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2005年10月13日

TFK19 非同期的なむすびつきと見えない時間

■見えないものが見えてきた

ウチダくん、こんにちは。
なんだか、お互いに随分オーバーアチーブしてますね。
ぼくは、今、一週間に一回から二回は大阪に通っているのですが、
ブログを見ていると、ウチダくんもそのくらいの頻度で東京へ来ているみたいですね。いつも、熱海あたりで、すれ違っているんですかね。
熱海で下車して、温泉にでもつかりたいですよね。
もっとも、ぼくは秘湯めぐりじじいですから、毎月どこかの
露天風呂に沈んでいるのですが。
ウチダくんが、「ためらいの倫理学」を書いてから、なんか
凄いことになりましたよね。
その様子が、よく分かります。
ブログ見てるからだろうけど、それにしてもこのブログってものは
おもしろいものですね。
全く会っていなくともお互いの近況が筒抜けになっている。

先日も、ミーツの青山さんを介して、
一度もお会いしたことのない方にお会いしたんだけれど、
お互いはブログを読んでいるんですね。
だから全然初対面の感じがしなかった。
そして、なんか、見えなかったものが、見えてきたという感じがしました。
それをすこしご説明します。
ブログにも書いたんですけど、
ここのところ、シリコンバレーで一緒に仕事をしていた仲間だとか、
お隣で事務所を開いていた方が、同じ時期にぼくのブログにコメントをくれて
それじゃ、会おうかってことになった。
お二人とも、それっきりの一期一会でも不思議はなかったのですが、
何かが「会ってみたら」と命じたわけです。
そのとき、なんとなく、ぼくも彼らのことを思い出していたのですが、
かつてなら、や、これはシンクロニシティってもんだと思ったはずです。
ところが、彼らはぼくのブログを読んでいたんですね。
そして、頃合をみて、シグナルを送ってきた。それも同時に。
もうひとつあります。
ウチダくんの先輩の田島先生からもコメントがきた。
以前に、偶然見つけた田島さんの文章を読んでぼくの中の何かが揺れ動いた。
そうしたら、そこにウチダくんのコメントがあった。
この話、ウチダくんにしましたよね。
それを、ブログに書いておいたら、インターネットつながりで、
彼もぼくのブログを読んでくれているということらしい。
こうやって、情報の尻尾みたいなものが時間を隔てて繋がってくる。
以前なら、「そりゃ、偶然だよ」って言っていたものが、実は
よく見えない時間の中で、必然の糸で繋がっている。
これは、実に不思議な感覚を運んでくれるものです。
ウチダくんは、若い頃こんな気持ちを持ちませんでしたか。
つまり、自分は、闇夜に強大な敵に向かって鉄砲を撃っている。
隣には誰もいないんです。しかし、どこか遠いところで、かすかに銃声がきこえる。
いや、聞こえないんだけれど、たぶん誰かが俺と同じように撃っているのがわかる。
ああ、自分の知らないところで、知らないやつが、同じ敵に向かって撃っているんだ。まあ、荒唐無稽な夢なのですが、最近、そういうことなのかと
思ったわけです。
思わぬところで。
電子メールが何でこんなに発達したのかご存知ですか。
いや、勿論いろいろな利便性があるからなのですが、
一番の理由は、それが非同期通信だってことらしいのです。
非同期って、英語にするとasynchronous、
つまりシンクロしていないってことなんですよ。
電話なんかは、相手と同じ時刻にお話するわけですが、
メールは、時間を隔てて、相手と繋がる。
電話だと、相手が留守だと、じゃ今度またかけ直そうというわけで、
いったん自分のメッセージを留保するのですが、メールの場合には、
相手がいようがいまいが、送信する。
そうして、一定の時間差の後に、返事が返ってくる。
この話、ウチダくんが以前にまったく別の文脈で書いていましたよね。
韓国映画『ラブストーリー』について書いてくれたことです。

ウチダくんはこんなことを書いていました。

─ 『ラブストーリー』はある「贈り物」が世代をまたがって交換され続ける、という話です。
その贈りものは、はじめある男が少女に贈り、少女が少年に贈り、少年が少女に差し戻し、少女(もう大人の女)が少年(もう青年になっている)に贈り、そして、青年の息子が女の娘に返す、というしかたで一巡します。
やりとりされるものそれ自体はたいして価値のあるものではないのですが、それが手から手へと交換されるにつれて、そこには「物語」が付加されてゆき、しだいにその意味が深まってゆきます。

メールやブログが発達した理由がこれで分かるような気がしませんか。
ウチダくんは、マリノフスキーが報告した、トロブリアントの「クラ」の儀礼になぞらえて、ここに文化人類学的な真理を見たと書いていましたが、メールや、ブログって
それ自体は、つまらないコンテンツであっても、それが非同期であるが故に、
時間を経過する毎に「物語」が付加されて、思わぬときに返ってくるという「時間の秘密」をうまく内包したコミュニケーションツールだったという訳です。

シンクロニシティは、実はア・シンクロニシティによって引き起こされていたっていうのが、大変興味深い点です。ぼくたちは、シンクロニシティに驚き、その「一致」に
神秘を感じていると思っていたのですが、本当は「一致」が成就するまでの「時間の秘密」に、驚いていたんじゃないでしょうか。

