その4

内田 樹から平川克美へ(2003年10月19日)

 

 

前回のメールから間を空けすぎてしまいました。ごめんね。

もうめちゃめちゃ、忙しかったんですよ。ほんとに。

ハワイなんて、もう遠い昔のことのようです。

ようやく締め切り間際の「セックスワーク論」の原稿を書き上げて、ほっとしたところです。ふう。

バイク、このあいだCB400Fで走り去る後姿を見送りましたけれど、楽しそうですね。

ぼくもつい半年前まではTW200に乗っていたんですけど、4年乗っていたはずなのに、オドメーターを見たら1700キロしか走っていなくて・・・それって、月平均35キロ、一日1キロじゃないですか。

「走り屋」の一応の条件が一日100キロ月3000キロと、昔読んだ『オートバイ』に書いてありましたが、20代のころは、たしかに月に1000キロは走ってましたからね。

そういうわけでバイクを降りて「原チャ」に乗り換えたわけです。(でも、原チャも200メートル先の「イカリスーパー」まで大根や葱を買いに行ったり、ツタヤにビデオ返しにゆくときは便利だし、快適ですよ。)

でも、そのうちにまたころっと気が変わってヤマハのSR400なんか買いそうな気もします。

バイクのコーナリングというのは、平川君が書いているように、かなり奥行きの深い身体経験だと思います。

今日はちょっとその「身体の未来像と、それへの同調」というテーマで書いてみたいと思います。

急カーブを攻めてゆくときにまず頭の中で車体の傾斜と速度をイメージします。

このときぼくは少し背後上空から俯瞰するというイメージポジションをとっています。これ、確かきみも書いていましたね。そしてイメージと現実が重なったりズレたりしながらオートバイはコーナーに入っていきます・・・

というなかなかポエティックなフレーズを平川君は書いていますが、 コーナリングの要諦は、どれだけ正確にコーナーを抜けるときの「体感」の下絵をあらかじめ描くことができるかにかかっています。

そんなことは年季の入ったバイク乗りである平川君にはあらためて確認するまでもないことですけど。

この「体感の下絵を描く」ということは、かなり汎用性の高い技法ではないかと最近気づきました。

直接のきっかけは、三軸修正法の池上六朗先生にお目にかかって、その治療の妙技を実地に拝見したことです。

こればっかりは平川君にも実見してもらう以外にうまく説明できそうもないのですが、とにかくびっくりしたのは、池上先生が自分の「体感」をクライアントに「浸透」させるというか「伝染」させてしまうことです。

横でずっと治療の実際を見ていて、「たぶんそうだろう」と推理したことで、まだ池上先生ご本人から「そうですよ」と確認を取ったことではないので、また今後修正されるかもしれないけれど、ぼくの見るところ、そうなんですよ。

ちょうど、バイクでコーナーに入るときに、クリッピングポイントをすこっと抜けて、コーナー出口で立ち上がる「感じ」を、コーナーに入るより「前に」体感できるとうまくコーナリングできるし、その「感じ」がつかめないで、リアルタイムのままコーナーに入ってしまうと、けっこうじたばたしてしまうということがありますよね。

それどころか、うっかりコーナーに入る前に、「ずるっと」リアタイヤが滑るときの「体感」なんかを想像したりすると、とんでもないことが起きてしまうということも、ぼくは経験しています。きっと平川君にも経験があると思います。

つまり、「未来の体感」がくっきりしていると、想像したとおりの状態が現出するように、身体の無数のパーツが無意識的に運動してしまう、ということだと思うんです。

だから、コンマ何秒か先の未来における自分自身の「体感」をひじょうにリアルに実感できる人間は、「未来の体感」を感知できない人よりも、はるかに効率的に、また精密に、身体を動かすことができる、ということです。

そして、この次が肝心のところなんですけれど、非常にリアルに体感の輪郭を描くことができる人は、その体感をすぐそばにいる人間に「送信」することができる、とぼくは思うのです。

これは多田塾合宿で集中的にやっている「気の感応」の稽古の目的でもあります。

自分の体感を相手に送ると、相手がこちらの「体感のとおりに」反応するのです。

いちばん一般的な訓練は、二人で呼吸を合わせてから、一人が相手の後ろにまわって背中に両手を置いて、いっしょに歩き出すのです。そして、「右」「左」を指示します(もちろん、黙ったままですよ。相手の身体が「ぐいっと」曲がる体感そのものを送るのです)。

これがまことにふしぎなことに、気の合う相手とやるとすぐ80%くらいの確率まで上がるのです。そうすると、こんどは片手にして、それでも80%ゆくと、手を離し・・・しだいに遠ざかってゆきます。歩き方ももっと複雑になって、「斜め右前」「斜め左前」「斜め右後ろ」「斜め左後ろ」「反転」「停止」も入れて8種類の運動体感を相手に送るのです。

これがね、当たり出すとすごいの。

体感の信号を送られている方の気分は、「ふと忘れ物を思い出したように」、身体が自然にある方向に「行きたくなる」んです。

このとき「さっきから右、左、右、左ときたから、今度は右かな、それとも裏をかいて左かな・・・?」というふうにさかしらな計算をするとまるでダメなんです。

頭は介在させちゃいけない。

しいて言えば、深層の身体感覚を相手の身体深層に送る、というような感じです。

それも図像的なイメージじゃなくて、筋肉とか骨格とか内臓の「感覚」に近いものです。

この稽古をたっぷりやったあとに、体術や杖術をすると、明らかにわざに「甘み」が出てきます。こちらの思い通りのところに相手の身体が「すっと」入るのです。

平川君も経験的に分かるでしょうけれど、筋肉や骨をいくら鍛えても、ある段階以上にはなりません。フィジカルな速さや強さには限界があります。

けれども、もし、相手の身体をこちらが無意識的にコントロールできれば、それは活殺自在ということですよね。

だって、「ここで転べ」と念じると、相手が「ころっと」転んでくれるわけですから。

まあ、そういう不利な体勢を取らせるのは、向こうも無意識的な抵抗が働くでしょうから、簡単にはゆかないでしょうが、本人にとって、それほど苦痛でも不安でもない体勢へ誘い込むことは、それほどはむずかしくはないはずです。

