updated 9 Feb. 2000

空手道は、どのように語られ得るのか

Don't think, feel! という文脈

        平川克美(ひらかわ・かつみ)

                     松濤館空手東急空手道場指導員・五段

はじめに

 

2000年1月22日、神戸女学院大学で行われた武道シンポジウムにおいて、合気道、杖、空手という異なる武術の稽古人同士が武道的身体というテーマでトークセッションを行った。自分が何を話したのか、実はあまりよく覚えていない。(いつもこうなんですよ。)ただ、気持ち良い時間を二人の卓越した武術家と、真摯な参加者の皆さんとともに共有できたという幸福感が今でも体内に残っている。完全に忘れ去ってしまわないうちに、内田、鬼木両先生の卓見に触発されたことも含めて、すこし補足的な考察として記述しておこう。

これからわたしは空手道について語ろうとするのだが、たぶんそうはならないだろう。というのは、空手道という「身体表現」について、「言語表現」で語るという批評的なスタンスは、絵画や音楽についての批評と同様のディレンマを内包しているからである。絵画は描くべきもの、見るべきものであり、音楽は演奏し聴くべきものなのだ。画家は言語が終わったところから、あるいは未生の言語とでもいうべきものをキャンバスに表現する。自ら描いた抽象画を自ら言語で解説するということは、ある意味で画家としての敗北なのだ。

武道について何かを語るときこのディレンマはさらに増幅される。多くの場合、武道は語れれることを拒否するかのように、ふるまうからである。

たぶん、ここでは批評対象そのものについて語るというよりは、「批評のスタンス」について語るということになるだろう。正確に言うなら、常に「批評のスタンス」(ついには、語り得ないだろうという痛覚)を意識しながら、空手道についての言語的解読(言語的解体?)をしてみようというわけだ。

「そうじゃねぇんだよ。」と言って「じゃやってみるか」と切り返されるBOSSコーヒーのコマーシャルのおやじが徹底的に滑稽なのは、この「批評のスタンス」に対する自覚の欠如から来ている。

だからここでは、「空手道とは何であり何であるべきか?」について語るのではなく、「空手道について、あるいは武道的身体について、語るとは何を意味するのか」についての考察をすることになるだろう。

空手道の要素あるいは、見るという能力

空手道の3要素、すなわち「体の伸縮」「力の強弱」「技の緩急」とは、型のみについての訓えではない。空手道の全ての局面での身体運用についての訓えである。また、これは何も空手道に限ったことではなく、武芸一般について当てはまる武道的身体運用の要諦である。(しかし、すべての要諦というものがそうであるように、これらの言葉は、その言葉が指し示す内実に至る道筋については、何も語っていない。こういうことがきちんとできれば、所謂、「使える武道」になりますよということであり、どのようにしたらこの3要素を習得するかについては、唯黙々と、稽古を積むしかないと言うわけである。

「見取り稽古」という稽古法があり、先生の動きをじっと見てその動きを学びなさいということであるが、(そしてそれは非常に重要な稽古なのだが)私も含めて、現代人はどうも「見る」という能力が極端に退化してきているようである。この「見る」という能力についての示唆深い「物語」が阿佐田哲也の麻雀放浪記に記されている。

賭博の天才達がおこなう「見」(けんと発音する)という調査能力についての記述である。賭博師たちは賭場において、いきなり丁半に参加したりはしない。まずは賭場の状況をじっと眺めるのである。ある場合は、眺めるだけで賭けずに帰ってしまう。

じっと眺めていると、そのうちに何かが見えてくる。それは、親の癖や、丁半の確立や、有卦に入っている賭博師の賭け方といった情報だけではない。もっと、内的な流動的な磁場のようなものが感得されるのである。これが、ついに感得できないときは、賭博師は賭けに出ない。じっと見ることで、何かが体の中に生まれてくるのを待つ。

待っていると、あっちからある種の情報が自然に体内に入ってくる。これが「見」である。

武道の見取り稽古もかくありなんということだろうか。たぶんそうなのだろう。しかし、これではこの論考はここで終わってしまう。

「武道の極意とは、身体を研ぎ澄まされた感応体とすることである。」

真理とはしばしば平凡で退屈なものである。わたしが、求めたいのは真理ではなくて、自分を逡巡させてもらえるもうひとつのものの見方なのである。(その理由は後ほど述べることにしよう。)

