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2004年04月05日

デオドラント社会と野生の稲

平川克美から内田タツルくんへ(2004年4月4日)

■ 思考停止

お兄ちゃんの会社の採用試験の様子、
ありありと目に浮かびます。
さすが、内田徹の選択眼おそるべしだね。

「アメリカ人のように流暢な英語」と「小学生のような作文」
そして、「命令、叱責、要求の語法」の非反省的な使用。
増えているんですね。こういった攻撃的で有能な若者が。
かれらにとって、人生は攻略すべきもののようです。
最近流行のキャリアデザインなんてのも、まあ
攻略本のようなものですね。
その一方では、将来に対して何の見通しも持てずに、
ただ無気力に現在の時間を消費することだけの若者もいます。
ただもう、まったりしちゃってるわけね。

どちらもひとつの偶然によってこの世に生を受け、それを必然に
変えてゆくことが生きるという意味であるという、その意味を問う
という点において思考停止しているというところでは、
一卵性の双生児なのかもしれません。

ぼくは、こういった思考法のメッカのようなところ(シリコンバレー)
で、会社をつくったので、かれらとの会話の寒々しさ
が肌身に滲みるように理解できます。

この思考法もまた、アメリカングローバリズムの発生と根っこは同じ
だろうと思います。
短期の利益、競争優位、結果主義といった戦略的な考えかたが
こういった思考を育ててきたように思えます。
そして、日本の教育機関もまたこういった戦略的な考え方で
国際的な競争力を身につけることを養成しています。

「もうかんべんしてよ。」といいたいところなのですが、
市場主義優勢の世の中で、強迫観念のようにはびこってきた戦略的な思考の
パラダイムを変えるには、丁寧にじっくりと推論してゆかなければ
なりませんね。本屋に行けば怒涛のような「戦略本」ラッシュなのですから。

今、洋泉社さんから出版のオファーをいただいて本を書いていますが、
そのテーマはまさにこの「戦略的思考」と「ゴール志向」というふたつの
合理的、機械論的な考え方が一種の思考停止であることを
解き明かそうといったテーマで書いています。
半分ぐらい書いたので、こんど読んで批判してください。


■ 真昼間にたそがれる

さて、前回の続きですが目が治ったと思ったら、今度は免停をくらっちゃいました。
前科2犯ということで、60日。
短縮30日でも、1ヶ月はオートバイにも車にも乗れません。
目が治るころには満開の桜の下を、ツーリングだ!とささやかな
希望を胸にじっと我慢していたのですが、ままならぬものですね。
久しぶりに、鮫洲の行政処分グループに入って授業を受けましたが、
以前は喫煙所だったところが、全館禁煙となっており、(あー、ここもかよ)
喫煙組みは、ベランダに出て、風に吹かれながら遠い目をして
発ガン物質をくゆらせておりました。
最近の禁煙ブームには、大政翼賛的な匂いがするですね。
山田風太郎は「死言状」の中で、この禁煙体制と捕鯨問題は、
「魔女狩り」であると怒っていました。
そして、「ほんとうに禁煙時代がきたら、タバコのみは松葉でも吸うだろう。
自由は死すともタバコは死せず!といきまいていましたね。
こんな一徹おやじが生きにくい渡世となったものです。
タバコは百害あって一利なし。これには一言もありません。
でも、利なきものは存在すべからずというのもいかがなものか。
どうもぼくはひねくれ者で、利に働く聡さというものには
いつも「何かあやしいもんだぜ」といった思いにとらわれます。

動物愛護に根ざした捕鯨禁止運動とか、屈託の無い人権思想とか、
善意あふれるボランティア運動とか、ポジティブな産業振興とかもそうだけど、
人の世の道理を説く善意が集まれば
世の中右肩上がりに良くなっていくもんだといった信憑にぼくは与しません。

おそらく、そういった善意はいつでも引き返すことが可能な、いわば責任の無い
善意だからかもしれません。
大沢在昌の口吻を借りれば「善意には限界量がある。その限界量を使い切るまでの
ものに過ぎない」ということになるでしょうか。

そこにある善意には疑いはないのだけれど、善意が必ずしも
住みやすい世の中を作ってくれるわけではないですもんね。
むしろ、こういった善意のの大量発生、異常発生は、
人が生きてゆくために必要な基本的な汚れ、弱さ、悪意といったものを破壊してしまう
可能性があります。

エコロジーとは、よく言われているように、環境を汚染する害毒を
きれいに取り除くというようなことではありません。
これはいわば、エコロジカルマッチポンプということで、
環境をデオドラントするために用いた化学薬品が、害毒として作用してしまうという
アイロニカルな結果を導いてしまったというべきでしょう。
本質的にはまったく逆なのだろうと思います。
環境デオドラントは、さまざまな天敵の連鎖を断ち切ることによって、
環境バランスが壊されることになるだろうと思うわけです。

