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2005年02月21日

常識と陰謀

■ 天下無敵のブロガー

こんにちは。
平川ブログ、アクセス増えましたね。
ぼくもそうですけれど、ポリティカルな話題について書くといきなりアクセス数が増えるんですよね。
たぶん「ミツバチのダンス」みたいに、「あそこのサイトでポリティカルな話題についての言及があります。ぶんぶん」というようなシグナルが発信されていて、それに感応して人々がやってくるんでしょうね。
それにしても、人間て「政治」がほんとうに好きなんだなあと思います。
どんな話題よりも「熱く」なりますからね。
正直言って、ぼくは政治的なブログって、左右を問わずあんまり好きじゃないんです。
なんていうのかな、「党派性」が嫌いなんです。
ぼくのいう「党派性」というのは「政治的に偏っている」という意味ではなくて(政治的に偏ってない人間なんてこの世いいませんから)、「衆を恃んで」、数で押してくるというやり口のことです。
政治って集団的なものなんだから「衆を恃む」のは当たり前だろうという人がいるかも知れませんが、ぼくはちょっと違うと思うんです。
ぼくも政治的は発言をときどきしますけれど、それは「衆を恃んで」の発言ではなくて、どちらかというと「衆を結集する」ための発言だと思っています。
私はこの政治的論件についてこう思います、その論拠はこれこれしかじか。同意見の方、いらっしゃいますか?意見が合う人がいるとうれしいです。
というのがぼくの政治的オピニオンの提示の仕方です。
「衆を恃む」政論家はこれとは語り口が違います。
彼らは自分と同意見の人間が(潜在的にではあれ)多数派であることを「自明」の前提として発言しますから、そこには「説得」というモメントが存在しません。
そんなことないよ、彼らだって典拠を示したり、数値を挙げたり、データを羅列したりしてるじゃないか、と言う人がいるかもしれませんが、それは論敵を「論破する」ためのもの、相手を追いつめ、孤立させ、叩き潰すために功利的に利用されているにすぎません。意見の違う人、立場の違う人を説得して、同意を取り付けるためにそれらの言葉は動員されているのではありません。
相手を黙らせるために動員されている言葉。
そういうのって、言葉の使い方としていちばん哀しいと思いませんか?
ぼくはそういう言葉の使い方をしている人を見ると、気分が重くなってしまうんです。
そういうことしているとほんと身体に悪いぜ、と思って。

とにかく、政治的発言には「仲間を糾合するための言葉」と「敵を殲滅するための言葉」の二種類があります。
どちらも「敵をなくす」というのが最終的な目標なわけで、その点では「同じ」と言ってもいいんですけど、アプローチが違う。
「天下無敵」という言葉がありますよね。
これを「天下のすべての敵を私は殲滅する」という挑発的な宣言だと思っている人が多いと思うんですけれど、本旨はそうじゃないとぼくは思っています。
「天下に敵なし」というのは、むしろ「みんな仲間」という意味だろうと思うんですよ。
そんなことできっこないだろうと怒る人がいると思いますけど、「主体」と「他者」という概念そのものを書き換えればできないことはないと思うんです。
まあ、これは話し始めちゃうとやたらに長い話になるので、始めたとたんに切り上げますけれど、ぼくはそういう意味で「天下無敵のブロガー」をめざしているわけです。
もちろん、ぼくのサイトにも批判的な書き込みやトラックバックをしてくる人はあまたいるわけですけれど、ぼくはそういう「反対者」を排除したり黙らせたりする気はないんです。
前に書きましたけれど、ぼくの解釈する「言論の自由」というのは
「言う人」は好きなことを言いたいように言う。
その適否については「聞く人」に判断してもらう。
おしまい。
というものです。
ほとんどの人は「言論の自由」というと前段だけを強調しますけれど、ほんとうにたいせつなのは、「その適否を聞く人が判断できる」ような場を確保するという後段の方だと思うんです。

