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2005年12月13日

質問28 小説と「師」

Q:
30歳男性です。

小説を書いております。
ある方に師事をして、数冊の商業出版を刊行するという実績を得ました。
その後、その方のもとで学ぶことは学んだ、と独立して、現在に至っております。
(別に、喧嘩別れなどではなく、自然の成り行きとして、そうなっています。念のため)

その時の経験で、自分が、どういうことをすればいいのかを、なんとなくではありますが、掴んだつもりです。
ですが、今後、その掴んだ方向性を試していくには、やはり、私一人の力ではどうにもならないことが多く、新しい師、(この場合、話を聞いてもらえる編集さんや、経験のある先輩作家さん、ということになるかと思います)が必要であることを痛感しております。

そこで、なのですが、私は血眼になってでも、その「師」に当たる人物を探し求めるべきでしょうか。
こんな質問をいたしますのは、数冊分の小説を書いた時の経験で、小説は向こうから依頼があり、それにこちらが懸命に応える、そういった一種の契約があって、初めて成立するものだと感じたからです。
間違っても、自分で原稿を用意して、それを売り込むものではない。そういうことをしている物書きは大勢いますが、私はそれが本質ではないのではないかと思っております。

人間のポテンシャルは、向こうから来た依頼に懸命に応えようとすることで上昇するものだと思いますし、そういう思いで書かれた作品と、売り込みを前提に自分で書いた作品とでは、やはり、出来上がった時の艶が、まるで違うように感じます。
ですので、あまり「オレが、オレが」とぐいぐい前に出て行くのは、かえって小説の技量を萎ませていくだけのような気がしてならないのです。

ですが、全くアピールすることなしに、話が来るとも思えません。
「俺は、こんなことがやりたいんだ!」と、声に出して叫ぶことも必要でしょう。

そこで迷いが生じています。
私は、私の考えを受け入れてもらえる人を血眼になってでも探すべきなのでしょうか?

それとも、静かに暮らしながら、縁を待つべきなのでしょうか?
(とはいいましても、今、とくにやらなければいけない仕事があるわけでもないのですが)

私の考えは、小説の今日的な意義や需要、自分の適性、そのジャンルにおいての必要性や新たな可能性を、それなりに考慮したものであり、昨日今日の思いつきではないと思います。
自ら動くべきか、待つべきか。
どうか、ご意見を賜りたいと思います。

なんとも、身勝手で、抽象的で、訳の分からない質問ですみません。
こういう質問は、なかなか話せる人がおりませんので投稿させていただいたのですが、

訳がわからないようでしたら、没にしていただいて結構です。

とはいいつつも、お導きいただけるようでしたら、どうか、よろしくお願いいたします。

A:
今回は、講談社に奉職して四半世紀、職業(プロ)編集者として泣く子も黙る加藤晴之氏※(ご本人いわく、「釈さんとたつるさんの原稿を、おそろしくクビを長くして待っている衆生の編集者」)をゲスト回答者にお迎えしてお送りいたします。
よっ!待ってましたー!!
※ http://blog.tatsuru.com/archives/001023.phpをご参照あれ

小職、ある専門誌の連載原稿で、「もの書き」と「編集者」の関係を明らかにするための一覧表、つーものを発表しました(以下)。
編集者                ライター
(書き手=雑誌記者、作家、ジャーナリストなどなど)
キャディ(横峯良郎)        プロゴルファー(横峯さくら)
トレーナー(クリント・イーストウッド)ボクサー(ヒラリー・スワンク)
丹下段平              矢吹丈      
ひも                 ストリッパー
猛獣つかい             ライオン
マネージャー            タレント(歌手)
秀才                 天才
おわかりになりますか?
あるいは、作家が「石に泳ぐ魚」であるならば、編集者は「紙に泳ぐ魚」でしょうか?
魂の血を流しながら泳ぎ続ける異能の人々が命を削って取材し書いたものを、ときに励ましたり、助言しながら書籍や雑誌記事という「作品(商品)」に仕上げていくのが、出版社に勤めるわれわれ職業編集者の役割です。
もの書きがもの書きであるためには、たいへんな業を背負うことを覚悟しなければなりません。
林真理子さんが、『週刊文春』で連載しているエッセイで、過日放映された「女の一代記・瀬戸内寂聴」をご覧になった感想をお書きになっていました。
瀬戸内さん役を、宮沢りえちゃん(というよりこちらも、さん付けですね、貫禄の名女優になりました)が好演していましたが、その中で、伝説の編集者・斎藤十一さんが登場します。瀬戸内さんが「花芯」という小説を書いたところ、世の評論家たちが、あまりにもエロティックで下品な小説だとクソミソにけなしたとき、反論を書かせてほしいと、斎藤さんに懇願します。そこで、彼は瀬戸内さんに言い放ちます。
「あんた、駄目だね、作家なんか自分の恥を書き散らしておまんま食べる商売なんだからね」
じつは、この斎藤さんが、林さんに真杉静枝という小説家の生涯を書くことをすすめたらしく、林さんは、作家という業を背負うご自分を重ね合わせながら「女文士」という伝記小説をお書きになります。

