その10(2003年12月日)

釈から内田先生へ

 

「その9」、大変興味深く拝読いたしました。

以前からぜひおうかがいしたかった内田先生の「宗教性」観を垣間見ることができました。「その9」は、これから先「内田樹研究」という分野ができたとき、かなり重要な一文になるのではないでしょうか。かつてないような「宗教性」論に、大いに触発された思いです。

それにしても、先生。曹洞宗・プロテスタント・大本教※1・・・、神道の儀礼に食前の祈り・・・とは、い、いくらなんでも・・・。

まさにシンクレティズムの権化(笑)。

 

【「その9」で語られた宗教性】

 

内田先生ならではの「宗教性」論には、数多くの示唆が提示されております。中でも、「−世界の創造に遅れてきた−という自覚」こそが「宗教性」であり、「どういうルールで行われているのかわからないゲームに、気がついたらもうプレイヤーとして参加していたというのが人間の立ち位置」という卓見、噛めば噛むほど味がでてきます。

(さらに、「その9」ではレヴィナス先生を援用され、「私には知れないルール」こそが「善」なのである、とたたみこまれるわけです。「善」・「悪」については、おそらく内田先生が「宗教と倫理」の問題で本格的にを語られることと思われます。そこで、この部分は保留にさせていただき、「宗教性」について、さらに私見を綴らせていただきます。)

ですから私は「誰に対して、どのように感謝してよいのか、私には分かっている」と言い募る人間を「宗教的な人間」であるとは思っておりません(こんなこと書くと、世界中の宗教家にケンカを売るようなものですが)。

売ってます、売ってます(笑)。間違いなく、売ってます。

しかし、成熟した宗教性は確かにこの方向性をもっていると思います。たとえ宗教がそのまま自己や社会を形成する基盤となっている敬虔な一神教徒であっても、「神をはかることはできない」という地点に行き着くはずです。仏教においても、真如は「不可称・不可説・不可思議」です。

「私にはわかっている」とは、理性の傲慢にほかなりません。かかる理性の傲慢を凌駕するためにこそ、宗教的パトスは体系化されてきたのかもしれません。

「わからないが」、「おまかせする」という態度。これが「信仰」です。「わかっていて」「信用する」なら、あくまで理知のわざでしかありません。

またウチダ宗教性論の特徴は、宗教儀礼とリンクさせて点にあろうかと思われます。

身体知を主張されている先生にとって、当然の帰結と言えそうです。

「儀礼の軽視」も現代「脳化」社会の特徴でしょう。現代人はもう一度、「儀礼」や「象徴」がどれほどダイレクトに共鳴心性を揺さぶるかということついて再認識しなければなりません。

 

【ディセントな宗教性とおねだりのメンタリティ】

 

内田先生が語られた、ディセントな「たしなみ」としての宗教。現代社会においてこのスタイルは「野生の宗教性」ではなく、「賢者」の態度といえるのではないでしょうか。

「ディセントなたしなみとしての宗教」は、宗教性が日常にうまく発揮されている状態だと言えます。そもそも宗教性が豊かな人にとって、宗教体系は空気のようなもの。その中にあっては、「制度化された宗教」などはあまり必要ないのです。制度宗教など、儀礼中心の「たしなみ」で充分※2。

このような賢者の宗教性は、自己の欲求を投影する「宗教へのおねだり」がいかに反宗教性的であるかを浮かび上がらせます。

宗教とは「思い通りいかない=苦」であるこの世界を、自己自身を目覚めさせていくことによって受け止めていく体系ではないでしょうか。つまり、「苦を引き受けていく」システム、といった一面があると思います。

ところが、思い通りいかない世界を、ごう慢にも「なんとか自分の都合通りにしてくれー」と超越的存在におねだりしてしまう。「おねだり」が根底にあるからこそ、ただひたすら宗教体系に従順な態度をとる。これは一見、宗教的受動性に富んでいるような態度ですが、「苦を引き受ける」態度とはまったく逆ベクトル。

ゆえに、「おねだり」をエサにする制度宗教は、宗教性を成熟させません。つまり、入信したら「こうなる」、この教団に協力すれば「こんなに幸せになる」、という体系をもつ制度宗教はすべて信用できない、という結論に達します。

 

