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その9

2003年11月23日

平川克美くんから内田 樹へ

 

うー。いそがしい。年の瀬はこうでなくちゃいけねぇぜ。

というわけで喫茶店や、会社の休み時間のデスクでちょこちょこ書いています。

 

■縁と縁側

 

「消費資本主義」における「消費行動」というテーマをめぐる議論が、とうとう日本の共同体の変貌というところに行き着きました。

「思えば遠くへきたもんだ」といったところでしょうか。(そんな遠くでもないけどね。)

いや、「会社」というものを考えるとき、それを「機関」と考えるか「共同体」と考えるかで、それにコミットする人間のふるまい方はまったく異なってきます。地縁・血縁共同体から始まって、日本人はさまざまな場所に、その近似物を作ってきました。

 「縁」とは何なんだろうね。

日本人は、結婚の相手も、会社も「縁」というものを媒介に考えてきました。

「袖触れ合うも他生の縁」というやつですね。いまでも「縁あってこの会社に入社させていただきました。」とか「これも何かのえにしとおもって、こいつ(犬)を飼うことにしました」とかよく言っています。

結婚に失敗したり、事業に失敗しても「縁がなかったのねぇ」といって責任を「縁」の中に溶解させて、相手や自分を責めないという仕組みになっています。

また、「縁は異なもの味なもの」なんていって、とくに「縁」というものを分析の対象にしたり、理解したりしようとはしなかったわけです。

「縁」とは人と人との「関係」の概念ですよね。

日本の家には「縁側」というものがありました。

だれかが書いていたと思うけど(これも養老先生だったかな)、この「縁側」は内と外の中間の緩衝帯のようでもあり、内と外の両方を含む共有地でもあったわけです。

近所のおばさん、おじさんが「どうだい」とか「いい天気だねぇ」なんてことを言いながら縁側に腰を下ろすと、おっかさんはお茶をもってそれに応じます。時にもらいものの饅頭でもあればそれも供されるわけです。

ご近所さんは、縁側から中へは入らず、主人も客を招きいれることはありません。お互いが、縁側をはさんで分をわきまえているわけです。この縁側という「システム」は実に快適でぬくぬくとしたものだったと記憶しています。事実縁側は、家の南側につくられていたわけですね。

ぼくのうちは親父が町工場の社長だったので、朝鮮戦争の特需のあたりから急に金回りがよくなって、家を立て替えたりして、縁側がなくなってしまいましたが、それでも家に鍵をかけるという習慣は無く、いつも近所のおっさんやおばちゃんが出入りしていました。商売柄、縁側がなくなったかわりに母屋全体を縁側状態にしたわけです。

ウチダくんがあそびにきたときも、ぼくの2階の部屋は縁側状態で、おっかさんが菓子皿をもって客人を歓待していました。(覚えてる?)

あれは、歓待にみえて、じつはそれより中へは入るなよという牽制でもあったのです。

「お菓子たべたら、さっさとお帰りなさい」って訳です。

ぼくたちの共通の友人であったお大尽「高井くん」のうちのシャンデリアと暖炉とピアノのある応接書斎もある意味で縁側だったように思えます。(でも、すごいよな。60-70年代にシャンデリアと暖炉だぜ)

いまのウチダくんの部屋もなんか縁側状態になっているようですね。

これをやっていると、プライバシーといったものが実は無限大に縮小可能なものであるということに気付きます。あけっぴろげになっちゃんうんですね。

話が脱線しましたが、

注目すべきなのは個人の意思や思想といったものの上位の概念としてこの「関係」概念が考想されており、それは前世(過去)と現在と未来を繋いでゆく時間でもあり、これを「自然」の法則のように捉えていたのではないでしょうか。

かつて、竹内好や橋川文三が「アジア的」と形容した風景の原型がここにあります。

学校もひとつの地縁であり、会社は社長を「おやじ」とした血縁共同体モデルの延長として考えてきたように見えます。

このアジア的な共同体意識のなかでは、個人の責任は共同体全体に溶解され、過酷な断罪を行う代りに首長の「許し」を最終的な解決策として組み込んだといえるのではないでしょうか。旧日本軍は天皇を首長としてアジア全体にまで、この共同体を拡大してゆこうとしたわけですね。