閑話休題。新潮社の天皇ともいわれた、斎藤さんの一見乱暴な言葉は示唆に富んでいます。
孤高のボクサーである「もの書き」は、自分を鍛え上げてくれる名トレーナーを求めますが、その前に、もの書きというボクサーが、兼ね備えるべき絶対条件があります。
それは、斎藤天皇がいっているように、魂の血を流すことをいとわない狂気です。
小説の今日的な意義や、自分の適性うんぬんかんぬんされているうちは、たぶん、もの書きというボクサーになってリングを血で染める根性と体力がまったくない、とここで思い切り断言しておきます。
「うだうだいっとらんで、ともかく獰猛なテーマに向かって死ぬきでかからんかい、ワレ!」とつい大阪出身者である地をだしてしまいましたが、亀田三兄弟を見習って、言語の必殺パンチを磨いてください。
以上、体育会系編集者より。

以下、ウチダより。

加藤さん、先日はどうもご無礼を致しました。

さて、編集者と物書きの関係についてウチダからもひとこと述べよという本願寺のフジモトさんからのご下命でありますので、私からもひとこと。

私は編集者ではなくて、書く方ですので、その立場から。

私は「プロの物書き」というスタンスを採用しておりません。
私はアマチュアの物書きでありまして、書いたものが売れなくても、批評家に評価されなくても、別に明日の米びつに影響がないという気楽なライフスタイルでやっております。
それは、そうじゃないとすらすら書けないからです。

私自身は加藤さんの言葉を借りて言えば、「物書きのとしての業」を負う覚悟のない人間です。
「そういう人間は書くな」というおしかりを受けたこともありますけれど、自分が書きたいから書いているので、書くことがなくなったら書かないし、他のことに忙しくて書く暇がなければやっぱり書かないという構えが私の場合は「性に合っている」のです。
もちろん、こんな構えにはまるで汎用性がありませんので、誰から構わずお薦めすることはできませんが、それでも、原理的には「ものを書く」ということは、自分のなかの「もっとも汎用性のない部分」を「一般的に了解可能な準位のことばに置き換える」という作業ではないかという考えは変わりません。
だとすれば、書き手にとって「師」というのは、本人以上に本人の「汎用性のなさ」に気づき、それを「一般的に了解可能な言葉にする」ことを導いてくれる人、さらに言えばその仕事に愉悦を感じてくれる人のことではないかと思うのです。
「師」が書き手を鼓舞するのは、「私が理解しなくて、誰が理解するか」という「母性愛」に類する思い込みのような気がします。
そういう盲目的な「母性愛」をかき立てるだけの「サムシング」があるかどうかというのが「弟子」である書き手の側の問題なんだろうと思います。

私自身は、「君の書くものが読みたい」という読者が出現するまで、25年ほどぼおっとしていました。
25年間誰からもそういうリクエストがなかったのは「書くべき時ではなかった」ということだと思います。
あらゆる出会いは「出会うべくして」成就するというのが本当なら、あなたの書くものを「読みたい」という「お声」がかかるまでぼおっと待っているというのもあるいは「あり」ではないかと私は思います。
誰からもそういう声がかからなかった場合には、「お呼びでない?こりゃまた失礼いたしました」と破顔一笑して立ち去るというのも、ひとりの人間としてはなかなかにいさぎよいあり方ではないかと思うのであります(「無責任」でごめんなさい。今日、植木等の『無責任ボックス』がアマゾンから届いたので、これから見るところなんです)。


投稿者 uchida : 2005年12月13日 20:04

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