夜霧世今夜もクロコダイル

Another Crocodile in the night mist: from 1 Jan 2001



12月31日

不思議な夢を見た。

これまで自分の見た夢の話なんかしたことないし、他人が夢の話をしているとうるさがって聞き流してきた私であるが、起きたあとあまりに鮮明に記憶していたので書きとめておく。

こんな夢だ。

私は相模原の実家らしきところから新横浜にゆく用事がある。

電車で行こうかバイクで行こうか迷ったすえに、バイクで行くことにする。

厚木のあたりで雨が降ってきて日が暮れ、私は道に迷ってしまう。

知らない山道を走っているうちに伊豆半島の山の中に迷い込む。

大雨の中、山道を下ると横須賀らしき街に出る。(このへんの地理関係はむろんでたらめである。)

そこは殺伐とした街で、トラックが歩行者を轢いて停車もせずに走り去る。轢かれて足首から先がなくなった男も「ふざけるな」と怒っている。私は怖くなって、バイクを速める。

右に海を見ながら走っていると、いつのまにか雨も上がり、初夏の青空の下、水を満々とたたえた水田がどこまでも拡がっている。

水田の中に家が一軒ある。和風と洋風の折衷のような、とても感じの良い家である。

バイクを置いて、その家に入り、風呂場で濡れた衣類を脱いで、白いバスローブを借り着する。

その家の中には、にぎやかな太ったおじさんと、物静かな青年(この二人は知らない人)と、I田先生と、るんちゃんがいる。みんなバスローブ姿でくつろいでいる。

家の中は涼しくて静かで、窓からは南の海と西の水田だけが見えて、まるで船に乗っているようだ。

そこで太ったおじさんにウィスキーの水割りをふるまわれながら、その家の成り立ちについて不思議な物語を聞いた。

そこは何かに夢中になっていて、とても疲れてしまったひとが「すとん」と落ち込む場所なのである。

そこでみんな好きな音楽を聴いたり、お酒をのんでおしゃべりをしたり、本を読んだりして、気分がよくなったら、元の世界に帰るのである。

おじさんは現代音楽家で、自分がつくっているとんがった音楽に疲れると、ここに落ちてきて、好きな音楽(おじさんは照れながら「実は山下達郎が好きなんだよ」と告白する)を聴きながらごろごろしている。

青年は建築家だそうである。

I田先生はいやなことがあってぷりぷり怒って寝付いた夜は(教授会のあった夜とかね)、たいていここに「落ちて」来てしまうのだと教えてくれた。

るんちゃんは(なぜかまだ六歳くらいなのだ)、ひとりでご機嫌に遊び回っている。

ここで何日過ごしても、何ヶ月過ごしても、もどるときは、もとの日、もとの場所に帰れるんだとおじさんに説明されて、「ぼくも、この家に来てもいいのかな」と訊ねると、「だって、あなたもう来てるじゃない」とおじさんが笑った。

というところで目が醒めた。

あれは何だったんだろう。ほんとうに居心地のよい家だったけれど。

だれか精神分析して下さい。

 

朝日新聞に「年賀状は虚礼か」という短いコラムがあって、その中に年賀状反対派の代表として團伊玖磨のこんな言葉が紹介してあった。

「『出しません。いただいても読みません。出さないのに、来たのを読んでは悪い』と言ったのは作曲家の團伊玖磨さんだった。『年賀とは本来参上すべきものであり、はがきですませるなんて全く無礼だ』と吐き捨てるように語ったものだった。」

あの洒脱な人が「吐き捨てるように」力んでこんなことを言うというのはなんだかそぐわない気がする。だから、たぶんこれはコラムを書いた編集委員が團のことばをとり違えているのだろうと思う。

だって、もし團伊玖磨が「手紙を出さないものには手紙を読む権利がない」という考えているとしたら、その主張にはまったく論理性がないからだ。

コミュニケーションというのは相称的なものではない。

というか、相称的ではありえないし、あってはならないものだ。

レヴィ=ストロースが『構造人類学』で繰り返したように、コミュニケーションとは「言葉の贈り物」である。

それは「言葉」それ自体に「価値」があると信じられていた太古のときの、コミュニケーションの起源の記憶をとどめている。

「言葉の贈り物」を受け取ったものは、返礼給付の義務を負う。

「こんにちは」

「あ、こんにちは。お元気ですか?」

「ええ、元気です。そちらは?」

「ええ、こっちもみんな元気です。どちらへ?」

「ちょいと西銀座まで・・・」

というふうに延々と挨拶の応酬は続くのである。

終わりがないのは、返礼給付はつねに「贈られたもの」に対して過剰になるからだ。

「こんにちは」

「こんにちは」

で贈り物の価値が相殺されてしまえば、コミュニケーションは終わる。

コミュニケーションの本義は「止めないこと」にある。

だから、つねに「贈られた価値」以上を返礼しなければならないという心理的負債感が私たちに次の言葉の贈り物を発信するように駆り立てるのである。

誰だって「借りを作る」のは嫌いだ。

だから自分が出していない相手から年賀状が来くと、必ず心に痛みを感じる。

それは「言葉の贈り物に対する負債感」である。

團伊玖磨が年賀状を「読まない」のはおそらく彼がその負債感を人一倍強く感じるたちだからだと私は思う。

そして、自分がその返礼給付のために数日間の余暇を犠牲にしかねない人間であることを知っているからだと思う。(團伊玖磨クラスだと年賀状も2000枚くらいくるだろうし)

年賀状書きに費やす時間のせいで、もっと多くの、もっと緊急の「返礼義務」に支障が出ることを知っているから、團は心理的負債感をできるだけ軽減すべく、「泣く泣く」年賀状を読まないのである。(ほんとは読みたいし、返事したいのに。)

私はそう思う。

 

だから、「年賀に参上すべきだ」という團の言葉もべつに正論を吐いているのではなくて、純粋にプラクティカルな提案と思って聞くべきだろう。

ご存知だと思うけれど、年賀というのは迎える側にしてみるとほぼ限定的な期間に、限定的な趣旨で、多人数が訪れてくれるので、「一気に全部の挨拶を片づける」ことのできる、たいへんに便利な制度である。

これが一年365日だらだらと挨拶に来られたらかなわない。

いちいち個人ごと団体ごとに別の機会を設定して、そのつど招じ上げて、そのつどの話題で一夕盛り上げていたら、主人は過労死してしまう。

年賀だからこそ、いちどに何十人来ようと、「やあ、おめでとう」で済ませて次の客のために席を立っても、すこしも無礼にならないのである。

だから、私に年賀状の返事を書かせるくらいなら、そちらが年賀に家まで来てくれ、と團伊玖磨は「お願い」していたのだと私は思う。

「吐き捨てるように」言ったのと、「必死でお願いした」とは、だいぶニュアンスが違うけれど、私はそうだと思う。

團の言葉は「きちんとコミュニケーションしたいけど、身体がいくつあっても足りないんだよお、ごめんね」というふうに解釈するのがいちばんまっとうだろう。

團さんは亡くなったのでもう確認する術はないですけど。

 

私は250枚の年賀状にネコマンガを描くだけなので、仕事は半日で終わる。

だから楽だ、というだけではなく、年賀状のやりとりだけでつながっている関係があって、それをけっこう大切に思っているからである。

代表的なのは漫画家のほんま・りうさんとの年賀状である。

ほんまさんと私は1975年の夏に、パリからの帰りの飛行機で隣り合わせに坐って、十数時間ずっと漫画の話をしていた。(ほんまさんは、漫画家の激務で身体を壊し、半年ほど休業してスペインに遊んだ帰りだった。私は卒業旅行の帰り。)

明大漫件の愉快な逸話をたくさんうかがった。

それから26年間毎年年賀状だけが行き来している。

ときどきほんまさんから新作漫画が届く。

こちらからはあまり差し上げるものがない。

ほんまさんがどんな容貌の人だったのか、もう記憶も定かではない。向こうも同じだろう。

でも今年も年賀状を書く。

こういうのってけっこう大切なことだと私は思う。


12月30日

年賀状書きが終わって暇になったので、ばりばりと原稿を書く。

まず『ミーツ』の三月号の原稿を書き上げる。

それから晶文社の原稿にかかる。

漱石論は今晩から書き出すとして、それ以外の300枚分の原稿を読み直して、どんどん改稿していゆき、昼飯前に、全部書き直してしまった。

仕事が速いなあ、ほんとに。

このままでゆくと明日までに(最初の約束通りに)本一冊分の完成稿を安藤さんにお送りできるかも知れない。

そうすると、四月にはどかどかと二冊本が出る。(文春新書から一冊)

『メル友交換日記』の編集が済んでいたら三冊。

東京のある書店では「内田先生の本がまた出ました!」というポップが付いて『ためらいの倫理学』と『レヴィナスと愛の現象学』が並べてあったというご報告が文春の田中さんから届いた。

四月のポップは「またまたまた出ました!ついに月刊誌化か?」

さて、日記の更新は今日でおしまいです。

大晦日は一日仕事。元日から東京。帰神は1月6日になる予定です。

1月1日から5日までは、ウチダあてのご連絡はモバイルにメールをお願いします。

 

hyt58363@mopera.ne.jp (こっちはシグマリオン。多少データが重くても大丈夫)

または

levinasien@docomo.ne.jp (こっちは携帯だから伝言程度)

ではみなさん、今年も一年ありがとうございました。

よいお年をお迎え下さい。


12月29日

やっと年賀状書きが終わった。とりあえず250枚。

クスミ先生は毎年1000枚書くそうだ。去年の年賀状には「いま220枚目。誰だ年賀状なんてもんを発明したやつは」と呪詛の言葉が記してあった。腱鞘炎にならないことをお祈りしたい。

宛名書きはそれほど苦にならないが、一枚ずつに「ネコのマンガ」を描くのがけっこう疲れる。もらった方は分からないであろうが、250枚全部表情とセリフが違うのである。

よく尋ねられるが、あの「ネコ」は1966年に私がトレードマークに採用したもので、私の「自我」の表象である。(私は個人的にはネコにはまるで興味のない、典型的なイヌ派男なのであるが、なぜか自我イメージはネコなのである。)理由は不明。自我表象について「あ、あれはね」と本人がぺらぺら説明できるようであれば、フロイトだって仕事がなくて困るだろう。

 

さて、今年を回顧して思うのだが、今年のキーワードは「流れ」ということではないかと思う。

今年ほど「流れが来る/来ない」という運気の力を味わったことはない。

私はもともと強運の人で、「流れ」を呼び込む力はけっこうあるのだが、去年のなかばから今年にかけてなんだかたいへんな勢いで「出会いの流れ」に恵まれた。

印象的なのは出版関係のエディターたちとの出会いである。

冬弓舎の内浦さん、講談社の川島さん、新曜社の渦岡さん、晶文社の安藤さん、文春の嶋津さん。どなたも始めて会ったときから(安藤さんとはまだ会ったことがないけど)旧知の人のように気持よいコミュニケーションができた。(せりか書房の船橋さんにレヴィナス論を約束したのは数年前。原稿を一枚も書かずに逃げ回っていたのが鈴木晶先生経由で所在がばれて、ついに今年になってレヴィナス論を書くことになってしまったのであるから、これも最近の「出会い」の一つに数えていいだろう。)

なかでもいちばん印象的だったのは『ミーツ』編集長の江さんの電撃的・怒濤的登場である。

自分の書いたものをこれほど熱心に読んでくれる読者に私はかつて出会ったことがない。(江さんは『レヴィナスと愛の現象学』を電車の中にも昼飯どきにも居酒屋にも携行して、もう三回読んだそうである。著者より読んでいるのではないか。)『ミーツ』新連載の「街場の現代思想」は私とその江さんの「合作」である。

江さんといっしょに電撃的に登場した橘さんの「ジャック・メイヨール」(ご冥福を祈ります−って店が潰れたわけじゃないですけど)は最近「読書バー」と化し、ひとびとはワイングラスを傾けつつフッサールとレヴィナスについて論じているらしい。

神戸もディープな街だ。

 

武道関係では、多田宏先生のかたわらでずいぶんと長い時間を過ごすことができたことが今年最大の喜びである。(新年会、月例の研修会、五月の神戸女学院合気道会10周年記念演武会、多田塾合宿、自由が丘40周年)

多田先生のそばにいると、ただそれだけのことで、深い安堵と暖かさと確信が私の身体にしみ通ってくる。

「家からいちばん近い道場」に何も考えずに入門したらそこに多田先生がいた、ということは武道に関しての私の運気−「武運」−が例外的に強いということを意味していると私は信じている。

多田先生とごいっしょできたということは、同時に亀井師範、山田師範、窪田師範、坪井師範という敬愛する先輩たちに親しく兄事する機会にも恵まれたということである。多田塾同門の愉快な道友たちとの交流も今年はこれまで以上にこまやかであったし、フランスでブルーノくんのご紹介で新しい合気道の友人たちと知り合えたのも実に愉快な経験だった。

 

さて、下半期最大の収穫は甲野善紀先生との「ご縁」が出来たことである。

ちょうど去年のいまごろ、私は甲野先生の著書を読み、ビデオを眺めて武道に燃えていたのであるが、そのときは一年後に先生と親しくお話しするようなかかわりができるとは思ってもいなかった。

「強く念じれば必ず実現する」というのは多田先生のお教えであるが、ほんとうにおっしゃるとおりである。甲野先生とのこのご縁が来年以降どういうふうな意外な展開を示すことになるのか、今から楽しみである。

 

