その13

2003年12月20日

平川克美くんから内田 樹へ

 

 

だいぶ冷え込んできましたね。

秋葉原では、年末の商戦が始まろうとしています。ぼくは、都会のクリスマス風景の中ではどこか借りてきた猫のような居心地の悪さを感じてしまうのですが、上野アメ横と隣接したこの無国籍的で、奇妙な街が、年の瀬に活気付いてくるのを見ているのは嫌いではありません。

それでも、今年は長期的な経済の停滞の影響があちこちに見て取れます。近隣のビジネスビルには空き室が目立つようになり、路上生活者の数も増えてきています。

ぼくの方も生活が少し変化しました。

ペット禁止のマンションの住人たちに追われて、いま吼えない番犬「マル」と一緒に、会社のビルの一室に蟄居し、早朝はいつも神田明神と近くの公園を散歩しています。上野駅が近いということもあるのでしょうが、路上生活者がこんなに多いのかと、改めて日本の現状を認識しています。米国では、路上生活者も公園の四隅に敵対的にねぐらを設営するという話を聞きましたが、こちらでは数人の仲間が集まってダンボールの城を築いています。野良猫に餌付けしてかわいがっている人たちもいまして、なんかほっとする気持ちになります。

「猫をいじめないでね」とマルに声をかけてくる路上生活の紳士には、マルもなついているようです。寒き折、くれぐれもお体を大切にと言いたいところです。

この神田明神裏の小さな公園には、ひとつの銅像が建っています。三谷長三郎という明治から大正、昭和にかけて真鋳を商って財をなした人らしいのですが、碑の説明によれば、彼はその私財を投げ打って学校にピアノ、映写機からプールにいたるまで多大な寄付を行い、さらには鉄道をしたてて夏には由比ガ浜で臨海学校を催し、冬には箱根において林間学校を催すなど、教育事業にも力を注いだとあります。

明治という時代には、このような人がいたのですね。いや、人にこのようなことをさせる空気が時代の中に流れていたというべきでしょうか。(しかもほとんどその名を知られていないということは、案外あたりまえのよう成功した商人が社会に財を還元するという行為が行われていたのかもしれません。商の倫理いまやむかしといったところです。)

最近では、私財を投げ打つほどの貢献というものに、ついぞお目にかかることがなくなりましたねぇ。自分を批判するものを盗聴するといった怪しげな経営者を批判する前に、そのような人物を成功者として育ててしまう時代をぼくたちはつくってきたということ、朝日新聞も、NHKも批判の前にそれに荷担しているのだという自覚が欲しいものです。

 

■ 情理を尽くす

 

芦屋駅ビルのカレーなかなか美味でごさいました。あのとき、隅っこの席にいたおやじが他の客になんか怒鳴っていましたね。「しずかにしろてめえら!ここはレストランなんだぞ」確かこんなことを言っていたようですが、ウチダくんと飯を食っているとよくこんな光景に出くわしますねぇ。何なんでしょうね。

なんか最近、渡世ってのは、他人とともに生きてゆくことだというあたりまえの常識が通じなくなっているような気がします。他人とともに生きてゆくということは、当然のことながら様々な我慢と妥協そして共感と信任といったアンビバレントな関係性を引き受けることです。それをあたりまえのこととして自分の風景の中に取り込んでゆくことだとおもうのですが、どうも他人というものが「異物」でしかないような「個」が生まれつつあるような気がします。このホッブズ状態って、消費文明の行き着いた「病巣」のように思えます。ここでは、確実に知性というものが減衰しているように見えます。

というのは、人間の言葉とか知性といったものが鍛えられるのは、言葉が通じないという経験や、知性が及ばない集団や共同体との交流ということの中にしかないと思うからです。

言葉が通じない、なかなか判ってもらえないというところで初めて「情理を尽くして語る」という言葉づかいが生まれてきて、そういった言葉の交流の中でこそ、相手に対する信頼や承認ということも意味をもってくるのだと思います。

言葉が通じる、自分の考え方がすべて理解されるという場所では、言葉は限りなく堕落してゆきます。それは、自分が属している共同体の中で自己完結するだけでなく、共同体の外に対しては排力を育ててゆきます。自分たちだけの符牒としての言葉は、それを使わないひとたちを敵として、あるいは異物として排除するための差別指標へといともたやすく転化してしまうということをぼくたちは随分たくさん見てきたわけです。

