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2004年12月24日

悪い兄たちが帰ってきた Tokyo Fighting Kids Return 1

内田さま


ウチダくん、お久しぶりです。
東京ファイティングキッズの再開ですね。
前回の最後は、「今日の話は昨日の続き、今日の続きはまた明日」でしたね。
その明日が来るまで丁度一年間が経過したわけです。

その間にぼくたちの個人的な日常も、日本の状況も、世界情勢も大きく変化しましたが、その変化が何を意味しているのかまだ判然としません。
まあ、ぼくは最近では変化はすれども成長せずといった世界観にとらわれていますので(なんのことやら分かりにくいと思いますが、どこかで説明できると思います。)、明日は今日より、よくならなくてはいけないとも思わないのですが。
ぼくたちはすでに五十余年生きてきたわけですが、事実としても、実感としても今日が、昨日よりよくなったとはとても言えないだろうと思っています。
けれども、諸行無常とあえて言うまでもなく、変化だけは確実にやってきます。

今回の対話では、その辺りを「検算」する意味も含めて、前回の話題を、もう少し掘り下げてゆければいいんじゃないかと思っています。

■コミュニケーションにおける第三者の視線

さて、「昨日の続き」のその後の口上は、いわずもがなの「提供は参天製薬、声とアイデアは大橋巨泉、前田武彦、それとわたくし富田恵子」でした。今の若い人たちは、ご存知ないでしょうが、ぼくたちの年代ではかなりの人がこの番組を聴いていたのではないかと思います。

前回の終了時、内田くんが私信で、「おお、平川もあれを聴いていたのか」と書き送ってくれましたが、実に数十年を経て当時の共同性の在り処の一端を確認したわけです。
この番組は、おそらく早熟な若者たち、あるいは早熟に憧れている若者たちにとっては新しい消費のかたちを覚える端緒であったように思えます。新しい消費とは何か。ひとことでいえば、それは「知識消費」と呼んでよいものだろうと思います。

巨泉も前武も、ひとつの来るべき文化人の典型をよく体現していました。芸事や遊びに通暁し、政治的な発言も躊躇しない。スポーツの世界や芸能界といった憧れの世界に対して右手を挙げて入場できるプレミアムパスをもっている特権的な文化人であり、同時に庶民の生活感覚も理解できるといった万能選手でした。その後、放送作家という人種がテレビの世界で活躍したわけですが、戦後復興の経済、生産者重視の産業構造がようやくひとつの役割を終えて、新しい消費中心の生活が生まれてくるという時代のパラダイムの変換がかれらを後押ししたと言えるだろうと思います。
かれらは、まさに時代の半歩先をぼくたちの眼に見える形で体現しているロールモデルであったわけです。

ところで、巨泉と前武の掛け合いはそれはそれで、おもしろかったのですが、やはりぼくたちがこの番組に引き寄せられたのは、富田恵子の相槌にあったのではないかと思っています。
当時は、ほとんど意識していなかったのですが、今思い出すと、この「第三者による同意と承認」が実にさりげなく、会話の合間に挿入されていて、ぼくたちは巨泉や前武の聴衆であると同時に富田恵子の同意にシンクロナイズしているという、かなり巧妙な構造をもっていたんだと、納得できるのです。しかもその第三者は、優しい声のお姉さんだったわけですね。しかし、自分たちに理解と承認を与えてくれる第三者がいつも身近にいるとは限りません。

■ 共同体のあいまいな主体

さて、これだけの前ふりをネタにして新しい東京ファイティングキッズを始めたいと思います。
前回は、「対話」という形式で政治、経済、文化、そして私的な問題について意見を交換したわけですが、ぼくも内田君も、お互いの声と同時に、この「対話」が公開されるということを十分に意識していたと思います。第三者の目というものを常に意識しながら、お互いがお互いに語りかけるというかなり不思議な経験をしていたのだと思います。

しかし、よく考えてみると、この第三者の視線というものがなければ、コミュニケーションというもの自体がうまく成り立たないことがわかります。
通常考えられているように、対話というものは、二人だけの閉じた世界の中での出来事ではありませんよね。