というわけで、最近の合気道の稽古では、その「気の練磨」を中心的な技術的課題として稽古をしているわけです。

そこで、話は戻るのですが、池上六朗先生の施療を見たときに、「おお、これは『気の感応』だ」とぼくは思ったわけです。

つまり、池上先生は、相手の身体のアラインメントの狂った箇所を一見して察知される(これは経験のある治療師にとっては、それほどむずかしくないことみたいです)。しかし、そこにうっかり手を当てたりすると、無意識的に人間は患部を緊張させて、その狂ったアラインメントを死守しようとします。

そこで、池上先生は、まず「アラインメントが正常に戻った状態の体感」を送信するのだと思います。すると、クライアントの身体は、潜在意識レベルで受信した池上先生の「体感」に共振して、自発的にアラインメントの修正を行う。

だから、ほとんど患者の身体に触らないで、それまで執拗に痛んでいた患部の痛みが消える、というような「マジック」が起こるのではないか。

私はそんなふうに想像しているのです。

池上先生はいろいろな不思議な「治療具」を使います。

たぶんそれらは、その道具自体に治療効果があるのではなく、池上先生ご自身の体感を明瞭にさせ、患者の身体に送り込むための、「発信機」に類したものじゃないのかなと私は思っています。

話はだいぶ脱線してしまいましたが、「未来」とか「過去」というのは、だからデジタルな境界線で分断されたものではなく、もっともやーっとした感じで、現在の中に「入り込んでいる」ような気がします。

過去はまだ去っておらず、未来はもう来ている。

それが最近ぼくがフィジカルに感じ取っている「時間感覚」です。

この時間感覚をふまえて、ハイデガーの『存在と時間』の時間論を読み込み、そこから一気にレヴィナス先生の難解きわまりなき時間論の解説に踏み込んでみようかしら、というのがこのところのひそかな構想なのであります。

 

さて、消費論については、もう少し平川君の話を拝聴するとして、1994年のアマゾンドットコムの出現がビジネスワールドの構造変化のメルクマールである、という指摘は興味深いです。

「起業家候補の若者たちの言葉づかいは投資家の言葉づかいになったということ

です。そして、起業家の言葉づかいというものが見えなくなってきたのです 」

と平川君は書いています。

非常に雑な言い方をすれば、伝統的な経済活動というのは、「存在するものを売り買いする」ということだったわけですが、投資というのは、「まだ存在しないものを売り買いする」ということですね。

平川君の言い方を借りれば「お金でお金を買う」のが、たしか投資という活動の本質なわけでしたね。

貨幣の本質とは?という問いになると、話が長くなりますが、岩井克人さんの定義にならって、「貨幣とは交換を加速する運動である」ということになると、投資というのは、「運動で運動を買う」ということになります。

貨幣のすごいところは、商品であれ貨幣であれ運動であれ幻想であり、なんでも売り買いできるということですね。

そこが「究極の商品」である所以なんですけど。

ぼくはこのような事況そのものは貨幣経済のもたらす必然であって、別にあわてるほどのことはないと思うのですが、それでもやはり、「貨幣で貨幣を買う」ことになんらかの意味があるのは、「そうやって買った貨幣で買える商品が存在する」ということですよね。

その最終的な裏づけがあやうくなると、貨幣は紙くずですから。

貨幣経済の運動について注意すべきことは、「過剰に貨幣が運動すると、ものを作る動機づけが弱くなる」ということだと思います。

「ものを作る」ことの動機づけを100%「対価として貨幣を得ること」に収斂させてしまうと、「貨幣で貨幣を買う」運動を抑止することができません。

ですから、ほとんどの「もの作り」たちは、「対価として貨幣を得ること」以外に、そのような交換の場とは相対的に独立した準位に、「ものを作ること」それ自体に内在する意味や価値や愉悦を見出してきたのだと思います。

クラフトマン・シップとか、「手沢」とか、「プロのこだわり」とか言うものは、そういう「貨幣の自己運動を抑止する」ために「ものそれ自体の価値」を商品に塗りこめる手続きだったと思います。

企業家がいなくなって投資家ばかりになる、ということは「ものそれ自体の価値」という貨幣の活動を最終的に担保する商品幻想の基盤が脆弱になるということであって、短期的にはにぎやかなことでしょうが、長期的には持たないとぼくも思います。

言語論的転回以来、ひさしく、「ものそれ自体の価値」を語ることは「19世紀的な実在論」として貶められてきましたけれど、「20世紀的関係論」も、ポストモダンも、もう食傷しちゃったぼくとしては、久しぶりに、「もの」には「もののけ」が霊的に内在しているのであるというような理説に復活してもらいたいなと思っています。

ポスト・ポストモダンは「プレ・モダン」への回帰というより、「太古的なもの」の甦りではないだろうか・・・というようなことを感じる今日この頃のウチダでした。

では、寒くなりましたけど、バイクで風邪ひかないでくださいね。

んじゃ。

PS・池上先生の術理については、『秘伝』の今月号にけっこう詳細なインタビューが掲載されています。ついでにぼくもちょろっと出てますので、本屋で立ち読みしてね。

 

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