他人も自然も、そこに自分が存在する以前から「在る」という認識が「共存」するという発想につながってくるのだと思います。

そして、自分が存在する以前から存在しているものに対しては、どんなに理解不能な、わずらわしい存在であったとしても、かれらの先住権を認めるというのが、インテリジェンスをもった人間のマナーというものであると思うわけです。

そして、もし自らの存在自体がかれらの先住権を犯さねばならないというところでは、「情理を尽くす」以外の方法はないといってもよいのだと思います。

「お金で買ったり」「力で強奪したり」「機略でだましたり」といったことがあまりに日常的になったために、この基本的なマナーが忘れ去られているように思えるのです。

 

グローバリズムの進展と世界的な知性の後退

 

1993年はアメリカングローバリズムが、世界を席巻した年として記憶されるのでしょうか。

サダム・フセインの捕縛劇は何か、かつての麻原彰晃の末路を思い出させますが、米国が世界に流布している喜劇的な勧善懲悪の物語には、そのあまりの単純さゆえに、辺境の独裁者やカルトの教祖が振り撒いた毒よりももっとやりきれない「病理」を感じさせるものがあります。

この「病理」のよって来るところは何なのでしょうか。

We got him! と米国のスポークスマンは宣言し、会場は拍手と歓声につつまれました。

しかし、ハリウッド映画と違うのは、これで、幕が引かれるわけではないということです。第2幕が始まるというのも違います。明日も、あさっても極限まですすんだ持てるものと持たざるものの非対称的な世界のなかで、怨恨と高慢が、羨望と憎悪が、正義と慈悲が絡み合いもつれ合いながら延々と続いてゆくというやりきれない現実です。

冷戦後、イデオロギーが形作っていた世界の対象性というものが崩壊しました。ある意味で米国とソビエトというふたつの国が共同で作り上げた「冷戦」というプロジェクトとは、対称的なふたつの経済ブロックを政治的にも、経済的にも競争しながらも「バランス」させるという、知的なプロジェクトだったわけです。

ソビエトの崩壊とは、ロシアマルクス主義というイデオロギーの敗北であるとか、社会主義経済圏の失敗であり、資本主義の勝利であるというのは、たやすいですが何も言ったことになりません。

人も国も、自らとは異なるもの、理解できない「外部」に対峙して、対称的にバランスさせるという「知恵」の後退、あるいはこの知恵を使うために必要な「忍耐」の減退ということが覇権国の中で起こっているように思えてなりません。

世界を「正義」と「邪悪」という二分法によって理解しようとするところからは、「バランス」という知恵は働きようがありませんよね。世界は一方的に「正義」だらけにならざるを得ません。「正義」が敵視し、排除するのは「邪悪」だけではありません。

「正義」は、それを信奉する陣営に与しない共同体や個人をまさしく政治的に分別する指標として働きます。敵か味方か。敵の敵は味方であり、敵の味方は敵であるというポレミックな世界観ですね。

ひとつの「バランス」が崩れ去ったために、世界中のさまざまな場所で小さなバランスの崩壊が起きているように見えます。そして、それは個人の意識の中にも色濃く反映されてきています。

ブルートゥルーアメリカの正義を信じる澄んだ目も、イスラムの正義を信じる澄んだ目も、世界を一つの色に染めたいという思想に憑依された目なのかもしれません。ぼくは、黄色くにごった目をした思い惑う人こそ今必要なのだと思っています。

冒頭でも書きましたが、自分たちとは違うやり方でやっている「先住権」をもった人たちがそこに「在る」ということ。そして、そのような人々に対して、かれらを認めてあげるのではなく、自分が認めてもらうためには、どのような言葉づかいとマナーが必要なのかということを考えることが、インテリジェンスということの意味なのではないでしょうか。

では、その言葉づかいとは何処からやってくるのか。

その答えは、ウチダくんが前回書いた次のフレーズの中にあるように思えるのです。

身体はたぶん「真理と政治のあいだ」の、あるいは「理念と現実」のあいだで「平仄が合っている」ことを「気持ちよい」と感じることのできる器官なのだと思います。

自らの太古的な身体が発している言葉を聞く能力が退化してきているというのが、今の現実かもしれません。

 

大学にインテリジェンスはあるのか

 

「話のつじつまは合っているんだけど、なんだか腑に落ちない」とウチダくんは書きましたが、こういうことって多いんだよね。そして、その場合最終的にはやはり、話のつじつまのほうに綻びがでてきてしまう場合が多いですね。

