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2005年05月04日

インビジブル・アセット

TFK12

■ アセットと兄弟仁義

第11便からだいぶ間をあけてしまってすみません。

もう四月から忙しくて、たいへんなんですよ。
管理職って、考えてみたらちゃんとした仕事としてやるのはこれがはじめてなんです(アーバン時代も「管理職」だったけど、「管理される人」がいない「管理職」でしたからね)。
一月やってわかったのは、管理職の仕事は、何かを「する」ということ以上に何かを「させない」ことに配慮することだ、ということでした。
一月くらいで軽々に結論を出すと、社長業だけ30年やってる平川くんに笑われそうですけど、うちみたいな200人くらいの中企業規模の「専務」(なんですよ、これが)のメインの仕事って、「どうやってアクティヴィティを高めるか?」というより「どうやってアクティヴィティを損なうファクターを〈無害化〉するか?」なんです。
つまり、「謝罪」と「調整」と「慰撫」と「激励」。
ビジネスマンというよりはスクール・カウンセラーですね。
ほんとに。
でもね、平川くん。これくらいの規模の組織だったら、水準以上の仕事をしてくれる人が20%くらいいれば、残り80%は「邪魔をしない」でいてくれるだけで、十分機能するんじゃないでしょうか?
ですから、この「邪魔」(ってよく見ると「すごい字」ですね)が巨大化する前に、「芽」の段階で摘み取る、というのが組織防衛上の急務となるわけです(なんか「地球防衛軍」みたい)。
ぼくは武道家ですから、そういう「邪魔芽」の気配のようなものについての感度は悪くはないんです。
そして、どこでも同じですけれど、基本は「情報」ですね。
何が起こりつつあるのか、事態が危険なレベルに達する前に、その徴候を察知して、手だてを講じること。
ほとんどそれだけがぼくの管理職としての仕事みたいです。

そのためにたいせつなのは何よりもまず「アセット」です。
「アセット」というのは、大学の場合だとあちこちの学科学部や職域に散らばっている「仲間」のことです。
ぼくはこのことばを「そういう意味」で使うというのをロバート・レッドフォードとブラッド・ピットの『スパイ・ゲーム』という映画で知ったのです。
「アセット」(資産)というのは情報機関の用語では「情報提供者」「敵地におけるコーディネイター」のことです。
スパイの世界では、ひとりひとりのスパイが固有のルートでリクルートしてきた「アセット」を擁していて、同じスパイ組織の上司同僚に対してでさえ、その存在を明かさないんだそうです。
この「アセット」はもちろん買収したり、脅したり、あるいは何らかの対価を支払ってやってもらう場合もあるんですけれど、どうも「アセット」であること「それ自体」に人を惹きつけるある種の「磁力」のようなものがあるようにぼくには思われるのです。
別に「アセット」になっても何の利益もないのに、「アセット」になってしまう。そういう人がどうもけっこういるみたいなんです。

例えば、『昭和残侠伝』における花田秀次郎(高倉健)と風間重吉(池部良)の関係なんかそうですよね。
花田くんと風間くんはそれぞれ属する組が違っていて、組同士は仇敵同士なんですけど、二人は「兄弟盃」で結ばれている。そして、ときどき中立地帯の飲み屋の二階なんかでふすまを締め切って「うちのおやじはオレがなんとか抑えてみせるから、そっちはお前が抑えてくれるな」「おお、若いもんにこれ以上血を流させちゃならねえよ」というような密談をしているわけですね。
『仁義なき戦い』の第一部における広能昌三(菅原文太)と若杉寛(梅宮辰夫)もそうでした。広能は山守組の幹部、若杉は土居組の若頭。組長同士はいがみあっているけれど、二人は獄中で血を啜りあった兄弟盃。そして、なんとか組同士の抗争を防ごうと…(以下同文)
別に彼らは、そのようなネットワークを有していることで政治的にも経済的にもとくに「利益」を得ているわけではありません。
もちろん、それぞれの組のはね返り分子がテロに走ろうとするときなんかにブレーキとして働くことはありますけれど、むしろご本人たちは「板挟み」になって苦しむことの方が多いだけなんです。
でも、日本の伝統的なドラマツルギーはこの「兄弟関係」と「上下関係」の葛藤を描くのが大好きなんです。そして、東映ヤクザ映画を徴する限り、より純良でより根源的なのはいつだって「兄弟関係」の方なのです。
このへんに「アセット」の人類学的起源があるんじゃないかなと思います。

