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tokyo fighting kids

その20

2004年2月15日

内田樹から平川克美くんへ

 

■ マザーシップ再論

 

ぼくも吉本の太宰の話はよく覚えています。

いい話ですよね(「髭を剃れ」というのが渋いです)。

「マザーシップ」ということばは英語だと「母船」の意味で、「母性」は、mother-hood なんですけれど、ぼくは「マザーシップ」という語感が好きです。

「母性」というと本質的な、母親であるものに「内在」している感じがするけれど、mother-ship だとcraftman-ship とかfriend-ship と同じように、「経験的に習得された後天的資質」というニュアンスが何となく感じられますからね。

「母性」をめぐるフェミニストの議論で欠落しているのは、ぼくたちにほんとうに必要なのが生物学的母性や親族名称としての「マザーフッド」ではなくて、生物学的性差とはかかわりなく、「ハーバーライト」とか「センチネル」という社会的機能を引き受ける「マザーシップ」である、という論点じゃないかなと思います。

マザーシップは誰にとっても必要不可欠なものであり、それを担う人間は生物学的に女性である必要も、母親である必要もないということをおそらくレヴィナス老師は『全体性と無限』の「家論」で展開したのではないかとぼくは思います。

でも、こういうことって、分かる人にはすぐ分かるし、わかんない人にはわかんないんですよね。

ぼくがレヴィナス先生とパリのお宅ではじめて会ったとき、先生は奥様が病気で入院されていて、お一人で暮らしていました。

そして、話がひとしきり済んだところで、先生は「じゃ、せっかくですから、一杯頂きましょうか」と言ってひょいと台所に立たれて、小さなグラスを二つと半分空いたコワントローの瓶を持って居間に戻ってきました。

先生がコワントロー好きということをその前にレヴィナス先生のところを訪ねた西谷修さんに聞いていたので、ぼくはお土産に酒屋で買ったコワントローを持っていったのですが、先生はそれを暖炉の上に置いて、台所からご自分用の瓶を持ってきて、それをグラスに注いでくれたのです。

まあ、どうでもいいような話ですけれど、ぼくがレヴィナス先生とお会いしたときのことで、いちばん印象に残っているのは、この「台所に立って・・・」というところなんです。

ホスピタリティというのは、ことばの準位の出来事ではなくて、「飢えている人に自分の口にあるパンを与え、渇いている人に自分がのみかけている水を与えることだ」ということをレヴィナス先生は書いておられるのですけれど、慣れないフランス語での会話で緊張してへとへとになっていたぼくにレヴィナス先生が注いでくれたコワントローはまさに「渇いている人」へ「のみかけの水」を分け与えてくれたような、忘れられない甘露でした。

同じようなホスピタリティをぼくは合気道の師匠である多田宏先生にもよく感じるのです。

毎年お正月に多田先生のお宅にお年賀に伺うのですが、先生はずっと台所に立って、ぼくたちのためのおつまみやお雑煮を作ったり、ワインを選んだりされていて、ほとんど席を温めるひまもないのです。

何年か前にちょっと台所を覗いたら、先生はピンクのエプロンをして鶏肉のお雑煮にじゃぼじゃぼと天狗舞を注いでいるところでした。

「せ、先生、それ、天狗舞じゃないですか」

とぼくが驚いて言ったら、先生は

「うん、これをいれるとうまいんだ」

と言って、さらにどぼどぼと鍋に美酒を惜しげもなく注ぎ込んでいたのでした。

ぼくはレヴィナス先生と多田先生という二人の師匠をもつことのできた、たいへん「師匠運」に恵まれた人間なのですが、このお二人がぼくに与えた印象はどこか似ています。

それはきわめて男性的な哲学を語るレヴィナス老師と、秋霜烈日のすさまじさを発する多田先生が、底知れぬ「マザーシップの人」であるということではないでしょうか。

弟子たちに持てる限りの智恵と技術を惜しみなく与え、決して不出来な弟子を「批評」しない、という点でもお二人はよく似ています。

ぼくが「ハーバーライト」とか「センチネル」というような社会的機能にこだわりを持つのは、ぼくが師匠たちから学んだ「マザーシップ」のぼくなりの解釈なのかもしれないと思います。

 

■アメリカと父

この往復書簡は「アメリカ論」としても読めるくらいにアメリカのことがよく出てくるのですが、アメリカ文化の特色は、そこがきわだって「父性的」な社会であって、「マザーシップ」の価値が非常に低くしか評価されていない、ということにあるような気がします。

