インターネット持仏堂 その12

2004年1月20日

釈徹宗先生から内田 樹へ

 

 

それでは「仏教では絶対悪はどう考えるのか」について考えながら、当・持仏堂建 立の目的である「浄土真宗を知る」への端緒を開かせていただきたいと思います。

 

仏教における「悪」

学生のころに、仏教関係の講義で「きみたち、<知っていて悪いことをする>の と、<知らないで悪いことをする>のと、どっちが罪が深いと思うかね」と聞いた先 生がいました。で、私たちはなんとなく「それは…、<知っていて悪いことをする> ほうだと思いますが…」と答えました。みなさんはどう思われますか。

 

原始仏教では、単純に「自己や他者のために利があること」が善です。人間に楽を もたらす行為や習慣、それが善ということです。そして、その反対が悪です。人間に 苦を生じさせる行為や習慣、それが悪。ユダヤ・キリスト教の罪や悪の取り組みに比 べると、あまり深みがなく、功利的で理性重視という印象をうけます。

そう、シャカが臨死の状態で残した「自分自身を指針とし、世界の原理を指針とせ よ」という言葉からもわかりますように、もともとの仏教は合理主義的傾向が強いの です。その上、形而上的議論を避けるプラグマスティックな宗教でもあります。です から、まずは「知ること」が善への第一歩と考えます。

というわけで、前述の某先生は私たちの答えに、ふっふっふっ予想通り、というよ うな表情をうかべながら「と、思うだろ(喜)。ところが仏教では<知らないで悪いこ とをする>ほうが罪は深いのだ」とおっしゃいました(先輩に聞くと、この先生は去 年もおととしもこれをやったそうです)。仏教ではそう考える、と言われるとそれま でですが。でも、なんか納得できない…。

仏教は、あらゆるものを相対化し続けていくある意味おそるべき体系です。なにし ろ自分自身の体系をも相対化していくのです。

ゆえに仏教では絶対なる造物主も絶対善も絶対悪も否定されます。ここは仏教最大 の特徴のひとつだと思います。あらゆる存在の本質はニュートラル(空)で、そこに何 かの縁が関わり、ある視点を通して判断すれば、善や悪が成立する。善や悪は相対的 概念である。これが仏教の立場です。

 

仏教に原罪はあるのか

 

内田先生が見事に構造解明してくださったように、「原罪」は超越的パースペクティ ブを前提としています。だから仏教に「原罪」はありません。やはり、造物主という すべてに先行する絶対概念がある・なしの差だと思います。

それでは仏教は悪や罪に対してすごくお気楽な宗教なのでしょうか。たしかに密教 などは、あらゆる事象を肯定する側面をもっています。だから、密教言説を歪曲・悪 用したオウム真理教は、殺人をポアなどといって正当化しようとしました。

 

浄土教の流れ

 

しかし当然のことながら、仏教者の中には、悪を重ねて生きるしかない自分の存在 に苦しみ、救いを求める人たちもいました。仏教には、悪や罪の問題とどこまでも向 き合った「浄土教」という流れがあります。浄土教は、念仏することによって阿弥陀 仏の浄土に往生する、という仏教です。自らの愚かさや罪深さを自覚し、悟る仏教か ら、救いを求める仏教への転換。仏教広しといえども、浄土教ほど「悪の自覚」にこ だわった体系はありません。この流れは、主役を相対化する脇役として、インド仏教 の比較的初期から連綿と続いています。

つまり最初の某先生のお話である<知っていて悪を為す>というのは、「悪の自 覚」のことだったんですね。−きみたちは、自分がいかに悪を重ねながら生きるしか ない人間であるか、ということに目を開いていないのじゃないのか−、という問いか けだったわけです。それなら少し納得。

 

悪人こそが救われる

実は、浄土教は日本で完成した、と言われています。浄土教におけるひとつの完成 形態こそ、あの「悪人正機」です。

−善人でさえ救われるのだから、まして悪人は間違いなく救われるのだ−

これは親鸞の言葉として有名ですが、何も親鸞だけの専売特許ではありません。親 鸞の師である法然も同様の言葉を残していますし、さかのぼれば他にも同じような考 えに到達した人はいます。

−岸の上にいる人は、別に救わなくてもいいけど、水に溺れている人はすぐさま救 わねばならない。岸の上の人だって、もし溺れたら救います−。ご存知のように、こ の精神はイエスからも読み取ることができます。

