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その16

2004年1月14日

内田 樹から平川克美くんへ 

 

 

■ アジールとしての大学

平川くんのライオン話懐かしいですね。

ぼく自身はライオンには数回しか行った記憶がありませんが、その時代の「ざらっとした」空気は今でもはっきり思い出すことができます。

ぼくがよく行ったのはブラックホークと新宿のDUGですけど。

その頃、そういえば平川君が何をしていたのか、ぼくはよく知らないんですね。

平川くんもぼくが何をしているのか、よく知らなかったはずです。

1968年から72年くらいまでが、もしかするとぼくたちがいちばん疎遠な時期だったかも知れません。年に一度お正月に君の家を訪ねるという習慣もなんとなく途絶したり、また思い出したように再開したり、という感じじゃなかったでしょうか。

会ったときにどういう顔をしていいのか分からない、というとまどいがあったのかも知れません。身の置き所がない、というか。

いわば、「二度目の思春期」ですね。

中学二年生くらいって、それまで仲良しだった友だちや(特に女の子と)なんとなくぎごちなくなることって、ありましたでしょ。

精神年齢はどんどん加齢してゆくのに、外見はまだ「丸顔の中学生」だったり、逆に精神年齢は小学生程度なのに、身体だけはごつくなって髭が生えてきたりというような内面と外面の落差がすごく際だつ時期が思春期なんですけれど、そういうときって、セルフイメージとまわりの人々がもっているイメージのあいだの乖離が激しいんです。

それで、なんとなく「いちばん最近知り合った人」といると、こちらのセルフイメージと相手の「ウチダ・イメージ」のあいだの乖離がわりと少ないので「気が楽」ということがありました。

それと同じようなことが二十歳前後にもう一度あったような気がします。

大学時代のぼくは小学校のときに平川くんが知っていた「たっちゃん」とはずいぶん雰囲気が変わっていました(その後また「たっちゃん」に戻りましたが)。かっこつけてましたしね。

ぼくの方も小学校から知っている平川くんとライオンで現代詩をごりごり「写経」している平川くんのあいだの乖離感にうまくなじめなかったんじゃないでしょうか。

でも、平川くんが書いているように、その「政治の季節」において、「国家の壁に突き当たり、親の涙に遭遇し、友人の裏切り出会い呆然と自失するというドラマ」を経由して、幻想的に肥大化した「セルフイメージ」と、自分が現実に置かれているがっくりするほどリアルな社会的ポジションのあいだの「ずれ」の調整作業の過程で、ぼくたちの「二度目の出会い」があったような気がします。

ぼくたちが『聖風化祭』という同人誌でやっていたことは、ひとことでいえば、「妄想的な大言壮語」をなんとか細々とした現実の地盤の上に「着地」させようとする必死の試みではなかったでしょうか。

その頃どんなものを書いていたのか、もううろ覚えですけれど、政治的、哲学的な「空語」を等身大の生活「実感」と接合させるということがいちばん緊急な課題だったような気がします。

ぼくにとって大学時代の前半は「大風呂敷を広げる」時代で後半は「拡げすぎた風呂敷をなんとか使えるサイズにまで裁ち直す」時代だったと思います。

結果的には、その人の二十歳以後の生きる構えを決定するのは、その「世界と人間についての観念を馴致して、身の丈にあったサイズに回収する」過程をどれくらいきっちりしのぎきるか、で決まってくるんじゃないでしょうか。

もちろん、そのようなじたばたを、「プチブル的日常への召還」というふうにくくって批判してくる「革命派」はまだまわりにいくらもいたわけですけれども、ぼくは、「革命的空語」に殉じるのでも、「プチブル的日常」に無批判的に埋没するのでもなく、そのあいだで「じたばたする」ことはとてもたいせつな仕事だと思っていました。(「革命的空語」を「プチブル的日常」に接合するというぼくのスタンスは、結局その後もかわってないみたいですね。『寝ながら学べる構造主義』というのは、「構造主義の理説」を「みんなの知ってるおはなし」に接続するという試みでしたし・・・)

そのような「青年期後半」へのシフトで悪戦苦闘しているときに、平川くんもおそらくまたぼくと同じようなシビアな「後退戦」を戦っていたのだと思います。そこに共感の基盤があったのではないでしょうか。

人間の真価というか、本性というか、そういうものって、きわめて戦況不利な「後退戦」のときのふるまい方に露呈するものですからね。

ふるい表現で、もういまの若い人は知らないでしょうけれど、ぼくたちの大学時代というのは「疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)」の時代、少し皮肉に言えば「コップの中の疾風怒濤」の時代だったと思うのです。

「コップ」という言い方はちょっとひどいかも知れませんけれど、大学は、学生がリアルな現実に直撃されてくたばらないように保護するある種の「アジール」(逃れの町)としてそれなりに機能していたと思います。