空手道について、語るということ

空手道について、なにごとかを語ろうとするとき、どのような方法があり得るのだろうか。

語らないというかたちで語る方法。すなわち、空手道の全てのエッセンスは、稽古の中にあり、稽古の中にしかないという態度である。確かに空手道の体の使い方については、ただ稽古の繰り返しによる身体への刷り込み以外の方法では、アプローチ不可能であるだろうと思われるものが多いのも事実である。私の場合、初段を頂くまでは徹底的に上記の方法で訓練された。基本の習得の場合、理論はしばしばじゃまになる。いわゆる頭でやる空手を続けると、身体動作に思考のバイアスがかかって必ず動作に無駄な動作が紛れ込むからである。前頭葉言語野からの命令が四肢に伝わり、動作が起こるという、シノプス連鎖反応に生ずる「遅延」は、武道においてはしばしば致命的な動作欠陥となる。考える前に、動作されていること、つまり無意識下の身体運用を習得する事こそ稽古なのである。無意識下の身体運用を学ぶのに意(言語)は、必要が無い(?)

空手道の精神について語る方法。所謂精神主義。精神論である。押忍という言葉に代表される空手道の語法は、鍛錬を極限まで突き詰めることで、人間はひとつの高みを獲得し得るという前提によっている。しかしながら、この前提にはひとつの誤りが含まれている。鍛錬を突きつめることによって得られるのは、筋肉の強さ、持久力、呼吸の耐久性など身体的な強さであって、精神はそれだけでは鍛えられるものではない。わたしの考えでは精神が鍛えられるのは、ただ精神の危機に対して対峙する事以外にはない。それは、言葉というものが、鍛えられるのは、言葉の練習によるのではなく、ただ言葉が通じないという「他者性」の認識の深さによるのと同様である。それでもなお精神について語られてきたのは、空手道は合理的に語られうるようなものではなく、解釈されうるものではなく、むしろ、信憑というケミストリーに属しており、「不合理故に信じる」ことで、信憑の深度が増加し、信憑は身体を借りて型として表現されるという一面をもつからだろう。信憑の文脈のなかでは、つねに結論と原因が倒立する。信ずるから、秘蹟が見えるのであって、秘蹟をみたから信じるに至ったのではないのである。

テクニックについて語る方法。「さばき」、「かわし」、「後の先」、「先の先」、といった動作技法、「突き」、「蹴り」、「打ち」に連動する腰の動きや、「ため」、「ひねり」によるパワーの蓄積と爆発の方法など。これらについては、多くの空手解説書に言及されてきており、一見合理的に見える力の法則、物理学、運動生理学といった、科学の意匠をまとった言語で術理の解説や、トレーニング(稽古ではない)の方法が語られてきた。空手道がスポーツ化し、体育化するということは、テクニックについては合理的に語りうるのだという前提によっている。また、筋肉トレーニングを合理的に蓄積してゆけば、「強さ」を獲得できるというリニアな因果律が信じられている。しかし、プロレスラー高田延彦とヒクソン・グレーシーの試合を見て、スポーツの敗北を感じ取ったオーディエンスは私だけではないだろう。私の最初の師範である江上茂松涛館師範の最初の著作が、Beyond the technique つまり「技術を超えて」であったことは、興味深い。江上師は、技術を追求しつづけた人だが、晩年は非常に精神性を強調された方である。江上師の場合は、最終的には相手との照応という概念に行き着くのだが、そこに至る道筋は弟子達には明瞭な言葉では説明されていない。「徹底的に強くなろうと思ったら、本当に仲良くすることを知れといいたい。本当に仲良くする、仲良くなるとは、具体的にどんなことだろうか。つまり相手と一体になる、本当に相手の立場に立つ。文字通り相手と同じに感じ、同じ気持ちになる。相手になりきる。その為には自我を捨てることが必要になってくる。常に相手の気持ちを大切にとりあつかうことでなければならないと思います。」

と言うわけで、これまで空手道はさまざまな方法で語られてきた。しかし空手道を語る語法は、どれも未だに確かな指南力を獲得するに至っていないようである。空手道について語るとき、「沈黙の語法」「呪術の語法」「科学の語法」を駆使しても、語り得ないなにものか残ってしまうのであり、残ってしまうものの中にこそ空手の本質があるはずなのだ。(そのように経験は教えている。)

空手道、あるいは武道について語るということは、「言語的な表現と最も隔たったところにある身体表現について言語で語る」という困難を、どうしたら超えられるかという問題を避けて通る事ができないのである。

元来「話せば分る」なら「武」はいらなかったはずである。

文脈の問題

われわれは、考え違いをしているのかもしれない。

空手道あるいは、武道全般についての処方能力を持つ語法など、ないのではないか。

語法の問題ではないのだ。ブルースリーの名言を思い出して見よう。

いわく Don't think, feel.