三月に膝を痛めて外科医から「もう運動はダメ」と宣告されたときに、自分の武道家としての人生は終わったと観念したのであるが、そのときに書いたとおり、別に思い残すことはなかった。

「ああ、もっとあれもあれもしておけばよかった」という悔恨はない。

教師として父親としてやるべき仕事をしたあと残された時間のほとんどすべてを武道のために使ってきた。あれ以上やるということは、同時に教師であり父親であろうと望む限り不可能である。

その意味では武道家としての「流れ」も今年は大きく変わった。

その流れが私をどこに運ぶつもりなのか分からないけれど、身を任せて進むほかないと思う。

 

「流れ」は新たに出会う人を連れてくると同時に、私の身近にいた人々を連れ去ることもある。

この一年あまりのあいだに何人か、親しくしていた人たちとの「ご縁」が切れた。

私から切ったものもあるし、先方から切られたものもあるし、いつしか「切れた」としか言いようがないものもある。

以前であれば、自分や相手のコミュニケーション能力や、価値観の齟齬など持ち出して説明を試みただろうし、場合によっては相手を責めたり、自分の不徳を反省したりしたかもしれない。けれどもこのごろは、「ご縁」が切れるのは、誰が悪いのでもない、それぞれが「違う流れ」に乗ったからだというふうに思うようになってきた。

「流れ」に逆らうことはできない。逆らってもいいけれど、無駄である。

ある人のものの考え方や感じ方に影響を与える要素は無数にある。パーソナルヒストリーの全史−育った家庭、受けた教育、読んだ本、見た映画、聴いた音楽、会った人間たち−からその日の天気や乗った電車の込み具合や隣人の挨拶までが、その人の根源的な自己確認−「私はなにものなのか?」−に関与する。

木の葉に落ちた雨滴が集まって激流となるように、そのようなささやかな要素の総合的効果が人間においても滔々とした「流れ」を形成している。

その人の「流れ」と私の「流れ」が交わるときに「ご縁ができ」、「流れ」の方向が変わって、別々の水路をたどるようになれば「ご縁が切れる」。その「流れ」の方向を変えたのは、実は一滴の雨のしずくの効果かも知れない。(プリゴジーヌのいう「バタフライ効果」だ)。

でも、「一滴の雨のしずくのせいで流れが変わるなんて、理不尽だ」と言っても始まらない。人生は複雑系である。

わずかな入力の変化が劇的な出力の変化を結果することだってある。

「ご縁ができた」ことについて自分の人徳を誇るのがお門違いであるように、「ご縁が切れた」ことについて自分や相手の非を論うのも無駄なことだと私は思う。粛々と受け容れるほかないと思う。

 

というわけで、年末を迎えて、一年を回顧するウチダはちょっと観想的な気分である。

なにしろ、今年は「父親」として自立する娘を送り出し、「研究者」としてライフワークを刊行し、「武道家」としてのキャリアを実質的に終えたのである。

「人生が終わった」と言って過言ではない。

私は人も知る「イラチ」であるが、何も「人生の幕引き」までこれほど急かなくても、と思う。しかし、これほど気ぜわしく「第一幕」を終えたがるのは、きっと「第二幕」に何か期すところがあるためのであろう。

でも、いったい「次」は何を始めるつもりなんだろう。(本人も分かってない。)


12月28日

大阪能楽会館へ養成会の発表会を見に行く。

能二番、『鍾馗』と『猩々乱』。狂言『蝸牛』。それに素囃子と独鼓『鵺(ぬえ)』。

養成会の発表会はプロになるべく養成中の生徒さんたちの他に錚々たる能楽師が登場してしかも無料という大変リーズナブルな催しである。能が見たいがお金がちょっと・・・という学生さんにとってこれほどよい機会はない。次回は2月27日午後6時開演。オススメです。

『鍾馗』ははじめて見る能である。シテは生徒さん、元気に演じていたが曲そのものはあまり深みがない。

『猩々乱』もはじめて。(シテは上野朝義さん)ウチダは去年の大会で『猩々』の舞囃子をやったのであるが、同じ曲とは思えない。なるほど、プロとはこういうものか・・・

ウチダのご贔屓の大倉慶乃助くんがぱこーんぱこーんと気持よく大鼓を打っている。

慶乃助くんはまだ18歳。舞台裏でお会いするとシャイな少年だが、舞台に立つときりりと引き締まった思い切りのよい囃子を打つ。私がいつか能をやるときが来たらぜひ大倉慶乃助くんに大鼓を打って頂きたいと思っている。

『蝸牛』は善竹家の若手(隆司、隆平、忠亮)の息の合った狂言。忠亮くんはSMAPのクサナギくんに酷似していて、TVのヴァラエティの罰ゲームでクサナギくんが狂言をやらされているような錯覚にとらわれる。

独鼓の『鵺』は女学院OGの高橋奈王子さん。少しゆったりめの喜多流の高林呻二さんの謡に合わせてぴしぴしと小気味よく打ち込んで行く。堂々たる舞台である。おそらく彼女がうちの大学の卒業生では最初のプロの囃子方ということになるのだろう。

来年のさらなる活躍に期待したい。

 

寒空の中を帰ってホーライの餃子と豚饅を食べながらTVでハリソン・フォードのインタビューを見る。この間はシガニー・ウィーヴァーをやっていた。たいへんに面白い。

ハリソン・フォードが『逃亡者』のときには製作、監督、主演を兼ねたようなかたちで作品をコントロールしていたと聞くが、というインタビュアーの問いに「それは、違う。私は・・・filmmaker チームの一員だ」と答えていた。

字幕では「映画製作者」と訳されていたけれど、それではプロデューサーと区別できない。

フィルムメーカーはフィルムメーカーである。映画作りに参加するすべてのスタッフ、キャストはひとしく「フィルムメーカー」と呼ばれるべきである。それは個々人の自称であるだけでなく、映画の企画、製作、宣伝、流通のすべてにかかわった人々を含む集合名詞である、とというのが私の意見である。(実は、ウチダはこれに加えて「解釈者」もまた「映画をめぐる神話の語り手(myth-maker)」としてフィルムメーカーの末端にでも算入していただけないかしらと思っている。だって、映画というのは、神話込みでナンボの商品なんだから。)

 

K先生からメールがくる。

先生はこの春から女学院の学生らしき人から執拗な中傷メールを自宅あて、掲示板あて送りつけられていた。そのせいで先生のホームページは掲示板は差出人が自分のメールアドレスを書き入れないと書き込みができないシステムに変更されたのである。

この中傷メールの差出人は先生の講義を聴講している本学の卒業生の携帯に繰り返し「死ね」とか「授業にくるな」といった脅迫メールを公衆電話から送りつけている学生と同一人物と思われる。

「死ね」という文言があった以上、これは刑法222条の「脅迫罪」に相当する。懲役二年以下の刑である。たぶんやっている学生は自分が刑法に抵触する重罪を犯しているという実感はないのだろうが、福岡地裁の事件では同じようなケースについて先日実刑判決が下された。

学内の教育活動に関連して刑事告発を招くのは心苦しいことだが、このような卑劣な犯罪を「学生だから」というだけの理由で看過することはできないと私は思う。

ひとの名誉を損なう社会的行動がどれほどの責任とリスクを伴うことなのか、学生たちはあまりに知らない。

 

寝しなに立花隆の『東大生はバカになったか』を読む。

少し読んだだけだが、「東大生はバカになったというのは幻想であって、実は昔からずっとバカだった」という反論が予測される。

これについてなら私には確言する資格がある。


12月27日

今日も忙しい。

まず年賀状を作成して、宛名書き。それから郵便局と大学で用足しをして、昨日上野先生から持ち込まれたトラブルを片づけてから梅田まで行って大阪能楽会館で観能である。

ばたばたしていたら晶文社の安藤さんから督促の電話。

「原稿締切年末までというお話でしたが・・・」

年末って、あと四日しかないですね。

まだ一枚も書いていない。

漱石論の最終回。『こゝろ』と『三四郎』における「師弟関係」について論じるのである。

師弟関係論は『レヴィナスと愛の現象学』に書いたあとなので、言いたいことはだいたい決まっているのであるが、「言いたいことがだいたい決まっている」状態というのは、ものを書くためには、かならずしも適切なモードではない。

自分が知っていることを書くのは本人にとっては仕事に立ち向かうときのあまり強い動機づけにならないからである。

言いたいことがのどもとまで出かかっているのだが、言葉にならないので、つんのめるように書く・・・というのが、ものを書くときにいちばん生産的なステイタスなのである。

とりあえず『こゝろ』を読み返す。

今夜宛名書きが全部終わったら、漱石論を書くことにしよう。

文春からは『いきなり始める構造主義』のOKが出たそうで、これも1月中旬くらいまでに脱稿しないといけない。

『映画の構造分析』も名古屋でしゃべったことが記憶にのこっているうちに書いてしまわないと、忘れてしまう。

『ミーツ』の江さんから、次号は「フリーター」論で説教をかましてくださいというご要望がきているが、これもきっと1月中旬が締め切りのはず。

そうこうしているうちに『困難な自由』の翻訳はいつ出来るんですかときついキックが中根さんから入りそうだし・・・

年始に東京にいるあいだもシグマリオンで原稿書き続けだな、これじゃ。

冬休みがあと一月欲しい。(昨日から始まったばかりだというのに)


12月26日

納会の翌日は泊まり込み部隊とともに大掃除というのがここ数年の習いである。

今回は四名が大掃除に参加してくれた。

たいして家具のない、しらじらとした家の掃除であり、かつ「これ、どうしましょう?」というような疑念の湧いたすべての物品はただちに「捨てる」というのがわが家の管理上の大原則であるので、掃除というよりは「ゴミ捨て」である。

このような方針で過去10年ほどお掃除をしてきているので、年々目に見えて家財が減ってきて、空間が拡がってくる。

「去年一年一度も使用しなかったもの」は洋服でも何でも今後とも使用される確率が低いので、ためらわず捨てる。

必要になったら、そのときにまた買えばよろしい。

捨てたものを後から「捨てなければよかった」と思ったことはこの10年のあいだに2回くらいしかない。それも私が必要になったのではなく、誰かに「***持ってません?」と聞かれて、「あ、捨てちゃった」と答えて残念がられた、という場合だけである。

コンピュータもハードディスクのデータごと捨てる。

1987年にワープロを使いだしてから、のべ6台のワープロ、パソコンを捨てたが、そのどれについてもデータのバックアップを取っていない。

あれこれの学術データなんか使うときに使わなければどうせ使わないのである。

あとから必要になりそうなデータは論文にちゃんと引用してあるから、それを見れば分かる。

ハードディスクごと私は「過去」を捨てる。

「過去を振り返らない」というのが私の主義である。

だって、振り返った場合の「過去」というのは、あらかた本人の「作り話」なんだから。そんなものを後生大事に取っておいても仕方がない。そんな「決定版・私の過去」なんてものが確定していたら、この先「過去について作り話をする」楽しみが減るだけじゃないですか。

私はひとに自分の過去について聞かれるたびに「違う話」をする。

だって、いまの自分と整合させようと思ったら、0歳からの記憶をぜんぶ書き替えないと「つじつま」が合わないでしょ。

私は「記憶をぜんぶ書き替える」というのが大好きである。

そのためにはハードディスクのデータなんて邪魔なだけである。

Don't look back but make up a story.


12月25日

「ひとりきりのクリスマスイブ」の翌日はお客さん雑踏の合気道会納会である。

今年は土曜ではなく週日の納会となったので、やや人数が少ないが、これくらいの方がひとつの話題でみんながしゃべれて面白い。(30人もいると、3,4人の組が10くらいできて、わいわい騒いでいて、もう収拾がつかない。)

お稽古をしたあと、どどどと御影の我が家に合気道関係者諸君が集合する。「ひとり一品持ち寄り」であるが、みんな次々と凝ったクリスマス・ディッシュを持ち込んでくるので、たいへんなご馳走である。

モエ・エ・シャンドンで乾杯してから「江口の唐揚げ」「溝口サラダ」「ピーちゃんの焼きブタ」「飯田先生のレバーペースト」「ウッキーの海老フライ」「佳奈ちゃんのスペアリブ」など次々出てくるゴージャズなお食事をわしわしと食べ進む。

北川マユさん登場で、過日の「シングルベル」で大好評であった、ヤベッチ作・演出の「『ヴェーイ』、うるさいよの薔薇」のさわりを拝聴し、抱腹絶倒。(「ヴェーイ」は多田塾関係者はご承知のあの「ヴェーイ」である。たしかに「うるさい」かも。)

なんとこの作品は上演時間105分の大作だったそうである。すごいね。

合気道部が実は本学の「裏演劇部」であるということはあまり知られていないが、ぜひ来年からは、演劇を志す学生諸君にはとりあえず合気道部に入部していただきたいと思う。公演は年一回クリスマス、それにそなえてあとの364日は身体訓練と発声訓練を「合気道」というかたちでさせていただく、というのでいかがであろうか。

さっそく来年のクラブ紹介は「劇仕立て」でやることに決定。

美少女姉妹(佳奈ちゃんとエグッチ)を悪漢(ヤベッチ、ウッキーその他のみなさん)が襲うが合気道のわざで悪の一味が投げ飛されてハッピーエンドというのはどうかしら。(うーむ、やはり矢部くんにホンを書いてもらおう。)

