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2005年02月02日

エクリチュールの魔

■ことばの虜囚

『東京ファイティングキッズ』がぜんぜん「ファイト」しないで、しみじみ詩論なんか語っているので、『ミーツ』の江さんはきっと顔色を悪くしていることでしょうね。
「いったい、いつになったら、『若い奴らにばーん』が始まるんですかあ?」
なかなか始まらないものなの、こういうのは。もう少し待ってて下さいね。

平川くんが指摘しているとおり、いまの僕たちの言説空間では、「ことばに対する敬意と慎み」の大切さがなかなか理解されていないと思います。
いまの言説空間に瀰漫しているのは「ことば=道具」という言語観です。
「寸鉄人を刺す」とか「筆誅を加える」いう言い方がありますが、この「寸鉄」とか「筆誅」というときの「ことば」はあきらかに「攻撃のための利器」として観念されています。
僕自身も勢いでそういうことばの使い方をしてしまうことがあるので、えらそうなことは言えないのですが、ことばを道具にして功利的に使用したことのある人間は誰でも経験的にわかることがあります。
それは「ことばを道具にする人間」はかならず「ことばによって道具化される」という逆転です。

平川くんが挙げた「2ちゃんねる」の例を借りることにします。僕はこういう剣呑なところには足を踏み入れない主義なので、ずいぶん前に必要があって一二度覗いたきりですが、そのときに感じたことは「発信者が個体識別できない」ということでした。
そこに欠如しているのは「一方的、刹那的な言葉の使い方に対する内省」どころか内省の基盤となりうるような「発信者の唯一性」の欠如のように僕には思われました。
「言葉を発するまさにそのときに現れるためらい、恥じらい、逡巡、あきらめといったネガティブな心象であるといっても構いません」と平川くんは続けていますが、僕も同意見です。
人間の個性は「理路整然と言い切られた言葉」や「快刀乱麻を断つ言葉」
を介してではなく、「言いよどみ」や「前言撤回」のうちに、ほとんどそこにのみ生き延びるチャンスがあるからです。

「2ちゃんねる」的な語法の本質的な不毛さは、そこで誰かが語るのを止めたときに、その発言者が消えたことにおそらく誰も気がつかないという点に存すると思います。
しかし、僕たちがことばを語るのは(こんなことをいまさら力んで書くのも何ですが)、自分の唯一無二性のあかしを求めてのことです。
「私以外の誰によってもまだ口にされたことがなく、私がいなければこれからも決して誰によっても口にされることがないはずのことば」を探り当てること。そして、その「唯一無二のことば」の発言者であるという事実によって「私の唯一無二性」を基礎づけること。
僕たちとことばの緊張関係というのは、ほとんどこの一点にかかっていると思います。

ことばを道具にする人間は、「ことばを道具として扱っている主体」の自己同一性(デカルト的「コギト」ですね)を自明のものとしています。
透明で叡智的な主体が、軽やかにキーボードを叩いて、道具的ことばで事象をさくさくと切り刻む。
なかなか快適そうな風景ですけれども、そのようにしてことばを軽んじる者は、自分が道具として操っているつもりのことばにやがてゆっくりと侵蝕されてゆきます。
「営業マンのエクリチュール(あるいは「おばさんのエクリチュール」あるいは「ヤンキーのエクリチュール」などなど)」で語る人間は、最初は「営業マン(その他)のエクリチュール」を習得することのあまりの容易さに驚き、ついで、そのような語法を軽々と使いこなす自分の言語能力に満足します。しかし、やがて、そのエクリチュール以外のいかなる語法でも語ることができなくなっている自分を発見する(ふつうは「発見する」ところまでたどりつけないうちに寿命が尽きますが)。
ことばを道具として使うことのこのような「リスク」についてアナウンスする人が僕たちの社会にはほとんどいません。

僕は麻生総務相という人をときどきTVで見て、興味深く感じるのですが、あの人は昔はあんなに口が曲がっていませんでしたね(覚えてますか?)
どちらかというと政治家にしては端正な顔立ちの人だったと思います。
それがある時から「口の端を歪めて物を言う」ようになった。
それは「いま言っていることばはオレの本心じゃないよ(まあ、お前らなんかにはオレの本音のところはわからねーだろうけどな)」という非言語的なシグナルで、そのシグナルは「与党政治家のエクリチュール」としてはある意味たいへん定型的なものでしたから、彼のメッセージは視聴者にちゃんと伝わりました。
なるほど、うまい方法があるものだ、と思ってときどきTVの画面を眺めていました。
でも、効果的すぎるというのも考えものですね。
そのうちに彼の口の端はどんどんつり上がってきて止まらなくなり、今では顔の半分が上に向かって歪んでしまいました。
彼は今おそらく「口を歪めないで」はひとことも発することができないのでしょう。
これは「口を歪めて言う」というような身体操作まで「エクリチュール」は含んでいるということを教えてくれる好個の適例だと思います。
ことばは僕たちの思考を制限するだけではなく、身体の組成まで変えてしまう。
それくらいの力がことばにはあるんです。
だからこそ、自分の身体の唯一無二性を信じるなら(実際にそうなんですから)、「自分の身体が気持ちよく感じる自分のことば」を探り当てることにもう少し知的リソースを集中してもいいんじゃないかなと思います。
ことばが外部に与える「政治的効果」よりも、ことばが「内面」に響かせる「未聞の体感」を優先的に配慮する方がたいせつなことなんじゃないか。僕はそんなふうに思っています。

