その8プラス3(2003年12月1日)

 

釈先生から内田 樹へ

 

 

休憩しておりました仏教の解説を続けます。

 

さて、「その8」までで、仏教の流れの中で最も大きな変化である「大乗仏教(マハーヤーナ)」まで、どうにかお話が進みました(ほんとかっ!)。この「大乗仏教」は、縁起思想をつきつめた「空」※、仏教版精神分析の「唯識」※、すべての人が悟りを開く素質をもつとする「如来蔵」※などを足がかりに菩薩としての生き方を展開していきます。

 

《テーラワーダ》

 

大乗仏教が起こると、一気に上座部仏教(テーラワーダ)が駆逐された、…ということにはなりません。上座部仏教の方は、スリランカを基点として、ミャンマー(ビルマ)、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムなどで発達します。これらの国々では、一時、大乗仏教が席巻したのですが、けっきょく上座部仏教にもどります。これが合っているんでしょうね。現在でも、パーリ語の経典に基づき、できる限りシャカの原・仏教形態を維持しようとしています。以前、NHKスペシャルで「ブッダ・大いなる大地」というシリーズを放送してましたが、タイを紹介するときのサブタイトルが「生きている仏教」というものでした。確かに、日本のような「思想と儀礼中心の仏教」などと比較しますと、社会で仏教が大きく機能しています。

 

上座部仏教は、聖と俗の境界が明確です。出家者と在家者のありようがはっきりしてます。出家者は、経済活動や社会的義務を放棄し、家族を棄て仕事を棄て、ひたすら自分の修養を心がける生活をします。そのような聖者の道を歩む出家者を、在家者がサポートするという形態です。在家者は出家者をサポートすることが功徳となるわけです。この形態は、気候・風土・民族・文化性によるところも大きいと思われます。暑い国でないとだめですね。寒い時期がある場所だと、所持品を最小限にした生活などできないですから。布一枚で生活できるくらいじゃないとだめです。それに、聖者の生活を尊敬したり、輪廻の世界観をもっているなどの文化土壌が必要です。

私が勤めている大学に、かつてスリランカからアリアワンサさんという僧侶が留学してきました。仏教の勉強をするために来日したのですが、なんとこの人、ほとんど所持金もなくやってきたのです(上座部仏教の僧は、基本的に現金を扱いません)。理由を聞いてみると、「日本はスリランカと同じ仏教国と聞いたので、在家の人が布施で生活させてくれると思ってました」とのこと。在家の人が生活を支援してくれるので、自分はただただ勉強すればよいと考えていたようです。とにかく、彼はアルバイトに精をだすことになりましたが、来日時には日本での住まいも決めてなかったのでした。おそるべし上座部仏教!   

近代になって、上座部仏教の国では「エンゲージド・ブッディズム」という社会参加型仏教が提唱されます。「エンゲージド」とは、アンガージュマンと同じような意味です。

かつてビルマでは仏教による社会主義運動が進展しましたし、ベトナムでは当時の政府に対して焼身による抗議を行った僧・尼僧は20名にものぼりました。中でもティック・クアン・ドック師は、炎につつまれながらも座禅の姿勢を保ったまま絶命する姿が世界に報じられました。

スリランカでは、「仏教経済学」ともいえるサルボダヤ運動があります。アリアラトネが中心となって進めている仏教を基礎とした農村開発運動です。近代の経済成長主義ではなく、慈悲の心による経済活動です。アリアラトネは、リトル・ガンジーとか呼ばれて、大統領より支持されています。

また、アメリカで活躍しているベトナム僧ティク・ナット・ハンは、チベット仏教のダライ・ラマと並んで、欧米世界でもものすごく尊敬の的です。

 

《マハーヤーナ》

一方、大乗仏教は、一時インドから西方へと拡大するのですが、その後イスラム勢力に駆逐されます。大乗の舞台は、インドから東北、中国、チベット、ブータン、朝鮮半島、日本などへと移行していきます。大乗仏教が展開していく中でも、三つほど特筆すべきポイントがあると私は思います。

 

