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その5:2003年9月10日

内田から釈先生へ

 

 

 どんどん興味のある話題になってきて、わくわくしています。やはり、洋の東西を問わず、人々が答えが見えずに考え詰める主題には、それほど違いはないのだと思います。

 「因果」の話については、まだまだ書きたいことがたくさんありますが、今日は釈先生に振って頂いた論件のうち、「回帰」という角度から考えてみたいと思います。

 釈先生はこう書かれました。

 「ヒュームは、ふたつの出来事が引き続いて起こると、私たちはこのふたつの現象を結びつけて理解してしまう、と言ってます。因果律の正体は、ものごとそれ自身の関係というよりも、習慣づけられた観念のなせるワザであるというわけです。でもヒュームが言っているのは帰納法的な因果です。ある朝、ウラ山のカラスがいつもよりよく鳴いているなぁ、と思っていたら…。親類のおばさんが亡くなったという連絡が入る。この二つの現象を結びつけてしまう(カラスが鳴く+おばさんの死=前兆だった)のが、帰納法的推論による因果律です。仏教では、ヒュームがいうような因果性は、苦悩のもと(=執着や無明)であると考えます。その落とし穴を避けるためにこそ仏教の因果律という認識手法はあるのです。」

 どんぴしゃの例を挙げて下さいましたので、これを手がかりに「因果」的思考について別の視点から考えてみたいと思います。

 といいますのは、先生が揚げられた事例は「因果」というよりはむしろ「シンクロニシティ」の事例のように私には思われたからです。

 「おばさんが死ぬ」というたいへんに印象的な事件に比べると、「裏山のカラスの鳴き声」はあきらかにトリヴィアルな日常的な些事にすぎません。それが死の知らせに先んじて強く記憶されていたということは、よくよく考えれば、ありそうにないことです。

 「おばさんの死」の知らせを聞いたときに、この人はこれほど重大な出来事については、必ず「シンクロニシティ」があったはずだ、と推論した、というのがことの実際ではないでしょうか?そして、記憶を掘り起こして、「おばさんが死んだ」という時間に起きた「死を連想させる出来事」を選択したのではないでしょうか?

 「おばさんの死」の前後に、この人のまわりには無数の現象があったはずです。天候でも、自然現象でも、身体感覚でも、人間関係にかかわることでも、「そういえば」というような徴候的な出来事はいくらでも探し出せるはずです。

 仮に、その同じ時間にこの人が「野ざらしにけつまずいた」ということがあったら、「カラス」ではなく、こちらの事件の方が選択的に回想されたに違いありません。そして、「野ざらしにけつまずくと、近親者が死ぬ」という経験的命題がおそらくは導かれたはずです。

 つまり、「原因」というのは、そのつど事後的に回想的に「選択される」ものだ、ということになります。

 ラカンは「原因とは、『うまくゆかないもの』だ」という卓見を語っています。

 「原因という概念は結局分析不能なる概念である・・・つまり理性によって理解することは不可能である。(・・・)原因という機能には本質的に何らかの『裂け目』が残されている。原因について語るとき、つねにそこには概念化に抗するもの、規定できないものがある。(・・・)原因という言い方がされる場合には、そこには穴があるのだ。」(「フロイトの無意識とわれわれの無意識」)

 ラカンの言っていることを簡単に言い換えますと、私たちがAという出来事とBという出来事のあいだに「因果」を見るのは、Aという出来事とBという出来事のあいだに「必然的なつながり」がない場合に限らる、ということです。

 例えば、「石につまずいて転んだ」という場合、私たちは「石につまずいた」ことを「原因」というふうには呼びません。それが「原因」であることが自明であるものについては、私たちは「原因」という言葉を用いないのです。

 むしろ、何も障害物がないときにつまずいた場合にのみ、私たちは「どうしてつまずいたのか?」「私のつまずきの原因は何か?」という問いを立てます。そして、その時、同時に、あるいは直前に経験した複数の出来事の中から、ある因子を選び出して、そこに「物語」を一つ作って(例えば、「道路の反対側から、邪眼でみつめられた」というような)因果関係を構成することになります。

