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   <title>インターネット持仏堂の逆襲・教えて！釈住職</title>
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   <updated>2008-03-11T00:19:24Z</updated>
   <subtitle>釈先生のなんでも仏法相談室</subtitle>
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   <title>質問７１・改宗するって、どういうことでしょう。</title>
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   <published>2008-03-10T23:54:35Z</published>
   <updated>2008-03-11T00:19:24Z</updated>
   
   <summary>Q: 釈先生、内田先生、はじめまして。 いつも、ご本やブログを楽しく拝読していま...</summary>
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      <name>uchida</name>
      
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      <![CDATA[<strong><font color=red>Q:</font>
釈先生、内田先生、はじめまして。
いつも、ご本やブログを楽しく拝読しています。
仏教では、人が“改宗する”ことは、どのようにとらえられているのでしょうか、教えていただきたく、投稿いたしました。
私は、カトリックの幼児洗礼者で、幼稚園から大学まで、カトリック系の学校に通いました。自分がカトリックの信者であることに対しては、かなり屈折したものを抱えてきました。それでも、「棄教」、「改宗」という選択肢については、あまり具体的に考えたことはありませんでした。それが、大学院で、社会学、民俗学、人類学などを通して、キリスト教と再会したことをきっかけに、クリスチャンであること自体への強烈な違和感や反発が内側から湧いてきました……。 「棄教」「改宗」も含めて、カトリックの信仰のことと、向き合う時期がきていると感じています。
ところで、２年ほど前から、仏教の本を自ら読みはじめました。釈先生、内田先生の本がきっかけとなり、最近は、吉本隆明さん、中沢新一さん、河合隼雄さんたちのお仕事からも学んでいます。そのおかげだと思うのですが、最近、宗教について、今までになかった感覚が二つ、芽生えてきました。一つは、信仰は、自分の意志で捨てたり選んだりできるのだろうか、という感覚です。 
実は、一度だけ、お坊さまに相談したことがありました。そのときは、「あなたは改宗してはどうですか？」と割りとあっさりお答えをいただいてしまい、戸惑いました。相談したのは私の方なのに、「はい、わかりました」と改宗することに、急に違和感が湧いてきて、その上、自分が軽薄な人間に思えました。そして、もしかすると、改宗という事態が、ある人の人生のなかで起こる場合、それは起こるべくして起こるのであって、その人は、気づいたときには、もうそれを生きている、のではないだろうか、今の私のように迷ってしまううちは、まだ頭のレベルでチョコチョコと仏教を考えてるだけなのかもしれない、と、思いはじめました。
二つ目は、仏教とかキリスト教とか、どちらでもいいんじゃないのかな、という感覚です。よく、異なる宗教者の間で、行き着く先は同じです、とか言われていて、分かるような、でも納得いかない気持ちでいましたが、もしかして、本当に、そんなものなのかもしれない、という感覚が湧いてきました。幼児洗礼でしたので、遠藤周作さんがいうところの、「からだに合わない服を勝手に着させられて」、不自由な思いもしました。葛藤と無縁なところで生きている人を、軽やかでうらやましいと思ったり、冷徹にキリスト教批判できる人たちに憧れたりしてきました。
しかし、人生において宗教とはなんなのかを、人生の初期の頃から悩み考えるよう習慣づけられていたおかげで、私は、自発的に（敵知りたさに）、宗教を勉強し始め、親鸞さんやマザーテレサのような人生、ひいては、キリスト教というよりも、イエスという人そのものの人生との出会いに恵まれました。この私の歩いてきた道自体が、私にとってのクリスチャンの人生というか、宗教なのかとも思えてきました。
中途半端で苦しくても、なんとか生きていれば、あらゆる宗教の向こう側にあるものに繋がれるかもしれない、非宗教の境地が分かる日もくるかもしれないのだから、今を続けてて、いいのかも？と思えてきました。
釈先生が、持仏堂の６で、「浄土真宗の家に生まれたから、お坊さんになったのです」とコメントしておられましたが、それと似たようなことが、私にも起こっているのでしょうか。若い頃、人生の苦しみのなかで受洗した母が、娘の私にも幼児洗礼を受けさせた、だから、そのご縁は恵みとして受けとめて、わざわざ棄教、改宗しないで、いまのままで、好きな仏教も学び続ける、それでいいような気もしてきました。
そう思うなら、すっきりしていて投稿することないみたいなんですが、ここからが、今の本当の悩みです。学べば学ぶほどに、仏教が好きになり、仏教徒として生きる、ということに具体的な興味が湧いてきて、宙ぶらりの状態にやっぱり、決着をつけたい衝動に駆られるのです。たまにいく教会で、賛美歌を歌ったり、祈りの言葉を唱えるのには違和感はありません。小さい頃から馴染んでいて、呪文のようにでてきますし…。しかし、主イエスキリストを信じる云々という「信仰告白」だけは唱えることができず、とても惨めで、いたたまれない気持ちになります。自分が場違いな人間に思われます。
一方、習い始めて二ヶ月に満たないというのに、禅ヨーガをしているときの方が、無理がなく、心が自由なのです。こちらは自分からどんどん深めていきたいと思うのです。この気持ちと、上述してきたような二つの気持ちの間で、揺れて、困っています。このような私に、アドバイスをいただけませんでしょうか…。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(29歳　女性　ペンネーム　sakura)
<stong><font color=red>Ａ：</font>
ええと、ひとつは、仏教で改宗をどう考えるか、ということですね。
比較宗教の視点から見ると、仏教は「改宗という事態」にそれほど重心をおいていないと言えるでしょう。ユダヤ教やキリスト教やイスラーム等に比べるとカテゴリーの境界性は緩やかです。
初期経典を読むと、他宗教(バラモン教やジャイナ教やアージーヴィカ教など)から仏教に改宗してくる人を歓迎してます。ただ、そのほとんどが出家者の場合であって、在家者には「別に改宗しなくても、仏教の教えを活用して生きていけばいいんですよ」と説いている場面もあります。
仏教において、近年の大きな改宗トピックスと言えば、インドのネオブディズムでしょう。アウトカーストの人々中心に数万人が一度に仏教へと改宗しました。カースト制度に苦悩する人たちが仏教の平等思想に共感したんですね。その流れは現在も続いています。
また、結婚の際にパートナーの宗教に合わせて改宗するというのは、世界中、多くの文化圏で見ることができます。例えば、日本仏教の場合においても、寺檀制度の名残があるので、「家の宗旨」に合わせるといった事情があります。これも一種の(無自覚的)改宗ですね。

さて、どのような宗教共同体においても「改宗してくれる」ことは喜びです (また「改宗される」ことほど宗教教団がいやがるものはありません)。ですから、その点は仏教教団も同様です。ただ、宗教というのは教団や共同体におさまらない部分がありますからね。そして仏教はその部分が比較的大きいと言えるんじゃないでしょうか。

もうひとつは、改宗に関するアドバイス、ですか。
う～ん、お話の内容を読む限りでは、今のところ改宗することもないんじゃないですか。
キリスト教にも、禅仏教みたいは部分もあるし、瞑想もあります。なにしろ人類史上最大規模の宗教ですからね、すそ野は結構広いんです。簡単に「仏教には合うけど、キリスト教はどうも合わない」とは言えないと思いますね。もう少しキリスト教のご縁の糸を手放さずにおいておいたらどうでしょう。
で、今のまま、しばらく仏教世界をさまよってもいいんじゃないですか。またキリスト教に戻るかもしれないし、居心地がいいのでそのままブッディストとして一生を送るかもしれないし。

また、sakuraさんに湧き上がってきた二つの感覚(「信仰は、自分の意志で捨てたり選んだりできるのだろうか」「仏教とかキリスト教とか、どちらでもいいんじゃないのか」)というのも、ごく自然な感覚であって決していびつなものではありません。そして、この二つの感覚と正反対の方向性(「信仰は自分の意思で決定すべきもの」「仏教、あるいはキリスト教でなければならない」)もsakuraさんの中にあるはずです。遠藤周作さんも「からだに合わない服を勝手に着させられて」と表現しましたが、他方「服にからだを合わせる」という方向性も捨てなかったでしょ。信仰告白だって、内面から表出されるという側面と、行為することによって内面が形成されるという側面があります。

二つの方向性に引っ張られる苦悩は、真面目に宗教と向き合えば必ず出てくる問題です。あまり考えないようなお気楽信者には起こらないジレンマなんですよね。その点、日本人クリスチャンはわりとそのジレンマを自覚しやすいと言えるでしょう。
あなたの場合は二律背反の正体がだいたい見えているわけですから、無自覚なダブルバインドじゃなく、自覚的二重拘束状態なのです。この自覚的ダブルバインドは、必ずあなたの人格を鍛錬しますから。
日本人クリスチャンは、ずっとこの二つのはざまに苦しんできました。それが日本人クリスチャンのすごいところでもあると思います。できればもう少し苦しんでください、わはは。

こんにちは。内田です。
僕も釈先生とまったく同意見です。
「改宗」とか「棄教」とか「背教」とか・・信仰というのは、そんなふうにデジタルに差異化できることではないと思います。
どんな宗教にもたくさん宗派や分派や異端がありますよね。
キリスト教にもカトリックのほかにプロテスタント諸派やアングリカン・チャーチやそのほか無数の宗派があります。
そのキリスト教そのものだってもとをただせばユダヤ教から派生したものですし。
イスラムだって、コーランにはアブラハムもイエスも出てきます。
原点にまで遡及すれば、どなたも「お隣さん」のようなものではないでしょうか。
ですから、同一宗教内部の「ちょっとした解釈の違い」とこちらとあちらの宗教の違いというのは、量的な差でしかないのではないか・・・と僕は思っています（手荒な断言ですけれど）。
というわけですから、sakuraさんは、「キリスト教カトリック内ｓａｋｕｒａ派」というふうにご自分の宗教的立場をとらえたらいかがでしょう。
バチカンの教皇さまは多少むっとするかもしれませんけれど、キリストはぜったい怒らないです。
いや、ほんとに。
では、ますますご精進ください。

ご挨拶
「当山、インターネット持仏堂住職の釈徹宗です。ようこそのお参りです。
さて今般、研鑽・聞法のためしばらくお堂を留守にさせていただくことに致しました。
いつでもご自由にお参りくださって結構なのですが、応答の扉はいったん閉めさせていただきます。
みなさんから届いた〈問い〉のおかげで、いろんなことについて考えることができました。あらためて、『ああ、信仰や思想は違っても〈問い〉は共有できるんだなぁ』と実感できました。異宗教間でも、“生きること”“死ぬこと”“他者に寄り添うこと”への〈問い〉は理解し合えますから。
〈問い〉を投げかけてくださった皆様、お読みくださった皆様、お便りやお礼の言葉をくださった皆様、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。またお会いする日を楽しみにしております。」

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   <title>質問７０・足を洗いたいんですけど</title>
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   <published>2008-02-12T08:08:00Z</published>
   <updated>2008-02-12T08:22:58Z</updated>
   
