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2005年04月02日

ブリコラージュ的知性について

■ 自我とオムレツ

平川くん、どうも9からあと、間を空けてしまってすみませんでした。
極楽麻雀でご一緒でさんざんしゃべったせいで、「間をあけた」という実感はないんですけどね。
しかし、三月は忙しかったです。
極楽スキーに極楽麻雀に極楽合気道の「極楽三連荘」でしょう。
その間に「死のロード」(二日間に講演1、対談2、インタビュー2、宴会2…)がありましたし。
中旬には二週続けて橋本治さんと高橋源一郎さんと対談したのがヘビーでした。
最大限まで知的テンションを上げないとあの方たちの超高速で展開するお話にはついていけませんから。対談が終わったあと、脳の緊張が解けて「じゅるじゅる」と音を出して崩れてゆくのがわかりました。
ほんとに。
平川くんも日本のトップマネジメントの方々とお付き合いがあるからわかると思いますけれど、あのレベルの方たちと話すときって、「手持ちのカード」を並べて見せただけではまるで「勝負にならない」んですよね。
「相手がいま切ったばかりのカード」に、こちらの手札から使えそうなカードを抜き出して作った「別の手」で「切り返す」というような感じのことをしないと、対話的コミュニケーションにならない。
こちらにどれほど知的な「ストック」があって、博覧強記を誇っても、「かねて用意のストックフレーズ」を独白するかぎりでは、まるで対話にはなりません。
でも、こちらの「ストック」が多少貧弱でも、そのストックの「使い回し」ができると対話はなんとか続けられる。
つまり、相手が振ってきた論件について、「あ、そういえば『それ』って、『あれ』ですよね?」というふうに受けているとなんとかなる、ということです。
相手の振った「それ」がぼくにとっては未知の情報であっても、文脈からこちらにとっては既知の「あれ」との関連性が浮かび上がる…ということってありますでしょ?
ぼくが今回の二回の対談でしみじみ感じたのはこの「ストックの使いまわし」ということの大切さでした。
日本の最近の小説をどうカテゴライズしたらいいのかという話のときに国際関係論のスキームを思い出し、コピーとオリジナルの位階差を論じているときにキャロル・キングと大瀧詠一の関係を思い出し…と、まあ、その程度のことなんですけど。
そんなの、相手の差し出す「未知」をそのつど手前の「既知」に回収しているだけだから、ぜんぜん対話的な自己超克がなされてないじゃないか、というような異議をさしはさむ方がいるかもしれません。
でも、そうでもないんですよ。
「『それ』って、『あれ』ですよね」のときの「あれ」はもうぼくにとって既知の「あれ」ではなくて、新しい文脈に置かれ直して、ぼくの知らなかった別の相面を示している「あれ」なわけですから。
「〈自我〉って、まあ言ってみれば、〈オムレツ〉みたいなものです」というような言い方をしたときに(これはぼくのでまかせじゃなくて、ラカンのことばなんですけど)、ひとたびそういう言い方がなされたあとは「自我」も「オムレツ」もそれまでとはもう「別の概念」ですよね。
だって、これから先はオムレツをみるたんびに「あ、これがラカンの言う〈自我〉なのか…で、どのへんが〈自我〉なの?」と思わざるを得ないし、逆に、〈自我〉という字を見るたびに〈オムレツ〉を思い出すわけで。