■クラとアセット

マリノフスキーの研究で知られるトロブリアンド島の「クラ」の儀礼も本質的にはたぶん同じものだと思います。
平川くんはご存じでしょうけれど、改めて読者のみなさんのためにご紹介すると、「クラ」というのは閉じた環をなす部族間で行われる交換儀礼です。
交換されるのは「ソウラヴァ」と呼ばれる赤い貝の首飾り(これは時計回りに交換されます)と「ムワリ」と呼ばれる白い貝の腕輪(これは反時計回り)。この二つはぐるぐる回りながら、そのつど種類の違ういろいろな品ものと出会い、それと交換されます。どの部族でも、「クラ」儀礼に参加できるのは限られた成人男性だけです。彼らは交換品を受け取り、短期間所有したのち、それを次に送ります。つまり、交換に参加した人は隣接する部族に何人かの「クラ仲間」を持つことになるわけです。
彼らの関係についてマリノフスキーはこう書いています。

「この共同関係(パートナーシップ)は(…)終生の関係をつくりあげる。一人の男がもつ相手(パートナー)の数は、その身分と重要度によって異なる。トロブリアンドの平民は、ほんの数人しか相手がいないが、首長は何百人も相手がある。」(マリノフスキー、『西太平洋の遠洋航海者』)

このパートナー同士は「贈与と奉仕の相互交換」の関係(「二人の男のあいだに作る特殊な絆」)を長期にわたって取り結びます。
遠洋航海者であるトロブリアンド諸島の男たちにとって、渡航先の「不安で危険な土地」において、クラ仲間は「彼を客人としてもてなす主人であり、保護者、味方」であり、「クラの仲間が、安全を保証してくれる頼みの綱」なのです。
「クラ仲間」と「兄弟盃」と「アセット」はたぶん同一の人類学的機能を果たしているんじゃないか、ぼくにはそんなふうに思えます。

■交易という倒錯

ぼくが大学の管理職に任じられて一ヶ月経って、しみじみ実感じたのは管理職というのがほんとに「アセット勝負」の仕事だな、ということでした。
電話一本、メール一通、あるいは廊下での立ち話において、「あ、ちょっと、いい?」というコールサインだけで貴重な情報を提供してくれる「アセット」を、どれだけ情報レベルの高いところに何人確保しているかということが先に述べた「地球防衛軍」的活動においては死活的に重要になります。
もちろんこちらはその「見返り」にこちらからの情報を供与するわけですから、彼らから見れば、ぼくもまた彼らにとっての「アセット」なんです。この相互的な関係こそが組織の中の人間にとっては、「安全を保証してくれる頼みの綱」であるわけです。
でも、ぼくはこういうネットワークをあまり功利的なことばづかいで説明したくはないんです。
ぼくは別に「アセット」を「利用している」わけじゃないから。
そもそも、「いつか便利に使ってやろう」というようなつもりで信頼関係を築くなんてことはできやしません。
そうじゃなくて、いろいろな学科のいろいろな立場の人たちと「ネットワークすること」それ自体がぼくにとっては年来の楽しみの一つであったわけです。
そうやってできたネットワークが今となっては、情報収集上も、学内合意の形成上も、あるいは学内政治における安全保障上も有効に生きているわけです。
でも、別にそれを目的にして形成した信頼関係じゃないんです。

原因と結果を逆転して考える人が多いと思うんですけれど、こういう「交易」的関係が形成されるのは、それによって「利益」を上げるためではありません。そうではなくて、交易している人間は「交易すること」それ自体のうちに尽きせぬ愉悦を見いだしているんだと思うんです(これは平川くんの「一回半ひねりのコミュニケーション」という持論を繰り返しているだけなんですけど)。
この愉悦そのものは「不可視」ですよね。
「気持ちがいい」という心的状態そのものは外形的には表示できませんから。
でも、気持ちがいいので交易をしていると、それに付随して、いろいろな「目に見えること」が起きる。
例えば、クラ儀礼における二つの装飾品はいずれもサイズが小さすぎて成人男性は装着することができません。つまり使用価値はゼロなんです。それはあくまでクラ仲間の「絆」の記号にすぎない。
でも、この「無価値なもの」の交換であるクラ儀礼を遂行するためには船を仕立てて、遠洋に航海に出かけなくてはならない。だから、遠洋カヌーの建造技術や航海技術が洗練されることになります。せっかく船を仕立てて遠くまで行くんだからということで、それぞれの島では手に入らない日用品もついでに積載して、これもやりとりされます。
結果的に(あくまで「結果的に」ですけれど)、「絆の象徴的な確認」のための儀礼がこうして経済行為とみなされるようなダイナミックな活動を生み出してゆくことになる。
そういうものだと思うんです。
「アセット」はスパイ用語で「敵地にビルトインされた味方」だという話をしましたね。
それは当然にも「不可視のもの」でなければならない。
インビジブル・アセット。
『スパイゲーム』はこの「アセット」との信頼関係を国益よりも優先させるスパイの物語でした。ブラピは中国官憲に囚われて、広州の牢獄に幽閉されてしまいます。捕らえられたスパイを見捨てることをCIA首脳は決定するのですが、ロバート・レッドフォードは彼自身がリクルートしてスパイに仕立てたブラピを奪還しようと、他の「アセット」たちを駆使して、驚くべき作戦を立てるのです…
この行為はあきらかに論理的には「倒錯」しています。
国家的大義のためのスパイ活動であるはずなのに、スパイとアセットの間の「絆」を護ることがそれよりも優先するというのは「公務員としてのスパイ」にはあってはならない重大な就業規則違反です。でも、映画を見ているぼくたちは、この「倒錯」をむしろ人性の自然であると感じています。
たぶん、この映画は人間的コミュニケーション活動の根本にある「倒錯」を描いていて、ぼくたちにはそれがとても自然なもののように思われるということなのでしょう。