   <summary>Q: 崇教真光の初級研修を受けた私。私は救われたかったのか、すがりたかったのか・...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tatsuru.com/jibutsu/">
      <![CDATA[<strong><font color=red>Q:</font>
崇教真光の初級研修を受けた私。私は救われたかったのか、すがりたかったのか・・・たぶんその両方だと思うのですが。
このような団体にかかわるのは２回目です。1回目は3年で足を洗いました。2回目は1年が過ぎようとしています。で足を洗うかどうか迷っています。
助言をいただければ嬉しいです。　　　　　　　
（47歳・子供3人・夫あり）

<strong><font color=red>A:</font>
具体的な教団名が出ているので応答しにくいなぁ(笑)。
「足を洗う」って表現がいいですね。
崇教真光は、大本(教)から分離した世界救世教の分派です。手をかざして「浄霊」するところに特徴があります(この系統はみんな「手かざし」をやります)。個人的には、仏教の言説を恣意的に取り込む傾向と、「霊障」を強調するところが気になりますが…。
とにかく、すべての宗教は世俗の価値体系を破壊する力をもっていますので、そのことに対して自覚的であることが肝要です。この点に関しては、新しい宗教だから危険、伝統宗教だから安心というわけではありません。伝統宗教教団にも日常生活ができないほど「行ってしまっている」人はいます。逆に新しい教団にも、バランスのいい宗教的人格はおられます。
そもそも、世俗の価値を揺さ振ってこそ、「宗教」なんですよね。ですから宗教は必ず世間とは別の価値体系を提示します。仏教だと「出世間」と表現します。世間の価値体系から脱出するから救われるんです。
しかし、と同時に、宗教において大切なことは、日常へと還元する方向性を見失わないこと、これです。私はこれを「外部の回路を開きつつ、今ここを生きる」と表現しています。
迷っているなら、しばらく距離をとられたらどうでしょうか。その「迷い」は、日常への還元力からきているのかもしれません。

こんにちは。内田樹です。

一昨日会ったお医者さんが「医療は身体に悪い」ということをおっしゃっていました。
手術は身体に刃物を入れるわけですし、投薬も身体に異物を入れるわけですから、場合によっては「何もしない」というのがいちばん本人にとってよいということもあるのだけれど、なかなかそれではご納得いただけないのです、というお話でした。
それと同じように「宗教は身体に悪い」ということもあるのだろうと思います。
こんなことを書くと、釈先生がびっくりされるかもしれませんが、それを言えば「スポーツは身体に悪い」というのは間違いありませんし、「学問は身体に悪い」のの見本も掃いて捨てるほどいます。
つまり、人間がやることはたいがいが「身体に悪い」のです。

それでも「身体に悪いこと」を止められないのは、「身体に悪いこと」を経由しないと得ることの出来ない「身体にいいこと」があって、それを差し引きそろばん勘定すると、「いいこと」の方が多かった、ということがあるからでしょう。

ですから大切なのは「身体に悪いこと」がもたらす害毒を最小化して、「よいこと」を最大化する「さじ加減」を間違えないことだと思います。

釈先生が書かれているように「絶対安全な宗教」などというものは存在しません（「絶対に身体を壊さないスポーツ」とか「絶対にバカにならない学問」がないと同じように）。
その宗教経験を多産なものにするか不毛なものにするか、有害なものにするか有益なものにするかは、ご本人が決めることだと私は思います。
そして、宗教経験を豊かなものにするためには、十分な市民的・知的成熟が必要です。

「すがる」とか「足を洗う」という表現から推して、あなたには主体的に宗教にかかわり、そこから豊かなものを汲み出す能力があまり豊かに備わっているようには見えません（ごめんなさいね、率直すぎて）。ですから、あまり宗教にはかかわらないほうがいいかなと思います。
はい。








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   <title>質問６９・人間関係がしんどいのです</title>
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   <published>2008-01-17T06:00:24Z</published>
   <updated>2008-01-17T12:17:07Z</updated>
   
   <summary>Q: 釈先生、内田先生へ      たぶん今までこういう質問はたくさんされてきた...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
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      <![CDATA[<strong><font color=red>Q:</font>
釈先生、内田先生へ   
  たぶん今までこういう質問はたくさんされてきたかな、とも思うのですが、 すいません、あえて質問させてください。
  人間関係がしんどいのです。 どうやったら人とうまくやっていけるのでしょうか？
  今まで、恥ずかしながら友達の一人も持ったことがないのです。 自分の世界が狭くて、自分でもこの息苦しさに気持ちが悪くなるのですが、まったく人と、心を通わすことができません。人の気持ちに共感する能力に欠けるのか、「協調性がないと」よく言われます。
  いま、２０歳なのですが、人間関係がほとんどなく、たいへんに苦しいです。「自分探し」ではないのですが、どうにか今の自分を変えて、人と接することができるようになりたいです。
 これといった答えはないのかもしれませんが、なにか教えていただけたら嬉しいのですが・・・
 
<strong><font color=red>A:</font>
　人と関わるのがしんどくて、人と関われないのもしんどいのですね。それは身のおきどころがない苦悩だなぁ。行間からも、しんどさが滲み出ています。
　お会いしたことがないので、どの方向にアドバイスするのが適切なのかがよくわからないのですが、まずは、今の自分を変えるより先に、「人と関わってるほうがまだマシ」か「人と関わらないほうがまだマシ」のどちらかに重心をおくのが良さそうな気がします。
　例えば、「無理して人と関わるくらいなら、人と関わらない息苦しさのほうがまだマシ」というなら、せっかく人と接するのが苦手なんですから、とりあえずひとりでも生きていけるような方向に工夫してみるのはどうでしょうか。「人間関係がなくて苦しい」ということは「人間関係がないやつはダメ」という枠組みに苦しんでいる部分もあります(もちろん、誰かとつながるというのはそれだけで快楽ですから、つながれなければ苦しいんですが)。仏教では、(犀の角のように)きっぱりとひとりで生きていくことを勧めています。人間関係なしで生きていくほうがすばらしいというオルタナティブな枠組みもあるってことです。あるいは、誰にも知られず良い行いを続ける(例えば、街中のゴミを拾うとか)なんてのはどうでしょうか。人と関わらずして、いつの間にかあなたを変えているかもしれません(これ、内田先生の受け売りです)。
　また、「この息苦しさが続くくらいなら、人と関わるしんどさの方がまだマシ」というのであれば、どえらい田舎で暮らすのも一手だと思います。私もえらい田舎に住んでいるのでよくわかりますが、田舎では、もう、人と接触せざるを得ませんから。なにしろ、都市生活では、(その気になれば)人と接することを最小限にして暮らすことができますからね。自分を変えようとするよりも環境を変えようとするほうがてっとり早いかもしれません。
ところで、仏教の理念から言うと、「自分」というのは放っておいても、日日・時々刻々と変わっているということになります。これを読んでおられる最中にも、あなたは変わっているってわけです。逆に言えば、そもそも思い通りの方向へと自分を変えられるわけではありませんし、変われば好転するというのも怪しいものです。まあ、気楽に行きましょう。

こんにちは。内田です。

人間関係には「しんどい」関係と「お気楽な」関係が無限のグラデーションをともなって存在します。
質問された方の場合は、「お気楽な関係」というのがあまり経験ない、ということのようですね。
どうしてなんでしょう。
ちょっと、「しんどい関係」と「お気楽な関係」の差について考えてみましょう。

「しんどい関係」というのは、私がすること言うことについて、「だからお前は・・・なのだ」というふうに、きっぱりと決めつけられる関係です。
例えば、彼女とデートしているときに、ちょっと横を歩いている女の子を見たくらいで「もう、私のこと、愛してないのね」とか言われるとげんなりしますよね。
学者同士の議論なんかでも、人の名前とか、本の内容とかについて「え、それ何？」とか言ったりすると、「なんだよ、そんなことも知らないのか。そんな人間に・・・について語る資格はない」とか断定されると、とほほとなります。
断片的な事実に基づいて、「だからお前は・・・」というような全人格的な査定が下されるのって、とっても「しんどい」です。
「人間関係がしんどい」というのは、たいていの場合そこでの一挙手一投足がただちに「人格評価」につながる場合です。
その人の前だといかなる失態も失言も許されない関係って、間違いなく「しんどい」ですよね。
その逆に、「お気楽な関係」というのはどういうものかというと、私が何を言っても何をしても、「あ、そういうとこもあるんだ」というふうに寛大に受け止めてもらえる関係です。
個別的な失態や失言が全人格的な評価にただちに直結することのない関係が、「お気楽な関係」である、と。そういうふうに定義していいんじゃないかと思います。

そこで、話を逆から考えて、どういう人が「人間関係がしんどい」かというと、理屈としてはわかりますよね。
その人の一挙手一投足がすべて「人格の端的な表現であることになっている」人はしんどいですよ。
いかなる失態も失言も許されないわけですから。
でも、それってわりと「自分で自分に失態や失言を許さない」というご本人の傾向と関係ないですか。
つまり、あなたの「しんどさ」って、まわりの人の非寛容よりはむしろ、自分の自分に対する非寛容と関係しているんじゃないでしょうか。
いつもちゃんとしていないといけないと思っていると「しんどい」ですよ。
ときどき不始末をしでかしても、バカなことを言っても、「まあ、『そういうところ』を含めて私なんだし」という「自分に対する甘さ」があると、気楽ですよ。
ですから、あなたに必要なのは、他人との関係をどう構築してゆくかではなくて、実は自分との関係をどう構築するかじゃないかと私は思います。
自分の中にはいろいろな要素があります。
卑しいところもあるし、吝嗇なところもあるし、卑怯なところもあるし、猥雑なところもある。
でも、一方でプライドもあるし、人の苦しみを気遣う気持ちもあるし、正義感もあるし、ピュアなものに対するあこがれもある。
そういうのがぜんぶ「ごった煮」状態で人間というのはいるんだと思います。
そういういろいろな人格要素を含んだ「なんだかよくわからない人間」としての自分をとりあえず認めて、許して、できることなら愛してあげる、というところから始められたらいかがでしょうか。
「オレって、けっこういいやつだよな」と鏡の前で毎朝１０回くらい繰り返し言い聞かせてみるのもかなり効果があります。
とりあえずは「他人にやさしく、自分に甘く」をスローガンにかかげてがんばってください。
というような「アドバイス」を読んで、「け、何言ってやがる」と鼻で笑ってもいいんです。
「そういうクリティカルな自分がけっこう好きなんだよな」というフォローが入れば。
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   <title>質問６８・施しって何？</title>
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   <published>2008-01-08T00:45:48Z</published>
   <updated>2008-01-08T02:31:52Z</updated>
   
