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その12プラス1

釈先生の間狂言

 

【日本仏教へ!】

 

「ぶっきょうこうでん、ごさんぱい(=仏教公伝、ご参拝…538年)」、なつかしいです。年号をゴロ合わせで覚えるの、好きだったんです。朝鮮半島にあった百済から日本へ、外交によって仏教文明が伝えられた年ですね(552年説もあり)。日本にしてみれば、「これで先進国の仲間入りだーい」といった感じだったんじゃないでしょうか※。

奈良時代に展開した仏教は、国家が管理する仏教でした。寺院は国立、大学の役目や役所の役目もします。僧は国家公務員・官僚のような立場です。政治も運営し、社会事業も起こし、インフラ整備もします。この時代の宗派(いわゆる南都六宗)は、いわば学問領域区分ですので、成実宗を勉強したら三論宗で修行、倶舎宗で学んで法相宗へ、といった具合です。

現在は、華厳宗・法相宗・律宗が宗派として活動しています。

奈良の仏教は、学問と儀礼が中心です。宗教学や仏教学での評価は高くありませんが、その文化性はもっと見直すべきだと思います。また奈良の仏教は、良くも悪くも、日本仏教の方向性を決定づけたような気がします。

※ もちろん、公伝以外に私伝があります。渡来人を中心に、仏教はすでに日本に伝播していました。キリスト教だって、奈良時代には景教(ネストリウス派)が入ってきていたという話もあり。

【日本仏教の確立へ―天台宗と真言宗の輸入―】

国家と軌を一にしていた奈良仏教。そして、平安への遷都。このとき仏教も問い直されることとなります。壮大なる「総合仏教」時代の幕開けです。二人の巨人が登場します。ひとりはその後の日本仏教を左右した人物、最澄さんです。もうひとりは、日本宗教史上のスーパースター・空海さん。前者は、禅・密教・念仏・戒律・法華経…といったあらゆる仏教を網羅する一大仏教センターを比叡山に打ち建てます。後者は、日本初の本格的密教を輸入します。既述しましたように、密教はあらゆるものを肯定し実践する、全方向性をもつ仏教です。求心力より遠心力、って感じです。

 

【キーマンとしての最澄】

最澄さんは、さまざまな意味において「日本仏教」の「生みの親」といえます。たとえば、「大乗戒壇」。今までは東大寺(奈良)・観世音寺(福岡)・薬師寺(栃木)でしか出家受戒できませんでした※1。そもそも大乗仏教も、受戒に関しては、部派仏教(いわゆる小乗仏教)に従っていました。それに対して、最澄さんは「大乗仏教は、大乗仏教の出家受戒があってもいいじゃん」、「比叡山で(大乗の)出家受戒できるようにしてよ」と政府に出願しました。この願いは、最澄さんの死後に認められました。

これによって、比叡山では国家による制約の縮小化に成功。誰もが修行できるようになります。さらに、重要なことは、この「大乗戒壇」によって、日本仏教では「戒律は精神的なもの」となっていく点にあります。これはその後の浄土仏教による「無戒」化傾向の基盤となります。

また、最澄さんが徳一さんとの論争を優位に展開する※2など、「すべての人は悟りを開ける」という思想が主流になります。この流れが、日本仏教独特の「本覚思想※3」を生み出していきます。

 

※1 出家とは、家を出て修行者となることです。修行者には守るべき戒律がありますので、受戒という通過儀礼を行います。比丘や比丘尼は、受戒し出家した人。でも受戒し正式の僧になるのは成人してからですので、出家はしているがまだ受戒していない人もいます。この人たちは沙弥や沙弥尼と呼ばれます。ついでにいいますと、在家仏教者の男性を優婆塞(うばそく)、あるいは信士といい、女性を優婆夷(うばい)、あるいは信女といいます。

※2最澄と徳一による「仏性」についての論争。徳一は法相宗の僧で「五性各別(人間に五つの区別があって、さとりを開ける人と開けない人がいる)を主張しました。これに対して、最澄は「悉有仏性(誰でもさとりを開くことは可能)」を主張。

※3もともと、すべての人には悟りの本性を内在している、という思想を基盤としています。日本仏教では、これを飛躍させ、最終的には「すべては悟りであり仏である、一草一木、耳にする鳥や虫の声、すべて仏でないものはない」といったものすごい受容原理となっていきます。本覚思想は仏教の枠を超えて、中世の文学美実・芸能から神道の思想におよぶ広範囲の影響をおよぼします。

