« 2007年03月 | メイン | 2007年05月 »

2007年04月 アーカイブ

2007年04月15日

質問・55 男女の友情って、ありえないのでしょうか?

Q:
いつも楽しく拝見させて戴いております。初めて相談いたします。
大変子どもっぽい質問で恥ずかしいのですが、男女での友情というのはあり得ないのでしょうか?
昨年、合宿中に、仲の良かった友人と何となくいちゃついてしまいました。性交渉もなく、ただ恋人同士のようにじゃれていました。その場では付き合おうとなったのですが、数日で冷めてしまい、私が彼に振られる形で白紙に戻りました。しばらくは以前通りの状態に戻っていました。私は他の男性と出会い、彼には少しも未練がありませんでしたし、この事は一夜の恥ずかしい思い出として二人で笑い飛ばすつもりでした。しかし最近の彼は、私にとても冷たい態度を取っています。先日、ああいう事の後で友人同士に戻るのは不可能だとはっきり言われました。かなり泣きました。彼は同じゼミの数少ない同期で毎日顔を合わせる存在なので、彼が目も合わせず話もほとんどしてくれない今の状態は悲しいです。そしてそれまで数年間の、友達としての良い関係や楽しい思い出まで捨ててしまうのは、あまりに辛く思います。ただ、私が彼との友人関係を修復したいと願うのは、いつか恋愛関係を成立させたいという意味ではありません。側にいたいけれどベッドは共にしたくないし、今は助け合いたいけれどずっと寄り添いたいのではありません。しかし、今私がお付き合いしている男性とは、側にいたいし、ベッドでも一緒にいたいし、助け合いたいし、まだまだ寄り添いたいです。
正直、恋愛や友情というのが何かもわからなくなってきています。彼氏と一緒にいる時でも、友人との問題が気になって仕方ありません。私が二兎を追っているようにも感じられて、もうわけが分かりません。
結局、個人的な話に終始してしまって申し訳ないのですが、何かご助言戴ければ幸いです。
(匿名希望・21歳・女)

A1:by釈
たぶん、脳や心の領域で考えるなら、恋愛と友情はかなり重なり合うメカニズムじゃないですかねぇ。よく知らないけど。
匿名希望さんの文章は、前半「男女の友情は成り立つか」という問いなのですが、最後のほうはなんとなく「揺れる女心」という感じですねぇ。ここでは、微妙な思いを推し量ることはやめて、「男女の友情」に絞って応えてみます。
結論から言いますと、男女の友情は成立します(実例、いっぱいあり)。また、かつて性交渉があった場合でも、成立する可能性はあると思います。
ただ、成立するための条件がいくつかあります。
まず、異性との友情を維持するためには、自分の中の異性が発達していないとだめです。男性の中の女性(アニマ)、女性の中の男性(アニムス)ですね。ほら、性の境界があいまいな人(性は単純に男女で二分できません)って、異性と友達になるのが上手でしょ。あんな感じですね※。
さらに、双方が自分の中の異性を駆使できないと友情は成り立ちません。ここがポイントです。片方だけじゃだめですね。異性間の友情が破綻するのは、この部分の齟齬が主な要因じゃないかと思います。
また、ある程度、加齢することも条件でしょう。なにしろ、「異性」性がもっとも端的に表れるのは、性行為です。ですから、セクシュアリティ(性に関わる行為全般)を発揮することは、友情の成立・持続から離れる行為となります。加齢が進むにつれて、人間関係における性行為の重要性や占有の割合は減少しますからね。まあ、それも人によりますが、ははは。
というわけで、以上の要件と今回の場合を鑑みるに、あなたの(友人関係修復の)望みは困難だと言わざるを得ません。あなただけがいくら「友人」としての線引きをしようとしても、片方だけで成り立ちませんし、お互いの間でセクシュアリティも発揮されたばかり。少なくとも、しばらくの間は、友情関係を結べるとは思えません。「友達としての良い関係や楽しい思い出」も、あなたの生み出した幻想であって、相手と共有することはできません。必要以上に、その友人との関係を良好にしようと考えず、距離をおくことをお勧めします。なぜなら、今、あなたの心身の諸要素は暴れていると思われるからです。仏教では、心身を構成している諸要素は、対象からの刺激によって、ついつい暴れてしまうと考えます。そして、それは苦悩を生み出すとします。それぞれの活動がもはやコントロール不能となるまで暴走すると、苦しみの連鎖も止まりません。ですから、手がつけられなくなる前に、心身を整えなければなりません。『ダンマパダ(法句経)』にあるように、「それなら、むしろきっぱりと独りで行け」というくらいの気持ちで、ここはひとつ「言葉を整え、行為を慎み、思考をシンプルにするため」、対象との距離をとるほうがいいんじゃないですか。