■『ののちゃん』とレヴィ=ストロース

この間、朝日新聞の朝の四コマ漫画の『ののちゃん』で、お母さんが「非常持ち出し品」としてきゅうすと下駄と殺虫剤と枕カバーと割り箸を並べてみせる、というのがありました(平川くんち朝日新聞じゃないの?)。
それを見て、おばあさんが「なんやコレ、火事であわてて火鉢かかえて逃げるんと同じやで」となじるのですが、お母さんは「よーく考えたら、こうなるのヨ」と答えます。そういわれたおばあさんが五つのオブジェをじっと見つめているうちに、「ほんまや、なんでも役に立つ気がする!」というオチなんです。
ぼくは新聞をぱらりと取り落として、思わず「おお、これってまるでレヴィ=ストロース…」とつぶやいてしまいました。
そうなんですよ。
これって、レヴィ=ストロースのいうところの「ブリコラージュ」(bricolage) そのものだから。
こういうところに、ぼくはいしいひさいちの天才を感じました。
平川くんには説明不要ですけれど、読者のみなさんのためにちょっとご説明しますね。
フランス語に「ブリコルール」(bricoleur) ということばがあります。
これは「専門家よりも遠回りなやり方で、自分の手で物を作る人」のことです。
レヴィ=ストロースは『野生の思考』の第一章「具体の科学」で、このような「ありあわせの道具材料を使いまわしして技術的要請に応える態度」を近代人の「科学的思考」に対して、「神話的思考」と名づけました(「野生の思考」とはこのことです)。

「神話的思考の特徴とは、構成要素が雑多で、広範囲にわたってはいるが有限の語彙を使って自己を表現することにある。どんな仕事の場合でも、それを使用するしかない。というのは手元にそれしかないからだ。」(Claude Lévi-Strauss, La Pensée sauvage,
Plon, 1962,p.26)

「ブリコルール」の仕事ぶりはこんなふうに進みます。

「計画を立てると彼はわくわくする。でも、彼が最初にやるのは回顧的な手続きである。これまでに集めたり作ったりしてきた道具と素材の全部を彼はじっとみつめる。そして、その一覧表を作るか、あるいは新しく作り直す。そして、ここが肝心なところなのだが、彼はそれらの道具材料を選び取る前に、彼の抱える問題にこれらすべての素材と道具がどんな応答をなし得るのかを数え上げるために、それらと対話を始めるのである。彼の〈宝庫〉を構成するこれらの雑多なオブジェに彼は問いかけ、それらのひとつひとつが何を〈意味する〉ことができるのかを知ろうとするのである。」(Ibid., p.28)

ブリコルールの野心は「有限のリソース」から「無限の意味」を引きだそうとするところにあります。
ですから、彼はどんなものを見ても、どんな役に立ちそうもないものを見ても、「でも、これにも何か使い道があるんじゃないかな?」(Ça peut toujours servir)と自問することを止めません。
彼は一本の木の枝を、あるときは「土を掘る道具」として使い、あるときは布と組み合わせて「テントの支柱」として使い、あるときはボートと組み合わせて「舟の櫂」として使い、あるときは皿と組み合わせて「すりこぎ」として使い、あるときはそのままで「孫の手」として使う…というふうな「使い回し」するわけです。
ブリコルールの知的努力は「一つの道具・素材が適用しうる限りの使途」の発見に集中されます。
『ののちゃん』のおばあさんが五つのオブジェに注ぐまなざしは、その意味でまさしくブリコルールのものでした。

ぼくは長いあいだ、どうしてサルトルの『弁証法的理性批判』を徹底的に批判したレヴィ=ストロースのこの書物が「ブリコラージュ」の話から始まるのか意味がわからなかったのです。
それが『ののちゃん』を見て、「あ、そうか!」と腑に落ちたんですよ。
レヴィ=ストロース自身が「ブリコルール」だったからなんですね。
レヴィ=ストロースが「野生の思考」に「科学的思考」に対するのと同等の威信を求めたのは、べつにレヴィ=ストロースが「第三世界の抑圧されたサバルタン」にポストコロニアリズム的な共感を寄せていたからではなく(それもあったでしょうけれど)、レヴィ=ストロース自身が「野生の思考」の人だったからなんです。
それが最初に『野生の思考』を読んでから30年経って、やっとわかりました(「年をとらないとわからないことがある」というのはほんとうにそうですね)。
レヴィ=ストロースの最初の大仕事は「親族組織の構造法則は音韻の構造法則と同じである」というアイディアから出てきた『親族の基本構造』です。
言語学者のローマン・ヤコブソンからニューヨークに行く船の中で音韻論の話を聞いているうちに(ふたりともユダヤ人だったので、ヨーロッパから亡命するところでした)、レヴィ=ストロースは「あ、『それ』って、『あれ』じゃないか!」と膝を叩いたわけです。
この「『これ』って、『あれ』じゃないか」的な発想法をレヴィ=ストロースは「ブリコルール的思考=野生の思考」と呼んだのでした。
言語学の概念は専一的に言語現象の分析にしか適用できないという硬直した発想をとらないレヴィ=ストロースは、音韻論のアイディアを「親族組織」や「婚姻規則」というぜんぜん別のカテゴリーの現象にあてはめてみて、「同一規則がぴたりと当てはまる」ことを発見しました。
これこそ「ブリコラージュ」そのものです。

