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2005年10月13日

TFK20 負け方と貨幣と時間

■負け方の研究

平川君こんにちは。
ほんとに熱海あたりでのんびりしたいですね・・・って、来月は湯本で温泉麻雀じゃないですか(わーい)。
先般、「甲南麻雀連盟」という組織を立ち上げました(『ミーツ』の江さんも会員なんだな、これが)。
麻雀文化復活のための礎石となってですね、うちでごろごろ定期的に麻雀をやる予定です。
平川君もお断りもせず勝手に「甲南麻雀連盟・参与」に会員登録しておきました。へへへ。
今度大阪に来て一晩ゆっくりできそうなときには江さんも交えて芦屋で麻雀やりましょうね。
とりあえず、僕のほうは『街場のアメリカ論』と『知に働けば蔵が建つ』(それにしても、ひどいタイトルだな・・・)の二つを書き上げたので、年内は論文を二本書いて、校正をあと二冊片付ければいいはずです(希望的観測)。
それにしてもどうしてこんなにいろいろなところから仕事が来るんでしょうね。
先先週は読売新聞からポストフェミニズムについて、先週はNHKラジオから少子化問題についてご意見を訊きたいと言ってきました。
なんで僕に「そんなこと」を訊くんでしょう?
フェミニズムや少子化問題の専門家なんて、「それで飯を食っている」方々がいくらだっているわけです。
素人の僕に意見を訊きたいというのは、「専門的知見」ではなくて、「素人の常識」が訊きたいということだと思うんです。
それだけ「素人の常識」とメディアで語られている言説のあいだに温度差があるということなのでしょうか?
あるいは、僕に何かを言わせに来るメディア関係者は(平川君が言うように)闇の中で「同じ敵に向かって撃っている」らしい遠い銃声を聞き当ててここまで来たのかもしれません。
もしそうだとすると、これまでずいぶん間遠にしか聞き取れなかった「闇夜の銃声」がだんだんかたまってきたのかもしれませんが、まあ、これも希望的観測ですね、きっと。
フェミニズムについてはブログに少し書きましたけれど、「死に水を取る」思想家が名乗り出てこないとまずいんじゃないかということを話しました。
「棺を覆いて定まる」と言いますけれど、思想は最後にその功罪について総括をする当事者が必要です。
「喪主」は当事者じゃないとダメなんです。
評論家みたいな人が「フェミニズムはね・・・」なんて言っても総括にはならない。
イズムの現場でこれまでやってきて、イズムから贈り物も受け取ったし、えらい迷惑も蒙ったけど、そのイズム抜きには今語りつつある自分がありえないようなかたちでコミットした人間しか「喪主」にはなれない。
僕はそう思うんです。
きちんとした「喪の儀礼」を執行しさえすれば、思想の最良の部分は生き残れる。後世の人々がその余沢を受け取ることができるし、いつまでも感謝される。
でも、それを怠ると思想は「生き腐れ」になってしまう。
フェミニズムの「死に水」を取る人がどうして出てこないんだろう、ということをそのときには話しました(記事にはなりませんでしたけれど、当然にも)。
「思想の死に方」についての真剣な吟味って、あまりする人がいないけれど、とてもたいせつなことだと僕は思うんです。
エマニュエル・トッドが『帝国以後』で「アメリカをどう死なせるか」が喫緊の国際社会の課題であると書いていました。
アメリカの没落は世界的な規模の災厄のトリガーになりかねません。でも、アメリカの没落の趨勢はもはやとどめられない。
だとしたら、「どうやったら、アメリカの没落がもたらす災禍を最小化するか」というプラクティカルな問いに焦点化すべきだとトッドは書いていました。
クールな考え方です。
僕はこういう発想は重要だと思います。
「・・・はもう古い」とか「・・・はもう終わった」というように決め付けてなにごとかを語ったつもりでいる人が僕は大嫌いなんですけれど、それは「それまで生きて呼吸してそれなりに生を享受し愉悦していた<もの>が<弔われぬ死>を迎えるときにもたらす災禍」を顧慮していない発言だと思うからです。
フェミニズムについても、「もう古い」とか「終わった」とかいう決め付けをする人たちがこれからわらわらと出てくるでしょうけれど、そういう付和雷同的な断罪の言説には僕はつよい警戒心を抱いています。
思想史に(プラスマイナスいずれであれ)大きな変化をもたらした運動と理説には、それが頽勢の局面のときにこそ、それにふさわしい敬意を示すべきだと僕は思うんです。
ラジオでしゃべった少子化についての僕の意見もそれとたぶん同じ問題設定だったように思います。
日本が縮んでゆくという後退局面で遭遇する可能性のあるリスクをどうやってヘッジするかというプラクティカルな問いを立てる人はほとんどおらず、どうやって「盛り返すか」ばかり議論が集中している。
それはつきつめると、「負け戦をどう戦うか」という問いを真剣に考える知的習慣がなくなってしまったことに起因するのではないでしょうか。
「頽勢」局面というか、「後退戦」というか、そういうしんどい局面をそれなりに生産的かつ愉快にやり過ごすふるまい方についてもう少しまじめに研究した方がいいんじゃないかと僕は思います。
黒澤明の『七人の侍』の最後で、志村喬演じる勘兵衛が生き残った七郎次(加東大介)に向かって「今度も負け戦だったな」とつぶやくシーンがありますね。
あの侍たちは勝四郎(木村功)を除く全員がそれまで仕官できなかったか、仕官した先の主家が滅ぼされたか、いずれにせよ負け続けてきた人々なわけです。
その中でずっと「ていねいに」負け続けてきたこの二人は「負け方」に味があるというか、奥行きがあるんですね。
「敗北の美学」とかそういうものではなくて、節目節目のふるまい方にぴしっと筋が通っているせいで、「負けた」ということが彼らの人間的価値を少しも損なっていない。
「きれいな負け方」とか「勝ちを譲るスマートネス」とか「負けた相手に花道を用意する気遣い」とか、そういう派生的なマナーも含めて、「正しい負け方」の研究というか評価というか、そういう論件への知的リソースの投資について、現代人はもう少し真剣になるべきじゃないかと思います。

