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2004年04月14日

血液型とイラク

東京ファイティングキッズ
その27
平川克美から内田樹くんへ(2004年4月14日)

■ アナタハケツエキガタヲシンジマスカ?

おそらく、秋葉原というところは、日本で一番
男性人口が多いところだろうと思います。
その半数は「オタク」といわれる兆候的なひとたちです。
オタクとは何かということを定義するのは難しい作業ではありますが、
一つ言えるのは、かれらのとっての価値、つまりは差異は、
イデオロギーや階級や、貧富といった誰の目にもわかるような
大きな差異ではなく、非常に微細な差異を見分けるということに
あるのではないかと思っています。
エロゲーも、フィギュアも、ゴスロリも、その気のないものにとっては
ただの奇怪なのっぺらぼうの風景でしかありませんが、
かれらにとっては微細な差異というものが、非常に重要な要素である
と思われます。
この微細な差異を見分けて価値付けする目が何を意味しているのかは
検討に値する問題であるとは思うのですが、ぼくにはよく判らない
ところでもあります。
いづれにせよ、現代都市伝説のフィールドワーカーにとっては興味深い場所ではありますね。

ところで、この秋葉原の裏通りに唯一女性ばかりが
集まる場所があります。
要するにアキバの中の非アキバです。

それは、ランチ時のフルーツパーラーで、
ぼくもよくここで、出っ張ってきた腹をへこましたいという
こともあって、ヘルシーランチを食べに行きます。

先日も、ここでサラダ、ヨーグルト、グラタン、クロワッサンといった
味気ないランチを食べていたところ、
となりに座っていたOLさんたちが血液型の話で
たいそう盛り上がっていました。

ぼくは、血液型性格判断には、何らの科学的な根拠はないし、
寸毫も、信じる気持ちはないのですが、
実は、かなりの確立で、これが当たるのです。

彼女らのはなしを、聞いていて、ああこういうことなのか
と思ったことがありました。

彼女らは、血液型が性格を決定するということを、
何の疑いも無く信じているようでした。
もう、これって常識なんですね。

最近では、血液型と性格の関連を示すデータというものが
発表されたりして、ある種の科学的な根拠というものも
あるやに、喧伝されているわけです。

この科学的な根拠がどの様にして出来てきたかということの中には、
興味深い、人間が陥りやすいトリックが隠されています。

ひとはしばしば、原因と結果を取り違えるということです。
結果に過ぎないものを、原因と考えたがるこの性向は、
ある種の思考力の停滞なのですが、これがいろいろな
悲喜劇を巻き起こすわけです。

そして、このまちがいパターンは、ビジネスの分野においても
しばしば散見されます。
アメリカナイズされたビジネスマンと話すと、
必ずといってよいほど出てくる仮説→検証というロジックのことです。
ビジネスとは、まずビジネスモデルという仮説をたてて、
それを検証してゆくことがビジネス遂行の意味だというやつですね。

実は、この最先端のビジネスロジックと血液型信仰は、
どちらも原因と結果が倒立して現れるという点で
双生児なのです。

「ストックオプションの付与により、職場の生産性が高まる」という
仮説を立てたとする。
これに対する反証はいくらでも挙げられそうな気がします。
しかし「だからストックオプションは、経済活性化に役立つはずだ」
という次の仮説を積み上げたときには、最初の仮説はすでにひとつの
信仰として、自明の理であるかのように、ふるまうのです。
この仮説はひとはお金のために働くという信憑に依拠しています。
なぜならお金はどんな欲望も充足させることができる魔法の杖
だからというわけです。
しかし、ウチダくんもよくご指摘のように、欲望を充足させるために
お金があるのではありませんよね。
お金が欲望を喚起するというのが本当のところだろうと思います。
かくて、お金のためだけに働くひとが職場に蔓延することに
なります。

フルーツパーラーの女性たちの話で、ぼくがびっくりしたのは、
彼女らが、血液型が性格を決定するという神話を
心から信じていることでした。
まあ、ここ10年ぐらいいろいろなところで、
血液型のおはなしを聞いて、どうやら、
彼女や彼はこの神話を本当に信じちゃってるのねとは思っていましたが。

この仮説にすぎない与太話が、何らかの理由で過半の若者に
常識のように信じられるに至る。
ひとつの面白い点はは、この信仰形成のプロセスには興味深い心理学的な
課題がありそうだということです。
そして、もうひとつは、この与太話は、よく当たるということ。
科学的な統計結果もそれを証明するに至るということです。

