東京ファイティング・キッズ

 

その1

2003年9月12日

平川克美から内田樹へ

 

■「なんで?」

 

まずは公開でメール書簡を始める事になったいきさつについて少しは触れておかないといけないなと思ってみたのですが、いきなりタイプを打つ手が止まってしまいました。

「やってみない」「オーケー」という会話はあったのだけど、なんでやるかについて何を確認したのかはよく覚えていない。

まあ、内田君と何か始めるときはいつもこんな感じで気が付いたら何か一緒にやっていたというようなことが多かったと思います。

考えてみれば、『聖風化祭』という雑誌をつくった時も、儲けをキューバ革命に寄付するというミッションの「白金ゼミナール」という不思議な学習塾を作った時も、アーバン・トランスレーションという翻訳会社を作った時もこんな感じだった。

ということで、「だってまずやってみないことには何が始まるのかわからんもんね」ということだけを共有しているということで、早速開始致します。

 

1977年ぼくたちは、会社をつくった。

尾山台の君のぼろアポアートのコタツに入って、まずは社名を考えるというところから始まって、つぎにアッタッシュケースを購入して、それから事務所を探して、金王神社の粗大ゴミ捨て場から椅子を拾ってきて、といった感じで。

今のいわゆる起業家といわれる人たちの会社の興し方とはまるで違ったアプローチだったと思う。

今ならさしずめゴールとミッションを確認し、ビジネスプランを書き、ビジネスモデルを詮索し、見込み客リストを作り、しかるのち投資家を探し、といった順序になるのでしょうが。

ぼくたちはまるで違っていた。(べつに改行してカッコつけるほどのことじゃないが)

まずは、ぼくたちの知らない、ぼくたちにとって異質の世界であるところの「会社」というものを作るということが、爾後に巻き起こるであろう会社経営のあれこれのすべてに優先してあったような気がする。

つまりは見聞としては知っていても、実感としては未知の会社経営といったことをしてみたらどうなるのかということの「興味」が目いっぱいふくらんでいたので、まずは「会社づくりだぜ」ということになったように思う。

だから生活のためにどこかに就職してサラリーマンになるか、自営で何かするか、あるいは大学に残るか、といったようないくつかのオプションの中から、可能性のあるものを選択するといった「人生の岐路」とか「将来の設計」とはまったく無縁のところで、会社ゲームが始まった。そして会社ができたときすでに、会社ゲームの半分は終わっていた。

1977年のことです。

 

■「時代の空気」

なんで、こんな書き出しをしたかというと、2003年の今という時間をどのように読み解いていったらいいのかというテーマ(これがこのメール書簡のテーマだったよね)を考えてみるときに、おさえておきたいキーワードが25年前の時間の中に隠されているように思えたからです。

それは「生産」とか「発展」とか「努力」といったポジティブでベクトル感のある言葉で象徴される時代の空気なのだが、もっと適切なキーワードがあるような気がする。

それが何であるかはひとまず措くとして、ぼくたちはこのような時代に対していつも「違うやり方」をしたいと思っていた。

社会学的なタームで説明すれば1977年のぼくたちは会社も自分の人生も、ひとつの目標に向けて作り上げていくものであるよりは、「消費」の対象として捕らえていたような気がする。

つまり、今ここにある自分たちの肉体や時間をどのように消費してゆくのかというのが枢要なテーマだったってことです。

いまでこそすべてが「消費」の対象となっているが、当時は「消費」「蕩尽」といったことを行動の規範とするような考え方はかなり兆候的であっただろう。

ただ、ぼくたちの「消費」感覚が意味を持っていたのは、社会のファンダメンタルズが「創造」「生産」を基調として右肩上がりに成長しているという状況があったからだと思う。

70年代とは、商社を尖兵として日本経済が重機、重電、重化学の分野で世界を席巻し、産業資本が世界を舞台にその覇権を争うといった時代だった。

日本の経済力は戦後の総決算のようにその生産性の高さにおいて世界の頂点を極め「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされていた。