   <summary>Q: はじめまして。結婚10年目で、出産を機に、少々収入のあった「兼業主婦」から...</summary>
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      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tatsuru.com/jibutsu/">
      <![CDATA[<strong><font color=red>Q:</font>
はじめまして。結婚10年目で、出産を機に、少々収入のあった「兼業主婦」から専業主婦になりました。ふだんは赤子との動物的ごろごろ生活を楽しんでいます。
が、たまに夫の言動に「食わせてやってる」風な気配を感じると（たいていこちらの勘違いなのですが）、途端に怒り心頭に発してしまいます。（その後、生きてるのがちょっと嫌になります）
ああもう、家を出てひとりでサバサバと生きようかしら。食器を洗う手をふと止め、中空を凝視したりして。（そんなのフィクションだと薄々わかっているのに）
どうも「施し」を受けるのが苦手なようで、似たタイプのひとと青天井のプレゼント合戦になったり、おばちゃん特有の「ここは私が払うから」「いや私が」も毎度毎度。
ひとに奢られるくらいなら奢りたい、借りを作るくらいなら貸しっ放しでありたい、夫に養われるくらいならヒモでも養いたい。
自分でもしょうもないなあと思うのですが、最良の伴侶を得ても、最良の書物（内田さんのを筆頭に）を得ても、なかなかどうにもなりません。
恵んでもらっても「ありがとう」を言うどころか、「俺がお前に善いことをさせてやったのだ、礼を言われるのはこっちだぜ」と傲然と胸を張るというスペインの乞食を見習いたい、ような、やっぱりそれは嫌なような……。
お坊様がお布施をもらうときは、どのようななおきもちなのでしょうか。
（セニョーラ・３４才女性）

<strong><font color=red>A:</font>
　おもしろい人だなぁ。こういう人とめぐり会って、ヒモになるのもいいかも………。
あ、いやいや、と、とりあえず、私も「どうも施しを受けるのが苦手で」というのはわかる気がします。坊さんは元手がいらないからいいなぁ、とお考えのみなさん。他者からの施しで生活するというのは、これはこれで、なかなかしんどいことなのです。
　本来、仏教の「布施」は、何も金品だけではありません。相手にやすらぎを与えるのも、慈愛あふれる言葉を使うのも、お布施です。布施は、布施をする側の「行」「功徳」ですので、布施をする側・布施を受ける側、双方とも等位でなければ成立しません。また、布施を受ける側は、しばしば“田んぼ”に喩えられます。布施する側が功徳という苗を植えるための田(福田<ふくでん>といいます)なんですね。インド文化圏に行くと、布施を受ける側がいばっているというシーンはしばしば見受けられます。セニョーラさんが例に挙げたスペインの乞食と似たような理屈もよく聞かされます。
　セニョーラさんは、与える側と受け取る側との格差が耐えられないんですね。等価交換じゃないと等位の関係ではなくなりそうな気がしますか？ 
きっと、節度があって、たしなみがいい方なんだろうと推察しますが、ちょっと意地の悪い見方をすると、セニョーラさん自身、人に何かしてあげた場合、無意識的に優位へとポジショニングする傾向があるのかもしれませんよ。だから、逆の立場がイヤなのかも。
私などは、「動物的ごろごろ生活」なんて、すごくいいと思いますが。

　さて、お尋ねの「どんな気持ちでお布施をいただくのか」ですが、それはやはり「とてもありがたいお気持ちをいただいた」と感じます。まあ、毎日のことなので、ときどき「当たり前」のような気になったりして、反省することもありますが…。
　私は、セニョーラさんと同じで、どうも施しを受けるのが苦手なタイプなのです。ですから、余計に、大切に使わせていただこう、と感じます※。ほんとです。

　というわけで、他者からの贈与を、飄々と、そしてありがたくいただけるようなパーソナリティをお互い目指していきませんか。
なにしろ、私たちは関係性の中でしか存在し得ない、そう仏教では説いております。つまり、「私は誰の世話にもなっていない」てな感覚こそ警戒しなければならないということです。どんな存在も全部つながっていると考えれば、なにも一回一回その人と等価交換しなくても、どこかで誰かに返せばいいという気になれます。

※ちなみに浄土真宗では、金品を施与する行為は自らの「布施行」とは考えません。もちろん、僧侶への御礼や報酬でもありません。「仏様へのお供え」「聞法の場である寺院等の維持」という意味づけがなされています。現在の宗教法人法とは相性がいい意味体系かも!?

カナさん、こんにちは。ウチダです。
そうですか。施されるのが苦手なんですか。
ぼくもそうです。
大学院生のころ、修論を書いている間、バイトを全部止めて朝から晩まで本を読んでいた時期がありました。そのときは妻のバイトが唯一の収入だったんです。
そのとき、ちょっとした口げんかをしたときに、「誰に食わせてもらってると思ってるの」と一度言われたことがあり、これにはけっこう傷つきましたね。
ああいう言葉ははずみでも口にするものではないですね。
そういうことで優位性を誇示されたりすることが一度でもあると、もう一生涯二度と他人には食わせてもらわんぞと変に力んじゃうんです（『風と共に去りぬ』のスカーレットみたい）。
ですから、今でも人におごってもらうのはあまり得意じゃないです。
でも、三宅安道先生にはよくご飯をごちそうしてもらいます。
これは三宅先生の誘い方がたいへんナイスだからです。
「ウチダ先生、カルマ落とし手伝ってくださいよ～」と言ってくださるのです。
そう頼まれると、こちらも「う～ん、そうですか。先生、カルマだいぶたまってるようですしね。わかりました。ここはひとつ無理をしてでもスケジュールを空けて、カルマ落としのお手伝いをいたしましょう」という展開になるのであります。
これは「施す」側が「施される」側が気分よくなるように、こまやかな配慮をしているということですね。
つまり、施しにおいてたいせつなのは、「施される側」の心構えではなくて、むしろ「施す側」の心構えだということです。
それがただしい骨法を踏まえていないと「施し」が祝福のではなく、呪詛になってしまう可能性があります。
贈りものをされたせいで生きることが不自由になるような贈り物と、贈り物を受け取ったことでより生き方が楽になる贈り物と、贈り物にはたぶん二種類があるのです。
贈られた人が贈られたことでより自由になり、気分がよくなり、生き方の選択肢が増えるような、そういう贈り物をすることが、贈り手には要求されるのだと思います。
ですから、「いかに気分よく人に物を受け取ってもらうか」の手際の洗練は人間的成熟のひとつの指標であるとも言えます。
気がついたら、ふっと受け取っていた。
そういう「贈り上手」な人間がほんとうの「大人」だと思います。
そういう大人に私はなりたいです。]]>
      
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   <title>質問６７・お経の聞かせどころについて</title>
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   <published>2007-12-15T01:04:20Z</published>
   <updated>2007-12-15T01:06:41Z</updated>
   
   <summary>Q: 釈住職様・内田樹様 いつも楽しく拝見させていただいております。 お経につい...</summary>
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      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tatsuru.com/jibutsu/">
      <![CDATA[<strong><font color=red>Q:</font>
釈住職様・内田樹様
いつも楽しく拝見させていただいております。
お経について教えていただきたいと思いメールさせていただきます。
先日、友人の一周忌に参加する機会がありました。
お寺の本堂で約一時間読経が行われたのですが、初めの２０分くらいは故人のことを思い出し、いろいろな感慨にふけっておりました。
そのうちに想いは普段の私事のことに移り、読経の続く中、日常の些事につきあーでもない、こーでもないと考えてしまいました。
意味がわかれば有り難いお経とは思うのですが、知識がないために無為な時間を過ごしてしまうことになりました。
お経について一から勉強し、始まりから終わりまで理解しようとするのはとても難しいとは思いますので、せめてより大切な所だけでも意味がわかればと思っております。
そこで質問なのですが、お経を読む側としてはお経の聞かせどころというものはあるのでしょうか。
また、それを聴く側にはそれを感知し、理解するのに必要な予備知識はどういうものがあるのでしょうか。
さらに質問なのですが、これまでは漠然とお経というものは故人が無事に成仏するのに必要なものと考えており、お経とは故人に対するメッセージととらえていたのですが、それでよろしいのでしょうか。
われわれ生きているものに対するメッセージも含まれているのでしょうか。
今後も同様の機会が多々起こりうるとは思いますのでよろしくお願いいたします。　
　(４５歳　男性)

<strong><font color=red>A:</font>
　お経は仏教の教えを記述したものですから、基本的には私たち生きている者に対して説かれたものです。読んでみると興味深いことがたくさん書いてありますよ。
　でも、日本仏教では、儀礼性を重視する傾向が強く、中国で翻訳されたものを日本語に翻訳せずにそのまま読誦することとなってしまいました。聞いていてもわからないはずですね、ははは。
読経という行為は、「経典を読誦することは身心の修行である」「お経を読むことは功徳になる」「読経は仏様の徳を讃えることになる」「功徳を亡くなった方へと廻向する」「すべての生命の安穏を祈る」などと思想展開し、宗教儀礼として確立していきました(羅列したのは、宗教儀礼における経典の読誦をどう意味づけるかが、宗派によって相違するからです。ちなみに浄土真宗では、「仏の徳を讃嘆すること」と考えます)。ですから、決して「故人へのメッセージ」というわけではなく、「故人を手がかりとして、この場にいる人々、生きとし生けるもの、大いなる生命の根源である仏様、すべてへ向けて」と考えたほうがよいと思います。　
　さて、“お経の聞かせどころ”ですが、「ストーリーの山場」「有名な箴言部分」「仏教思想のエッセンス」などが内容的な聞かせどころ(って言うのかなぁ)でしょう。例えば、『阿弥陀経』の「六方段(世界に満ち満ちる諸仏が阿弥陀仏の徳を讃えるというダイナミックなシーン)」なんか、私はぐっときます。
また、読経という行為自体の聞きどころとしては、「難しい節回し」「独吟の部分」「大勢の僧侶が一斉に声高く読む部分」などがあると言えそうです。例えば、浄土宗のお坊さんたちによる「往生礼讃」は日本声楽の粋だと思えるときがあります。あるいは、『観音経』の「念彼観音力」と繰り返されるあたりなどは、個人的に好きです。「ねんぴかんのんりき」という声を何度も聴くのがなんとも言えなくて…。また、あまり身近ではありませんが、チベットやモンゴルの「倍音声明」などは、大変すばらしいです。
お経の内容に興味があるのでしたら、たいていの経典は、現代語訳や解説書が出版されておりますので、ご自身で一度お読みになることをお勧めします。読んでわかりにくいところがあれば、お坊さんに聞いてください。きっと丁寧に教えてくれますから。もちろん「持仏堂」への質問も大歓迎です。　
お経の旋律や声明(しょうみょう)に興味があれば、予備知識などいりません。全身のセンサーを全開にして、その場を感じてください。
友人のご法事もひとつの仏縁です。ぜひこの機会に、お経への興味を大切にして、自分なりの「聞きどころ」を発見してくださいね。
　ところで、「そのうちに思いは普段の私事のことに移り、読経の続く中、日常の些事につきあーでもない、こーでもないと考えてしまいました。」というのは決して無為ではなかったかもしれません。法事は、日常の点検をする場・時間でもありますから。
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   <title>質問６６・命名について</title>
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   <id>tag:www.tatsuru.com,2007:/jibutsu//5.1613</id>
   
