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2006年05月 アーカイブ

2006年05月02日

質問・39 攻撃的な言葉づかい、気になりませんか?

Q:
はじめまして釈先生
ジンと申します。よろしくお願いいたします。
早速質問とゆうか気になっていることがありまして・・・
最近TVの解説者やニュースアナウンサーの言葉づかいが気になります。起爆剤、戦果をあげる、など(ちょっと思い出せないのですみません)など言葉の表現が戦争を連想させるものであったり、攻撃的で、暴力的な表現が頻繁に使われているのが気になります。(NHKでさえ)。私は27歳で普段何気なく乱暴な言葉使いをしてしまうことがありますが、いくら大衆にわかりやすく表現しているとはいえもっと美しいとまではいかなくても、普通の表現をしていただきたいなーと思うのですが、釈先生は気になったことはありませんか?

A:
 しばらく文章を書くことに消極的な日々が続き、応答が大変遅くなっております。ご質問をくださっているみなさまには申し訳ない状態です。すみません。アップが滞っているおかげで、担当:Fさんと顔を合わせるのがつらい日々です。
 今回、ジンさんからTVのニュースアナウンサーの言葉使いが気になるとのご指摘をいただきました。私自身の感覚でいくと、ニュースアナウンサーの言葉使いはまだかなりマシなほうだという認識(なにしろ、アナウンサーも亀田親子も一緒くたに情報発信するのがTVですからね)だったのですが、このあたりは内田先生はじめ、何人かのご意見をうかがいたいところです。
 私が今、TVを見ていて気になるところは、
1.食事している場面が多い(グルメ番組・旅番組などなど)。
2.スーパー(っていうんですか。あの画面に字幕がでるやつです)を出し過ぎ。
 というところです(すみません。ジンさんのご質問からかなりはずれています)。親しい間柄でもない人の「ものを食べている様子」など、見たくないんですよ。「食べている」って、すごく生理的な姿じゃないですか。ある意味、性行為とか排泄行為などとも直結しているようなものでしょ。えっ?そんなこと考えるほうがヘン? いやいや、でも、見ていて「ああ、きれいだなぁ」って思えるような食事の姿を見せてくれる人が全然いないんですよ。とにかく、食べた後の表情やコメントを競い合うの、やめてくれないかなぁ。
 それから、なんであんなに字幕をつけるんでしょうか。これは、きっと、日本人の「聞く」能力が枯れてきているからに違いありません。また、あのスーパーをひんぱんに出すことによって、さらに枯れるのでは。やはり、これからの日本社会のキーワードは「聞く」ですね。

ウチダです。Fジモトさんから「ウチダ先生も書いて下さい」という命令がありましたので、私見を書かせて頂きます。
軍事の用語で語るというのはご指摘のとおり、あらゆる場面で用いられております。
政治の用語がそうですね。
「本丸」だとか「陣笠」だとか「金城湯池」だとか「日和見」だとか、みんな戦争に関する言葉です。最近は「刺客」というのもありましたね。
スポーツもそうですね。
野球は軍事用語が多いです。
ベースは「塁」(城塞)、ワンアウトは「一死」、フォースアウトは「封殺」。
サッカーやテニスの「前衛」「後衛」というのも軍事用語です。
殺伐とした軍事用語を使わないスポーツはゴルフくらいじゃないかしら。
その他、人事にかかわるあらゆる場面で軍事用語が使われています。
でも、問題はその頻度が増しているのではないかという印象を持たれた点ですね。
実は私も同じ印象を抱いています。
どうもメディアにおける言葉使いが殺伐としてきていると思います。
これは社会全体が好戦的になっていることの徴候なんでしょうか?
おそらく部分的にはそうだと思います。
でも、人間はいきなり好戦的になるということはありません。
それは沈黙のうちに進行しているある種の地殻変動的な趨向に対する「反発」として出てきているんじゃないかと私は思っています。
「男性的な価値」というのが急速に値崩れしている。
買い手がつかなくなっている。
もう「男性的価値」を構築する基盤も、それを支える制度も、自己形成のロールモデルももう今の日本にはありません。
そういう危機的状況のこれは徴候じゃないかと思うんです。
「弱い犬ほどよく吠える」といいますね。
半ベソをかきかながら「オレは男だ」とがなりたてている泣き虫な子どもの悲鳴のように私には聞こえます。
だから、ほっとけばいいということではなくて、だからなんとかしないと「たいへんなこと」になるんじゃないかと実は心配しているんです。