■「言論の自由」が損なうもの

十年ほど前に、フランスやドイツで「歴史修正主義論争」というのがあったのを覚えていますか?
ロベール・フォーリソンというフランスの歴史家(と言っていいのかな)が「アウシュビッツにガス室は存在しなかった。ユダヤ人たちはチフスで死んだのである」という「学説」を発表して大騒ぎになりました。日本でも、それを翻案した書き物を『マルコポーロ』という雑誌が掲載して、国際的なユダヤ人団体の圧力で雑誌そのものがつぶれたことがありましたね。
ぼくはフォーリソンの本を読んだんですけれど、序文を寄せていたのがあのノーム・チョムスキーでした。
チョムスキー曰く。
「このフォーリソンという人物の主張が正しいか間違っているか、私にはわからない。なんだか間違っているような気もするが、『それは間違っているんじゃないの』と思う言説についても、それを公刊する権利を私はあえて擁護したいと思う。」
なるほどね、と思いました。
仮に自分自身がそれに反対する理説であっても、それが自由に公刊され読者に提示される権利を私は保護したいという態度は政治的にはたいへんに正しいのでしょう。
「私は私に反対する人間の言論の自由を擁護する」というのは、たしかに美しい言葉です。
でも、この場合は「ちょっと待ってね。いくらなんでも…」という気がぼくはしたんですね。
チョムスキーさん、ちょっとそれ「言い過ぎ」なんじゃないですかって。
「ユダヤ人の絶滅収容所は存在しない。なぜならユダヤ人の殺害を記録したナチスドイツの公文書が存在しないからだ」という議論の立て方は、「常識的に判断して」無理筋だと思うんです。
ぼくがチョムスキーに感じたのは、「いくらなんでも非常識な…」という感覚だったんですけれど、「理屈としては正しいけれど、なんか非常識」ということってありますよね。ぼくはこの「常識的に考えて…」という「行き過ぎた原理性に対する違和感」もまた言論の自由を生き残らせるためには不可欠のファクターではないかと思うんです。
チョムスキーの発言はたしかに「言論の自由」の原理に忠実なものです。でも、この「言論の自由についての原理主義」というのは、「言論の自由」の本質的な豊かさを蝕むもののようにぼくには思えたのです。
「言論の自由」というのは、ほんとうはチョムスキーが考えているほどに原理的・固定的なものではないと思うんです。
「あなたのいう『言論の自由』の定義って、ちょっと違うんじゃないのかなあ」という「原理」そのものについての批判や検証も「あり」ということじゃないと、「言論の自由」にはならないのじゃないかと思うんです。
チョムスキーの理屈で言えば、「私たちは言いたいことは、なんでも言う権利がある。それによって傷つく魂があろうと、破壊される美があろうと、踏みにじられる条理があろうと、言いたいことを言う権利は万人にある」ということになると思うんですけど、言論の自由のめざしていることって、そういうもんじゃないでしょう?
言論の自由っていうのは、そんなふうな硬直したごりごりしたストレスフルな原理じゃないと思うんです。もっと、風通しのよいものでしょう?
自由というのは、「自由でなければならない」というような拘束的な語法で語られるものじゃないと思うんです。
何て言うのかな。
チョムスキーは非常識じゃないかとぼくが思ったのは、たぶん彼の言葉に「愛」がないからなんですよ。
言葉に「愛がある」か「ない」かって、わかるじゃないですか。なんとなく。
チョムスキーの序文には「原理に対する誠実さ」はあるんですけれど、彼が擁護している当のフォーリソンや彼が適否の判断を委ねている当の読者たちに対する敬意や愛情は感じられないんです。
言論の自由の第二原則の「適否は聞く人に判断してもらう」という言葉づかいからもわかると思うんですけど、これは「判断してもらう」という語の「もらう」という敬語部分が実はたいせつなんですよね。
「もらう」は「言葉を差し向ける当の相手に対する敬意」の表れです。
読者に対する敬意が込められていないなら、いくら形式的に読者に適否の判断を委ねるかたちにしてあったも、それだけでは「言論の自由」は立ちゆかない。
ぼくはそう思うんです。
例えば、こういうテクストを書いているときに、ぼくはこれを読む人に対して、どれほどの敬意と信頼を寄せているだろうか…とときどき筆を止めて(キーボードの上に指を泳がせ、かな)考えるんです。
「慇懃無礼」という言葉がありますね。
でも、「愚見の当否のご判断は読者諸賢に委ねたい」というような言い方は形式的には敬意の表現なんだけれど、読者を愚弄するような薄ら笑いを浮かべながらそう書くことだってできるわけです。
だから敬意って、ことばの表層にあるものじゃないということはわかるんです。
じゃあ、どこにあるかというと…
対話性っていうのかな。
「ぼくにはよくわからないんだけど、あなたは、どう思いますか?」という問いかけが、外形的な修辞としてではなく、言葉の底流に、書き手の息づかいというか、立ち姿勢みたいなものとして存在する、ということがたいせつなんじゃないかと思うんですね。

ぼくは「対話の原理主義」とか「他者性の原理主義」みたいな風儀にどうもなじめないんです。
あるじゃないですか、ポストコロニアル批評とかポストモダン批評とか。「対話せねばならない」とか「他者と向き合わねばならない」とかいう口吻で説教するやつ。
あれって、何か「常識的に考えて」変でしょ?
「さあ、対話をしましょう。対話によって、私たちの個別的な言説のイデオロギー性や臆断を乗り越えようではありませんか」というような言い方って、何か「常識的じゃないよ」ということですね。ふつうはそんなふうに言わないから。セックスする前に女の子に「さあ、エロス的合一めざして愛し合おうじゃないか」なんて言わないでしょう。ふつう。
相手に向かって言葉を発するときって、別に準備していた「正しい」台詞を読み上げるわけじゃなくて、その場でその場の空気に触発されて生成してきた言葉が口を衝いて出てくるわけじゃないですか。それが対話性というものだと思うんですよ。「対話とはかくあらねばならない」というような決めつけをして臨んでも、対話は少しも豊かにならないし、愉快にもならない。
じゃあどうするんだと凄まれても、こちらも正解を知っているわけじゃない。「だから、ま、常識的にね、総合的に判断をしてですね…もごもご」ということになるわけです。
「言論の自由」のいちばん根本にある知見というのは、「何が正しいのかわからない」ということですよね。
「そもそも『言論の自由』ということ自体、正しいのか正しくないのか、よくわからない」という「メタ・わからない」性が言論の自由の最良の質を担保しているんじゃないか、と。ぼくはまあそんなふうに思うわけです。

■複雑系としての人間社会

さて、ややこしい話はいずれまた蒸し返すとして、ビジネス論に行きましょう。
サラリーマンたちの愚痴の構造って、平川くんの言うとおりですね。
「現実はもっと悲惨で、救いがない」という現状認識があって、その現状は「自分は〈被害者〉である。どこかに自分の苦しみから受益している〈加害者〉がいるはずだ」というかたちで説明される。
ご指摘のとおり、この論法はマルクス主義的思考のうちに典型的に見られたものでした。
「社会の矛盾を一身に集成しており、そのせいで社会全体を解放することなしには自己解放しえぬもの」というのが「理想的被害者」としての「プロレタリアート」の定義ですが、その対極には当然のように「自分以外のすべての社会集団を利用し収奪することで受益している理想的加害者」が想定されていました。
この「被害者」の対極にはその陰画として「加害者」が存在するというのはある種の宗教的信憑にすぎないということは、十年ほど前に「複雑系」という概念が普及したあたりでみなさんも一応納得してもらえたと思うんです。
もとより平川くんには説明する必要なんかないんですけれど、「複雑系」というのは単純に言ってしまえば「入力と出力が一対一的に対応しているわけではない」システムのことです。
プリゴジーヌの「バタフライ効果」(北京で蝶が羽ばたきすると、それによって生じた空気圧の変化が太平洋を越えてカリフォルニアにハリケーンを起こす、というあれです)という絵画的な比喩で知られるように、「わずかな入力の変化が劇的な出力の変化を結果することがある」のが複雑系の特徴です。株式市場における投資家の行動から鳥の渡りまで、現実世界のほとんどすべての事象は複雑系です。
だから、「自分が悲惨な人生を送っている」という事実からは「その悲惨な人生から受益している人間がいる」という事実は演繹できない、というのが二十世紀以降科学的な「常識」に登録されたはずなんです。にもかかわらず、あたりを見渡して見ると、これを「常識」として日々ものごとを判断している社会人て、ほとんどいないんですね。ほんとに、こういうことこそ「常識だろ」と思うんですけど、「常識」って意外に「常識」とされてないんですね。
「受益者」というのを(むかしのマルクス主義が「ブルジョワジー」という概念に託していたように)人格的なものとしてイメージするのはさすがにいくらなんでももう無理なので、人々は「自分の苦しみから受益している〈社会構造〉」というものをイメージして、それをなんとかしろ、というふうに問題を整理しているわけですね。
でも、それって「人格」を「構造」と言い換えただけで、発想の本質はぜんぜん変ってないんじゃないかな。