 

【日本仏教の成熟】

いよいよ日本社会にとっての大きな転換期、平安末期−鎌倉時代です。後世、「新・仏教」と称される大きなムーブメントが起こります。今日の臨済宗・曹洞宗(→禅)、浄土宗・浄土真宗・融通念仏宗・時宗(→浄土仏教)、日蓮宗…などが、どばっと登場! でも、これは各宗すべて、生活の場で実践される仏教、という方向性においては共通しています。だからその方法論はシンプルでイージー、そしてピュアなんですね。それに、今までの「共同体の宗教」とは異なる「個人の宗教」である点も注目です。鎌倉になって、国家と宗教の関係は大きく変化します。

鎌倉における「仏教のニューウェーブ」を生み出すきっかけとなったキーマンは、法然さんです。比叡山にその人あり、智慧第一の法然房、といわれながら山を下りて大衆の中で生きる仏教を確立させます。

さて、鎌倉ニューウェーブを、M.ウェーバーにならって、「達人宗教性(VirtuosenReligiositat)のベクトル」と、「大衆宗教性(Massen Religiositat)のベクトル」に大別して考えてみましょう。

前者は「あるべきシャカの仏教へ」を志向します。

「禅」です。臨済宗を宋からもち帰り、日本で禅の道を開いた栄西。そして禅を極限にまで昇華させた道元。

「禅」は、その後、平安貴族とは違う新しい社会の牽引階層である武士たちの理念となっていきます。また華道・茶道・武士道といった、「道」関係文化にも大きな影響を与えます。

後者は「阿弥陀仏による救い」。さきほど「キーマン」と位置づけた法然。その弟子、親鸞。そして遊行者・一遍などなど。それまで、補助的脇役であった浄土教が、日本において大きく開花し、大衆仏教の主役に躍り出ます。そして、この後、室町時代にかけて形成されていく惣村などの共同体における精神基盤となっていきます。

さらに鎌倉仏教の後期において、もうひとつのウェーブが起こります。日蓮さんによる『法華経』を軸とした仏教です。日蓮さんは、禅・念仏・密教などの批判を通して、「永遠のシャカに帰して、法華経の題目を唱え、すべてが平等に救われる」というかつてない形態を成立させます。日蓮思想は、日本国全員が法華経に帰依すれば理想の仏教国が誕生する、というファンダメンタリスティックな側面をもちます。さらに、法華の行者にはさまざまな苦難がふりかかるのだ、というキリスト教における「苦難の神義論※」的な強さがあります。出家主義的でも在家主義的でもない、いわば「現世実践中心主義的ベクトル」をもつといえるのではないでしょうか。

※苦難の神義論とは、苦難や不条理を宗教的に解釈することによって、信仰への推進力とする認識方法です。たとえば、なぜ私はこのような迫害をうけるのか、という問いに対して「それは神が試練をお与えになっているのだ」、「私の信仰がホンモノかどうかが試されているのだ」、「迫害されるということは、自分の進む道が間違っていない証拠だ」といった意味づけがなされます。現世において信仰者がいわれなき苦難にあい、逆に不信心者が幸福を享受するのかを合理的に説明してくれる論理です。この逆が「幸福の神義論」で、なぜ自分は幸福なのかを説明し、幸福であることを正当化してくれる論理です。

 

【奇跡の鎌倉新仏教】

平安末期から鎌倉時代にかけて、日本仏教は大きく生まれ変わりました。それは奈良の国家仏教でもなければ、平安の総合仏教でもない。まして、インドの仏教から見れば、逸脱といってもよいほどの高いオリジナリティです。

鎌倉新仏教には、「実存思想」、「モノシイズム(唯一神傾向)   」、「政教分離」、「原理主義」、「ピューリタニズム」、「プロテスタンティズム」、「宗教国家思想」、「聖典主義」、「信仰主義」、「無神論」、「ニヒリズム」、「宗教解体思想」、「世俗化」、…、およそありとあらゆる宗教思想形態が花開きます。ヨーロッパの宗教改革に先立つこと500年。たいへんな事態だったわけです。

鈴木大拙氏は、この鎌倉新仏教こそ「日本人の魂」のコアである、といいます。このとき、日本人の魂は花開いた、というわけです(「禅が理性」を、「念仏が情性」を形成した、そうです)。まあ、この意見には毀誉褒貶あるのですが、少なくとも、現在もなお鎌倉新仏教が生み出した宗教性は我々の深層に息吹いているということは言えそうです。