26日は「お泊まり組」(佳奈ちゃん、エグッチ、大西さん、ピーちゃん)に手伝ってもらって大掃除である。


12月24日

Merry Christmas

といってもどこにも出かけず家で大掃除。

クリスマス気分を出すべく「クリスマス・ソングス」のカセットをかけて、これをBGMに掃除機をかける。曲は定番の山下達郎「クリスマス・イブ」、ワムの「ラスト・クリスマス」、ジョン・レノンの「ブルー・クリスマス」、ユーミンの「恋人がサンタクロース」などなど。

最近の学生さんによれば、生まれたときから20年、この季節になると「クリスマス・イブ」と「ラスト・クリスマス」を聴かされて育ってきたので、ほとんど「文部省唱歌」のようなものとして内面化しているそうである。

なるほど。

表は青空。洗濯物が明るい光の中ではためいていて、なかなか気分がよろしい。

まず本を整理する。原稿を書いているあいだに参考に持ち込んだ本が床に散乱しているのをとりあえず書棚に戻す。

手に取る頻度の高い本を手元に集め、当面必要のない本を遠くにおしやり、もう読まない本は廃品回収に出すべく紐で括り、背表紙をみているだけでわくわくしてくる本を目の高さのところにずらりと並べる。この作業が楽しい。

パソコン回りを掃除して、書斎の掃除は終わり。

次にCDとDVDの整理。これはものがすくないからすぐ終わる。

次にクローゼットの掃除。これもほとんどからなのですぐ終わる。

次に寝室の掃除。散らばっていた衣類を買ってきたプラスチックの衣類ケースに並べて重ねておしまい。

おや、台所以外はほとんど終わってしまった。

所有物が少ないと掃除が簡単でよろしい。

今後もますます所有物を減らして、すずしい無一物の身となりたいものである。

買い物に出かけて、帰りに「もっこす」でラーメンを啜って、戻ってお風呂に入ってから原稿書き。

♪きっと君は来ない、一人きりのクリスマス・イブ。


12月23日

 名古屋のホテル暮らしでも今回はシグマリオンのおかげでインターネットができる。

 毎晩、寝しなにウィスキーをのみながら鈴木晶先生の日記を読むのが楽しみであった。その先生の少し前のホームページになかなか大事な話が載っていたので、再録させて頂きます。

 

 先日、ある大学の先生が「学生が、いまアルバイトに費やしている時間の半分でも勉強してくれたら」と嘆いていた。その先生が学生からきいた話では、学生たちはたんに金のためにアルバイトをしているのではなく、授業よりもアルバイトのほうが「面白くて、ためになる」から、やっているのだそうだ。

 なるほど。それなら大学なんかやめて働けばいいではないか。つまらないところに長居をすることはない。時間の無駄だ。

 これから数年のあいだに大学がばたばたと倒産し、大勢の大学教師が失業することになる。大学教師の立場上、いってはいけないことなのかもしれないが、日本は大学が多すぎる。本来大学にすすむべきでない若者まで大学に来ている。それが問題だ。

 彼らにとっては、授業よりもアルバイトのほうが面白いし、ためになる、というのは事実だろう。(いまはとりあえず、教師の教え方がへたなために授業がつまらないという問題はちょっと措いておく)。

 大学はレジャーランドだといわれるようになってから久しいが、少なくとも私は、頭が古いといわれようと、大学というところは学問と教養を身につけるところだと思っている。学生時代に遊ぶなと言うつもりは毛頭ないが、遊ぶ場所は他にいくらでもある。

 学生の興味を惹くために、授業でカラオケをやったり、ラーメンをつくったりする大学もあるそうだ(栄養大学や家政科ではなく)。ばかじゃないの。

 学生集めのためにおしゃれなレストランをつくったり、気前よくパソコンを貸してくれる大学もあるそうな。学生が集まらなければ、つぶれてしまう、という気持ちはわかる。でも、他人事だから言えるのかもしれないが、そんな大学はつぶれたほうがいいんじゃないのかね。

 これからの「冬の時代」に大学が生き残るためには、安易な学生サービスにつとめることよりも、今よりも厳しく学生をしごいて、少しでも「優秀」な学生を世に送り出すことのほうがずっと大事だという気がする。

 学生をしごく前に、やる気のない教師をしごく必要がある、という問題もある。

 アメリカの大学では学生が教授を評価するのが常識だが、アメリカの場合、授業はつまらないが楽にAがとれる、という教授の評価は最低だそうである。日本の場合は反対だ。だから人気取りのために甘い点をつける教師が増える。学生も学生で、楽に単位がとれる授業に殺到する。困ったもんだ。日本の大学は卒業するのが簡単すぎるよ。

 

 というのが鈴木先生の今日の大学への辛口のご評言である。ウチダも先生のご意見にはほとんど同意見である。

 ただし、「このあと大学は厳しい淘汰の時代にはいるであろう」という私の見通しと「そんな大学はつぶれたほうがいいんじゃないのかね」という鈴木先生のご判断のあいだには微妙な温度差がある。

 それは私が大学の果たすべき社会的機能のひとつに「失業率の引き下げ」を含めているからである。

 勉強しない大学生が大学を逐われて労働市場に参入したら、完全失業率は5・6%では済まない。それによって日本社会が負うことになる社会的コストは、勉強しない学生がバカであり、バカな学生をバカな教員が再生産していることによってもたらされる被害よりもあるいは大であるかも知れないと私は心配しているのである。

 まあ、私は根が心配性だから、そういうふうに悪い方に悪い方にものごとを考えてしまうのかもしれない。ともあれ、いまの大学が、何かよきものを生み出す機構であるというよりは、せいぜい「より悪い事態」を先送りする機構でしかないのはちょっとまずいのではないか、という見解において私と鈴木先生のあいだに大きな意見の相違はないようである。

 で、鈴木先生のご意見への傍証として、ウチダが付け足したいのは葉柳先生にお聞きした「学生集め」のすごい話。

 九州の某大学は、学生が来ないので、「中国人留学生」を大量に受け容れることにした。留学生といっても、大学に来て勉強するわけではない。大学はただ大学学生証を発行して日本在住の法的保証をするだけである。

 彼らは入学手続きをすませると、それぞれ大阪、東京に散って、四年間労働に精を出し、お金をためて国へ帰る。

 留学生は出稼ぎができ、大学は定員割れの危機を逃れることができる。大体学生が学校に来ないんだから、施設も損耗しないし、教員の人件費もかからない。学生からは満額の授業料がいただけるし、留学生を受け容れていると、文部科学省からも多少は予算がつく。留学生を送り込む組織(留学生版のスネークヘッド)には多少のキックバックをしなければならないようであるが、関係者全員ハッピーというめでたい図式である。

 問題はいくらなんでも文部科学省が怒るということである。(そらまあ、怒りますわな)そこで在学生の現住所が大学の通学圏にない学生の数が一定以上の比率を超えたらペナルティを課すと脅かした。(当たり前である。教育機関として機能してないんだから。)

 しかたなく、その大学は留学生の一部を他の大学に「譲渡」することにした。

 そして学生名簿の譲渡に際してなんと「入札」を行ったのである。そしたら応札した大学がいくつもあった。つまり日本各地の「定員割れ」大学がその名簿を買って、名目上の留学生を自分のところの学生の頭数に算入しようとしたのである。

 すごい話である。

 生き残るためにはスネークヘッドとの闇取引も辞さないという大学の態度には鬼気迫るものがある。もはやパソコン貸与とか娯楽施設の充実とかいうような牧歌的な段階は終わっているのである。

 末期的状態にある組織は、その組織が「そもそも何のためにある」のかが忘れられて、組織そのものの「生き残り」が最優先課題になる。(銀行もゼネコンも大学もその点では変わらない。)

 経験的には、そのように自己延命が最優先になってしまった組織はいちはやく淘汰されることになるのである。かわいそうだけどそれが人生つうものなのよ。

 しかるに本学における喫緊の問題は、「生き残り」のために何かしようということさえしない組織はどうなるかということである。

 これが意外なことに、「何もしない」というのは「けっこう正解」な場合が多いのである。

 ビジネスマンの方々にお聞きすると、企業というところでは「何もしない社員」というのが相当数いるのだが、これは別に「給料ドロボウ」というだけで、特段の悪さをするわけではないので、「飼い殺し」にしておけばそれほど邪魔にはならないらしい。窓際で一日日経を読んでお茶を呑んでいる社員というのは、言われるほどに迷惑な存在ではないのである。

 それよりもっと悪いのは、「仕事をすればするほど会社が損をする」社員である。

 この「こいつらが必死に仕事をすればするほど会社が損をする、主観的には善意でかつ勤勉である社員」をどうやって「無為」の状態にとどめおくか、ということが各企業における深刻な問題なのである。

 たしかにスネークヘッドから留学生を買うようなアイディアを思いつく大学人は「何もしない」給料ドロボウではない。

 バブルのころに学生の納付金をそのまま定期預金にしておくのはもったいないから株で運用しましょうなどということを理事会に提言して、何十億円もの金をドブに捨てさせたのはこの種の「勤勉な」大学人である。

 翻って本学をつらつら見るに、「何もしない」同僚は散見されるが、考えてみると、この人たちの及ぼす被害はさしあたり「プラスがない」という程度のものにすぎない。それに比して、あれこれといろいろなプロジェクトを思いついて、がんがん組織改革などを提言する教員(あ、おれもそうか)は結果的にとんでもないダメージを大学に与える可能性がある。

 金融関係の方に聞くと、東京三菱銀行はバブルのときに「ぼー」っとしていて、不動産投資をぜんぜんやらなかったので、結果オーライで不良債権を抱え込まずに健全経営になっているらしい。

 「何もしないでぼーっとしている」ことの効用というものもたしかにあるのである。

 パンダとかナマケモノとかが自然淘汰を生き延びているということにはおそらく何らかの摂理が働いているのであろう。

 あるいは神戸女学院大学は「パンダ」として生き残る道を探るべきかもしれない。

 何もしないで笹の葉をぱりぱり囓って、女子高校生に「かわいー」とか言われているようなあり方が意外に「大正解」という可能性もある。

 冬休みはひとつこの問題についてしばし沈思してみたい。そして、「大学パンダ化五カ年計画」の原案を策定して、これを学長にご提言して・・・あ、また「提言」か。もう、やめよう、これは。

 というわけで、なんだか急激にやる気をなくしたウチダは大学関係の書類作成とかの宿題をぜんぶ放り出して、大槻能楽堂に観能にでかける。

 とかいいながら、移動時間が惜しいので、駅のホームでも電車の中でもシグマリオンでばしばしと本の原稿だけは書き続ける。

 番組は「清経」「妓王」「熊坂」。

 「清経」は謡を稽古したことがあるし、仕舞もやったので、「おお、本当はこういうふうに演じるのか」と感心しながら眺める。

 「妓王」は観世流にはない能。なぜかたちまち爆睡。舞台上ではワキの福王和幸くんが必死で睡魔と戦っている。現に舞台に出ていて、もうすぐ自分のせりふがある状態でなお睡魔に抗しきれずにいる。笛方も地謡のみなさんも瞑目しておられるが、果たして起きているのか寝ているのか判然としない。それほどにネムイ曲であった。

 「熊坂」は大西礼久さんという若手のシテ方が元気いっぱいに演じられていて、たいへん楽しめた。ウチダは大阪ではこの大西くんに注目している。豪放で端正な芸風である。

 そのあと梅田の紀伊国屋書店で自分の本の売れ行きをチェック。平積みなのだが、奥の方に隠れていて、おまけに二冊しかない。『ミーツ』の江さんの情報では神戸の本屋では初日にすでに売り切れで買えない書店もあったそうであるから、あるいは売れ行き好調で仕入れが追い付かないのかもしれない。うん、そう考えることにしよう。


12月22日

一週間の名古屋暮らしを終えて神戸に帰ってきました。

やはり六甲が見えるとほっとする。

とりあえずばりばりに凝り固まった身体をほぐすべく合気道へ急ぐ。

ところが好事魔多し。

御影の細い路地でいきなり人身事故を起こしてしまった。

何の障害物もない道を徐行に近い速度で走っていたはずだが、「ガツン」という音がして、バックミラーを見ると車の後ろでいますれちがったはずの歩行者が手を押さえている。

あわてて車を停めて降りてみると、私の車のドアミラーに当たって手を怪我したというのである。

おお、なんという不注意であろう。

平謝りに謝ってまず止血をし、軽症には見えるが骨に異常があるやもしれず、とりあえず病院へ参りましょというと、いま急いでいるから病院にはあとで自分でゆくからよい、という。ま治療代だけもろとこか。

このへんでちょっと怪しいかなとも思ったのであるが、とりあえずこちらは加害者であるから、へこへこするほかない。それに傷といってもただの切り傷である。治療代と言ってもたいした額にはなるまい。

すると「あ、時計までいかれてもうた」と腕時計のガラスの割れたのを示す。

「この時計イタリア製の高いもんなんやけど・・・。ま、治療代と合わせて三万ほどもろといたらええわ」

お、ばっちりはめられてしまった。これが世に言う「当たり屋」というやつか。

はめられたことに間違いないのであるが、とにかく現に相手は手の甲からだらだら血を流しており、時計のガラスはばりばりに割れており、私は謝っているのである。この形勢からの逆転は苦しい。

「あの、そういうふうに額が大きくなると保険で何とかしないといけなくなるので、とりあえず事故証明とりに交番までお付き合い願えますか」と劣勢の挽回を試みるが、向こうも慣れたもので、「いや、交番いかんでもいいわ。兄ちゃんかて、人身事故で点数減るの困るやろ。こっちもいそいどるしの。も、あるだけでいいわ」