「陰謀史観」というものをご存じだと思います。
フランス革命がありましたね、1789年に。そのとき特権を剥奪された貴族や僧侶たちの一部はイギリスに亡命するのですが、亡命先のロンドンのサロンに集まっては「どうしてあんなことが起きたんだ?」という議論に日々を費やしました。
どうして「あんなこと」が起きたのか分からなかったんです。
あれよあれよという間に、ブルボン王朝の瓦解というような「大事件」が起きたわけです。
古典的な線形方程式な思考をする人間は「出力としての大事件」には「入力としての大事件」が一対一的に対応しているに違いないというふうに推論します。
ブルボン王朝は巨大な権力システムですから、それを瓦解せしめるものは当然にもそれ以上の巨大な権力システムでなければなりません。
しかし、そんなものはフランス国内のどこを見渡しても存在しない。
たしかにジャコバン派は革命後に一時的に権力を掌握したけれど、革命以前には王朝を転覆せしめるような実力も組織力も有していなかったし、その〈恐怖政治〉もきわめて脆弱な政治的基盤しか現に持っていなかった。
となるとそこから導き出される結論は論理的には一つしかありません。
それは、革命を起こしたのは、王政と同程度の実力と組織力を有する「不可視の政治組織」である、ということです。
ジャコバン派もプロテスタントもフリーメーソンもババリアの啓明結社も聖堂騎士団も、すべてはこの「不可視の政治組織」がコントロールしている。
という「物語」を作り上げることで、論理的には一件落着したわけです。
そして、この「〈表〉の統治が及ばない全世界のすべての個別的政治活動を〈裏〉で統御している不可視の政治組織=闇の世界政府」についてありとあらゆる流言飛語が飛び交うことになったわけです。
この発想法は〈ユダヤ人の世界政府〉から始まって、007号の仇敵〈スペクター〉、レーガン大統領の〈悪の帝国〉、ジョージ・ブッシュの〈ならずもの国家〉と連綿と語り継がれて今日に至っているわけです。
オレはこんなに必死に働いているのに、ちっとも愉しくない…という事実から出発して、直線的に「ということは誰かがオレの労働を収奪し、オレの苦しみから快楽を得ているということになる」という推論のレールの上を進んでゆく人間は今でも決して少なくありません。
でも、そういう人は「フランス革命のときの陰謀史観論者」から実はほとんど進化していない。
このような思考類型をとりあえず「線形的思考」というふうに呼んでみることにします。
平川くんがキャリアについて書いているように、キャリアというのは「事前には存在できない」ものですね。
まさに「ぼくの前に道はない」。
「社会が免許や学歴でわたってゆけると考える人の前に開けている社会ってのは、免許や学歴が幅を利かせている社会でしかない」という指摘はほんとうにその通りだよなと思います。
線形的思考をする人間は「未知」というファクターを排除します。
線形的思考の代表選手は「ラプラスの魔」です。
「私に宇宙の初期条件を開示せよ、さらば、この宇宙で未来に起こるすべてのことを私は言い当ててみせよう」と豪語したあの近代科学主義の悪魔です。
システムの初期条件が開示されれば、それから後に起こるすべてのことは予見可能である、というのがニュートン=デカルト的な静止的宇宙観でした。
でも、量子物理学以後、私たちはそのモデルがもう使えないということを理論的にも実験的にも熟知しているはずです。
線形的思考の根本的な難点は、「これから起こる変化」について精密な予測を立てる人は、その予測が精密であればあるほど、「これから起こる変化によって〈予見者〉自身も変化する」というファクターを勘定に入れ忘れるということです。
坂本九の『悲しき60歳』という歌を覚えていますか?
「見初めた彼女は奴隷の身、だけれどぼくには金がない…」というあれです。
で一念発起して「マネービル」(古いねえ)をしたムスターファ青年は刻苦勉励ついに奴隷の彼女を買い戻すだけの資産を蓄えるのですが、そのときは「今や悲しき60歳」になっていたわけです。
でも、この歌の悲劇性は、いつのまにか60歳になってしまって素敵な彼女ももう60歳の老婆となっていた…という種類の悔いに存するのではありません。
そうではなくて、若いときの欲望にドライブされて60歳までの人生を単線的に律したムスターファくんが、「60歳のガキ」になってしまったという悲惨さのうちにあります。
キャリアパス的思考のピットフォールというのはここだと思います。
18歳や20歳のときの幼い想像力が描いた「アチーブメント」とか「サクセス」の呪縛に未来をまるごと投じることのリスクを過小評価してしまうこと。
これに尽きると思います。
それは自分の未来の未知性、「自分がこの先どんな人間になるのかを今の自分は言うことができない」という目のくらむような可能性を捨て値で売り払うということに等しいのです。
複雑系としての社会には二つの側面があります。
「先がどうなるか正確に予見することはできない」ということ。
これはぼくたちにある種の無能感をもたらす場合があります。
もう一つは「わずかな入力の変化で劇的な出力の変化が生じることがある」ということ。
これは「レバレッジ」に行き当たりさえすれば、一人の力で宇宙全体さえ動かせるという多幸感をもたらす場合があります。
この無能感と多幸感の「あわい」を遊弋すること、それが複雑系としての社会を生きる人間のマナーだとぼくは思うのです。
と、話は唐突に終わりますが、続きをよろしく。

