東京ファイティングキッズ

 

その2

2003年9月15日

内田樹から平川克美へ

■記憶

インターネット往復書簡、第一通たしかに拝受しました。

 

複数の時間帯で出来事が同時進行しながら、それぞれの時代相での印象的なエピソードをつないで、1950年生まれの「東京ファイティング・キッズ」の半世紀が立体的に浮かび上がる・・・という物語の結構、いいですね。

ちょっと、『Once upon a time in America』みたいで。

あの映画でのロバート・デ・ニーロとジェームス・ウッズの幼なじみのギャングたちが、二人が共通に経験していたはずの出来事について、それぞれに回想する過去がずいぶん違っているという点がなかなかエッジの効いたオチで、ぼくは好きです。

だって、「そういうもの」ですからね。記憶というのは、たぶん。

1977年がどういう時代だったのかということは、どの時点で回想するかによって、そのつど答えが変わるような問いだと思います。

だから、2003年の今から回想してみるということは、平川くんが書いている通り、2003年と1977年のそれぞれの歴史的な意味を「いま」確定することだと思います。

ただし、いま確定された1977年は、「2003年における1977年」であって、あと10年後にはそれとはまた違う「2013年における1977年」という見知らぬ様相を示すようになるのだとは思いますけど。

ぼくはそういうふうに過去というのは、そのつど構成されているという考え方をするようにしています(このアイディアはラカンの「前未来形で語られる過去」という理説から借りたものです)。

ぼくはこのアイディアがけっこう気に入っています。

だいたいぼくは、過去に限らず、どんなものにでも「封印」するのがキライなんです。

よくいるじゃないですか、ハードボイルド小説の主人公とかに。

「触れて欲しくい傷跡があるんだよ、オレには・・・・」というようなせりふをいう男が。

ぼくは、あれがキライなんです。

「触れて欲しくない過去」なんていうのは、その人がそのときの生き方を正当化するために構築している「物語」にすぎないんだから。

『水屋の富』じゃないんだから、なんでもかんでも「カメに入れて貯め込む」のはいけません。

過去だってナマモノですからね。

封印したり、貯め込んだり、蔵にしまい込んだりしていると腐ってきます。

記憶の仕方によって過去はしばしば腐臭を発します。

ぼくは過去を腐らせるのがいやなので、原則として「過去を固定化しない」ということをこころがけています。

話す相手が替わる度に、思い出す時や場所が変わる度に、そのつど違う過去を思い出す、というのでいいじゃないですか。

ねえ?

「東京ファイティング・キッズ」というのは、たぶん2003年の今、私たちの社会のこれから先を展望する批評的な視座に立つことによって、同時に過去の意味を再構成する、という企図のものだろうと思います(自分で言い出した企画なのに、「だろうと思います」はちょっと無責任ですけれど、こういう往復書簡はどこに転がってゆくか予想のつかないものですからね)。

とりあえず、ま、そういうことで参りましょう。

 

■消費

さて、平川くんからいろいろな論点を出してもらいましたが、今日はまず「消費」という論点から考えてみたいと思います。

社会学的なタームで説明すれば1977年のぼくたちは会社も自分の人生も、ひとつの目標に向けて作り上げていくものであるよりは、「消費」の対象として捕らえていたような気がする。

つまり、今ここにある自分たちの肉体や時間をどのように消費してゆくのかというのが枢要なテーマだったってことです。いまでこそすべてが「消費」の対象となっているが、当時は「消費」「蕩尽」といったことを行動の規範とするような考え方はかなり兆候的であっただろう。(・・・)ぼくたちもまた「飢餓感」を発条として生きていた。けれどもこの「飢餓感」は物理的、肉体的な「飢餓感」ではなく、物理的飢餓感からの解放によって失われてゆくであろう精神の緊張や、高揚に対する「飢餓感」といったねじれた飢餓とでもいうべきものだったように思う。

つまりぼくたちは失われてゆく肉体的飢餓感にたいして、これを消費することで精神的飢餓感を絶えず「再生産」する必要があったのかもしれない。

ポスト飢餓的飢餓。

平川くんはこう書いています。

たしかにご指摘の通り、ぼくたちが何かを達成するために起業したわけではない、ということは確かだったと思います。

それを平川くんは「飢餓感」や「消費」というキータームで語ろうとしているようですが、ぼくにはまだそれらの術語の含意がよく見えてこないので、その論理展開はこのあとの楽しみにしています。

ですから、ここではぼく自身が起業の時にどういう気分であったのか、それをちょっと考えてみます。

ぼくたちが会社を始めたいちばん大きな動機はたぶん「ちょっと、やってみたかったから」ということに尽きるのではないかと思います。

ある種のビジネスモデルを創出するとか、大きな利益を上げるとか、そういうことは(結果的にはそうなったわけですが、そのときには)ぜんぜん思ってもいなかったはずです。

ただ、業界のはしっこで何年かバイトをしてきて、大小いくつかの会社を見てきた経験から、「あの程度のことだったら、ぼくたちにもできるんじゃないの?」と思ったのは間違いありません。

