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2005年07月26日

TFKその15・党派を遠くはなれて


■ 方法としての「謎」

鬱陶しい梅雨が明けたと思ったら、今度は灼熱の地獄ですね。
毎年の事ながら、齢知命の体調を維持してゆくのは大変です。
ぼくは、数年前から梅雨時になると、長年の下段回し蹴りを受けた古傷の膝が痛み、歩くのも難儀になります。
お互いあまり、無理をしないようにしないといけませんね。といいながら、先だっては箱根でのエンドレス講演なんていう、無謀な仕事を増やしてしまって申し訳ありませんでした。

実は、ウチダくんのお話が、経営者の皆さんと「手が合う」のかどうか、すこし心配していたんですよ。
通常経営者が使用しているタームは、サプライチェーンだとか、ベストプラクティスなんていう短期的な利益確保と事業効率化に配慮したものが多いわけです。
最近では、コミュニケーションとかCSR=企業の社会的責任といった話題が出るようになりましたが、まあこういった話題は、四半期収益を確保した上で、お茶でも飲みながらといった感じで、本音のところは「そんなきれい事で、競争に勝てるか」というところから変わっていないんじゃないかと思えます。

今回のウチダくんのお話のテーマに伏流する「交換」「贈与」「応答」といった原理的な言葉を、果たして先進的な経営者はどのような形で咀嚼するんだろうか。
「なんか、抽象的な理想論なんじゃないの。で、結局何がいいたいのよ。」なんて、声が上がるんじゃないかと、ちょっと心配していたのです。

しかし、杞憂でしたね。いや、想像以上の盛り上がりで、五時間もぶっ続けで、場が白熱して飽きることがなかった。「で、それは儲かるんでっか。」なんていう野暮な反応もありませんでした。勿論、経営者ですからあしたの米びつの心配は常にしているわけだし、利潤を確保してゆくことが最大の関心事であるわけですが、それでもウチダくんの振ってくれた原理的な話題が、必ずビジネスに繋がってゆくという直感を皆さんが感じ取っていたのだろうと思います。同時に行き過ぎた市場至上過ぎに対する違和感もまた、経営者が共通に持っているものだと、あらためて思いました。

馬鹿な経営者というのは、「本質的な言葉」というものを、緊急性のない、空理空論だと勘違いしている。なんか、あしたの経営数字を一ポイントでも上げられないような言葉に対して、侮蔑感を持っている。成果に直結しないような観念に対しては、青臭い議論のための議論であると切り捨てる。
これは、実際にビジネスの現場にいるとよく分かるんです。実際そういう自分がタフなビジネスマンだと思っている連中が多いですから。
でも、それは、自らが運営する世界に対しての構成力の欠如である、ということに思い至らないだけじゃないのかと思いますね。もっとも、最近のデジタル思考の経営者には、そんな問題が、経営課題であるとすら思い浮かばない人が増えているようですが。

それでも、有能な経営者というものはいるもので、「本質的な言葉」と、「プラクティカルな言葉」というものをいつもひと続きのセットで考えている。
それは、利潤を生み出すリソースであるところの労働者、社員が、賃金だけではなく、「理由」を求めていることをよく知っているからでしょう。労働力というものは、ただ搾れば水滴をしたたらせる雑巾のようなものであるとは考えていない。
あたりまえですけどね。
先日の箱根に集まった経営者の方々は、ウチダくんの言葉を真正面から受け止めて、それをご自分たちの言葉に置き換えるとどうなるのかというように、考えておられたように思えます。

ウチダくんの講演の趣旨は、前便で書かれていた「同一であるけれど同一でないものが時間差をはさんでつながること。それが交換ということの本質ではないかとぼくは思うのです。」というところに集約されるだろうと思います。ビジネスというものを商品を媒介としたコミュニケーションであると考えるなら、このコミュニケーションとは何かを相手に差し出せば、ストレートに応答が返ってくるというようなものではなく、様々なものを迂回して返礼されるということだろうと思います。
ぼくは、ここにビジネスの最も本質的なものが、隠されていると思っています。
しかし、それは必ずしも、明示的に表現されうるものではない。原因と結果がリニアに繋がっているわけではない。それだけではなく、原因と結果の間には、よく分からない迂回路があるわけです。でも、迂回路があるということだけはわかる。
つまり「謎」としてそこにあると思っています。
「謎」であるが故に、それは
ぼくたちが嬉々として働く原動力にもなりうるのだということだろうと思うのです。
「謎」なんていうと、誤解されそうですが、答えがどこかに書かれているようなQ&A形式というものではないということだろうと思います。
それは、そうしようと思えば、そこから、無限の意味を汲みだせるという意味で、一つの答えを拒む問いです。だから、「謎」なんですね。

今あるものや、今進行している事柄について、それが好ましいと感ずるか、違和として受け取るかは、それぞれ個々の立ち位置と感受性によって異なるでしょう。現実的なものは、その意味を深く詮索しない限り、あたりまえのように見えるものだろうとおもいます。ヘーゲルじゃないですが、現実的なものは、必然であると意ってもいいかも知れません。歴史にイフはないといってもいい。しかし、今のこの現実には、いつくかある選択を積み重ねた結果であり、ありえたかも知れない現実もまた、今の現実に含まれていると考えることも可能です。ぼくは、こういう想像力を本質的な想像力であるといいたいと思います。そして本質的な言葉というのは、必ず物や事柄に対してその起源を尋ねることになります。それは、あたりまえの事柄の相の下に、ひとつの謎を見出すという方法でもあるということです。

─ 人間の手になる作品についての判断を損なう多くの誤りは、それらの発生状態に対する奇妙な忘却によるものである。人はしばしば、作品が前から存在していたわけではないことを忘れてしまう。
(「序説」渡辺広士訳)

