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その10

2003年11月24日

内田 樹から平川克美くんへ

 

ぼちぼち年の瀬ですね。

六甲颪で吹き落とされた街路樹の枯葉がペーブメントを覆う時期に、コートの襟を立てて、ほこほこ歩いていると、ぼくは「街」がとても好きになります。

どうしてなんでしょうね。

あるいは人類が最初に「集落」というものを作ったときの原初の動機が「寒いから、いっしょに暮らそうよ」というようなものだったせいで、「寒いときの街」は「暑いときの街」よりも人間にとって懐かしい場所なのかも知れません。

 

■ご縁と「子ども」

 

「ご縁」ということばはこの一年ほど思念を去らぬキーワードです。

「他生の縁」という言い方があるとおり、「ご縁」ということばには、「こことは違う世界・違う時間で起きた出来事の効果」という意味があると思います。

うちの大学のマツダ先生のご意見によると、この世でいっしょに仕事をすることになるすべての人とは「前世」で一度会っているそうです。

ほんとかな。

でも、「縁」ということばには、「いま、ここでできた関係」には「いまここで見えている以上の含意がある」という遂行的解釈をうながす効果はまちがいなくあります。

つまり「どうして、よりによってこの人と、よりによってこんなところで出会ったんだろう?」という問いが生まれるということです。

言い換えると、一つの関係から「今分かっている意味以外の『もう一つの意味』」を読み出そうとする志向、「ダブル・ミーニングを読みとろうとする志向」と言ってもいいと思います。

これは世界を豊かな意味でみたす、人間の叡智だとぼくは思いますね。

 

大人がいろいろと子どもに向かって語ったあとに、子どもが大人をじっとみつめて「そう言うことによって、あなたは何を言いたいの?」と問いかけることってあるでしょ?

英語で言う、So what? というやつ。

ラカンはこれを「子どものディスクール」と呼んでいます。

これは一見すると、大人の虚を衝く、きつい「突っ込み」みたいに聞こえますけれど、それをラカンがあえて「子どものディスクール」と名付けた以上は、「子ども」に、つまり「これから象徴界に参入することになるもの」に固有のふるまいなんだとぼくは解釈しています。

「だから、何が言いたいの?」という直截な問いかけにしばしば大人たちは絶句します。 

大人のそんな狼狽ぶりを見て、子どもはひそかに凱歌を上げます。「大人の先手を取った」と思うのです。

でも、ほんとうに子どもは大人の二枚舌を痛撃したんでしょうか?

フロイトが『機知』でも引いている有名なユダヤ・ジョークがあります。こんな話。

 

列車の中で独りのユダヤ人がもう一人のユダヤ人に尋ねた。

「どこへ行くのかね」

「レンブルクさ」

すると尋ねたユダヤ人は怒って言った。

「いったいどうして、あんたは本当はレンブルクに行くくせに、クラカウへ行くとひとに信じ込ませようとして、『レンブルクへ行く』なんて言うんだ!」

 

これはみごとに「子どものディスクール」の本質を衝いたジョークだなとぼくは思います。

疑り深いユダヤ人は(実年齢がどうあれ、分析的な意味では)「子ども」です。

だって、彼は「あなたはそう言うことによって、何を言いたいのか?」という「子どもの問い」をつねに他人に差し向けることを「知的なふるまい」だと思っているからです。

おそらく彼の経験は、人間は本当の目的地(すなわち、欲望の真のありか)を他人に察知されないように、「ほんとうの目的地とは違う地名」を人には告げるものだと教えているのです(子どもの浅知恵ですね)。

しかし、人に出し抜かれまいとつねづね心がけているこの疑り深いユダヤ人は、果たして「レンブルクに行く」と告げたユダヤ人を出し抜いたことになるのでしょうか?

なりませんよね。

この笑話のほんとうの諧謔性は、「相手を出し抜いたつもりの人間はつねに出し抜かれる」という逆説のうちにあるからです。

「人間はつねにほんとうに言いたいこととは違うことを言う」と思い込んでいるこの疑り深い「子ども」に多少とでも知恵があれば、彼に問われた相手が「本当のことを言って人を騙す可能性」にもただちに思い至るはずだからです。

そして、そのときもまた彼は同じ問いの言葉を口にする他にないのです。

「『本当のこと』を言うことによって、あなたは私に『本当は』何を言いたいのか?」(これがこのジョークのオチなんですけど)