■時間が貨幣なら・・・

平川君のインタビュー本、すごくおもしろそうですね。楽しみにしています。
それについて平川君が書いてくれた中で、松本大さんという人についてのコメントに強く興味を惹かれました。
平川君はこう書いていました。
「ぼくのいうわからなさは、そのコンテンツのわからなさとすこし違う。
金融の世界での日本的なしがらみに対して、いろいろ批判を加えているのだけど、そういった批判を通して、何がおっしゃりたいのかという、メタレベルのメッセージがよく見えてこない。
それは、たとえば理想的なシステムキッチンについて詳細に論じられた論文を読んでいるような分からなさなんです。語られている内容は理解できても、それで、著者が何を言いたいのかがよくわからない。」
言いたいこと、すごくわかります。
その「わからなさ」は「時間の概念から解き放たれ」た無時間モデルに基づく「常識」から語りだされることばに固有の「わからなさ」だという平川君のフレーズが「どきん」と来ました。
ほんとにそうですよね。
資本主義について、最近面白いことを発見したんですけど、それに関係するかもしれないので、ちょっと書きますね。
「資本主義の精神」と言えばマックス・ウェーバーですけれど、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を最近読み直してみたら、ウェーバーがベンジャミン・フランクリンの著作から次のような箇所を引用していることに気づきました。
「時は貨幣であるということを忘れてはいけない。一日の労働で十シリングをもうけられる者が、散歩のためだとか、室内で懶惰に過ごすために半日を費やすとすれば(・・・)五シリングの貨幣を支出、というよりは抛棄したのだということを考えねばならない。」
「貨幣は生来繁殖力と結実力をもつものであることを忘れてはいけない。貨幣は貨幣を生むことができ、またその生まれた貨幣は一層多くの貨幣を生むことができ、さらに次々と同じことが行われる。(・・・)一頭の親豚を殺すものは、それから生まれる一千頭を殺し尽くすものだ。」
「支払いのよい者は万人の財布の主人であることを忘れてはいけない。約束の時期に正確に支払うことが評判になっている者は、友人がさしあたって必要としていない貨幣をすべて何時でも借りることができる。」
「信用に影響を及ぼすなら、どんな些細な行いにも注意しなければいけない。午前五時か夜の八時に君の鎚の音が債権者の耳に聞こえるならば、彼はあと六ヶ月構わないでおくだろう。」
僕が気がついたのは、この引用箇所がすべて「貨幣と時間」の関係にかかわるものだということです。
「時は貨幣である」というのは、時間には資本主義的な尺度に照らして大きな価値があるのだからその価値を最大化せよという教えであるわけですが、それは裏返して言えば、「時間には時間固有の価値はない」と宣言しているということです。
「時は金である」というのは、「時間は貨幣を度量衡にして計量できる」ということですよね。
この時間の「他者性」をすっぱり捨象したという点にこそ「資本主義の精神」の精髄はあったのではないでしょうか。
ウェーバーはこの引用を受けて「資本主義の精神」を次のように描き出します。
「われわれがこの『吝嗇の哲学』に接してその顕著な特徴として感ずるものは、信用のできる正直な人という理想であり、わけても自分の資本を増加させることを自己目的と考えることが各人の義務であるとの思想である。」(マックス・ウェーバー、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、梶山力他訳、岩波文庫)
ウェーバーは「貨幣と時間」に関する箇所だけを選択的に引用しておきながら、「時間には時間固有の価値がない」こと、つまり資本主義は時間の未知性・他者性を捨象したところに成立するということは言い落としています。