なんだかこんな貧相なおやじと道ばたでごたごたしているのも面倒になったし、後ろには車が渋滞してきたので、じゃあと財布を出して、一万円くらい出してオサラバしようと思ったら、「全部もらっとこか」と言う。

もう面倒になって、有り金全部2万2千円そっくり差し出す。

そして、ちょっとがっくりして車に乗り込んだ。

ところが、ここで天はウチダに微笑んだ。

おじさん商売がうまくいったので、すっかり調子に乗ったか、「兄ちゃん、わしいそいどるんやけど、駅まで送ったってや」と言い出したのである。あ、いいすよ、どうぞと助手席に乗せた。

バカなおやじである。

濡れ手に粟の二万円で満足しておけばいいのに、タクシー代わりに私の車にのったのが運の尽き。

駅に近づいたところで「あ、交番そこですから、やっぱ、ごいっしょしてくださいよ」と駅前交番前に停車する。

おじさんはあせって走行中の車のドアをあけて飛び降りようとするので、襟首をつかまえて片手でフロントに押さえ込み、首根っこを抑えたままずるずると交番までひきずってゆく。

「すみませーん。そこで人身事故やっちゃったんです。この方が被害者なんです。怪我されてるし、イタリア製の高級時計も壊れたというのに、お急ぎなんで交番にも病院にも行きたくないとおっしゃるんですよ。そこをまげて、ぜひ事故証明をお願いします」と言ったら、出てきた巡査のみなさんもひとめで事情を察知。

もちろん口調はていねいであり、あくまで「事故証明の書類作成にご協力下さい」といいながらであるが、実質はおじさんの「取り調べ」である。

おじさんもよせばいいのにおまわりさん相手に嘘の名前や住所を言って逃れようとしたせいで、すすんで罠にはまってしまった。

おじさんの挙動はたいへんに不審であり限りなく犯罪に近いのであるが、この事故においては間違いなく被害者である。すでになされたお金のやりとりは民事のことなので、警察は介入してくれない。

さいわい、「イタリア製の時計」なるものが接触当時の時刻を指していなかったので、もとから壊れていたことが「取り調べ」の過程で判明した。

時計の修理代を含めてさきほどはお金をお払いしたので、とりあえず全額をおもどしいただいた上で、あらためて手の傷の「バンドエイド代に」1000円札一枚渡して示談ということになった。おじさんは「1000円だけというのはあんまりじゃ、もうちょっとなんとかならんかのう」とうらめしそうな顔をして去って行った。

おまわりさんの説明では、すぐに県警と府警に照会したのだが、このおじさんがほかの刑事事件と関係があるという情報がでてこなかったので、法的にはあれ以上引き留めることはできないのだということであった。

静かな御影の街でこんな事件ははじめてだそうである。

とりあえずこの1000円は「狭い道で車に寄ってくる怪しいおやじには気をつけろ」という教訓の授業料だと思うことにしよう。襟首つかんで締め上げたときには少し痛い思いさせちゃったし。

ウチダは1000円と稽古時間を失い、おじさんは二度身体的な苦痛を味わった。トータルではなんだかおじさんの方が損したような「御影当たり屋」事件でありました。


12月21日

名古屋での集中講義の最終日。

『北北西に進路を取れ』と『サイコ』が素材。

用意していたノートは結局ほとんど使わず、ホテルの部屋で考えたアイディアとその場の思いつき。

不思議なもので、これまで何度も使い回ししているネタは、しゃべっている本人がその話に飽きているので、言い方を換えようとか、たとえを違うものにしようとか、その場でためらうことが多いので、つっかえたり、口ごもったりすることがある。

逆にその場の思いつきは、頭より先に口がしゃべっている「恐山のイタコ」状態であるので、口跡たいへんになめらかである。

聞いていた学生たちは、こちらが前から用意していたものであり、つっかえている方がその場の思いつきだと取り違えているかもしれない。

実は逆なんですよ。

解釈とは「次の解釈」の起点となるべきものであり、そこで解釈が停止することはあってはならない、という持論を語って五日間にわたる集中講義はフィニッシュ。

聴講生諸君お疲れさまでした。

そのまま学生たちをつれて、中村先生、葉柳先生と「打ち上げ」へ。

開放感ですっかりよい気分になり、中村先生にのせられるまま、もう好き勝手なことを吹きまくる。

さらに大人数でどどどと名古屋市内の繁華街である栄の居酒屋へ二次会に繰り出し、こんどは葉柳先生とむずかしい議論をするが、こちらはもうタガがはずれているので、でたらめ言い放題。

どうもこの集中講義でウチダの「でたらめエクリチュールの回路」に電源がはいってしまったらしく、しゃっくりのように止まらない。

しかし今回の講義でいちばんうれしかったのは、単に単位稼ぎのつもりで冷やかし半分に登録した(本人談)学生たちが、聞き始めたらおもしろくやめられなくなり全部出てしまったという感想を言っていただいたことである。

講義が楽しみで大学に来たのは入学以来始めてですという言葉にはウチダも感動。

「大学の先生ってこんなおもしろいこと研究してるんですか」

実はそうなんだよ。私の映画論のようなものを学術研究と言うのはいささか不穏当かもしれないけどね。

とにかくたいへんに愉快でかつ有意義な集中講義でありました。(本一冊分の原稿も書けたし)

お招き頂きました名大独文の中村先生はじめ諸先生、今回の集中講義の仕掛け人である葉柳先生、そして熱心に聴講してくださった学生諸君に感謝します。ウチダにとっては、すてきなクリスマス・プレゼントでした。気合いの入ったレポートを期待しております。


12月19日

『大脱走』を解読する講義の最中にいきなり「エクリチュールの絶頂」が訪れ、次々とアイディアが浮かんでくる。「三組の三人組」というアイディアが天啓のように訪れ、その図式でばりばりと読み解くと、あらふしぎ、『大脱走』が母性をめぐる物語であったということがあらわになったのであった。

もちろん学生の前であるから、前から分かっていたんだよというような顔をしてしゃべっているのであるが、実は全部その場の思いつきである。

しゃべりながら、ああこの講義を録音しておけば論文が一本書けるのだが・・・とあせる。

学生たちは途中でノートをとる手を止めて、終わりなく暴走する私のスペキュレーションに呆然と聞き入っている。

私がしゃべり終わると、学生たちも緊張が解けて息をついているのが聞こえる。

講義が終わると走って宿舎に帰って、とにかく思い出せる限り、自分のしゃべったことをシグマリオンに打ち込んでゆく。

4時半ごろから始めて気がつくと11時。

しゃべるのは簡単だけど、それを書き写すのは大仕事である。

4時過ぎに講義が終わるのだから、毎晩どうやって暇をつぶそうかと大量に本を持ち込んだのであるが1頁とて読む暇がない。一晩中、机にへばりついて講義ノートを書いている。

もちろん来る前に250枚分くらいのノートはできていたのであるが、始めてみると、それではもの足りない。もっともっと書きたくなってくる。

さすがに三日連続で身じろぎもせずに仕事をしているので、背中が痛くなってきた。

早く帰って合気道の稽古がしたい。

今夜から宿舎が町中に移る。


12月18日

酔ってしまったので仕事はできないし、テレビをつけてもつまらないので、10時に就寝。疲れていたのかそのまま7時まで爆睡。

暗いうちから起き出して早速授業の準備(というよりは原稿の書き直し)

この映画論もどこかの出版社に売りつける算段である。

集中講義でバイトして、その講義ノートを転売して「一粒で二度美味しい」思いをしようというのであるから早起きも少しも苦にならない。

 

『エイリアン』論の続きをしてから、午後は物語を破綻させるところに解釈の糸口がある、という話に展開。

その代表的な作品として『大脱走』を見る。見てから、びっくり。なんだ。これってホモソーシャルな集団の話であるだけではなく、「アンチ・オイディプス」の話でもあったんだ。

なるほどね。

何度見てもおもしろい映画というのは、やはり「奥行きのある映画」なんだ。


12月17日

名古屋大学集中講義第一日目。

一年前の書いたシラバスでは「物語の精神分析」としてあったのであるが、お題は「映画の構造分析」。

一年も間があくと、こちらの関心もいろいろ変わるのである。

私の言いたいことは簡単で、「映画の解釈は好きにしてよろしい。解釈はこうでなければならない、というような規範はない」というものである。ただし、「好き放題にやってよろしい」と断言するためには、それなりの学術的基礎づけが必要だ。

つまり、「好きなことをさせていただくための、地均し」というか基礎づけをしようというのである。

いまから五日間、映画ネタで好き放題おしゃべりをさせていてだくわけだが、そのおしゃべりは「映画については、好き放題おしゃべりをしてもよい」ということを論証するための作業なのである。

つまり私は仕事をするというかたちで仕事の報償をすでに受け取っているのである。だって、私が仕事の報償として要求していることは「仕事させて」ということだからである。(ややこしいことを言ってすまない。)

しかし、ラカンも言っている。

「人間の欲望が欲望するのは、欲望そのものであり、その全く満たされることのない空虚状態にある欲望そのものである。」

つまり、「ああ、腹減った、カツ丼食べたい」と思っていたら、カツ丼が目の前にでてきた、というような時に人間はもっとも欲望の充足に接近しており、欲望を満たすべくカツ丼をわしわしと食べ進んでゆくにつれて、急速にカツ丼への欲望は失われる。だから、欲望の絶頂と欲望の充足が同時的に経験されるということは原理的にありえないのである。

であるからして、欲望の激しい人間は、当然にも、欲望の充足をではなく、充足の延期(カツ丼が目の前にあって、いままさに箸を伸ばそうとしているその至福の不充足感)そのものを欲望するようになるのである。

ユーミンも言っているではないか。

翌日から欠ける満月よりも、私は十四番目の月が好き、と。

ユーミンはラカンと同じことを言っているのである。

 

今日は初日なので自己紹介と名刺代わりに聴講生たちの映画の見方についてちょっとした質疑応答。

とりあえずバルトのテクスト論と「映画的なもの」という概念を説明したところで『エイリアン』を鑑賞する。

映像記号論の素材としてこれほど絶好のものはめったにない。

今日も新たにいくつも発見をしてしまった。

映画のクライマックスが完全に「ポルノグラフィ」であることにあらためてびっくり。

映画の謎解きは明日のお楽しみということで、第一日はおしまい。

 

独文の先生方のご招待で、夜は歓迎会。

名古屋で一番美味しいと葉柳先生ご推奨の浜木綿というお店でぱくぱくご飯をいただいて、ビールや紹興酒をぐいぐい飲んで、どんどんしゃべる。

日本の大学はこれからどうなってしまうのであろうという切実な問題をかなり真剣に語り合ってしまう。

清水先生、シュラルプ先生、中村先生(がお二人)、どうもごちそうさまでした。

明日も一日お仕事である。今日は早く寝よう。


12月16日

谷口なをさんと長井博之さんの結婚披露パーティが三宮の東天紅である。

谷口さんは女学院合気道会の第一号会員であり、つまり神戸におけるウチダの「のれん分け」の最初のお弟子さまである。

すべてはここから始まったのである。

あれから十年、ウチダの鬢にも白髪が目立つようになり、私が手塩にかけたお弟子さまたちもみなそれぞれ立派に一家を構えられ、披露宴の会場のなかば近くを合気道会の諸君が埋めるまでになった21世紀の最初の年に、私がもっとも愛したお弟子さまの一人が嫁がれたのである。

鳥なき老師の目に涙である。

谷口さんは中学生のときに根をつめてバスケットの練習をしたせいで身体を壊し、医師から激しい運動を禁じられて十代を過ごされたのであるが、ウチダのセールストークを信じて、1990年の冬の一日、わが研究室の扉を叩いたのである。

「私のような身体の弱いものでも合気道はできますでしょうか?」

触れれば折れそうな細身の少女の澄んだ眼に見つめられて、ウチダは(つねのごとく)間髪を容れずに答えた。

「お箸とお茶碗をもつ体力があれば、合気道はできます。」

もちろんそんなのは嘘なのであるが、ウチダは感動してしまったのである。

この少女が愉快に稽古でき、自在に使いこなせるような合気道を教えることができなければ、多田先生に就いて学んだ甲斐がない。

いわばこの出会いの時に神戸女学院合気道会のコンセプトは定まったのである。

合気道は人の持つポテンシャルを最大限引き出し、その人のかけがえのない人生をいささかでも豊かにするためにあるのだ、と。

強弱勝敗を論ぜず。

目指すのはひとりひとりの蔵する無限の可能性の開花である。

 

爾来十年余。谷口さんはすっかり健康を回復され、二段を允可され、その端正で術理にかなった美しい動きで後進の範となった。

そして同じ合気道会の後輩、五代主将鎌田ゆかりさんの紹介で出会った長井さんというすばらしい伴侶を得たのである。

手前味噌を承知で言えば、谷口さんは合気道を通じて健康と友情と伴侶を得たのである。

老師が涙する理由も分かろうというものである。

 

ひさしぶりに合気道会の新旧部員たちが一堂に会した。初代主将田口さん(札幌から)。谷口さんの「ボディガード」役のつもりで合気道をはじめて、「あくび指南」ではないが、谷口さん以上にはまってしまった神原さん。三代主将のエビちゃんと同期のケーヨちゃん。四代主将の浦西くん。司会ごくろうさんイギリス帰りの田岡さん。ひさしぶりだぜマッキー下浦。そして現役部員がぞろぞろいるなかで、最後に花嫁のブーケを受け取って次の花嫁候補となったのは現主将のヤベッチであった。

 