もちろん、二人だけの閉じた世界というものが無いわけではありません。
エロティックな関係というのは、まさに「世界は二人のために」といった閉じた関係であり、二人はそれこそ世界の中心で愛を叫んじゃう権利を保有しているわけです。そこでは常識も価値観もそれを「検算」する第三者が不在であるといったことが、重要なポイントなのだと思います。誰にも、エロティックな関係に対して、それが不道徳であるとか、人倫にもとるだとか、アブノーマルだとか言う権利はないわけです。再三の引用で気が引けるのですが、吉本隆明がこの関係を「対幻想」という言葉で相対化したのはご存知だと思います。吉本の創見は、この対幻想下における価値判断や常識というものが、共同体におけるそれと倒立した関係になっているというところに眼をつけたところにあります。

当時、有名私立大学の教員が女子大生と心中事件をおこすということがあり、これに対して、吉本は自分もそういった関係(対幻想というエロティックな関係)の中に入れば、そうしたかもしれないといった意味のことを述べていました。彼のコメントは当時の先進的な心理学者や道徳家、知識人の発言に見られた「倫理観の崩壊」とか「教員や女子大生の精神病理分析」といった近代主義的な見解を遥かに抜き去った見事なものだと思ったものです。

いや、話が逸れてしまいました。共同体の中での第三者とは誰かという問題について考えているところでした。
ひとことで言うなら「検算」の最終審級はどこにあるのかという問題です。あるいは、最終審級の不在といってもよいのですが、いきなり、こなれない言葉でそれこそ第三者になかなか理解することの難しい話ですが、要は正しさとは何か、それを誰が判断するのかということです。価値とは何か、それを誰が判断するのかといっても構いません。
たとえば、オーム真理経という現象を考えてみたとき、かれらは麻原彰晃という稀有な詐欺師を中心にひとつの共同体を形成していたわけですが、かれらの価値観はいわゆる体制のそれとはまったく倒立した関係になっていたわけです。
あるいは、911以降のアメリカのマスメディアに起こった体制翼賛的な動きなどについても、もう一度原理的に考えてゆかないとよく解けない問題があると思っています。
ある時点で、アメリカのメディアは、マッカーシーの時代へフィルムを巻き戻したような事態が起こっていたと思います。なぜ、このようなことが起こるのか。まずは、その問題から考えてゆきたいと思っています。

なぜなら、これは同時に戦後日本における「会社」と「個人」の関係を考えることと同じことだと思うからです。(ここでようやく、ミーツ編集部のリクエストに接続されましたね。)
「会社」というものを考えるとき、そこで働く個人から見たときに、これがいったい何であるのかということは、それほど優しい問題ではありません。よく会社にこき使われて捨てられたなんていうことを言いますが、会社は当然ながら人間ではないので、この糾弾は、こき使って捨てた誰かを指しているわけです。

しかし、もし社長のヒラカワの奴にこき使われたということになれば、それは個人的な怨恨でしかなくなってしまいます。そういうこともあるかも知れませんが、おそらく、会社にこき使われたというのは、その会社の経営者を指すのではなく、現在の日本の会社システム、あるいはそれを可能にした日本というシステム全体を指しているのだろうと思うわけです。
あの野郎、俺をいいようにこき使いやがってということなら、話は簡単なのですが、会社における被害者の言明は、つねにわたしは捨てられた。わたしは騙された。というように、受動態で語る他はないようなものです。そこでは常に加害者の顔はあいまいなものでしかありません。なぜ、そうなるのか。
ここに、共同性というものの大きな陥穽があると思うのです。

■ 知的肺活量とは何か

オームの若者たちについてはすでに様々な分析が発表されています。そのほとんどは、なぜかくも利発な若者たちが、大量殺人にいたる犯罪者となったのかという、まあ常識的な反応を解読する試みであったと思います。とくに、理科系の優秀な学生が主要なメンバーに多かったことも、専門バカが一般常識の欠如ゆえに詐欺師にころりと騙されるのだという俗論が多くの紙面を飾ったことは記憶に新しいことです。
あるいは、こんな特別な例を持ち出さなくとも、ベスト&ブライテストと形容されたアメリカの東部エスタブリッシュメントたちが、泥沼のベトナムで敗北してゆくといった知性の迷走といった例は、国際政治の中を見渡せばいくらでも見つけられます。

