今も変わらないと思います。いま、企業は全力で自社のコンピタンシーを確立しようと資源を集中していますが、こんなときこそ明日のコアコンピタンスを育ててゆく必要があるのではないでしょうか。」(平川克美、「二律背反としてのインキュベーション」、『Espresso』第6号、2001、p.9)
「ナレッジマネジメント」も「コンピタンシー」も「コアコンピタンス」も私の語彙にはないビジネス用語である。しかし、それらが何を言おうとしているのかは何となく分かる。
私に分かるのは「コンピタンシー」は「コンピタンス(能力)」よりも最後の「シー」の部分だけ語感が「トンがっている」ということである。
言葉が「トンがっている」ということがある。それは言葉が微分的な運動性を持っているということだ。
例えば、私たちは「方法」より「方法論」に、「モード」より「モダリテ」に、differenceよりも differance によりつよい運動性を感知する。
そのような言葉は、ある事態を「静止態」においてではなく「運動態」において表現したいというときの勢いが選ばせるのだ。
その語感と同じ考想がこのテクストをも貫いている。
それは「運動せよ。足を止めるな」ということである。
詩とビジネスと武道の経験から平川くんが獲得した洞見がそれであると私は思う。
村上龍の『タナトス』を読み終えた。
村上龍は「才能」にこだわる作家である。
今回の小説のテーマの一つは「才能がない」とはどういうことか、という問いである。
「才能がない」人間とは「自分には才能がない」という事実を直視できない人間のことである。(おや、いまさっききいたような)
彼らは「努力」によって才能の不足をなんとか埋め合わせることができると思っている。
反対に、「才能がある」人間は、自分にはどのような才能があり、どのような才能が欠けているかを知っており、それが「ある」ことも「ない」ことも、個人的努力でどうこうできる水準の問題ではない、ということを知っている。
「才能」というのは「努力できること」を含んでいる。
ある活動のためにいくら時間を割いて、どれほどエネルギーを注いでも、まったく苦にならないで、それに従事している時間がすみずみまで発見と歓喜にみたされているような活動が自分にとって何であるかを知っていて、ためらわずそれを選びとる人間のことを私たちは「才能のある人間」と呼ぶのである。
私はこのような村上龍の意見には全面的に賛成である。
才能は「アウトプット」で測るのではない。
その活動から引き出した「快楽の総量」で測るのである。
快楽の総量を測るというのはむずかしい作業だ。
多くの人は自分がどれくらいの快楽を得ているのかを言うことができない。
そもそも自分が快楽を得ているのかどうかさえ不確かなのだ。
自分だけの「快楽の尺度」を持っていない人間は「快楽」と「欲望の充足」を区別することができない。
快楽は本質的に個人的なものであり、欲望は本質的に模倣的なものである。
私たちは他人の欲望を模倣する。
私たちが何かを欲しがるとき、ほとんどの場合、その理由はそれが「他の人の欲しがっているもの」だからだ。
しかし、模倣欲望には終わりがない。
誰かが何かを欲しがる限り、その欲望は私たちに感染するからだ。
私たちが「持っていないもの」はそれこそ無数にある。その「どれ」が欲望の対象として前景化するかはそのつど完全に偶然的である。だから、原理的に、私たちの欲望は永遠に不充足のままである。
それに対して快楽は個人的なものである。
それは欲望の充足のような集合的なゲームとは成り立つ場所を異にしている。
欲望は模倣的であるからそもそもその起源は私のうちにはない。だから、それが充足されたからといって、「私の内部」に充足感がゆきわたるということも起こらない。
模倣欲望の充足とは、欲望の対象が前景から後景に退き、意識されなくなるというだけのことである。私たちが欲望するものはすべて「それはもう欲しくなくなった」と言うだけのために欲望されているのである。
快楽はベクトルがそれとは逆を向いている。
快楽の対象がたえず意識に前景化されていること、それ自体が快楽の目的である。
快楽は何かの結果ではない。プロセスである。
快楽とは「快楽の追求」それ自体が十全な快楽をもたらすような活動のことである。
快楽を求める活動それ自体が快楽の完全な成就であるような活動が「自分にとって」何であるかを言える人間を私たちは「快楽の尺度」を持っている人間と呼ぶ。
快楽と欲望の充足を取り違えている人間にはおそらく快楽は訪れない。
村上龍はキューバの人間と日本の人間を比較して、キューバの人間は快楽をどう得るかを知っており、日本人は知らない、という書き方をする。
なぜ日本人は快楽を知らないのか?