2006年05月10日

質問40・兄が17年間戻ってきません

Q:

はじめまして。
長い間途方にくれています。こちらでなら、相談できるかと思いました。
私の兄の事なのですが、旧オウム真理教の出家信者で、もう17年帰ってきません。
私も18年前は在家信者でした。ヨガで超能力開発とか、胡散臭さが面白かったのです。でも、教団で学校病院、国(コミューン)を作ろうという話が出て、それは気持ちの悪い話で付いていけないと感じて辞めました。
しかし兄にとっては、理想が一致してしまいました。その後家族はぐちゃぐちゃです。
父は勤め先に露呈するのを恐れ怯えて、暴れ、母はもしや人様に迷惑をと体調を崩し、
私は兄を止められなかったのを責められ続けています。確かに責任を感じています。
95年の事件でさらに、でした。
初めの頃は支部や道場に家族で直接探しに行ったりもしていましたが、今では、両親も歳を取り、警察への捜索人届けも取り下げただ、信じてじっと待っています。
脱会信者をサポートする会にコンタクトするなりなんらかの手立てはあるかとも考えるのですが、事件当時の警察、公安の取り調べや支部でのやり取りなどの恐怖が今だに甦り立ちすくんだままです。
だから、これはもう本人から出てくるよりどうしようもないと思う事にして、自分の仕事に打ち込もう、脱会してきたら面倒みられるよう準備だ、と自分をむりむり納得させています。
最近私の仕事を正当に評価して下さる方が現れその方のためにも自分のためにもベストを尽くしたいのです。
そう思う一方また教団がバカしでかしたら、兄が実行犯になったら全て水の泡だという考えが払拭しきれず、どうせ無駄になるいや、でも、といった、アクセル全開しつつブレーキおもいきり踏んでるような状態です。
世間様に対して申し訳ないというより自分と家族でいっぱいいっぱいなところがまた、自分の弱さ力の無さが悔しいです。何をどうしたらいいのか堂堂巡りです。

匿名希望・34才・女性(言うたもん勝ちですがガラス工芸家です)

A:
釈先生から

出家はもともと脱社会的存在です。だから、ご家族とは生きる方向性が大きく異なってしまうのは当然の帰結だと言えます。しかし、問題は高いハザード性をもつ旧オウム真理教の出家者になってしまったところですね。出家という特殊な生の形態には、文化的土壌と歴史に鍛えられた体系が必要です。
宗教研究者の中には、現在のアーレフはそれほどリスクの高い宗教教団ではない、と報告する人もいますが、私は密接に関わって調査したことがないので、そのあたりはわかりません。
以前、「カナリアの詩」というオウム真理教脱退者たちの機関紙を読んだことがあります。一冊読んだだけなので、どのような会なのかはよく知らないのですが、家族の方たちの手記を見て心をうたれました。また、脱会通知の書き方なども掲載されていました。一度こちらの活動なども参考にしながら、地域の大学や自治体の「カルト宗教相談窓口」に行かれることをお勧めします。
「カナリアの詩」