サルトルという人は、レヴィ=ストロースからは、たぶん「科学的思考」の権化に見えたんでしょうね。
「科学的思考」というのは、過度に「脳化」した思考法だと思います。
脳というのは、たいへんにすぐれた臓器で、膨大な量の情報を詰め込むことができます。脳にはいくら詰め込んでもそれでも一人の人間が集積できる程度の情報では「メモリー」がいっぱいになるということはありません。
ですから脳化した思考は「明晰判明にして一義的」な概念をとにかくたくさん揃えてきます。
新しい語、新しい概念、新しい理論、そういうものがいくらでも詰め込めるわけですから、当然古い術語や古い概念や古い理論は「使い捨て」にしてよいということになります。
サルトルはそういう「概念の大量生産・大量流通・大量消費・大量投棄」という近代的な趨勢のある種の先導者のようにレヴィ=ストロースの目には見えていたんでしょう。
たしかにサルトルにはそういう傾向がありました。
それは52年の「サルトル=カミュ論争」のときに、サルトルがカミュを批判したロジックから伺うことができます。
サルトルの批判はレジスタンスを領導したときのカミュは歴史的に正しかったが、階級情勢の変化に即応することを怠り、いままさに階級的急務であるところの第三世界の民族解放闘争への全面的コミットをためらうとき歴史的に過っている、というものでした。

「君が君自身であり続けたいのなら、君は変化しなければならない。しかし君は変化することを恐れた。」(『革命か反抗か』)

サルトルはこう言って、カミュに思想家としての死を宣告したのでした。
政治思想も芸術的前衛性もわずか数年で陳腐化し、「歴史のゴミ箱」に投じられる。だから、絶えず「最新情報」にアンテナを張り巡らせ、「最新流行」にキャッチアップし、「最新の理説」を「最新の術語」で語り、ついてこられない人々を「反歴史的」と一刀両断する。
このサルトルのスタイルはその頃すでに現代人の「ふるまい方の自明」として共有されかけていたわけですが、レヴィ=ストロースはおそらくそれにきっぱりと「ノン」をつきつけようとしたのです。
人間にとってたいせつなのは「新しい状況」にそのつど「新しいスキーム」をあてはめるせわしない知のアクロバシーを演じ続けることではない。そうではなくて、人間がこれまで拾い集め、蓄え、作り上げてきたすべてのものに向かって、「でも、これにも何か使い道があるんじゃないかな?」と問いかけることではないのか。
レヴィ=ストロースはそういうことが言いたかったんじゃないか。
ぼくにはそんなふうに思えます。