それは日本人は「モデル」を求めてしまうからだ、と村上は書いている。
だから快楽を得る仕方についてまで「あるべき快楽の享受法」があると思い込み、それを学習してしまうのだ。そして、「あるべき快楽」からの減点法で、いまの自分の快楽の「程度」を計量するようなみすぼらしいまねをするのだ。
なるほど、日本人はダメだ。キューバの人はたいしたものだ。
だが、村上龍のトリックに簡単にひっかかってはいけない。
村上龍を読んで「よーし、おれもキューバ人の生き方に学ぶぞ」と決意するようなバカこそ、村上が嗤う「モデルを求める」日本人そのものだからだ。
村上龍は『タナトス』なんてゴミ箱に棄てろよと言っているのである。
「おれはいい気持ちだぜ」なんてことを言っている人間の書くものなんか読むなと言っているのである。
「おれの書いたものなんか読むなよ」と言われて、あわてて読むのを止めるような寂しいまねをするなよと言っているのである。
7月6日
「戦う身体舞う身体」講演シリーズ第一夜、鈴木晶先生による『バレエの身体表現』は盛会のうちにぶじ終了いたしました。
遠路お越し下さって、中身の濃い楽しい講演をしてくださった鈴木先生。ユニットパートナーの難波江先生、飯田先生。院生・ゼミ生諸君、合気道部、杖道会をはじめとする学生のみなさん、それから学外から多数お越しの「鈴木ファン」のみなさん。どうもありがとうございました。主宰者として心からお礼申し上げます。
また来週の第二夜ももりあげて下さい。
二時間たっぷり、映像もりだくさんの「集中講義」を画像の順番をメモした紙一枚だけですすめる鈴木先生の該博な知識とバレエへの熱い愛情に聴衆一同深く心を打たれる。それにしてもシルヴィ・ギエムの180 度アン・ドゥオールは人間わざとは思えない。
講演後、ただちに「いちぜんや」にてのバトルトークへ突入。
東京から来た森さんもまじえてウチダゼミの元気な諸君が鈴木先生を包囲して大騒ぎ。
「カラオケの帝王」難波江さんと「カラオケ・オニウマ」の鈴木先生が出会った。
出会ってしまった以上、雌雄を決せずにはすまされまい。こういう「バトルもの」に目がないウチダの提案で一同はそのままカラオケに雪崩れ込む。
まずジャン=リュック・ジロー先生が『津軽海峡冬景色』で「ふつうのおじさんのカラオケ」をご披露。
先攻はナバちゃんがいきなり陽水で大業を繰り出す。鈴木先生は福山雅治で応酬。ナバちゃんも福山「返し」で応じる。それを鈴木先生がサザンで切り返し、と丁々発止の熱いバトルが展開。
ジロー先生の『そして神戸』で戦いのテンションが一気に下がるが、タナカさんの『愛人』のあまりにリアルな歌い込みに一同沈黙。最後はナバちゃんの小田和正に鈴木先生&ウチダのメル友ブラザースの『ワンダフル・トゥナイト』で締め。
ウチダは歌えといわれたら山下達郎の『幸せにさよなら』か大瀧詠一の『幸せな結末』かエリック・クラプトンの『ワンダフル・トゥナイト』のどれかと心秘かに思っていたのであるがそのクラプトンを鈴木先生がぴたりと選曲。やはりメル友は気が合うね。
愉快な一夜でありました。鈴木先生どうもありがとうございました。
7月5日
いよいよ「お待ちかね! 戦う身体舞う身体講演シリーズ」第一弾の鈴木晶先生のおでましだ。
「内田 樹」というのは実在の人物なのかヴァーチャル・キャラクターなのか、ということについてのお問い合わせが各方面からあったが、BBS でお答えしているとおり、これはヴァーチャル・キャラクターである。
ヴァーチャル・キャラクターに実在の人物名をかぶせると、誰が誰だかよくわからなくなって混乱が生じるわけであるが、ウチダはこういう混乱は好きである。
それは「あれは、ヴァーチャルウチダが言ったことだから、私は知らん」というような言い逃れを可能にするためではなく、逆に「ヴァーチャルウチダが言ったことの責任を実在ウチダが引き受けざるを得ず、実在ウチダの愚行の尻拭いをヴァーチャルウチダがしないといけない」という責任のカバリッジの拡大をはかるためである。