どうしてラカンがこのような問いかけの形式を「子どもの言説」と名づけたのか、その理由がここで分かります。

「子どもの問い」とは、それをひとたび発した後は、問いかけられている当の「謎」に決して追い付くことができないように構造化された問いだからです。

言い換えるなら、「謎」に対して宿命的なビハインドを負うもの、それが「子ども」のラカン的定義なのです。

「だから、それはどういう意味なの?」という問いかけは、相手が「何か自分には見えないものを隠している」と考えているか、あるいは「相手が自分にはそのルールが分からないゲームをしている」という判断がなければ、発されることはありません。

「自分にはそのルールが分からないゲームをこの人はしているのだけれど、自分はすでにプレイヤーとしてそのゲームを始めてしまっている(だからはやくルールを教えてよ!)」というちょっといらつき気味の自己認識欲求をもつものを、ラカンは「子ども」と定義したわけです(たぶんね)。

でも見落としてはいけないのは、この文脈における「子ども」というのが決して否定的な存在ではない、ということです。

「子ども」とは、実は人間が「未知のもの」に向き合うときに践むべき「適切な作法」のことだからです。

子どものくせに大人のふりをしちゃいけません。

例えば、神さまに対面したとき(ぼくは神さまに会ったことがないので、これは想像ですけれど)、ぼくは何と言うでしょうか?

「神さまが何を考えているか、ぼくは全部知ってるよ」

とはまさか言いません。

「神さまは、なぜ完全な世界ではなく不完全な世界を、善人が幸福を約束されず、邪悪なものがはびこる世界を創造したんですか?」

とぼくなら訊ねるでしょう。

もちろん、神さまは絶対その答えを教えてくれません(これは賭けてもいいです)。にやにや笑ってぼくにこう言うんです。

「キミはどうしてだと思う?」

ほらね。

「あなたはこうすることによって、何をしたいんですか?」というのは、起源的には「神さまへの問いかけ」だとぼくは思っています。

だから、子どもが大人に問いかけるときのマナーとして、これは「正解」なんだと思います。

 

「ご縁」の話からずいぶん逸脱しちゃいましたけれど、「ひとつのことの裏には、ぼくにはまだ理解できないダブルミーニングが隠されている(それを知りたい)」というのは、人間としてなかなか「前向き」のまことに「人間的な」スタンスじゃないかな、とぼくは思っているんです。

そして、そのような問いかけを励起するために、「他生の縁」といったことばをさりげなく差し挟むことには、けっこう遂行な意義があるんじゃないかと思うのです。

「私がウチダとここで出会ったことの意味が私には全部理解できている」なんてことを言う人間とはつきあう気がしませんものね、まじで。

だから、平川君が書いた

注目すべきなのは個人の意思や思想といったものの上位の概念としてこの「関係」概念が考想されており、それは前世(過去)と現在と未来を繋いでゆく時間でもあり、これを「自然」の法則のように捉えていたのではないでしょうか

ということばは「それこそ、ぼくが言いたかったこと」なんですよ、ほんとに。

 

■「所有」について

 

村上龍のエッセイの中で、彼がパリ=ダカール・ラリーを取材したとき、そのプロジェクトに日本のTVのクルーがついてきて、いっしょにサハラ砂漠を旅したという話があります。

そのとき、TV局のプロデューサーが、ミネラル・ウォーターのペットボトルにマジックで自分の名前を書いたのを見て、現地スタッフが怒り狂った、というエピソードが紹介されていました。

砂漠では水は何よりも貴重なものだ。だから決して私有すべきではないという人間としての基本のことがこの男には分かっていないのだ、というふうに村上龍は書いていました。

いい話ですね。

水や煙など「アモルファスなもの」は本来分割できませんから、私有になじまないのです。

「分割不能であるがゆえに、私有になじまないもの」を分かち合う、という儀礼は世界中のどんな社会集団にも見ることができます。

ふつうはたいていお賓客に「お茶を出す」という形態を取ります(インディアンだと「タバコを吸う」かな)。

別にこれは客人がのどが渇いるかどうかニコチンを求めているかどうかとは関係ないことです。

どこかにゆくと必ず「お茶でも」と言って、何か水気のものが出されますよね(夕方すぎだと「ビールでも」かな)。

「のどかわいてないから、お茶は結構です」と断るのは、現代でもかなりの非礼とみなされます。少なくもデリケートなビジネストークの前には避けるべき態度であることは間違いありません。

それは「お茶をのむ」ことがが生理的欲求とは関係なく、「不定形のものを分かち合うことで、共同体を立ち上げる」という原初の儀礼のなごりをとどめているからだとぼくは思っています。

宴会の席で、仮にビールが人数分並んでいても「これはオレのビール」と言って、ビールを「私有」することは許されませんね。

ビールが飲みたくなったら、まず自分の手近のボトルを手にとって、それを近くの人たちの空のグラスに全部注いで、残ったものを自分のグラスに入れるという手順が暗黙の決まりです(そのときにはもうボトルが空になっていることもよくありますが、そういうときは必ず誰かが「あ、気が付きませんで」と言って注いでくれます)。