これは、レオナルド・ダ・ヴィンチに関してのポール・ヴァレリーの省察ですが、ヴァレリーの方法的な知性には、何度読んでも新鮮な発見があります。それに、かっこいい。
考えて見れば、この間、ウチダくんとずっと交わしてきた議論はいつも、この事物の発生状態に関するものでしたよね。勿論、この起源は歴史の霧の中に霞んでいて、誰もそれを
見てはいないし、証明もできないものだと思います。ただ、それはウチダくんの言葉を借りるなら、無限の解釈可能性として、ぼくたちのまえに開かれているわけです。

■ 自分と自分の言葉との距離

この間、ぼくたちの目の前で、ニートの問題、靖国、憲法などの政治的な問題に関して、マスコミでも、ブログでも随分かまびすしい議論が展開されました。ぼくたちも、これらの論件に対して、考えてきたと思います。
そして、護憲であるか、改憲であるか、あるいは靖国参拝が是であるか非であるか。こういった問題に対して、あたかもそれが「前から存在していた」かのような二項対立の議論へと収斂してゆくのを見てきました。
護憲か改憲かといった選択の問題は、政治過程の課題としては重要な問題かも知れません。しかし、政治家でもない一般人が、この選択をめぐって口汚くののしり合い、相手を決めつけ、唾を吐きかけるような幼児的な議論をしているのを見ていると、このパターンは以前から繰り返されてきた、憎悪や不信の応酬に過ぎないよなと思ってしまいます。
なんていうんでしょうかね。
政治的な発言というものと、それを発言しているご自身との距離に対する自覚のない発言を見ていると、これはただのディベートに過ぎない。ここには何もない。
もし自分の問題として、自分の言葉で結論までもってきたのなら、護憲なのか、改憲なのかはまさに自分自身の生き方にかかわる問題になります。しかし、単に論理あわせみたいなものであれば、そんなものは、かれの生き方と触れ合うことはありません。ただ、とっちが論理的な整合性があるかなんてことを争っているだけですからね。
でも、こういった論争には、論理の整合性なんてひとつの思考の枠組みの中だけでしか担保されないという単純な事実が、抜け落ちてしまいます。しょーもない喩えで、申し訳ないのですが、動物愛護を唱えながら、血の滴るステーキを食うのが人間てもんだろと、言いたくなります。よく、ヒューマニズムでは、国際紛争を解決できないなんていいますが、リアルポリティクスだって何ひとつ解決できちゃいません。リアルポリティクスも、ひとつの物語に過ぎないわけです。外交とは力と力の駆け引きであるなんていうことを、さも国際常識みたいに言う人がいますが、それこそ前から存在していたわけではない国際常識という物語だろうと思います。もし、人間に進歩というものがあるとするならば、それはこういった国際常識を解体する常識をどうやったら打ち立てられるのかと考えることの中にしかないと言っておきたいと思います。

先日、ウチダくんも登場する、文芸春秋のアンケートを読んだのですが、ぼくがその中で、「お、これは面白い」と思ったのは、政治家でも評論家でも、大学教授でもないひとりのおばちゃんの意見でした。これ、ブログでも書いたんですけど、ぼくが感心したのは、料理評論家の小林カツ代さんの意見でした。
「他国が嫌がることで、すぐやめられることならやめましょうよ。誰も損をしないんですから。」
「はいはい、そんなところで、意地張って喧嘩していないで、はやくお家に帰って、おかあさんのお手伝いをしなさい。」
後段は、ぼくの創作ですが、このおばちゃんは、問題の本質が別のところにあることをこんな言い方でぼくに気付かせてくれました。
勿論、こういった認識が国際政治に通用するかどうかというのは、別な問題です。ただ、自分の意見を言えと言われたら、やはりぼくはこれに近い答え方をするしかないだろうと思うのです。政治的な問題の前に立つと、人間というのはどうしても党派的な意見しか言えなくなります。自分で意識していなくとも、どこかしら規定の党派的な見解の中でものを考えてしまう。実際に、アンケートを読んで見ると、人はいかに党派性から自由になるのが難しいのかということを知らされるばかりです。口汚く中国人をののしる類いの言説にはいい加減、「早くお家に帰って、お手伝いでもしなさい」と言いたくなります。
小林さんの意見のおもしろいところは、彼女がそういった党派性というものをどうやったら脱却できるのかということを、おばちゃんの語り口のなかにさりげなく溶かし込んだということだと思います。
池上本門寺のある池上駅の近くに小林さんのやっている定食屋さんがあって、そこではご飯、味噌汁、シャケの焼き物、お新香、玉子焼き、コロッケと何でも自分で選べるようになっています。そして、それらの料理が、まったくおっかさんの手作り風になっているんです。
それはまさしく隣のおばちゃんであるカツ代さんの手料理であって、彼女の心づくしをいただけるといった格好になっている。
彼女の意見を読んで、ぼくは、これは隣のおばちゃんの実感だなと思いました。
隣には、勿論、無知ゆえに、中国人や、朝鮮人を口汚くののしっているおばちゃんや、おっさんもいるわけです。でも、そういった無知蒙昧を開くのも、やはりどこぞのお偉いさんの意見ではなく、隣のまっとうな感覚をもったおばちゃんなんですね。

お、いけねぇ。つらつら書いていたらまた終わらなくなってしまいそうです。
前便でウチダくんにふられた論件とは、まったく違った場所に出てきてしまいましたが、同一でないものが、時間を潜ってつながるということにどこかで、接続できればと思います。
では。

投稿者 uchida : 2005年07月26日 11:09

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