内田からも一言。
これは本人生相談コラム始まって以来のヘビーなご質問ですね。
私は出家というのがどういうものかよくわかりませんが、あり方としては1970年代の「極左過激派闘士」の地下運動潜入後のメンタリティに通じるものがあるような気がします。
こちらのほうならなんとなく想像つきます。
私の知人にもう30年近く地下に潜行したままの旧過激派の人がいます。
この人の場合、警察が追っている事件(殺人謀議)はもうとっくに時効ですし、彼をテロの標的に掲げていた敵対党派ももう組織的実力を失っています。
ですから、もう出てきてもいいわけです。
でも、出てこられない。
それはたぶん「潜行」とか「失踪」というのは、どこかに「ポイント・オブ・ノー・リターン」のようなものがあって、その手前であれば、それなりに「出てき方」を本人もわかっているのだけれど、ある時点を超えてしまうと、「出方がわからなくなる」というようなことじゃないかと思います。
不眠症の人が「どうやって眠るのか、眠り方を忘れる」ように、こういう人たちは「やあ、どうも。心配かけて済まなかった」ということばの「言い方」を忘れてしまっているような気がします。
小野田寛郎少尉は南洋のジャングルに29年も潜伏していました。
彼も戦争が終わったことや、時代の変化は知っていたわけですし、マスコミの大々的な捜索活動も知っていました。
でも、出てくることができなかった。
彼が出てこられたのは、鈴木紀夫さんという奇特な青年が逃亡兵のリアリティと29年後の世界のリアリティを架橋してくれたからです。
最後は当時の直属の上官がフィリピンまで行って、旧軍の規定通り文語体の命令書を奉読して、はじめて彼は残置諜者としての任務を解除されたという(法理上はナンセンスな)「彼の文法」で逃亡生活のセンテンスを語り切ることができたのでした。
この事例が教えてくれるのは、地下生活している人を呼び戻すためには、「地下生活の語法」と「地上の語法」の間の架橋が必要だということです。
そのふたつの言語が通訳を媒介しないと了解不能の「外国語」のような関係になってしまうというのが「出てこられない」ということだろうと思います。
彼が今世界を記述している語法(それはまことに奇々怪々なものでしょうけれど、彼はもうそれ以外の言葉づかいをできなくなっています)を語れる人が架橋の仕事を引き受けることがなければ、彼が自力で「戻り道」を見つけ出すことはたいへんに困難でしょう。
小野田さんはその後の言動をみればわかる通り、たいへんに矜持が高く、頭のよい人でした。
それは、プライドが高く、頭のいい人ほど、自分の「言語」をさまざまに駆使して、自分のありようを正当化することができるために、一層「出る」機会を遅らせてしまうということです。
非人情な言い方ですが、自分の知的威信をかけて「出てこない」人間を引き戻すことは絶望的に困難だと私は思います。

2006年05月21日

質問41・八つ当たりな先輩

Q:

はじめまして。ご相談です。会社の先輩(女性;既婚子持ち39歳)が八つ当たりをします。細かいチェックをいちいちして字の間違いチェックもします。自分も間違えたりしても笑ってごまかしています。家庭が上手く行ってない、体調が悪い等もあるようですが私自身、笑ってかわすのに疲れてきました。忙しい時だとしょうがないと思いますが、私の方も忙しくてもできるだけ笑顔で対応をするようにしている分、なんだか納得できません。
元々、私は八つ当たりをされやすいところがあるらしく、そういう自分にも疲れました。ちょっと前に八つ当たりされた時にはかなりこちらもキレて応戦し、且つ、次の日には笑顔で対応しましたがもう、疲れました。
どうやったら八つ当たりされないでしょうか。された時に大声で「はあ!?」とか言ってみればいいでしょうか?向こうが勘違いしていたり、こちらが言いたい事があっても余りに馬鹿らしくなって言うのを止めてしまいます。
派遣社員なので仕事は嫌になったら変われますがそんなことでいいのかな? と思ってみたり。(年齢もありますし、一人暮らしなので経済的に不安定です)
でも今までそういう八つ当たりに耐えてきて結局、八つ当たりした方がぬくぬく生きてきたので、いっそしっちゃかめっちゃかやって辞めてみるのもいいかも知れないと思います。仕事は他にやりたいことがあるのでスキルを積みつつ、少しずつお金を貰えるようになってきました。(占い師です)
鈍くならねば現代社会、生きていきづらいのではありますが、なんとも疲れてしまいます。こんな私にご鞭撻の程、よろしくお願いします。

ハンドルネーム「とうか」・女性

A:

釈先生のご回答

まさに「怨憎会苦(おんぞうえく)※」ですね。
このような八つ当たりに対して、笑ってかわしても、キレて応戦しても「はあ!?」などと挑発しても、疲れるのには変わりありません。なぜなら、相手が発する悪意がとうかさんの認識や感情に作用してしまっているからです。
仏教では、「避けることのできない苦しみ」に対して ①「認識・感情の器官が働くのを止める」 ②「起こる現象をひたすら観察し、気づく」 という手法をとります。でも、この話はかなり長くなりますので、わかりやすいヒントをひとつだけ。それは「自分のペースを崩さない」です。相手から受ける刺激に振り回されるのをやめて、超マイペースで行動し、そしてクールに相手と自分を観察すること。これは、即効性はありませんが、長期戦になればなるほど、必ず勝ちます。その先輩が変化するより先に、まずとうかさん(とその先輩)を取り巻く「他の人々」の態度が変わってくるはずです。
ところで、他にやりたい仕事として「占い師」のスキルを磨いておられるとのこと。それでしたら、ちょっと違うお話をしたいと思います。なぜなら、「占い師」とは自己犠牲的愛がなければやってられない仕事だと思うからです。その既婚子持ち39歳の先輩を観音菩薩の化身として拝む覚悟、このことをお勧めします。観音菩薩はあらゆるものに変化して私を導いてくださります。その既婚子持ち39歳の先輩は、あなたに占い師としての試練を与えるために現れた観音の化身です。

※「怨憎会苦」とは、「いやな奴とつきあわねばならない苦しみ」でして、仏教で説かれる、生きる上で避けることができない苦悩のベスト8のひとつに挙げられます。ちなみにこの反対が「哀別離苦(あいべつりく)」と言いまして、「愛する人と別れねばならない苦しみ」となります。

ウチダの(よけいな)コメント

いやなやつを「観音菩薩の化身として拝む覚悟」とは、さすが仏陀の教えは慈愛にあふれておりますね。
私は釈先生ほど慈愛にあふれていないので、冷たいことを言います。
あなたは人間は何のために努力をしていると思いますか?
お金がほしいとか、権力がほしいとか、地位がほしいとか、威信がほしいとか、文化資本がほしいとか・・・「立身出世」についてはいろいろな表現はありますけれど、これを簡単にひとことで言ってしまうと、「いやなやつにこづきまわされないですむ立場になる」ということですね。
あらゆる努力は「いやなやつにこづきまわされないですむ」ような生き方ができることを目標に注がれねばなりません。
お金がないことがつらいのは、お金のために「いやなやつにこづきまわされる」ことに耐えなければならない機会が増えるからです。
社会的承認を受けられないことがつらいのは・・・(以下同文)
私が「イデオロギー」というものに対して警戒的なのは、どんな「正しい」イデオロギーであっても、それがひとたび支配的になると「そのイデオロギーの旗を振って、むやみにえばりちらす奴」が出てきて、これが始末に負えないからです。
こういう「いやなやつ」に将来こづきまわされずに済むために、日頃から「『正しいイデオロギー』は芽のうちに摘んでおく」という草むしりみたいな肉体労働が不可欠なんです。
質問者の「とうか」さんは、これまでの人生で「いやなやつにこづきまわされずに済む」ためにどういう予防的手だてを講じてこられましたか?
余人をもっては代え難い種類の社会的能力の獲得とか、人間的ネットワークの形成とか、そういうものに先行投資してきました?
「いやなやつにこづきまわされる」という不幸の大半はそういう予防的な自己投資を怠ってきたことの結果です。
書かれているような、明らかに社会的能力が低く頭も悪そうな人間が「先輩」として、ある種の権力をもっていられるような(人的資源に貧しい)職場に今身を置いているという事実自体が、あなたの予防的自己投資の不足の「結果」だと考えた方が建設的だと思います。
まずは「観音菩薩の化身」を拝むことから始められたらいかがでしょうか。
「いやなやつ」より多くの倫理的負荷を背負い込むための努力は、間違いなくあなた自身の社会的評価の向上に資するはずですから。

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