人間には、誰にでも、自分の好きなところや嫌いなところの
ひとつやふたつは数え上げることができるでしょう。
そういった自分の個性といったものが、生得の気質なのか、環境によって
つくられたものなのかということは、だれにも良く分からない
ということも確からしく思えます。
現代とは、「よくわからない」というエージングプロセスを許さない
時代なのかもしれません。
10人10色というのが、一番正しいだろうと思われるこの
性格についての情報を交換可能な情報に変えるために
4つの性格類型で考えるのはとっても都合がよいわけです。
性格早分かりというわけです。
本当は、個性は自らそれを担ってゆく重要な課題なのですが、
類型の中に当てはめることで、個性の重さを情報の軽さに変えることが
できるというわけです。

ある人間が、心配性であるか、執念深いか、自己顕示欲がつよいか、けちんぼであるか
といったことは、客観的にはあくまでも統計的、相対的な指標です。
A君は、B君にくらべると心配性的性向が強いという言い方は可能ですが、
A君は心配性であるということは意味を持ちません。
もし意味を持つとすれば、A君は、A君以外の全てのひとの平均的な心配性的な性向に
くらべると、その強度が平均値よりも強いということ以外にはないでしょう。

にもかかわらず、ひとはひとを一つの類型として判断したがるし、されたがるのは、
人間のデータ化とデータの交換が必要であると考えるようになったからでしょう。
人間を理解する方法の一つとして、人間の性格をいくつかの要素に分解して、
その要素の強度によってプロファイリングする。
同時に、ひとを判断するときに、この要素に還元することによって、
判断の材料を集める。
このように、人間を理解するということが、デジタルな地図に
マッピングしてゆくことであるというような思考法が支配的に
なったということです。

さて、もんだいはこの先にあります。
とにかく、ひとをいくつかの類型として理解する。そしてそれを血液型と結びつける。
このふたつの不確かな作業によって得られた結論が、実はよく当たってしまう。
これまでは、占いと同じで、外れていても当人には当たっていると感じられるのもだ
という説明のされ方が一般的であったと思います。

しかし、血液型性格判断の的中率は、占いの的中率とは比較にならないくらいに、
よく当たるだろうと思います。

このトリックの鍵は、血液型性格類型が、自分たちの性格を溶かし込む
鋳型になっているということに他なりません。
自分や隣人の性格を理解するために、わかならいものを無理やり鋳型に溶かし込んで
判ろうとするうちに、鋳型そのものが性格になってしまうということです。
アナログそのものの人間をデジタルに理解しようとしているうちに、
デジタル化した人間ができてしまったということかもしれません。
だから統計をとると、まさに血液型性格判断が当たっているということになるのでしょう。

■ 最初の仮説を疑うこととイラク問題

こういった、原因と結果の転倒、ある種の集合的な思考パターン形成を
忌避するためには、最初の仮説をもう一度検証してみる以外には
無いだろうと思います。 まえに少し議論した、太古の問いですね。

こんなことを書いているうちに、イラクの情勢がますますきな臭くなってきました。
イラク問題における最初の仮説は何だろうかと考えます。

今、国際社会はテロからの挑戦を受けている。
テロは悪だ。悪はこの地球上から掃討しなければならない。
独裁は悪だ。独裁者は抹殺しなければならない。
テロや独裁を許している国家は、ならず者国家であり、解体して
再構築しなければならない。
こうして、世界から害毒が消えて、平和が訪れ進歩してゆくもんだ。

これが、現在米国を初めとするコアリション(同盟軍)の論理と倫理です。
このおそろしく単純な論理には、しかし根本的な原因と結果の転倒があります。
ここにあるのはぼくたちの年代にとってはおなじみの「奴は敵だ。敵は殺せ。」
「敵の味方は敵だ。」というリアルポリティクスの粗雑な論理です。

「奴」が敵になったのは、俺と奴との関係の結果であって原因ではないのです。
ひととひと、くにとくにの関係を「敵対的な関係」という結論に導くような
思考法こそが本来問われるべき問題であるわけです。

イラクはアメリカにとって、生来の敵、天敵ではありませんでした。
時に応じて、敵であったり、敵の敵(イランイラク戦争)であったり、
無関係な辺境の貧国であったりしたわけです。
つまりは、自国の国益との関係が変われば敵にも味方にもなるご都合主義こそが、
リアルポリティクスの本質だろうと思います。