ぼくは、この「アジア的」な許しの構造は、もういちど「評価」の対象にしても良いのではないかと思っています。もちろん、共同体的なエートスは、それが共同体の外に向かうときは、容赦の無い暴力性を剥き出しにする場合があることを日本軍の歴史が教えていますし、個人に対しては「村八分」という制裁をともなって、自由な自立のまえに立ちはだかることをぼくたちは経験してきました。功罪あるわけですが、こういった共通感覚といったものは文脈依存性の強いものですから、つねに時代的な文脈の中で位置づける必要があるのでしょう。

社会全体が老成に向かうような局面においては、もう一度このシステムの評価をしていいんじゃないかと思うのです。

そして、2003年の今、消費資本主義というパラダイムの中で、日本社会は確実に右肩下がりの「老成」を経験するのではないかと思えます。

ひとも社会も、いつまでも成長し続けるわけにはいきません。それは、イデオロギーや科学の進歩といったことを超えた、いわば自然過程に属するものであると思うからです。

 

■ 消費社会の次にくるもの

 

いま、書店のビジネスコーナーを覗いてみると「戦略本」花盛りです。ぼくは、ほとんど読む気がしないのですが、会社を「軍隊」のアナロジーで語り、「戦略」と「戦術」で競合を出し抜くといったゲームを好むものにとっては、会社はひとつの収益機関であり、その機能の最大効率化だけが問題となります。これはアメリカの企業社会が採用したイデオロギーで、その根っこはかなり深いものだと思っています。

最近では日本のビジネスマンもこれに感染していますが。例の「勝ち組」と「負け組」ですね。高度資本主義のプロセスのなかで、会社も社会もゼロサム的なゲームの中に突き進んでいるように見えます。

一方市場の方も、「共同体」は危機に瀕しています。これはウチダくんが前回「幻想的身体」の縮小という卓抜なアイデアにまとめてくれたとおりだと思います。ただ、この「幻想的身体」は実は、リニアに縮小してきたのではなく、拡大したり縮小したりを繰り返しているのではないかという印象がぼくにはあります。

国家主義のようなプロセスを考える場合は順序を逆にして、幻想的身体の拡大と考えれば、「家父長制」を経て国家にまで広がってゆく光景が見えてきます。

幻想的身体が急速に拡大してゆくプロセスが明治以降の戦前の近代化のプロセスだとすれば、それが縮小してゆくプロセスが1985年の土地バブル期以降の消費資本主義の展開のプロセスであるように思えます。

幻想的身体の縮小とトレードオフの関係にあるのが、プライバシーの拡大ということになります。自立、自己責任といったものが個人の具体的な身体の問題になってきたわけです。

そして消費の基体となる擬似的な身体が縮小してゆくプロセスの中でもっとも大きく変わったのは「所有」の概念ではないかと思います。

共同体の中では、いろいろなものが「共有」されているわけです。これは前段の「縁側」の話と共通するところがあるのですが、共同体の中には「自分のものであって、自分のものでない」ものがたくさんあります。村の井戸水がそうでしょうし、川に設置した洗い場もそうです。銭湯はコモンプレイスの最たるものでしょう。こういった自分のものであって、自分のものでないもの、あるいは誰のものでもないものに向き合うときひとはいくぶんかの遠慮といくぶんかの貢献、いくぶんかの愛情といくぶんかの距離をもってそれらを消費しようとするのだと思います。そこには暗黙の了解というものが働いておりそれが、汲みつくしてしまうといった「共有地の悲劇」にブレーキをかけるベクトルが働きます。

「法」ではなく、「法をまもろうという合意」でひとびとは動いてくれますので社会的なコストは安くつきます。地縁・血縁共同体というのは「法なき合意」をビルトインすることでトータルコストを極限まで下げる案外プラグマチックなシステムなのかもしれません。

これに対してプライバシーを極限まで拡大し、中間に「縁側」的な共有地を持たない社会というのは、非常にコスト高の社会となるのは言うまでもありません。限られたリソースを限りなく分断し、個人がこれを所有してゆくという市場経済の中では、相手から「奪いとる」以外に、リソースからの分配を手にすることがでず、

それを公正に行わせるためには様々なルール、罰則、簒奪品を守る蔵、敵から身を守る高い塀などが必要になるからです。かくして縁側が撤廃され、変わって石壁、鉄条網、猫よけのペットボトル(これ見るとほんとに悲しくなるね)が出現するわけです。

消費社会の次になにがくるのかを書こうとしたんだけど、途中でタカハシ状態のスタミナ切れになりました。ウチダくんあとよろしくまとめてください。

あー。時間がないよ。

いまから、新幹線に飛びのって大阪です。

会社から3歩はなれりゃ旅の空です。

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