いったい、ブルースという武人は何を言いたかったのか。これは何を意味しているのか。

武道的な身体の獲得は、ロゴス(言葉)によるのではない、リピート訓練による身体への刷り込みだけによるのでもない。武道的な身体を獲得するということは、ただ自らの肉体を感応体とすることだということなのだろうか。

たぶん、そうなのだろう。だが、ちょっと待って欲しい。「言葉で考えるな、感じろ。そうすれば相手の動きが感じられる」ということで本当に良いのか。そんな単純なことなのか。その他の含意はないのか。

相手からの身体情報受容能力を最大限に発揮する。つまり身体をすぐれた感応体とすること。「見」の能力をみがくこと。みな同じ事だが何かが足りないような気がする。

これを「考えるようにするな。感じるようにしろ。自分の動きのイメージを回復しろ」というように読みかえられないか。

人はだれも自分の身体を見ることはできない。ただ、イメージすることができるだけである。これは案外重要な事だ。自分の身体動作をわれわれは、身体感覚では捕捉できずに、イメージという知的なレベルで捕捉し理解するのである。だがイメージのレベルで捕捉した自分の身体動作は、実際の身体動作とは常に「ずれ」て現れる。(シンポジウムで実験しましたね。)

自分の「型」をはじめてビデオで見たときの違和感と失望感は、稽古人ならだれでも分かっていただけるだろう。稽古とは実は、この「ずれ」の修正のことではないのか。イメージの肉化のことではないのか。だとするならば、「武道的身体について語る」という文脈もはじめから倒立していることになる。

「武道をどのように語る(イメージする)ことができるのか」と問うのではなく、

「武道的イメージというものを、身体はどのように語る(表現する)ことができるのか」と問うべきではなかったのか。

武道-意識の肉化としての

通俗的だが経験的に正しいとおもわれるのは、「おしゃべりな剣士とは弱い剣士のことである」ということである。洋の東西を問わず良く戦うものは、無口であり不言実行のひとであった。この「常識」はカシアス・クレイが出現するまで破られる事はなかったのである。カシアス・クレイは、はなから違っていた。この宗教的なおとこはイメージが血肉化するまで、わめき続ける。もしイメージが実現するという神話を信じるのなら、そのイメージを最高の高みに置く必要がある。これがこの男の「大ボラ」の意味だったのかもしれない。キンシャサのリングでのクレイの脳裏に胚胎していたイメージは、地上最強のパンチを持つと言われたフォアマンをついに打ち砕く。

このときわれわれが目にしていたのは言葉が肉化するという呪術的真実であったのだ。わたしは「言葉」が「肉体」に勝利した瞬間を目撃したはずだ。

少し前の話だが、どうしても世界の水準にゆくことができなかった日本のテニスプレーヤーが世界の水準に追いつけるようになった理由を全日本級のプロテニスプレーヤーに問うたことがあった。彼の答えは実に意外なものであった。「日本人の体躯の発達や、科学的なトレーニングはあまり関係ないですよ。すべての要因はプレーヤーがお金持ちになって、アメリカの有能なコーチを雇えるようになったからです。有能なコーチが行ったことは徹底的なイメージトレーニングです。イメージトレーニングを導入して以後、トーナメントで勝ち進むことができるようになったのです。」

言葉、イメージ、モチベーション。これらのものは常に技術、技法、身体動作に先行する重要な要素なのかもしれない。(本当のことはわからない。しかし、本当のことなど実はどうでもよいのだ。重要なのはイメージと実態の関係を解きほぐすこと、「世界」を拡げてゆくことなのである。

空手道あるいは武道とは、高度なコミュニケーションシステムである。「高度な」という意味は、「ストレートで単純なシステムではなく、捻じ曲がった錯綜したシステム」であるということである。殺人剣、殺人拳とは、他者の究極の否定であり、他者を消滅させる技法である。武道のひとつの究極の姿がここにある。同時に、それは己を活かし相手を活かす活法(システム)でもある。このふたつの文脈の落差は、多くの武道家を逡巡させ、惑わせてきた。

この「逡巡」「惑い」の開放は、ただ稽古の中にしかない。相手を傷つけることで、相手と交流するというこのアンビバレントな他者への係りを突き詰めて行くのが武道のキーイシューなのだと思う。あらゆるシステムがそうであるように、その内部にシステム全体を否定するという契機を胚胎していないシステムは必ず硬化し、やがては壊死してゆく。

武道ひとりが、この理路をまぬがれているということはない。