オームの若者たちは、ひとりの詐欺師にころりと騙されたのか。アメリカは戦争プランナーに国全体が騙されたのか。そんな単純なことではないだろうと思います。それは、ドイツがヒトラーに騙されたわけではないのと同じです。国家であれ、宗教団体であれ、あるいは会社であれ、共同体と言うものはその内部にひとつの絶対的な正義というものを作り上げます。いや、正義が作られたときにそれは共同体となるのだといってもいいだろうと思います。「正義」という言葉自体がすでに、共同体を前提としているわけです。こととき、メンバーのひとりひとりはまさしく、共同体の正義によって思考や行動が支配されており、同時にメンバーのひとりひとりがその正義の担い手でもあるという同義反復的な世界の中に閉じ込められているわけですね。この同義反復的な世界の生成こそが共同体を共同体たらしめている条件であるのだろうと思います。人間は、いかにしてここから自由になれるのか。

ウチダくんはこれに対してさすがに、するどい分析をしていましたね。

>それは彼らに知識が足りなかったからでも、知性に欠陥があったからでもないと私は思う。そうではなくて、あるフレームワークが失効してから、次のフレームワークを自力で再構築するまでの「酸欠期」をノンブレス(息継ぎなし)で泳ぎ抜くだけの「知的肺活量」が彼らには不足していたからである。(東京ファイティングキッズ「まえがき」より)

ウチダくんは、このノンブレスで泳ぎ抜く力を、知性のタフネスという言葉で説明しました。そしてそのとおりだと思うのですが、ぼくはこれは実は、大変微妙な言い方だと思っているのです。そして、大変に重要なことが含まれているのですが、自分に対してなかなかうまく説明できない問題でした。

このことについて、すこしご説明したいと思います。
共同体の最小単位は、家庭です。そこでは父親や母親の価値観が、そのまま共同体の価値観となるわけです。血縁共同体ですね。もうすこし、共同体のフレームを広げると、町内会だとか、商店会のような地縁共同体が現れてきます。ここでは、町会長とか、商店会長なんていう人がその共同体の規範を体現しています。さらにこれを拡大すると、学校や文化サークル、あるいは会社といった理念や目的を靭帯とする幻想共同体が現れてきます。人間の成長とは、ある意味で身近な共同体からより大きな共同体へと、段階的に脱皮してゆくことなのかも知れません。

ぼくの言葉でいうなら、知的肺活量というのは、自分の価値観といったものを測定して、判断してくれる第三者をどれだけ、自分から離れたところに措定できるかということなのだろうと思っています。あるいは、そうした第三者の不在に耐えると言ってもよいかも知れません。
別の言い方をするなら、共同体の中にではなく、外部に判断の規範というものを措けるかどうかということが、大変重要なことだろうと思うのです。しかし、これは共同体の内部にいる人間にとっては、至難のわざといわなければなりません。いや、共同体というものが、まさに判断の源泉そのものであるという性格のものですから、外部に判断の規範を措くということ自体がひとつの論理矛盾であるわけです。

人間は必ずどこかに、判断してくれる人を求めるものです。幼児期の両親から、青年期のスポーツ選手や文学者にいたるまで、具体的な身近な何かに寄りかかりたいと思うわけです。しかし、どこかでそういった判断は、実はだれもしてくれないのだということに気づくことが必要なのだろうと思います。
いつの頃からか、ぼくはそのように思えるようになりました。青年期の疎隔感というのは、そういったもたれかかるものの不在に対する最初の「気づき」なのだろうと思います。そして、それが「単独に耐える」、つまりは肺活量を鍛える端緒なのではないかと思います。

共同体を立ち上げる、あるいは共生の道を探るというのは、大変結構なことなのですが、ここのところを間違ってはいけないのだろうと思います。

その意味では、最終審判の基準を「お天道様が許さねぇ」といった具合に、審判がどこにいるのか、だれなのかわからない無限の遠点に措いた日本の庶民の知恵はなかなかのものだったのじゃないかと思います。

何だか最初から図柄が鮮明ではない風呂敷を広げてしまいましたが、これをうまく畳む作業、よろしくお願いいたします。

投稿者 uchida : 2004年12月24日 09:47

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