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その15

2004年1月6日

平川克美くんから内田 樹へ

 

あけましておめでとうございます。

五十三回目のお正月。

ここのところ、元日は親類縁者への、年に一度の一家揃っての顔見世興行。

二日は道場の門人たちと師範宅で朝からお昼すぎまで奥様お手製の御節料理を堪能。そして、夜はウチダくんたちと自由が丘で新年の挨拶を兼ねて一献。三日は自分のために。というのが定着してきました。だんだんといろいろなことが億劫になってきて、まあ自然に定まってくるような習慣にはそのまま乗っかるのが楽でよいね。

ということで年のはじめの15便は、ほろ酔いにまかせて、

だらだらと回想してみたいと思います。

 

■ 渋谷ライオンと70年代大学像

 

前にも少し書きましたが、小学校を卒業してからずっと、10代の後半までだったでしょうか。毎年正月元旦にウチダくんと会って、お大尽高井くんのうちに遊びに行く習慣になっていましたね。いまでは見ることのない組木細工の床と暖炉と手回し蓄音機のある応接間でゴージャスな気分に浸りながら軽く情報交換をして一年が始まる、ということを特に決めたわけでもなく十数年続けたわけです。

三人とも大学に通うようになってから、何となくこの習慣は終わりました。いや大学にはほとんど通っていなかったんだけどね。ぼくは渋谷でいつも途中下車。渋谷百軒店のライオンにノート持参で通っていました。ブラックホークとかスイングもよく行きましたが、帝都随一のクラッシックの殿堂と銘打ったライオンはぼくにとっては特別な場所でした。あと、東大駒場の裏手にアシュラムというインド音楽と猫のいる店をライオンの素敵なフラッパー、ノリちゃんに教えてもらい、そこにも時々出没していました。今考えると、いつも一人で街を彷徨していたように思います。

ライオンの便所の落書きには「悪魔の第3次ブント」とか「さらば、つかのまの激しき夏の光よ」なんてありまして、ひとつの時代を反映していたわけです。アメリカはベトナムの水田では足をとられ、国内ではキング牧師の公民権運動につづいて、カリフォルニア大学バークレー校を筆頭に全米に広がった反戦運動の渦中にありました。それに先立ってパリのカルチェラタンでは大学生が根底的な西欧合理主義と古典的なマルクス主義の同時的解体といったテーマを掲げて新しい反権力闘争のスタイルを展開していました。そして中国では文化大革命とまさに世界同時多発的な、「つかのまの激しき夏」だったわけです。

ぼくは、ライオンのホコリ臭いトイレの匂いをいまでも思い出します。あの頃(大学生時代)ライオンで何をしていたのかといえば、実はほとんど何もしておらず、毎日毎日、日本浪漫派から荒地派までの気に入った詩人の作品をノートに書き写し、現代詩アンソロジーをつくっていました。

何にもする気にならなかったので、写経のように現代詩を書き写すといった日常が続きました。大学生とは言っても名ばかりで、薄暗い喫茶店のもうもうとした紫煙の中で時間を浪費し、夜は新宿南口の薬缶で燗酒をふるまってくれる「みずず」という飲み屋のカウンターか雀荘に入り浸るといった毎日だったわけです。(あのおばちゃんたちは今でも元気でいるのかな)あの頃は、ノンセクトの学生はみんなまあ似たようなもんだと思います。いま、引きこもりなんていいますが、当時はスチューデント・アパシーなんて言っていましたね。無気力症候群とでも訳すのでしょうか。

ぼくは、入学間もない教室で、クラスの殆ど全員から、「平川帰れ」の合唱の中を、「この、腰抜けどもが!」という捨て台詞を吐いて出て行ったことを思い出します。当時早稲田大学ではひとりの学生が内ゲバで死亡するという事件と学費値上げ反対闘争で騒然としていました。

ぼくのいた理工学部は場所も本学と離れていたために大きなストライキやデモとは無縁な場所でした。そんな微温的な空気に窒息しそうになっていたのでしょう。

いきなり授業中の教室に乱入しアジテーションをするこの男に対して授業の秩序ある継続を主張する教授+ほとんどの学生とが反発の大合唱となったわけです。(まったく礼を失したやり方だったよなぁ)

そしてほどなく、ぼくたちも何かできるかもしれない、いや違うな、ぼくたちがなにものかであるかを証明したいという気になって同人誌を作ろうとなったわけです。

最初は一緒のデモでパクられた横山君(後のアーバン専務ですよね)が、沼袋の拘置所に入っており、かれとの獄中書簡の中で、「まあ、横山は拘置所ですることもないだろうから、文章でも書いたらどうかね」ということになったわけです。そうやって早稲田の仲間たちと何冊かの雑誌をつくり、やがてウチダくんが「関係論序説」を携えて颯爽と登場することになりブリコラージュの天才松下が加わって「聖風化祭」が生まれたわけだね。

