[an error occurred while processing this directive]

 

インターネット持仏堂

レヴィナシアン、真宗学僧に会いにゆく

 

 

その1:2003年8月25日

 

内田から釈先生へ

 

昨日はどうもありがとうございました。先生と顔を見合わせて話しているうちに、いろいろとお話ししたいこと、お聞きしたいことが浮かんできました。

 はじめてお目にかかったのに、釈先生はなんだか「懐かしい」感じがしました。そういうことって、ありますよね。私は勝手にそういうのは「前世でお会いしてるから」と考えることにしています。

 ある人の説によると、私たちが生きている間に知り合って親しくなる人間について調べてみると、何代か前の祖先が同じ在所に住んでいたり、同じ藩の侍であったりして、祖先もまた接近遭遇している可能性が高いのだそうです。何となく、そういう感じって分かりますね。

 生きている間にすれ違うすべての人と知り合いになるわけではなくて、言葉をかわすのはそのうちのほんとうにわずかな人とだけですし、ましていっしょに仕事をするようになる人というのは、そのうちでもさらに希少な数ですから、そこにはなにかしらの「偏り」があるはずです。

 私はその「偏り」のことを「ご縁」と呼んでいます。

 

 若い頃は、人生は主体的に切り開くものであり、100%の自由と自己決定のみが私の主体性を基礎づけるのである、と単純に信じておりましたが、齢不惑を超えるあたりから、なかなかそういうものではなくて、「神の見えざる手」によって、(「仏の手」?)人生の分岐点のところどころに、私がまさにそのときに会うべき人がちゃんと私を待っている、ということが実感できるようになりました。それまでも、「そういうこと」は起こっていたはずですが、本人がぼおっとしていたので、たぶんそのことに気づかなかったのでしょう。

 もちろん、それは私の幸福な錯覚かも知れません。

 

 ジャック・ラカンはサンタンヌ病院におけるその伝説的な『セミネール』の開講に際して、こんなことを聴衆に語りました。

 

 「自身の問いに答えを出すのは弟子自身の仕事です。師は『説教壇の上から』出来合いの学問を教えるのではありません。師は、弟子が答えを見出す正にその時に答えを与えます。」(『フロイトの技法論』)

 

 「師は、弟子が答えを見出す正にその時に答えを与える」というのは、どういうことを指すのでしょう。一つには(おそらくこれがラカンの考えなのでしょうが)、答えを見出すのは弟子ひとりであり、弟子は自分が独力で見出した答えを、師のうちに事後的に「読み込む」のだ、という解釈です。もう一つは、弟子が答えを見出すまさにその時に、師もまたその同じ答えを告げるために口を開く、というものです。

 私の「ご縁」論は、後者の解釈に与するものです。

 

 しかし、私が告げようとした当のそのことを、相手もまた私に告げようとしていたということは現実には、まずありえません(経済学はこれを「欲望の二重の一致」と呼びますが、そのような事態は天文学的に低い確率でしか起こりません)。

 では、このとき実際には何が起こっているのでしょうか。

 私はこんなふうに考えています。

 

 私にとって重要であり、私がそれをぜひとも手に入れたいと望んでいるのは、「私が知らない情報」であり、かつ「『私はそれを知らない』ということを私は知っている情報」です。

 考えて見れば、当然ですね。「私がすでに知っている情報」はもう知ってるんですから、私にとってあまり意味がありません。同時に「私が『私が知らない』ことに気づいていない情報」、あるいは「その情報の欠如を不安にも不快にも感じない情報」(私の場合なら株価情報とか競馬情報とかがそうですけど)もまた、私にとって意味のある情報ではありません。

 ですから、私が聞き耳を立てる言葉があるとすれば、私が「知りたく思っていて、知らない」ことにかかわるはずです。そのような言葉を誰かが語っている場合、私はそれを乾いたスポンジが水を吸い込むように、猛然と記憶してゆきます。そして、その人が話を語り終えたときに、その言葉はすべて私の記憶のアーカイブにきっちり登録済みのはずです。

 すると、どうなるでしょう。

 私はたぶん、その人が語り終えたその瞬間に、自分の中に、それと一言一句違わない「考え」を見出して、驚倒するはずです。

 「おや、ぼくも君とまったく同じことを考えていたんだよ!」

 

 たぶん、そんなふうにして、「ご縁」もまた成就するのではないかと思います。

 私がこの時期に釈先生とお会いして、こんなかたちで仏教について教えを乞うということになったのは、私の中に、今この年回りになってはじめて「知りたくなったこと」があって、それを誰かに教えて欲しかったからです。そして、(今から予想するのはちょっと失礼ですけれど)私はきっと釈先生が教えて下さる仏教についてのお話を聞いて「おや、私もまったく同じことを考えていたんですよ!」というリアクションをすることになりそうな気がします。