イラク問題のそもそもの原因は、イラクの国や独裁者フセインや、あるいは
アルカイーダといったものに求めても答えを得ることはできないでしょう。
同時にアメリカの大統領の特異な性格や、産軍複合体の策謀、ネオコンの世界戦略
なんてものの中にも答えがあるとは思えません。

エイミーチュアも指摘していますが、市場主義の自然過程であるグローバリゼーションは、
エスニシティの間に必然的に憎悪を生み出すということだろうと思います。


これに関係して、最近のイラク報道を見ていて、ああ、これはインチキだなとおもうことがふたつあります。

そのひとつは、どちらかというと反米良識派がよく言うことなのですが
テロに屈してはならない。But 自衛隊は撤退すべきだ。
テロは許してはならない。But 自衛隊にはイラク進駐の根拠がない。
という思考パターンです。
この思考パターンは、ふたつの意味で詐術を犯しています。
ひとつは、テロと自衛隊の派遣を別の水準の出来事として切り離すという詐術です。
テロは、米英軍、それに続くコアリションの進駐の結果であって、原因ではないということです。
もうひとつは、テロというものがテロリストという悪しき人々によって
行使されているという固定観念です。
断言してもいいが、この世の中、世界中のどこにも、生まれながらのテロリスト
なんてものはどこにも存在しない。
ナチュラルボーンテロリストとは、まさに同盟軍の作った物語です。
世界の圧倒的な経済的、軍事的な非対称のもとでは、もはや
正規軍VS正規軍という戦争は起こりえない状況になっています。
テロVS国際社会という構図が先にあるのではなく、現在の国際社会の構造が
ゲリラとかテロという形式以外の闘争の選択肢を奪いつつあるというべきなのでは
ないでしょうか。
お前はテロリズムを肯定するのかといわれるかもしれません。
ぼくは、国際政治の文脈ではテロを倫理的に肯定したり、否定したりすることには
ほとんど意味がないといいたいのです。ただ、それは必然だよといえばよいの
だろうと思います。
敵対する関係の中で、日本の総理大臣も大好きな非妥協的な「断固たる」
決断をするとき、
具体的には、米英軍が力でイラクを「解放」しようとするとき、
あるいはイスラムが米英軍の圧倒的な力に「抵抗」しようとするとき、
必ずテロという現象が現れるというということです。

インチキのもうひとつは、自己責任という言葉です。
退避勧告の出ているイラクに入ったのはプロ市民で、それなりの覚悟をもって
入ったはずだ。危険を承知で行った行動に対しては、自己責任でそれを解決
すべきだという意見です。
この自己責任という言葉は、実は経済の分野でもアメリカングローバリズムを
象徴するキーワードの一つになっています。
ハイリスクハイリターンの投資は自己責任で行うべきだというわけです。
自己責任という意味深い言葉がいつのまにか「自業自得」と同義になって
しまいました。
もしも、自己責任という言葉を使うのならば、
そもそものフセインのイラクもまた、イラク人の自己責任において、
選択させるべき問題であったはずです。
そこにどんな圧制や人権蹂躙があったとしても、それこそこれはイラク人が
選択した問題であるわけです。
ぼくは自己責任という言葉はもっと大切に取り扱って欲しかったと思います。
ぼくにとって自己責任とは内省と同義で、他者が強制したり、難詰すること
からもっとも遠いところにある「世界に対するかまえ」であったはずです。
それが、いまやもっともチープな意味を背負うことになってしまいました。
誰にでもどこかで、逡巡し、戸惑うことを止めて、行動しなければならない
場合があります。
そのとき、よかれと思ってしたことでも多くの人を傷つけたり、あるいは
自分も痛手を負うかもしれません。行動という単純化の中ではおのれの意図とは
別の結果を招来する可能性が常にあります。それでも、そのおのれの意図とは
別の結果に対してそれを引き受けるということ、腹をくくるということこそが
自己責任の意味であるだろうと思っています。

長くなってしまいました。
ウチダくんの「交話的コミュニケーション」のお話、大変興味深く読ませていただきましたが、
今回は緊急報道特集になってしまいました。
政治も宗教も最終的にはコミュニケーションの問題に逢着するというのが
ぼくの(ぼくたちの)基本的なスタンスなので、
次の機会に論じてみたいと思います。
でも、しばらくは、イラクでいきますかね。

投稿者 uchida : 2004年04月14日 19:31

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