投稿者 uchida : 12:25 | コメント (0)

2005年02月11日

キャリアという自己商品化

ミーツの江さんが青い顔しているって?
そりゃそうでしょうねぇ。
砂塵の荒野から馬に乗ってやってきた「悪い兄たち」が、いきなり、茶店にわらじを脱いで、
昼間っから酒飲くらって、のんびりと詩論だものね。
こいつら、いつになったら動き出すんやろか...。
雇ったはずの用心棒の先生は一向に働いてくれない。
看板に偽りあり。羊頭狗肉。馬耳東風。蛙の面にしょんべん。
「先生!頼みますよ。」
「わかった、わかった、皆まで言うな。でもまず茶を一杯」
これは頼んだ相手が悪かったとあきらめてもらうしかないですね。
(ごめんね。江さん!)

■ 職場の地獄

というわけで、ここらですこし、メタフィジカルなところから降りてきて、現在のビジネス状況に関して、問題になっているらしいことを俎上に上げてみたいと思います。

実は、ぼくもウチダくんに倣って、ブログというものを作ってみました。最初は、なんだか、自分の日記を毎日公衆の面前で書くなんていうのは、気恥ずかしいというか、露出趣味というか、嫌だったのですね。
それでも、ブログがインターネットの世界で、見る間に増殖し、いったいこれって何なんだということで、半年ぐらい前に実験的にふたつの無料ブログサイトにホームページを作ってみたわけです。
最初の数週間は、毎日20とか30のアクセスで、なんか張り合いねぇなぁって思っていたのですが、このところ急激にアクセスが増えてきて、たまにポリティカルな発言なんかをすると、賛否両論あいまみえるって具合で、アクセスが1000を突破したりする。
妙なもので、こうなると毎日書かないと何か、善意の第三者を裏切ってしまうような心持ちになって、書くことが何もなくても義務感に突き動かされてつい、コンピュータに向かってしまう。
おもしろいもんですね。
まあ、ウチダくんのブログは毎日7000を越えるアクセスがあるってことで、これに比べればかわいいものなんですが、それにしても、歴史上このような形でひととひとが繋がってゆくなんていう経験は無かったわけです。インターネットという発明自体は、確かに画期的だったのですが、それをこのようなツールに育てたのは世界中のユーザーで、この使われ方は発明のインパクトを遥かに凌駕していると言わねばなりません。

そのブログ中で、ぼくの反戦略的ビジネス論に関して、今の会社の状況はお前が言っているような悠長なものではない。努力や辛抱なんかするだけ無駄である。現実はもっと悲惨で、救いがないんだ。毎日やりたくもない残業をやらされ、時間外には飲みたくもない酒をのまされ、馬鹿な上司に安月給でこき使われて、捨てられる。まあだいたいこんなことをいう方たちが出てくるわけです。

よくはわからないのですが、たぶん団塊の世代の最後の方、四十後半ぐらいに結構このような感慨を懐いている人がいる。
俺は救われるのかと思ってお前の本を買ったのに、やたら横文字や引用ばかりで、役に立たない。本代を返してもらいたいくらいだ。
まあ、こんな反応があったわけです。

まあ、それだけだったら、ぼくはスルーしちゃうんです。
いや、それはご自分で考えてくださいということです。
不満居士はいつの世も、活性化の原動力ですからね。

自分が被害者である。どこかに加害者がいるはずであるという語り口は、ぼくたちは十分に経験してきているわけです。ちょっと大げさに言えば、そこに戦後の左翼運動のもっとも脆弱な論理を見てしまうわけです。ひとの言説の説得力の度合いを、どれだけ社会から虐げられた存在であるのかによって測定する。そこにあったのは、プチブルである自己を、革命運動によって超克してゆくという奇怪なロジックでした。しかし、自らがプチブルであったぼくたちがこの論理の脆弱性を克服してゆくのは、案外難しいことでもあったわけです。そこに出てきたのが自己否定というものでした。

しかし「てめえらなんぞに、おれの苦しみがわかってたまるかよ」という恫喝に対して、学生左翼も、文学青年もたじろいでしまうなんていうことがあったのだと思います。しかし、こちらも長年人生をやっていると、いろいろなことがわかってくる。被害妄想的な言説の背後にある欲望や甘えも見えてしまうようになる。
俺たちはそのあたりのことは、承知しているよ。
体験済みのことだよということですね。

しかし、まあ、ぼくは社長しかやったことがないし、好きなことしかやってこなかったので、実際のところがよくわかっていないのかも知れない。ということで、現実はそんなにひどいんですか、昔よりひどくなっているのですかって、ブログを通じて聞いたわけです。そうすると、何人かの信頼できる書き込みをする方たちが、確かに今の職場はひどくなっている。意識的な人間ほど痛い目を見ているみたいな観察を送ってくれた。
で、まあひょっとするとこれはパーソナリティの問題なのではなくて、ビジネス社会における構造的な問題なのかと考えてみました。
しかし、これを経済市場主義、市場万能主義の進展による、労働抑圧の進化であるなんていうような社会学的な説明しても、しょうがないじゃないかと、ぼくは思っているわけです。

確かに、ここのところの十年は、終身雇用性を前提とした雇用システムが、なかば意図的に、なかばやむなく崩壊し、変わって自己責任、労働市場の流動化、それに伴う、成果主義、能力主義といった労働思想が台頭してきたことは事実です。こういったアメリカグローバリズムの進展を日本の企業社会は否応なく受け入れているわけです。それが、人を幸せにするシステムではないとは、言いやすいことですが、多少格差が広がっても、平均点を引き上げるという方向は今後も変わらないように思えます。これは、経済成長神話がなくなるまで、続くと思います。