 

 私としては、まずは私自身が今心にかかっている主題、「喪の儀礼」「呪鎮」「彼岸」「善」「倫理」「死者」「他者」「霊性」・・・といった論件について、仏教的な知見を伺うところから始めたいと思います。私自身は、そういった主題へのアプローチの仕方を主に哲学、文学、心性史、文化人類学、精神分析などの書物から学んできました。宗教的なアプローチとしては、レヴィナス経由のユダヤ教思想についてのわずかな知識があるばかりです。ですから、これらの主題を仏教的なフレームワークの中で捉え直す道筋を釈先生に教えて頂けたら、ものの見え方がずいぶん変わるのではないか、と期待しています。

 

 そこでまず「とっかかり」の論件ですが、今日の書簡の中で私が何度か繰り返した「ご縁」ということについて釈先生のご意見を伺いたいと思います。

 「運命はあらかじめ決まっているのか、人間は自由なのか」という「運命の定・不定」という問題をつきつめていった末に武術に答えを求めたのが私の尊敬する武術家甲野善紀先生です。その甲野先生の『武術の新・人間学』という御著書の文庫版解説文に私は「ご縁の人・甲野先生」と題して、こんなことを書かせて頂きました。そこだけ抜き書きしますね。

 

 「甲野先生が武術の稽古を始めたのは『人間は自由なのか、それとも宿命に操られているのか?』という『運命の定・不定』についての問いに取りつかれたことに原因がある。このことは自伝的な書き物の中に繰り返し出てくるから、ご存知の方も多いだろう。

 人間は自由なのか、それとも宿命の糸に導かれているのか?

 それについて甲野先生が最終的にたどりついた答えは『人間は自由であるときにこそ、その宿命を知る』ということであった。私はこの洞見に深い共感を覚えるものである。

 自由と宿命は『矛盾するもの』ではなく、むしろ『位相の違うもの』である。ほんとうに自由な人間だけが、おのれの宿命を知ることができる。私はそのように考えている。

 何のために自分はこの世界に生まれ来て、限られた時間を過ごすことになったのか。それを知りたいと私たちはみな思う。多くの人は、そのような問いにとらえられると、レディメイドの世間知や哲学や宗教に答えを求めようとする。たしかにそこへ行けば答えはすぐに手に入る。でも、それは「万人向きの答え」でしかない。(・・・) 自由であるというのは、ひとことで言えば、人生のさまざまな分岐点において決断を下すとき、誰の命令にも従わず、自分ひとりで判断し、決定の全責任を一人で負う、ということに尽くされる。

 他人の言葉に右往左往する人間、他人に決断の基準を訊ねる人間、それは自由とは何かを知らない人間である。そのような人は、ついにおのれの宿命について知ることがないだろう。

 おそらく甲野先生が『運命の定・不定』の問題についてたどりついた答えは、そのような決定的に単独であることを引き受けた人間にだけ、宿命は開示されるということではないか、と私は解釈している。だから、甲野先生における『ご縁』は決してその言葉が連想させるような『あなた任せ』の受動的なものと解されてはならない。『ご縁』というのは、いわば道のない野原をたどっている二人の人間が、狙いすましたように、ある地点に、同時刻にたどりつくことである。地図やガイドブックに相談したり、案内人に引率されて道を歩むものの身には決してそのような出会いは起こらない。誰の指図も受けず、おのれの直観に従ってまっすぐ一筋の道を歩むものだけが、まさにその時刻にまさに他ならぬその場所に、出会うべき人と出会うために、引き寄せられて来るのである。

 

 「縁」というのは、ほんらい仏教用語だと思います。私はそれを「自由」の(反対概念ではなくて)「対概念」だと思っています。縁という宿命的なものに媒介されてはじめて人間は自由が何であるかを覚知するのだし、自由な人間しか縁を覚知することができないというのが、この小文で私が言おうとしていたことです。

 こういう考え方について釈先生はどうお考えになりますか?私は輪廻とか因果応報とか浄土とか成仏いったような基本的な仏教概念もよく理解しておりませんので、そのような「仏教用語の基礎知識」の習得もぼちぼちと進めつつ、まずは「宿縁」と「自由」の問題について、釈先生に仏教の基本的な考え方を教えて頂きたいと思います。ではよろしくお願いします。

 

next/back