ウェーバーの代わりに、ウェーバーの「言いたかったこと」を僕が言うというのもちょっと態度がでかいですけれど、ウェーバーが言いたかったのは、そのことじゃないかなと思うんですよ。
でも、アメリカ的資本主義はどうして無時間的かについて、ウェーバーはちゃんとヒントをくれています。
アメリカの資本主義は「無時間的」というよりはむしろ「無歴史的」なんです。
というのは、フランクリンがこんなお金のことばかり気遣う文章を書いていた十八世紀のペンシルヴァニアは(ウェーバーによると)「貨幣の不足のためだけでややもすれば物々交換に逆転する恐れさえあり、大規模な産業的経営はほとんど影もなく、銀行といえば僅かにその萌芽しかみられなかった」くらいに資本主義が未発達だったからです。
これって、変でしょう?
資本主義が未発達である場所に、それどころか貨幣さえあまりゆきわたっていない社会で、「貨幣の哲学」が体系化され、「資本主義の純粋精神」が理念的完成を見たんですよ。
もちろん、それ以前も有史以来商業も商人たちも存在しました。
でも、彼らは「資本主義の精神」を体現してはいませんでした。
「資本主義の精神」は単なる「金儲けの思想」とは違います。
ひさしくローマ教会はキリスト教徒には利子を取ることを禁じていましたし、そもそも営利を自己目的とする生き方は「恥ずかしい」ことであるという意識は商人たちの中にも伏流していました。
ですから、富裕な人々は死んだときに莫大な寄進を教会にして、来世の平安を購おうとしたのです。
「このことはまさしく当事者自身が自分たちの行為を道徳外的な、或いはむしろ反道徳的なものと考えていたことを明白に示している。」とウェーバーは書いています。
お金をもうけるのは「いいことだ」というあっけらかんとした資本主義の「精神」はかなり日付の新しいもの(もしかすると18世紀末あたりの生まれ)だということになります。
ウェーバーを信じるなら、そういうことです。
どうしてそういうメンタリティが18世紀のアメリカに登場したのか、どうしてそれが今やあまねく世界を席捲するものとなったのか、これについては時間をかけて考える必要があると思います。
ひとつ思いつくのは、「時は金である」というのは、平川君が書いていた「円周率は3でいいじゃないか」という切り捨て方に深いところで通じているのではないかということです。
アメリカという社会の特徴は、「私たちがいまその中で生きている制度はどのような起源をもつものか私たちは知ることができないし、この制度がいつどのような仕方で終わるのかを予測することもできない」という過去と未来の不可知性を認めようとしない点にきわだっているように思います。
僕たちがその中に投じられ、その中で生きているシステムは「とりあえず」のものに過ぎません。
資本主義は「とりあえず」時間的表象形式の中でだけ存在するものを認めようとしない。
岩井克人さんが書いていたように、貨幣は必ずいつかは紙くずになります。それは「とりあえず」流通しているという事実以外にいかなる担保も持っていない。
でも、誰もそのことに気づかないふりをすることで市場経済は機能している。
「とりあえず」って英語ではfor the time being って言うんですよね。
「資本主義の精神」は for the time being 「時間が存在する限り」をfor the money being 「貨幣が流通する限り」と言い換えることによって、時間をみごとに捨象したのではないでしょうか?

投稿者 uchida : 2005年10月13日 22:32

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