また生命学者の森岡正博氏は「もし日本が今後世界に発信できる、あるいは誇れるオリジナリティがあるとすれば、<鎌倉新仏教>と<オタク文化>だろう」と語っています。

 

【自律性から寺檀制度へ】

鎌倉末期から室町時代にかけて、惣村制が成立していきます。イエやムラといった共同体が形成され、社会のあり方や結婚形態などが変化。中世以前に比べると、社会の階層化や女性の地位低下が進みます。ただ宮元常一氏によれば、関東に比べると、関西は女性の地位が高かった(この傾向はこの後も続く)らしいです。「東の父系・西の母系」などという言葉もあります。

さて、仏教各宗は熟成期間に入っていきます。ご存知のように、室町時代では臨済宗が発展。また蓮如による本願寺教線の拡大などもこの時期です。

16世紀あたりから、一向一揆・法華一揆など宗教的自律が推進力となった変革活動が活発になったり、キリシタンによる信仰運動などが起こります。だから、江戸幕府は宗教統制に力を注ぐわけです。

特に、ご存知の寺請制度。どこのイエも、必ずどこかの寺院の檀家として登録されねばならない、というシステムです。そして、各宗派・各寺院が、他の宗派や寺院の檀家に布教することは禁止されます。「各宗、共存しろ」というわけです。

このような状況は、現代にまで続く日本仏教の特徴を生みます。

 

【日本仏教は大乗の極致…か?】

このように、日本仏教は独自の形態を形成してきました。「少なくともシャカの仏教ではない」、「葬式仏教である」、「仏教というよりも日本教」などと批判も多いことはご存知かと思います。

それに対して擁護論を展開するつもりはありませんが、こうも言えないでしょうか。「こうあるべき」というのを解体するのが仏教のベクトルならば、出家者や在家者のあるべき姿さえ解体し、僧俗・聖俗の境界を崩した日本仏教は大乗の極致、…。

出家も在家もライフスタイル(自分なりの生き方)。それなら、結婚しようが、独身でいようが、形態にこだわらず、仏教が成立するはずです。視点を変えれば、なかなかものすごい脱構築ということも可能です。

 

【宗教という概念の輸入・日本のアイデンティティー・仏教批判】

幕末から近代化、日本の「アイデンティティーの模索」から、仏教が批判されます。一時はかなり激しく攻撃されました。

さまざまな仏教思想は、近代の洗礼をうけます。それまで高い評価を受けていた高僧が貶められたり、逆にあまり有名でなかった市井の仏教者が再評価されたりします。

西洋の啓蒙主義によって確立していった「宗教(religion)」という概念が日本にも輸入されこともその要因でした。

嵐のような仏教批判から、日本仏教を守ったのはなんだったのでしょうか?

ひとつは、もちろん、近代に対応した人々がいたことです。この時期、なかなかの傑僧や、すごい仏教者があらわれています。大谷光瑞は巨費を投じて西アジアにまで仏教のルーツを探りに行きます。チベットに行った河口慧海、臨済宗の釈宗演、近代思想に大きな影響を与えた清沢満之などなど。また、西田幾多郎や田辺元をはじめとする近代思想者たちが仏教を再読したことも一因なのでしょう。

でも、それ以上に大きな要因は、「イエ」や「ムラ」という共同体の中に寺院や仏教が機能をはたしていたからだと思います。あるときは、役所であり、学校であり、公民館であり。つまり、地域におけるバインドの役目を担っていたのでしょう。

 

【イエ・ムラの解体】

第二次世界大戦後、高度成長と都市化にともなって、イエやムラが解体されていきます。寺檀制度の崩壊です。

かつてイエやムラが、お寺や宗派と土地で結びついていたシステムは、終焉しつつあります。代わって登場したのが、「死者(あるいは遺骨)」でつながるという状況です。

もちろん、これは寺請制度の崩壊であって、仏教の崩壊というわけではありません。むしろ、現代人のほうが仏教の知識についてはよく知っているかもしれませんね。教養としての仏教という感じですが。内田先生がおっしゃる「文化資本」の範疇になってきているかも。

これからは、儀礼は儀礼、思想は思想、そうわりきって仏教とつきあっていくのでしょうか。

それとも鎌倉時代のような大きな転換期にさしかかっているのでしょうか。

 

                                 つづく…。

 

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