■ 自分の身体を勘定に入れる

そして、ここからぼくの思弁の暴走が始まるのですが、レヴィ=ストロースの言う「神話的思考」をぼくは「身体的思考」と言い換えることができるんじゃないかと思うのです。
どうしてかというと、脳はさきほどいいましたように「情報の大量摂取・大量廃棄」をまったく苦にしない臓器です。苦にしないどころから、それこそが脳の本性と言ってもよいと思います。脳はいくらでもストックをふやすことができます。
でも、身体はそうはゆきません。身体的リソースは「有限」だからです。
細胞の数は決まっているし、臓器だって、骨だって、血管だって、神経だって…「手元にあるだけ」しかありません。
身体を使うというのは、畢竟するところ、有限数の「ありもの」をどう「使い回し」して、新しいパフォーマンスを達成するか、という「ブリコラージュ問題」です。
ぼくたちは長く武道をやってきたわけですから、身体機能を上げるということは何か外部的な要素を「付加する」のではなく、「すでに持っている身体要素」の「これまでそんな用途で使ったことのない使い方」を探り当てるということだということは身に染みてわかっているはずです。
「術」というのは端的に言えば、「そういうふうには使わない」関節を使い、「そういうふうには使わない」筋肉や腱を使うということですよね。
それは武道に限らず、舞踊や演劇でも変らないと思います。
だから、自分の身体的なパフォーマンスを高めることに強い興味を持続的に抱いていた人間は、多かれ少なかれ「ブリコルール」的になるように思うんです。
ものの考え方までが。
ぼくの場合は間違いなくそうでした。
ぼくは合気道を稽古し始める前は、かなり「脳的」な少年でした。
それは「情報を片っ端から詰め込み、片っ端から棄てる」ということを正統的な知的活動だと信じていたということです。
でも、身体的なパフォーマンスの向上をめざすにつれて、そういう考え方がだんだんなじまなくなりました。
腕を上げるというような動作ひとつにしても、そのために使っていない身体の部分があると、「もったいない」という気がしてきたんです。
腕をつかまれて、それをふりほどくように相手を投げるときでも、「腕だけ」で仕事をするわけにはゆきません。正中線も体重の移動も腰の回転も呼吸も目付も内臓の筋肉も、もう使えるものは総動員します。
だから、ふだん自分の身体をチェックしているときにぼくが何を考えているかというと、「これにも何か使い道があるんじゃないかな?」ということです。
ね、身体技法って、本質的に「ブリコラージュ問題」でしょ?
「心身一如」とか「文武両道」ということばをただのご託宣だと思っている人が多いと思うんですけれど、ぼくの「暴走的」解釈によれば、これは「有限のリソースの使い回しによる意味の創出」という「非-脳的な情報戦略」を活用しなさいという教えではないか、と。そんなことを考えています。

どうしてこんな話をしてきたかというと、平川くんのいう「自分を勘定に入れる」「自分を勘定に入れない」というのは、自分の身体をどういうものとみなすかで分岐するような気がしたからです。
「自分」というものを「純粋な機能」と考える人にとって、自分の身体はできるだけ「勘定に入れたくないもの」です。
一方に身体を豊かな「宝庫」とみなし、そこから無限の意味を汲み出そうと望む人にとって、身体は「対話」の相手です。敬意と好奇心を抱いて自分の身体とかかわる人間にとって、「自分を勘定に入れる」ことは自明のことです。
自分の身体も、無数の過去の記憶も体験も、さまざまなネットワークの中で演じている社会的機能も…すべては「ブリコラージュ」における「手元にそれしかない」ところの道具であり素材である。ぼくはそんなふうに考えています。

ぼくはよく「ウチダくんは『たとえ話』がうまいですね」と言われますけれど、それは「『これ』って、『あれ』じゃない」という発想をいつもしているということですよね。
「抑圧」って『ぶす』じゃない?とか「去勢」って『こぶとり爺さん』じゃない?とか「他者」って「死者」じゃない?とか「沈黙交易」って「アマゾン・ドットコム」じゃない?とか、さっきやったばかりの『ののちゃん』てレヴィ=ストロースじゃない?とか…
手元の「ありもの」情報をいろいろな文脈で、そのつど違う機能の素材として、くるくると「使い回す」こと。
ぼくはこの技法を武道の修業をつうじて学んだような気がします。

ぼくたちはかつての政治の季節に「自分の拳に託すことのできないような思想は語るな」というフレーズをずいぶん愛用しましたね。
そのことばを口走っていたときのぼくたちは「拳」=身体というものを思想の有効範囲を限定するものというふうに観念していたように思うのですが、あれから30年経ってわかったことのひとつは、「拳」はそのころ考えていたよりもはるかに奥深く、滋養あふれる思想の培養基であったということです。
だから、いまぼくがあのフレーズにことばを付け足すことを許されたとしたら、「自分の拳の蔵する豊かさを知らない人間の語る思想はあまりに痩せている」と書き足すことでしょう。

話がますますとりとめもない方向に暴走してしまいましたが、続きをよろしく!


投稿者 uchida : 2005年04月02日 23:56

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