ということは、あれは「ビールを飲む」ための摂食行動であるだけでなく、「この不定形なるものを私は私有せず、みなさまと分かち合って、共同体を立ち上げようと思います」と宣言する贈与儀礼だということです。

利休の「茶の湯」ややくざの「盃事」やカトリックの「聖体拝受」なんかもその典型的な例ですね。

「自分のものであって、自分のものでない」ものを確認しあうこと、「コモンプレイス」を協同的に確認しあうこと、それによって、一種の「幻想的な共−身体」の形成に参加すること。

それがぼくたちの社会的儀礼のたぶんいちばん基幹的なものではないかとぼくは思います。

少し前までの日本の宴会での献酬というのは、一つの杯を回して交互に酒を注ぎ合い、交互にのむというものでした(「衛生的でない」というまことに「近代的」な理由で廃れてしまいましたが)。

そういう儀礼って、けっこう大切なのになあ、とぼくは思います。

 

タバコもそうですね。

かなり高額の嗜好品であるにもかかわらず、見ず知らずの人に「一本いただけますか?」と言われたときにでも「断ってはならない」という暗黙のルールがあります。

あれは「煙」の共有は共同体成員の義務である、という教えがぼくたちの記憶の古層にまだわだかまっていたからではないかしら。

煙を共有することの拒否。

それが嫌煙運動であり、その運動が他ならぬアメリカから始まったということは象徴的な出来事だなと思います。

「お前の口から出てきた煙をオレに吸わせるな」

という言明は断固たる「あなたと共同体を形成することの拒否」の表明です。

それは同じアメリカ発の「デオドラント」運動とも軌を一にしているように思われます。

他人の体臭に対する嫌悪、自分の体臭が他人に感知されることへの恐怖、これぞまさしく「私有主義」イデオロギーの典型的な表れです。

 

ご存じの通り、民族差別・人種差別のもっとも徴候的な表出は「お前は臭い」という言い方を採ります。

それは事実認知的に「臭気がする」という意味ではなく、「お前が吸っているのと同じ空気をオレに吸わせるな」という「幻想的な身体をその他者と共有することの拒絶」です。

空気という不定形で、「それなしでは生きてゆけないもの」を他人と分かち合うことの拒絶。

アメリカの嫌煙権運動とデオドラントへの異常なこだわりは、かの国で人種差別が「政治的に正しくないこと」として公的に禁止されたことと、トレードオフの関係にあるんじゃないでしょうか。

「ニガーはそばへ来るな」という言明が禁止されたために、人々は「スモーカーはこっちへ来るな」という「排除のディスクール」によって、その「拒絶の欲望」を補償しているんじゃないでしょうか。

レストランでの断固たる「スモーカーお断り」の表示は「中国人と犬は入るべからず」と公園の入り口に看板を立てた香港の植民地主義者の意思表示と、メンタリティにおいてほとんど変わることがないようにぼくには思えました。

「『臭くて、不衛生なもの』とは空気を共有したくない」という言明をとにかく頻繁に口にせずにはいられない。

これはアメリカ社会に取り憑いた一種の「病気」です。

アメリカはいつになったら骨の髄までしみこんだこの「排除のディスクール」から逃れ出ることができるのでしょうか。

かの国ではそのうち「キス」も禁止されるようになるんじゃないですかね。

「お前の口から出た唾液をオレの口にいれるなよ」って。

現に、アメリカでは歯科医がものすごくはやっているわけですが、クライアントたちを口腔の清浄や歯列矯正に駆り立てる最大の動機は「キスするときに、相手の口の中に異物(口臭、唾液や出っ歯)が入らないように」という配慮なんですから。

でも、平川君。キスって、要するに、他者の口臭や唾液や出っ歯を「にこやかに受け容れる」という、ちょっと不衛生だけど究極的な共同体儀礼のことなんじゃないんですか?(献酬やタバコの吸い回しと同じで)

社会全体が老成に向かうような局面においては、もう一度このシステムの評価をしていいんじゃないかと思うのです。

という平川くんの共同体儀礼へのコメントにぼくも賛成です。

大人というのは「酒をのんで、タバコを吸って、キスをするものである」とぼくは少年のころ漠然と思っていましたけれど、ほんとうにそうなんですよね。

それが共同体のフルメンバーの基本的な資格条件だということに知命を過ぎて、ようやく気づいたわけで。

というわけで、さっそく今夜も・・・(うっそぴょん)

ではまた。

向寒の砌、お体たいせつに。

 

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