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2004年12月31日

第三者、エロス、時間

The Vicious Brothers Are Back! No,2
2004年12月31日

平川さま

2004年もあと十数時間でおしまいというところまで来ました。
一年て、経つの早いですね。
窓の外では芦屋の街にしんしんと雪が降っています。
毎年、大晦日は篠山の春日神社まで『翁』を見に行くのですが、今年は行き帰りの道の凍結がちょっと心配です。
曇りかせめて雨になってくれるといいんだけど。
大掃除も片づき、年賀状も出し、年内のもろもろのイベントも終わり、のんびり机の前でキーボードを叩いています。
これが今年最後の仕事です。

最初から平川くんがドライブのかかった剛速球を投げ込んできたので、こっちも気合いを入れてご返事します。
まずは「第三者」論。
この「第三者」(le tiers)という概念は、ぼく自身のこのところ念頭を去らない主題の一つです(ほんとに)。
というのは、レヴィナス老師の「第三者」という概念がひじょうにわかりにくもので、レヴィナス研究者はみんなこの扱いに困ってきたからなんです。
平川くんはいきなり「どまんなか」に放り込んできたわけです。
でも、だからと言って、ここでいきなりレヴィナスやブランショから引用してがりがりと第三者論の専門的な議論に入るというのも、いささか野暮な話ですから、「対幻想」と「共同幻想」というもう少しこなれた術語を使って最初は話を始めることにしましょう。

対幻想と共同幻想はどこが違うのかというところからです。
エロティックな関係というのは、外形的にはたしかに「二人だけの閉じた世界」を構築しますし、「二人だけの閉じた世界」を構築して、そこで子犬みたいにごろごろじゃれ合っているのはなかなか愉しいものです。
でも、そのときにエロティックな欲望を駆動しているものの中には、共同的なのものがすでにかなり関与していますよね。
人間の性的欲望が目指しているのは、他の生物の場合のように、必ずしも種の再生産ではないからです。生物学的「欲求」以外に、ある種の社会的「欲望」が、人間の性的行動には必ず関与してしまいます。
性的嗜癖というのが誰にでもありますよね。「女王さまのハイヒールに踏みつけられたい」とか「お母さんのおっぱいに顔を埋めて泣きたい」とか、わりとヴァリエーションは貧しいんですけれど、これらの「個人的」な性的嗜癖が、既存の「権力関係」をなぞっていることは間違いないと思うんです。
完全に対等の性的関係って、ありえないでしょう?
絶えず入れ替わるにしても、性的局面では、どちらかが必ず「上位者」ですよね。
そして、「上位者」から「下位者」へ「贈り物」がなされ(「ムチでしばく」とかいう屈折した「贈り物」もありますけれど)、それに対して贈与を受けた側が反対給付をする、その贈り物に対してまた…ということの繰り返しがエロス的諸活動を通じて行われているわけです。
サルトルがサディコ=マゾヒズムの分析で指摘しているのは、マゾヒストというのは、「自分を権力的位階の下位者の位置に置くことを上位者に命じることができる」という一回ひねりの権力者だということでした。「ムチのしばき方がぬるい!」とか言って「女王さま」に「いじめ方」をリクエストできるらしいですから(見たことないから、想像ですけど)。

そこまで極端にならなくても、ふつうの高校生のデートでも、必ず一方が他方の「ご機嫌を取る」というかたちになりますよね。
「遅れて、ゴメンね!」
「なんだよ、またせやがってよお。今日はメシ奢れよな」
「何よ、いつもヒロシが遅れるのに、たまに早く来たからって、何いばってんのよ、バカ!あたし帰る」
「あ、ゴメン、帰んないで、メシ奢るから」
というような数秒間における権力関係の転倒などというのも珍しいことではありません。
こういう会話を横で聴いていると(聴くなよ)、エロティックな関係って、本人たちは自由きままにふるまっているつもりでも、実は世間一般の社会関係よりもむしろ徹底的に「構造化」されているんじゃないか、という気がしてきます。