「自己否定」というような極端な思想があやういながらも成立するのは、「口で『自己否定』しても店だてを食わない仮寓」が担保されていたからではないでしょうか。

その意味で、あの時代の過激な思想は、平川くんが言うとおり、まさしく「期間限定」「地域限定」のものであり、その「節度を知る」ということが、あるいは「過激派であること」から学生たちが学び得た最良の教訓の一つではなかったかと思います。

もちろん、その極端な思想は実際にはしばしば現実的な暴力として発現し、それによって、実際に人が傷つき、死んでいったわけです。

ぼくがそのような暴力に対して抱いた嫌悪感は、間違いなく、その暴力が「決して罰されない状況」において最も激しくふるわれたという事実に起因しています。

ほとんど無警察状態になったキャンパスで、学生たちはふだんなら決してしないような暴力をふるいました。それがある種の政治的熱狂の帰結であるというのなら、あるいはぼくもそれを許容したかも知れません。しかし、ぼくはそこにしばしば「匿名のマッス」に紛れ込み、「罰されない」という保証を確認した上ではじめて器物を破壊し、他人を傷つけ始めるという奇妙にせこい計算に裏付けられた「革命的暴力」を見いだしました。

ぼくはそれがすごく厭だったのです。

「罰されない場」に自分がいて、そこでならその「空語」も「空語」の帰結であるところの暴力も許容されているということに気づいたとき、つまり自分たちが隔離され、保護された「コップの中にいる」と知ったときに、ほんらいなら「恥じ入る」というのが適切な反応ではないでしょうか。

それを「利用する」というのは、すすんで自分が「オメコボシ」に与っている「未成年者」であるということに居直ることです。

「暴力学生どもが多少さわいでも、まあ、世の中それで変わるわけじゃないからね、ははは」というような年長者からの「見下し」を勘定に入れて、「罰されない保証つき」で暴力を行使していた人をたくさんみてしまったことが、ぼくのそのあとの人間観をずいぶん変えてしまったような気がします。

ま、やめましょう。暗い話は。

 

■ 大学は何ができないか(承前)

知とは本質的に自己否定的な契機を内包しているものだ、という平川くんの「知」についての定義にぼくもまったく異論はありません。

ぼくのよく使う(いささか卑俗な表現を繰り返せば)「自分のバカさの検出を、自分の正しさの証明よりも、優先的に配慮すること」が知性のウチダ的な定義ですが、平川くんの言っていることは言い方がちがうだけで、中身はいっしょです。

ぼくは大学の自己評価委員長というものをやっているのですが、これは名前から分かるように、大学の全学的なあるいは局所的な問題点、改善点を指摘して、それを改善するための「方法」と「目標設定」と「査定」について、ご忠告を申し上げるという、「鉄棒曳き」的な嫌われ者セクションです。

そこで各部署について、これまで指摘されてきた問題点改善点の「その後の取り組みと成果」についての報告をお願いしたところ、何人かの委員が、問題点の改善の取り組みのことは「さておき」、こんなにいいことがうちにはありますという報告書を書いてきました。

私はおもわず天を仰いでしまいました。

自己点検自己評価というのは、いわば自動車の仕業点検のようなものです。

その点検で、「ガソリンがもうすぐ切れます」とか「空気圧が不足です」とか「ブレーキランプが切れてます」というような指摘をしたとして、「その後、直しましたか?」と問い合わせたところ、「カーオーディオの音質は最高です」とか「ウォールナットのコックピットはゴージャスそのもの」というような回答が戻ってきたら、平川くん、どう思います?

「そのままほっといて走ると、事故起こしますよ」という指摘については、どうやら「そういう厭な話は聴きたくない」ということのようです。

それは「事故」が起こる(つまり大学がクラッシュする)ということの現実性のレベルのみならず、知性の質のレベルの問題としてもかなり深刻なことだな、と思います。

自分の組織の脆弱性や、戦略の不適切性についてのチェックには耳をふさいで、いいところだけを吹聴してまわるというのは、いずれ倒産する企業の経営者に典型的なふるまい方であるということはおそらく「知識」としてはみんな知っているはずなのに、同じ基準を自分自身について適用することを思いつかないというのは、モラルの問題であると同時に知性の問題と言ってもよいのではないでしょうか。

ただ、これはうちの大学だけでなく、日本の大学すべてについて言えることです。

いまの大学教員たちは、総じて、「知識」はあるけれど「知性」はないというきびしい社会的評価をこうむっています。

「三日やったらやめられない」大学教員の既得権にあぐらをかいて、研究を世に問うことも学生を教育することにも何の興味もなく、ただ停年の日を待っている教師はたしかに大勢居ます(平川くんの想像を絶するくらいに)。