これって、ロジカルに言えば、「部分最適、全体不適合」ということなんだろうと思うのだけれど、部分最適と全体とをつなぐ道筋はある程度時間がたたないとなかなか見えてこないものです。最近の企業戦略に見られる「ベストプラクティス」なんていうのも、非常に部分的な知性の使い方のように思えます。

論理的には確かに辻褄は合っているよな。だけどなあといった居心地のわるさを感じるということには、根拠があるのだと思います。部分最適といった合理性に対して身体のほうが「腑に落ちない」「納得できない」といった拒絶反応を示すわけです。この身体反応は非常に重要で、なおかつ正直なものです。何の戦略も奇策もなく、ただただ生存への脅威となるかもしれないものに対して、アラームを発するわけです。ウチダくんが言っていた「わたしの身体は、わたしの頭よりあたまがいい」のだということですね。

前回ウチダくんとお会いしたときに「次回からは大学問題」を俎上に上げようとお話したのは、まさにわたしの体の中でひとつのアラームが鳴っているというところがあったからです。

いま、大学が激しく変化をしつつありますよね。この変化に対する圧力が何処にあるのかというと、二つあると思われます。一つは国立大学の独立行政法人化に見られる、行政改革の圧力です。これは銀行などの護送船団方式の廃止、年功制度の廃止、時価会計制度、株主主権、自己責任制度などの導入、市場の開放と国際会計基準の採用などと一連の動きだろうと思います。そして、その背景にはアメリカングローバリズムの急激な進展という風圧があって、小泉行政改革も国際競争力を保持してゆくためという理由からこれを採用しているわけです。

これにより、確かに企業買収が進み、労働資本の流動化が加速され、結果として経済の活性化につながるという道筋です。これに対してはもちろん導入のタイミングの問題があるのでしょうが、グローバリズムの進展というものが資本主義的には自然過程としてとらえられる以上、これに対処するための制度改革はやむ終えぬといった国民的な合意形成がなされつつあると見てよいのかもしれません。

確かに論理的につめてゆけばこの道筋が合理的なものであるように見えるのですが、なんか腑に落ちないといった感覚も国民的な合意の中には含まれているのだとおもいます。

なぜこれが腑に落ちないのか、これを論理的につめるのはなかなか難しいのですが、ぼくたちはこれを回避してはならないと思っているわけです。そして同時に大学という「企業社会の辺境」にある組織も、グローバリズムで押し通していいのかどうかという問題は、これまで上記の文脈であまり考えられてはこなかったのではないでしょうか。

もう一つの圧力は、日本固有の、あるいは先進人口減少国特有の問題で、急激な人口減少によって大学のマーケットが縮小してゆき、供給過剰である大学は淘汰されざるを得ないというものです。

このふたつの圧力(グローバル化とマーケットの縮小)は別々のもので、まずはこれを整理して冷静に大学のあるべき姿をさぐるべきであろうと思います。つまり、グローバル化という問題は国庫を拠出して行われている国立大学運営の制度的な問題で、これまで治外法権的に市場の論理から守られていた大学を、市場の中に放り出すから自分たちの責任で運営してみろということだと思います。ようするに自分で稼いでみなということです。

一方、マーケットの縮小という問題に対しては、大学は商品差別化でこれに対応しようとしているわけですが、マーケティングなんてまったくやったことのない大学が、あわてて売れる商品を開発しようなんで考えるもんだから、実学優先の学科がクローズアップされて、教養一般の学科の予算が削られるという方向なのかなと思います。(現場ではどうなんでしょうか?)

結果としてはこのふたつの圧力に対して大学は、いまのところひとつの答しかもっていないように見えます。つまり即戦力的、実践的な人材の供給源になることです。

また、企業社会のグローバル化に対応できる人材育成ということで、国庫から補助金やら援助金が拠出されるというので、それにあわせたMBAやら、MOTといった大学院をつくっているわけです。

でもね、大学って実践的なスキルの供給源って考え方でいいのかなと思うわけです。

勿論、それがあるのは構わない。でも大学改革の切り札がそれしかないというのは、インテリジェンスの府としては、ちょいと寂しすぎるのではないの。いや、大学で実践的なものなんて本当は教えられないんじゃないのというのがぼくの素直な最初の直感なのです。

というわけで、これらの論件に対してウチダくんからの現場報告をお聞きして、それからぼくのほうからは企業側が本当に求めているものは何なのかというように話をすすめられたらいいのかなと思います。

 

もうすぐ正月ですね。

すこしは、ゆっくりできるのでしょうか。

炬燵で蜜柑、温泉で熱燗。疲れを癒してください。

 

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