そんな時代的な高揚間の中で団塊の世代といわれるぼくたちのすこし上の世代のサラリーマンたちは、戦後の飢餓感に駆動されるかのように、競争し、懸命に働き、結果として物質的、経済的に豊かになっていった。

そして多くの日本人が小さな家と貯蓄と安定した生活を手に入れた。世の中から徐々に「貧乏」が消えていったように見えた。

ぼくたちもまた「飢餓感」を発条として生きていた。

けれどもこの「飢餓感」は物理的、肉体的な「飢餓感」ではなく、物理的飢餓感からの解放によって失われてゆくであろう精神の緊張や、高揚に対する「飢餓感」といったねじれた飢餓とでもいうべきものだったように思う。

つまりぼくたちは失われてゆく肉体的飢餓感にたいして、これを消費することで精神的飢餓感を絶えず「再生産」する必要があったのかもしれない。

ポスト飢餓的飢餓。

後にぼくはこれをアドレッセンスに特有な、誰にでも訪れるものとして対象化することになる。

しかしこの時代、「お金」という物質的な価値と、「お金で買えないものがあるはずだという信憑」がもっている価値が米ソの冷戦構造のように拮抗して緊張した関係をもっていたことは確かだと思う。

 

1985年の土地バブルを境にしてモノづくりを経済発展の基礎とするような「産業資本主義」は終焉をむかえ「ポスト産業資本主義」「消費資本主義」とでもいうべき新しい経済のパラダイムが台頭してくる。

週休2日制が採用され、ブランド品が市場にあふれ、人々の関心はどのように働いてお金を稼ぐかというよりは、何に時間や稼いだお金を消費するかということに重心を移すようになってくる。

「どのように」から「何に」ということに頭を使うようになったということです。

これはプロセスよりはゴールを重視する考え方が支配的になったということで、いつのまにか、物質的な価値と精神的な価値の緊張が消失して、「お金」が世界を説明する共通言語になってきているように見える。

ぼくは、この10年間で「お金」というものに価値一元的に集約されるような価値観が支配的になったことに正直驚いている。

何でなの。

まずはここから考えて見たいと思う。

そしてぼくはこれをビジネスの世界で起こった出来事から説明してみようと思う。

2003年のこの世界の問題を語るとき、たぶんぼくたちは「価値観」について語ることになるだろう。

 

■1994年

ぼくはビジネスの世界で、1994年を境に劇的な変化、価値変動がおこったと考えている。

そしてその変化は日本中を隈なく覆い尽くして文化や人々?の言葉づかいまで変えていくほどの繁殖力をもっていた。

正確に言えばアメリカスタンダードというものがカ

バーする地域、人種、職業すべての価値観に大きな修正をもたらすものとなった。

ことの始まりは何ということのない小さな出来事だった。

内田君はこの年をどんな年として記憶していますか。

そのときはよくわからなかったのだけど、ぼくはこの年をひとつのエポックメーキングとして記憶しておいていいのじゃないかと思っています。

1994年とは、ネットスケープナビゲーターというインターネットのブラウザが発売された年で、それだけなら何ということのないアメリカのひとつの会社の商売上の出来事でした。

これがチャイナシンドロームのように日本人ビジネスマンの根性まで汚染するなんて、当時は誰も考えていなかったのじゃないか。

翌1995年、ニューヨークの投資銀行に、このインターネットの商用化をじっと眺めていたひとりの青年がいました。

かれはインターネットの出現がビジネスチャンスであるという確信を胸に、バスで西海岸まで移動してゆきます。

めざすところはベンチャー投資家の集まるシリコンバレーです。

後に有名になる「アマゾンドットコム」という会社のビジネスプランはこのバスの中で書かれたといわれています。

かれの着想はインターネット空間をひとつの仮想書店として、ネット上の書名データベースを基に在庫なし、店員なしで書籍を販売するというものでした。

これをのちに「ビジネスモデル」と言うようになります。

つぎにおこった出来事こそがその後の10年のビジネスパラダイムを変えるトリガーとなるのですが、これに関しては次の書簡で書くことにします。

 

 

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