で、じゃあどうすりゃいいだよということなんだと思います。

■ キャリアアップとか差別化の意味するものは、自己の商品化ということ

上の問題をぼくは、すこし別の角度から考えた方がいいんじゃないかと思っています。最近、新聞、テレビ、週刊誌などでは、やたらとキャリアアップだとかキャリアパスなんて言葉が出てきます。
大学までも、キャリアデザインなんて学部が、大手を振って受験案内に登場する。

ぼくたちの頃は、「手に職をつけなさいよ」なんて、言われたものです。
で、この手に職をつけるってことと、キャリアアップってことは、似ていてまったく非なるものだろうと思います。

最近は大学に通いながら、職業訓練校に通うなんてことが随分あるそうで、ダブルスクールなんて言うんだそうです。これは、まあ大学で教わることは社会に出たら役に立たない。実践的な知識は、訓練学校で学ぼうという防衛戦略なんだろうと思います。
尤も最近では大学もこの「市場ニーズ」を先取りして、実学優先、社会ですぐに使える法律だとか、コンピュータだとか、語学だとかを教える学部があちこちに出来ているわけでウチダくんもブログに書いていた東京都の大学なんていうのは、大学全部が職業訓練校みたいな風になった。

ぼくなんかは、ビジネスの現場から見ているので、この「市場ニーズ」なるものが、いかにいい加減で、あやしい者であるのかは、身体に刷り込まれているわけです。
で、ここにはふたつの思い違いがあると思っています。
ひとつは、
キャリアというものを見につける方法なり、学というものがあるということ。それを学べば未来を決定できるということです。ここには、未来ということに対する決定的な誤解があるのですが、それについては後ほどお話できればとおもいます。
もうひとつは、
社会は、そういったキャリアの護符(免許とか学歴だね)を、大変ありがたがっているということ。そして、それが就職に大変優位に働くということです。
このふたつは、どちらも、まったくあてにならない信憑なのですが、結構今の賢い若者たちの心理に食い込んでいるんですね。

まずは、キャリアですが、まさに字義のとおり、キャリアとは事後的に獲得されたスキルなり、経験の堆積を指しています。社会に出るということは、実は「免状」も、「学歴」も関係ないということを思い知らされるということです。ぼくたちの翻訳会社もそうでしたよね。英検だとか、TOFLEだとかいろいろあったけど、こういったものは仕事には使えないもんだってのは、はなから分かっていた。むしろ、過去にどういった仕事を何年やってきたのかということが、翻訳をするためのバックボーンになるのだということが自明のことだったわけです。
ぼくは、学生の頃水泳をやっていたのですが、上達するのはカナズチだった奴です。スイミングスクールの先生と話をしたことがあるのですが、かれもまったく同じことを言っていました。武道だってそうですよね。器用な奴ほど、わかったつもりになって早く潰れてしまう。不器用だからこつこつと努力をしていると、いつの間にか見違えるようになっている。でも、そこに至る近道はないんですね。
キャリアは事前には存在できないという当たり前のことが、わからなくなっているだろうと思います。

もうひとつの、社会がそれをありがたがるってことですが、これはそう考えるひとの社会観そのものを反映しているわけです。社会が免許や学歴でわたってゆけると考える人の前に開けている社会ってのは、免許や学歴が幅を利かせている社会でしかない。
もちろん、そういった社会ってありますよ。(ほんとは、ほとんどないんだけどね)
だから、キャリアパス的なものを選択したってことは、すでにそういったつまらない社会をも選択したということに気づいて欲しいわけです。
無時間モデルで、急げは急ぐほど、ことの順序が逆転するという傾向が出てきます。

武道を長年やってきた、ウチダくんやぼくには自明のことなんだけど、基本と応用の関係は、よく誤解されるんですね。大学や、訓練校でやっているのはあくまでも基本です。それが、どんなに高度で、複雑なものであっても、基本は基本です。
社会ってのは、まさに応用です。基本と応用というものが、通常は応用が基本の上位にあると考えられているようですが、違いますよね。
これは、同じものを異なる位相からアプローチしてゆくということだろうと思います。で、基本から応用に入るときにもっとも大切なことは、何ごとも基本どおりにはいかないものだと気づくことなわけです。つまり、これまで学んできたことをいったん、解体するという作業が必要になるってことです。
逆に、応用から基本に入るという作業も必要なことであるわけです。

おっと、つらつら書いていたら長くなりすぎましたね。
基本と応用の違い、そしてそれがどのように、今の労働状況につながってくるのかについては、次回にまた続きを書きます。
もちろん、ウチダくんが先に答えを出してくれちゃっても構いません。
では。

投稿者 uchida : 08:26 | コメント (0)

2005年02月02日

エクリチュールの魔

■ことばの虜囚

『東京ファイティングキッズ』がぜんぜん「ファイト」しないで、しみじみ詩論なんか語っているので、『ミーツ』の江さんはきっと顔色を悪くしていることでしょうね。
「いったい、いつになったら、『若い奴らにばーん』が始まるんですかあ?」
なかなか始まらないものなの、こういうのは。もう少し待ってて下さいね。

平川くんが指摘しているとおり、いまの僕たちの言説空間では、「ことばに対する敬意と慎み」の大切さがなかなか理解されていないと思います。
いまの言説空間に瀰漫しているのは「ことば=道具」という言語観です。
「寸鉄人を刺す」とか「筆誅を加える」いう言い方がありますが、この「寸鉄」とか「筆誅」というときの「ことば」はあきらかに「攻撃のための利器」として観念されています。
僕自身も勢いでそういうことばの使い方をしてしまうことがあるので、えらそうなことは言えないのですが、ことばを道具にして功利的に使用したことのある人間は誰でも経験的にわかることがあります。
それは「ことばを道具にする人間」はかならず「ことばによって道具化される」という逆転です。