ぼくはこの前後は救対(救援対策)をしていまして、裁判所と親御さんのところと大学とを行ったり来たりといったことをしていました。別の友人が拘置所のラジオで聞いた音楽で南沙織の「17歳」が胸に染みちゃってねぇなんて話していたのが妙に心に残っています。

ちょっとわき道にそれますが、裁判闘争というものとかかわっていくつかの面白い発見をしました。政治裁判での被告は以下の3つのうちの一つを選択させられます。

1)統一公判

2)分離非反省

3)分離反省

 

統一公判は、裁判闘争そのもので自分たちを裁こうとする司法制度そのものと対峙するという姿勢で、当然のことながら裁判は長引き、拘留期間も長いものになります。

分離反省とはいうまでもなく、権力への全面的な屈服を意味していました。分離非反省というのは、その中間的な立場で、一緒に逮捕された仲間とは別個に自らの行為への反省はしないが、これを裁判闘争という形では継続しないといったポジションでした。反省してますという態度を見せれば検察も面子がたつし、情状酌量を取りやすいといったところですが、本人にとっては屈辱的な体験であることに違いはありません。これを政治的なフィクションとして捉える余裕があるのなら、べつに分離反省で早く娑婆に出てまた活動すればいいのですが、当局も無党派であるこちらの抵抗の拠点が「自分に対する倫理観」のようなところにあることを見抜いていてこのような取引を迫ってきていたのだなと、これは後になって了解したわけです。

そして、何故これが発見なのかというと、裁判をやっていると、かならず家で「お母さんが泣いている」んですね。橋本治が「泣いてくれるなおっかさん」という名コピーを書いたのも、まさに実感だったわけですね。それで初めて、「被告人」はおっかさんの精神状態と自分の政治的正当性にたいするふるまい方を秤にかけて、自分を曲げるなんてことも考えなくてはいけなくなるわけです。「知に働けば角が立つ、情に棹差せば流される」どうすりゃいいんだ、ということを実感するんですね。要するに、秩序を維持したい国家があり、つつが無い生活を守りたい家族があり、自分と異なる考え方を規範とする他者があり、なにごとも思った通りにはいかないもんだということをほとんどはじめて実地に体験するわけです。

そういったNHK的ではない「青年の主張」が、国家の壁に突き当たり、親の涙に遭遇し、友人の裏切り出会い呆然と自失するというドラマが東京地裁には確かにありました。

とりとめもなくこんなことを書いたのは、「大学について考える」というテーマに行く前に、ぼくにとっての大学生というポジションがどんなものであったかを言語化して見ようかなと思ったからです。

今、ウチダくんの掲示板で大学についての議論がすこし出ていますが、ぼくの時代とは随分と掛け違ったもんだなという感想を禁じえないというのが正直なところです。なにせぼくたちは無駄なこと、意味の無いことに情熱を注ぐことができるのが大学だと思っていたわけだし、教育に期待するなんてことはほとんど何もなかったと思います。何しろ「大学解体」であり「産学協同粉砕」だったわけですからねぇ。

端的に言って、ぼくにとっての大学っていうのは、ひとりの青二才が成長してゆくための「場所」であったと思っています。それは、大学が特別な何かであったというよりも、二十歳を経過するという時期にそこを通過したというメモリアルな場所であったという意味です。そしてそれ以外のものではなかったということも付け加える必要があると思います。

何故、大学がそのような特別な「場所」になりえたのかといえば、たぶん、それは今書いてきたようなことがひとつのスローガンのもとに、進行していたという事実によるのだろうと思います。

そのスローガンとは、「自己否定」というもので、今考えても、これはなかなか重要なテーマであり、また面白い着想だったと思うわけです。

残念ながら、70年代の学生たちは「自己否定」ということを、自己のプチブル性の否定といったところに矮小化してしまったために、政治的なレベルでの自己否定競争をしてしまいました。他者と自分を比較してどちらがより過激にブルジョア性を否定できるかというようにです。その結果社会の最下層に居ること、あるいはより過酷に虐げられているものこそが、政治的正当性を持ちうるといったただ相手を論破するための紅衛兵的なポリティカル・コレクトネス論争に明け暮れることになったわけです。

