その7

 

平川克美から内田 樹へ(2003年11月10日)

 

ひむかしの

のにかぎろひのたつみえて

かえりみすれば

つきかたぶきぬ

 

多摩川の朝の光景を見ているとついこんな古歌が口の端に上って来ます。

高橋源一郎がリービ英雄をうつくしい日本語の発見と評して引用した一句でもあるこの歌の光景そのままに、ゆらゆらと東の空に太陽が浮かんでいます。

11月だというのに暖かいのですが、これからどんな冬景色が訪れるのか楽しみです。

(今年の冬はこたえるだろうなと書いた舌先の乾かぬうちの前言撤回だね。)

それはぼくが多摩川に移り住んでからずっと、いやウチダくんも下丸子(なつかしいでしょ)に住んでいたそのときからずっとそこに「あった」のですが、宵っ張りのぼくたちには気づかずにやり過ごしていた光景です。

今朝は、渡り鳥が列をなして西の空へ移動してゆく光景を、何か神秘的なもののように眺めていました。

こういった日本浪漫派的な光景を、あるときぼくたちは選択的に排除していたということなのだと思います。

あるいはアドレッセンスのさなかにこんな光景に耽溺したら、もうたまらんという防御機制が働いたのかもしれません。でもまさに、消費資本主義の断末魔に「古代的なものの甦り」(けだし、名言!)にもういちど出会っているという訳です。

 

それから、もうひとつ驚いた発見があります。

それは、土手に行き交う見知らぬ同士が「おはようございます」「おはようございます」という挨拶を交わしていることです。まさに、小津安二郎の世界がここでは続いていたんですね。昼間は見知らぬ他人として行き交うであろう人々が、挨拶を交わすためには何かが加担していなければなりません。それはまさに夜明けの多摩川という都会では稀有な「場」を共有しているという共同体的な意識なのかも知れません。

言葉というものが、何故発明されたのか。たぶん、挨拶を「送る」ためだという意味のことをウチダくんも書いていましたね。

言葉を送るということから「贈与」と「応答」に続いてゆく人間の関係にまつわる尽きせぬ論題がここにはあるのですが、ひとつの論文になってしまうので、そろそろ本題に入りましょう。

 

■ニーズとウオンツあるいは人々の限りない欲望について

 

日下君人によれば、マクロ経済学のそもそもの間違いは、アダム・スミスがニーズと言わずにウオンツとかデザイアと言ったということにあるそうです。 

供給と需要なら「神の見えざる手」によってバランスするが、ウオンツは充足することがないので、利益の最大化などという地獄の経済学がはびこるようになったというのです。アダム・スミスの原文を読んでいないので「需要」の原語がどうなっているのかわからないのですが、日下氏の言わんとしていることには、ポスト産業資本主義の本質に関わる重要な指摘があると思います。

産業化、工業化の発達の過程で世界の隅々のニーズが満たされてゆくというような需要の増大に伴う右肩上がりの時代が、世界のいつくかの先進資本主義地域で飽和しはじめ、総需要の減衰傾向を示し始めています。総需要の減衰という傾向は人類がかって経験したことのない事態です。 

ドラッカーは、これを「好天型の経済モデルは、雨天のときには役に立たない」と言っています。

ウチダくんがHPの「日記」にも書いていたように、日本においては人口減少がこれに拍車をかけて総需要のシュリンク現象が起こってきているわけです。

もんだいはアメリカも日本も、この文脈に従えば「雨天のとき」をまだほんとうには経験しておらず、誰もその処方について確かな事例を持ってはいないということにあります。ウチダくんのご指摘のように、ここでは還元する既知が見当たらない。 

そして、未知に対しての対処するような知性もまた、持ち合わせてこなかったといえます。

ポスト産業資本主義の時代になって、「必要は供給の培地」であることを終えたのです。

かわって、サプライサイドは人々の欲望に点火することで、需要を創出しようとしています。

これもウチダくんから教えてもらったことですが「欲望は他者の欲望を欲望する」という性格をもっていますから、無間地獄的に需要を創出できるというわけです。阿片ですね。

さて、もんだいはその先にあります。欲望の具体的なかたちは、「エルメスのバッグ」であったり、「フェラーリ」であったり、もっと即物的に「お金」であったりするのですが、なぜニーズを遥かに凌駕しているこれらのものが人々を呼び寄せるのでしょうか。花子の持っているあれが欲しい。マサオと同じフェラーリが欲しいと、なぜ思うのでしょうか。