   <published>2007-12-06T08:34:19Z</published>
   <updated>2007-12-15T01:48:07Z</updated>
   
   <summary>Q: 釈住職様・内田先生へ 毎回、楽しく拝見させていただいております。 さて、ひ...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tatsuru.com/jibutsu/">
      <![CDATA[<strong><font color=red>Q:</font>
釈住職様・内田先生へ

毎回、楽しく拝見させていただいております。
さて、ひとつお伺いしたいことがありまして、メールしました。
それは「命名」についてです。
最近、私は子どもが生まれたのですが、初めての子どもで、私自身生まれて初めて名前を考えるという作業をしました。
その際、命名に関する書籍の多さに驚きました。そしてその内容も多岐にわたり、本によって全く違うことが書かれています。
結局は本などは参考にせず、夫婦で考えた名前に決着しましたが、仏教的な立場では「命名」という行為はどのように扱われるのでしょうか？
また、「命名」のための方法論のようなものはあるのでしょうか？

仏教で「命名」というと戒名を思いつきます。生まれたときには親から名前をもらい、往生のときにはお坊様から名前をもらうということを考えると、お坊様もまた名付け親ともいえる存在なのかなとも思ったりします。

また、内田先生のお子様も個性的なお名前だと感じました。内田先生の本を読んだときにはしばらくは仮名だと思っていました。もし可能であれば、内田先生の「命名」に関するお考えもお伺いできればと思います。
お忙しいかと思いますが、ご指導いただけると幸いです。
よろしくお願いします。

ぶんた・２６歳・男

<strong><font color=red>A:</font>
　４世紀、中国仏教大成者である道安は、「出家者は釈の苗字を名乗るべきだ」というムーブメントを興しました。出家するということは、それまでの血縁や地縁の系譜から脱することですから、従来の苗字を捨てて「釈(釈尊の弟子という意味)」にすべきだというわけです。ですから、日本でも、仏教徒のことを「釈氏」とか「釈子」とか呼んでいました。
　私の苗字は「釈」ですが、かつては「釈氏(しゃくし)」だったようです。以前、内田先生がブログでも書いてくださっていましたが、「ネコもシャクシも」は、「禰宜も釈氏も(ねぎもしゃくしも)」つまり「神官も僧侶も」というのがなまったものだ、ということです。ただ、これ、諸説あるようで、落語「浮世根問(うきよねどい)」では、「女子も赤子も(めごもしゃくしも＝女も赤ちゃんも)」だったんだと言っています。いずれにしても、「猫」と「杓子」じゃ並列にはなりません。
　さて、亡くなって戒名をつけるのは、死者を「出家者」として扱うためです。本来、仏教では、僧侶は死者儀礼に関わりません。死者儀礼は世俗の習慣です。そのため、世俗からの脱出を目指す出家者がすべきことではないと考えたんです。
　しかし、昔から同じ僧侶仲間の葬儀は執行しました。同じ共同体(サンガと言います)内の出来事だからです。
　というわけで、死後であっても、とにかく出家者という態にして葬儀を行うために、戒名をつけます※。もちろん、本来、戒名や法名や法号は生前につけるものです。現状は、死後の諡号(しごう：おくり名)と習合してしまっているんですね。

　さて、命名のお話ですが、私個人の意見としては「他者が読めないような名前」をつけるのはどうかと思っています。そもそも名前は他者が使用して初めて機能するものです。それなのに、誰も読めないような名前をつけてどうするんでしょうか。名前の機能に対して鈍感な証拠です。
　「他者に読めない」＝「他者とは違う個性」という図式でしょうか。めずらしい氏名をもつ者の苦悩を知らないんですねぇ。私などは、生まれた時から「釈徹宗」なので、鈴木さんや山田さんがうらやましくてしょうがなかったんですよ。苗字がめずらしいなら、なぜせめて名だけでも平凡なものにしなかったのか、とよく親に対して文句を言いました。
　とにかく、氏も名も、日本ほど多様な国は無いそうです。多くの民族・文化では、聖人の名前や先祖の名前を名乗りますから。また、本来、命名は極めて宗教的な作業です(だから名づけ親は“ゴッドファーザー”なんですよ)。

　以前、内田先生に「改名文化は大切だと思います。昔の元服みたいに成人したら名前を変えるということにしたら、きっとかなり大人の社会になると思います」というお話をしたことがあります。そしたら先生は、「成人したら読みを変えたらいいんだよ。それまでは“テツムネ”だったのが、成人したら“テッシュウ”にするんだ」と返答されました。いやぁ、すごい方です。こんなことすぐに思いつく人は他にいません。
　名前に関する宗教性と社会性については、いずれ発刊される予定の『インターネット持仏堂３』で詳述しておりますので、お楽しみにしてください。

　それで、ご質問は「仏教的な立場では命名という行為はどのように扱われるのか」「命名のための方法論のようなものはあるのか」ということでした。
　“命名という行為”は、「それまでの私が死して、新しい私として再生する」ことの象徴です。これは、仏教に限らず、すべての宗教において見られます。その意味では、仏教も同じなんですね(ただ、初期の仏教では、特に「ブッディスト・ネーム」といったものを使ったりはしなかったみたいです)。
　また、“命名の方法論”ですが、基本的には「釈○○」といった形態にします。釈という苗字と、漢字二文字の名前の組み合わせです。やはり中国の氏名が原型になっているんですね。多くの場合、「仏典」に出てくる言葉や字を使って、師や善知識(仏法の指導をする先輩)が、弟子や後輩に命名します。

※ただ、この説明はかなり一面的で大雑把です。葬儀や戒名に関しては、他にもさまざまな意味づけがなされています。

内田樹です。
名前をつけるという行為は生身の人間をキャンバスにして絵を描くとか、生身の人間を原稿用紙に擬して小説を書くとか、そういうことに似た創造的な営みだと思います。
ことばには「呪力」があります。
ことばで人を縛ることができる。
逆にことばには「予祝」の力があります。
ことばによってあらかじめさまざまな将来の禍根を取り除いておくことができる。
Ｇｏｄ　ｓｐｅｅｄ　ｙｏｕ！なんていうのはそうですよね。（この場合のｓｐｅｅｄは「足を速める」という意味の動詞です。旅ゆく人に対する祈りです）。
ですから子供に名前をつけるというのは、災厄を避ける祝福にもなるし、場合によっては子供の生き方を制約する呪いにもなります。

中世の日本では子供に幼名というものをつけましたが、これは「犬千代」とか「捨松」とかいう「獣や価値のないもの」を表象するのが習わしでした。
弱い子供を「邪悪なもの」から守るために、「これはほんとうにつまらないものですから、どうぞおめこぼしを・・・」という親の祈願を込めた命名だとされています。

ですから、ある程度成長を遂げたら、「プロテクションとしての幼名」はリセットしなければいけません。
武士の場合は元服したら名前を換えますし、商人でも屋号のある場合は「第１０代なんとかざえもん」というように社会的立場を表す名前になります。
これらの名前はその人の個性や独自性よりはむしろ非個性、代替可能性を示しています。
つまり今聞くと大変不思議なことですけれど、「余人を以て換えることができる」というのが伝統的には成人＝社会人の条件だったのです。
でも、これは卓見ですね。
「余人を以て換えることのできる人間になる」ことをめざす自己形成って。
これって言い換えると「自己評価と外部評価の乖離がなくなった状態」ということですからね。
それが「大人の条件」である、というのはよくできた話です。

そのあと、隠居名というものがあります。そのあと、贈り名とか戒名とか、いろいろ人間的ステイタスを示す名前が重畳するわけです。
それらの複数の名前とそれが表すさまざまな年齢におけるその人の社会的はたらきの「和音」としてひとりの人のありようが結像する。
なかなかよくできたシステムだと思います。

名前は生涯にイッコだけ、というのはそういう点ではずいぶんと不便なことですよね。
これらはすべて国民国家が「ＩＤ」というもので国民を標準的に管理することの必要性から出てきたことで、こちらにとってはいい迷惑です。

幕末新撰組の近藤勇は幼名が宮川勝五郎、島崎勝太、島崎勇、近藤勇、大久保剛、大久保大和・・・となんと５回も名前を換えています。
ＩＤなんかない時代ですから、戊辰戦争の途中、流山で官軍に降伏したときも「大久保大和です」と名乗っていたので、そのまま放免されかけたところ、たまたま京都で近藤を見知った官軍兵士が「あら珍しや近藤氏」と見とがめたせいで捕縛、ついに斬首されてしまったのでした。
写真も住民票もない時代ですから、名前を換えちゃえば別人になって暮らせることができたのです（そうすればよかったの、と思いますけど）。

だから、新撰組のドラマなんかでも、ほんとうは「近藤さん」というような呼びかけがなされるのは一時期だけで、甲府に鎮撫隊でゆくときは「大久保どの」と言い換えなければいけなかったんですけれど、どれほどリアルなドラマづくりをめざす脚本家もしませんね。
でも、それはそれだとドラマのつながりがわからなくなってしまうというのは、「生涯に名前はひとつ」という陋習に私たち自身が深く捉えられているからだと思います。

閑話休題。
というわけですから、命名については幼児においては「霊的プロテクション」として機能し、成人後は「代替可能な名前」として機能するようなもので、老人になって名乗っても十分つきづきしいもの、という条件を満たさなければなりません。
めんどくさいですね。
だから、あんまり「かっこいい」名前をつけるとあとが大変ですよ。
うちの娘につけた「るん」という名前は、森鴎外の「じいさんばあさん」という短編から拝借しました。
主人公のおばあさんの名前なんです。
おばあさんになってもかわいい名前、というのでこの名前を採用しました。
なかなか配慮のゆきとどいたネーミングでしょ？

欧米は名前を変える習慣がないので、子供でも老人でも違和感がありません。欧米名を借りる人が多いのはそのせいでしょうね。
鴎外は娘に「茉莉」（マリ）、「杏奴」（アンヌ）、息子には「於菟」（オットー）と欧州的な名前をつけていますけれど、これも賢い方法ですね。


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   <title>質問６５・筋肉がないんです</title>
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   <published>2007-11-01T01:06:00Z</published>
   <updated>2007-11-01T01:26:16Z</updated>
   
   <summary>Q: 内田樹様、釈住職様へ 仏教に関係ない、場違いな質問かもしれませんが聞いてく...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tatsuru.com/jibutsu/">
      <![CDATA[<strong><font color=red>Q:</font>
内田樹様、釈住職様へ

仏教に関係ない、場違いな質問かもしれませんが聞いてください。

私は男性ですが、ほとんど骨だけの体で筋肉がありません。以前のあだ名は「骨」でした。しかし、内田先生の本を読み進む内に、もう少し筋肉が欲しいなぁと思いました。

そして今度、筋肉トレーニングをしようと思うのですが、効率の良い筋肉のつけ方について教えてほしいので、メールしました。

仏教的視点から見て、筋肉をつけるということはどういうことを意味するのでしょうか。

また仏教的な筋肉の正しいつけ方をお聞きしたいのですが。

そして、筋肉がつくと人生にどういう影響が御座いますか。

爪に火をともす感じで、何とか日々を送っています(文庫が最近出版されて嬉しいです)。30近いのに、バイトをやったりやめたりで、恥ずかしくて本名を出せません。御免なさい。

