その4:2003年9月7日

釈から内田先生へ

 

因果律といえば、多くの人は「きわめて理想的な自己責任的倫理概念」と考えがちです。ところが、内田先生は「勧善懲悪の逆説」を指摘されました。先生のお話は因果律がもつ負の機能を見事に言い当てておられます。

例えば、有名な暁烏敏(1877-1955・清沢満之に師事、元真宗大谷派宗務総長)は「本当は、裁判なんてのもいらない。必ず報いがあるから」と語ったそうです。まあ、話の一部分だけを取り出してどうこう言うことはできませんが、えらく極端な言葉ですよね。

先生がすぐにお気づきになったように、日本での近代倫理観の確立とともに日本仏教は厳しい批判にされされました。まさに、「因果応報への確信が高まれば高まるほど、眼前で行われている犯罪を看過することにさしたる疚しさを感じることもなくなる」という点が問題の俎上に上げられたのです。

因果応報と密接な<業>の問題も、同様に批判されています。「お前がそのような悲惨な境遇に生まれたのは前世の行いが悪かったためである」。「だからその境遇を不満に思うのではなく、今を精一杯マジメに生きれば、来世は良い存在に生まれ変われるのだ」。このような言説は、差別や偏見の本質を隠蔽してしまいます。ご存知のように、インドのカーストも似たような理屈によって支えられています。

 

《因果と時間》

もちろん、因果思想そのものは、何も「倫理観を鈍化させてやろう」という目的で展開しているわけではありません。もともとは自分と世界の在り様を説明する手だてだったわけです。そこで、仏教は何を主張しようとしているのかを、もう少し考えてみたいと思います。

まずは、先生から提出いただきましたご質問にお答え致します。先生が予想されている通り、仏教では因・果を単純な時系列上での出来事とは考えません。

そもそも仏教では、<時間>をあまり重要視しないようです。たいていは存在や意識とともに語られます。もちろん、さまざまな、立場があって一口では言えませんが(いつでもこれを書いて断らなければならないところが人文・社会系科学の面倒くさいところですね)、「すべては生成・消滅し続ける」という共通理念がありますので、基本的には常に現在のこの一瞬だけが唯一成立する<時>です。川の流れをじっと眺めていると、まるでひとつの固体であるかのような気がしてきますが、実際には水の分子が次から次へと入れ替わっているわけです。このように、あらゆる存在はその一瞬に成立し、次の瞬間には消滅(別の存在へと変化)する。仏教は存在をこんな風に考えますこれを<刹那滅(せつなめつ)>と言います。

そして仏教の因果論は(他のインド思想とは違って)相互依存的ですので、「因があるから果があると同時に果があるから因がある」といった調子です。「因果同時」などという言葉もあります。

シャカが説いた瞑想法においては、自己の苦悩を解体するために、どこまでも現在に立脚して、過去の原因を遡及します。「この苦しみの原因はどこにあるのか」という分析的手法です。結果をもとに原因を抽出する感じですね。ですから、結果は原因を創り出しているわけです。また現在の結果は未来の原因でもあるわけで、原因と結果は相即として語られたりします。例えば、親という存在が子という存在を生み出す原因である、と考えてみてください。親は子の因でありながら、子という果が成立した瞬間に初めて親という概念が成立します。親という「因」と、子という「果」、概念の誕生は同時なんですね。

なんだかわかったような、わからんような話ですみません…。でも、このように、仏教の因果・縁起を観じていく実践は、演繹的推論であって帰納的推論ではないところにご注目ください。このあたり、先生がお書きの「アナクロニズム」に近いと感じているのですが。

ヒュームは、ふたつの出来事が引き続いて起こると、私たちはこのふたつの現象を結びつけて理解してしまう、と言ってます。因果律の正体は、ものごとそれ自身の関係というよりも、習慣づけられた観念のなせるワザであるというわけです。でもヒュームが言っているのは帰納法的な因果です。ある朝、ウラ山のカラスがいつもよりよく鳴いているなぁ、と思っていたら…。親類のおばさんが亡くなったという連絡が入る。この二つの現象を結びつけてしまう(カラスが鳴く+おばさんの死=前兆だった)のが、帰納法的推論による因果律です。

仏教では、ヒュームがいうような因果性は、苦悩のもと(=執着や無明)であると考えます。その落とし穴を避けるためにこそ仏教の因果律という認識手法はあるのです。

つまり「月光仮面などいない」と知るためこそ活用すべきなのです。

 

《因果の投影》

つまり、仏教で説こうとしている因果・縁起という認識は、おのれの執着・無明を相対化するためにこそある、と言えそうです。

内田先生は、因果律を「他者や社会に投影する」場合は<幼児のための神さま>、「自己責任として引き受ける」場合を<成人の神>、と分類されました(もし誤読であれば、ご指摘ください)。

前者で語られる因果律は、自己の外に向けて<投影>されています。私たちは、つい不用意に自分の理念を他者に投影してしまうのです。しかしこのことは常に細心の注意をもって避けなければならないと思います。

レヴィナス先生によれば、他者を語ることがそもそも暴力(先生にはシャカに説法ですね)です。なぜなら、理解不能だからです。因果律や業思想を他者に<投影>することはまさに暴力です。

人格心理学を提唱したオルポートは、宗教的人間を「内発型」と「外発型」に分類しました。

彼は、「外発的に動機づけられた人は宗教を利用するが、内発的に動機づけられた人は宗教を実践する」と述べています。「宗教を利用する人」とは、全能の神さまを簡単に信じると同じように、実に簡単に信仰を棄ててしまう幼児たちのことだと思います。

先生のご意見を、「幼児がすがる因果律」と、「成人が引き受ける因果律」とがある、とまとめさせていただくことは可能でしょうか?

 

《倫理の問題は…》

ところで今回のご返信は、倫理の問題を提起されておられます。「なんやかやごまかそうとしているけど(そんな気はつもりはないんですが)、倫理性の話はどうなったの?」と思われることでしょう。実は、日本の宗教言論フィールドにおいて「宗教と倫理」は現在もっともホットな話題のひとつなのです。

日本の宗教は、江戸幕府の宗教政策とその後の近代による世俗化を通して、きわめて内面化されました。今でも多くの日本人は「宗教とは心の問題」と捉えており、ユダヤ教やイスラムのように「行為の様式」とは考えないようです(ついでにいいますと、キリスト教はかなり内面化された一神教です)。

でもこれはかなり長くなりそうなので、また別の機会に書かせていただきたいと思います。

 

【One Point !】

因果・縁起を観ずる、という内容につながるお話をひとつ。ご存知の方もおられると思いますが、内観法という心理療法があります。浄土真宗の<身調べ(=自分の信心をチェックしてもらうこと)>という民俗からできた療法です。

内観法は、「自分が他者にしてもらったこと」・「自分が他者にしてしまったこと」・「自分が他者にして返したこと」、の三つを柱に自己の内面を探ります。この三つを、最初は母親、次に父親、そして配偶者、友人、などと順に調べていくわけです。内観法は心理療法としては高い評価をうけていますが、どういうわけか、浄土真宗の教団はほとんど無視しています。どうも<異端>と思っているようですね。

 

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