でも、これは必ずしも彼らの個人的資質の問題ではないのです。やはり制度の問題なのだと思います。

 

■査定と逸脱

大学における研究というのは本質的に「査定される」ことを前提にしています(学会というのは何よりもまず「ピア・レビューのための組織」です)。

査定の適切性を担保する重要な条件は、同種の事例について多年の蓄積がある、ということです。

たとえば、「夏目漱石研究」は日本文学研究の世界では多年の蓄積があり、膨大なレフェランスがあります。ですから、ある学者が夏目漱石研究の論文を公表した場合、それが「どの程度のもの」であるかは、かなり客観的な査定が可能です。

逆に、「でこやま太郎」研究の場合、そこで論拠として提示された資料の真正性や、引用の適切性や、そもそも「でこやま」のような三文作家を研究する意味があるのかどうかの文学史的確証は、漱石研究に比べるとはるかにあやふやです。

学会の査読委員にしてみたら、漱石研究なら自信をもって「すばらしい」とか「ダメ」とか言い切れるけれど、「でこやま」研究の査定にはそれほどの自信がもてません。

結果的に他の論文を落としてまで「でこやま」研究を上位に置くというのは、いかがなものか・・・というふうにして、無名作家研究は構造的に排除されてゆくことになります。

ですから、今日本の大学で教員のポストを獲得している人はまず例外なく若いときに「査定可能な主題」(つまり、それについての「知識」が潤沢に蓄積された研究主題)を選んで、それなりの評価を受けてきた、ということになります。

考えれば分かりますが、その時代の学術的パラダイムを転覆させるような知見は、その時代の学術的パラダイムにおいては「査定不能」なかたちでしか登場しません。

当然ですよね。

しかし、大学に残って好きな研究をするためにはとりあえず「査定可能な研究」をしなければならない。「査定不能」の研究主題に取り組むための場に席を得るためには「査定可能」な研究主題で成果をあげなければならないんです。

この矛盾が研究者の「淘汰圧」として機能しています。

駅弁大学がぼこぼこできて、半ちくな研究者にも大学のポストがどかどか提供されていた時代には、けっこう訳の分からない人が研究職に就きました。それが(50−70年代)が仏文の研究者の仕事がいちばん「面白かった」時代です。

しかし、その後、18歳人口が天井を打ち、大学への就職がむずかしくなるにつれて、当然のことながら、若い院生たちは「査定可能」な領域に研究主題をしだいにシフトしてきました。

ぼくのいる仏文学界ではこんなジョークがあります。

「日本の仏文学者の三分の一はプルースト研究者、三分の一はフローベール研究者、三分の一はマラルメ研究者」

いくらなんでもそこまではゆきませんが、当たらずといえども遠からずです。

というのは、この三つの分野はそれぞれに世界的な水準の研究者を輩出してきたために、その領域での研究成果の査定は相対的に客観性が高いからです。

そのせいで、「査定されたがり」の若い院生たちがそういう分野に集中してくることになります。

でも、プルーストとフローベールとマラルメの研究の水準がぐいぐい上がっても、それは日本の大多数の国民にとっては、さしあたりあまり関係のないことです。

せっかく2000人から仏文学者がいるなら、2000種類の分野の研究がずらりと並べられていて、「さ、どれでもお好きなのをどうぞ」というふうになっている方が、読む側としては楽しいに決まっています。

でも、実際にはごくごく狭い「日の当たる」領域に2000人がひしめきあっていて、フランス文学、フランス思想の99%は「くらがり」に放置されたままで、日本の一般読者にはそこにはもうアクセスのしようがないのです。

ぼくのように反ユダヤ主義思想とか、ユダヤ教思想というような「超マイナー」な学問領域にかかわってしまった人間は、今の仕組みでは、まず浮かび上がれないのです(ぼくが大学の教師になれたのは例外的幸運によるものです)。

ユニークな研究者は構造的に研究の場にはなかなか残れない、という話でしたね。

もちろんぼくは「ユニークでさえあればいい」というような悪しき個性主義に与するものではありません。

そういう個性主義もまた一種のイデオロギーであって、マジョリティとの隔絶をいつも勘定に入れながら自分の立ち位置を計測している限り、迎合主義の陰画にすぎませんから。

ほんとうに個性的な人というのは、たいていの場合、自分が「変わり者」である、ということに気づいていないものですから。

「まっとうな」(と自分で信じていること)ことをぐいぐいしていると、「あれ?ここ、ぼく一人?」というふうになるのがほんとうの意味で個性的なひとなんですけれど、メディアに出てくるような「個性的なひと」は、メディアの規定した「個性的」という定型になじんでいるようなあざとさを感じてしまって、ぼくは苦手です。

ぼくが大学で学生に教えているのは、「まっとうに生きること」とか「分をわきまえること」とか「筋目を通すこと」とか「ディセントであること」といった基本的なマナーだけです。

