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2004年12月31日

解題:The Vicious Brothers Are Come Back

『聖風化祭』という同人誌をつくっていた大学生のころ、平川くんはそこに詩と詩論を、私は身体論や表現論を書いていた。
私は「物語」と「身体」のかかわりについて考えていて、平川くんは「ことば」のもつ現実変成の力について考えていた。
そう書くと、30年経っても、あまりかわりばえのしないことがわかってしまう二人なのであるが、そのときに平川くんが寄せた詩の一編のタイトルが「悪い兄たちが帰ってきた」というものであった。

私はこの短いことばのうちにこんな風景を一瞬見た。

古代の中東の荒野のようなところに細々と立つ幕舎がばたばたと風にあおられている。
そこから顔を出した少年が、ふとまぶしい目をして地平線を見ると、はるかな蜃気楼の中を「悪い兄たち」が荒馬を疾駆させてこちらへむかってくる姿がゆらゆらと見える。
「いよいよ『父』との命がけの戦いが始まる」
そう想像すると、少年は急に動悸が激しくなってくる・・・

まるでダーウィン=フロイトの「原父殺し」の情景のようだけれど、たぶんこの「悪い兄たちが帰ってくる」という図像は、私たちのDNAの中に残っている、遠い遠い人類が始まったころの記憶に遡る「元型的なイメージ」の一つのような気が私にはする。

そういう「つよいことば」を探り当てることができるかどうか、詩人の資質はそこにかかっている。

「つよいことば」というのは、集合的、無意識的な準位で読む人にふれることばである。
それはただ一行の、場合によってはただ数語であることもある。
けれども、長い歳月をかけて、読み手の身体の骨や肉のうちに食い込んでしまう。

このフレーズを書き付けたとき、平川くんはまさかそれから30年後に、私たちが共著で本を出し、その続編を「わかいやつらにばあんと説教してやってください」という江編集長の懇望によって、『ミーツ』に連載することになるなんて、想像していなかった。

けれども、私たちはまるで魅入られたように、カッサンドラの予言を成就するかのように、「悪い兄たちが帰ってきた」という詩句にふさわしい政治的状況に投じられたのである。

おそらく、「つよいことば」には遂行的な力がある。

装飾的なことばや、比率が美しいことばや、みごとな階調を保つことばがある。
それらをもし「空間的なうつくしさ」というならば、その一方に、装飾的でも、均衡的でもないけれど、何かを創りだしてしまうことばがある。

それが「つよいことば」だ。

レヴィナスは、時間の中でしか、その意味が検証できないことばのことを「預言」と呼んだ。

30年前に平川くんはそのような意味で「預言的」な一行を書いた。

そして、「ことば」には現実変成の力があるかという自らに向けた問いに、自分自身を「賭け金」において回答してみせたのである(おお、なんて詩的な人生なんだ)。

投稿者 uchida : 2004年12月31日 13:42

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