それにしても気持ちのよい披露宴であった。集ったすべての人々が新郎新婦を愛し、その幸福を祝していた。

ご多幸をお祈りします。

 

披露宴のあとそのまま小走りに家に戻って、荷造りをして名古屋へ。

駅で葉柳君と会って、とりあえず久闊を叙しつつご一献。

ご一献がご三献くらいになったところで、明日もあるので宿舎の名古屋大学構内へ。

グリーンサロン東山という宿舎なのであるが、構内なので場所がわからない。二人でうろうろしてようやく発見。でも無人の上、もらった鍵で玄関があかない。

裏口をこじあけようとしていたら、職員がでてきて、入り口は反対側だよと教えてもらう。

入って見たらホテル以上の豪華さ。

大きいデスクがあって仕事ができる。

これはありがたい。

まだ5日分しゃべるほどののネタがないので、ここに明日明後日とこもって授業のノート作りをしないといけない。(参考書を4冊も持ち込んでいる。泥縄もいいとこ)

いまから一週間ひたすら学者らしくしないといけない。

大変だけど、久しぶりに女学院の学生以外の若い人と話す機会がもてるのは楽しみなことである。


12月14日

赤穂浪士討ち入りの日であるが、わが友難波江和英さんの教授昇任が決定しためでたい日でもある。

このめでたさに至るには長い苦闘の歴史があるのであるが、それについてはいっしょに「ふぐ」でも食べているときにゆっくりねぎらうことにしよう。

ともかくおめでとうございます。ウチダもほっとしました。

教授会では博士後期課程の認可がおりたことについて報告があり、いきなり指名されて私がお礼を述べることになった。

繰り返し言うように、私はこの案件について誰かに「お礼を言う」立場にない。(私が「ねえねえ作ってよお」って、頼んだわけじゃないんだからさ)

ことは大学の機関決定であり、私は業務命令に従って一研究科委員として、文書作成や文部省詣でのおともをしただけである。

制度的には学長なり文学研究科委員長なり文学部長なりが協力いただいた教職員に(儀礼的にではあれ)お礼を言うべきであり、どっちかというと私はそう言う人たちから「ご協力ありがとう」と「お礼を言われる」立場である。

にもかかわらず私はこれまで何度もあちこちで頭を下げてきたというか当然のように下げさせられてきた。

私の安い頭なんかいくら下げても別に減るわけではない。それで博士後期課程ができるなら、頭なんかいくらでも下げるけれど、そのせいで一部の教員がこの博士後期課程の認可を「ウチダの個人的な要請で出来たもの」というふうに思い込んでいるのはたいへんに困る。

私の知る限り、新学部や大学院の認可が下りた報告のあった教授会で学長、学部長、研究科委員長以外の「ひら」の教員が「お礼」を言ったというのは前例がない。

お礼を言うのは、それで自分にいいことがあったからである、ふつうは。

機関の代表者でもない私がお礼を言ってしまうと、まるで博士後期課程ができたことで私が個人的に利得を得るみたいではないか。

そのせいだろう、いきなり「大学院のやり方、民主的じゃないぞ」と同僚の教員に嫌みを言われた。

たしかに、一人の「ひら」教員が独断専行で、同僚たちの同意を得る努力もしないままに、博士後期課程の増設を勝手に実現したのだとしたら、それはきわめて非民主的なことであり、制度的にはあってはならないことである。

だけど、そんなことできるわけないじゃないか。

制度的に言うと、大学院の理念やカリキュラムは研究科委員会の専管であり、委員でない教員はデシジョン・メイキングには参加できない。

専攻の五人の委員たちはもちろん何度も何度も会議を繰り返し、提出書類の文言に悩み、カリキュラムに工夫を凝らした。この案件が持ち上がってから数年間、そこでどういう議論がなされ、どれほどの時間とエネルギーが費やされたかについては(私にいやみを言ったような)委員ではない教授会メンバーは何も知らない。いきなり博士後期課程が「ぽん」とできたと思っている。

しかし、今度のような紹介の仕方をされると、何年にもわたるそういう協議プロセスがまったく知られないままに「あ、博士後期課程?あれウチダがひとりで騒いでつくったんだろ?受験生が集まんないの?ウチダに責任とらせろよ。しらねーよ、おいらたちは。なんにもきいてねーんだから」というようなリアクションがまかり通りかねない。

ほとんどの教授会メンバーは事情を察して暖かい拍手を送ってくれたけれど、「ウチダによる大学院の私物化を許すな」というような感じのことを言われると、本当にむなしくなる。

いったい、私たちは誰のために働いているんだろう。学生にとって少しでも快適で生産的な教育研究環境を提供するためじゃないのか?

そのために仕事うちにもちかえって夜遅くまで働いてきた人間にむかって、そういう口のきき方はないんじゃないの、ねえ。

まあ文句を言ってもはじまらない。ともかくよいことが二つあったんだから、それを喜ぼう。

あちこちから『レヴィナスと愛の現象学』の感想文が届く。

「読み始めたらとまらなくなって、はっと気がついたら最後まで読了していました」というのが何通もあった。

何がうれしいといって、物書きにとっての殺し文句はこれですね。

増田さんがホームページでまたもしっかり宣伝してくれた。ありがたいことである。

なんだか元気が出てきた。

あさってからいよいよ名古屋大学の集中講義。しばらく研究室に立ち寄れないので、ホームページの更新はお休みです。

次は12月24日ころに更新されるかも(されないかも)

では、みなさんメリー・クリスマス


12月13日

ゼミ面接三日目。

去年がのべ48人、今年もそれくらい来るかなと思っていたのであるが、昨日までで36人。最終日の今日は12時から始めて最後の学生が帰ったのが5時半近く。その間昼飯も食べず、コーヒーを一杯飲んだだけで、29人面接した。

ふう。

トータル65人。(今日面接前に高熱を発して帰った一人が明日来るから66人)

一人平均10分(長い人とは20分くらい)面談したから、ざっと10時間である。

一学年250人だから4人に1人がウチダの顔を見に来た勘定になる。

あんまりだぜと文句を言いたいところだけれど、実際にはある学年の四分の一の学生とface to face で、その人がどういう本を読み、どういう映画を見て、どういう音楽を聴き、何に知的関心を持っているのかをかなり詳細にインタビューしたことになるわけだから、今現在、私は総文で「いちばん二年生の知的傾向に詳しい教師」であるというふうに言えなくもない。

その立場から言わせていただくと、00年度入学の総文学生のクオリティはかなり高い。

こんなに面白い子がたくさんいるなんて知らなかった。

たしかに勉強はあまりしないかも知れないし、本もろくに読んでないかも知れないけれど、みんないい子たちばかりである。

もちろんその中にはがんがん勉強している子も、猛烈に本を読んでいる子も、とんでもない技能やポテンシャルを持っている子もいる。

この中からゼミ生12名を選ばなければならない。

面接したあと、手元のチェック表に「ぜひうちに来て欲しい」という赤丸がついた学生が18人いた。この子たちが全員第一志望にウチダゼミを書いたら、その中から6人落とさなければならない。(泣)

もちろん、その他の48名だって、ゼミ生として迎えるにやぶさかではない。

ほんとうは、私が「来て欲しい」とおもうような学生は、どこのゼミに行ってもちゃんと順応できる程度の社会性がある人たちで、むしろ内田ゼミでしか暮らせないような「困った」学生を取る方が教育的には正しい選択なのかもしれない。

ゼミ生の選択のときはいつも心が痛む。

だけれど、さらに問題なのは、学生たちの知的関心の変容に現在の総文の教員の陣容が十分に対応していないということだ。

総文の教員は30名いるから、ほんとうは1ゼミ8名ずつできれいにばらけるはずなのである。

でも、なかなかそうはいかない。

日本の近現代文学を専攻したいという学生が何人かいた。これは飯田先生が来年度留学のため緊急避難的にウチダのドアを叩いたのであるからやむを得ないけれど、映画やマンガやロックミュージックや演劇や舞踊を研究したいという学生をいやがらずに受け容れてくれるゼミは、うちのほかにはあと二つくらいしか思いつかない。(難波江さんと渡部さんがゼミを開いてくれる2003年度からは、映画や音楽専攻の学生はだいぶ受け皿がふえると思うけど)

たしかに教員たちはそれぞれの専門があって、領域からはずれることをやりたいという学生を責任もって指導することはできないというのは正論である。

しかし、現に学生たちの関心事が既存の学問枠組みからあふれ出している以上、行き場のない学生にはなんだか気の毒である。

いきなりマンガ論や身体技法論にフィールドを拡大するというのは無理でも、文学とか映画とか音楽とかは、「よかったら、うちで見て上げてもいいよ」とある程度門戸を開いて貰えないものだろうか。

鳴門の増田くんがうちにいてくれたらなあとこの三日間何度思ったことか。(17回くらい思った。)

でも、「ロック・ミュージックの音楽美学」なんていう専門の教員の採用は人事計画では絶対に通らないだろう。いちばん学生のニーズの高い領域は何かということはここでは人事の話題にさえならない。こういう専門の先生がいないと「学科としてかっこうがつかない」というような議論ばかりだ。

だけど、大学は大学のためや教員のためにあるのではなくて、学生のためにあるのではないのだろうか。

ウチダはいささか懐疑的である。

 

文部科学省から博士後期課程の認可が今日おりた。

苦節数年、ついに総文に博士後期課程ができた。何よりも上野先生の必死のがんばりと職員の田中さん石村さん、そして東松事務長の完璧な事務処理のおかげである。原田学長、山田文学研究科委員長、高島文学部長、清水学科長代行にもずいぶんとご面倒をおかけした。膨大な書類を書いて頂いた大学院担当教員の皆さんにも叩頭してお礼しなければならない。そして、博士後期課程を作らなくちゃだめだよ、というアイディアを最初に私たちに叩き込んだ鎌田道生先生と、構想段階で綿密なアドバイスをしてくださった人間科学部の山本先生にも心から感謝を申し上げたい。

別にウチダが作ろうと言って作ったものじゃないんだから「お礼申し上げる」というのはほんらい筋違いなんだけれど、感謝の気持を私がほんとうに感じているんだから、お礼を言ったって別に怒る人はいないだろう。

みなさん、ほんとうにありがとうございました。

このあとは院生を迎え入れ、その子たちを一人前に仕立て上げるという大仕事が待っている。

がんばらねば。

 

甲野先生からお電話がある。

先生はあとあと岸和田、福井と回って昨日の夜東京に戻られたのである。

女学院での稽古はとても愉しかったそうで、ほんとうに気持のよい稽古ができましたと言って頂いた。

さすが多田先生仕込みの内田先生のお弟子さんたちだけあって、みなさんよく練れていますねとお褒め頂き、ウチダは感動のあまり受話器を取り落としそうになる。

差し上げた『ためらいの倫理学』も旅行中にお読み下さり、気に入って下さったとのこと。今度関西に来たおりに、甲野先生のご友人のドクター名越とお引き合わせ下さるそうである。

それは楽しみなことである。

「最強の精神科医」名越先生には「ウチダ超常現象研究所/除霊します」方面でのご指導をぜひお願いしたいといまから期待している。

カナピョンがすばやく先生にお礼状を出していて、さっそく手裏剣の稽古に余念がない由したためてあったと言う。

「カナちゃんから手紙が来て・・・(にこにこ)」

おお、甲野先生も気づかぬうちにいつのまにか「林さん」から「カナちゃん」へ呼称変更がなされているではないか。

かの達人をして稽古中に二度も苦汁をなめさせた(甲野先生を背中に乗せておきながら捨てて逃げ出した「後頭部強打事件」および袋竹刀の操作を指導中にいきなりしばいた「前頭部強打事件」の犯人)だけあって、その「起こり」の消しかたは、やはりただものではなかったのだ。

さすが女学院合気道部の最終秘密兵器、全魔連会長。

本年度の合気道会MVPはカナピョンで決まりだ。


12月12日

12のぞろ目の日は久保山裕司くんの命日である。

1996年の12月12日に久保山くんは長い闘病生活のあと、癌で亡くなった。

久保山くんは私が大学生のときにいちばん影響を受けた友人である。

生粋の「街の子」の洒落っ気と「田園の子」のナチュラルさを備えた、ほんとうにチャーミングな少年だった。

久保山くんにはいろいろなことを教わった。

かっこつけなきゃ男じゃないというやせ我慢の美学も、好きな女に振られたら手放しで号泣する真率も、お酒の飲み方も煙草の吸い方も本の読み方もバイクの乗り方もキャンプでの火の多起こし方も、私は久保山くんに教わった。

彼に「***に決まってるじゃないか」と断定されると、私はいつも「あ、そうか、そういうものなのか」と何の反論もできずにその言葉に従った。

私がそれほど素直になれた相手はあとにもさきにも久保山くんしかいない。

『ミーツ』から原稿を頼まれたときに、なんとなく第一回に久保山くんのことを書きたくなった。

1975年ごろ、たぶん久保山くんの結婚式の打ち合わせかなんかで銀座で待ち合わせをしたとき(私は彼の結婚式の司会をしたのである)、私が汚い格好で銀座四丁目の角の地べたにすわっていたら、久保山くんの婚約者だったみーちゃんに見とがめられて「ウチダくん、みっともないから、やめて」と叱られたことを思い出したので、その話を書いた。