                                                    （ペンネーム　骨）

<strong><font color=red>A:</font>

仏教的視点による筋肉増強ですか？　

筋肉に特化して語るような理念はありませんが、「身体を整え鍛錬する」ことは仏教でも重視します。なにしろ「身心を整える」ことによって、苦悩の連鎖を安寧の連鎖へと展開するというのが仏教という宗教ですから。

最古の経典のひとつである『ダンマパダ』には、

「健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである」(第204偈)

というブッダの言葉があります。ここでも、「健康」「満足」「信頼」といった経験則に基づく価値観が語られています。この言葉で重要なポイントは、「身心のバランス」です。どんなにすばらしい理想や行為であって、「バランスを崩し、極端になってしまう」のは良くないと仏教では考えます。

骨さんが筋肉を鍛えることに目覚めたのも、骨さんの身体がそれを要求しているのかもしれません。ここはひとつ、身心の流れに沿って、筋肉を鍛えてみてください。

というわけで「仏教的な筋肉の正しいつけ方」は、「“バランスよく”というイメージを大切にすること」、これです。

ちなみに、私自身は「筋肉をつけようと思って、筋肉を鍛える」のは苦痛と感じるタイプです。


こんにちは。内田樹です。

筋肉ですか・・・武道では「よけいな筋肉をつけない」ということが大事なんです。
だから、ウェイトトレーニングはやってはいけません。
あれは、身体を固定して、局所的な筋肉に非日常的な負荷を与えて、筋繊維を断裂させて、再生するときに太くするという、どちらかというと「未来を担保にした借金」みたいなものなんですけれど、筋繊維が断裂するという「苦痛」を感知しないようにする点がよろしくないと思います。

身体的苦痛を、あるいは苦痛の予感を感知する能力は人間が生きてゆく上でもっともたいせつな能力のひとつです。

恐怖心とか不安とか苦痛とかは生きるためのセンサーですから。

ぼくが現代のスポーツ指導で疑問に思っていることは（平尾さんとの対談本にも書きましたけれど）、「苦痛を苦痛として感知しない」鈍感な身体を作ることの危険性をほとんどカウントしていないことです。

たしかに「苦痛を苦痛として感知しない」ペインレスの身体は「無敵の強兵」になる可能性があります（ゾンビみたいなもんですからね）。

それによって恐怖心や怯えによる制約を突破して、思いがけない身体的なブレークスルーが経験されるということは、たしかにあります。

でも、これはすごく危険な方法だとぼくは思っています。

武道を教えていて、なかなか上達しない人には共通性があります。
それは自分の身体が現に感じている「不快感」を感じないということです。
身体がねじれたり、こわばったり、ゆがんでいたりすることは「不快」であるべきなのですが、それが感知できない。

人間の身体は「不快を避け、快を求める」というのが本来的なありようです。
だから、例えば熱い鉄板に指先が触れたときに、ぼくたちはそこから飛び退りますね。
身体をじっと固定させておいて、指先だけ「ひょい」と動かすということはしません。
全身を使って飛び退るのと指先だけ鉄板から離すのでは、要する時間はたぶんコンマ何秒しか違わないでしょう。けれども、「不快を避ける」身体の本性はこのコンマ何秒の差を有意なものとして感知します。

その感覚がとてもたいせつなのです。
その感覚をとぎすませてゆくと、身体は最短時間、最短距離、最少エネルギー消費での身体運用の動線を瞬間的に探り当てられるようになります。
それが武道的な意味で合理的な身体運用、すなわち最速、最強の身体運用です。

この理想の動線を探り当てるためにいちばん必要なのは「いやな感じ」を「いや」だと感じる感受性です。

というわけで逆説的なことに武道的には「どれほど俊敏に厳しく動いても、どこにも負荷がかからないので、結果的に少しも筋肉がつかない」ような身体運用が理想的とされるのです。

筋肉付けたい人に、反対のアドバイスでごめんなさい。

でも、筋肉つけるより、皮膚感覚を敏感にする方がずっと楽しいと思いますよ。

がんばってくださいね。




















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   <title>質問・６４　求む良縁</title>
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   <id>tag:www.tatsuru.com,2007:/jibutsu//5.1552</id>
   
   <published>2007-10-11T04:01:56Z</published>
   <updated>2007-10-11T04:03:59Z</updated>
   
   <summary>Q: 初めまして。 このような事を書いてよろしいのでしょうか？　と躊躇しつつ、質...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tatsuru.com/jibutsu/">
      <![CDATA[<strong><font color=red>Q:</font>
初めまして。
このような事を書いてよろしいのでしょうか？　と躊躇しつつ、質問といいますより、ご相談といったほうがよろしいようなことでmailいたします。
浄土真宗の寺に生まれ、親戚など周りにも寺院が多いという環境で育ちました。その親戚の寺院には、子どもが女子３人ありまして、寺院を継ぐ長女は、すでに２８才になろうとしています。しかしながら、寺院にきていただく婿養子がなく親戚中が困り果てています。
長女である本人は、小学校の教員をしています。この辺り（滋賀県）は、寺院だけでは生計が成り立たない小寺が多く、本山にお勤めの若い方も敬遠します。（本山勤めで婿になってもいいというのは、寺のお仕事だけで楽に暮らせるならいい、という僧侶の思いがあるようです。）在所（寺院ではない一般のおうち）の方でも、次男の方であれば、ご縁が欲しいところです。
この１年のうちにお見合いのお話をいただいて、何とか将来につなげたいと考えています。良い方法があればご教示くださいませ。ちなみに、我が家にも嫁入り前の娘が２人おりましたが、お寺へ嫁いでもいいといいながら、残念なことにそういうご縁がなく、普通の人と恋愛をして結婚しました。
親としては寺へ嫁がせたかったのですが、思うようには参りませんね。

<strong><font color=red>Ａ:</font>
　当山持仏堂では、どのようなご質問・相談も＜ご縁＞と喜び、応答させていただく所存ですので、「このような事を書いてよろしいのでしょうか？」という危惧は無用です。
　といっても、お申し込み多数の場合は取捨選択させていただく場合もあります。さらにはまた、「応答させていただく」ことと、「解決する」ということとは別次元でして…。今回のご質問にも、有効で具体的な解決法を提示できるそうにもないのですが…。

　現在、内田樹先生と「佐分利信プロジェクト」を運営しております。昔ながらの「縁談のお世話をするおじさんやおばさん」が絶滅寸前な状況を憂い、今年立ち上げたプロジェクトです。プロジェクト名は、影の黒幕を演じさせたらこの人の右に出る者はいなかった佐分利信が、小津映画の中で「まあ、後は若い人たちにまかせて、我々はこのへんで失礼するとしますか」といった風情を醸してしたことに由来しています。
もし、ＳＳプロジェクト(佐分利信プロジェクトの略)に「お寺に婿入りしたい」という希望が舞い込めば、一報を入れさせていただきます。

さて、そもそも「いい人がいれば結婚したいけど、何が何でも結婚しなければならないとは思わない」という人が多い現状では、＜お見合い結婚＞自体なかなか成立しません。このような現状を劇的に変える「良い方法」は今のところ思い浮かびませんが、とにかく地道に人と人とが交錯する機会を増やさねばなりません(なりません、ってのもヘンなのですが)。つまり、基本的には、ひとりひとりが、自らの人的ネットワークを賦活させることが大切なんだろうと予想されます。
というわけで、ぜひ、まずはご自身が「おせっかいな人」と化していただき、自らの人的資源を活用して、縁結び役を開始してください。さすれば、つながりがつながりを呼び、ついには、まわりまわって良いご縁が生じるに違いありません。なにしろ、日本のお寺の数は、コンビニの倍近くあるんですから。
かつて、お寺はいろんな縁談のお世話をしていたました。子どもの頃、ウチのお寺にも、棚にたくさん＜釣書＞なるものがあったのを覚えております。せっかく日本中にお寺があるんですから、教団や宗派を超えて＜お寺ネットワーク＞が起動すれば、婿のひとりやふたりは…。ははは。
最後に情報をひとつ。本願寺教団では、「寺院活動の推進」の一環として、寺院後継者問題への取り組みとして、「ＮＥＴ縁(えにし)」を発足させたそうです。「入寺・結婚」に関するネットワークだそうです。どのくらい機能するのかは未知数ですが、ご相談にはぴったりですね。受付・問い合わせが、近々発表されるそうですよ。楽しみですねぇ。

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   <title>質問・６３　食べ物と生き物の違いは</title>
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   <id>tag:www.tatsuru.com,2007:/jibutsu//5.1529</id>
   
   <published>2007-09-27T04:37:25Z</published>
   <updated>2007-09-27T05:01:38Z</updated>
   
   <summary>Q: 釈住職さま／内田先生     こんにちは。いつも、楽しくｗｅｂを拝見させて...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tatsuru.com/jibutsu/">
      <![CDATA[<strong><font color=red>Q:</font>
釈住職さま／内田先生  
 
こんにちは。いつも、楽しくｗｅｂを拝見させて頂いている者です。  
 
早速ですが、最近自分でもコントロールできないことがあり、ここへ投稿させていただこうと思いました。私は、１年くらい前から何となく、牛肉、豚肉、鶏肉、魚の全てが「食べ物」ではなく、「生き物」に見え、料理をするのがつらくなってきました。  
 
もちろん、以前ほどではなくとも食べてはいるのですが、食べるときも出来るだけ何も考えないようにしなければ、つらくなります。また、痒いから「ごめん」と言いながら蚊もパチンとやるし、ゴキブリが出たら、ゴキブリほいほいを置くのですが、その全てに罪悪感を覚えてしまいます。殺さなくてもいいように、できるだけ我が家から遠ざかってくれるのを祈るばかりです。  
 
どうして自分がこんな気持ちになるのか、また、自分に何が起きているのか、よくわかりません。アドバイスを頂ければ、とても有難く、どうぞ宜しくお願いいたします。  
 
（ともまや／女性）  
 
<strong><font color=red>Ａ：</font> 
ああ、「できるだけ我が家から遠ざかってくれ」ってのがいいですね、ははは。  
 
ジャイナ教徒になれば、あなたに合った生活ができるかもしれません。かなり厳密に「殺生」を避けて暮らしている人が多いですから。ジャイナ教は、仏教と同時期に成立した、とても興味深い宗教ですので、ここで詳述したいところですが…。ま、それはまたの機会に。  
 
あなたに何が起きているのか、いただいた情報だけでは推測することはできません。殺生への抵抗感は、「かわいそう」というレベルから、「自らの実存」という位相、あるいは「病的な嫌悪」に至るまで、かなり振り幅がありますから。  
 