■ 見えていたものが見えなくなる

ここのところ「会社はだれのものか」という、岩井克人さんの著書をめぐって、
インタビュー形式で一冊の本(洋泉社)をつくっています。
で、共著者としてマイクロソフトの社長だった成毛眞さんや、吉本興業でやすきよのマネージャーだった木村政雄さんらを、巻き込んで、やっている。
かなり面白いものができそうです。
この本の出版と同時期に、この成毛さん、木村さん、それからジョージ・ソロスのアドバイザーだった、藤巻健史さんらとシンポジウムをやるんですが、
成毛、藤巻両氏は、ちょっと強面なので、すこし勉強しておこうかということで、
お二人と、もうひとり話題のマネックス証券の松本大さんによる『トーキョー金融道』を読みました。
そしたら、いや、よくわからないんですね。これが。
いや、確かに金融のプロのお話ですから、難しいタームがたくさん出てきて、
話も専門的でなかなかついてゆくのに苦労したんです。
でも、ぼくのいうわからなさは、そのコンテンツのわからなさとすこし違う。
金融の世界での日本的なしがらみに対して、いろいろ批判を加えているのだけれど
そういった批判を通して、何がおっしゃりたいのかという、
メタレベルのメッセージがよく見えてこない。
それは、たとえば理想的なシステムキッチンについて詳細に論じられた論文を
読んでいるような分からなさなんです。語られている内容は理解できても、
それで、著者が何を言いたいのかがよくわからない。
これは、ぼくが頭が悪いせいもあるんだろうけれど、日本語ってこんなに難しかったっけといった感じがしてしまう。
でも、あるところで、すこし分かってきた。

今話題の村上ファンドの村上さんが、東京スタイルという会社に要求をつきつけたとき、世論も新聞も、急に出てきて何でそんなこと言うんだと批判した。
これを受けて松本さんが
「それって、でも、資本主義を完全に知らない人間の言葉ですよ。なんのための株式会社か、と。株式って、時間の概念から解き放たれて、誰もがいつでも所有したり売ったりできるもんでしょ。」(98頁)
と言うわけです。

ぼくは、ああそういうことなのかと思ったのです。ぼくたちが、無時間モデルといって批判してきた、アメリカ流のビジネススタイルを、松本さんは、これこそが資本主義の常識なんだって言っている。そういうわけで、ぼくたちは、資本主義を「完全に知らない人間」なんだなと納得したわけです。松本さんという人は、一度お会いしたことがあるのですが、礼儀正しい感じのよい方です。ぼくは、この本を読んで、彼の膨大な知識とクリスプな言語感覚に圧倒されました。
でもね、ぼくはやはり、松本さんはずっと金融の勉強をしてきて、金融サイドの見方しかしていないと思うのです。
クリスプに見えるものしか見ようとしていない。
金融にとっては、時間という概念は最も無駄なもの、唾棄すべきものにならざるを得ない。でもぼくは、ビジネスってのは、「最初の贈与」からはじまって、時間の中を潜り抜けて、プラスアルファが返礼されるというプロセスの中に面白さも、スリルもあるんだと思っているわけです。ファジーであるから、面白いんですね。ぼくたちが苦労しているのは、このファジーなところを言語化しようとしているわけですから。

ウチダくんの前便の言葉を借りるなら、松本さんはまさに、アメリカという「エゴイスティックな親に育てられた子供」のひとりなんでしょうが、ぼくたちが自らの身体的な反応と、自らの立ち位置との間で、「ゆっくり発狂する」人間であるのに対して、そういったソリューションを必要としない、天才児が日本にも出現してきたという印象です。堀江さんや、村上さんなんかも、その一人かもしれません。こういったことは、これまではあまり感じませんでしたが、やはり戦後60年もたつと、ぼくたちとは頭も身体も使い方の異なる、若い人たちが出てきたんだなと思います。これを、進化というか、劣化というかの判断は差し控えたいと思いますが、それでも合理性を追求する過程で、「見えているもの」をあえて見ないようにしていると、ほんとにそれが無かったことのように見えてきてしまうということになるような気がしています。
これも、喩えは穏当ではないのですが、やはりアメリカは、ハリケーンに襲われたニューオリンズの人々は、アメリカには存在しないという立ち位置を採っていたんじゃないかと思えるのです。
それは、見えていても見えないものとして扱っていいんだと。
確かに、ビジネスでも政治のプロセスでもそういうことってありそうな気がします。3.14じゃなくて、3でいいんだということです。確かにそれで、世界はソリッドに形成してゆくことはできるかも知れない。しかし、ぼくはビジネスにおいても、政治プロセスにおいてもこの0.14が見えなくなったら、やる意味がないんじゃないかと思っているのです。ちょっと、いやかなり乱暴な議論ですが。
でも、やはり割り切れない世界を見る必要があるとぼくは思う。そういった意味でも、見えているアメリカだけを見て、アメリカはうまくいっているんだといった思考法を解体してゆく必要があるんだと思います。

投稿者 uchida : 2005年10月13日 09:13

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