平川くんが挙げた「2ちゃんねる」の例を借りることにします。僕はこういう剣呑なところには足を踏み入れない主義なので、ずいぶん前に必要があって一二度覗いたきりですが、そのときに感じたことは「発信者が個体識別できない」ということでした。
そこに欠如しているのは「一方的、刹那的な言葉の使い方に対する内省」どころか内省の基盤となりうるような「発信者の唯一性」の欠如のように僕には思われました。
「言葉を発するまさにそのときに現れるためらい、恥じらい、逡巡、あきらめといったネガティブな心象であるといっても構いません」と平川くんは続けていますが、僕も同意見です。
人間の個性は「理路整然と言い切られた言葉」や「快刀乱麻を断つ言葉」
を介してではなく、「言いよどみ」や「前言撤回」のうちに、ほとんどそこにのみ生き延びるチャンスがあるからです。

「2ちゃんねる」的な語法の本質的な不毛さは、そこで誰かが語るのを止めたときに、その発言者が消えたことにおそらく誰も気がつかないという点に存すると思います。
しかし、僕たちがことばを語るのは(こんなことをいまさら力んで書くのも何ですが)、自分の唯一無二性のあかしを求めてのことです。
「私以外の誰によってもまだ口にされたことがなく、私がいなければこれからも決して誰によっても口にされることがないはずのことば」を探り当てること。そして、その「唯一無二のことば」の発言者であるという事実によって「私の唯一無二性」を基礎づけること。
僕たちとことばの緊張関係というのは、ほとんどこの一点にかかっていると思います。

ことばを道具にする人間は、「ことばを道具として扱っている主体」の自己同一性(デカルト的「コギト」ですね)を自明のものとしています。
透明で叡智的な主体が、軽やかにキーボードを叩いて、道具的ことばで事象をさくさくと切り刻む。
なかなか快適そうな風景ですけれども、そのようにしてことばを軽んじる者は、自分が道具として操っているつもりのことばにやがてゆっくりと侵蝕されてゆきます。
「営業マンのエクリチュール(あるいは「おばさんのエクリチュール」あるいは「ヤンキーのエクリチュール」などなど)」で語る人間は、最初は「営業マン(その他)のエクリチュール」を習得することのあまりの容易さに驚き、ついで、そのような語法を軽々と使いこなす自分の言語能力に満足します。しかし、やがて、そのエクリチュール以外のいかなる語法でも語ることができなくなっている自分を発見する(ふつうは「発見する」ところまでたどりつけないうちに寿命が尽きますが)。
ことばを道具として使うことのこのような「リスク」についてアナウンスする人が僕たちの社会にはほとんどいません。

僕は麻生総務相という人をときどきTVで見て、興味深く感じるのですが、あの人は昔はあんなに口が曲がっていませんでしたね(覚えてますか?)
どちらかというと政治家にしては端正な顔立ちの人だったと思います。
それがある時から「口の端を歪めて物を言う」ようになった。
それは「いま言っていることばはオレの本心じゃないよ(まあ、お前らなんかにはオレの本音のところはわからねーだろうけどな)」という非言語的なシグナルで、そのシグナルは「与党政治家のエクリチュール」としてはある意味たいへん定型的なものでしたから、彼のメッセージは視聴者にちゃんと伝わりました。
なるほど、うまい方法があるものだ、と思ってときどきTVの画面を眺めていました。
でも、効果的すぎるというのも考えものですね。
そのうちに彼の口の端はどんどんつり上がってきて止まらなくなり、今では顔の半分が上に向かって歪んでしまいました。
彼は今おそらく「口を歪めないで」はひとことも発することができないのでしょう。
これは「口を歪めて言う」というような身体操作まで「エクリチュール」は含んでいるということを教えてくれる好個の適例だと思います。
ことばは僕たちの思考を制限するだけではなく、身体の組成まで変えてしまう。
それくらいの力がことばにはあるんです。
だからこそ、自分の身体の唯一無二性を信じるなら(実際にそうなんですから)、「自分の身体が気持ちよく感じる自分のことば」を探り当てることにもう少し知的リソースを集中してもいいんじゃないかなと思います。
ことばが外部に与える「政治的効果」よりも、ことばが「内面」に響かせる「未聞の体感」を優先的に配慮する方がたいせつなことなんじゃないか。僕はそんなふうに思っています。

■ 時間と畏怖

このような言語観から導き出されるのは、「言語の主体そのものが、それが発している当の言語に遅れて到成する」という逆説です。
「自分が言ったことばによって自分が考えていたことを知る」という言い方をよくしますね。
「知る」というのは「自分の語ったことばを自分で聴く」というプロセスだろうと思うんです。
ここには二人の「自分」が登場します。
「語る自分」と「聴く自分」。
そして、この二人の「自分」は自己同一的であって、自己同一的ではない。
何しろ時間差があるんですから。
でも、「聴く自分」の「あ、これは〈私〉のことばだ」という確信にゆらぎはない。
そうですよね。

フランス語では「思う」という意味の動詞にse dire というものがあります。
これは英語的に書き換えると talk to oneself あるいはtalk oneself ということになります。
「自分に向かって語る」あるいは「自分自身を語る」というのが「思う」という行為のフランス的解釈なわけです。
なるほど、いかにもフランス的ですが、僕はこのことばは「深い」と思いました。
どこか「よそ」から聞こえてきたことばを「これは私が発したことばである」と「聴き取る」とき、同一の時間軸上に前後わずかに乖離している「二点」が生じます。
「ことばを発した私」は「そのことばを聴いた私」よりどうしたって時間的に先行しています。
その二人の「別の私」がそれにもかかわらず「同一の私」であるという確信。
それが自己同一性ということです。