確かにニーズ(=必要性)が満たされているのになお必要なものはあります。

それは、お金では買うことができないものであり、他人とは交換できないもののはずです。

一方、お金では買うことのできないものを、販売する。つまり、通常は流通しないものに市場性をもたせる。これが消費資本主義におけるマーケティング課題となったわけです

一杯一万円のコーヒーというものがありました。これは勿論店主のジョークなのですが、一万円とは何の価格なのだろうかと考えてみました。

ウチダくんには勿論おわかりのように、1万円は「蕩尽」のための「機会」の価格なのです。

端的に言えば、蕩尽ぶりを人に示して、賞賛を得るための価格ということになります。

一人で、黙って一万円のコーヒーを飲む馬鹿はいませんが、賞賛のためならあるいは妥当な価格になりうる可能性は否定できません。「面白い人ね」といって絶世の美女が言い寄ってこないとも限らないからです。(そんなこたぁ、ないか。)

欲望に点火するようなサプライサイドは、モノの付加価値として、「お洒落なライフスタイル」とか、「究極の贅沢」とか、「できる男」とか、「自立した女」とかいったブランドイメージを作り出します。そして、消費者は、お金を払えば自分が「できる男」になったり、「自立した女」になったりすることができる訳です。

それでも、どうしてもお金で買えないものは残ります。それはウチダくんもよく書いているように他者からの「リスペクト」だろうと思います。リスペクトだけはお金では買うことができません。人に強制して得られるものでもありません。

リスペクトや愛情といったものはただ人と人との心的な関係の中にあるもので市場に「流通」しているものではないからです。そして、お金では買えないというその不可能性が、代理行為としての「フェラーリ買い」にさらに拍車をかけるという構造を作り出します。

ニーズを超えて人が高価なものを手に入れたいと思うのは、擬似的にリスペクトの象徴である、簡単にお金では買えないものを所有することで、リスペクトへの飢渇を癒そうとするからかもしれません。人はなぜ、車や高価なバッグや、白亜の豪邸といったステイタスの象徴をリスペクトのイコンであると錯覚するのでしょうか。

これらのものは、リスペクトのイコンではなく、羨望のイコンなのに。そして羨望は成長して憎悪となり、世界規模で広がれば紛争の引き金にもなります。エイミー・チュアというイエール大学の若い学者は、壮絶な南北格差が世界に混乱と流血を生み出している現実を活写しています。世界規模で広がる富のとてつもない格差は、それが自由な競争の名のもとに行われながら常に勝者をアングロサクソンと華人にもたらす結果となり、やがて民族紛争という形で噴出してくることになります。

 

■アメリカ

 

前のメールでアメリカが象徴する思考の型ということに触れました。そこでは触れなかったのですが、「敬意」というものが「力の象徴」によって計測されうるというような考え方こそが今のアメリカの思考の型であるといいたいのです。

アメリカン・ドリームといいます。

持たざるものが、一攫千金、金と力を手に入れ人々の尊敬まで勝ち取ります。そういう機会(チャンス)は誰にでも公平にあるのだという物語。アメリカではステイタスとリスペクトがむすびつくという虚構が必要でした。

人がこころから欲しいのは、金では買えないもの。唯一無二のものです。それが「人々のリスペクト」であることは論を待ちません。 

しかし、先住民族を平伏させ、未開の自然を開拓してゆく原動力として競争原理を採用し、それを発展のドライビングフォースとするためには、「勝者には何でも与える」「金で買えないものはない」という虚構がどうしても必要だったのではないでしょうか。

金で買えるもの。パワー。ステイタス。人々の尊敬。ほんとうはすべて虚構です。

でも、パワーの象徴としての高級車も、ステイタスの象徴としての城砦のような家もお金を支払えば手に入ります。そして、コミュニティに寄付をしたり、美術館を建設したりすれば尊敬さえ手に入るかもしれません。確かビル・ゲイツも博物館をつくりましたね。

ぼくは開拓時代から始まって、右肩上がりを続けてきたアメリカが採用した「市場主義」と「民主主義」というイデオロギーにこの思考タイプの原型があると考えています。

それぞれに、人類の理想のモデルだと思われたこのふたつのイデオロギーが合体したとき、まさに「共有地の悲劇」が地球規模で展開したのです。

このふたつのイデオロギーを駆動する原理は自由な「競争」であり、アメリカは建国以来「競争」原理だけは保持し続けました。そしていまはこのイデオロギーを南米諸国やユーゴ、アフガニスタン、そしてイラクにまで出かけていって流布しようとしています。