これはウチダくんがサルトルのカミュ批判の舌鋒を称して「最強の論理」と形容したことですね。そして相手を論破して自己批判を迫るという最低のパフォーマンスへと形を変えるという悲喜劇を生んだわけです。

しかしそれでもぼくは、「自己否定」とはある言説や思想が指南力を持つために絶対的に必要な「態度」であると思っています。あるいは、「想像力」と言い換えてもいいかも知れません。つまり、自分の言説や思想といったものは、ある人たちにとっては何の意味も無いこと、ある時代にはその有効性が保証できないことが、当の思想の中に織り込まれていなければ、その思想はそれがどんなに政治的、論理的に正しそうに見えても、ただのおしゃべりであるに過ぎないということです。

思想の指南力を担保するのは、その論理の整合性でもなければ、結果の有効性でもなく、その思想自体が自らを否定し、だからこそ再生産してゆけるような「自己否定の胚珠」ではないかと考えるからです。

ウチダくんの言葉を借りるなら、すべての思想は「期間限定」「地域限定」の中でだけ指南力を持ちうるということです。

つまり、どのような時代にも通用し、どのような人々にも理解可能な「思想」とは、「暴力はいけない」とか「コミュニケーションは大切です」とか「世界人類の平和を願う」といった類の何も意味していない情報に過ぎないということです。

 

■ 大学は何ができないか

 

これはウチダくんが常々書いていることですが、ぼくも「大学はどうあるべきか」とか「学生はどうがるべきか」といった「当為」の言葉で語られている限り、現在の状況を突破するような新しい創見は出てこないと考えています。

どうも今の大学改革の論調を見ていると、この当為の論法から脱却できていないという思いを禁じ得ません。

ぼくは、70年代にぼくたちが掲げていたスローガンをもう一度別の仕方で掲げなおすという作業をしてみるのも無意味なことでは無いと考えています。

江崎玲於奈氏は、大学の役割は「知を作る研究」と「知を伝える教育」と「知の活用の道を開く社会貢献」であると述べています。

知の府を説明するスローガンとしてはおっしゃるとおりでございますというところなのでしょうが、ここで作られる知、伝えられる知、活用される知そのものを問わなければ、それこそ意味の無いおしゃべりに過ぎないということになります。ぼくは、まさに大学では知を作ることも、知を伝えることも、社会貢献もできないと考えた方がよいと思っているのです。

なぜなら、「知」とは既にわかっている、あるいはこんなものであろうと類推可能な領域のなかに隠されているものではなく、むしろそれとは反対に現在わかっていると思っていること、解明されたと信じられていることを再定義してゆくことの中にしか生まれようの無いものだからです。これは自然科学であれ、人文科学であれ、哲学であれ当てはまることではないでしょうか。そして、この再定義のプロセスは制度的に保証されるようなものではなくて、研究者個人個人がどれだけ単独に耐えられるかといったマインドセットに基礎づけられているものであると言ってもよいだろうと思います。

逆説的に聞こえるかもしれませんが、この絶えざる自己否認、自己否定は企業の研究開発やマーケティングでは方法的に不断に行われていることなのです。それが、知の相対化であり、活用への道を拓く鍵であると考えているわけですね。

知のコラボレーションとか、分野横断的な知識データベースとか、起業家マインドだとか言う前に、今ある知がそれこそ「賞味期限」が切れているかもしれないということを吟味する必要があるということです。絶えざる再定義。これこそが、知を知として生かしてゆく方法的な課題であるといえます。

お正月の日本経済新聞に岩井克人氏が、会社統治の方法が80年代、90年代、2000年代を通して、日本型、米国的な株主主権、米国型経営の凋落というふうに右から左、左から右へと揺れ動いたことを指摘しています。現在の大学をめぐる議論もまた、同様です。これから先、どのような制度や方法がデファクトになるのかは実は誰も断言することなどできないというわけです。

ただ、現在の日本の大学のあり方や教育のあり方に何か新しいものを接木するというのではなく、これを何度でも再定義するという運動の中で、歴史を貫く連続性、といってわかりにくければ、比較的長期的な批判に耐えうるような資産を継承してゆくことができるということだけが、確からしく思えるのです。

今年の正月は例年に無くあったかい風がふきましたね。

かって、吉本隆明が「あたたかい風と、あたたかい家はたいせつだ」というフレーズを記して、思想の単独行へ出発してゆきました。こんな知性が横溢してこない限り、未来は暗いといっておきたいと思います。

まあ、太宰が描いた実朝にならえば「ひともいえもくらいうちはほろびはせぬ」といったところなのかもしれません。

ということで、本年もご善導のほどお願いいたします。

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