 私たちが「原因」について推理するのは、「原因」が何であるかが自明でなく、複数の選択可能性がある場合に限られます。つまり、「原因」はそこにあらかじめ「ある」のではなく、後で選び出されて、そこに「置かれる」のです。

 この「原因の特定」は殺人事件における「犯人探し」の推理と同質の知的操作であるように思われます。

 凡庸な探偵と、優れた探偵の差は、この「事後的な物語構成」に際して、どれだけ豊かな物語的可能性を列挙できるかにかかっています。

 シャーロック・ホームズから明智小五郎まで、私たちが知っているすべての名探偵の才能は、途方もなく破天荒な物語的可能性を「思いつける」その想像力の「節度のなさ」において発揮されます。

 「裏山のカラス」が因果的思考として「ペケ」であるのは、この発想をした人間が、「カラス=不吉」という因習的な発想法にすぐに飛びついた、その凡庸さにあります。

 因果律というのは、ある意味で無限定的なものです。

 だって、「今日は、何一つ私の身に事件が起こらなかった。それはどうしてだろう?」という「原因探し」だってありうるわけですからね。

 シャーロック・ホームズの推理のすてきなところは、『白銀号事件』でのホームズの言葉にあるように、「どうしてあの晩、犬が吠えなかったのだろう?」という、「起こらなかった出来事」さえも、「原因」にカウントできるその無限定性にあるとは言えないでしょうか?

 ですから、私は因果や帰納法的思考そのものに問題があるとは思わないのです。どちらかというと問題は、「原因」や「前件」を探し求めるときのの、知性の「自由」というところにあるのではないでしょうか?

 私たちはあらゆる出来事について、あらゆる「原因」を想定することができます。そのときに、「豊かな原因」を探し求める活動的な知性と、「貧しい原因」で満足してしまう凡庸な知性の間には歴然たる「差」が生じます。

 ヒュームのいう「帰納法的思考」の難点は、原因と結果を直線的に結びつけるその思考のかたくなさにあるように私には思われます。

 釈先生のおっしゃる「執着・無明」とは、自分の身に起こった出来事をどういう物語的文脈の中に整序するのかの選択に際して、できあいのストックフレーズを無批判に流用して怪しまない知性の怠慢、不活性のことを指しているのではないでしょうか?

 例えば、わが身の不幸を単一の「原因」(誰かの悪意とか幼児期のトラウマ)に帰して「納得できる」人間と、無数の前件の複合的効果として受け止める人間のあいだには、人間性の深みにおいて」歴然とした差が生まれるでしょう。

「無数の前件」の中には、自分の知らない、自分の理解を超えた、自分の経験の枠組みに登録されていない出来事も含まれます。

 そのような「知ることのできない前件」の可能性を想像考できる人間は、自分が宇宙開闢以来の無限の出来事の連鎖の一つの結節点であり、自分のなにげない行為もまた、他の多くの人々にはかりしれない「結果」をもたらすことの可能性にも思い至るはずです。

 仏教がもし単純な因果関係による説明をいましめているのだとしたら、それは因果による思考を放棄することではなく、広大で、豊かな因果のネットワークを構想する知性を励ますためではないかと私には思われるのです。

「幼児がすがる因果律」と、「成人が引き受ける因果律」は違う私は思いますが、それは「一つでも多くの前件可能性を列挙できる知性」の方が「単一の原因ですべてを説明する知性」の豊かさの差ではないでしょうか?

 先生が書かれていた「内観」というものを私は存じませんが、もしそれが「現在の自分の状況」について、出来る限り多くの「前件」を「列挙する」作業であるとしたら、それこそ正しく「推理の王道」を進むものだと思います。

 

 さて、ここで次の論件につなげてみたいと思いますが、それは「シンクロニシティ」あるいは「同一者の回帰」という現象の持つ魔術的な力のことです。

 フロイトは『無気味なもの』の中で、同じ数字や同じ現象が繰り返し現れるとき、私たちは無気味な感じ」を抱く、という実例をいくつか挙げています。 

 例えば、クロークでもらった番号札が62番で、割り当てられた船室が62号室だったりすると、「それ自体では無意味な出来事が相次いで起こって、同じ日のうちに62という数字に何度も出会ったりすると、(・・・)この印象はまるで違ったものになってくる。つまり『気味が悪い』のである。そして、迷信の誘惑に断固たる態度をとることのできない人だと、特定数のこの頑固な繰り返しに、ある秘密の意味を、たとえば自分の寿命の暗示を読みとるようになるのである。」(『無気味なもの』)