エロティックな関係では、「常識も価値観もそれを『検算』する第三者」も「不在」と平川くんは書いていますけれど、むしろ「エロス的常識、エロス的価値観」が徹底的に構造化され内面化されているせいで、かえって「不可視のもの」になって、人間の行動を意識下において繋縛している関係ではないのでしょうか。

立教大学の大場助教授事件(のことですよね)は厳密には「心中事件」じゃなくて「殺人事件」でした(不倫関係にあった院生に妻との離婚を迫られた大場助教授が彼女を殺害し、親子四人で心中自殺したのです)。
不倫、離婚話のもつれ、殺人、社会的指弾を恐れての一家心中…というこの事件のプロセスは、ほとんどギリシャ悲劇のように、揺るぎなく構造化されています。
この「悪魔の装置」に一度絡め取られると、もう個人の自己決定とか主体的決断というものの余地がほとんどなくなってしまう。
エロティックな関係の特徴はその「抗いがたさ」のうちにあるのではないかとぼくは思います(吉本隆明が言っていたのは、たぶんそのことだと思います)。

仮説的に人間の幻想のあり方に「自己についての幻想」「エロス的幻想」「共同体幻想」という三つの水準を設けたとします。
これ実は、「自由度の差異」で階層化されているんじゃないでしょうか。

「私が私であることの不可避性」は私にはどうしようもありません。
仮に自殺というかたちで決着をつけようとしても、それは「私が私を殺す」ということですから、「事実としての私」は消滅させることができても、「事実としての私」を消滅させた「権能としての私」の方は不死性を獲得します(レヴィナスが「存在の瀰漫」と命名したのは、このような事況です)。

「エロス的関係における権力的な構造化」も、ほとんどぽんと出来合のシナリオを渡されたように進行し、個人の人格や識見でどうこうできる種類のものであるようには思われません(ぼくたちが性的次元において自己決定できるのは、「エロティックな関係から逃げ出す」という選択肢だけじゃないでしょうか)。

だとすると結局、私たちが主体性とか自由とかいうものをそこそこ発揮できるのは、「共同幻想」の領域だけ、ということになります。
つまり、「第三者がそこにいる」という原事実こそが、ぼくたちの主体性と自由を担保している。
ぼくはそんなふうに考えています。

レヴィ=ストロースの共同体論の基本は「コミュニケーション」ということでした。
これはもうあちこちで書いてきたことですので、繰り返すのは気が引けますけれど、ひとことで言えば、「人間は自分が欲するものを、他者に贈ることによってしか手に入れることができない」という命題に集約されると思います。

一人でいる人間は何も手に入れることができない。
これはそうですね。
エロス的他者も、親族も、ことばも、貨幣も、財貨も、サービスも、威信も、権力も、情報も…何も手に入らない。

二人だけでいる人間も、それほど多くのものは手に入れることができません。
とりあえずエロス的愉悦は手に入れることができますし、ことばも行き交いますし、多少の社会関係や情報も行き来します。
けれども、そこで交わされることばは限定された語の反復ですね(「愛してる」「愛してる」…)。
そこで生成しうる権力関係は、さきに見たとおり、「上位者・下位者」の相互的な入れ替えだけです。
そして、生物学の「鉄の法則」によって、エロス的経験を継続していると、たいへん高い確率で「第三者」が誕生する。
つまり、エロス的関係は、それだけで完結することのできない共同体の原基的形態であり、共同体への過渡であるということです。

人間はエロス的関係の準位にのみとどまることができない。
たぶん、そこで果たされる交換のコンテンツがあまりに「貧しい」から。
だから、コミュニケーションを富裕化するための不可避の「第三者」として、「子」が生み出される。
そして、「三角貿易」的な交換のプロセスが構築されることになります。
たぶん、ここにエロス的準位から共同体準位への決定的なテイクオフがあると思います。
「私」が「あなた」に贈るものを「あなた」は「彼」に贈り、「彼」から「私」に戻ってくる。
そして、そのとき「彼」が「私」に贈ってくれたものは、「私」が「あなた」に贈ったものとは違うものになっている。
必ずそうなります。
これは「伝言ゲーム」と同じ構造ですね。
情報や伝達される時に必ず「汚れる」…それはどうしてだろう?という問いからサイバネティックスが始まったことは平川くんもご案内のとおりです。
伝言ゲームや「三角貿易」が示すとおり、中に「ワン・クッション」入るだけで、コミュニケーションをゆきかうコンテンツは一気に多様化する。
私たちが今でも「伝言ゲーム」を愛して止まないのは、このゲームが人間が共同体を立ち上げたときの原初の驚きを再演するものだからではないでしょうか。