自己同一性というのは「同じものは同じものである」という同語反復ではありません。「『違うように見えるもの』が実は『同じもの』である」という「命がけの跳躍」によってはじめて立ち上がるものです。
「違うもの」を「同じ」と錯認する能力がないと自己同一的な「私」は立ち上げられない。
時間差がないと自己同一性というものは基礎づけられない。
そういう意味において、「私」というのは時間的な現象なんです。
というか時間軸がなければ決して「私」というものは成り立たない。
そのときの「ああ、これが〈私〉なんだ」という自己同一的確証は、つねに「〈私〉と名乗る者が語ったことば」を「私のことば」として聴くという「他者性の繰り込み」に支えられています。
「私」が「私」であるのは、「私じゃないもの」を「私」だと思い込んで「私」のうちに繰り込むという歴程を不可避的にたどる…という論理的な順逆の狂った仕方で僕たちの自己同一性や主体性は基礎づけられているわけです。

僕たちがいまの支配的な言説形式に違和感を覚えるのは、この「私ならざるもの」が言語活動のうちに深く広く浸潤しているという事実に対する「畏怖」が不足している、と感じるからではないでしょうか。
平川くんは「尊敬とつつしみ深さ」と書いていますが、僕はもっと強い「畏怖」という語をそれに書き加えたいと思います。
自分の語っていることば(いま僕が書いているこのことばでさえ)、僕の自由にはならないし、まして僕の自己表現なんかではもとよりない。
僕のことばは「言語が言語そのものの理法と構造について語る」というある種のアクロバシーにわが身を「供物」として捧げることの「余波」「余沢」みたいなものだと思うんです。
わかりにくいことばかり書いてすみません。
でも、わかるでしょ?

以前に平川くんが「ビジネスをやっていると、お金は『川』のように横をざあざあ流れて行く。必要があれば、そこに『ひしゃく』を突っ込んで掬いだして、飲む。でも自分の『貯水池』みたいなところにお金を貯め込もうとすると、いずれ『川』は流れなくなる。水量の多い『川』の横にいれば、お金には不自由しないもんだよ」ということを言っていましたね。
僕はその話にとても感銘を受けたのを覚えています。
ビジネスを「詩」に、「お金」を「ことば」に書き換えると、平川くんのビジネス論は実は詩論と同一の構造を持っているように僕には思えたから。
この間の出版記念パーティでも平川くんは二十代に書いた『絵画的精神』と五十代で書いた『反戦略論的ビジネスのすすめ』がほとんど同じ内容だったということを話していましたね。
ことばへの自己供与、ビジネスへの自己供与(それによって「ちょっぴり余沢に与る」)という構図は、たぶん「交換」という原事実にたいする身の処し方としてはあまり違わないんじゃないか。僕はそんなふうに思いました。
詩論と同一の論理構造を持つビジネス論。これはたぶん前代未聞の論だと思います。
そろそろビジネスに話を戻して、青い顔をしている江さんを安心させてあげませんか?
ではまた。

投稿者 uchida : 13:02 | コメント (1)

2005年02月01日

言葉に対する敬意と慎み深さ

■ 言葉と立ち位置

小池昌代さんの詩、とてもいいですね。
まず、言葉というものについて根底的に考えた人なんだなということがわかります。
ぼくも、若い頃へたくそな詩をたくさん書きましたので、言葉というものに対する立ち位置についてはすこしは、考えてきました。
感覚的に言えば、それはまさに、「大初に言葉ありき」というその地点ににじり寄るということになるのだろうと思います。
大初の言葉の中には、未生の感覚、未聞の体験が眠っています。

言葉は、語られたものでも、書かれたものでも、それが第三者と分かちあえなければ、意味がない。いや、分かちあえてはじめて、単なる単語が意味として立ち上がってくるのだろうと思います。
こういった詩人的な感覚からすれば言葉を他者に届けるという、伝達的な言葉というものはあまりに暴力的で、威圧的に見えてしまいます。
言葉がそこに在る。
発話者と受け手には、言葉をはさんで攻守ところを変えるだけの時間が必要です。
そして言葉の重力を分かち合う。言葉が消える。感覚が立ち上る。
そういうプロセスが詩の力なんだろうと思います。
ちょっと、茫洋とした言葉論ですが、そんなことを考えさせてくれる詩でもありました。

ここで、詩の言葉の意味を詮索するのは、野暮だと思いますが、修辞的には
  
 地球の中心が いまここへ
 じりじりとずらされても不思議はない

というフレーズが、利いていますよね。この二行によって平凡な朝の、りんごの重さやてのひらの微細な感覚が、一挙に地球という普遍的で大きな物語に向かって開いてゆきます。そして、対比的に襲ってくるのは微細なものに対する愛情であるといったら、言い過ぎでしょうか。

それは別の言い方をするならば、言葉というものが、自分の内から外へ、他者へ、他処へ向かって発せられるものであると同時に、それを発するや否や、自分の内へ、中心へ向かって突き刺さってくるものでもあるという二重性を気づかせてくれるものだということです。
こういった言葉のもつ不思議な作用に自覚的であるという起ち位置を、ぼくは、「言葉に対する尊敬とつつしみ深さ」であると言っておきたいと思います。

言葉に対するつつしみ深さと尊敬は、人間が生きてゆく上で、大変大切な作法だと思うのですが、どうも昨今はそれが見失われているような気がしてなりません。デジタルな媒体に乗って(ぼくたちもふくめて)ひとはどんどん饒舌になってゆきます。
しかし、この饒舌には、言葉の肌理(きめ)というような重要なものがすっぽりと抜け落ちてしまいます。

言葉が一方的に他者へ向かうとき、それは命令、統御、訓致、非難、嘲笑、呪詛、欺瞞、詐術のための道具にならざるを得ません。
言葉もまた、武器として使われるようになったという意味です。
端的に言えば、言葉の使い方、作法が違っているよということです。