そのときの初夏の銀座の青空の色も、みーちゃんのはじけるような笑顔も、久保山くんのすました顔も、尻の下の銀座の舗道のひんやりした感触も、みんな覚えている。

私は死ぬことをあまり恐ろしいと思わないが、それは「死んだら、また向こうで久保山と遊べるな」と思っているからである。

生き残った人間にそういうふうに思わせてくれる死者なんてそんなにいない。


12月11日

大学院のゼミは世阿弥の『風姿花伝』。

身体論として読むつもりだったが、改めて読み返してみて、すごい芸論だと思った。

私が改めて解説する必要なんかないのだけれど、世阿弥が言っていることはただ一つ、「〈花〉というのは実体ではなくさまざまなファクターをリンクするネットワークの機能である」ということである。

「時分の花」と「誠の花」の区別はよく引かれる言葉だが、これを「時分の花」はうつろいやすいいつわりの魅力で、「誠の花」こそ堅牢なる真の魅力である、というふうに私は思い込んでいた。

よく読んだらまるで逆であった。

「時分の花」(つまり17、8歳ころの匂い立つような美貌と芸の輝き)こそが「実」なのである。それは肉体という生理的実体にしっかり根拠をもった、ほとんど物理的生理的な「フェロモン」の力のことなのである。

それに対して「誠の花」(老木に花の咲くような幽玄の美)は、完全な「トリック」である。それは動員できる限りの演劇的技巧と演出術を駆使したステージ・エフェクトのことなのである。

「時分の花」はシテの自足し、屹立する肉体に根拠をもつ。

「誠の花」は演目の選定、衣装、働き、発声法、リズムの取り方、見所の客の批評眼、見所の客の集中度、音響効果、湿度、上演時刻、立ち合い相手の座の演目とシテの質・・・そういったパフォーマンスに影響する「すべてのデータ」を織り込んで「最大の美的効果」はどのようにしたら発動するか、という緻密な計算の上にはじめて成立する。

そして、世阿弥はこの複合的な演出効果のこと「花」と名づけたのである。

見所の観客を舞台に没入させなければならない。

観客は「演出の技巧」を嗅ぎ取った瞬間に舞台から醒めてしまう。

だから、絶対にそこに緻密に計算され尽くした演出的技巧が存在することを気取られてはならない。

周到な準備の上に成り立った能舞台を、まるで奇跡的に偶然の出会いが果たされた場であるかのように観客に思い込ませるところが−いまこの瞬間を逃したら、もう二度とこれほどの舞台に出会うことはできないだろう、という幻想を抱かせるところが−能楽の工夫のしどころである。

そのことを世阿弥は「秘すれば花」と言ったのである。

だから、これまで書かれたほとんどすべての能楽論は「この瞬間を逃したら二度と見ることはできない至高の舞台に私は出会ったことがある」という見所の経験を恍惚の語法で語るということを飽きることなく繰り返してきたのである。

つまり私たちは600年間にわたって世阿弥の「てのひら」の上で踊ってきたのである。

私が世阿弥はすごい、というのはそのことである。

 

午後は来年のゼミの面接。

先週の説明会で「うちのゼミは総文きっての変わり者の巣窟です。大学に入って、『私はちょっと変人なので、まわりから浮いてて、なかなか友だちができない』とお嘆きのあなた。ウチダゼミに来れば、もう安心です」というゼミの内容とまるで関係のないゼミ紹介をしたのが功を奏してのか、あきらかに「ちょっと変わった」学生たちが研究室のまえにぞろぞろたむろしている。

初日の面接者は20人。ひとり5分から10分くらい面接をしたので4時半から始めて終わったら7時を回っていた。

しかし、よくもまあ面白い人たちが団体で来たものである。

変人ゼミであるから、選考基準はもちろん「変人」であること、「レアな能力」を持っていることである。

「自己PRをどうぞ」という問いかけに「低い声」というお答えの人がいたが、これが「応答における意外性」の第一位。

来年上演する舞台の構想を語ってくれた学生さんと、「サントリー・ミステリー大賞」に応募した経験があるという作家志望の学生さんが「文科系」では特異能力の上位。

しかし、ウチダを圧倒したのは、「特技:幽体離脱」という学生さんであった。

お話の内容はほとんど『恐ろしくて言えない』(@桑田乃梨子)の世界。

さっそく幽体離脱経験の苦しさや、低級霊の「祓い方」などについて密談。ウチダも「香港猫の祟り事件」や甲野先生による「祓い太刀」の効用などについて熱く語る。

こ、こんな才能が身近にいたとは。これはぜひウチダの「心霊問題アシスタント」になってもらわねば。

そうだ、私がマネージャーとなって、研究室に「ウチダ超常現象研究所/除霊します」とか看板出したらどうかな。うちの学生さんの中にはあきらかに低級霊に憑かれている人がいるからね。

でも、キリスト教の大学で「除霊」はまずいか。やっぱり。


12月10日

快晴。午前中はお掃除、お洗濯、お買い物。

映画論をばりばり書いていたら、文春新書からS津さんという編集者がやってきたので御影でお迎えする。

昼下がりの静かなティールームで中年男が差し向かいで、仕事の話をしながら「タルト・オ・フリュイ」だの「スフレ・オ・フロマージュ」だの啄んでいるというのはなかなか心温まる風景である。

出版界はいま「新書戦争」の渦中にある。

それまでの岩波・講談社・中公の「ご三家」の牙城に後発の出版社が殴り込みをかけ、いま新書は書店の限られた書棚スペースを競う「戦国時代」となっているのである。(このへんの情報はゼミの木下君の卒論『書店考』で知っているので、S津さんのご説明にも余裕のあいづちをうって「業界通」ぶってみせる。ふふ、木下くん、情報提供ありがとう。)

文春は後発ながら健闘して、いまは「新御三家」の一角を担っているそうである。

新書の出版点数は短期間に3倍に増えた。

とにかく新刊を出し続けなければ、書店の書棚の隅に追いやられ、売れない→絶版になる→点数が減る→隅に追いやられる→売れないという恐怖の「絶版スパイラル」に巻き込まれてしまうのである。

とにかく「タマ」が欲しい、というのが出版サイドの本音である。

「タマなら、おまっせ。ちいと、たこおつきまっけどな」

「ウチダはん、そんな人の足元みんといて下さい」

「わてもミカゲのウチダいわれとる男です。おたくはんで買わんのでしたら、タマ欲しいゆうとこはほかにいくらもおますによってな」

的なビジネス・トークが交わされ、「ありもの」の、それも紀要に出そうと思って書いた原稿を新書戦争の物資不足につけこんで高額で売りつけようというのであるから、まったくあこぎなアキナイでするウチダである。

しかし、これで二十歳のころから待望久しい『いきなり始める現代思想』(@竹信悦夫)が日の眼を見ることになるかもしれない。

刮目して待て。


12月9日

「甲野先生効果」で爆睡。9時間眠ってぱっちり目が醒めたら快晴。

昨日一昨日と、ほんとうは心配ごとがあって、ふだんであれば、気が塞いでどうしようもない状態のはずだったけれど、甲野先生のそばにいたおかげで頭はクリアーであった。

その「心配ごと」が解決しないまま、とりあえず湊川神社に観世会の能を見に行く。

家元の『松浦左用姫』と『安達原』。

最初はあまり観能する気分ではなかったけれど、『安達原』で祐慶阿闍梨が数珠を揉みながら鬼を祈り伏せるのを見ながら、昔の人は「こういう問題」の処理について、実に豊かな経験的な方法を知っていたのだと、なんとなく羨ましくなる。

寒空の中をバイクを飛ばして帰ってきたら、とりあえず心配事の第一番目はクリアーしたという連絡が入った。しかし危険な状態は続いているらしい。

東京での出来事であるので、行ってなんとかしたいけれど、ままならない。

以前にも何度か経験したが、あるきっかけで「回路が開く」ことがある。

非常にテンションが上がって開く場合もあるし(今回はこのケース)、逆に体力精神力が弱っているときに精神的なバリアーが低くなって「魑魅魍魎」が精神回路に雪崩れ込んでくる場合もある。

「ピンチ」というのは細かい不調の累積であるから、劇的に治す方法はない。

そのような危機を構成した要素のひとつひとつを「潰して」ゆくしか解決法はない。

そして、こんがらがった紐をほどくときに、結び目の一つがほどけるど、あとの結び目がすらすらとほどけるように、ひとつ解決できると、あとは流れるように解決する、というのが「ピンチ」の構造である。

それを一気に解決しようとすると、結局紐がよけいこんがらがったり、カッターで切ってしまったりすることになる。

甲野先生は二日間都合四回私の研究室で着替えと荷ほどき荷造りをした。その様子を眺めていて、先生が「こんがらがったもの」をどういうふうに処理するのかの手際を見せて頂いた。

先生が実に丁寧に「結び目」を処理するのが印象的だった。

すこしからまると、必ず「分岐点」まで戻る。

そして、いちばん処理しやすい結節点を見つけて、そこをクリアーしてからゆっくり次の段階に進んで行く。

達人というのはこういうふうに問題を処理してゆくのだということを目の当たりに学ぶことができた。

おそらくこれがあらゆる危機管理の基本なのだと思う。

「急がば回れ。」


12月8日

早起きして、甲野先生を竹園ホテルまで迎えに行く。

昨日の話でいちばん面白かった「天運と税金」の話を続ける。

これは天運の強い人は、その分とんでもない税金を払うことになるという「ゼロサム」のお話。

武道史上に名を残すような超常的な身体能力の持ち主はほとんど例外なく、信じられないほどの不幸を経験するというお話である。主に、それは「愛する人を失う」というかたちで現れる。

先生がご紹介下さったのは、徳川家康の家臣の本多某とワイアット・アープと梅路見鸞のお話。

本多さんは、57回戦場で戦い「身に微傷だに負わず」というスーパー天運のひとであったが、ある日小刀で果物の皮を剥いているときに指を切り「わが天命尽きたり」と言ってそのしばらくあとに亡くなったそうである。(「税金」については不詳)

ワイアット・アープは生涯に数十回の銃撃戦を経験し、何度も狙撃されたが、ついに一度も弾丸に当たらなかった。(その代わり兄弟全員が殺された。)

梅路師は天才的な弓術家であったが、三回結婚し三回妻と死別した。

その他多くの「天運」の持ち主は、その代価として、一人の人間の身の上にこれほどまでの不幸が、と思われるような悲しみを経験した。

というのが甲野先生のお話。

「天運」が大きいと「税金」も高い。

じゃあ、運を縮めて、税額を下げればいいか、というと、なんだかそれもせこい生き方である。

甲野先生のお薦めは、「まめに税金を払う」ということであった。

つまり、運気が向いて、よいことが起こったら、その利得をすぐに他の人にわかち与えて、天運が伴う悪運を祓うのである。(もちろん順番は逆でもいい。自分の持っているよきものを他人に与えた人は、それによって運気を呼び込めるのである。『Pay it forward』というのはそういえば、そんな話だった。))

だから、先生のお弟子さんの白石さんが医大の入試の前日に自転車を盗まれたとき、白石さんは「しめた!これで合格間違いなし」と喜んだそうである。(現に合格した。)

これは自分の身に立て続けにアンラッキーなことが起こって、滅入っている人にとっては、発想を一気に切り替える非常に賢明な方法である。

不運な出来事を「予定納税」と考えて、「おお、これで来年度は莫大な所得があるぞ」と期待して喜べばよいのである。

なんと前向きな思考法であろう。

実は私も1970年ごろ「アンブレイカブル」少年であった。

機動隊との衝突を十数回経験して、周囲が頭蓋骨陥没とか下半身不随とか片眼失明とかいう中で、微傷だに負わなかった。それこそ突き指一つせずバンドエイド一枚貼らなかった。

「私は絶対に怪我をしない」ということが確信されたのは6月の総理官邸前の座り込みのときのこと。機動隊が「総員検挙」の指令とともにジュラルミン楯の打ち下ろしが始まり、いきなり血しぶきが飛び交ったとき、私は座り込んで両手を両隣の人と組んでいて身動きならない状態だった。

「げげ、これはまずい」と思っていたら、機動隊員が頭上高く楯を振り上げてまさに私の頭上に振り下ろさんとしていたそのとき、パニックになった私の右隣の学生が逃れようと立ち上がり、いきなり転んで私の頭上に覆い被さった。つまり結果的に「人間の楯」となって彼は私をかばってくれたのである。その彼の首筋に「ガツン」と楯が振り下ろされた。機動隊の波が去ったあと、後頭部から大量に出血して意識不明のその学生を背負って霞ヶ関の街をさまよってようやく救急車を見つけて、隊員に彼を託して溜池方面に逃走した。私の身代わりに傷ついた彼がその後どうなったかは知らない。

私の「天運」が他人の犠牲の上に成り立っていることを私はそのとき知ったのである。

 

そんな話を甲野先生としながら大学へ。

今日は10時から5時まで稽古会。合気道会と杖道会のジョイント企画である。

体操も挨拶もなく、いきなり稽古が始まる。

とにかく愉しい一日であった。達人に技をかけられて崩され固められるときの快感というのは言いしれぬものである。昔は多田先生によく技をかけて頂いたが、最近はめったに多田先生に投げてもらう機会がない。そのフラストレーションを甲野先生に存分に技をかけて頂いて久しぶりに解消することができた。背中がばきばき言って肩胛骨がぐりぐり延びて、稽古が終わって数時間経ついまも身体がほこほこしてたいへんに気持がよろしい。

甲野先生はほんとうに物惜しみせずにこれまでビデオでしか見ることのできなかったさまざまな秘術をご披露して下さった。ふつうはお供のお弟子さんが受けをとるのだが、甲野先生は私たち全員を相手に技を試みる。固い者、柔らかい者、粘る者、腰砕けの者、感応のよい者、悪い者・・・その全員の体感の違いによる技の変化を甲野先生は楽しまれているようであった。