※ちなみに、誰しも、自分の中に「異性」性を内蔵しています。それを成熟させることは(意外に)大切です。特に家庭生活では、それぞれが、時に男性になり女性になり、時に父になり母になり、といったところがないと良好な状態を長期間持続させるのは難しいと思われます。

A2:by 江弘毅

「だんじりエディター」から言わしてもらうと、男女の友情はありでしょうね。
ええ、大いにあると思っとります。ETとでも猫とでも「じゃれ」あったりとかメールとかでも何でも良いんですが、いろんなやりとりがあってそれを友情と感じれば、たちまち友情です。
恋人同士とか彼/彼女とか夫婦とか、そういう対の関係性や、「性交渉」とか「出し入れ」(エレメント&意味不明@バッキー井上)とか、ベッドもペットもそんなのは関係ないですね。あんまり凸凹とか↑↓とかばかりに照準してものを考えてると、人は絶望的になってしまいますね。
友人は、少なすぎても多すぎてもほんとに困るものですが、こちらから見ると1対多で、友人側から見ても1対多で、そういう関係性の網の目が、「友達の友達はみな友達」みたいなものをつくっていくのだと思います。
だからわいわいと友達の友達ばかりのなかでじゃれあっていてもほんとに愉しい。
「ほんま、お前とはやってられんわ」「あほか、それ熨斗つけてキミに返したるわ」などとやっていてても、まわりはみんな笑っている。周りがいるから当人たちも怒りながら笑っている。
対して恋愛関係とか夫婦とか1対1だけの関係はややこしいですね。
「あなた、わたしとあの人の一体どちらを取るの!」みたいな三角関係とかは怖いですし、3Pなんかはあれはよくないでしょう。だからいったん壊れるとなかなかやっかいです。
「ああいう事の後で友人同士に戻るのは不可能だ」とは「どおゆう事の後」かをちょっと考えてみましょう。
友人関係が壊れてしまうのは、相手をどついたり、何かを奪い取ったり、だましたり出し抜いたり、お金を借りて返さなかったりと、まあ「いろんな事の後」になって壊れるものですが、その「どおゆう事」の基盤に、悪意というものがなかったら、それは案外また「いろんな事の後」から何とでもなるものだとわたしは思います。
「二兎を追う」というのはゲット感覚ですね。友達はゲットするものではなく一緒に関係性をつくるものと違いますかねえ。
なので「男女の」という条件を一旦、それはそれで括弧にいれて見た方が良いと思います。
とりあえず同じゼミというのを「われわれ」というふうに見て、つまり一つの社会のユニットととして見て、そのなかでの「わたし」と「あいつ」の仲というふうに見てみるとどうでしょうか。
だから「合宿中に、なんとなくいちゃついてしまいました」というのは「男女」や「恋人同士」としてではなく「われわれ」の中ではどうなのかと。
「一夜の恥ずかしい思い出として二人で笑い飛ばす」ことができないというのは、「われわれの思い出」として「笑い飛ばす」ことはできないのでしょうか。
取り急ぎあなたが苦しんでいることへの助言としては、まさに四苦八苦の「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」がしんどく辛いのだと思いますが、それはこの「インターネット持仏堂」または「いきなりはじめる浄土真宗」を読み直していただければ出てきますので、すこしは救われるとおもいます。