ここまで来て、ようやく平川くんの次のような問題提起のとば口にたどり着きました。
長い前置きですみません(いつものことなんだけどね)。
平川くんはこう書いています。
「ぼくの言葉でいうなら、知的肺活量というのは、自分の価値観といったものを測定して、判断してくれる第三者をどれだけ、自分から離れたところに措定できるかということなのだろうと思っています。あるいは、そうした第三者の不在に耐えると言ってもよいかも知れません。別の言い方をするなら、共同体の中にではなく、外部に判断の規範というものを措けるかどうかということが、大変重要なことだろうと思うのです。」

平川くんが書いているとおり、「自分の価値観を測定し判断してくれる第三者をどれだけ自分から離れたところに措定できるか」ということ、これが人類が文明というものをそれなりに富裕化することができた一つの大きな転換点をなす発想だと思います。
人間たちは、自分が最初に送ったシグナル、贈与した「善きもの」が、自分からできるだけ遠い第三者を経由することによって、どのようにその形姿を変えて戻ってくるのか、その意外性と未知性のもたらす「ときめき」を愛することを止められなかったんでしょう。たぶん。

昨日ビデオで『ラブストーリー』という韓国映画を見て、思わずほろりと泣いてしまいました。
いい話なんですよ。
私のような劫を経たおじさんが泣けてしまう「話」というのは、どこかに人類学的な真理がきっちり書き込まれていて、それが琴線に触れるからなんです。たいていは。
『ラブストーリー』はある「贈り物」が世代をまたがって交換され続ける、という話です。
その贈りものは、はじめある男が少女に贈り、少女が少年に贈り、少年が少女に差し戻し、少女(もう大人の女)が少年(もう青年になっている)に贈り、そして、青年の息子が女の娘に返す、というしかたで一巡します。
やりとりされるものそれ自体はたいして価値のあるものではないのですが、それが手から手へと交換されるにつれて、そこには「物語」が付加されてゆき、しだいにその意味が深まってゆきます(同形の説話は「蛍のやりとり」や「傘のやりとり」の中でも反復されます)。

マリノフスキーが『西太平洋の遠洋航海者』で報告したトロブリアンド諸島の「クラ」という儀礼は、「ソウラヴァ」と「ムワリ」と名づけられた二種類の装飾品が交換される儀礼です。
この儀礼でいちばん大切なのは、それが退蔵されることなく、順々に持ち主を変え、「いつだれがそれを身に付け、どのような仕方で所有者が変ったのか」を語ることです。
交換のプロセスを語ることそれ自体が儀礼の目的なのです。
つまり、この装飾品の価値を担保するのは、それが蔵する物語、言い換えれば、そこに封印された「時間」なのです。

エロス的関係はおそらく本質的には無時間モデルなのでしょう。
だから、時間が動き出すと同時にエロス的関係は打ち切られる他ない(「時計を見る」「時刻を告げる」というふるまいがエロス的状況においてはしばしば致死的な効果をもたらすことは、平川くんが言及していた黒澤明の『素晴らしき日曜日』でも見られますね)。
そして、共同体というのはそこに「第三者を経由するために要する遅延」というかたちで「時間」という未知のファクターをもたらしきたすことによって、一気に自由と主体性の可能性を押し広げたシステムではないか、そんなふうに思います。

この第三者論はまだまだ続きそうですね。
では、よいお年をお迎え下さい。

投稿者 uchida : 2004年12月31日 13:56

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