■西本願寺のクラフトマン

管理職の愚痴から話が飛んじゃってすみません。
でも、これは前回の平川くんが引いた宮本常一(いいですよね、この人)の「贈与と時間」にかかわる言及に触発されて書いているんです。
平川くんはこう書いてましたね。

「見えない誰かとの意思の受け渡しといったものが、どんな仕事に対しても手を抜かないという職人の倫理を育んでいるのだろうということです。ぼくは贈与ということの深い意味もこの中に潜んでいるんだろうと思います。」

ぼくが先に挙げた例に共通するのは、いずれも相手が「見えない」ような仕方で「隔絶」しているという点だと思うんです。
トロブリアンド島の航海者たちの前には地理的な「隔絶」としての西太平洋の海が広がっています。彼らは自分たちのクラ仲間との絆を確かめるために、木を切り出し、帆布を織って、遠洋航海用のカヌーを建造するところから始めなければなりません。
花田くんと風間くんの間には「渡世の義理」が強いる血腥い暴力的な対立が政治的隔絶として介在して、彼らの交易を阻んでいます。
『スパイゲーム』では、ブラピは広州の牢獄に幽閉されており、彼の奪還を企てるロバート・レッドフォードはラングレーのCIA本部の会議室から一歩も出ることが出来ません。
どこでも「隔絶」が「見えない誰か」との「交易」を阻んでいます。
しかし、そのことは交易者を萎縮させるどころか、彼らに例外的に高度な情報感知能力と行動力を賦与することになります。
つまり、交易の相手が「見えない」ということがむしろ交易へ人間を差し向ける欲望と情熱を強化する、そういうことじゃないかと思うのです。
いつでも会える身近な誰かに贈るときと、会うことの困難な相手に贈るときとでは、どちらがより良質のものをぼくたちは差し出すことになるのか?
これはあまり語られることのない問いですけれども、もしかすると、人間というのは「出会うことの困難な相手」を受け取り手に擬したときの方がものを作り出すパフォーマンスが高くなる、そういう不思議な生き物なのではないでしょうか?

ぼくは『インターネット持仏堂』のための写真撮影で、秋に西本願寺の書院を拝見させてもらう機会がありました。
そのときに驚いたのは400年前に建てられたこの建造物がすばらしいクラフトマンシップの傑作だったことです。障壁画天井画あるいは欄間の彫り物にほとばしるような「遊び心」が感じられました。この建物をつくったクラフトマンたちはずいぶん愉しい気分でこの仕事をしたんだろうな、そう思いました。
いまの建築家やインテリアデザイナーの中に、自分の作品が400年後になお見る人を感動させるほどのクオリティを保っているかどうかを自問しながら仕事をしている人が何人いるでしょう?
そもそも400年後も建っていられるような工学的配慮をして建物を設計する建築家が何人いるでしょう?
ぼくは安土桃山時代の大工や指物師や障壁画家たちの仕事が世界史的なクオリティに達しているのは、「彼らに才能があったから」とか「パトロンが大金持ちだったから」というようなことではないんじゃないかと思います。
そうではなくて、彼らは見えない相手(例えば数百年後の人間)に向けてその贈り物を差し出そうとしていたからだ。
ぼくにはそんなふうに思われるのです。

あらま、まためちゃくちゃ長くなってしまいました。
『ミーツ』も困るでしょうね。
ではまた。

投稿者 uchida : 2005年05月04日 13:07

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