ひとつは、インドにおいてヒンドゥー教と融合し「密教」が成立することです。もともと仏教はタナトス傾向(消滅へのベクトル)が強い宗教ですが、ヒンドゥーはエロス傾向(生命力を賦活)が強い宗教です。この二つがくっついて、エロスたっぷりの仏教=密教が誕生しました。インドでの大乗仏教最終形態です(その後、ヒンドゥーが仏教を吸収してしまうような格好になり、イスラム勢力の拡大もあって、仏教はインドでほぼ消滅しちゃいます)。

密教は、苦も楽も、煩悩も欲望も、すべて肯定し、その身のままで仏になれる、という全方向に扉を開いた仏教です。この世界は仏に満ち満ちており、自分のアンテナを研ぎ澄ませれば、感応し合うことができる。口には真言(マントラ)を唱え、印を結び、意識を森羅万象と通じ合わせれば、心身ともに仏と一体となる(加持)という神秘的体験を重視します。

大日如来(宇宙の根源)を中心として、壮大な仏教ワールド(マンダラ世界)が語られますので、マンガや小説で仏教を活用するなら密教がお勧め。一番キャラが立ちます。

 

ふたつ目は、中国で出来上がる「禅仏教」。ご存知のように、中国でさまざまな宗派が確立され、それぞれの華を咲かせます。その反面、中国(といってもえらく範囲が広いですが)では、出家文化と相容れない部分もあります。儒教から見たら、出家はとんでもない親不孝です。だいたい、出家者なんて、そんな役立たずの非生産者であるホームレスを敬い養う文化土壌は希薄です。だから、「仏教が盛んになれば、国が滅びるぞ」などと仏教がものすごく攻撃される時代もありました。そんな中、禅は自給自足の生活形態を確立させていきます。「一日不作一日不食(一日作さざれば、一日食らわず)」、ですね。畑を耕すのも、料理を作るのも、おトイレ行くのも、生活すべてが禅である、としたのです。出家の形態も、風土や民俗性や地域によって変化するということですね。

禅はシャカが悟りへと到達した道筋です。その意味で、仏教では最も重視されるべき形態といえます。ただ中国で発達する禅は、シャカのような分析的思考法よりも、直観的体得を重視します。もしかしたら、東アジアの人々は、そっちの能力のほうが発達していたのかもしれません。

 

三つ目は、日本で完成する「在家仏教」。沙弥(しゃみ)、聖(ひじり)、毛坊主(けぼうず)、などといった出家と在家の境界線上みたいな形態も発達します。聖と俗の境界は不明瞭。いやむしろ在俗のままこそ自然なんじゃないか、愚者は愚者のままで救われていくのだ、というものすごい仏教の構造改革です。よく考えたら、出家の形態って、えらく不自然というか、特殊ですよね。それよりも「自然(じねん=あるがまま)」で仏道を生きる、というものです。うーん、なんかジャパニーズ・テイストだ。 

ちなみに、外国からのブッディストが日本に来て最も驚くのは、僧侶が結婚していることです。「えっ! それは出家者とはいわないでしょう」、「それは仏教じゃないのでは?」などと言います。私は、「ねっ、日本ってすごく面白いでしょ」と応えます。

 

さて、どれを取り上げても、仏教を脱構築し大きな飛躍をしたものばかりです。内田先生なら、どれに興味をもたれますか?

 

※空 ― 何度か同じような話をしてますが…。つまり、全ての現象や存在は、他の現象や存在との相互依存によって一時的に成立している、ってことです。それ自体で独立して普遍的に成立しているのではない。つまり、絶対なる存在である神や不滅の霊魂は幻想だぁ。

※唯識 ― 私たちの認識作用や精神構造を解読し、それをいかに転換させていくかにこだわった仏教思想です。理論は精神分析とよく似ています。だから、トランスパーソナル心理学とかやっている人がこれによくハマルのである。

※如来蔵 ― すべての人が如来を胎児のように宿している、という考え方です。つまり、「特別な人だけが仏陀になれる」、「ある人は悟りを開く可能性がない」とは考えずに、どんな人にも悟りのタネ(仏性)はあるとします。「一切衆生悉有仏性」(えー、とても有名な言葉です)と同じ。

 

これはこれで、つづく…。

 

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