そう考えると、家父長的な価値観に対する対抗軸として語り出されたアメリカン・フェミニズムという思潮が、きわだって「父性的」であるという逆説も納得がゆきます。

家父長的な抑圧からの解放の道筋が「女性自身もまた父性的なもの(権力や威信や財貨や情報や性的魅力や、およそひとから「羨望」される諸価値を占有する存在)になる」というかたちでしか考想されない、という点で、アメリカン・フェミニズムもまた端的に「アメリカ的」なのかも知れません。

先日のインターネット日記にも書きましたけれど、90年代以降のハリウッド映画のヒロインはほとんど例外なく「眉をひそめ、口をへの字にまげ、烈火のごとく怒り、ドアをばたんと閉め、電話をがちゃんと切り、男をはり倒す」というふるまいを「いちばん自分らしい自己表現」のしかたとしています。

いったいどうしてハリウッドのフィルムメーカーたちは、これが当の女性たちや子どもたちが長くその被害者であった「父たち」の粗暴な作法の、彼女たちがいちばん傷つけられたふるまい方の繰り返しであることに気づかないでいられるのでしょう。

これを説明できる理由として、かの国にはそのことばの純正な意味での「マザーシップ」というものが根づいていない、ということしかぼくには思いつきません。

アメリカで「マザーフッド」と呼ばれているものは、おそらく「ママのアップルパイとエプロンの日向の匂い」というような幻想的な準位にあって、ひさしく家父長的な価値の補完物でしかなかったのでしょう。

それ自身の価値をそれ自身で基礎づけることのできるような自立した「マザーシップ」、知恵と力に裏づけられた「マザーシップ」というものを、アメリカ社会は少なくとも過去百年間は、人類学的装置として評価するだけの文化的基礎をもっていないようにぼくには思えます。

でも、人間はもちろん「マザーシップ」なしには生きてゆけません。

では、アメリカ社会で「マザーシップ」の社会的機能を担っているのは、誰でしょう?

ぼくの見るところ、どうやらアメリカでは二種類の人間たちがそれを担っているように思われます。

「ゲイ」と「じいや」です。

ゲイが「マザーシップ」の担保者であるということはすぐに分かると思います。

アメリカでは「美術関係」と「現代詩関係」者はまず例外なく「ゲイ」だということになっているそうですが、これはむしろアメリカ社会が「マザーシップ」を人格のコアとするようなタイプの男性を組織的に「非男性」にカテゴライズしていることの結果であろうとぼくは思っています。

高校時代にフェルメールの絵を見たり、ランボーの詩を読んでいたりする男の子は、クラスの「フットボール少年」あたりに「ゲイだろ、お前」と決めつけられて、「そ、そうなのかなあ・・・」と心理的に強いられ、そんなふうにして組織的にゲイ・ピープルが育成されているということはないのでしょうか(このへんはハリウッド映画からの情報なので、わりといいかげんですけど)(『ロード・オブ・ザ・リングス』の主人公のイライジャ・ウッドくんなんか、そういう非男性的な感じじゃないですか?学園ホラーものの『パラサイト』では「いじめられっこ」をやってたし)。

マザーシップのもうひとりの担い手は「じいや」です。

これもたぶん異論のないところでしょう。

『アンクルトムの小屋』の「トムじいや」、『ハックルベリー・フィンの冒険』の「ジムじいや」、『赤毛のアン』の「マシュー」が「じいや」たちのおそらくは典型です(『バットマン』の執事のアルフレッドなんかもそうかな)。

彼らは奴隷であったり、性的不能者であったり、知恵おくれであったり、いずれにせよ父権制社会における「劣等な男性」です。

彼らの説話的機能はご存じのとおり「赦し」と「慰め」です。

それが彼らにできるただ一つのことです。それ以上の社会的活動は彼らには制度的に禁じられています。

要するに、アメリカというのは、女性が「マザーシップ」を体現しようとすると父権制を補完する「ママ」になるしかなく、男性が「マザーシップ」を体現しようとすると、「ゲイ」になるか「劣等男性」になるしかないという、たいへんにタイトな社会ではないかな、とぼくには思われるのです。

まあ、こんなのは単なるスペキュレーションで、ちゃんとした歴史学的、社会学的なデータがあるわけではないのですけれど、なんとなく「そうかもしれない」と思わせるところがアメリカっぽいですね。

マザーシップねただけで一回分使ってしまいました。

でも、これはなかなか面白いネタでしたね。

ではまた。

 

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