「世間を甘く見る」というのは、間違いなく、ぼくたち二人が共有する宿命的な性格ですからね。

ただ、そのときぼくたちが「世間」の「何を」「甘く見た」のか、ということはある程度きちんと抑えておく必要があると思います。

 

平川くんが指摘しているとおり、60年代が日本戦後史で決定的な意味をもったとすれば、それは「貧しさ」が消えた、ということだと思います。

「貧しさ」が消えたということは、言い換えれば、「衣食足りる」ということのありがたさが忘れられ、同時に「額に汗して働く」ことそれ自体がある種の「崇高性」のオーラを失ったということですもあります。

社会主義国の定型的図像であるあの手に手に鎌やトンカチをもった労働者群像が文化的イコンとして私たちに暗黙の共感を感じさせたのはおそらく1950年代までのことです。

60年代以降「労働者」という言葉は特異なコノテーションを持った政治的な「符丁」にしかすぎません。

寅さんがタコ社長の印刷所の工員たちに向ける「よ、労働者諸君、働いているかね!」という呼びかけのなかの「労働者諸君」は、いささか教条主義的な社会主義者である義弟、博(前田吟)への揶揄の思いがこめられていましたけれど、いわば、あの義兄弟のあいだでは、兄の寅さんが「戦後的エートス」を、弟の博が「戦前的エートス」を記号的に表象していたとも言えるかもしれませんね。

こつこつと勤め上げ、毎年少しずつ昇給していって、毎年少しずつ生活が豊かになり、退職金で持ち家を建てて・・・といった戦前からの「サラリーマン的エートス」の圧倒的な支配力がこのころに翳ってきはじめます。

いまぼくたちは「サラリーマン」ということばを貶下的なニュアンスで用いますが(若い人は嘲弄的に「リーマン」と言いますね)、この言葉が光彩を失ったのが、たぶん1960年代のことだとぼくは思います。

戦前の「サラリーマン」がどれほど人も羨む身分であったかは、谷崎の『細雪』や向田邦子のエッセイを読むと伺い知ることができます。職人や自営業が多かった戦前では「サラリーマン」であるということは、ほんとうに大したことだったわけです(毎月定収が確保されているということ、毎年定昇するということは、それ以外の労働者にはなかなか望めないことだったのですから)。

だから、戦後日本が中進国から先進国になりかかる時期に、若者たちは争ってサラリーマンになろうとしました。「一億総サラリーマン化」時代です(その時代の「サラリーマンになりたい!」という願望と屈折は森繁の『社長シリーズ』や植木等の『ニッポン無責任時代』に活写されています)。

その「サラリーマン幻想」は「定収」と「昇給」というものが輝ける夢だった時代のものでした。

それがぼくたちが二十歳を迎えたころ、つまり1970年代に夢ではなくなり、それとは違うものに対する飢えをぼくたちが感じ始めたということではないかとぼくは思います。

あの「よ、労働者諸君!」という挑発的な呼びかけをぼくたちは「よ、サラリーマン諸君!」というふうに言い換えていたんじゃないでしょうか?

学生運動から召還して、頭を短く刈って、こぎれいなスーツ姿に「転向」してしまったぼくたちの同世代の諸君はあのころみんな「ヒラ」でした。

それに比べて、こちらはなんと言っても「社長」と「取締役」ですからね!

ぼくたちがあの時代に「よ、サラリーマン諸君!」と呼びかけてみせたのは、フーテンの寅さんが放浪と孤独の代償に手にしていたのと同じ種類のもの、サラリーマンが「定収」と「昇給」の代償に「持つことを断念したもの」。というよりは、そのようなものに対する「飢餓感」など、肉体的な飢餓の解消が優先的な時代にあって、誰も望みはしなかった贅沢品、つまり「自由」をぼくらは手に入れたぜ、ということを言おうとしていたのではないでしょうか?

すでにその段階で、労働者的エートスがある種の「戯画」になりつつあることを時代全体がおぼろげながら感知していたことの、ぼくたちは一つの兆候だったのではないでしょうか?

もちろん支配的な価値観は一朝一夕には死にません。

圧倒的多数の若者たちはやっぱりサラリーマンを目指しました。

しかし、彼らの父親の世代がその職業に感じたような「憧れ」や「誇り」はもう彼らの中では消え始めていたと思います。

ぼくたちは、そのような時代に「よ、サラリーマン諸君!働いとるかね!」という皮肉な呼びかけを同世代に向けていたのですが、それはおそらくぼくたちが70年代における「オルタナティヴ」の方向にマジョリティよりすこしだけ早く反応していたからだと思います。

ただし、それは別にぼくたちの感受性が余人に比して敏感だったからというのではなく、単に生来の「世間をなめてかかる」悪癖のせいなんですけどね。

70年代について書いていたら、ずるずる長くなってしまいましたので、今日はこれくらいにしておきます。

1994年の話とこれからどうつなげるのか、楽しみです。

では

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