【常態時と非常態時:賢者の宗教性と愚者の宗教性】

「ディセントなたしなみの宗教性」は、「常態時の宗教性」です。

社会心理学者の金児暁嗣先生は、これを「オカゲのメカニズム」と表現されています。つまり、平穏な日常を感謝する宗教性です。

そして、もう一面、宗教性には「タタリのメカニズム(by金児)」というやつがあります。こちらは「非常態時の宗教性」。前者は、アニミズム的ですし、後者はシャーマニズム的です。

「タタリ」というといかにも怪しげですが(笑)、要するに「危機状況」・「限界状況」であるというレトリックです。さまざまな現象への畏怖だけではなく、「実存」の危機や不安、そして社会の変動や混沌などのことです。ご存知のように、この状況は一神教タイプの宗教を生み出しやすくします。

「ディセントなたしなみの宗教性」は、常態時において最も多くの人々が共有できることは間違いないでしょう。

しかし、一本の道筋をたどり、態度を明確にし、エートスを形成して、はじめて開ける宗教性があることも間違いないと思います。こちらは、まあ、愚者の宗教性、あるいは弱者の宗教性といえるかもしれません。

「あれもこれも」という賢者のスタイルではなく、「あれかこれか」を選び取るというスタイルです。

そして、宗教性を成熟させた人には、賢者と愚者、両側面を確認することができます。

ただひとつの道筋を選ぶ愚鈍さと、それを唯一絶対と妄信して他者におしつけることのないバランス感覚。「私が生きるにはこの道しかない」という実存的宗教性と、「真理はさまざまな顔をもつ」という多様性。

賢者であり、愚者である、という相関関係は、「自分を超えるルールがある」という安心感と、「この世に投げ込まれた」という不安の二律背反でもあります。

ウチダ先生が語られる宗教性には、「ルールを推論する思考の趨向性」を発揮する賢者でありながら、「ルールを知らない」という愚者という両側面が確認できます。

私は、かくのごとき背反する事態の緊張関係こそが、宗教的実存であると思っています。そしてそのことを中世の念仏者・親鸞という人物から学びました。親鸞さんの生きざまは「世俗に立脚しながら、なお世俗を相対化して生きる」ところに特徴があります。

宗教が他の体系と違う点は、世俗を相対化する領域があるところです。すなわち、世俗と出世俗の拮抗です(これが平板化してしまうと、浄土真宗という宗教はダメになっちゃう、と私は思います)。

 

【否定と肯定の緊張関係】

 

「ワンアンドオンリーでザッツオーライ」は、やはり独善への躓きをはらんでいます。逆に「なんでもやっちゃう」のも、既述のような相反する緊張関係が平板化してしまい、宗教的パトスが旺盛な人や実存的不安を抱えた人の「魂の叫び」にこたえるものではなさそうです。

私たちは、徹底した自己否定にも抵抗があり、徹底した自己肯定にも抵抗があります。根源的に否定されることと、根源的に肯定されることは、「自分を超えるルール」という視点なしでは成立し得ないのではないでしょうか。

結局、「わからないもの」を通して、「自分とは何者か」がわかるだけなのかもしれません。

それでは、失礼致します。

 

※1 明治中期成立の教派神道。金光教の布教師だった出口なお(1836-1918)氏は、「病気なおし」で近郷に知られていました。その後、なおは「ウシトラの金神(こんじん)」による神がかりから、「お筆先」を著し、大本教が成立。さらに、娘婿・王仁三郎氏によって、教義や教団が整備されます。戦前にはげしく弾圧されました。現在は、「大本」という法人名になっています。平成13年からは出口紅氏が第五代教主に就任。早くから、「脳死・臓器移植」や「ヒトクローン」に反対運動を展開。生命倫理問題について、積極的発言をおこなっているので有名です。

※2このようなバランス感覚をうまく活用したのが、近年の新・新宗教(たしか西山邦彦先生の命名。でもほかにもっといい表現ないのかなぁ…)です。葬儀や法事といった宗教儀礼は伝統教団にまかせ、日常の苦悩を担当する、といった棲み分けを志向しています。

追記:新渡戸稲造を二度も引用していたのは、指摘されるまで気づきませんでした(恥)。特に思いいれがある話でもないのに…。いかに「引き出し」が少ないか、ということですね。とほほ。

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