忙しいウチダにかわってヴァーチャル・キャラにいろいろご活躍頂くことによって、ウチダ自身の(望みなき)人間的成熟を促し、その管見の及ぶ範囲をいささかなりとも広げたいというのがこの別人格設定のねらいである。
鈴木晶先生は「内田 樹」のメル友「鈴木 晶」の実在モードの方である。
ヴァーチャル・鈴木先生とはしばしばお会い、長時間にわたり話し込んでいるし、ビジネストークもするが、実在・鈴木先生とお会いするのはこれで三度目である。実在同士はあまり世俗的な話はしないで、もっぱら琴棋詩酒、清談の境地に遊ぶのである。
今日は静かに「バレエ」のお話を聴く。もうぼちぼちお電話があるころである。
今日のご報告はまた明日。
7月2日
関係各方面にいろいろとご心配をおかけしましたが、BBS で展開されておりました論争は最初にメールをくれたTさんから「仕切直しで」というご提案がありまして、あらためて「ごめんください」「はい、どなた?」というところからやり直すことになりました。
ウチダも人の子、煩悩の犬でありますので、知らないひとからいきなり「批判」されるとつい「売り言葉に買い言葉」、性格の悪さを剥き出しにしてしまいます。
しかし狭量ではあるが、根に持たないウチダとしては、「さっきのなしね」といわれれば、「うん、じゃ、はじめからね」とものわすれのよい小学生のように応接するのであります。
とはいえ、こういう雑なまとめ方をするとまた問題を起こすかもしれないので、このへんにしておきましょう。
しかし、この機会に、私のことを「レヴィナス主義者」と思っていらっしゃるみなさんに、ぜひご確認いただきたいことがあります。
巷間流布しております説によると、レヴィナス主義者たるものは他者からの呼びかけに全身全霊をもって応答する責任がある、ということになっております。
ご存じのように私はこのような考え方をしておりません。(『ためらいの倫理学』で戦後責任論者について、とくにしつこく違いを強調したのはこの点です。)
私に応答を余儀なくさせる呼びかけもあるし、私が貝のように黙り込む呼びかけもあるし、私が雀躍して応ずる呼びかけもあるし、私が怒り出すような呼びかけもあります。
それらの呼びかけと応答は呼びかけるものと答えるもののふたりを、「主体として」同時的に形成しつつ、生起する「一回的でユニークな出会いの経験」です。
その出会いの経験を友好的なものにするのも敵対的なものにするのも、「ひとえに主体の決意と自己審問の徹底性と倫理性の高さにかかっている」という主体全権説はウチダの取らないところであります。
もちろんその逆に、すべての出会いの経験は「他者が主導し、『私』はひたすら他者に曝露されるだけなのである」という「他者全権説」もウチダは退けます。
「私」と「他者」が「出会い」以前にあらかじめ自存し、その出会いの様態や形質は、それらの二種の主体のいずれか一方の決意や工作によって専一的に決される、という「主体先在説」こそレヴィナス先生がきっぱりとしりぞけたものです。
「出会い」の以前には「私」も「他者」もなく、「出会いの経験そのもの」がほとんど事後的に、そこで出会ってしまった「私」と「他者」を造形してゆく、という時間の転倒、それがレヴィナス先生が「アナクロニズム」と呼んだ時間の逆流のあり方です。
と、はなせばながくなるので、ぜんぶはしょりますが、要するに私たちがある呼びかけにどう応じるかについての「ガイドライン」とか「決疑論的チェックリスト」などというものはありません。
私たちはそのつど、「出会ったあとになって」、そこで誰と誰が出会ったのかを知るのです。
「でも、それって要するに『出たとこ勝負』ってことじゃない?なんかウチダってさ、レヴィナス先生を引き合いに出して、単に自分が無原則に生きてることを合理化してるだけなんじゃないの?」
ま、まさか。そんな。はは、ははははは。ははははは。よしてくださいよお。(と冷や汗をぬぐいつつ退場)