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質問29 ハラを鍛えて、透徹した目をもちたいんです

Q:
釈住職、内田先生
始めて投稿させていただきます。 京都の大学院生です。

相談させていただきたいのは、判断の際に人の意見に簡単に左右されてしまうことです。
しかも後になって違う意見を聞くと、それにも一理あり、と思い、あの時の判断は間違っていたのではないかと悶々とすることになります。
これは「自分で判断していない」ということなのかもしれません。
常日頃、ハラの据わった人でありたい、自分の言葉に自分で責任を持ちたい、と考えているので、このような状況がとても心苦しいです。

ハラを鍛える、透徹した目を持つ、ことへのご助言をいただけますと、とても幸いです。
(ただ、このようにお言葉を仰ぐということ自体が、判断を投げる行為にあたるのではないかとも思うのですが。)

ペンネーム:たそかれ(女性、24才)

A:
(釈)
ははあ、私も似たようなタイプなので、お気持ちはよくわかりますよぉ。こういうご相談は、もう、内田先生が見事に導いてくださりそうな気がします。そちら期待ということで、私は簡単に。
ハラの据わった自分の判断、などというものは出そうと思って出るもんじゃない気がします。むしろ、出さずにはおれない、といった性質のものじゃないでしょうか。そして、それはそのうちいやでも出てくるんじゃないでしょうか。だって、自分の判断をいつも保留している中年のおじさんやおばさんってあまり見ないもん。いくら歳を重ねてもなかなか自分の意見や判断に絶対的自信をもてない、何が本当に正解なのかよくわからない、という姿勢を保持し続けている人がいるなら、それはそれでたいしたものだと思うのですが。
今の「たそかれ」さんには、「聞く姿勢」が充分にあるというなかなか素敵なパーソナリティなんじゃないですか。実は私、この「聞く」という行為を最近特に注目しております。例えば浄土真宗は「聞く」という姿勢を最も重視する仏教でして、「光を聞く=聞光力(もんこうりき)」という不思議な言葉もあります。
確かに「自分の判断を保留して、どの視点も相対化する」というのは、偏見なしに判断するための前段階ですので、いずれは次のステップ(軸を形成し、自分のポジションやスタンスを明確にし、取捨選択する)へと進まねばならないでしょう。でも、今しばらくはそのスタイルでいくというのはいかがでしょうか。

(内田)
え?ぼくも回答するんですか?
えーとですね、まず「第一印象」について申し上げますけれど、「第一印象はだいたい正しい」ということがあります。
人間についての判断を下す場合、情報が少ないときにこそ私たちの無意識的なセンサーの感度は最大化します。
わずかな非言語的なシグナルを解析して、「この人は自分の生存にとって有利な個体か不利な個体か」ということを私たちは瞬時に判断してしまうのです(すごいですね)。
でも、そういう能力が備わってなければ、人間は原始の時代を生き延びることができたはずもありませんし、ここまで生き延びてきたということは、そういう能力にとりわけすぐれた個体の子孫なわけですよ、われわれは。

ですから判断に「迷う」というのは無意識的=非言語的なレベルで下した「判断」と意識的=言語的なレベルでの判断のあいだに齟齬がある、ということですよね。
ここに齟齬がない人はそもそも「迷う」ということがありませんから、あなたは無意識的なレベルでの感知能力がかなり高い人であるということになります。
それも、一般的には「こっちのほうが正しい」と言われることについて、無意識的には「それはダメ」という信号を受け取っているから混乱してしまうわけですよね。

私の答えは簡単です。
もちろん、自分を信じなさいということです。
だって、あなたが生き延びて愉快に生きることを誰よりも優先的に気づかっているのは、あなたの内臓であり、骨格であり、神経系なんですから。
他人の言葉なんてムシです。

さて、そういう私の言葉をあなたはどんなふうに受け取ったでしょう?
これを聴いて「ますます迷ってしまう」ようでは、困りますけど。

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2005年12月28日 20:09に投稿されたエントリーのページです。

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