今、とりあえず言えそうなのは、あなたが言う「生き物」と「食べ物」という概念あたりにヒントがありそうだ、ということです。なにしろ、現代人は「生き物」が「食べ物」へと移行する現象を目の当たりにする機会が少ないので、その線引きに対して鈍感になっていると言われています。ともまやさんは、その鈍さに反応しているのかもしれません。　　  
 
そもそも人類は長い間、「生き物」が「食べ物」へと移行する際に「儀礼」が必須だと考えてきました。なんらかの宗教儀礼を通過することによって、「生き物」が「食べ物」へと転換されるのです。通過儀礼は、状態を変化させる機能をもつのです。例えば、合掌して「いただきます」と口称することだって、(もっとも手軽で身近な)移行のための「儀礼」です。「ごめん」と言いながら蚊を殺すのも、ともまやさんなりの儀礼かもしれませんね。  
 
レストランで食事する際、「なぜお金を支払っているのに『いただきます』と言わなきゃいけないのか」と言った子どもがいたそうですが、この子どもにちゃんと説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか。  
 
というわけで、「生き物」を「食べ物」へと移行させるために、なんらかの宗教儀礼を行うことをお勧めします。いろんな宗教や宗派の「食前の言葉」「食後の言葉」がありますから、お好みのものを使ってみるのも良いでしょう。それを料理の前や、食事の前に唱えるんです。  
 
例えば、天台宗では「我今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵により此の美わしき食を受く。謹しみて食の由来を尋ねて味の濃淡を問わじ。謹しみて食の功徳を念じて品の多少を選ばじ。いただきます」と食前に唱えます。食後は「我今此の美わしき食を終りて、心豊かに力身に満つ。願わくは此の心身を捧げて己が業に勤しみ、誓って四恩に報い奉らん。ごちそうさまでした」と口称します。私が子どもの頃は、浄土真宗もこれを称えていました。  
 
今、浄土真宗では、「み仏とみなさまのおかげにより、このご馳走をめぐまれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます」「尊いおめぐみにより、おいしくいただきました。おかげでご馳走さまでした」と言っています。だいぶ簡単になったなぁ。また、禅にも有名な「五観の偈（げ）」があります。キリスト教も食事の前にお祈りします。いろいろと調べるのもおもしろいかも。 
 
儀礼を行うことによって、「生き物が食べ物になることは決して当たり前ではない」「私は他者の生命を奪って生かせていただいている」などを実感できるに違いありません。  
 
いずれにしても、純白の生き方などありません。他者を傷つけ、他者の恵みで、はいつくばって生きて行くのです。そのことを自覚するためにも、また大きな生命のつながりと連鎖に思いをはせるためにも、宗教儀礼に注目してみるのはいかがでしょうか。

こんにちは。内田です。
「食べ物」は「生き物」だというのはほんとうにそうなんだと思います。
ぼくたちがふだん食べている生物はだいたいどれも微量の毒物を含んでいるんですけれど、それは毒を含んでいないとほかの動物に食べられてしまうからなんです。
ジャガイモなんか青酸出してるんですからね。
まったく毒性のない生物はすぐに食べられて絶滅してしまうので、種の保存のために毒を出しているんだそうです。
そういう毒性のあるものじゃないとある程度までの大きさには成長できないんです。
だから十分に栄養をためこむことのできたタフでワイルドな生物だけをぼくたちは選択的に常食しているわけです。

なんか泥棒の上前をはねる泥棒みたいですけれど、それにしても人間てまことにタフでワイルドな生き物だと思いませんか？

人間が地上でおそらくもっとも貪欲な食性をもつ生物だということは間違いありません。
そういう自意識をもつことはとてもたいせつだと思います。

ともまやさんはそのように「罪深い」生物種であることの意識がちょっと人より強いんだろうと思います。

でも、この「貪欲な食性」のうちに人間の本質があるのではないかとぼくは思っています。

ぼくたちは現に思想や学術について、「噛み砕き」「飲み込み」「消化吸収する」という食事の比喩を用いますよね。

これは比喩じゃなくて、食性と知性というのは実は同一構造をもっているからだと思うんです。

ぼくの場合は「うまく噛み砕けないもの」「うまく飲み込めないもの」「うまく消化吸収できないもの」につよく惹きつけられますが、それは知的向上心ともいえるし、「悪食」ともいえるし「貪欲」ともいえます。

「なんでも食べられる生物種になりたい」という強い欲望が人間を地上最強の種にした重要な原動力の一つだったとぼくは思います。

「理解する」という動詞は世界中どこでも「つかむ」「飲み込む」「食べる」「一体化する」「同化する」という動詞で置き換え可能です。

ですから、ともまやさんが今「どうしてなんでしょう？」というふうに質問をしてきて、「うまく噛み砕けない」問題を「消化吸収」しようとされていること自体が、実は「なんでも食べられるようになりたい」という生物的な始原的衝動のひとつの変奏なのではないかとぼくは思うのです（猫とかゴキブリとかはそういう欲望を持ちませんからね）。

だから、気にしないでね（といって片付くことではないですが・・・）





















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   <title>ＪＴＢカルチャーサロンのご案内</title>
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   <published>2007-09-19T03:13:19Z</published>
   <updated>2007-09-19T03:13:37Z</updated>
   
   <summary>■ＪＴＢカルチャーサロンのご案内 持仏堂住職の釈徹宗が、「なるほど世界の宗教文化...</summary>
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      <![CDATA[■ＪＴＢカルチャーサロンのご案内
持仏堂住職の釈徹宗が、「なるほど世界の宗教文化」という講座を開講します。
月一回、木曜日の午後１時からです。
平日のお昼、ご都合がよろしければお越しください。
くわしくは <a　href="http://jtbculture.com/regular/kansai/o_learns3.html">http://jtbculture.com/regular/kansai/o_learns3.html</a>]]>
      
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   <title>質問６２・節談説教を聞きました</title>
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   <published>2007-08-28T08:39:11Z</published>
   <updated>2007-08-28T09:11:42Z</updated>
   
   <summary>Q: こんにちは。 落語のルーツを訪ねるつもりで、7月の築地本願寺「節談説教」を...</summary>
   <author>
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      <![CDATA[<strong><font color=red>Q:</font>
こんにちは。
落語のルーツを訪ねるつもりで、7月の築地本願寺「節談説教」を聞きにいきました。
そのときは持仏堂ご住職さまと繋がっているとは存じませんでした。
（持仏堂じたい続いていたことに気づいてもいませんでした）
節談説教を聞き、その時代に布教するとはどのような事であったろうか？
浄土真宗はどのような受け止められ方をしていたのだろうか？
節談説教のエネルギーはどのように伝播していったのだろうか？
想像は広がります。
さて質問です。
今月末に京都へ行く計画がありまして、節談説教に縁のあるお寺を京都に尋ねるとしたら何処へ行けばいいのでしょうか？
（monstera）

<strong><font color=red>A:</font>
おお、７月の築地本願寺に来てくれたんですね。それはそれは、ありがとうございます。想像もしていなかったくらい多くの人が来てくださって、急遽第三会場まで準備するようなあり様でした。
それにしても「落語のルーツ」を訪ねるつもりで「節談」に行き着くとは、たいした嗅覚です。名人級です。
ご質問の「節談説教に縁のあるお寺を京都に尋ねるとしたら何処へ行けばいいのか？」ですが、残念ながら「行けば節談を聴聞できるお寺」というのはありません。西本願寺の聞法（もんぼう）会館内にある総会所では、３６５日、お説教を聴聞できますが(おそらく世界でも稀有な場でしょう)、そこで節談が語られることはありません。
お話すると長くなるのですが、いろんな理由があって「節談説教」は自粛や禁止の憂き目にあってきました。「このままでは節談を語れる人が絶滅する」という危惧から、今回「節談説教研究会」を立ち上げて「節談説教会」を開催したわけです。
というわけで、もし「節談」をお聞きになりたいのであれば、節談説教を語る説教者を追いかけるしかありません。例えば、築地の大会に登場していただいた藤野宗城師などは全国各地を回っておられますので、スケジュールを調べてお座に行けば藤野師の節談をお聴聞することができます。
ただ、今回の築地での大会は予想以上に反響があって、さまざまな方面からオファーが殺到しておりますので、いずれご縁があるかもしれません。また、築地の大会は第一会場・第二会場分がＤＶＤで発売されています。方丈堂出版のほうにお問い合わせください。
http://www.hojodo.com/
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   <title>質問６１・水子の祟りってあるんでしょうか？</title>
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   <published>2007-08-25T02:16:34Z</published>
   <updated>2007-08-25T02:19:30Z</updated>
   
   <summary>Ｑ： 始めまして。お忙しいところ恐縮ですが質問です。 実の母親と全くそりが合わな...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tatsuru.com/jibutsu/">
      <![CDATA[<strong><font color=red>Ｑ：</font>
始めまして。お忙しいところ恐縮ですが質問です。
実の母親と全くそりが合わないことについて、フウチで占ってもらったところ「二人の性格上の相性もありますが、見えない世界の話で言うと、お母さんの水子たちがあなたたちの仲を悪くするようあおっているのです。この水子があなたの人生に大きな影響を与えています」と言われました。
母親から水子はいないと聞いていましたが、占い師によると、着床前流産という本人も無自覚の流産による水子が三人もいるとのことです。その水子たちの生まれ出なかった悲しみ、私に対する嫉妬が怒りに代わり、私の人生に悪い影響を与えているそうです。そして、今まで気がついてあげられなかったことに対する謝罪と、成仏して早く生まれ変わってくださいという祈りが供養となるようです。
この占いを真に受けるかどうかは別として、水子なんて寝耳に水の話だし、私の人生が今まで考えたこともないような存在に大きな影響を受けていた可能性があるなんて、にわかに受け入れ難いのです。仏教における水子とはどういう存在なのでしょうか？そして、水子供養の心のあり方について・・・この納得いかないもやもやした気持ちをどこに向けていいかわかりません。どうか良いお導きを下さいますようお願いいたします。
（37歳・シングル）

<strong><font color=red>Ａ：</font>ｂｙ釈
私はさまざまな宗教形態を観察して「ああ、人間って、本当におもしろいなぁ」と実感するのが好きなので、さまざまな宗教形態に対して一面的な批判はめったにしません…。でも、こういうことを言う占い師は嫌いです(なんと素朴な意見！)。「着床前流産」などと小賢しい理屈を持ち出すあたり(古典的な手法なんですけどね)、すごくイヤなので、できれば一生会いたくない人です(仏教では、そういう人には近づくなと説きます)。
ご質問の「仏教における水子とは」に対しては、前回お話しましたように、別に特別な存在ではありません。すべての生命はつながっているので序列はない、と仏教では考えます。ですから、仏教では水子のタタリや霊障といった概念ははっきりと否定します(ちなみに、現在流布している「水子の祟り」や「水子の霊障」などといったストーリーは1970年代あたりから超常現象ブームとともに創作されたもので、意外と最近の虚構です)。　
とはいえ、この手の話は反証も不能なので、一度でも耳にしてしまえば、どこか引っかかるんですよね(だから悪質なんですけど)。あなたも、占い師の言説の影響で心身のバランスを崩しかけているかもしれません。まずは、あなたとお母さんとの関係を分析するところから始めましょう。あなたが漠然ともっている「実の親子であれば、～だろう」という枠組みの点検をしなければなりません。
とにかく、ここは、(この占い師に腹が立ってしまっている)私よりもずっと人格者である川上牧師に再度ご登場願いましょう。