まあ、何を言ってもいまやタバコのみは意志薄弱で他人の迷惑を顧みない第五列
といったポジションにいるわけで、肩身を狭くして生きてゆくしかないですね。

■ 耕さない田んぼ

とろこで、この話と大いに関係があるのですが、
先日NHKの3CHをなんとなく見ていたら、途中から画面に引き込まれ、
夢中になってしまいました。
番組のタイトルは「耕さない田んぼが環境を変える」というものでした。
耕さない田んぼとは、古くて新しい農法として注目されている「不耕起栽培」のことです。
不耕起栽培とは一言で言えば稲を野生化させて栽培する技術で、ぼくは農業技術
なんてものにはまったく不案内なのですが、
これを推し進めている岩澤信夫というひとの語り口があまりに魅力的だったもので、
おもわず、ずるずると見てしまい、見るにつれて、この不耕起栽培の考え方の
根底にある哲学にも大変に感心してしまったというわけです。
岩澤さんは、農業学者としてのインテリジェンスと農民としての庶民性を併せ持ったような
風貌のじいさんで、微笑みを絶やさずに、しかし確信をもった言葉で次のような
興味深いお話をしてくれました。

「開墾のように土地がひっくり返されるようなことは、天変地異でも
無い限り自然界には存在していません。 それでも、いろいろな植物が現在まで、
生き残ってきています。稲も、もし裸の土地で生きられない種であるならば、とっ
くに淘汰されているはずです。
にもかかわらず、稲が自生しているというのは、野生の土地でも生きてゆけるということを証明しています。
現在の水田耕作の稲はいわば甘やかされた稲なんです。」

では、耕さない田んぼに稲を植えるとどうなるのか。
これが、非常に興味深いのです。
耕さないということなので、土は耕したものよりも堅いので、根もその堅い土を
突き破って成長するために、太く強いものになります。
番組では実際に耕作と不耕起の稲の根を定期的に比較しており、
みごとに野生化した稲の根を見せられたときはうなってしまいました。

話はこれだけで終わりません。
通常水田は、冬季は水を抜いてしまうわけですが、
岩澤さんたちは、「冬季湛水(たんすい)」ということを試みます。
冬の間も水田に水を張ったままにしておくわけですが、そうするとおもしろいことが
次々に起こります。
まずは、バクテリアが大量に発生します。そしてそれを餌とする糸ミミズが大量に
発生してきます。そしてタニシ、かえる、といった具合にひとつの水田が食物連
鎖の培養地と
なるのです。害虫もいれば、益虫もいる。だからひとつの種が異常発生することを
食い止めることになるとも。

ここで、水質浄化の専門家が登場します。
これまで、農薬を大量に含んだ水田水が土壌や河川の環境を破壊してゆくことが
問題にされてきました。現在のような農法を続けてゆく限り、この水質汚染を
食い止めることは出来ません。
水質浄化の専門家は、「冬季湛水」は「緩速濾過」そのものであるというのです。
水質浄化の方法には、高速濾過と緩速濾過のふたつの方法があります。
高速濾過は、いわゆる浄水場などが行っているようなフィルターと薬品による
水質の濾過の方法なのですが、山の雪解け水などが、いったん土中にはいり、
自然環境の中で濾過されて、時間をかけて岩肌から湧き水になって湧き出る
といったシステムを「緩速濾過」というのだそうですが、
冬季湛水を行うことにより、バクテリアや様々な生物が汚染要因を取り除き、
酸素を供給して、さらに土質が改良され、そこから流れ出す水が自然に浄化される
ということのようです。

そして、そのうち水自体が生き返ってきます。
テレビでは、自然湿原と化した千葉県の田んぼにたくさんの白鷺が舞い降りる
ようになるという感動的な画面を映し出します。

これが、北海道なら丹頂鶴であり、佐渡ならばトキ!が舞い降りるという光景
になるはずです。確かに、むかしの農法は不耕起であり冬季湛水に近いものであっ
たということで、モノクロの画面にはたくさんの朱鷺が田んぼに舞い降りる光景
を映し出していました。

ところで、ここまでだと、いいことだらけなのですが、
実際には不耕起栽培には多くのハードルを乗り越えてゆく必要があります。
岩澤さんたちが、布教活動を続けていますが、急速には広まってはいません。
まずは、雑草の問題です。
不耕起は基本的に無農薬ですので、雑草が伸び放題となり、
収穫が激減してしまうのです。
また、何年か続けてゆかないと稲の野生化が完成されないために、最初のうちは作物自体も不調です。
この、稲が野生化してしっかりと根をはり、雑草を減らす工夫が定着してゆくまで
近代農法であまやかされた農家は辛抱できないわけです。

除草剤の開発、ヘリによる空中散布により稲作は急激な効率化を成し遂げました。
とくに除草剤の開発は、農家の作業効率を大幅に上げただけでなく、収穫量にも
大変な進歩をもたらしました。
いったん経済効率化の恩恵を受けてしまった農家が、また非効率的な不耕起栽培を
採用することには、やはり抵抗があるわけです。

しかし、何軒かの農家が不耕起栽培のなかで、大きな収穫を得るようになってきます。
冬季湛水によって、田んぼの表面に大量のバクテリアの死骸や、いきものの糞が堆積して
雑草の繁殖を抑えるといった現象が起こってくるのです。
さらには、大量の種が田んぼの中で共生することにより、ひとつの種の異常発生を
許さないような生物の連鎖環境が整ってくるのです。
長く不耕起栽培を続けている農家は少しづつでも収穫量を確実に伸ばしているようです。

なんか、話があっちゃこっちゃに跳んで
収集がつかなくなってきましたね。
でも、まあいいか。

投稿者 uchida : 2004年04月05日 08:55

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