そのような徳目は、基本的には「他の人々との共生」という逃れられない事況に際会したときの、ふるまい方の作法にかかわっています。

作法というのは、「微積分」のようなもので、動性に軸足を置いた社会関係のとらえ方だとぼくは理解しています。

昨日読んだベルクソンの『形而上学入門』(ずいぶん「時代遅れ」の本を読んでますね)にこんなことが書いてありました。

直観によって実在を把握するとはどういうことか、という問いを立てたあとに、ベルクソンは微積分を例にとって、こう続けています。

「それは精神は自己自身に暴圧を加え、その常習となっている考え方の方向を逆にし、その範疇をたえず裏返し、いなむしろ改鋳していかなくてはならない。(・・・)哲学するということは、思考作業の習慣的方向を逆にすることである。(・・・)作られたものに代えるに作られつつあるものをもってし、そして量の発生を追跡し、運動そのものを、外部からではなくその内部から把握し、その残した結果のうちにではなく、まさに変化しようとするその傾動のうちに運動をとらえようとする努力こそは、近代数学の本質をなすものである。」

ぼくは近代数学のことなんかぜんぜん分かりませんけれど、「まさに変化しようとするその傾動のうちに運動をとらえようとする努力」が「形而上学」であるというワーディングにはぞくぞくしました。

 

■答えのない問いについて

 

大学の話でしたね。

すごくおおざっぱに言ってしまうと、企業社会とか資本主義市場というところは「運動そのもの」だと思うのです。そこには「その傾動のうちに運動をとらえようとする努力」つまり、「いったいぜんたい、どうしてこんな運動が生起し、継続し、展開しているのだろう?いかなる起源によって?何のために?どこに向かって?」という「運動をとらえようとする努力」が構造的に欠落しているように思われます。

岩井克人さんの本を平川くんは愛読しているということですが(ぼくも『貨幣論』と『ヴェニスの商人の資本論』は読みました)、岩井さんの本が刺激的なのは、「貨幣とは何か?」「資本とは何か?」「市場とは何か?」「交換とは何か?」という起源にかかわる問い(それはレヴィ=ストロースによれば、ついに答えのえられない種類の問いのようですけれど)を立てることを決して止めないからだと思います。

ベルクソンの引用だけ読むと、「運動をとらえようとする努力」を続けていると、そのうち運動がとらえられるように思いますけれど、もちろん形而上学は「はい、分かりました。これでおしまい」ということが決してありえない知的活動のことですから、これらの問いに答えが得られるということはたぶんないのだと思います。

ぼくたちは、その「終わりなき問い」の下に(「ここに難問あり」ということを示す)アンダーラインを引くことしかできません。

でも、「難問にアンダーラインを引く」ということがほんらいの大学の責務ではないかとぼくは思うのです。

そとの社会では「その問題にはもうかたがついた」かのような仮想が成立しないといろいろ不都合が多いです(「貨幣とは何か?」というようなことを銀行員が真剣に窓口で考え始めると、定期預金の金利を尋ねに来たお客さんは困ってしまいますからね)。

そういうことのために実社会には割く時間があまりない。だから、「どこか」がその面倒な仕事を応分に負担する。その負担の代償として「逃れの街」の特権を享受することができる。

それが大学のおそらくは本来の社会的機能じゃないのかな、とぼくは思います。

だから、大学が実社会の価値観をまるのみにし、その「人材供給」のための養魚池のようなものになっては、大学はほんらい負うべき歴史的・社会的機能を果たし得ないんじゃないかと思うのです。

おととい、ボクシング・スーパーフライ級の世界ランカーである本田秀伸さんといっしょにご飯を食べながらいろいろボクシングの話をしたのですが、本田さんがぼくに会いにきたのは、「時間とは何か?」という問いに突き当たったからです。

経験的に本田さんは時間というものがふつうの常識が因習的に捉えているような「過去から未来へむけて不可逆的に流れる、誰にとっても同じ長さのもの」ではない、ということが直感的に分かっています。

時間は止まったり流れたり、過去から未来へ、未来から過去へ、かなり自由に行き来するし、その一瞬の幅も状況によって、その時間を共有している相手の人間との関係性の変化に応じて長くなったり短くなったりする、ということが本田さんには経験的に分かっている。でも、それをどういうふうに理説として語ればいいのかは分からない。

「時間て何でしょう?」

こういう問いに対してトレーナーやボクシング評論家やドン・キングは決して答えてくれません。

それを「ほいきた」と引き受けるのが大学人の「割り前」仕事なんじゃないかとぼくは思います。

変なたとえですみません。

だいぶウイスキーが回ってきたので、今日はここまでにしておきます。

とりとめのない話になってごめんね。

ではまた

神戸はめちゃ寒いです。

 

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