たとえば、「2ちゃんねる」に展開されている匿名の饒舌な言葉を思い浮かべてもいいかも知れません。
ここに徹底的に欠如しているのは、一方的、刹那的な言葉の使い方に対する内省だと思います。
内省って何だよ、と言われるかも知れません。
それは、言葉を発するまさにそのときに現れるためらい、恥じらい、逡巡、あきらめといったネガティブな心象であるといっても構いません。
他者に向けては、同意と承認を求め、同時に自分の内においては、その言葉に値する自己であることを問い直す。そのことが「恥じらい」とか「ためらい」という感覚が生まれてくる基底なのだろうと思います。
「2ちゃんねる」という匿名コミュニケーションの「場」についての評価をするほど、中味を見ているわけではないので、いまのところは、ああいうのがあってもいいとしか言いようがないのですが、韜晦というか、犬儒派的というか、その文体にぼくが感じた違和感は、表現の自由とか、匿名性の効用とか、実況性なんていうジャーナリスティックな言葉で説明できないものです。
一言で言えば、すいぶん言葉がやせ細って、軽くなっちまったということです。

ご存知のように、ぼくがビジネス論を書いたとき、真っ先にやろうとしたことも、ビジネスの言葉遣いについての考察ということでした。

ぼくたちぐらいの年齢になると、目が悪くなったり、腹が出たり、物忘れが激しくなったり(これはぼくは若い頃からですけど)と、ネガティブなことを実感することが多いのですが、言葉に対する感覚という点では、若い頃にはよく見えなかったことが、見えるようになったということだけは、確からしく思えます。

通俗的に言えば、「いやよいやよも好きのうち」なんていうことが、よくわかるようになったということです。
武器として使われる言葉。道具としての言葉。ものやことがらの名前としての言葉。そういった言葉は、同時にかれにそういった言葉を選ばせたものを否応なく伝えてしまいます。丸谷才一的な比喩で言えば、裏声ということでしょうか。
それを言葉遣いの背後にある、見えない欲望といっても良いかもしれません。
そして、今の時代というもののひとつの特徴は、自分が言葉を発するときに、その発話者が自分の見えない欲望に対して、もっとも無自覚になってしまったということなのだろうと思うわけです。

業を重ねて、渡世を渡ってきたものには幾分かはその欲望が透けて見えるようになっているものです。
よくわかる、というのは、一つの言葉というものが、ただの道具や感情のはけぐちであるのか、それとも自分でも良く見えない欲望にたじろぎながら選ばれたもの(供物といってもよいかもしれません)であるのか、その辺りについてわかるようになったということだろうと思います。

ウチダくんがどこかに書いていましたが、高橋源一郎さんが、三行読めば、作品の良し悪しを判定できると言うのも、こういった言葉の背後の見えない欲望と書き手の立ち位置の関係が透けて見えるということなんじゃないかと思うわけです。


■ ゲームはすでに始まってはいたけれど

ウチダくんは、「創造者ではなくて、祖述者である自己規定」について大変示唆深い考察をしてくれました。
そして、その理由としてとてもわかり易い比喩を使ってくれたと思います。

『「自分が起源である」「自分が新しく始めるんだ」ということにしてしまうと人間
は「力」が出ない。
 そうではなくて、「ゲームは私が到着する前からすでに始まっていた」ということ
にして、私は「起動者」ではなく「パスする人」であると自己規定すると、なんだか
フットワークがたいへんよろしくなる。』

この話を伺っていて、ぼくは一つのことを思い出しました。
(これって、まさにベイトソンだね。)
そのお話ってのは、こういうものです。

以前、テレビで大江健三郎が「レナードの朝」という映画について、印象に残るお話をしたのです。
大江氏にとってはは、お子さんのこともあって、この映画のひとつひとつのシーンがたいへんに切実なものであっただろうと思います。
ウチダくんは、この映画見ましたか。
映画は、デ・ニーロとロビン・ウイリアムスという当代アメリカを代表する名優の火花を散らす演技が見ものだったのですが、これが実話であるということが、単なるエンタテイメントとは異なった感興を作り出していました。

映画の舞台は、パーキンソン病の患者のいる病院で、眠ったきりの患者や、意識が混濁した患者からは、未来があらかじめ失われてしまっています。
そこに、ロビン・ウイリアムス演じる精神科医が当時、禁じ手であった医薬の投与を行います。
そして、一瞬の奇跡が起こります。
眠り病の患者たちが、つぎつぎと覚醒してゆきます。
しかし、その覚醒は長くは続かず、患者たちは一瞬の覚醒の後、また永い眠りに入る。
この映画を見て大江健三郎は、とてもおもしろいことを言ったのです。
ぼくたちの人生もまた、この患者と同じである。ぼくたちの前にも後ろにも長い眠りがある。生きているということは、暗闇の歴史の中で、そのときだけボッと明かりがついているような感じだ。だけど、この明かりは長い歴史を通して、点いては消え、消えては点く。そういったバトンタッチが行われている。ぼくたちの点けた明かりが前の世代の明かりを継承している、ぼくたちの消滅後に、また誰かが明かりをつける。こう考えると何か救われる感じがする。

だいぶ前のお話なので、本当にこんなことを大江氏が言ったかどうか自信がないのですが、ぼくはこのように記憶しました。
大江氏のキーワードは「救い」だと思います。ぼくは、このお話から、「敬意」という感情のよって来たるところのものを教わったように思います。

敬意という感情は、人間のあらゆる感情のなかでも、大変説明の難しいものです。
それは、目の前の人間に対する、愛情でもないし、ましてや自分より優れた人間に対する敗北宣言でもない。
対幻想のなかにもなく、共同幻想のなかにも存在しえない、ふしぎな感情です。
敬意は、上下、敵対、共同といった空間的な理解のなかには生まれてこない。
たぶん、長い時間というファクターを入れないと、敬意のよってきたるところのものが良くわからない。
いや、よくわからないが、そのわからなさの中に自分が投ぜられているという気づきがなければ、敬意もまた生まれてこないのではないでしょうか。
当今の思考の型を見ていると、どうもこの時間に対する配慮が極端に欠如しているように思えます
それは、人間があまりに「効率」に支配されたために、白か黒か、損か徳か、速いか遅いかといったことにスティックしてしまった結果なのではないか。
どうしたら、こういったフェテシズムから自由になれるのだろうか。

ウチダくんの「師の卑小なコピーという起ち位置」についてぼくは、こんなことを考えたのでした。

ではまた。

投稿者 uchida : 17:08 | コメント (0)