今回は合気道会のものが多かったために体術が中心の稽古となったが、おかげで私としては実に多くの発見があった。来週からの合気道の稽古で今日のアイディアをどうやって稽古メニューに採り入れるか、いまからあれこれ考えて楽しんでいる。

最後に手裏剣の稽古をたっぷりやって7時間近くに及んだ稽古が終了した。

甲野先生は最初から最後まで動きっぱなし。ほとんど休まれない。こちらが「あの技をもう一度」とお願いすると気軽にやって下さるし、「先生、背中を見せて下さい」とお願いすれば、上半身裸になって技をかけて骨と筋肉の微細な運動を見せてくれる。

そして最初から最後まで、いつも微笑みを絶やさない。

厳しい稽古なのだが、ウッキーやカナピョンやヤベッチのリアクションが面白くて、体育館がどよめくような爆笑が何度も繰り返された。

実に有意義かつ愉快な稽古だった。

最後にお見送りするときに甲野先生は「また呼んで下さい」とおっしゃって下さった。

これからぜひ毎年定期的に稽古に来て頂こうと思う。次回までにはぜひ手裏剣をマスターして、ちゃんと畳に打ち込めるようになった姿を先生にお見せしたい。

実に貴重で豊かな二日間だった。

今年は五月に10周年で多田先生はじめ窪田師範、坪井師範に来て頂き、年末には甲野先生をキャンパスにお迎えできた。多田塾合宿の参加者もこれまでになく多く、合気道会としては、実に充実した一年だったと思う。

奇妙なもので、膝を痛めて「武道家生命の終わりの始まり」であった今年が、組織的にはこれまででもっとも実り豊かな一年だったことになる。

なるほど、ちゃんとゼロサムで計算は合ってるんだ。


12月7日

甲野善紀先生の講演会。

午後3時少し過ぎに、朝日新聞の石井論説委員とごいっしょに甲野先生がタクシーで到着。石井さんは甲野先生の関西方面でのサポーター(っていうのは変かなあ)のおひとりである。甲野先生は周りの人に「ぜひとも支えて上げたい」という気持を起こさせる不思議な吸引力のある人なのである。(別に頼りない人ではぜんぜんないんですけど)

先生は例によって和服に日本刀。

研究室にお迎えしてから、学内をご案内。新社交館でお茶をしてしばし歓談。

講演会の会場にはふだんあまり構内では見かけないお兄さん、おじさんたちが多い。

このホームページを見て来た方もいるし、甲野先生のホームページで関西での講演会があることを知って来た方もいる。(ジャック・メイヨールの橘さんもおいででした。)

科別教授会をフケて清水先生と飯田先生も来てくれた。(そのせいで、あとで学科長の上野先生からものすごく怒られた。「ウチダさん一人ならいいけど、どうして何人も教授会を抜けるの?大事なことを審議してるんだよ。」返す言葉がない。ごめんなさい。)

四時半から六時半までの予定の講演会だったが、先生の話は面白いし、超絶術技にはみんな仰天して、先生のサイン本に長蛇の列が出来て、ずいぶん時間を過ぎてしまった。

例によって、「いちぜんや」で懇親会。

15人で予約していたのだけれど、店の前で数えてみたら25人。

何人か帰ってもらおうかしらと思ったら、甲野先生が「そんなこと言わないで、みんな来てもらいましょう」と言うので、15名分の席に25人詰め込んで(よくぞ入った)宴会が始まる。

甲野先生のお弟子さんの白石さん(先生の受けを取るはずが、講演会が終わる頃にやってきた不思議なお兄さん)と甲野先生のかけあい漫才的な会話を拝聴しているうちに、松聲館という道場のほんとうにフレンドリーな雰囲気と、甲野先生の人間関係についての深い洞察が伝わってきた。

今日の話で不思議な「シンクロニシティ」を感じたのは、「急がば回れ」というのは、「複雑な経路のほうが単純な経路よりも早く目的地に達する」という意味だという甲野先生の体術の説明を聞いたとき。

私が昨日言おうとしていたのはまさにそのことだ。

なるほど。

愉快な宴会が終わって、甲野先生を芦屋の竹園ホテルまでお送りする。

タクシーの中で「神戸女学院の学生さんたちは、ほんとうに品がいいですね」と感にたえたように感想を言って下さった。

「こういうお嬢さんたちが、まだいたんですね。」

いるんですよ、先生。明日もどかどか来ますから。お楽しみに。

ホテルでチェックインをすませて一礼して帰ろうとすると、先生は小走りに荷物をフロントに預けて、タクシー乗り場まで送って下さり、深々と一礼して私の車を送って下さった。

あれほどの腕があり、あれほどの名望があり、なお、まったく驕るところがない。

甲野先生はほんとうに素晴らしい武道家である。


12月6日

眠い。

明け方四時頃に目が醒めて、しばらく寝付けなかったので睡眠不足である。

私はこのところ9時間から10時間爆睡しているので、それ以下だと寝たりなくて、ぼーっとしている。世間のサラリーマンさまたちが聞いたら殴り倒されるであろうが。

学校に行ってから、甲野先生が明日お見えになるので、その準備をどたばたする。

どたばたしているうちに朝日新聞の大西さんという学芸の記者の方が来る。

来年のお正月の学芸欄の記事に「21世紀のキーワード」というような特集があって、そのキーワードのひとつに「ためらう」という言葉が選ばれ、(ほかには「ほぐす」とか「抱きしめる」とか「たちどまる」とか)「ためらう」ことの専門家ということでコメントを求められたのである。

インタビューは二時間に及び、途中からマンガや映画の話になって、宮崎駿の天才性や大瀧詠一のコピーライト論などでわいわい盛り上がったのであるが、かんじんの「ためらい」話はどうもご期待に添えるような答弁ができなかったような気がする。

というのは、大西さんは「ためらう」というみぶりのうちに、決断を留保し、歩みを止め、静かに熟慮する、というかなり知的かつ静寂的な構えを期待しておられたように拝察するのであるが、ウチダ本人はぜんぜんそういうタイプの人間ではないからである。

私はご存知のように関西弁で言う「イラチ」、東京でいう「せっかち」である。

「ええい、ぐずぐず言うんじゃねえよ。はえー話が、どうなってんでえ」

というのが私の真骨頂であり、とにかくひたすら息せき切って急いでいる人間である。

30歳のころに、「ウチダの理想の自分のイメージって、何しているところ?」と聞かれて「空港の待合室を腕時計を見ながら、書類鞄を振り回しながら汗だくで疾走している姿」と答えたような人間である。

そういう人間がなんで「ためらいの倫理学」というような本を書いたのか。

もちろん、そういう拙速主義的な生き方を反省するためではない。(私の辞書に「反省」という文字はない。)

「ためらう方が話が早い」からである。

私はとにかく「結果」を急ぐ人間である。

とにかく、はやく結果を出そうじゃないの、というのが私のあらゆる問題についての基本的な構えであり、自制することのできない欲望である。

しかるに、結果を急ぐときに、「正論」でひた押しに押して行くと、これが必ずと言っていいほど、「時間がかかる」。

正論を語る人は、結果が早く出るか遅くなるか、というようなことにほとんど配慮しない。正しさを正しさとして貫徹するプロセスそのものに意味があるわけで、それが受け容れられるかどうか、多数派形成につながるかどうかといった結果は副次的なことにすぎない。

その結果、正論が正論であればあるほど、それが現実化するチャンスは減少する。

正論というのは、加藤典洋さんふうに言うと「対立者を含んだかたちで全体を代表しようとする」志向が欠落している論のあり方である。

なにしろ「正しい」のである。とういことは、それに反対する人間は「間違っている」に決まっている。

人間、何が哀しくて「間違っている」人間の立場を含めて代表しなくければならぬのであろう。

だが、この「正論的」な白黒きっぱりのうちに危険な陥穽がある。

正論によって「間違い」と決めつけられた立場は、たとえ少数であろうとも、きわめて堅固な反対派のケルンを形成する。そしてあらゆる機会をとらえて多数派主導による合意形成を阻もうとする。

この反対派はしぶとい。向こうだって命がけである。簡単に潰されるわけにはゆかない。

私は「イラチ」なので、この反対派に足をひっぱられたり、それを潰したりする時間が「惜しい」のである。

だから、誰かが私に反対すると、「え?反対なの?困ったなあ。めんどうだから、反対派も賛成派もみんなまとめて顔が立つような手ってない?」と発想するのである。

私が「ま、アラファトさんにもお立場というものがあるわな。かといってシャロンさんも、このままでは引っ込みがつかんわな。じゃ、ナカとって」路線の信奉者であるのは、要するに、正しい間違っているという議論は棚上げしても、「ネゴシエーションができる対話の回路さえ確保しておけば、あとはビジネスライクな詰めでなんとかなる」と思っているからである。

だってそうでしょ。

戦争とかそういう場合であると、急がないと、意地張り合っているうちに、どんどん人が死んでしまう。

問題は、正しさと人の命とどっちが大事か、ということである。

私は人の命の方が大事だと思う。(「人の命」なんてきれいごとはやめてもいい。「私の命」もそこに入るんだから。)

正義の戦いで殺される人間を一人でも少なくする方法は一つしかない。

とにかく「急ぐ」ことである。

 

先日、国会の党首討論で、小泉さんが医療保険の問題で、「受診者も医療者も保険者も、みんなちょっとずつ損する、ということでいいじゃないですか」という論法を展開して鳩山さんを困らせていた。私はそれを聞きながら「あ、この人もイラチなんだ」と思った。

国民皆保険制度を守るという水準と、関与者のうちの誰の言い分がもっともかという水準は階層が違う。小泉さんは階層の高い問題を優先するんだから、細かいことはどうでもいいじゃないかという乱暴な総括をしていた。

この論件においてそれが賢明な対応であったのかどうか、私には分からないが、小泉さんを駆り立てている「気分」はたいへんによく分かった。

彼もまた「結果を急ぐ人」なのである。

「結果を急ぐ人」は正論には興味を示さない。

 

私は「ためらう」人間であるが、それは私が「せっかち」だからである。

困った問題に遭遇したとき、「ベスト」の解決策が何であるか議論するより、「ファーステスト」の解決策が何であるかを探すのが私の風儀である。

ただ、誤解してもらってはこまるが、私の拙速主義はジョージ・ブッシュ風の単純主義とはまったく別物である。

私は「話を早くしたい」だけであって、「話を簡単にしたい」わけではない。

私の経験は「話を複雑にする方が、話が早い場合がある」ということを教えてくれる。

というのは、すばやい調停が成功するためには、「対立者をも含めて代表するような」水準を探り当て、そこにおける「名誉ある共存」を保証しなくてはならないからだ。

この場合、異論の対立を無害化する唯一の方法は、「あらゆる異論を併記すること、いちどでも口にされたことは記録すること、すべての議論が同時に対立し合い、背馳し合い、矛盾し合いながら、なお共存できるような語りの境位を創出すること」であると私は信じている。

このような「異質なるものが、背馳し合いつつ共存し、対話しうる境位」、それが「ためらい」という語に私が託している語義である。

 

私がこれほど断定的に言えるのはこれが私の独創ではないからである。

私が偉そうに断言するすべての場合と同じくこれはレヴィナス老師の教えである。

レヴィナス老師もまたたいへんな「イラチ」であった。

だって、当然でしょ?

世界の成り立ちと人間のあるべき生き方について世界中の人間が納得できる理説を説いてきかせましょうというような壮大かつ緊急の課題を抱えている哲学者が「急いで」なくてどうします。

おそらくそれゆえにレヴィナス先生は向けられた批判についに一度も「反論」ということをしなかった。

めんどくさいからではない。(多少はそうだが)

「レヴィナスへの反論込みでのレヴィナス思想」という境位を老師は想定されており、自身のテクストもまた「その境位」において読まれることを望まれていたからである。そこにおいて、自身のテクストがその豊かさと厚みを一層輝かせることを熟知されていたからである。

 

というような話を大西さんが帰ったあとで思いついた。

いつもそうなのである。

そのときじっくり考えて答えればいいものを、つい「せいて」事をし損じるのである。

これが「イラチ」であることの最大の問題点だな。

 

などと言うことを考えていたら、せりか書房から『レヴィナスと愛の現象学』の試し刷りが二部届く。

美しい。

装幀の山本画伯の力作である。

書店に並ぶのは12日頃とのこと。

おそらく書評では酷評されるであろうが、私はそれを受け容れるつもりである。

「こういう主題でこういう風に書くのはルール違反だ」という批判は正しいからだ。

私は「禁じ手」を使って本を書いた。だから、これについては「こんなことをしでかして、若い研究者がこれからあんたの手口を真似をしたらどうするんだ」という非難が浴びせられたら私はおとなしく「すまない」と頭を下げる。(もちろん、例のごとく、ぜんぜん反省はしていないが。)

そのような節度ある「学術スタイル」がスタンダードとしてあるからこそ、こういう禁じ手で書くことに戦略的な意味があるわけである。

やはり業界的には「こういう本は書いちゃだめ」ということで衆議一決して頂きたいと思う。

そうすれば、この種の本では、私のものが空前絶後ということになるからね。

 

ご同業、ご同輩のみなさまのお手元にはいずれ献本が届きますので、焦って購入しないようにお気をつけ下さい。もちろん焦って購入して、献本分は誰かにプレゼントするというような雅量を発揮されるのもクリスマスらしくつきづきしいことではございますが。