A3:by 青山ゆみこ
こんにちは。またもゲスト回答者として呼ばれて飛び出てきました。匿名希望ということですが、お名前がある方がいいかなーなんて思い、勝手にうさぎちゃんと仮名をつけさせていただきますね。いや、二兎を追うってとこから取っただけなのですが。
「その場では付き合おうとなったのですが、数日で冷めてしまい、私が彼に振られる形で白紙に戻りました」など、いくつかもっと具体的に聞きたいところもありましたが、まあ恋バナというのは、えてして不可解かつ理不尽かつ無根拠ですしね。 オバハン的立場を利用して言ってしまうと、今はドラマティックに思える様々なことが、実に人生にとって些末なものでしかなかった…とわかってしまうときがくるのです。切ない痛みも感じなくなり、悩んだりわけがわかんなくなくなったりもしなくなる。それはつまり青春の終焉で、痛くても哀しくても甘酸っぱかった何かが自分から去ってしまうことを認めるのは、とても寂しく辛いものです。 つまり、いろいろ悩んで解決しないことも多いでしょうが、それは今しかできないことなので(他にもたくさんあるけど)、なんとか頑張ってください。今の辛い思い出もまた、捨てたくない大事なものになりますよ。「むかしはいろいろ辛かった」というメモリーほど、後ほど甘美になるものはないものですから。だって、そういう風に思えるってことは、今はきっとその時よりも幸せでしょうからね。 オバハンから言わせてもらうと、 「なんだ、いいじゃん、楽しそうで」 そんな感じでしょうか(笑)。
さて、男女に友情はあり得るか。 アオヤマはあり得ると思います。 というよりも、男女の友情も男女の愛情も「あり得ると思えばある。ないと思えばない」という点においては、一緒じゃないでしょうか。男女の関係でも愛情がない場合もあるし、男女の関係でも友情がある場合もある。どんな関係も成立する可能性はあるけれど、可能性しかない。だから、友情も愛情も関係を維持するには努力が必要で、その行為を友情や愛情と呼ぶのだと思います。 メロスも走ったから友情が成立したし、ベニスの大商人アントーニオも心臓そばの肉を差しだそうとすることで、バサーニオとの友情を永遠の形にしようとしました。そんなことしてまで!とうさぎちゃんは思うでしょ。アオヤマも思います。でも、そこまでしないと証明しにくいのが友情というもので、それはその実態のなさから美しくかけがえのないものとして存在するし、だから欲しくなるのではないでしょうか。
ちなみに、『ベニスの商人』でアントーニオがユダヤ人の高利貸しシャイロックに借りる3000ダカット(たぶん超大金)は、親友のバサーニオが富豪の美女に求婚するための遠征資金なのですが、どうもこのアントーニオとバサーニオは単なる男友達ではなさそうで、「my love」表現したり、怪しい感じです。つまり、シェイクスピアも、男女の愛情的なニュアンスでも、男同士の友情でも、どっちでもあるし、どっちでもいいじゃん。つまり強い愛には変わらないんだから、と言っているようにも思えます。ただ、やはり作品としては「友情」の方がもっと美談に感じますよね。だから、余計にシャイロックが悪役として際だつ訳ですから。
さてはて、死に物狂いで走るとか肉をさし出すとか大層なことではなくて、うさぎちゃんは一緒に笑ったりノートの貸し借りしたいだけなのに…。ですよね。でも、そんなものはちっぽけな友情で、それはもう顕微鏡でのぞいても友情菌が発見できないくらいのちっぽけさなので、うーん、もういいんじゃないでしょうか。ただ、それでも、絶対に発見したい、そこに友情菌がいる限り!と、もしうさぎちゃんがその彼のことを思うなら、命がけで探してみてください。命がけで探せば、命がけの分だけ手にはいるのが友情というものなのです。 友情菌は二人の間にしか発生しないけれど、発生しやすい環境とそうでない環境があります。「お互いに助け合う」ではありません。よくそういう風に世間で言われますが、そんな環境で発生するのもたいした友情菌ではありません。真の友情菌大繁殖の環境とは「相手に何ものぞまない。けれども、相手には求められる全てをさしだそう」という環境です。もちろん、逆の環境では菌は死滅します。 うさぎちゃんの現在の環境は、菌が繁殖しにくいようですね。だから、余計にわけがわからなくなっているのかもしれません。でも、真の友情なんて、そうそう手に入るものではないので、今回はちっぽけな友情でいいや、あるいは、友情なんかなくてもいいや、と思うと、逆に友情はないかもしれないけれど、良いヤツだし好き、と思えるかもしれませんし、向こうもそんなうさぎちゃんの気持ちに気が付き、またお喋りできたりするかもしれませんね。気持ちは伝わるものですから。
そして、アオヤマはこう思います。 いま、その彼との関係で、できることが無いわけではありません。 女友達との友情も、関係を維持するだけでも誤解したり喧嘩したり疑ったり大変でしょ。男女であっても何ら変わりません。その彼を女友達に置き換えたら、あーよくあることだと思いませんか。うさぎちゃんが言うとおり、いちゃついたとかそういうことは、そんな大したことじゃないと思います。もっと他に問題があるのでしょうね。それはもう男女の友情とかなんとかかんとか、そういう部分の話ではないかもしれません。 でも、ほとんどの友情・愛情関係の問題も、男とか女とか好きとか嫌いとか若いとか年寄りとかそういう部分に核心的なものはない。一番の問題は、そこにある人間としての関係性の持ちようにやっぱりあるのだと思います。自戒の念をたくさん込めて、改めてうさぎちゃんにも言いたいと思います。相手の望むものをあなたは差しだし、あなたが望むものも相手にあげましょう。そうしたら、男女の友情も愛情も何だって手に入りますよ。きっと。


