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質問19 神と仏は言葉の違い?

Q:
神と仏は言葉の違いですか?
神は、自分の中にある信仰心(信仰と書いてよいのやら?)のなせる業であり石ころでも、蛇の皮だって 自分自身が思い込めば神になれるはずであると思います。 神とは思う心であって、姿かたち現象に有らず。仏 死んだら仏になるのだと思っていました。
だから御先祖さまが大事だと……死んだ人を「仏さん」と言いますよね?
その総元締め(笑)が真宗では「親鸞さま」。輪廻転生は、この世で徳を積んだ人だけがまた人に生まれるのですか?この世に生を受けて数週間で逝く命は、あの世より、その数週間だけの修行が足りなかった為と教わりました。その経験をつめばより崇高な魂に成れるのだとも生きとし生けるもの全ての命大切なのに…人間だけが偉いのでしょうか?
私…一週間で死んでしまう「蜉蝣」でも「蝉」でも「蛍」でも良いです。私の幼少の頃からの私見です。これって質問になっていないですね。あるきっかけより内田先生のブログを拝見して「健全な肉体に狂気は宿る」読ませていただきました。
(滋賀県在住 雪音)

A:
 雪音さんのご質問を三つに分けて応答させていただきます。

①神と仏の違いは、【質問5】にも少し書いておりますが、単に言葉の違いだけではなく場合によっては根本的に相違するものでさえあります。ちょっと整理してみましょう。

Ⅰ 神  
1.キリスト教・イスラムの神
万物の創造主であり、唯一無二で絶対なる存在です。この神は何にも依存せず、独立で存在する絶対者です。神は自分の栄光を表現するために、人間を造りました。神は全知全能であり、世界のあらゆることを決定する主体です。
神はすべての原因ですので、神に先んずる原因はありません。つまり、唯一神の存在は因果律に基づかないのです。これぞまさに「絶対」という概念です。
2.世界の神々 
世界中、多くの地域には「土俗多神教のカミ」が草の根のように網羅されています。自然現象(海、風、雷など)を神格化したもの。あるいは、生命活動(怒り、死、愛情など)が神格化したものなどがあります。
実は、仏教にも多くの「神」が語られます。帝釈天とか四天王とか、閻魔大王など。これらは「天」という世界の住人です。ほとんどは、ヒンドゥーの神々です。
 3.日本の神 
また、「日本のカミ」は、「尋常じゃないもの」です。新井白石は、語源的な意味から「カミ」は「上」であると主張しました。また本居宣長は、「カミ」とは「畏敬を感じさせるようなもの」であると考えました。そして、そのようなものは、人間でも自然でもすべて神となるのです。ものすごく勉強できた人、とんでもなく長く生きている木、変な格好をした岩、めちゃめちゃ強い武将、どれもこれもカミとして祀られます。

Ⅱ 仏 
1. 仏陀
仏さま、つまり仏(ぶつ)とは、ブッダ(仏陀)のことです。ご存知のように、「目覚めた人・悟りを開いた人」です。瞑想や限定された生活によって、自己の心身をコントロールし、生きる上での「苦しみ」や「迷い」のメカニズムを解体してしまうことができた人物です。だから、シャカ(ゴータマ・シッダルタ)だけではなく、彼の弟子であるコンダーニャやアーナンダなどもブッダと呼ばれていたようです。
 2.教えをシンボライズした超越的存在
仏教の体系には、教えをシンボライズした超越的存在としての仏さま方(大日如来や阿弥陀仏など)が語られます。これは特に大乗仏教の流れにおいて顕著です。

こうして並べてみると、「Ⅰ-1」と「Ⅱ-1」はまったく違う概念だということができます。この場合、「神」は人とは完全に断絶した存在であり、「仏」は理想の宗教的人格を表しています。
しかし、「Ⅰ-2」と「Ⅱ-2」になると、かなり共有できる部分があります。また「Ⅰ-2」と「Ⅰ-3」も、かなり重なっています。雪音さんがおっしゃっている「神」はこの領域に近いと思われます。また明治の世になるまで、神と仏は区別されない傾向が強かったので(きっちりと区別してきた流れもちゃんとあります)、雪音さんの感覚に共感される人は多いのではないでしょうか。


②確かに「死んだ人」をホトケと呼ぶ習慣があります。そもそも仏陀をなぜ仏(ほとけ)と呼ぶのか自体、「中国で仏陀のことを浮屠(ふと)と表現したことから、それに家(け)をつけた」とか、「解脱する教えだから、解ける(ほどけ)からきた」など諸説あります。
 では、死んだらみんなホトケだ、という根拠はなんなのでしょうか。柳田國男は死者に供える食べ物を入れる「ホトキ」という素焼きの器物からきているのではないか、と推理しています。
 でも私は、浄土仏教が説く「念仏する人はすべて死ねば浄土に往生する。そしてただちに成仏(=仏と成る)」という理念が大衆化した結果、という側面のほうが強いと思っています。なんといっても、浄土仏教は大衆信仰の勇ですから。
 また親鸞聖人は「浄土で仏となって、またこの世に戻り、人々を救おう」という意思をもっていました。これを「還相回向(げんそうえこう)」と言って、真宗教義における大きな特徴となっています。
 ですから、「死者はただちにホトケ(仏)と成る」という文脈は、仏教の高い思想性や倫理性や実践性をかなり損なってはいるのですが、死の受容・死の平等性・死の尊厳を保証する機能も果たしていると思います。


③最後に、この世で徳を積んだ人だけがまた人に生まれるのか、というお話です。輪廻転生の宗教文化は一様ではありません。でも仏教などでも語られる三界や六道では、最も徳を積めば、「天」に生まれて神となります(Ⅰ-2参照)。でも、神もいずれは寿命が尽きて、また輪廻しなければなりません。寿命が尽きるときの前兆が「天人五衰(てんにんごすい)」というやつです(興味があれば調べてみてね)。で、神に生まれようが、虫に生まれようが、獣に生まれようが、結局は輪廻から逃れられないのでこれはある意味「限りない苦しみ」である、というわけです。だから輪廻からの脱出(=解脱)を目指すという宗教形態が発達します。解脱は人間に生まれたときにしか成し得ないので、人間に生まれたということはまさに千載一遇、いや気の遠くなるような確率でゲットしたチャンスなのです。この機会を逃しては、今後いつまた解脱のチャンスがあるのかは想像もつきません。
 こうして考えてみれば、輪廻転生という概念は、「生命のつながりを自覚する装置」であり、「とても無為に一日を過ごすわけにはいかないという自覚を促す装置」でもあるんですね。

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2005年10月21日 09:35に投稿されたエントリーのページです。

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