12月5日

大学院のゼミは「中村天風」先生がテーマ。

天風先生は私の師匠の多田宏先生のさらにお師匠さまであるから、ウチダは天風先生の「孫弟子」に当たる。

この偉大な「啓蒙家」の事績については、多くの書物が書かれているので、私が付け加えることは何もない。でも一つだけ。

 

天風先生の教えの中に七つの「勿れ」というものがある。

「怒るな、恐れるな、悲しむな、憎むな、妬むな、悪口を言うな(言われても言い返すな)、取り越し苦労をするな」

これは天風先生の教えの基本である。

だが、「基本」というものがたいていの場合がそうであるように、これは同時に「極意」でもある。

基本は極意。これはどんな技芸の体系でも変わらない。

基本が出来る、ということは、すべてが出来るということである。

天風先生が門人に与えた「怒るな・・・」以下の七つの禁戒は、基本の戒律であり、それがきちんと出来れば「人間として完成した」ということを意味している。

だから基本「から始める」というのは、ほんとうは不可能なのである。

天風先生の本を読んで「よーし、明日から怒らないぞ」と決意しても、そんなの無理である。

たしかに「怒るのを我慢する」ことはできる。

しかし、我慢というのは、その怒りのエネルギーを貯め込むだけのことである。

怒りの爆発を先延ばしにするだけである。

結局、いつかはどこかで誰かに対して、その怒りのエネルギーを爆発させることになる。

「怒らない」というのは、そもそも「怒るのを我慢する」必要さえない状態に達する、ということである。自分のうちに怒りの感情も怒りの必要も感じなくなる、ということである。

これはむずかしいよ。

「怒るのを我慢する」のなら誰にもできるが、「怒らない」のは誰にもできることではない。

だから極意だ、と申し上げているのである。

 

昨日の晩寝ながら読んだ田口ランディさんの『できればムカつきずに生きたい』の中にこれと呼応する言葉があった。

 

「二十代の頃、私は攻撃的な人間だった。

 竹を割ったような性格で物事をはっきり言う。そういう奴だった。今でももちろんそうである。嫌な事は嫌と言うし、間違っていると思った事は間違っていると言う。

 ただし、今はニコニコしながら『イヤなんだけどなー』と言う。それはなるべく相手と対立しないためにだ。『ごめんね』とあやまりながら『イヤ』と言う。だけど昔は違った。怒って『イヤだ』と主張した。強くイヤだと主張した。なにかこう怒りのパワーにまかせて『イヤだ』って言わないと、『イヤだ』って主張できなかったからだ。

 なぜだろう。私は主張する時、いつも怒りのパワーが必要だった。自分を主張する時になぜか怒っていないと力が出なかった。」

 

「怒らない」のがなぜむずかしいかというと、ランディさんも書いているように、怒りというのが、非力な人間が自己主張し、自己実現するときに、不可欠の力のエネルギー源だからである。

若いというのは要するに非力である、ということである。

小さな声で、「私、それは違うと思うけど・・・」みたいなことをつぶやいても、誰も、誰一人耳を傾けてくれない、というのが「若い」という状況である。

仕方がないよね。

だって、その人が他の人間には見えていないことを見通していて、事態について他の人よりも正確な判断を下しているという「データ」をまわりの人たちは持っていないんだから。

同じような判断のむずかしい状況に何度か遭遇し、そのときその人が下した状況判断や、戦略的展望が「結果的に正しかった」ということが確認された人についてのみ、私たちはその人の「主張」に耳を傾けるようになる。

当然のことだ。

若いということは、単純に、「高い確率で判断が正しかった」という事実の蓄積がない、ということである。だって生きている時間が短いんだから、仕方がない。

だから、たいへん気の毒なことではあるが、子どもがどれほど正しいことを言っても、まわりの人たちはその主張にほとんど配慮しない。

「はいはい、そーでちゅか」と子どもをあやしておいて「じゃ、こっちははやく話をきめようぜ」と子どもを置き去りにしてものごとが決まって行く。

それを指をくわえて眺めるしかないというのが「子どもであること」、「若いということ」、「非力であること」の哀しさである。

 

それでも自分の主張の正しさを認めさせようと思ったら、もう「怒る」しかない。

ばしっと机を叩いて「いいから、俺の言うことを聴けよ!」と怒鳴りつけるしかない。

怒る以外に手段がないのである。

怒りのエネルギーだけが、そのパセティックな「捨て身」の構えだけが、周囲の人間のおしゃべりを一時的に鎮め、そのときだけ、聴衆の注視を確保することができる。

「三下が口をはさむんじゃねえ!すっこんでろい!」

「ま、いいじゃねえか、マサ。おう、若いの、なんか言いてえことがあるんなら、言ってみな」

というような状況になるわけである。

そのような怒りのパワーによってとりあえず緊急避難的に与えられた一回だけの「聞き届けられる」チャンスを確実にものにして、

「なるほど、この若いの、なかなかいいこと言うじゃねえか」

的にその判断力を「信認」されることによって、子どもたちはラッチ一つ分だけ「大人」になる。

その発言が適切であったことが結果的に承認されれば、次の機会には、前ほどはげしく怒鳴らなくても、前ほど捨て身で他人の話に割り込まなくても、人々はその人の発言を促し、その言葉に耳を傾けるようになるだろう。

そのような小さな努力を積み重ねてゆく以外に、「怒らなくても意見を聞いて貰え」「怒らなくても立場を配慮され」「怒らなくても尊敬される」ポジションに私たちはたどり着くことができない。

「怒るな」と天風先生がおっしゃっているのは、そのようなポジションに到達せよ、ということであって、単に「怒るのを我慢せよ」ということではない。私はそう解釈している。

 

「自分が弱いことを受け容れましょう」というセラピストが最近は多い。

学校なんか行かなくていいですよ。仕事なんかつらければやめなさい。いやなら別れちゃいなさ。子どもが可愛くなくっても気にしない。親を憎むの人なんてたくさんいます。家族なんて解体しちゃえばいいんですよ・・・

こういうしたり顔のアドバイスをするセラピストが山のようにいる。

この指摘が、「あなたは幼く、弱く、誰からも相手にされないほどに非力な人間である、その事実を認めなさい」という「弱さ」の客観的評価にとどまるのなら、このアドバイスは間違っていない。

しかし、その意味を「あなたは弱い。弱い人間であることを恥じることはない。その弱さを受け容れ、その状態に満足しなさい」というふうに解釈するなら、このアドバイスはまっすぐ地獄への道を指し示している。

弱さを認めるのは、強くなるためである。

それ以外に弱さを認めることにはどんなメリットもない。

思い切り泣きなさいとか、思い切り声を上げて怒りなさいとか、思い切りわがままを言いなさい、いう類のアドバイスは、要するに「あなたは子どもであり、非力であり、敬意を払われるだけの価値のない存在であるから、そうでもしない限り、誰一人あなたを見向きもしないだろう」と言っているにすぎない。

怒鳴りわめかない限り、誰もあなたの言葉を聞いてくれないし、あなたの存在になにがしかの意味があることを見てもくれない。だから、しかたがない、怒鳴ってもいい、泣き叫んでもいい、と言っているのである。

ただし、怒鳴ったり、泣き叫んだりして確保した発言のチャンスにおいて、「自分が耳を傾けるに足るだけの知見を語る人間であること」を証明してみせなければ、その怒りや悲しみはドブに捨てたのと同じである。

泣いたり、わめいたり、怒鳴ったり、総じて「自分の弱さを担保にして」発言する人間は、その発言機会がぎりぎりのワンチャンスであるということをわきまえたほうがいい。

そこで一回しくじると、この次はもっと大声で怒鳴り、もっとじたばたぐずってみせないと、誰も話を聞いてくれない。聞いてもらえたとしても、その注視は一片の敬意も含まない、「なんだ、また始まったぜ。めんどくせー野郎だな。はいはい、そーでちゅか。ふーん、たいへんなんでちゅねー」的な見下しをすでに含んでしまっている。

ある年齢を過ぎたあとに、一度「見下され」てしまうと、もうその状態から這い出ることは困難である。ほとんど絶望的に困難である。

自分は弱い、しかしその弱さを自分は許さない、そう決意している人間だけしか、弱さから抜け出すことができない。

弱さに安住している人間は、永遠に泣き続け、わめき続け、怒鳴り続け、怖れ続け、憎み続け、妬み続ける他ない。

怒るな。

これが天風先生の第一の教えである。

それは、その人が口を開こうと小さく息つぎをしたとたんに、その場が水を打ったように静まり返り、全員が期待を込めてその人をみつめるような、そのような言葉を語る人間になれということを意味している。

きびしい要請だ。

それは場を制圧する力だけではなく、ひとを浮き立たせる暖かみと、曇りを払う叡智を備えた人にしか訪れない事況である。

しかし、天風先生が「心身統一」とおっしゃっているのは、そのような人間的境位のことである。呼吸法をしたり、瞑想をしたり、あれこれの術を遣ってみせることは心身統一のための技術的な迂回路に過ぎない。

人間の生き方の根本にかかわるすべてのものは、コミュニケーションの水準で到成される。

だから、天風先生の七戒のすべては「他者と向き合うしかた」にかかわる教えなのである。


12月4日

『ミーツ』の江さんと三宮で打ち合わせ。

最初は湊川の居酒屋「丸萬」。

「街のひと」江さんのご案内であるから、美味しいものが食べられるのは保証付き。

「鯛の子」や「小蛸」などをつまみに、来月号から始まる連載のゲラを見せて頂く。

挿し絵はアジサカコウジさん。4コママンガだったらいいなと思っていたら、期待通り4コマ。これが面白い。私の本文よりずっと面白い。

来月以降のネタについてひとしきりご相談したあと、河岸を替えて北野の「ジャック・メイヨール」へ。

ここはギエムさま公演で奇遇の橘さんのお店である。

安藤忠雄設計の「ローズガーデン」という不思議なビル(エッシャーの「階段」みたいな建物だよ)のペントハウスにある。

温室みたいに植物でいっぱいのすてきなお店である。

 

私はまったく非活動的な人間であって、仕事のある日は家と大学を往復するだけであり、休日は家から一歩も出ない。

三宮に出て買い物をするのがせいぜい月に一度。

外にご飯を食べに行くのもまず月に一度。

だから、「お洒落なワインバー」で神戸の夜景を見ながらバーのマスターと清談するというような時間の過ごし方は私の日常には含まれていない。

なんだか、どきどきしてしまう。

お近くの「グリルみやこ」のシェフがカウンターのお隣に坐ったので、さっそくフランス料理におけるフォンとジュの違いについて、ドミグラス・ソースの起源と不思議な運命について、興味深いお話をうかがう。(いつも書いているとおり、私は異業種の人から専門的な話をうかがうのが大好きなのである。)

さらに橘さんに注がれるままに冷たい白ワインをがぶがぶ飲み、品のいいバーボンのソーダ割もばりばりお代わりして江さんとおしゃべりしているうちに、北野の夜は静かにふけてゆくのでありました。

 

翌日はさすがに二日酔い。

一度起きて朝御飯を食べたけれど、お腹がいっぱいになったらまた眠くなったので、二度寝。(「朝御飯を食べたあと、二度寝に落ち込むときの墜落感」は他をもっては代え難い自堕落な快感をもたらす。)

昼近くにのそのそ起き出して、ぬるいお風呂に入って、アルコールを飛ばす。

コーヒーを呑みながらメールチェック。またウイルスが発生している。

niftyのウイルスバスターのチェックをのがれて入り込んで来るらしい。

しかたがないのでウイルスバスターの最新版をダウンロードしてウイルス駆除。

ダウンロードに時間がかかるので、そのあいだ、映画論のためにラカンの『セミネール』を読む。

岩波から出ているこの『セミネール』は『エクリ』に比べると訳が非常に分かりやすい。それだけ受け容れる側のラカン理解がこなれてきたということだろう。

なるほどなるほどとうなずき、赤鉛筆で頁を真っ赤にしながら読み進む。

なんだ、ラカンの言ってることって、「ふつう」じゃん。俺も前からそう思ってたわけよ。

というような図々しいリアクションができるのは、ラカンの理説が私たちの社会常識の中にそれほどまでに浸透してきた、ということである。

前にも書いたけど、ポスト構造主義の時代というのは、構造主義的な知見が古びてしまって使えなくなった時代ではなく、構造主義的知見が十分に常識のなかに浸透したために、もう改めてフーコーやレヴィ=ストロースを読んで「勉強」する必要がなくなった時代、ということである。

ただ構造主義のもっとも革命的なアイディアについてはまだ十分に理解が届いているとは思わない。

それは「人間の本性はパスすることにある」という考想である。

このアイディアはレヴィ=ストロースとラカンにおいて際立っている。

レヴィ=ストロースはそれを「コミュニケーション」と呼び、ラカンは「転移」と呼んでいる。

 

ダウンロードが終わってパソコンが空いたので、『ミーツ』の来月号の原稿を書き上げる。「村上春樹とハードボイルド・イーヴィル・ランド」という題。

しかし、なんだかこれはアジサカさんが四コママンガをつけにくそうな内容なので、「マンガはえらい」という題でもう一本書く。

『文春』の12月号で曾野綾子が「漫画しか読めない子どもを作った親と学校は恥るべきだ」と書いていたのを読んで「かっちーん」ときたのである。

うちの娘は「マンガしか読まない」が私はそのことを少しも恥ずかしく思っていない。

日本マンガはなぜ「えらい」のか。

それについて持説をがりがり書く。

がりがり。