A4:by 内田樹
えーと、なんだか知らないけど、同一質問に四人が回答するって、このコーナー始まって以来ですね。
それにしても”魔性の女(ほんとはいいやつ)”フジモトくんの人的ネットワークはなぜかワイドかつディープに甲南麻雀連盟方面に偏っているようですけれど、それはぼくの幻覚でしょうか?

今回は「総論」と「各論」にわけてみなさん回答されています。
「総論:男女の友情はありか?」
答えは全員いっしょで「あり」ですね。
理由はみなさんお書きになっているとおりです。
その中でたいせつなのは、老師がご指摘になっておりますように、やはりジェンダーに対する「こだわり」のなさ、でしょう。
つまり、「ワシは男でござる」とか「ひらがなの『をんな』を生きたいの」とかいうことばかりおっしゃってるかたは、ちょっと男女の友情は無理かな、ということです。
ぼくは「おばさん」的なファクターが旺盛なので、女友だちがたくさんいます。
おなじように「おじさん」ないし「お兄さん」的な人格要素が豊かにそなわっている女子は男ともだちが多いようです。
エロス的欲動というのは人間にとって、とてもたいせつなものですから、「オレは男だぜい」「あたしはオ・ン・ナ」みたいなのもたしかに結構なんですけど、「友だちと楽しく人生を過ごす」という視点から言うと、「男だけど母性愛豊か」とか「女だけど男前」という方がどうやら圧倒的に有利なようです。
ちょっとにべもない言い方になりますけれど、人間以外の動物では、自分の生物学的性のうちに異性のジェンダーを繰り込むことから「利益」を得るということはあまりないんじゃないかと思うんです。
「母性愛豊かな牡ライオン」とか「男前の牝ペンギン」とかぼくは見たことないですけれど(つうかライオンもペンギンもあまり見たことがないんですけど)、それはそのことがとくに生存戦略上有利であるということがないからでしょう。
でも、人間の場合はあきらかに異性のジェンダー要素を繰り込んだ個体の方が生きる上では有利です。
出会うすべての異性を性的な対象と考える人と、自他の性差はとりあえず「カッコに入れて」、出会う相手の知性や感性や美意識や霊的成熟に焦点を合わせて関係を構築する人では、どう考えても後者の方が豊かな社会関係を築けるし、そこから得るものも多い。
でも、そういうふうに生物学的性差を「カッコに入れる」ことから利益を得ることができる生物種はたぶん人間だけです。
だから、ちょっとオーバーに言うと、「男女の友情が成立するのは人間と人間の間においてのみであり、言い換えると、男女のあいだに友情を成り立たせることのできる人間だけがその語の厳密な意味における『人間』なのである」ということにもなるわけです。
わお。
すごいですね。
ということは、「異性の友人がいない人」というのは男女を問わず「まだ十分人間になってない」ということになります。
老師は「歳を取ればわかるよ」とお書きになっています。
だから「各論」の答えもロジカルに導かれます。
もし、あなたが男女の友情を築けないのなら、あなたはまだ人間として未熟だということです。
その場合には「がんばって人間になってくださいね」というはげましの言葉が遂行的な回答となることでありましょう。

About 2007年04月

2007年04月にブログ「インターネット持仏堂の逆襲・教えて!釈住職」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2007年03月です。

次のアーカイブは2007年05月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35