(何でそこまでやるのかね)と思いますが、このふたつのイデオロギーは、一つの国民国家の枠の中では充足しないという性格をもともと持っていたとはいえないでしょうか。

市場主義も民主主義も定義するのが困難な概念ですが、共通するのは富も権利も競争によって奪い取る対象であるという闘争の原理です。

アメリカの学校ではよくディベートが行われます。自分がそれを信じているかどうかに関わらず、自分に与えられた「考え」で相手を論破できるかどうかを競うというものです。日本にもこういったものを学校教育に導入すべきであるという馬鹿もいましたね。

ビジネスの世界では、「戦略」ということになります。

ビジネスも戦争にしちゃいました。

ぼくは、基本的に「戦略」的な思考が嫌いなのです。なんか、下品というか「美学」がないんだな。

市場主義と民主主義に欠けているものは、ウチダくんの語法にしたがえば、それらを受け入れない人々による批判や、誤解、不服従を同時に引き受けるという知性です。多数決という手続きも、その本来の意味を失って、白黒はっきりさせるための手段に変容します。

「じゃ中をとって」とウチダくんは書いていましたね。これはイデオロギーの対極にあるふるまいです。

ディベートで相手を論駁するのではなく、双方で譲るということを考えるというような「知」のあり方にぼくは大きな共感を覚えます。中をとるには相手に譲るという態度が必要であり、相手に譲るためには勝たねばならないという強迫観念を捨て去る必要があります。つまり、勝ち方を学ぶのではなく、負け方を学ぶほうがいいということです。ディベートの対極にある思考訓練が必要になるわけです。

太宰治の「新釈諸国話」の中に「貧の意地」をいう佳作があります。このなかで、気の弱い主人公は自分の不利になる事に関してはとても雄弁に持論を展開しますが、自分の利に関しては照れてしまってへともどしてしまいます。そういえば、「照れる」というアメリカの知性を聞いたことがありません。

 

■未来の体感

 

居着きというテーマを時間軸の中においてみるとは、大変面白い着想だと思います。

「武術に限らず、この戦略は人間の経験するあらゆる「外傷」に適用可能であるもののようにぼくには思えます。」とウチダくんは書いています。

かつて、将棋の米長邦雄が勝利の方法に触れて序盤から勝ったときの駒配置をイメージしながら打つというのを読んだことがあります。つまり、勝った時の未来の「鋳型」にむけて現在を流し込んでゆくイメージです。ムサシ選手と共通するものがありますね。

自慢話になりますが、かってアーバン・トランスレーションのころ、「平川は同じことをしているのに、どうしてあんなにたくさん注文をとってくるんだ」といわれました。

これについては、ぼくは密かに自信をもっていたのですが、一般的には営業マンにとって、注文をとった後が顧客で、注文を取る前は顧客予備軍というふうにふるまいます。ぼくは、注文のあるなしにかかわらず、初対面の相手にもすでに10年来の顧客であるというようにふるまいました。だから、一度も注文をとれなかったけど、いまでも覚えているほど親密な顧客関係にあった人たちがたくさんいます。

これは、いわゆる「ゴール」を設定してそれに向けて現在を加工し戦略的にふるまうというようなものとはまったく異なるものです。(あれだけ、ゴール思考を批判したぼくとしてはそういわざるを得ませんが。)

あえて言えば、未来を現在の中に絶えず繰り込んでゆく、あるいは現在の外延に未来を常に体感するというような「感性」のひとつのあり方であるような気がします。

市川浩がその身体論の中で、岩の隙間をあやまたず泳ぎぬける魚には、身体の表皮の外延にもうひとまわり大きな身体性を持っているというような意味のことを書いていましたが、これを時間軸に適応すれば、「時間の外延を現在の中に持つ」という武道的感性になるのかもしれません。

そして、それが成立するためには必ず相手の暗黙の協力が必要です。敵の協力を取り付けるということ。

ハイデガーは何ていっているの。

なんか、これおもしろそうだな。

 

ってわけで、今回はあまりまとまりなくなってしまいました。

紀尾井町のパネルディスカッションに触れようかと思いましたが、余裕がなくなってしまいました。

 

それでは、また。

 

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