<strong><font color=red>Ａ：</font>ｂｙ川上盾牧師
「生まれかわり」という思想を持たないキリスト教では、いわゆる「水子供養」ということは基本的にはいたしません。神さまのもとに召された赤ちゃんに平安を祈り、見送った家族の悲しみに慰めを祈ることはありますが、それは一種の葬儀であり、「供養」とは異なるものです。神さまは、「呪ったり、祟ったり、そういうことをしない代わりに供物を要求する存在ではない」と信じてますので、「水子の祟り」といったことを語ることもありません。人が遭遇する悲しみや辛い出来事を、「誰かの祟りじゃ！」と不安を煽ることはせず、時間はかかってもその出来事を受けとめられるように、神の導きを祈ります。
自分ではどうにもできないような「いやな状態」を、誰か他の人のせいにして理由付けしたいと願う気持ちは、誰もが持っているものなのでしょう。だから「水子の祟り」的な言説が影響力を持つのだと思います。でも、そうやってすべてを「だれかのせい」にしてすますことができるんでしょうかねぇ…。
発端は、お母さんと「そりが合わない」ということですよね？　そういうことって、世の中にたくさんありますよ。僕も実の父親（同じ仕事をしています）とそりが合ってるかというと、合わないと感じることの方が多いです。「互いに愛し合いましょう」なんて信者さんの前で語ってる牧師同士であっても、現実にはそりの合わない親子だったりします。すべての親子・家族が中睦まじく愛し合う…というのは確かに理想的ですが、現実にはそうはいかないのが私たちの世の中です。
これが他人であれば、関わりを切ったり無視したりすることも可能でしょうが、家族の場合はしがらみが断ち切れないので、余計そのことが重荷に感じてしまうのでしょう。家族だからこそ抱いてしまう憎しみや苛立ちといったものもあると思います。これは深層で抱いている愛情の裏返しなのかも知れません。「愛しているから腹が立つ、期待しているから非難する」ってことです。
いっそのこと、「そりが合わない」という事実を、「あってはならない状態」と考えるのではなくて、「そこから始めるしかない現実」とひとまず割り切って、受け入れてみてはいかがでしょう。「親子って、そういうもんだよ...」ということですね。そこを常態として受け入れてしまえば、案外お母さまのステキな面も見えてくるかも知れません。僕の父も「そりの合わないオヤジ」ですが、それなりに尊敬できる部分を感じることも今はできます。「親子」って、そういうもんじゃありません？　自分ではどうすることもできない苦境に立たされたとき、クリスチャンがしばしば口にする「おまじない」の言葉があります。
　“Let it be”。
「すべてはみこころのままに...」とも訳せる言葉ですが、「なるがままに」「なるようになれ」といった意味にも解せます。「この状態から何とか抜け出さねば...！」といった焦りにも似た気持ちから解放されたとき、きっと「水子の祟り」は気にならなくなるはず...！？

　　　“Let it be”　Ｐ．マッカートニー
　　　私が苦しみに出会う時　聖母マリアが現れて
　　　知恵に満ちた言葉をかけてくれる
　　　“Let it be”
　　　暗闇の中に包まれてしまう時　彼女は私の前に立ち
　　　知恵に満ちた言葉をかけてくれる
　　　“Let it be”
　　　すべてはみこころのまま　なるがままに　
　　　知恵ある言葉をつぶやいてごらん
　　　“Let it be”

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   <title>質問６０・死んだ子どもの魂の行く先は？</title>
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   <id>tag:www.tatsuru.com,2007:/jibutsu//5.1476</id>
   
   <published>2007-08-25T02:12:20Z</published>
   <updated>2007-08-25T02:15:43Z</updated>
   
   <summary>Q: 釈先生、内田先生はじめまして。お世話になります。  結婚して半年。初めての...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tatsuru.com/jibutsu/">
      <![CDATA[<strong><font color=red>Q:</font>
釈先生、内田先生はじめまして。お世話になります。 
結婚して半年。初めての妊娠で喜んでいたのもつかの間、10週前に自然に完全流産してしまいました。 私のせいではないかと不安になり、申し訳なくなります。
流産してしまった魂はどうなるのですか？ また、原因は何なのでしょうか。
お忙しいとは思いますが、御回答いただければ幸いです。
（ペンネーム　うたこ・25歳・女性） 

<strong><font color=red>Ａ：</font>
妊娠の喜びから一転、流産の悲しみへと突き落とされたお気持ち、お察しします。本当に悲しいですよね、私も身近な方が数人同様の体験していますので、少しはわかります。初めての妊娠であれば、ショックも大きいでしょう。
現代人は自然流産しやすくなっているそうです。一昔前に比べて、アレルギー体質の人が増えていることと関係があるという説もあります。でも、そのかわり生殖技術が発達していますので、次回妊娠される機会があれば、よくお医者さんと相談してください。ほとんどの場合、流産を防ぐことができますから。
さて「流産した魂はどうなるのか」という質問に対して、すべての人が納得する答えはありません。宗教・文化・科学・コミュニティ、いろんなものがいろんな「生と死の意味」を提示してくれますが、それはその価値体系へコミットする人にのみ機能する「意味」なのです。当然、「ただひとつの正解」などありません。ある生命倫理の研究者に言わせれば「自己意識のないモノはパーソン(人格)ではない」といった理屈であっさり切り捨てるでしょうし、「水子の魂は、これこれこうなっていますよ～」と語る民間宗教者もいるでしょう。
さて、ここでは仏教の体系に沿ってお話します。仏教において、水子は特別な存在ではありません。すべての生命は網の目のようにつながり相互依存して成立していると考えるので、流産による胎児の死だって、成人の死だって、他のいかなる生命の死だって等価です。死によって、ひとつの生命体を構成していた要素(肉体や精神)は分離してしまい、また別の生命体を構成する、と仏教では考えます(ただ、「意識の連鎖」は止まらないとします。これを「相続」と言います。この説明はまた別に機会で)。
私たちは「生」も「死」も、思い通りコントロールできません(仏教ではこれを「苦」と呼びます)。そのことを自覚して、「私はどのように生きるべきか」という実践へと転換します。このあたり、仏教は少々プラグマティックです。ですから、もし面と向かって「 流産してしまった魂はどうなるのですか？」「また原因は何なんでしょうか？」と問われれば、私は「神でも仏でもない私にはわかりません。あなたがご自身で背負っていってください」とか「そんなの全部ひっくるめて仏様におまかせしてはどうでしょう」などと応答する可能性が高いです。
つまり、流産の痛みや苦悩をごまかすことなく、思い通りにならない人生と向き合い、この際じっくりと生命のつながりについて思考することが仏教的態度です。「私のせいではないかと不安になり、申し訳なくなります」というお気持ちに胸が痛くなりますが、「生命ある存在は必ず死に帰する」という事実を受けとめ、自らがいかに無力な存在であることを自覚し、他者の生命に繊細になる、このあたりがキモです。
でも、そうはいっても私たちはなかなかそんな風に転換することはできません。だからさまざまな人に助けを求めたり、宗教儀礼の力を借りたりします。人間って一筋縄ではいきません。人生って、しんどいですねぇ…。
とにかく、流産した生命は、間違いなくあなたの身心に連鎖反応を起こしています。それが生命のつながりです。そのつながりに思いを馳せつつ、あなた自身の人生を大切になさってください。

さて、ここでキリスト教の牧師さまにもご登場をお願いしましょう。当山「インターネット持仏堂」初登場！川上盾（かわかみ・じゅん）牧師です！
川上牧師は日本基督教教団・東神戸教会の牧師さんで、現在は内田樹先生の大学院ゼミにも参加されています。釈とは、内田樹先生宅における「麻雀を媒体とした宗教間の対話」を実践する間柄です。また、「歌う牧師」としても有名で、各地でライブ活動を行っておられます。http://higashikobech.org/bokushi.htm 

【お知らせ】
12月８日に朝日カルチャーセンター大阪で、釈住職と川上牧師とのトークセッション『宗教の＜救い＞とは？　―なぜ真宗とプロテスタントは似ているのか―』が開催予定です。
ずいぶん以前から、浄土真宗とプロテスタントとの思想が似ていることは指摘されていましたが、「今回は、そのあたりの謎についても探ってみたい」と意欲的なお二人です。
僧侶と牧師による、宗教の＜救い＞についての語り合い。これは聞き逃せません！みなさまお誘いあわせのうえ、ぜひご来場を！！


<strong><font color=red>Ａ：</font>
ｂｙ川上盾牧師
釈先生の友人で、「歌う牧師」川上と申します。聖書のお話と共に、歌（賛美歌に限らず）を通してメッセージを届けることを「天命」と信じて活動しております。
さて、広大な果て知れぬ広がりを持つ宇宙の中で、生命（いのち）を抱いた星、それは私たちの知る限り、この地球だけです。大きな宇宙の中の塵のような星にこれだけのいのちが存在すること自体、ひとつの奇跡です。一方で、ひとつひとつのいのちは、大きな宇宙にとっては本当にちっぽけなものであり、その生涯はほんの一瞬の出来事です。僕は常々、「このいのちは決して偶然ではない。また当たり前のものとして存在しているのでもない。『大いなる存在』によって与えられた一瞬の奇跡なのだ」「ちっぽけだけど、かけがえのないいのち。それを感謝して、心豊かに生きよう」ということを語っています。
お子さんを流産された悲しみは、さぞ辛いものがあったことと思います。でも、私たちも自分で自分の寿命を決めることはできず、ただ運命（さだめ）にまかせるしかないことがあるように、流産した赤ちゃんにとっては、それが定められた「時」であったのかも知れません。でも、たとえ数週間でも、この星のかけらとして与えられたいのちには、祝福があり、意味があったのだと思うのです。
すべてのいのちは神のもとから来て、時が来れば神のもとに帰る。そう信じてます。

　「瞬きもせず」　　中島みゆき
　瞬きひとつのあいだの一生  僕たちはみんな一瞬の星
　瞬きもせずに息をすることさえ  惜しむかのように求め合う
　ああ  人はけもの  牙も毒も、とげもなく
　ただ痛むだけの心だけを持って生まれた　裸すぎるけものたちだ
　君を映す鏡の中  君を誉める歌はなくても
　ぼくは誉める  君の知らぬ  君についていくつでも
　あのささやかな人生を  良くは言わぬ人もあるだろう
　あのささやかな人生を  無駄となじる人もあるだろう
　でも  ぼくは誉める  君の知らぬ  君についていくつでも