問題は、本人が溺れていることを自覚しているのかどうかという点にあります。だ から、

「悪の自覚」と「救済」とは、影と光の関係です。そこでは、「排除」される対象こ そが、「救い」の対象です。ゆえに悪人こそが救われるというパラドクスが成立しま す。

 

煩悩具足の仏

ところが親鸞という人は、自覚したり意思で操作できるような悪などはたいしたこ とない、私は・人間はもっと根源的悪を抱えている、と告白します。内田先生がおっ しゃるように、私たちの理解も共感も絶した邪悪です。それを親鸞は「宿業」と表現 します。

親鸞という人は、浄土教の流れの中でも際立って「邪悪さ」に向き合った人物だとい えます。この人は、出家してから八十数年という長きにわたって、誰よりも真摯に仏 道を歩み続けながら、生涯「悟った」と言うことはありませんでした。

 

悪人になる仏教

法然さんの言葉に、「善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、もとのままにて(念 仏を)申すべし」というのがあります。善悪を超えて、その身のままで救われる、と いうことです。このような法然さんの考え方は、日本の仏教を大きく転換させまし た。この人が、「自分にとって、結婚したほうが自然ならすればいいし、独身が自然 ならそうすればよい。そんなものは宗教の本質じゃない」と言ったので、親鸞は公然 と結婚して家庭をもちました。日本において出家の形態は解体されていきますが、そ のモデルともいえます。

それに法然さんは「愚か者となって往生するのだ」などと言います。なにか味わい のある言葉です。でも、とんでもない仏教です。仏教は本来、智者となるための体系 です。ところが法然は、愚者になるのだ、と言うわけです。

最澄から法然への流れの中で、日本仏教において「戒律」は第一義的ポジションを 喪失しました。それは、仏教の扉を大衆へと開く推進力となります。

そんな中、親鸞は戒律や善悪の問題を、「罪」の関係で捉えなおします。親鸞の仏 教は、「悪人となって往生する仏教」です(これを「悪人正因」と表現して、「悪人 正機」とちょっと区別したいのです※)。彼には「絶対に地獄に行く」しかない自分 の本性が見えていました。だからこそ、仏の呼び声が聞こえたのです。念仏を、仏の 呼び声と捉えた人は親鸞だけです。法然にもこのような思想はありません。

でも、いくら仏に呼ばれても、その声に背き続けるのがオレという人間だ、と言いま す。そして、それこそがオレの実存だ、仏教はまさにこのオレ唯一人のためにこそあ るのだ、と言うのです。

最も仏に遠い男、そして最も仏に愛された男、なのかもしれません。

それでは、失礼致しま す。

 

※「悪人正機」の根拠となっている『歎異抄』第三条には、「他力をたのみたてまつ る悪人、もっとも往生の正因なり」とあります。「悪人正機」というのは、後の造語 で、親鸞にこのような表現はありません。「機」は「対象(intention)」という意味 ですので、「悪人が救済の対象」というのなら、古来からの浄土教で言っていること です。そうじゃなくて、悪人が「因(cause)」である、というところに悪人正機をさ らに深める親鸞思想の特性を見たいわけです。

 

▽解説

 

『歎異抄』は、高齢者である親鸞の世話をしていた唯円という人物が、生前の親鸞語 録などを書き記した書物です。その逆説的アフォリズムあふれる文章と深い洞察、そ して赤裸々な信心告白は、多くの思想・哲学・宗教に影響を与えています。

西田幾多郎は、関東大震災ですべてを無くしたとき、「いいさ、『歎異抄』と『臨済 録』さえあれば生きていける」と言ったそうです。

また両手両足を失いながらも逞しく生き抜いた中村久子は、口に筆を加えて『歎異 抄』の全文を書き写しています。他にも、田辺元・倉田百三・服部之総・亀井勝一郎 ・三木清・丹羽文雄・吉本隆明・五木寛之・梅原猛・駒沢勝・高史明など、書ききれ ないほど様々な人が自分の「歎異抄体験」について語っています。絶望の淵から聞こ えてくる身体的テクストとしては、超一級品だと思います。

解説書や現代語訳は数多く出版されていますが、私は本願寺出版社から出ている 『歎異抄(現代語版)』が現在は一番良いと思います。

 

間狂言その1間狂言その2

next/previous