■ 時間と畏怖

このような言語観から導き出されるのは、「言語の主体そのものが、それが発している当の言語に遅れて到成する」という逆説です。
「自分が言ったことばによって自分が考えていたことを知る」という言い方をよくしますね。
「知る」というのは「自分の語ったことばを自分で聴く」というプロセスだろうと思うんです。
ここには二人の「自分」が登場します。
「語る自分」と「聴く自分」。
そして、この二人の「自分」は自己同一的であって、自己同一的ではない。
何しろ時間差があるんですから。
でも、「聴く自分」の「あ、これは〈私〉のことばだ」という確信にゆらぎはない。
そうですよね。

フランス語では「思う」という意味の動詞にse dire というものがあります。
これは英語的に書き換えると talk to oneself あるいはtalk oneself ということになります。
「自分に向かって語る」あるいは「自分自身を語る」というのが「思う」という行為のフランス的解釈なわけです。
なるほど、いかにもフランス的ですが、僕はこのことばは「深い」と思いました。
どこか「よそ」から聞こえてきたことばを「これは私が発したことばである」と「聴き取る」とき、同一の時間軸上に前後わずかに乖離している「二点」が生じます。
「ことばを発した私」は「そのことばを聴いた私」よりどうしたって時間的に先行しています。
その二人の「別の私」がそれにもかかわらず「同一の私」であるという確信。
それが自己同一性ということです。

自己同一性というのは「同じものは同じものである」という同語反復ではありません。「『違うように見えるもの』が実は『同じもの』である」という「命がけの跳躍」によってはじめて立ち上がるものです。
「違うもの」を「同じ」と錯認する能力がないと自己同一的な「私」は立ち上げられない。
時間差がないと自己同一性というものは基礎づけられない。
そういう意味において、「私」というのは時間的な現象なんです。
というか時間軸がなければ決して「私」というものは成り立たない。
そのときの「ああ、これが〈私〉なんだ」という自己同一的確証は、つねに「〈私〉と名乗る者が語ったことば」を「私のことば」として聴くという「他者性の繰り込み」に支えられています。
「私」が「私」であるのは、「私じゃないもの」を「私」だと思い込んで「私」のうちに繰り込むという歴程を不可避的にたどる…という論理的な順逆の狂った仕方で僕たちの自己同一性や主体性は基礎づけられているわけです。

僕たちがいまの支配的な言説形式に違和感を覚えるのは、この「私ならざるもの」が言語活動のうちに深く広く浸潤しているという事実に対する「畏怖」が不足している、と感じるからではないでしょうか。
平川くんは「尊敬とつつしみ深さ」と書いていますが、僕はもっと強い「畏怖」という語をそれに書き加えたいと思います。
自分の語っていることば(いま僕が書いているこのことばでさえ)、僕の自由にはならないし、まして僕の自己表現なんかではもとよりない。
僕のことばは「言語が言語そのものの理法と構造について語る」というある種のアクロバシーにわが身を「供物」として捧げることの「余波」「余沢」みたいなものだと思うんです。
わかりにくいことばかり書いてすみません。
でも、わかるでしょ?

以前に平川くんが「ビジネスをやっていると、お金は『川』のように横をざあざあ流れて行く。必要があれば、そこに『ひしゃく』を突っ込んで掬いだして、飲む。でも自分の『貯水池』みたいなところにお金を貯め込もうとすると、いずれ『川』は流れなくなる。水量の多い『川』の横にいれば、お金には不自由しないもんだよ」ということを言っていましたね。
僕はその話にとても感銘を受けたのを覚えています。
ビジネスを「詩」に、「お金」を「ことば」に書き換えると、平川くんのビジネス論は実は詩論と同一の構造を持っているように僕には思えたから。
この間の出版記念パーティでも平川くんは二十代に書いた『絵画的精神』と五十代で書いた『反戦略論的ビジネスのすすめ』がほとんど同じ内容だったということを話していましたね。
ことばへの自己供与、ビジネスへの自己供与(それによって「ちょっぴり余沢に与る」)という構図は、たぶん「交換」という原事実にたいする身の処し方としてはあまり違わないんじゃないか。僕はそんなふうに思いました。
詩論と同一の論理構造を持つビジネス論。これはたぶん前代未聞の論だと思います。
そろそろビジネスに話を戻して、青い顔をしている江さんを安心させてあげませんか?
ではまた。

投稿者 uchida : 2005年02月02日 13:02

コメント

se dire…、おっしゃることよくわかります。
先生はよく、フランス語を文章の中に引用されてますが、外国語を勉強することで、言語を別の角度からとらえる機会が得られ、言葉の内容に合点がいくこと、あります。
responsabilite(名詞:責任)がrepondre(動詞:応答する)に由来している、という話も、眼からウロコでしたもの。

本題から外れました、失礼。
自分の語った言語・フレーズを、0.5秒遅れで「聴く」ことにより、自分の考えがまとまることはもちろん、時には「え、私ってこんなこと考えてたん?(←大阪弁でお読み下さい)」と、たまに驚くことがあります。
だからって、普段考えていることと違うなんてことは、全くないんですけどね。

そういう自分の中にある、知っていたようで実はまだ存在を知らずにいた自分との出会いや、その「ネオ自分」がヒト(他者)に対して及ぼす好影響などに触れるにつけ、人生のなんと深く面白いことか、と、ワクワクしますね。

他者や時には自分とのコミュニケーションにおいて、言葉を「道具」として利用する以外は手段がないのですが、
決して言葉を軽んじるのではなく、その時に使用する・発生する言語に丁寧に接しながら、有意義な時間としたいと考えております。
ちなみに私は、コミュニケーションによって自分の仕事が成り立つ人間の1人です。
以前、親しい友人から、「(君は)communicativeやな」と表現してもらったことがあり、自分としては気に入ってるんですよね。

投稿者 門葉理 [TypeKey Profile Page] : 2005年02月11日 01:18

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