 同一のことが続けて起こる、あるいは相似したものが同時に到来することをユングは「シンクロニシティ」と言いました。

 「シンクロニシティ」は、見えざる宿命を暗示するがゆえに「無気味」であるのだと思います。何かの必然性を指示しているのだが、いかなる準位において必然的であるのかが理解できないというあり方がおそらく「無気味」なのです。

 私たちの人生はある意味で宿命的であるのですけれども、その宿命の構図を私たちは決して一望俯瞰することができません。宿命というのは、それが宿命であることが私たちには決して知られない限りにおいて宿命として機能する、というあり方をするものですから。

 しかし、それを一望俯瞰することのできない宿命を「感じる」ということは、人間にとってとても大切なことだと思うのです。

 無明や執着というのは、「狭く、単純な物語の中に固着していること」と言い換えることができると思います。「無気味さ」とは、その物語の「破綻」から吹き込むすきま風のようなものではないでしょうか?

 「無気味」さを感じるということは、おそらく自分を安全に守っているはずの思考停止を許してくれる「聖なる天蓋」の破綻を直感するということです。でも、その直感からしか人間性の「成熟」は始まらないのではないかと私は思うのです。

 最初のお手紙に書きました「運命の定・不定」にも通じることですが、私たちは自分たちがどういう「物語」のなかにはめこまれているのかを知ることが出来ません。けれども、その「物語」をほんとうにを知ろうと望むなら、できあいのどんな「物語」も軽々しく受け容れてはなりません。おのれの知性に最大限の自由を保証しようとする人間だけしか、宿命の物語に(漸近線的にではあれ)近づくことができないというこの背理こそ、私たちの置かれた「人間的事況」を端的に語ってはいないでしょうか。

 

 『猟奇的な彼女』という韓国映画をごらんになりましたか?

 とってもすてきな純愛映画で、私はすっかり気に入ってしまったのですが、この映画に伏流する宗教的主題は、恋人が死んでしまって、その「弔い」を果たせないために二度と恋ができなくなってしまった少女が、「シンクロニシティ」によってその呪縛から解かれる、というものです。

 愛する人を失うという「理解しがたい宿命」に繋縛されてしまった少女を救うのは、別の「宿命」の記号なのですが、その宿命は「同じ出来事が繰り返し起こる」という仕方で開示されるのです。

 学園ラブコメの定型的なストーリーパターンは、「満員電車の中でぶつかった男の子が(たいてい、その女の子が落とした定期券か学生証を彼が偶然拾ってしまうのですが)、学校に行ってみたら、同じクラスに今日やってきた転校生だった」というものです。

 このストーリーパターンへの偏愛が意味するのは、「同一物の回帰による宿命の開示」と、その「宿命」がそれまで彼女を繋縛していた別の「宿命」を解除する、という物語を私たちが深く信じている、ということだと私は思います。

 恋というのは「昨日と同じ風景が今日は違って見える」というかたちで顕在化します。それは性的な欲望の充足や不充足とは違うレベルの、「昨日までとは別の物語的文脈へシフトすること」への人間的渇望をおそらく語っています。

 「猟奇的な彼女」が「同じ男の子が二度目の前に現れる」という奇跡的な「再臨」にある種の「宿命」を感じなかったとしたら(それは「無気味さ」と本質的には同じものです)、この映画はハッピーエンドにはなりません。

 人間を幸福にする手がかりの一つは、無限のランダムな事象のうちから、「これと、あれは同一物の回帰だ」と同定するこの直感力のうちにあるのではないでしょうか。私はそれもまた一種の宗教的覚知のように思われるのです。

 なんだか最後は関係のない話にずれてしまいまいましたね。どうもすみません。

 ではまた。

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