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   <title>質問５９・お墓はどうやって探したらよいのでしょう？</title>
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   <id>tag:www.tatsuru.com,2007:/jibutsu//5.1472</id>
   
   <published>2007-08-24T03:41:34Z</published>
   <updated>2007-08-24T03:44:48Z</updated>
   
   <summary>Q: こんにちは。初めまして。 どこで聞けばいいのか分からなくてこちらにメールし...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tatsuru.com/jibutsu/">
      <![CDATA[<strong><font color=red>Q:</font>
こんにちは。初めまして。
どこで聞けばいいのか分からなくてこちらにメールしてみました。
私の父方の祖父、というのが自分の家（？）というかルーツということになると思うのですが、ご先祖さまにあたるお墓がその祖父の母のものしか場所が分からないのです。
もともと九州の方に住んでいたという話は聞いているのですが、祖父は覚えていないようです。もしくはあまり話したくないようだと祖母が言っていました。
お墓参りでうちの名字の墓は（上に書いた）ひいおばあちゃんのものしかないというのは、どうなのかなと思うのですが、代々のお墓があるとすれば調べる方法はないのでしょうか。もしくは供養の仕方など、教えて頂ければ嬉しいです。
（匿名希望・女性）

<strong><font color=red>Ａ：</font>
調べる方法ですか。
まずは、一度その”ひいおばあちゃんのお墓”があるお寺に尋ねてみてはいかがでしょうか。
お寺の住職は地域の人間関係に詳しいので、何らかの情報をもっている可能性があります。さらにお寺には「過去帳」と呼ばれる戸籍記録のようなものがあります。現在は差別問題や個人情報の問題等で簡単に見せてくれなくなりましたが、「自分の先祖をたどりたい」という理由であれば大丈夫でしょう。そこに何か手がかりがあるかもしれません(よく「過去帳」には、どこそこの出身とか、誰の子供とか、誰の奥さんとか、どんな仕事をしていたなどのちょっとした情報が書き込んであったりします。だから、興信所などが「見せてくれ」などと訪ねてきたりします。もちろん、そんな手合いには見せません)。
また、お寺とお寺にはずんぶん昔からのネットワークがありますので、「〇〇寺さんへ行ってみなされ」的なつながりへと展開することが期待できます。あるいは、お寺の人に土地の古老を紹介してもらい、話を聞きに行くことも意外と有効です。とりあえずそのあたりを手始めとしてはいかがでしょうか。
しかし、いろいろと調査してみてもわからなければ、それはそれでいいじゃないですか。ひいおじいちゃんにもいろいろと事情があったのかもしれませんからね。
ところで、「供養」ですが、「先祖教の供養」と「仏教の供養」を分けて考えねばなりません。
かの柳田國男は日本人の宗教を「先祖教である」と断じました。”先祖教”の特徴には、「死者が祖霊になるまでお祀りを怠らないこと」があります(亡くなった人の霊は、33年～50年くらい祀ると”祖霊”となって「個」が消滅する)。これは仏教ではありません。儒教とも道教とも違う。これを神道と呼ぶのにも問題があります。つまり”先祖教”です。そして、日本の宗教は、仏教であっても、キリスト教であっても、みんなこの”先祖教”になっちゃうって柳田は言うんですね。”先祖教”としての供養であれば、教義や行為様式はありませんので、その土地その地域の習俗で祀ります。自分なりに祖壇でも設けて、お祀りすればいいでしょう。
仏教の供養となると、先祖や身近な人を通して、生きとし生けるものすべての安寧と幸せを願って供養することへと展開することが肝要です。つまり、ご先祖を手がかりとして、すべての生命へとつながっていることを自覚しようというわけです。先祖を供養するだけでは、仏教と言えません。
そのため、仏教ではあまり「先祖」と言わずに、「先達（せんだつ）」と表現します。「先達」とは「先に道を歩んだ人」という意味ですので、血縁関係だけに限りません。
『慈経（メッタスッタ）』という短いお経があります。「テーラヴァーダ仏教の『般若心経』」と言われるくらい南アジアや東南アジアでは有名なお経です。『慈経』は「私が安寧でありますように。私の家族が安寧でありますように。私のまわりの人すべてが安寧でありますように」から始まり、最後には「すべてが安寧でありますように」と生命のつながりを実感するような内容になっています。慈しみの心を育むお経ですね。
というわけで、もしあなたが仏教徒であったり、仏教の考え方に共感されるのであれば、あまり無理してご先祖をたどる必要もなくなってしまいます。ひいおばあちゃんのお墓を窓口(！？)として、ひいおじいちゃんにもご先祖にもすべての生命にも、安寧を願って供養を実践すれば良いわけです。この精神に基づくのであれば、父方とか母方といった概念にこだわることは、(少なくとも仏教では)あまり意味がありません。
※かなり大雑把なお話をしましたので、もしあなたがきちんとした信仰や信心をおもちであれば、一度その宗教の手順を調べてみてくださいね。

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   <title>質問５８・プラスティネーション、ありですか？</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tatsuru.com/jibutsu/2007/07/11_1054.html" />
   <id>tag:www.tatsuru.com,2007:/jibutsu//5.1424</id>
   
   <published>2007-07-11T01:54:44Z</published>
   <updated>2007-07-11T02:12:15Z</updated>
   
   <summary>Q: 職業も専門もありません、はじめまして。唐突に失礼します。「プラスティネーシ...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tatsuru.com/jibutsu/">
      <![CDATA[<strong><font color=red>Q:</font>
職業も専門もありません、はじめまして。唐突に失礼します。「プラスティネーション」が一般化する見込みはあるのでしょうか？(たとえば、「プラスティネーションキット」という名の“商品”として東急ハンズなどに置かれる可能性)または、葬儀屋さんのように「プラスティネーション商会」、という風なものは実在しているのでしょうか？
家にいる猫。いまはぴょんぴょん生きていますが人と猫の寿命を思い浮かべると、共にいる方法を考えてしまいます。猫が天寿を全うしたらその生死とは関係なく一緒でありたい。(家にいる猫がのたれ死ににでかけたら…と思うと悲惨な気持ちになります。死ぬのには適さない都市なので。)そもそも世の中にあまり入れられていない猫とはいえ、遺体(？)を手許にあるようにするということは許されているのでしょうか。
(ペンネーム　七坂)　30歳　

<strong><font color=red>A:</font>
あっ、「プラスティネーション」って、あの「人体の不思議展」で公開してるやつでしょ。遺体や内臓の水分をプラスチックなどの合成樹脂に置き換えて標本を作るんですよね。すごくリアルだし、触れるんでしょ。
なぜ私たちはああいうのを見たくなるんでしょうか？　このあたりの心理メカニズムは内田先生に分析していただきたいところです。
とりあえず、この手の「見世物」は、昔からあるんですよね、確か。明治・大正時代や戦前・戦後だって「衛生博覧会」などと称しグロテスクでエロティックな展示をしてたと聞きます。「秘宝館」とかも同じ類なんじゃないんですか。えっ、違うの？
とりあえず、こういうのは「すごく一般化はしないけど、なくならない」んじゃないでしょうか。また、「プラスティネーション商会」というのはあるのかどうか知らないのですが、ネットで調べたところによると「近年では同技術をプラストミックと呼称する別の団体も現れた」とか、「遺体の提供元である中国では、外貨獲得の一手段になっている」などと書いてありましたので、すっかり商品化しているかもしれません。

えーっと、それと猫の問題ですね。愛する対象の死を看取りたい、遺体を手元に置いておきたい、そのお気持ち、少しはわかります。なにしろペットという存在は自我の一部ですもんね。「ペット・ロス症候群」ってのがあるくらいです。私の知り合いの僧侶も、「ペット・ロス症候群」になったんですよ。
まあ、でも、たぶん、猫はそんなことに執着はないと思いますよ。「孤独で死にたくない」「のたれ死にしたくない」「適した場所で死にたい」というのは、あなた自身の投影です。
ですから、「なぜ私は猫の死のあり様が気になるのか」という自己分析から始めるのが仏教的手法ということになります。
ところで、「遺体を手元におく」というのは何のことを言われているのが、ちょっとよくわかりませんでした。火葬してお骨を置く以外に方法を考えているのでしょうか。「剥製」にするんですか？　「許されるのか」というのは、仏教的に許されるのか、ということでしょうか。とりあえず、仏教では遺体は火葬するのが正式の作法です。
また、もし猫の遺体を手元に置いておきたいという希望があるのであれば、最近は火葬したお骨を指輪やペンダントなど身につけるものに加工するサービスがあります。「手元供養」などと呼ばれているようです。ただ、私は、そのような形態は好みじゃありませんが…。火葬・埋葬して、自然へと還元する、そのほうが好きです。
ついでに言いますと、最近日本でも行われるようになった「エンバーミング」というのは、遺体をそのまま保存する方法ではありません。薬品等を使った(火葬のための)死に化粧です。

こんにちは。ウチダです。
「プラスティネーション」ですか。
私は「死体加工」って、それ自体がこわいので、この手の話はダメなんです。
「死体加工」というとどうしても原点はエド・ゲインにゆきつきます。
ゲインさんは女の人を殺したり、墓場をあばいたりして、大量の死体をストックして、それをいろいろ加工しました（切ったり刻んだり乾燥させたり皮を剥いでなめしたり骨を取って家具にしたり・・・）。
１９５７年に事件の全容がわかったときにアメリカ全国民は深いトラウマ的経験を刻まれました。
以後、エド・ゲインを原型とする無数の恐怖映画がつくられました（代表作はトビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』とアルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』）。それ以後もたぶんエド・ゲインをモチーフにした映画は１００本くらいは作られているはずです。
物語をかたるというのはある種の呪鎮の儀礼ですから、それだけ死体毀損のもたらす罪悪感がアメリカ人を苦しめたというふうに解釈してよいと思います。
「こわいもの」を鎮める方法には「『こわいもの』を遠ざける」と「自分自身が『こわいもの』になる」という相反する二つがあります。
死体損壊のタブーに触れたときにアメリカ人が選んだのはどうやら後の方のソリューションのようです。
死体なんてこわくないよ、というふうに「強がって」みせたのでしょう。オレだって、死体なんかいくらでもいじりまわせるぜ、って。
プラスティネーションやエンバーミングは伝統的なプロテスタンティズムの宗教性からは出て来にくいものだと思いますけれども、それは恐怖を抑え込もうとする努力のひとつの露出なんだろうと思います。

ペットのプラスティネーションの話からだいぶ離れちゃいましたけれど、「死体」をみたら、とりあえず呪鎮の儀礼をして、あとは一目散に遠くへ逃げる、というのが人間の古来の基本的な反応だろうと思います。
「死体はこわい」という恐怖のセンサーはとてもたいせつなものです。
「死体はこわくない」というのはこのセンサーをカットすることですが、それがどれほど多くの破壊をもたらすことになるのか、ぼくはあまり想像したくありません。

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